2009年12月31日木曜日

「美しい人」を観る

“年忘れロードショー”で、「美しい人」を観る。 この作品、詳細を全然知らなかったんですが、いい作品ですね。 というか、個人的に凄い好きな作品。こういうの好きっス。 監督は、ロドリゴ・ガルシアという人。 実はガブリエル・ガルシア=マルケスの息子さんなんだそうです。知りませんでした。 それから、ウィキペディアの当該項目によると、「フォールームス」の撮影監督もしてるってことらしい。 で。 この「美しい人」は、オムニバス作品ということで、そうですね。「フォールームス」もそうでした。 テイストは全然違いますけど。 原題は「Nine Lives」。“九つの命”ってことで、「猫は9個の命を持ってる」っていう諺みたいなのが英語圏にはありますけど、恐らくそこから来てるのでしょう。 最終章には、そういうセリフを出てきますので。 で。 ここがポイントなんですが、それぞれの章は、それぞれがすべてワンカットで撮られているんです。ステディカムでずっと移動しながら。 全然事前情報を知らないまま観始めたので、最初の刑務所内のシークエンスでぶっ飛びまして。 「ヤバい」と。 主人公はどの章でも女性で、しかも、いわゆる“普通に暮らす人たち”という設定。 それぞれの、人生(Lifeの複数形のLives)ですね。9人の女性の。 それぞれのシークエンスは、緩やかに繋がっていて、ある章で脇役だった人が他の章でメインだったり、その逆もあったり、という風になってるんですが、あまりその手の「パズルを解く」的な楽しみを見出すような作品ではありません。 ただ、その“お互いに緩やかに繋がっている”という部分も、「知らない隣人にもそれぞれの人生があるのだ」みたいな、演出面の要請に沿っているんだとは思いますが。 まぁ、とにかく、リアリズムが良いですよねぇ。派手なトピックは一切なし。 ただただ、言葉の連なりと応酬である“会話”と、関係性の過去と現在を示す“間”、あとは役者陣の表情。それだけ、という。 ステディカムや照明の具合、そもそものワンカットという手法という、技術的な側面からリアリズムを立ち上がらせる、という部分は、勉強になります。 クロースアップの、どのくらいまで寄るのか、とか、そういう部分も。 普通にカットを重ねていく、という撮り方でも、同じようなリアリズムを構築することは可能なんでしょうけど、そういう、スタイル面での個性とは別の部分で、緊張感というか、やっぱり“間”ということになると思うんですけど、そういう時間と空間とを映画の中に作り出すことに成功している。 やっぱり、観ちゃいますから。 特に、最初のシークエンスで、「この作品はこういうスタイルなんです」という、ある種の“宣言”がされている気がするんです。 作り手の。 受け手は、そこで「なるほど」と。そういうことなんですね、という“了承”があって、という。 そこで、観る側の頭の中の回路みたいなのが少し変わりますからね。 カメラに背中を向けて歩いていく人物がいる場合、普通はカットが変わって正面の表情を捉えるワケですが、この作品ではそういうことはなく、その背中を観るしかない。 つまり、“背中の演技”を観る。 その“間”。 そういう“間”が決してダレ場ではない、というのは、ホントにシナリオや演技力・存在感の勝利だと思うんですが、まぁ、そういうのを堪能する作品だ、と。 堪能というか、没入する、というか。 良いです。 個人的に一番好きなのは、スーパーマーケットの中でかつての恋人同士が再会する、という章。 お互いに引きずる気持ちを抱えながら、しかし拒絶する、という、筋立てもそうですが、とにかく会話のセリフが良いです。ホントに。 そしてその章とは裏返しのような内容の、葬儀場を舞台にした章も、好きです。 というか、全部いいかな。 そして、最終章。 老いた女性と女の子が墓地にお墓参りにやってくる、という。 「祖母と孫か?」と思いきや、実は「母と娘」で、「ん?」と。 この歳の差は妙だぞ、と思いつつ、演出でもなんか妙だな、と思いつつ、最後にブドウのひと房を墓石に載せる、というたった一つのアクションで「実は・・・」という。 う~ん。 九つの命。九つの人生。 素晴らしい! 

2009年12月30日水曜日

「リーピング」を観る

テレビ東京の“年忘れロードショー”で、ヒラリー・スワンク主演の「リーピング」を観る。

“リーピング”のスペルは「reaping」ってことで、RじゃなくLだと「leap」はジャンプするとか跳躍するって意味になりますが(タイムトラベル系でよく使われる言葉ですかね。タイムリーピングなんつって)、ここではRですから、違います。
「reap」は、「刈り取る」という意味だそうで(知りませんでした。受験英語なんて、もう15年前か…)。

ちなみに、つい昨日読んだ「バットマン・イヤーツー」には「ザ・リーパー」という敵キャラが登場しますが、同じスペルで、同じ意味でした。
ずばり“鎌”の暗示、ということです。この作品でも、そういう使い方。


で。
まぁ、ヒラリー・スワンクの存在感と美しさがとにかく際立って素晴らしい、と。そういう作品ですね。
美しさ、知的であること、強さ、その強さに奥行きを与えている脆さ、美しく知的でなおかつ強さを持つことの悲しさ・哀しさ、そんな諸々を、表情のクロースアップだけで一度に表現できてしまう、という。
稀有な存在感だと思います。
好きです。

ストーリーは、その彼女が“研究者”として登場する、と。
最初は、どこかの教会で、かなりミステリアスなオープニングなんですが、その“謎”を鮮やかに解明しつつ、場面は大学での講義にトレースしていく、という、イントロダクションはかなり印象的。巧いです。

で、話が進むにつれて、ストーリーの進行と平行して、彼女の過去とか経歴とかが少しずつ明かされて、という。
元宣教師、という過去ですね。
女性の場合は、神父とか牧師とかっていう言葉は使わないんでしょうか?
プロテスタントかカトリックか、というのも、自分の理解の範囲内ではちょっと定かではなかったんですが…。
シスターってことなんスかねぇ?

とにかく、彼女はかつて、家族を持ち、聖職者として、アフリカへ赴き、そこで悲劇的な体験をして、そこで信仰を捨てる、と。
その過去を吐露するシークエンスで「神を恨んだら、初めて良く寝れた」というセリフが。このセリフはかなりのパンチライン。
ヒラリー・スワンクが言うと、またこれが良いです。

信仰を捨てた彼女の立場というのは、要するに“奇跡”なんかないんだ、ということですね。科学的に解明しちゃうんだ、と。


そこに、南部の田舎の町から、ある事件を調査して欲しいという依頼があって、その依頼者と共にその町に赴く、という筋立て。

面白かったです。
突飛と言えば突飛な設定なんですが、結構上手に語られている、というか、スッと入っていけるので。

その「スッと入っていける」というのは、主人公の立場が独特だから、ですね。「彼女がどう説明するのか」という所に観る側の視点が置かれるので、いわゆる“神秘的な事象”が「どういう仕組みのウソなんだ?」という気持ちでストーリーに入っていく、と。観る側が。


ネタバレをしてしまうと、結果的に、作中ではマジで“奇跡”みたいなことが起きていて、その“神秘的体験”を経て、主人公である彼女は、あっさり「私は間違っていた」って言ってしまうんですが。

作中では、傷が治るとか死者が生き返るといった“奇跡”ではなく、ネガティブな“災い”が起きるので、ちょっとややこしいんですが。


主人公の視点からは、「ホントに“災い”なんか起きるのか?」というポイントと、もう一つ、「事件の謎解き」という、2つのポイントがあるワケですね。
“災い”なんか起きるワケがない、ということならば、誰かが人為的に起こしている事象であり、犯行なワケで。


で、話が進むにつれて、「どうやらモノホンの“災い”じゃねーか?」と。
ここで、彼女の内面に葛藤が生まれる。

「神なんか(つまり、その逆の存在である悪魔も)いない」という立場も、ある種の“信仰”なワケです。
その“信仰”が揺らいでくる。

その過程で、彼女がキリスト教の信仰を捨てた理由が回想され、同時に、苦しめる、と。
「神なんかいない」と信じることで、かつて自分の身に降りかかった不条理な悲劇を乗り越えたのに、事件の全容が明らかになるにつれて、「神はいるのかもしれない」という疑問が生まれてきてしまう。

そういう葛藤を抱えながら、事件の調査を進めていく、という。



で。
ここからがかなりややこしいんですが、その町で起きているのは、「出エジプト記」に書かれている「十の災い」の再現だ、と。
「十の災い」というのは、文字通り、数々の“災い”がその地に起きてしまう、というもの。
ポイントは、神が、という部分なんですね。神がその“災い”をその地に(エジプトに)起こした、という部分。
“災い”っていうと、悪魔が起こすっていうイメージですけど、そうじゃないワケです。神による“奇跡”が“災い”という形になって現れている。


この辺が、キリスト教的な教養の薄い俺としては、ちょっと理解しにくい部分だったんですが、まぁ、分かればなるほどな、ということで。


ここが、実はストーリーの“どんでん返し”的な部分に関わってるんです。



ネタバレですが…。
“災い”という形で起きている“奇跡”というのは、ある1人の少女が原因となっている、と。
で、そもそもの依頼は、「その少女が疑われているから、どうにかして欲しいんだ」ということでもあるワケなんですね。「科学的に解明できれば、その少女への疑いも晴れるだろうから」と。

ところが、それはマジもんの“奇跡”だった、と。

ところが(ここがミソ)、なんとその町は、町の住民全体が悪魔崇拝者だった、という筋書きだったんです。
その悪魔崇拝者たちを懲らしめるための“災い”だった、という(多分)。

少女≒モーセ、というアレだったんですね。
あるいは、出エジプト期をなぞると、少女≒ユダヤ人。
で、主人公のヒラリー・スワンクが、モーセ。

海がバカッと開いて海底を歩いていく、という、「十戒」のアレは「出エジプト記」ですから、ずばり、あのモーセです。


これですねぇ。
ひょっとすると、分かる人はすぐに分かってしまう構造だと思うんです。“災い”は神のもたらしたものであり、ユダヤ人のメタファーとして、その“災い”から救い出される人こそが、云々。


ただし、俺はそこが最後まで良く分からず、結果的に「なるほど!」という、妙なカタルシスを感じてしまった、という。

製作者サイドとしては、「科学v.s.宗教」という構造でもって最後まで引っ張る、ということだったと思うんですが、俺は、背景に気づかないまま、恐らく製作者サイドの意図しない形で結末を観るに至った、と。


依頼者が犯人だった、という、ミステリーとしてはややB級感がある(ただし、個人的にはそういうのは凄い好きなんですが)ストーリーなんですが、その背景に設けられた設定やらなんやらが良く出来ていて、個人的には面白かったな、と。
ヒラリー・スワンクの存在感の素晴らしさもコミで。



というワケで、すっかりネタバレしてしまいましたが、佳作と言って良いのではないでしょうか。


2009年12月28日月曜日

「アバター」を観る(3Dで)

各方面から話題沸騰中の「アバター」を、バルト9の深夜上映の回で観る。



まー、凄かったっス。正直、まともな感想は書けないって感じ。
DVDが出たらもう一度観て、ちゃんとした“作品としての感想”は、その時に書こうかな、と。


とりあえず、ざっくり言うと。。。
「ポカホンタス」+「風の谷のナウシカ」+「宇宙戦艦ヤマト」
という感じですかねぇ。

侵略者としての人類、ということで、「インディペンデンス・デイ」とか「エイリアン」とは真逆の角度から作られている作品ですね。


まぁ、そんなことより、キャメロン渾身の3D、と。

この映像体験!



2009年12月24日木曜日

「ジャック・メスリーヌ フランスで社会の敵No.1と呼ばれた男」を観る

まぁ、長いタイトルですが、そのうえ2部作だ、という、その「ノワール編」と「ルージュ編」を、2作まとめて、先週観て来たので、その感想でっす。


ちなみに、“社会の敵No.1”っていうのは、“パブリックエナミー#1”ということで、ワリとあちこちで見かける言葉ではありますね。
ジョニー・デップの最新作も、ずばり「パブリックエナミー」ってタイトルだし。

そのJ・デップの作品はもちろんアメリカの“一番悪いヤツ”を描いているんでしょうが、この作品は、フランス。主演は、フランスの当代一といえる、ヴァンサン・カッセル。

ま、「やくざ者の一代記」「成り上がり記」ですね。
“自伝”が原作になってるってことで、実録モノ、「仁義なき戦い」みたいなモンです。


しかし!
2本立てなんか久しぶり!
そもそも、二つとも新作扱いなワケで、併せて3600円!


しかも、映画館(吉祥寺バウスシアター)の中で、観てるの、俺だけでした。
ホームシアター状態。もちろん、2作とも。

つーか、そんな状態で観てる俺は、完全に変わり者扱いですよね。トイレに都合で4回行ったし。


まぁ、そんな個人的な事情はさておき。



作品の感想を。


まず、あとから分かるんだけど、2作を通じての全体の造りっていうのがあって、まず冒頭に、作品の一番ラストのシークエンスが流れるんですね。
で、そのシークエンスが、シークエンスの中でも何も明らかにされないまま終わる。
分かるのは、主人公と、恋人と思しき女性の2人。

このシークエンスは、いわゆるオープニングクレジットみたいな感じで、「007」のあんな感じのオープニングで、と書くと伝わるでしょうか。
ちょっとシャレた感じの、というワケでもないんだけど、とにかく、そういうオープニング。

で、その一連の“オープニング”が終わった後に、主人公の“若き日々”が始まり、「一代記」が語られていく、と。
まず、前編。
で、前半が終わって、次に後編なワケですが、そこでは、前編の“オープニング”のシークエンスの続きが流れるんです。
そこで、物語全体が“バッドエンド”で終わることが明示される。
で、前編のラストからやや飛躍した形で、後編のストーリーが始まるんです。
で、ストーリーが全部終わろうというところで、前編と後編のそれぞれの“オープニング”で語られていたシークエンスが、再び語り直される。
この、「直される」という部分がポイントで、“視点”が変わるんですね。

この、作品全体の終幕となる、「改めて語り直される」シークエンスは、かなり面白いです。緊張感があって。
これは、“視点”が変わっていることが、なんだかいつもと違う効果を作り出していて、要するに、長時間見せられていた主人公が、急に引き離された存在に感じちゃうんですね。
実際に画面には映ってるんですが、“視点”が変わってるモンで、要するに「志村ぁ! 上うえ!」というヤツで、自分には見えてるんだけど画面上の人物には見えていない、という、お決まりの構図が、その“画面上の人物”に寄り添ってきた時間が長いだけに、この「もどかしさ」がイイ感じで緊張感をチャージしてくれる、というヤツで。


ただ、その“終幕”までが、長い・・・。
一代記だから、それはそれでしょうがないんですけどねぇ。「仁義なき戦い」だって、シリーズ全部観ようと思ったら、それは長く感じちゃうでしょうしね。


ちなみに、その“オープニング”は、なんだか無駄に「24」ライクな分割画面を採用してます。
個人的には、この、画面を分割して映すって、あんまり好きじゃないんですけどね。
そういうのも含めて、作品全体に、なんだかワリと「テレビサイズ」の画って感じでしたね。クローズアップが多くて。
もちろん、それだけじゃなくって、空撮もありだし、画面全体を使って思いっきり引いた、凄い映画的なショットもありましたが。
まぁ、カネはやたら掛かってます。キャストも、オールスターだし。

あと、音楽はなんだか鳴りっぱなしって感じでした。使い方が上手だとは思わなかったけど、まぁ、効果的ではあったかな、というか。セオリー通り。



で。
ストーリーはまず、アルジェリア戦争での戦場体験から始まります。
アメリカでは、ベトナム戦争が(今なら湾岸戦争やイラク戦争でしょうけど)、こういう扱われ方でもって語られるワケですが、フランスにとっては、アルジェリア戦争。

そこで体験した諸々を胸にしまい込んで除隊・帰国、と。そして、“家庭”での平穏な暮らしには馴染めずに無法者たちの仲間に、という、この辺は、万国共通のスタイルですね。
軍隊というのはアウトローの供給源としては万国共通なんだなぁ、と。

軍隊というのは、「戦う為に」という理由で、厳しい訓練によって、どうしても、ある種の“人間性”というか、“穏やかな暮らし”への適応性をまず剥ぎ取ることが“軍隊への適応”の始まりなワケで、つまり、「内面的な再編」を強いるワケですよね。指揮下にいる兵士に対して。
どこの国でも。
それが除隊、帰国したからって簡単に「穏やかな暮らし」に適応できるはずもないし、という。
ホモソーシャルな感じもそうだしね。

つまり、軍隊と犯罪組織っていうのは、とても親和性が強いんだ、と。

この作品でも、そういうとこはちゃんと踏まえて、ということで、戦争が終わり(戦線が縮小し)、戦場から母国へ帰されても、「再編された内面」を抱えたまま、「平和への適応」をしないといけないんんだけど、そんなに簡単にはいかなくて、と。
ランボーシリーズの第一作も、文字通りそういう姿を描いた作品だったワケですが。

この作品では、ギャング組織に入って、ということで。

で、その後は、やくざ者のくせに“清純”な女性と恋に落ち、“ファミリー”と家庭との板挟みになり、という、まぁ、ありふれたと言えばその通りの筋立てで話が進んでいく、という。


面白いのが、フランスの警察から逃れるため、逃亡先として“新大陸”であるカナダに渡航するんですね。
そうか、と。
ケベックはフランス語圏なワケで、納得なんですけど、例えばイギリス人だとストレートにアメリカ(USA)になるんだろうし、アイルランド系も、同じくアメリカ合衆国。イタリア人もそう。ドイツも、東欧も、多分同じ。
スペイン人だと、これが南米になったりするのかなぁ。
当のアメリカ人は、これがメキシコになったりするんでしょうけどね。
この辺の、フランス人の“新大陸”の感覚はちょっと面白かったです。


で、カナダでは、ケベック独立を掲げる過激派のメンバーと共闘関係を結ぶ、という展開に。
ここもちょっと面白かった。

「政治」というファクターも、まぁ、この時代のフランスを(というか、フランスに限らず、世界のどこでもイデオロギー闘争が全てを支配していた、という時代だったワケですけど)描こうとしたら外せない要素であって。
また、フランス人ってそういうのが好きだもんねぇ。

で、最初はワリと、「右も左もダメだね」なんて言ってるんですね。ところが、ラストに近くなってくると、主人公がだんだん「革命だ」とか言い始める。

実は、ずっとこの“革命”というか“政治絡み”というファクターは提示はされていて、時節時節を示す言葉として「ドゴールが」とか「ピノチェト」とか「モロ」「赤い旅団」なんていうがずっと使われてて。

そういうも含めての“システム”ってことなのかなぁ、なんて思ってたんですけど(そこに現代性を込めた、とか、そんな感じで)、そういう解釈はちょっと違うみたいですね。
きっぱりと“極右”“ファシスト”のアンチとして描かれる、という風に変わっていきます。
この辺の話は、例えば、スピルバーグの「ミュンヘン」なんかを併せて観ると面白いかもしれませんね。それから、この秋にテレビで見た、ジョージ・クルーニーが監督して作った(ソダーバーグが製作です)「コンフェッション」とかも。


それから、一代記だけに、舞台が色々変わるんですが、敵と仲間が次々と変わっていく、という話の進め方もなにげに独特かも。
恋人も変わっていくんだけど、相棒も変わるし、好敵手(ルパン三世でいうところの銭形)も変わる。

この辺は、自伝を元にしてるってことで、“based on true story”の良さかもしれません。
ここが、完全なフィクションなら、例えば一番最初に愛し合った売春婦や、結婚して子供をもうけた“清純”な奥さんとか、そういう人がラスト近くになって登場して、今の人生や運命との対比を、なんてことになりがちだと思うんですけど、そういう風にならず、その代わり、なんと、娘との再会、というシークエンスがあります。(この娘がまためちゃめちゃ美人なんだ!)

このあたりは、個人的にはちょっと首を傾げちゃう感じ。
もっと、主人公を突き放すか、美化するならそっちに振り切るか、というのが、ブレちゃってる気がしてしまいました。
だって、別に反省とかしてないからねぇ。少なくとも、俺の印象では。

だから余計に、ということかもしれませんが、自分の両親との“和解”みたいなシークエンスは、作品の中でもかなり浮いてしまってます。和解に当たっての両者の動機も、イマイチ釈然としない。

まぁ、実話がそうなってる以上そう描く必要があった、ということなのかもしれませんし、俺の解釈が間違ってるのかもしれませんし。そこら辺はちょっと分かりません。


で、なんか異様に美人にモテる主人公は、女と相棒をとっかえひっかえしながら、ついに、という。



ま、長いけど、それだけの“人生”だよね。確かに。
このボリューム感をちゃんと描こうと思ったら、確かにこの長さは必要だし、これだけのカネも必要ですよ。
それは確かに、そう思う。



でも、実は、もっとバイオレンスなギャング映画なのかなぁ、なんて思ってたんですけどねぇ。
あんまりそんな雰囲気はなかったですね。
カナダの刑務所でのアクションシーンとか、凄い良かったけど、これだけ長さのある作品だと、どうしてもピースひとつひとつの印象は薄まっちゃう、というのもあるし。


あ、そうだ。
当時のパリやフランスの様子を描く、という部分は、凄い良かったです。特に車が。
カーアクションとかもかなりカネが掛かってると思うんだけど、当時の雰囲気を出す、ということで、特に車がみんな、当時の車って感じで。(パトカーもフォルム丸っこくてかなりカワイイ)

まぁ、だから、そういう全体の雰囲気を楽しむ作品なんスかねぇ。美人しかでてこないし。


というワケで、DVDで観てたらもっと高評価な作品だったかもしれません。
なんせ3600円払ってますからね。厳しくなりますよ。それは。
そこはしょうがないっス。

2009年12月15日火曜日

「母なる証明」を観た

先週、新宿武蔵野館で観た「母なる証明」の感想でっす。

「父、帰る」の次に「母なる~」って、ちょっと出来過ぎですけど。

とにかく、各方面から絶賛の作品ですよね。「殺人の追憶」のポン・ジュノ。
面白かったです。


ただ、“絶賛”って感じじゃなかったかなぁ。「殺人の追憶」もそうだったんだけど(「グエムル」は観てないんスよ・・・)、なんかこう、あと一歩踏み込んで欲しいなぁ、という感覚が残ったりして。
ま、あくまで個人的な“感覚”なんで、別にたいしたアレじゃないんですけど。



で。
とにかく感想として最初に書かなくてはいけないのは、「父性の徹底的な排除」という点ですよね。この作品に関しては。

ただの排除ではなくって、という部分。
たとえば、これがちょっと前の日本映画だったら、「父親は存在はしているけど存在感がない」とか「いるんだけど役割を果たしていない/放棄している」なんていう表現があったと思うんだけど、この作品ではもはや、存在自体がすでにない。

被疑者である息子、被害者、そして“真犯人”にすら父親はいなくて、息子の悪友にも居ない(という風に描かれる)。
起承転結の“承”に当たるシークエンスで、被害者のお葬式の場面があるんだけど、そこでも女性同士の衝突が描かれるし。(ちなみに、もっとずっと後の、暗闇の中で被害者の祖母と主人公の老母が対峙するシークエンスは、かなりヤバい)

何人か登場する、年齢的に“父親”に相当すると思われる登場人物は、1人は、まともに仕事をしない無責任な弁護士だし、もう1人は、バラック住まいのクズ鉄屋だし、あとはゴルフ仲間の大学教授たち、とかなんで、とにかく、いわゆる“庇護者としての父親”が出てこない。


変わって、母親に「全能であること」が求められていて。
で、その「全能」とは、と。
そこがこの作品のテーマ、かな?
「母なる証明」ってタイトルに沿えば、作品のテーマはそうなってくる気がします。
“父親”が不在である“母親”にとっての「全能」とは?

結論から言うと、善悪(と、定義されているある基準)すら超越した価値観、ということなんですかねぇ。

全能たる母性とは、善も悪も関係なく、ただ息子への愛情(つまり、その愛情の主体である自分自身の感情)だけなんだ、と。
それのみが行動原理であり、逆に言うと、“背理”すら肯定されうる、という。

その、肯定するためのツールとして用いられるのが、「ヤミ治療」なツボと鍼の技術で。

西洋医学的な視点からみれば、それは単なる民間診療であり、ある種の「信仰」なワケだけど、主人公にとっては、愛情を駆動力に進む自分自身を支えてくれる大事な“拠り所”であって(実際に、コメカミのツボは記憶を蘇らせてくれるんだけど)。



で。
これはホントにすげーと思ったんだけど、最後の最後に、鍼を打つんですね。自分に。
ここが凄い。「自分に」という部分。
息子が苦悩してるんじゃなくって、自分が、という。

「息子が真実を知って苦しむ」ことに対して「母がウソをついてなだめる」とか、そういうことじゃないんですね。
これって、結構ポイントだと思うんです。

ただ自分ひとり、母親だけが苦しむ、という。
そして、鍼を打つという“儀式”でもってそれすら乗り越えてしまう、という。

この描写はかなり凄いですよね。なかなか書けないっスよ。



もう一つ、特徴は、「外部の人間」というのが登場しない。異物、というか。
例えば、構造論のよくあるサンプルなんかには、「賢者」みたいなのが登場するワケです。愚者に対する賢者。
大抵の場合、特に、この作品のような、ある(濃密な)コミュニティが舞台になっている場合、コミュニティの外部からの訪問者が、時に「賢者」となって、主人公に力を貸すワケですね。具体的にアドバイスをしたり、実際に共同作業をしたりして。
この作品では、それに相当する人物が、一回捻って“悪友”になるワケで、そのことによって、舞台が完全にあるひとつのコミュニティの中に閉じている。
結果的に、これも「父性の排除」と繋がってる部分なんだけど、「賢者の排除」になってる。つまり“愚者”しか登場しない、という。

これはやっぱり、作劇上、かなり難しいことだと思うんですよ。
シナリオを書くにあたって、これは結構難しいことなんじゃないかなぁ、なんて。
生理的に、というか。(ゴルフクラブに付いてる口紅を血と間違える、なんて、逆に無理です。発想が。絶対書けない)
どうしても、“名探偵”みたいなキャラクターを配置したくなるもんですから。じゃないと、話を前に進めるのが大変なんで。

そこを、この作品は見事に乗り越えてますよね。

実は、この辺が個人的にちょっとだけマイナスなポイントだったりするんですけど(もっとスパッと解決して欲しい)、まぁ、そこら辺は別にいいですね。



とにかく、そういう方法論をとることで、主人公の“意思”を描写するんだ、と。
母親の。
ミステリーという“構造”を使うことで、ストーリーを前にドライブさせていく推進力を得てるワケですが、それを縦軸に、横軸には「母の母たる証明」を描く、と。
盲目的な愛、と書くと、なんだか陳腐で、監督も「そんなもんじゃないからこの作品を撮ったんだ!」ってことになるんでしょうが、敢えて最短のセンテンスで言うと、やっぱり「盲目的な愛情」、と。



そういうことっスかねぇ。


昔、子供の頃に見た大河ドラマの「独眼流政宗」で、渡辺謙の政宗と徹底的に対立する生母(演じるのは岩下志麻)のあまりの怖さが、個人的には軽くトラウマみたいになってますけど。

ま、この作品でも、凄いですよ。
ディテールがまた、ねぇ。
とにかく歩く、という。車とかタクシーとか使えないから、とにかく移動は歩き、という描写。雨でも何でも歩き。
あとは、普通にバラック小屋が凄いよね。
悪友の住んでる家とか、あんなのアリか、とか思うし、後々にもっと凄いバラックとか普通に出てくるし。あの辺の貧しさの描写は、ちょっとインパクトがありました。
「シティ・オブ・ゴッド」みたいな作品だと、例えば、豊かな生活の象徴としてまず大きな高層ビルみたいなのが描写されて、それとの対比でスラム街があって、そこで人々が生活して、みたいな“文法”があったりすると思うんだけど、この作品では、そこら辺がワリと無視されてて。
いきなり「え?」みたいなインパクトはあって。

ま、細かい所ですけど。




というワケで、なんか巧く書けませんが、素晴らしい作品だったとは思います。ホントに。
映画館で観て良かったな、と。



ちなみに、新宿武蔵野館は、おそらくウォンビンのファンだと思われる、アラ還なオバサンが大半でした(結構客は入ってた)。
あのオバサンたちは、恐らく大半は“母親”でもあるでしょうから、そういう方々はこの作品をどう受け取ったのでしょうか。
主題が主題だけに、結構気になる。

“ウォンビンの母親”ってことで、感情移入もハンパないだろうしねぇ。
「抱き締めたい!」って感じなんスかねぇ。


まぁでも、そういう意味で言うと、ウォンビンみたいなマネーメイク・スターが、こういうアクの強い作品にちゃんと出演して集客に貢献してるってことですから、それは、韓国映画の豊穣さを示しているよなぁ、と。
ウォン・カーウァイのぶっ飛んだ作品にスターが大挙して出演していた頃の香港映画の熱量をちょっと思い出しました。

2009年12月10日木曜日

「父、帰る」を観た

月曜日の映画天国で放送していた「父、帰る」の感想でっす。




う~ん。



分からん・・・。



とりあえず、物凄く話題になった作品ですよねぇ。ヴェネチア獲ってる作品だし。



しかし…。



なんだろう、とりあえず、画は凄い綺麗。
どうやって撮ったんだろうっていうぐらい綺麗。

ホントに。
自然光だけで撮ってるのかなぁ。
ただカメラ回したらああいう画になった、ということではないと思うんだけど…。


登場人物はぜんぶあわせても10人ぐらい。
基本的には、親父と兄弟2人の三人だけ、なんですけど。


そういうトコが凄いってことなんだろうか?


兄弟2人の感情っていうのも、もう凄い伝わってきて、そこは凄いなぁ、という感じなんだけどね。


でもねぇ。
「だからどうした?」って思っちゃうんだよなぁ。

確かに、作劇も、ちゃんとしてるっちゃしてるし、ちゃんと最後まで観れるようにはなってるんだけど。


でもねぇ。




なんか、こういう時って「ちゃんと観れてない自分」が不安になったりするけどね。アンテナが狂ってるのかなぁ、とか、錆びてるのかなぁ、とか。


最後の最後まで謎が明かされないという部分が「良い」っていう評価なのか?



そもそも、最初の“目的地”は確か「滝」じゃなかったかと思うんだよねぇ。旅行の目的は。釣りをしにいく、ということで。

だけど、親父が公衆電話で電話した後、「用事が出来た」みたいなことで、兄弟はバスで家に帰らされそうになる。だけど「用事に付き合え」ということになって、また親父の車に乗る。
で、着いた先が、(湖の?)島。

その島の、なんかの鉄塔の上に、親父は兄弟を連れて行くんだけど、でも、その島は本来の目的地ではないハズなので、「この景色を見せたかったんだ」みたいなことではないと思うし。


あと、その島に渡るときに、ボートの櫂を親父は漕がないんですね。
そこが謎。
なぜ漕がないのか、と。“教育的な措置”なのかな、とか。
例えば、親父の“方向指示”みたいな掛け声がないとボートは進まない、とか、そういうワケでもなさそうだし。


う~ん。
こんなことをツラツラ書いてる俺は、なんか「まるでバカ」みたいな感じなんだろうか・・・。
不安だ。



兄弟2人の成長、という物語なんだとしたら、それはそれで、物凄い良く分かるんだよねぇ。
でも、そうなら、ラストのモノクロームの写真の意味が分からない。


“喪失”の物語なんだろうか・・・。
その、人生における「何かを失うこと」の、その失う過程を描く、という物語。
でも、そうなら、「そもそも最初は居なかった」という設定の意味が分からなくなる。


例えば、親父が帰ってきてからの「なんかしっくりこない日常」みたいな描写があれば、もうちょっと変わると思うんだよねぇ。旅行に連れて行く動機みたいなのが。
確かにそういう流れにすると、「親父の素性が全然分かんないし、旅も目的も分かんない」という感じが消えちゃうから、つまり、「そういう話じゃないのだ」ということだと思うんだけど。


う~ん。


そういうことじゃないのか?
「不条理劇である」ということなんだろうか?


それとも「リアリズムが素晴らしい」ということ? 演技が自然だ、とか。



う~ん。


ずっと(12年間)不在だった親父が、家に現れる。
⇒親子3人で小旅行に行こう、という話になる。実際に旅立つ。
⇒島に着く。兄が親父に心を開く。反対に弟は親父に反発する。
⇒親父との約束。約束を破る。親父と兄弟の衝突。
⇒衝突の結果。喪失体験。
⇒喪失体験を乗り越え、島から対岸に戻ってくる。


で?


違うか。

こうやって、どうにかして理解しよう、ということ自体が間違ってるのか?

世界は不条理である、と。
そういうことを言う作品なのか?


しかし、それならば、あまりに残酷すぎるし、個人的にはそういう意味でダメだ。



う~ん。
でも、分かるんだよなぁ。画がとにかく綺麗だし、確かに、演技も凄い自然で、そういう上手さは分かるんです。凄い。


でも、分かりません。


いい作品なんですけどね。


結論としては、そういう感じ。
うん。


2009年11月27日金曜日

平野啓一郎の「物語」論概論

平野啓一郎さんの、「小説論」「物語論」をサラッと語っている講演録が新聞に載ってたので、ご紹介。
大学への出張講義みたいなアレみたいっスね。

たくさんの登場人物にかかわる雑多な事柄を、一個の時計に従って並べていく。小説は、時間が次々と絡み合いながら終わりに向かうものです。そして時間を絡ませる上でもっとも力になるのが「物語」なのです。

「物語」というのはラーメンの麺に似ています。
美味しいラーメンは、麺をすすっていると、自然と口の中にスープの風味が広がってきませんか? 麺とスープのバランスが絶妙で、かつ麺がスープを持ち上げる力が強い。反対にまずいラーメンは、麺とスープが分離しています。スープはまあまあだけれども麺を食べている手応えがないというのも、満足感が得られません。
この考えを小説に当てはめてみましょう。面白い小説ほど、流れに沿って物語をたどっているだけにもかかわらず、世の中の情勢が分かったり、人間の心の深い部分に、無理なく触れられたりするものです。麺というのは、小説が展開する時間、言い換えれば物語の比喩です。そして、タイムリーな要素、深淵な要素はスープなのです。

「物語」ということは、1990年代にはずいぶん批判されましたが、21世紀の今、考え直してみる必要がある。
断片化された経験を、まとまった一つの世界に築き上げてゆくことこそ、現代の小説が多くの読者を獲得するための条件だと思うのです。ブログを読んだだけでは満たされないものを、「物語」を組み込むことによって、小説は提供できる。
そうはいっても、インターネットが普及してから、小説の中で扱うべき情報が増える一方です。しかも読書の時間は減ってきているわけです。そこで読者は、手軽でありながらも、奥行きのある小説を望むようになりました。多様な世界をどう圧縮して「小さく説く」かということが、切実な問題になっています。


ある作品における「物語」とは、ラーメンの麺なのである、と。


作品は「物語」の外側にあり、平野さんが言うところの「世の中の情勢」とか「人間ん心の深い部分」は、「物語」とは別のところに、つまり「スープ」としてあるのだ、と。

「スープ」だけでも「麺」だけでもラーメンではない、という。(まぁ、「油そば」みたいな例外はあるはあるんでしょうけど)


「物語の構造」とは、あくまで“物語”の“構造”であって、よく類型化されたりしてそこへの抵抗感を抱く人が居たりするワケですけど、それはあくまで「麺」の話。
「スープ」はスープでまた違う言葉で語られ批評され、あるいは構築されるものなんだ、ということなんだろうと思います。平野さんは、ここではそこまでは言ってませんが。


それから、もう一つ。
「インターネットが普及してから、小説の中で扱うべき情報が増える一方です。」という問題提起も。


「どう圧縮して」と。「物語」に付随してくる“情報”をどう処理していくか、ですよね。分かる。
「物語を語る」ことには奉仕しないんだけど、どうしても時間を割かなければならない“情報”っていうのが色々あって(まぁ、前提ってヤツですね。そういう、説明しないといけない事柄)、それをどう処理しつつ「物語」を前にドライブしていくか。

チンタラ説明ばっかしてちゃ作品は冗長な、ダイナミズムに欠けたダラダラとした“ただの長文”になってしまうワケで。


ということは、別に「小説」だけの話じゃないんだろうな、と。


そういうことで、このブログに、アーカイヴしておきたいな、と。



2009年11月26日木曜日

谷川俊太郎が語る「詩情」

新聞に、谷川俊太郎さんのインタビューが掲載されてまして。


面白い、というか、すげー内容でした。


最近、社会の中で詩の影がずいぶん薄くなった気がするんです。

詩が希薄になって瀰漫している感じはありますね。詩は、コミックの中だったり、テレビドラマ、コスプレだったり、そういう、詩と呼ぶべきかどうか分からないもののなかに、非常に薄い状態で広がっていて、読者は、そういうものに触れることで詩的な欲求を満足させている

『詩』には、二つの意味がある。詩作品そのものと、ポエジー、詩情を差す場合です。詩情は詩作品の中にあるだけでなく、言語化できるかどうかもあやしく、定義しにくい。でも、詩情はどんな人の中にも生まれたり、消えたりしている。ある時には絵画に姿を変え、音楽となり、舞踏として現れたりします。
僕が生まれて初めて詩情を感じたのは、小学校の4年生か5年生くらいの頃に隣家のニセアカシアの木に朝日がさしているのを見た時です。生活の中で感じる喜怒哀楽とはまったく違う心の状態になった。美しいと思ったのでしょうが、美しいという言葉だけで言えるものではなかった。自分と宇宙との関係のようなものを感じたんでしょうね


『スラムダンク』にも詩情はあるのではないでしょうか。しかも1億冊売れている。現代詩の詩集は300冊売れればいいほうです。長い歴史を持つ俳句や短歌も詩ですし、現代詩よりも圧倒的に強い。現代詩は第2次世界大戦後、叙情より批評、具体より抽象、生活より思想を求めて難解になり、読者を失っていった。加えて現代詩の衰退は、近代日本語が特殊な変化をしたことと関係していると思う。
明治期に欧米輸入の思想や観念を、苦労して漢語という外国語で翻訳した。でも、身についていない抽象語で議論を始めると、すごく混乱しちゃいますよね。現代語も同じ。現代詩は伝統詩歌を否定したところから始まっている。詩は人々を結ぶものであるはずなのに、個性、自己表現を追求して、新しいことをやっているという自己満足が詩人を孤立させていった
『詩は自己表現である』という思い込みは、短歌の伝統が色濃い日本人の叙情詩好きともあいまって一般には非常に根強いし、教育界でも未だになくならない。僕は、美しい日本語を、そこに、一個の物のように存在させることを目指しているんですけど


詩だけじゃありません、高度資本主義が芸術を変質させている。
批評の基準というものが共有されなくなっていますから、みんな人気で計る。詩人も作家も美術家も好きか嫌いか、売れてるか売れてないかで決まる。タレントと変わりなくなっています。僕の紹介は『教科書に詩が載っている』『スヌーピーの出てくる人気マンガを翻訳している』谷川さんです。でも、それはあんまり嬉しくない。
子供から老人にまで受ける百貨店的な詩を書いて、自分はそれでやっているけれど、他の詩人たち、詩の世界全体を見渡した時に、自分がとっている道が唯一だとは思いません。詩は、ミニマルな、微小なエネルギーで、個人に影響を与えていくものですからね。

現代詩は、貨幣に換算される根拠がない。非常に私的な創造物になっています。


人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えると分かりやすい。生まれる時、人は自然の一部。宇宙内存在として生まれてきます。成長するにつれ、言葉を獲得し、教育を受け、社会内存在として生きていかざるをえない。散文は、その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、詩は、宇宙内存在としてのあり方に触れようとする。言語に被われる以前の存在そのものを捉えようとするんです。秩序を守ろうと働く散文と違い、詩は言葉を使っているのに、言葉を超えた混沌にかかわる。


若者には詩的なものが必要になる時期がある、と書いておられますが、今の若者は、生きづらそうですね。
どう生きるかが見えにくい。圧倒的に金銭に頼らなくちゃいけなくなってますからね。お金を稼ぐ能力がある人はいいけれど、俺は貧乏してもいい詩をを書くぞ、みたいなことがみんなの前で言えなくなっている。それを価値として認める合意がないから『詩』よりも『詩的なもの』で満足してしまう。


インターネットはどうでしょう?
ネットの問題は『主観的な言葉が詩』という誤解に陥りやすいということですね。ブログが単なる自分の心情のハケ口になっているとしたら、詩の裾野にはなりえないでしょう。

デジタル情報が膨大に流れていて、言語系が肥大していることの影響が何より大きい気がします。世界の見方が知らず知らずのうちにデジタル言語化しているのではないか。つまり、言葉がデジタル的に割り切れるものになっているような。詩はもっともアナログ的な、アナロジー(類推)とか比喩とかで成り立っているものですからね。詩の情報量はごく限られていて、曖昧です。「古池や 蛙飛び込む 水の音」という芭蕉の句はメッセージは何もないし、意味すら無いに等しいけれど、何かを伝えている。詩では言葉の音、声、手触り、調べ、そういうものが重要です。


詩情は探すものではなくて、突然、襲われるようなものだと思うんです。夕焼けを見て美しいと思う、恋愛してメチャクチャになる、それも、詩かもしれません。僕も詩を書く時は、アホみたいに待っているだけです。意味にならないモヤモヤからぽこっと言葉が出てくる瞬間を。


詩人体質の若者は、現代をどう生きたらいいんでしょう?
まず、『社会内存在』として、経済的に自立する道を考えることを勧めます。今の詩人は、秩序の外に出て生きることが難しい。そうだなあ、時々、若者が世界旅行に行って、帰ってきてから急にそれまでとまったく違う仕事をしたりするじゃないですか、あれは、どこかで詩情に出会ったのかもしれないな。
金銭に換算されないものの存在感は急激に減少しています。だから、これからの詩はむしろ、金銭に絶対換算されないぞ、ってことを強みにしないとダメだ、みたいに開き直ってみたくなる


このインタビューを読んで、「コスプレやらブログやらにも関心を持ってるんだなぁ」なんてことを言ってたらダメですよね。(ちなみに、『詞』の世界、つまり音楽の歌詞については「ある」とは言ってません。注目しないといけないのは、こういう部分)



「金銭に換算されないぞ」ということを言いながらしかし、「新しいことをやっているという自己満足」をも否定している、という、ここが谷川さんらしさなのかもしれません。


「僕は、美しい日本語を、そこに、一個の物のように存在させることを目指している」と。
芭蕉の句を引いて「意味すら無いに等しいけれど、何かを伝えている」と仰ってますけど、つまり「意味」じゃなく「何か」。
何かとは?
それが「詩情」なんだ、と。
「詩」とは、自分が感じた「詩情」を追体験するためのもの、自分の体験した「詩情」を記録しておくためのもの、自分が「詩情」を感じるに至ったその過程を記録しておくためのもの、自分が感じた「詩情」を誰かと分かち合うためのもの、自分が感じた「詩情」を誰かに伝えるためのもの、…。


違うかな?
あんまり俺がゴチャゴチャ書かない方がいいですね。


しっかり噛み締めたいな、と。


そういうインタビューでした。

2009年11月23日月曜日

「ラッキー・ユー」を観る

シネマ・エキスプレスで、「ラッキー・ユー」を観る。


この作品、知らなかったんですが、結構ゴージャスなメンツでの製作なんですね。低予算だけど。
監督は「LAコンフィデンシャル」のカーティス・ハンソン。
「LA~」とは全然テイストが違いますが、同じく監督作品の「8マイル」にはちょっと雰囲気が似てるかも。
年齢的にはすっかり大人になっている主人公の、うだつの上がらない日々からの脱却を目指してもがく姿、ということで言うと、ね。

で、助演がドリュー・バリモア。
バリモア、なんかマブいよねぇ。(なんつーか、彼女は“胸”の形が好きです。あと唇も)

主人公の親父役にロバート・デュバル。とりあえず、この親父の存在感がかなりポイント高い。



が。
結論から言うと面白い作品だったんですが、ちょいちょい「あれ?」みたいなのがあって、それは、主人公のキャラクターの感じに因る所が多くて。
主人公の輪郭がイマイチ掴めん…。


この作品はポーカーの世界選手権、というクライマックスに向かっていくんですが、その、ポーカーのプレイヤーたち、つまりプロのギャンブラーたちなワケですね。登場人物は。
ちなみに、主人公の親父は、世界選手権に2度優勝している、という設定で、なおかつポーカーに入れ込み過ぎて家庭を失っている、という。
で、主人公もプロのギャンブラーなワケですが、こいつがなんだかよく分かんない。

強いんだか弱いんだか。


なんだか強いってことになってて、本人もそう振る舞ってるんだけど、とにかく金欠で、あっちこっち金策に駆けずり回ってるんだけど、ことごとく失敗して、しかもただの失敗じゃなくって、普通にカモられたりしてる。
自意識過剰で自信過剰でいけ好かない感じだし。
ちょいちょ負けるクセに。


女好き、というのは、親父との関係とか、親父と母親の崩壊した関係を見て育ったから、という理屈があると思うんだけど、なんか微妙に“美化”されちゃってるんだよねぇ。
“ボンクラ感”がいまいち描写しきれてない。

だいたい、主人公を演じる役者(エリック・バナという人)が、この役にあんまりハマってない。
カッコよ過ぎるっつーか、スマート過ぎるんだよねぇ。

例えば、ニコラス・ケイジとかティム・ロスみたいな人が演じれば(年齢が設定と全然違うんだけど…)、なんかダメっぷりというか、自分のダメっぷりに苦悩する姿、みたいなのに共感できたりするんだろうけど、あんまりそんな感じにならない、という。
「こいつの人生、全然問題なくないか?」みたいな。

さっそうとバイク乗ってるし。


個人的には、そういう部分が致命的にアウトで。



ただし、良いポイントもたくさんある。



まず、セリフがいい。
冒頭、質屋で、主人公が(友達のを無断で拝借してきた)ビデオカメラを換金しようするんだけど、とりあえずこのやり取りで交わされる言葉がかなりクール。
ポーカーのゲームの最中にも、特に親父が、会話でブラフを仕掛けてくる、というスタイルで、この時のセリフの感じも好きです。


それから、小道具の使い方が巧いですね。これはホントに演出の巧さだと思うんだけど。
母親の形見の指輪や、とにかくポーカー自体がコインとカードという“小道具”を使うゲームだからっていうのもあるんだろうけど、コインを弄る手の動きとか。
あとは、決勝ラウンドのライバルたちの、サングラス、とかね。

細かいところの演出もピリッと効いてて、朝のダイナーで、親父と息子(主人公)が2人でカードゲームを(当然、高額のカネを賭けて)始めてしまうシークエンスは、凄い良かった。
カードでしか会話できない、というか。
最初は2人で話してるんだけど全然噛み合わなくって、だけどカードゲームが始まると、という。
結局息子の方は負けちゃうんだけど。

で、この2人の関係の間には、母親というのがいて。主人公の母親。親父の(別れた)妻。
母親は、存在は出てこないんだけど、形見の指輪、というのが出てくるんですね。これが、冒頭の質屋のシークエンスから、ずっと2人の間を行ったりきたりするんです。
これが巧い。
というか、ニクいな。指輪の扱い方が。


あと、演出の面では、決勝ラウンドの直前、ゲームが一旦終わった時に、メンバーが全員恋人や家族の元に近寄るんだけど、主人公だけ抱き合う相手がいない、というシーンがあるんです。
これはいいですね。
すげー意味の分かりやすいショットなんだけど、ポーカーのテーブルとそれを囲む観衆、という場の空間を上手に使った演出で、これは実はなかなか出来ない演出だと思う。
で、主人公を待っているのは、借金取りだけだ、という。
これは、効果的だし、イイですよね。


ポーカーの出場者はみんな上手に個性が描き分けられてて、細かい演出も人物描写も良いのに、なぜか主人公だけが分からない、という、最後までそこが謎です。マジで。

大会の結末も爽やかで良いです。

この辺は、シナリオの勝利って感じなんでしょうか。



とにかく主人公のキャスティングがなぁ…。



まぁ、なにげにもう一回観たい作品ではあります。




あ、補足しておくと、舞台はラスベガス。
「CSI」と同じ、ですね。

でも、全然違うベガスの風景ですね。“ローカル”なポーカーラウンジが主な舞台なので。


というワケで、なんとも歯がゆい作品でした。


2009年11月5日木曜日

「チェンジリング」を観た

(iPhoneから書こうと思ってたんですが、上手くやれてませんでした…)

クリント・イーストウッド監督、アンジェリーナ・ジョリー主演の「チェンジリング」を観る。

タイトルのスペルは「changeling」ということで、“取り替え子”という意味のそういう言葉があるらしいですね。


チェンジリング。

まぁ、傑作ですよね。間違いなく。

シングルマザーが、誘拐事件と警察による偽装事件の2つの事件に遭う、という。
ストーリーの構造は、入れ子になってて、外枠に誘拐事件(正確には、大量誘拐殺人事件)があって、内枠に警察の腐敗によって騙され陥れられるストーリーがある、という形。

LAPDの腐敗っていうと、犯罪組織との繋がりだとか賄賂とか、というのが多く語られてきたと思うんですが、この作品では、なんつーか、もっとエグい、もっと救いのない、要するに人間的にダメなヤツら、という描写で。
この作品は実話を基にしているということなんで、この、警察組織の堕落っぷりっていうのは、マジなんでしょう。

ポイントは、“マスコミ”ですね。
まったく存在感がない。
これはもちろん意図的だと思うんですけど、正義の遂行者として役割も、埋もれた事実の発掘者としての役割も、あるいは単純に代弁者としての役割すらも与えられず、ただただ“権力”である警察のやることの片棒担ぎでしかなくって。
この、マスメディアをこういうポジションに置く、という構図は、この作品に“現代性”を与えているんじゃないかな、なんて。


“現代性”ってことでいうと、「働く女性」というA・ジョリーの役柄ですよね。父親が責任を放棄して逃げ出した、ということがセリフで語られるんだけど、なんつーか、そこへの怨み節みたいな演技はないワケです。
自立した女性。
電話交換手という職業は、恐らくですけど、当時では一番新しい産業の従事者、というか。要するに“進んでいる”人なワケですね。ローラースケートを履いた主任で、しかも昇進を打診される、という、仕事のできる人間。
しかし、警察や精神病院では、女性ゆえに(という描かれ方を実際にしている)半人前扱い、二級市民扱いをされてしまう、という。
「ミリオンダラー・ベイビー」で「闘う女性」を描いたクリント翁ですが、まぁ、地続きだよな、と。


画の感じも「ミリオンダラー・ベイビー」と良く似てて、黒味を強調した陰影のある画。
この作品の“黒さ”“暗さ”っていうのは、当時の街の実際の夜の暗さでもあるんで、ちょっと意味合いが違ってくる部分もあるんですが、これがとにかく効いています。
ただ、「ミリオンダラー・ベイビー」よりは、ちょっとだけ色調が押さえ気味でしたね。ちょっとだけ淡い感じで、画質もちょっと違う。
その辺は、CGとの親和性みたいなのとも関係してるのかもしれません。



入れ子の構造になってる、ということで、警察との戦いに勝利した(精神病棟から“救出”される)だけではストーリーは終わらず、ここが巧い所だと思ったんですけど、警察との戦い(ナントカ委員会)と、誘拐事件んの犯人との戦い(刑事裁判の公判)を、平行して描く、と。
これが、「まだ終わってない」という形になってて。

この組み立て方はかなりポイント高いです。
うっかりしたら、ここでカタルシスを感じちゃって、ちゃんちゃん、みたいになっちゃいますから。そうはさせない、ということで。(ただし、その分作品のトータルの時間は、長いです。2時間超えてる)


その後も諦めずに戦い続け、もう一つのクライマックスが、死刑執行と、その前夜の犯人との対面。
ここでの、必死に自制を保ちながら、しかし感情を剥き出しにしながら、犯人に真相を明らかにしろと迫るカットは、かなり迫力あります。
あと、凄いと思ったのは、その後の、別の被害者家族が再会を果たすシーンがあるんですね。
そこでのA・ジョリーの演技はかなり凄い。
再会の様子を、会話を部屋の外で聴いてるだけ、という演出も凄いなと思ったんですけど。

なんつーか、そういう、“母性”のすべての要素をすべて描き切ってると思うんですよ。
全部を演じ切ってる。
強さ、弱さ、脆さ、憎しみ、悲しみ、哀しみ、そして、美しさ。

戦い続ける強さ。
同時に、弱さ故に戦い続けてしまう、という哀しさ。



それから、もう1人、“共犯者”の少年役の存在感が素晴らしいよね。
この作品の特に核心部分になってる“誘拐犯”を巡るシークエンスのリアリティは、彼に寄りかかってる部分がかなり大きいんじゃないかな、と。
犯行を回想するシーンの、被害者を車に誘い込むカットと、もうひとつは、犯行を告白した刑事に命令されて死体を埋めた所を掘り返すカット。共犯を強いられてしまった彼の演技っていうのは、実際の被害者である主人公の息子の描写が殆どない(もちろんそれは意図的にで、再会できないままの主人公の喪失感を、ということだと思います)のもあって、犯行の悲劇性を高める効果があって。



ホントに、よく出来たシナリオだし、描き切る監督の手腕、演じきるA・ジョリーの演技力、どれも素晴らし、と。
そういう作品だと思いました。


うん。
傑作。



ただし、俺みたいに「闇の子供たち」と一緒には観ない方がいいです。
気分的に、ホントに沈鬱になり過ぎちゃって、ヤバいんで。

2009年11月4日水曜日

「闇の子供たち」を観る

阪本順冶監督の超問題作、「闇の子供たち」を観る。


いや~。どこから書いていいのやら…。


まず…。

ストーリーの構造としては、幾つかのプロットがあって、それがなんとなく絡み合いながら話しが進んでいく、という形。

ストーリーの大部分はタイで進むんですが、途中舞台が日本に移ってくるシークエンスもあって。
面白いのは、画のパワーが、日本の、日本人の役者陣の演技に頼れる所ではちょっと落ちる、というところ。
タイ人の子供を撮っているカットなんかは、構図もキレキレで、どれも気迫が伝わってくるカットなんですけど。
やっぱりそれは、セリフの巧さとか演技の巧さに寄りかかれないから「画」で勝負するしかない、という演出上のアレなんだろうな、と。


佐藤浩市の出てくるカットも、長回しでワンカットで撮ったりしてるんですが、いまいちピンとこなかったりして。「ここは別に普通に撮っても良かったんでわ?」みたいな。

まぁ、名優ぞろいだとは思うんです。
だけど、例えば「こと」を終えたあとにずっと唾を吐き出すショットとか、マジでやばい。
そこにはセリフもなくって、演出も「唾を吐き出してて」ってぐらいだと思うんです。そういうショットが生み出す破壊力。
基本的に、そういう「画の力」によって支えられている作品だと言い切ってもいいんじゃないなぁ、と。
ゴミ収集車に運ばれている黒いビニール袋を映したショットとか、マジで危険ですよ。ほんとに。
「グエッ…、この中にいるってことかよ…」っていうショットですから。
冒頭、国境の街で、子供たちの腕を大人たちがずっと掴んでるんですね。手を繋いでるんじゃなくって、逃げないように腕を掴まえている。
そういう、ひとつひとつのカットの意味が重すぎます。ホントに。
一生懸命作り笑いを作ろうとして、でも痛くて(肉体的にも、精神的にも)涙が出てくるんだけど、でも必死に口角をあげて作り笑いをしようとする男の子。

その「作り笑い」は、実は結構キーになってて、「裏切り者」も登場する最初のショットで「裏切り」が暗示されちゃっている、という。
そんなんありかよ、と。


タイトルの「闇の子供たち」ですけど、これって、「闇の中に隠された子供」とか「闇の中にいる子供」「闇の中に放り込まれた子供」という意味じゃなく、なんつーか、「闇」が生んだ子供たち、という意味だよね。
子供っていうのは必ず「親」がいるワケだけど、「親」、つまり「人間」が「闇」なんだ、と。
「人間」というより、「大人の世界」が「闇」なんだ、と。
大きな大木(ガジュマルの樹?)や、ラストの川の中で戯れる子供の姿、というのは、「自然に抱かれている」という状態、つまり、「大人たち」の手の届かないところ、「大人たち」に汚される、犯される前の状態、ということですね。「無垢な」とか「自然な」とか、そんな意味。


ラストまで、ずっと、江口洋介や同僚たちの「職業意識」が動機の梃子になっている、というトコにひっかかりを感じてたんですね。
それって、なんつーか、自分たちが生きる日本の社会との「地続き」感が薄まってないか、という気がしてたんで。
そうじゃなくって、「ひとりの人間としての良心」を動機にした方がいいんじゃないか、とか、“大手マスコミ”が“正義”を代弁するっていう形はちょっと現代性がないかな、とか。
それは監督の意図する所じゃないんじゃないのかなぁ、とか。
その「個人的な正義感」を司るために置かれているはずの宮崎あおいの役は、いわゆる、結構曖昧な「人間的な感性」というか、「自分の善なる部分が反応している不快感」みたいなのに立脚しているんですけど、なんつーか、彼女はずっと「未熟で~」という描かれ方、つまりややネガティヴな描かれ方をしていて。
いかにもなタイプキャストでステレオタイプなキャラクターだし。
そこには感情移入をさせない、ということを敢えてしている。

それは、同じく「自分探し」的なプロットを付加されている妻夫木聡が演じるキャラクターもそうなんですけど。
そこもずっと引っかかってたんです。人間が作った「暗闇」を描くのに、なんで「自分探し」のプロットに引きずられないといけないんだ、と。



が、最後の最後、ズバっと、ね。
やられましたよね。

シリアルキラーの記事の中に映る自分の顔。
「つまり同類なんだ」というメタファー。
この、後味が「苦い」方向に振り切るカタルシス。思わず「グエッ!」って声が漏れそうな結末。
こんなんアリか、と。



例えばさ。
これがキリスト教の文化圏なんかで作られてたら、終話の前に「懺悔」して終わる、とか、そういうストーリーの運びになったりしたと思うんです。
悔い改めて、神に赦しを乞い、赦され、一生をかけてその罪を償う、とか、そういう結末になったと思うんです。
しかーし!

主人公が自分の内面に抱えていた、なおかつ、本人はそのことを完全に自覚していた、という“闇”。
「ここは天国だから」というセリフの意味が、エンドロールの間にガツンときちゃう、という、この不快感!

「七つの大罪」がテーマだった「セブン」よりもエグい終わり方ですから!
グエッ!


う~ん。

感想を書きながら暗鬱な気持ちになってきました。
実は、この作品と一緒に借りてきたのが、なんと「チェンジリング」。
併せて観ちゃいけない作品でした。


結論としては、阪本監督の傑作、だと思います。
気迫と凄み。


グエェ…



2009年11月1日日曜日

「バンク・ジョブ」を観る

ロンドンが舞台の、実話を基にしたという「バンク・ジョブ」を観る。


う~ん。
面白かった。いい作品でした。


上手く言えないんだけど、こじんまりまとまった、というか、無理をしないでやれることをキッチリやる、という製作ポリシーを感じて、そこも好印象。

ストーリーは、政治的な思惑から、情報機関「MI-5」(ちなみに、ジェームス・ボンドが所属しているのはMI-6)がある銀行を襲撃する計画を立て、それに乗っかってしまった男たちが、色々ありながら最終的に…、というもの。

まず、銀行襲撃を決行するにいたる前段階の説明を、冒頭でかなりテンポ良く進めていって、そこがちょっと分かりにくいんだけど、まぁ、なんせ実話なんで、そこはしょうがないっスね。
もちろん、全部がちゃんと一つに収まるようになってるんで、全然いいんですけど。


面白いのが、“襲撃”を成功させた後に色々展開がある、という部分。
「やった! 逃げろ!」で終わるんじゃなくって、むしろその後の方が面白かったりして。
この部分の話の造りはなにげに面白い。


実行犯たち、MI-5、警察署の腐敗警官と彼らを買収して“子飼い”にしているポルノ王、という三つ巴の抗争が、と。
そこに、主人公の男の、生活感や、人生との格闘に敗れかけているという“動機”、美人な奥さんと“仕事”の話を持ってきた女との微妙な関係、とか、その辺の、ちゃんと丁寧に描かれた「人間ドラマ」が挿し込まれていく、ということで。

主人公の俳優さんが、またいいんだよねぇ。ジェイソン・ステイサム。
役の、奥さんや娘を思う“普通の人間”の哀愁と、襲撃を成功させるカリスマ性とか、意外に頭も切れたりするというキャラクターが、この俳優さんだとちゃんと成立してる、というか。
別に演技がどうこうってことじゃないんだよね。存在感がいい、という。
「スナッチ」での役よりも、もっと奥行きのあるキャラクター、という感じで、ちゃんとそれを演じきってます。


ディテールとしては、モダンな画がまず印象的。デジタル機材を使うとこういう画になるのかなぁ。
最近の、特にイギリス映画では、こういうシャープな画が多いので、もうこれが一般的ってことなんでしょうか。
まぁ、ひょっとしたら、イギリス特有の、光量自体が少ない土地柄というのも関係してるのかもしれませんが。


で、時代感を表現するため(設定は、70年代)の街路や建物やモブシーンは殆ど作らず、基本的にはセットの中でのカットで話を進めていく、と。
狭いアングルのショットを多用してるのもそうだし、とにかく余計なことはしない、ということですね。銀行襲撃の話なのに、あまり銀行らしいショットが出てこなかったりするワケです。襲撃のターゲットは地下の貸し金庫なんですが、要するに、必要なそこ貸し金庫しか撮らない、という。

アクションシーンも最低限に抑えているという印象。もちろんガンアクションもなし。


それでいて、ラストの駅のホームでのシーンなんかも緊迫感をしっかり出すことに成功してるし、巧いなぁ、と。(地下鉄のホームでのショットなんかも、凄い上手)
しかも、ゴチャゴチャするカットは、ホームから、駅の裏手という“安上がり”な場所にちゃんと移動して撮ってるんですね。
その辺も、巧いと思います。


なんか、ちゃんとカタルシスもあるしね。


うん。
いい作品でした。



2009年10月31日土曜日

赤川次郎、井上ひさし、小林多喜二、そしてサルトル

赤川次郎さんが新聞に連載しているコラムで、井上ひさしさんの、「蟹工船」の小林多喜二を描いた舞台「組曲虐殺」を観ての感想を書いてまして。



多喜二役の井上芳雄のファンなのか、若い観客も多かったが、多喜二が生き、そして虐殺された時代の空気をどう受け止めたのか、訊いてみたい気がする。
フランスの哲学者サルトルが、第二次世界大戦時のドイツ占領下ほど、自分が自由だったことはなかったと言っていたことがある。占領下では、自分の書く一つ一つの言葉が生命の安全を脅かしかねなかった。
「命がけで書く」というその覚悟がサルトルを鍛えたのだ。
今は権力を批判しても拷問され殺されることはないが、そうなると、むしろ現実から目を背け、内にこもってしまう書き手が多いようなのはどうしてだろう。



まぁ、サルトルにしか言えない言葉でもあるんですけどね。

それから、現在の“闘争の場”はまさに“内面化”されているからだ、という言い方もあるとは思うんですが。

ただし「命がけで書くというその覚悟が鍛えたのだ」と。
この言葉は大きいですよね。


占領下ほど自由だったことはなかった。


う~ん。


凄い。

2009年10月29日木曜日

「さらば愛しき女よ」を観る

午後のロードショーで、ロバート・ミッチャム主演の「さらば愛しき女よ」を観る。



う~ん。
まぁ、今さら俺が感想書いてもな、というクラシックですが、個人的には、実はチャンドラー作品はまったく手に取ったことがなかったりして、この作品も初めてなんで、そういう意味では新鮮だったかも。

具体的には、主人公のフィリップ・マーロウのモノローグでストーリーが(中盤まで)語られている、というのが結構新鮮だった。
最近だと、あんまりこういうのってないんじゃないですか?

画の質感は、だいたい同じ頃に作られた「刑事コジャック」(これはテレビシリーズだけど)とソックリって感じで、「コジャック」は個人的に大好きなんですけど、それをちょっと思い出したかな(S・スタローンが出てるっていうのもあるけどね)。
ま、この作品と「コジャック」じゃ、描かれている時代は全然違うんで、ホントは似てないハズなんですけど、なんつーか、視線の低さとか、そういうトコがね。


作中、ずっとジョー・ディマジオの活躍が語られるんですけど、その中で、「ディマジオは子供たちの歓声を受けるんだろうが、子供の泣き声は聞こえないだろう」みたいなセリフ(モノローグ)があるんですね。
これは良かった。
その(父親が死んでしまって)“泣いている子供”のために命を張るんだ、という主人公。

でも、ロバート・ミッチャムにはあんまりフィットしてない役のような気もするんだよねぇ。生意気なこと言っちゃうとね。

ま、いいんですけどね。




チャンドラーか…。
フィリップ・マーロー。


読んでみよっかなぁ。


2009年10月21日水曜日

「コンフェッション」を観た

というワケで、今日は今週の映画天国で観た「コンフェッション」の感想です。
ジョージ・クルーニーの監督デビュー作、ということで。


“コンフェッション”って、「告白」って意味らしいですね。知らなかった…。
題名の通り、主人公の男が自分の人生を「告白」していく、というストーリー。


で、告白されるストーリーが一筋縄でいかない(ま、だからこそ映画になるんだけど)、ということで、なんだかよく分からないまま話がどんどん進んでいく感じになってます。

個人的には特に前半の、なんだか“軽薄なコメディタッチのなんか”みたいな雰囲気が全然ダメで、惹き込まれるようになったのはホントに中盤以降ですね。

主人公が、自分の内面の“精神的な均衡”と保つために暗殺(つまり、合法的な殺人)を自ら欲するようになる、というあたりから。

その辺で、前半の、軽薄な、どこか浮ついたタッチで人生を描写する、という部分の意図が分かった、というか。
つまり、主人公の感覚がそうだった、ということですね。
自分が生きる人生や生活に「現実感」が欠如していた、という、そういう人物描写のための手段だった、と。
書割りのように表現される部分も、主人公の自己認識では、なにかの舞台の上で「自分という役柄」を演じさせられているだけ、みたいな感覚だった、と。

ここで、腑に落ちる、というか、しっくりきた、という感じで。


で、主人公がテレビ業界で成功するにつれて、その“浮ついた感”“非現実感”は、そのままテレビ業界における生活、という部分に、つまり主人公にとっては「日常という現実」にトレースされてきてしまう。
そして“現実化してしまった非現実感”に、耐えられない。

そこで、精神的なバランスを取るために、まごうことなき現実である“殺人”という現場に自ら赴く。


面白いのは、“殺人”の現場においても、“殺人者”という“自ら生み出したキャラクター”をまとう、という形で振る舞うんですね。主人公は。
帽子をハスに被り、黒いコートを着て、ミステリアスな女を抱く。

まるでひとつの“ゲーム”であるかのように、つまりそこでも“非現実感”に包まれている。


で。
ある局面で、東側に捕らえられるという体験をし、そこでの諸々を経て、“現実”に引き戻される。
というより、初めて現実に直面する、というか。


ドリュー・バリモア演じる彼女との結婚も避けてきた主人公が(それは、はっきりとは語られないんだけど、主人公の現実逃避のひとつだという描写でしょう)、ついに自分の命の危機を感じるに至って、自分がその時にいる“現実”を知る、と。


その後の、精神的に破綻しかけた主人公が、裸でテレビの前に立っている、という姿で描写されるんですが、これは多分、そこでは主人公は“裸の自分”というのを把握しているのだ、ということだと思うんですね。

今まで身にまとっていた“衣”をすべて脱ぎ捨てて、という。スパイでもなく、テレビ局のやり手プロデューサーでもなく、裸の自分。


ここで、最近の潮流としては「裸の自分なんていうのも虚像なんだ」というトコに落とし込んだりするワケですが、この作品では、そこまでは行きません。(というのが俺の解釈)


最後のヤマとして、裏切り者とのサスペンスタッチの対決を描いて、なんつーか、多分これが“落とし前”ということだと思うんだけど、最後は老人となった主人公の言葉で〆る、と。


ま、話の流れを追ってしまうと、こんな感じ。


ディテールとしては、ソダーバーグの「トラフィック」スタイルで、シークエンスごとに色のタッチを変えて、ということをしてますね。
過去のマンハッタンのテレビ局では光を飛ばしてパステルな感じ、中南米(多分メキシコだと思うんだけど)での初めての暗殺のシークエンスでは光量を多くしたザラザラしたタッチ、東ベルリンや東欧での暗殺のシークエンスでは黒味を強調したサスペンスタッチ、という感じで。LAでのテレビ局での生活、ニューヨークでの安ホテルでの隠匿生活、など、場面ごとに、ワリとあからさまにそういうことをやってる。
ま、個人的にはそういうのは凄い好きなんですけど(自分でもこういうのはやってみたい)、こういうのを安易って言う人もいるかもしれませんね。
いいと思うんですけどね。映画表現のひとつの進化だと思うんで。



あ、それから、なんつーか、ハリウッドにおける“派閥”じゃないけど、そういうのが垣間見えるのもこの作品のアレかも。
ジョージ・クルーニー一派、というか。
ソダーバーグとコーエン兄弟の作品には、G・クルーニーを初めとした、ワリと決まったメンツが出てますよね。
ブラピもそうだし、ジュリア・ロバーツもそうだし。
ちなみに、先週の「バーバー」の主演のビリー・ボブ・ソーントンは、アンジェリーナ・ジョリーの元旦那ですけど、もちろんA・ジョリーの今の旦那はブラピだからね。


あと、やっぱりジョージ・クルーニ―のこの後、ですかね。
この後に「シリアナ」という大作の製作・主演や「グッドナイト&グッドラック」の製作・監督・主演という見事な仕事をして、その後は「フィクサー」をソダーバーグと一緒に製作して。

ちなみに、これは知らなかったんですが、「ジャケット」という作品の製作もしてるんですね。この「ジャケット」という作品は、結構面白かった。



というワケで。
なんつーか、観る人を選ぶ作品ではありますよね。
普通に観たら、それこそ単なる“告白”で終わっちゃう、というか、「こういう人が居ました」で終わっちゃう作品だと思うんで。「CIAって凄いな」とか。

まぁ、そういう作品だって言えばその通りなんですが、もうちょっと深みや奥行きもありますよ、と。

そんな感じでした。



2009年10月20日火曜日

「バーバー」を観た

先週の「映画天国」(月曜映画の後釜です)で観た、コーエン兄弟の「バーバー」の感想です。


というか、久しぶりにレビューを書くんで、正直、なんだか書き方を忘れてしまった感じでして…。


コーエン兄弟。
「オー・ブラザー!」の後に作られた作品なんですねぇ。


う~ん。

面白いっちゃ面白いんですけど…。



まず、最初の印象は、なんといっても「モノクロ」である、というトコ。
「モノクロとは単に色がないというだけじゃない。もっとスペシャルなものなんだ」みたいなことを言っていたのは、フランスの天才マシュー・カソヴィッツですが、まぁ、コーエン兄弟にとってもチャレンジだってことなんでしょうかねぇ。
コーエン兄弟って、やっぱり、巧みにコントロールされた色彩感が特徴のひとつにあると思うんですよね。ロケーションや服やライトのチョイスってだけでなく、作品ごとに、全編にわたってちゃんと計算された色使い、というのが。
そういうのがこの作品にはないので。もちろん、そういう色彩感のひとつとしてモノクロが選択された、ということだとは思うんですが、なんつーか、別にねぇ、という。

この時代に、コーエン兄弟みたいなポジションの人たちが敢えてモノクロを導入する、というのには、やっぱりそれなりの“現代性”みたいなのがないとなぁ、なんて。
俺としては、あんまりそういうのは感じなかったんで…。
ひょっとしたら、映画館でデカいスクリーンで観たらまた違った印象だったのかもしれないんですけど


キャラクターの演出とか、すげーいいんですよねぇ。
セットとかの美術も凝ってるし。

でも、そういうのを含めた“時代感”が、モノクロであるというトコに寄りかかり過ぎてるんじゃないかなぁ、なんて。
コーエン兄弟ですからねぇ。
カラーでも全然出来る腕を持ってる人たちですから。


まぁ、そういうのは作品の本質とはあまり関係ないですね。




で。
作品のストーリー。


なんつーか、個人的には、この「まわり回って~」とか、「無常観的な傍観者としての主人公」とかって、あんまりピンとこないんです。

ひょっとしたら、こういうのって、いわゆる「東洋的な」って感じなのかなぁ、なんて。
別に新鮮じゃないんだよね。
この作品の主人公がとり憑かれている“諦念”って、ひょっとしたらアメリカ人には新鮮な概念なのかもしれないんだけど、それこそ「塞翁が馬」じゃないけど、別に「無くはない」みたいな印象で。
「別に…」って感じがしちゃうんだよなぁ。


“輪廻”とか“因果応報”とか、日本人にとってはそんなに目新しい概念でもないでしょ?



でも、さすがに鋭いショットは幾つもありましたね。
バーバーでのカットはどれもクールだしね。
「奥さんを逮捕した」と刑事たちが主人公に告げに来るシークエンスは、なんかは、セリフも含めて、巧いなぁと思ってしまいました。特に、床屋に刑事が入ってくるカットは、ね。
ちゃんと緊張感を持たせてるし、ホンの少しの間なんだけど、その緊張感を持続させて生かして、という演出になってる。
デパートの奥の部屋で殺人を犯してしまうシークエンスも良かった。
その前、酔っ払った奥さんがベッドに横になってて、呼び出されて家を出て行って、殺してから家に戻ってきて、ベッドに寝てる奥さんの横に、というトコも。
そういう部分のキレ味は、さすがという感じです。


あ、あと、スカーレット・ヨハンソンがピアノ売り場でピアノを弾いてるショット。
あれは良かった。

あのあたりは、殺人という“一線”を越えてしまった主人公が、急に哲学的なことを言い出したり、美しい音楽に惹かれるという、芸術的な感性が覚醒したり、という、とても面白い展開のパーツのひとつになってるんだけど。
なんていうか、一線を越えた後に、急に“人間性”に目覚める、みたいな。

それまで、なんとなく流されて生きてきた主人公の内面が、そこで少し変化し始める、という。
そこは面白いですよねぇ。

でも、その後にその「人間性の獲得」みたいなのが強調されるかっていうと、別にそうでもないんで、作り手の意図はあんまりそこにはなかったのかな、なんて。
俺の勘違いなのかもしれませんけど。



そんな感じかなぁ。


ただ、重要なことは、後の大傑作「ノーカントリー」にも通じる要素が幾つか見られる、というところですね。主人公の諦念は、「ノーカントリー」のハビエルにもやっぱり繋がってると思うんだよねぇ。
まぁでも、その辺は別に「ノーカントリー」を観ればいいってだけの話なんだけど。



というワケで、巧く書けませんでしたが、「バーバー」の感想でした。



2009年9月15日火曜日

伝統としての破壊と創造

新聞に、猿之助のスーパー歌舞伎を回顧した記事が載ってまして。
歌舞伎の世界は、まぁ、全然詳しくはないんだけど、俺の知識の範囲内でも全然読める、読み物としても面白い内容だったので、せっかくなんで、ここでご紹介。


86年2月、東京・新橋演舞場では、ふだんの歌舞伎公演ではまばらな若者の姿が目立っていた。世はバブル経済の上昇期。歌舞伎俳優の市川猿之助一門によるスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が同月4日、ここで初演されたのだ。
歌舞伎で見慣れた、役者の影を作らない高明度の照明ではなく、闇を生かすような照明。想像上の怪鳥が飛翔するかのような宙乗り。ワーグナー楽劇を日本化し、メタリックに加工したような感触だった。
猿之助は「歌(音楽性)+舞(舞踏などの視覚的な楽しさ)+伎(演技・台詞術)」が三拍子揃った歌舞伎の復権を提唱。台詞は現代語に近く、音楽、衣装、照明、装置も刷新した。後に「スピード、ストーリー、スペクタクル」が旗印に。猿之助は初演時の筋書きに、心理を掘り下げて描く青山青果らの新歌舞伎に対し、「歌舞伎の面白さである歌、舞を忘れ、伎だけに片寄りすぎているように思われる」などと書いた。
むろん、歌舞伎は発生以来、変わり続けてきた。江戸期だけ見ても、変転があった。明治期の九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎の頃から古典化の道が始まり、新歌舞伎は歌舞伎に理知的な陰影を彫り込み、六代目菊五郎の世話物も時代の風を吹き込ませて新鮮だったとされる。69年の三島由紀夫作「椿説弓張月」は反時代的な観点からの変化だった。
古典化・高尚化を極めた六代目歌右衛門ら梨園の統治者が健在時に「歌舞伎を民衆の手に」と夢の実現に冷徹に向かった勇気と才能は歌舞伎史に輝く。
後続の主な試みは「視覚的効果」「未来の観客」に心を砕いている点などで通底するようだ。今、先頭を走るのは、中村勘三郎だろう。勘九郎時代の彼がまず組んだのが、演出家の串田和美だった。94年からの「コクーン歌舞伎」、仮設劇場を営む「平成中村座」。歌舞伎を現代に飛び込ませる姿勢が明確で、同時の歌舞伎の始原的姿を求める演劇活動にもなっている。
尾上菊五郎・菊之助らが演出家の蜷川幸雄と作り出したシェークスピア原作の「NINAGAWA 十二夜」は05年初演。鏡の演出、菊之助らの好演、音楽の妙味などで、そこはかとない王朝美を見せた。松本幸四郎らは、演劇としての歌舞伎を目指す歌舞伎企画集団「梨苑座」を00年に立ち上げた。
坂東玉三郎は泉鏡花原作「天主物語」などを06年、「高野聖」を08年に手がけた。台詞は現代語に近く、三味線音楽も際立たない。歌舞伎様式が溶解していく感覚。
スーパー歌舞伎は「心理主義」という当時の正統に対する、異端者による「視覚主義」の抵抗だった。


そういえば、以前、玉三郎のドキュメンタリーを観てたら(猿之助のお弟子さんにあたる)春猿と一緒に舞の稽古をしてて、「へぇ~」みたいに思った記憶があります。


で。
恐らく、この新歌舞伎っていうのがヌーベルバーグとかニューシネマとか、そういうのに当たるモノだったんでしょう。


ただ、実は猿之助一座も代替わりしてて、なんつーか、異端だったことの継承、つまり伝統化が始まっている、という。

記事中で書かれている勘三郎の次代の勘太郎も、いわゆる正統派のボンボンって感じで、端正だけど、親父が持ってる迫力みたいなのはあんまり備えてないよな、というか。(次男坊は酔って暴れたりして、そういう、エネルギーの大きさって意味では期待できるかもしれないけど)
で、そういう繰り返しの中で、色んなところに揺れたり揺り戻したり、つまり“揺れ”と、それが引き起こしてしまう“摩擦”自体もエネルギーとして進化の中に取り込んでしまう、という、ある意味で“異端”をメカニズムとして内包しているのが歌舞伎なのかな、なんて。
歌舞伎という、伝統芸能でありながら現代でも存在を誇示して(むしろ謳歌している)のは、そういう理由なのかなぁ、と。
まぁ、勝手に無理やり構図化しちゃうと、という話ですけど。



これもちょっと前なんだけど、確か蜷川幸雄が、寺島しのぶと松たか子を並べて評して、「梨園の女子として生まれ育った彼女たちには、女というだけで(家業からの)排除を被ってきた怨念みたいなものを背負っていて、その背負っているものが演技をしているなかに立ち昇ってくる」みたいなことを言ってて。
その言葉を借りるなら、そういう、女性性という新たな“異端”を内包している幸四郎・染五郎の系譜や、菊五郎・菊之助一座が今後その可能性を(恐らく、無意識のうちに)切り拓いていくのかな、なんて。
ま、勝手な想像ですけどね。



歌舞伎はねぇ。高校生のときに、課外授業かなんかで一回だけ観にいったことがあるんですよねぇ。モロに圧倒されちゃった記憶がある。
ちなみに、俺は大阪で人形浄瑠璃も観たことがあります。一回だけ。これはこれで、繊細なだけでない、なかなか重厚な世界でしたけど。



ま、全然知らない世界の話ですけど、こういう、偉大な伝統の歴史の中にも、いろいろウネリみたいなのがあった、と。そういうことですな。

2009年8月30日日曜日

小津安二郎+野田高梧/山田洋次+朝間義隆

書いていた作品が、なんとなく一段落したんで(別に書き終えたワケじゃない・・・)、小津監督の資料を探すべく、高円寺の古本屋をグルッと回ってきました。



見つけたのが、石坂昌三さんという方の「小津安二郎と茅ヶ崎館」というタイトルの本。
まだ一通りサラッと読んだだけで、小津監督と脚本家野田高梧がどんな方法論で書いていたかっていうトコまでは詳しくは書いてなかったんですが、なかに、こんな一節がありまして。



神楽坂の「和可菜」という旅館に籠もって、山田と朝間はワープロ一台を挟んで向かい合う。
山田が設定や状況を話し「こんなことは考えられないかナ」とボールを投げると、朝間がそれをキャッチして「それは不自然だよ。いまの若者はそんなことでは悩まない。後のことなど考えないで飛び出しちゃうよ」とボールを投げ返す。
2人はキャッチボール方式で、暴投があったり、脱線したりしながら、交代でワープロを打ち、ワン・シークエンスごとに仕上げて、話を進め、コンストラクションを練る。
日常見聞きしたエピソードや人物が下敷きになること、「松竹リアリズム」を守っていることは、小津の場合とそっくり同じ。シークエンスを書いた紙が、ワープロのディスプレイに代わっただけで、伝統を引き継いでいるといえる。

山田洋次監督のシナリオの執筆風景、ですね。


ポイントはやっぱり、「ワン・シークエンスごとに」ってトコなんだろうねぇ。
箱書きってことで。




ふむふむ。




もうちょっとまとめて書き残しておけるように、この本はまた再読します。




この本は、古本屋で800円だったんですが、アマゾンだと300円ぐらいみたいですね。
ま、安いっちゃ安いんだけど、やっぱり古本屋だと立ち読みできるっていうのが便利かな。この本もパラパラ立ち読みして買うって決めたからね。

ま、そういう話は別にいいっスね。


2009年8月14日金曜日

松本清張は泥道を歩いた

新聞に、松本清張を特集した連載が載ってまして。
深い話が満載で面白いんですが、そこからごくごく一部をご紹介。


とりあえず、ご本人の“独白”を。

ヒントを思いついて、それを形になりそうなアイデアに育てる。それから小説のプロットに作ってゆくのだが、「思索の愉しさ」はそこまで。あとは苦しい泥道を歩く。


「あ~、清張でもそうなんだ・・・」と。(ホントは呼び捨てしちゃいけない方なんスけどね)
あとは苦しい泥道を歩く。


連載のこの回は、松本清張には“情報源”が居た、という内容で、その情報源(の、1人?)だったという、梓林太郎さんという方がインタビューに応えてまして。

「清張さんに物語のヒントを提供しました」そう言って梓は一冊のファイルを見せてくれた。表紙に「M資料」の文字。松本のM。「清張さんはメモをよくなくしてしまうので、控えを作っていたんです」
出会いは60年。知り合いのテレビ関係者から「松本清張が会いたがっている」と言われた。「妙な話を知っている男」として梓が話題になったらしい。
(初対面後)「変わっていて面白い話はないかね」。その後、しばしば呼び出されるようになった。夜中の2時でも電話で起こされた。××省にはどんな局があるか。変わった名前の知り合いはいないか。「身勝手なんです。もうやめる、と何度も思った」。そんな日はあとで決まって「林しゃん」と優しい声で電話をかけてきた。「ほだされて、また行くわけです」

清張には大勢の取材者を抱えた工房がある、と邪推する人がいた。清張はそれを嫌った。梓とのやりとりも、若い知人との世間話を考えたかったに違いない。世間話は梓が作家デビューする80年まで続いた。

う~ん。普通にこのエピソード自体が面白い・・・。
これだけでひとつの作品になるよね。

しかし、20年間も、凄いね。この梓さんという方は、若い頃(清張に話題を提供していた頃)、企業専門の調査員をしていた、ということで。
そりゃ、いろんな話を知ってるんだろうけど。


で。
この記事の締めくくりがなかなか粋で、良かったんです。


世間話の相手もタクシーの同乗者もいない「泥道」。そこは作家の企業秘密だったのかも知れない。


うまいこと言うね、と。


記事の署名は湯瀬理佐という方。
お見事!

2009年8月5日水曜日

小津さん

最近、とんと作品を観てなくって、このブログも更新が滞ってます。


が。
決して映画のことを考えていないのではありません。

一応、作品を書いてまして、その間は自分の作品に集中しよう、と。
しかし!
その筆がさっぱり進まない、という、もう最悪の悪循環で、ただただ時間を浪費してしまう日々でして・・・。
まぁ、自己嫌悪というヤツですな。


つらいっス。



で。
土曜日の新聞に、小津さんの「東京物語」について、ロケ地(尾道)を訪ねる、みたいな記事が掲載されてまして。

その記事の中に、「小津日記」からの引用という形で、脚本の執筆風景がホンのちょっとだけ紹介されてまして。

たまには更新しないとなぁ、なんて、柄にもなく気にしてたのもあり、せっかくなんで、この“ホンのちょっとだけ”の部分のご紹介でお茶を濁そうかな、と。


「小津日記」53年2月4日に、共同脚本執筆者野田高梧と雑談のうちに「東京物語のあらましのストウリー出来る」とある。「親と子の成長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみた」と後に言う筋立ては出来たが、場面を造形していくのはこれからのことだ。
小津と野田が脚本執筆用定宿の神奈川県茅ヶ崎市は茅ヶ崎館に入ったのが2月14日、脱稿5月28日。「百三日間 酒一升瓶四十三本 食ってねつ のんでねつ ながめせしまに 金雀枝の花のさかり過ぎにけり」
酒を酌み交わしながら何だかんだとと話を練り上げていくのが野田と小津の方法である。恒星が成って原稿用紙に書き始めたのは4月8日。
その日、助監督塚本芳夫が白血病で入院、10日にあえなくなった。39歳。

この後、記事は「東京物語」には弟子筋であった助監督への追悼が込められているのだ、と続いていくんですが、そこは割愛させていただいて・・・。


「103日間、酒は一升瓶が43本。喰っちゃ寝て、飲んで寝て、眺めているうちに金雀枝(えにしだ)の花も盛りが過ぎてしまった」と。


飲み過ぎです。



「雑談から、酒を酌み交わしながら、何だかんだと会話をしながら、話を練り上げていく」と。


共同脚本システムっていったら、黒澤明監督が真っ先に語られたりしますが、小津さんは小津さんなりに、何か方法論があったんでしょうか。
2人で、どういう形で書いていったのか。
延々話しているだけでは、シナリオは完成しないワケで、どこかでシナリオの形、つまり“セリフとト書き”に落とし込んでいかないといけないワケですから。

機会があったら、調べたりしてみたいです。

野田高梧さんか。



ま、作品書き上げてからだな・・・。



苦しいよ~。

2009年7月16日木曜日

富野由悠季監督が吠える その2

富野監督が、日本外国特派員協会に招かれて講演した講演録からご紹介。

特派員協会では、色んな人が招かれてこういう形で講演をしてますよね。それこそ、宮崎駿監督もそうだし。(たしかここで、マンガ好きの麻生を「恥ずかしい」って言ったんだと思います)


で、さっそく。ちょっと長くなりますが、以下引用でっす。
オスカーをとっているスタジオジブリの宮崎駿監督のように、僕がなれなかったのはなぜか? 彼とは同年齢なのですが、「彼は作家であり、僕は作家ではなかった」。つまり、「能力の差であるということを現在になって認めざるを得ない」ということがとても悔しいことではあります。

富野さんの話には、毎度と言っていいほど宮崎さんの名前が出てくるんですが、まぁ、「意識してる」ということなのでしょう。
以前富野さんは、宮崎さんは鈴木敏夫さんという人間とチームを組んだから、オスカーを獲れるまでになったんだ、ということを言ってましたね。
その、スタジオワークについても。
今アニメーションという媒体に関しては危険な領域に入っていると思います。どういうことかと言うと、個人ワークの作品が輩出し始めていて、スタジオワークをないがしろにする傾向が今の若い世代に見えているということです。
スタジオワーク、本来集団で作るべき映画的な作業というものをないがしろにされている作品が将来的に良い方向に向かうとは思っていません。

不幸なことが1つあります。技術の問題です。デジタルワーク、つまりCGワークに偏りすぎることによって、昔、映画の世界であったスタジオワークというものが喪失し始めている。そのため、豊かな映像作品の文化を構築するようになるとは必ずしも思えないという部分があります。
ハリウッドの大作映画と言われているものがこの数年、年々つまらなくなっているのは便利すぎる映像技術があるからです。

ただ、文化的な行為ということで言えば、どのように過酷な時代であっても、逆にどんなに繁栄している時代であっても、その時代の人々はその時代に対して同調する、もしくは異議申し立てをするような表現をしたくなる衝動を持っています。
そういう意味でも、人間というのは社会的な動物であると思います。

まぁ、映像技術(というか、CG)に関しては、どんな時代にも常に“アンチ”は掲示されることになってるので、もうしばらくしたら、それはハイブリッドかもしれませんし、単なるアンチかもしれませんが、そういうモノがどこからか登場してるんだと思いますけどね。
願わくば、俺がそこに居れたらな、なんてことは思いますけど、まぁ、それは別の話ってことで。


大人を対象とする物語では、内向する物語(に、留まってしまうことが)が許されます。現実という事情の中でのすりあわせしか考えない、社会的な動物になってしまう大人にさわらないで済む物語を作ることができた、という意味ではとても幸せだったと思います。
また、大人向けを意識した時、「一過性的な物語になってしまう」という問題もあると思っています。(そうした物語から離脱できたことで)政治哲学者のハンナ・アーレントが指摘しているように、「独自に判断できる人々はごく限られた人しかいない」と痛感できる感性が育てられました。

う~ん。
子供向けだからこそ、真剣に作るのだ、みたいなことなんでしょうかねぇ。
これは、宮崎駿監督も似たようなことは言ってたかもしれない。「理屈で作っちゃダメなんだよ」とか、そんなことを。息子さんが監督した「ゲド戦記」を評して、そんなことを言っていた気がします。

物語を、敢えて破綻させるようなところまで持っていって(大風呂敷をめちゃめちゃ広げて)、それを無理やり回収していくことで“論理的”や“予定調和”や“ステレオタイプ”から脱出する、とか、そういうことなんでしょうかね。

もちろん、“定型”とも言える“構造”を利用しつつも、「子供向けなんだ」という“枷”をバネにして、構造から跳躍してなるべく遠くに着地する、と。
なんつって、ね。

言葉のアヤっスね。




今の日本では、アニメや漫画はかなりの大人までが鑑賞しているものになっています。
その風潮の中、僕のような年代が1つ嫌悪感を持っているのは、「アニメや漫画を考えることで作品が作れるとは思うな」ということです。つまり、「アニメや漫画が好きなだけで現場に入ってきた人々の作る作品というのは、どうしてもステレオタイプになる」ということです。
必ずしも現在皆さん方が目にしているようなアニメや漫画の作品が豊かだと僕は思いません。



(どういう作品がヒットするかという)問題に対して我々が回答を持っていないからこそ悪戦苦闘しているのであって、回答を持っていれば誰も何もやりませんし、勝手に暮らしていると思いますので、「成功する方法があったら教えてください」としか言えません。

僕が全体主義の言葉を持ち出した理由として、1つはっきりとした想定があります。「愚衆政治、多数決が正しいか」ということについては正しいとは言えない部分があるし、つまらない方向にいくだろうという部分もあります。
本来、ヒットするアートや作品というものは絶対に利益主義から生まれません。
固有の才能を大事にしなければいけないのに、全体主義が才能をつぶしている可能性はなきにしもあらずです。
ただ、スタジオを経営するためには『トイストーリー』を作り続けなければならない、という事情があることもよく分かる。「じゃあそこをどういう風にするか」ということについては、やってみなければ分からないから、やるしかないのです。


ちなみに、富野監督は、次回作の準備中だそうです。

2009年7月15日水曜日

「ソルジャー・ストーリー」を観る

月曜の深夜にやってる映画天国っつーので観た「ソルジャー・ストーリー」の感想です。



う~ん。いい作品でした。
この作品のことは、不覚にも知らなくって、この機会に観れてよかった、なんて思ってるんですけど、監督は「夜の大捜査線」と同じ人で、音楽を担当してるのはハービー・ハンコック。

作品のストーリーも、「夜の~」と良く似た構造を持ってるんですが、作品自体を巡る環境も、良く似てますよね。
「夜の~」は、もちろんシドニー・ポワチエですけど、こちらには、デンゼル・ワシントンがとても重要な役で出てます。
ちなみに、この作品は「夜の~」の15年後。ただし、こちらの方がかなりのローバジェットなハズです。

作品の舞台となる時代は、第二次世界大戦中、1944年。
実は「プライベートライアン」と殆ど同じ時期という時代設定ですね。



で。
ストーリーは、陸軍の黒人部隊で、ある黒人の下士官が殺されて、その事件の調査に、ワシントンから将校が派遣されてくるんだけど、その将校は実は黒人で、という。
で、その黒人将校が、事件の調査をしていく、と。
調査といっても、関係者・目撃者の聞き取りをしていくだけなんで、ほぼ安楽椅子探偵モノに近い感じ。

で、聞き取りを受けている人間が語る内容が、過去の出来事として映像で語られていく、という。
現在の時系列に、回想シーンを挿入して、ストーリーを運ぶ、という、いわゆるミステリーの正統派の手法を使いながら、しかし、徹底的に、黒人差別のさまを描写していく、と。

もうホントに、後味とかすげー悪いぐらい、その描写は徹底してるんですよねぇ。
字幕には表れてないんですけど、「ボーイ(Boy)」という言葉があって。

これは、黒人男性を白人が呼ぶ時の言葉なんですね。「ミスター」じゃなくって、「ボーイ」。
一人前の大人扱い、つまり一人の人間として相手を扱っていない、という、象徴的な言葉なんですけど、これがとにかく徹底的に使われる。
“将校”でも、黒人なら「ボーイ」、つまり“クソガキ”だ、と。


それから、ストーリーが進むにつれて、被害者の黒人下士官がどういう人物だったのか、ということが明らかになってくるんです。
その、分裂症気味な人間だった、というのが。
そして、その“症例”に追い込んだのも、人種差別という“現実”なんだ、ということも描かれていくんですね。

要するに、徹底した差別(被差別)という過酷な現実の中で、黒人として、黒人の軍人としてどう生きていくか、という対立が存在していた、ということが、少しずつ明らかになっていくんですね。
その対立は、その被害者の人格の中にも「葛藤」という形で存在していて、同時に、調査を進める黒人将校の仲にもあるモノでもあって。

まぁ、それこそが作品のテーマなんだろうけど。
その辺の話の運びは、あんまり上手だとは思わないんだけど、ちゃんと作ってあります。

これは、ただ私小説風にテーマを語っていくのとは違って、ミステリーの形を借りて、というのが生きてる部分ですね。
ミステリーでは、「葛藤」が“動機”になり、同時に共感の道具にもなってる、というのは、王道な方法論ですから。



それから、これはディテールのアレなんですが、基地の司令官の私邸を訪れたときに、その家のマダムが庭仕事をしていて、フッとマダムが退くと、その奥に“ハウスニガー”が仕事している、という、なかなかパンチの効いた画がありました。


それから、これが実は一番重要なのかもしれないんだけど、その、白人たちの、黒人を差別している側の、相手(黒人たち)を侮蔑し蔑みながら、同時に怖れている、という表情がちゃんと表現できている、という部分。
その怖れは、差別している自分たちへの負い目から生まれてくるものでもあるんだけど。
そして、その怖れこそが“憎悪”を生み、という負のスパイラルがあって。
ま、それはそれで、別のアレですけどね。

でもホントに、人種差別の描写は徹底してる、と。そういう意味ではホントに凄い作品です。
低予算だけど、という意味でも凄いと思うし。



というワケで、未見だった自分を恥じながらも、いい作品を観れて良かったなぁ、と。


そういう作品でした。

2009年7月12日日曜日

昨日の「ER」

えー、久しぶりの更新になってしまいました。


昨日(土曜日)に観た「ER」が、久しぶりにキレキレな感じで、思わずテンションが上がってしまった…。

テーマは「男と女」とか、そんな感じだと思うんですけど。

色んな「男女」が登場して、という。
イカれてるカップル(コカインとマリファナのカクテルで、家に篭ってヤリまくってる)、仕事場で対立する男と女、女同士、協力し合う女同士、プレイボーイのドクターの今の彼女と元カノ、今の彼女の妊娠が発覚、それから、敬意で繋がる男同士、みたいな感じ。


「男と女」というか、“関係性”みたいな感じなのかなぁ。個人と個人の間にあり得る色んな関係性、みたいな感じ。

う~ん。
かなりグッと来た…。



映像的にはもっと斬れ味が鋭くって、特に、奥行きを利用した画と演出を多用してて。
こういうのを、画面設計とか、画面構成とか言うんでしょうかね。

手前にメインの人物がいて、奥にまた別の人物がいて、ピンボケ(と、ピン送り)を利用した画だったり。
思わず唸ったのは、その、奥にピンボケした人がいる、という手法をさんざん繰り返した後、最後に、なんと人物の“手前”に絵葉書の写真が入り込んでくる、という“逆”を持ってくる演出。
「うわ」みたいな。「手前に来た!」という。


それから、これは冒頭に近い時間だったんだけど、「ER」らしい、登場人物もセリフもごちゃごちゃしたシークエンスがずーっと続いて、人が出たり入ったりしてるんだけど、キーとなるセリフが発せられて、カットが変わると、突然「男だけ」の画になるんですね。
この画も、奥行きが利用されてて、手前に(そのカットでは)メインの人物がいて、背後に(そのカットでは)“その他大勢”の男たちがいて、という感じに。
それまでは、男も女もたくさんいて、わいわい言い合いながら進行してて(カットの数も多い)、それが突然、男だけのショットになる、という。

これは良かった。



う~ん。



ちなみに、来週の「ER」は、カーター先生がダルフールで、というエピソードらしい。
話がデカい。

ガラントはイラクに居るワケだし。

イラク、アフリカ紛争、シカゴの底辺に生きる男女。
まぁ、色んなモノを内包しているドラマなのだ、と。

ま、作品として、それが良いか悪いかっつーのは、さておき。


その、製作者サイドの志という範疇のアレですよね。
まぁ、そこは買いたいな、と。



いや。
幸せな1時間でした。

2009年6月18日木曜日

CSI「誰も知らない存在」を観る

CSIシーズン6の、「誰も知らない存在」というエピソードを観る。


重厚な内容で、面白かった。

CSIの“無印”は、舞台がラスベガスってことも関係してると思うんだけど、人間が本来抱えている闇、というか、物凄いスケールの小さな“悪意”とか“弱み”とか“醜さ”とか、そういう部分がフレームアップされたエピソードが多い気がするんですね。

「NY」は、ニューヨークという世界一の大都市に飲み込まれちゃったりだとか、踏み潰されちゃったとか、あとは、上流階級と貧困層、とか、都市ならではの犯罪とか動機だとかが描かれてて、もちろんそっちも大好きなんですけど、ラスベガスのシリーズとは、ちょっとテイストが違ってて。

「マイアミ」は、これはまた全然違う雰囲気で、“楽園”のダークサイド、というか、麻薬シンジケートという巨大な敵である犯罪組織との戦いが描かれたりして、それはそれで、という感じで。


で。
今回のエピソード、原題は「Werewolves」という、これは、狼男のことですね。
さらに、複数形になってることもポイント。


事件は、ある匿名の通報電話があり、小さな家で、体毛が異常に濃い男性の死体が発見される、と。
それはなんと、銀製の弾丸で撃たれていた、という。

オープニングは、ホラーみたいなタッチで始まるんですね。電話ボックスで話している通報者の姿を映すんですけど、ちょっと怖い感じで。

で、被害者は、遺伝性の多毛症という病気だった、ということが説明されて、彼の周辺の人物の捜査が行われて、同時に、通報があった電話ボックスが発見されて、鑑識捜査もそこであって。
で、そこからも、体毛が発見されて。

被害者には、双子の妹がいる、ということが分かるんですね(これが、複数形の意味)。

被害者宅をもう一度捜索すると、なんと、リビングの一番奥の壁の向こうに、隠し部屋を発見するんです。女性捜査官(鑑識官?)が。
隠し部屋の中には、全身毛で覆われている、妹が居て。
彼女は、兄が殺された瞬間もそこにいて、殺されたあとも、ずっとその中に潜んでいたんです。

彼女は、その外見(狼男のように体毛で覆われている)から、ずっと部屋に閉じこもって生きてきてる、という設定で。
で、彼女は殺された被害者とは、双子の兄妹なワケですけど、当然、両親に付いても語られて。

父親は、双子が生まれてからすぐに、彼らを捨てて家を出て行ってしまい、母親はある時、交通事故にあった、という嘘をついて、家を出て行く。
残された兄妹は、2人だけで生きてきたんだけど、妹は、その存在を周囲にも知られてなかったんですね。多毛症の症状が比較的軽い兄は、ワリと日常生活を普通に営んできたんだけど、ずっと妹を家の中に匿ってて。

で、結局犯人は、被害者の婚約者の兄、という人物で、彼は、被害者の“親友”でもあって。
彼が自分の妹を被害者に紹介した、ということになってて。

しかし、その彼が、自分で“銀の弾丸”を自作して、それで“親友”の胸を撃った、と。


ポイントは、女性の捜査官が2人登場してくるんですけど、彼女たちは2人とも、見事な金髪なんですね。
これは、敢えて、キャストの中の、金髪の2人をシナリオ上でピックアップして並べてるんです。(黒髪の女性捜査官もいるんですけど、彼女は今回はあまり活躍しません)
妹との対比で。

そして、被害者の婚約者、というのも、同じような、きれいなブロンズで。


そういう諸々の仕掛けが、妹の悲劇性を高めている、という。

で、捜査によって、母親は居場所が明かされ、事情が説明される。
そしてラストで、一度は捨てた妹のもとに、母親がやってくるんですね。



う~ん、と。

長々とストーリーを説明してしまいましたが。



なんつーか…。


導入は、オカルチックな雰囲気なんですよ。
で、中盤は、いつもの“科学捜査班”で、いわゆる“科学捜査”が行われる。狼男のような外見も、「それは遺伝性の病気である」という説明がなされて、それで、最初のオカルト・ホラーテイストが否定されて。

で、終盤で、“動機”や背景が説明されて、人間の悪意や弱さや身勝手さや、そういうモノが殺人を生んだのだ、みたいな謎解きがあって。
ここでは、科学的・合理的な“理屈”が、人間の“情念”みたいなのを暴く、みたいになってるんですね。
同時に、これはシリーズに通低するテーマなんだけど、 “理屈”はしかし、“情念”みたいなのを止めることは出来ない、という。暴いたり、対抗したりは出来るんだけど、人を動かすこと自体は、“理屈”(論理)では出来ない。

基本的に、この「出来ない」という部分のほろ苦さが、作品の奥行きになってるんですけど、ここでは、最後に母親が帰ってくるんです。
つまり、ここで人間性の回復が描かれている。

そこは、捜査官たちには関係ない部分で、母親の自発的に、自らの罪を悔い、過ちを回復しようとしている、ということが語られていて。


これは、なかなかないですよねぇ。
非常に優れたシナリオじゃないかな、と。

そう思ったんです。



いかがでしょうか?

2009年6月17日水曜日

「ママの遺したラヴソング」を観る

「バリ・シネ」で、スカーレット・ヨハンソンとジョン・トラボルタが主演の、「ママの遺したラヴソング」を観る。


書き忘れてた感想です。


実は、観ててあんまり面白い作品じゃなかったんですよね。
個人的には、すげー嫌いなタイプの作品。

だけど、ラス前の「実は、2人は~」というのが判明してからの、2人の会話のシーンがすげー良くって、「あ、いいかも」という感じで。


彼女は、母親の存在やその愛を知らずに育って、まぁ、それで“不良”になっちゃった、という役を演じてるんですね。18歳とか、そういう年齢の役。まだ高校生で。

で、ラス前の2人の会話で、彼女はその欠落感を埋めることになるんですが、その会話の感じが、すげー良かった、と。
“幼い頃の記憶”とか、そういうキーワードで。

「母親に愛されていた自分」の記憶、というのを、自分で色々作ってた(想像していた)、という。
そういう“寂しさ”を分かってくれ、と。
だけど、その“捏造した記憶#”も、まるっきり虚構でもなくって、初めてのクラスメートとのデートでライブハウスに行ったときに、チラッと、似たような記憶が浮かび上がってきたりして。


この、「アイデンティティー」は記憶によって構築されているのだ、というのは、実は個人的に、結構気に入ってる題材でもあって(逆に、よく使われる題材でもあるんですけどね)。

で、ま、18歳の女の子が発する言葉としては、かなりのリアリティーがある、というか、彼女なりの必死に叫びなんだろうな、という、説得力を感じたワケです。

あのセリフは、なかなか書けません。



それから、もう一つ気になったのは、河の堤防を使ったショットですね。
この作品の舞台は、多分、カトリーナで沈没しちゃったのと同じ地帯なんです。
そういう背景がこっちにあるので、その、堤防の近くに住むホワイト・トラッシュたち、というのには、結構リアリティーを感じたんですけど、それはさておき。

堤防の手前の風景を撮る時に、堤防越しに、河を進む船の煙突が見えてたりするんですね。
これは結構面白くって。
土手の上を歩くショットもあるんですけど、そのショットでは、河の対岸に、大きな工場とかが映ってるんですね。
で、土手を、降りてくると、そういうのが見えなくなる。
見えなくなって、そこには、酔っ払いたちが車座になって歌を歌ったりしている場所(キャンピングカーのトレーラーみたいなの)があって。
そこが「掃き溜め」である、ということが、まぁ、意図的ではないのかもしれないんですけど、なにげに描かれてたりして。

河を進む船がある、というのは、「そこには働いている人がいる」という表現としてもあり得るワケですよね。
それを、昼間から飲んだくれている人たちとを、同時に描写する、みたいな。

ま、そんな意図はなかったかもしれませんけどね。



あ、それから、この作品でも、トラボルタは踊ってます。
ただし、その後に、かなりキツいシーンがあって、そこでもセリフは、切れ味があって良かった。


そう考えると、セリフの良さを味わう作品なのかもしれませんね。

作品自体は、すげー低予算なんですけど、でも、セリフには、そんなこと関係ないですからね。



というワケで、そういう作品でした、と。


2009年6月11日木曜日

なんかグッときたので

新聞に、トルコ出身の(クラシック畑の)ピアニストだという、ファジル・サイさんという方のインタビューが載ってまして。

まぁ、映画とはあんまり関係のない内容かもしれませんが、なんか、なんとなくグッときたので、ご紹介。


クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人任せになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない
ハイドンのピアノ曲は、演奏技術的にはとても簡単で、8歳の子どもでも、何曲かは演奏できる。しかし、内面から演奏するには、とてもたくさんの人生の経験、感情といったものがないと難しい。3,4分で映画のサウンドトラックのように「物語」を作らないといけない。
自らの「内なる声」を取り出し、楽器に伝えるというのが、作曲でも演奏でも、音楽のとるべき方向なのだ。クラシックのピアニストの大半は今日、そうした方向性を持っていない。ジャズピアニストのキース・ジャレットを例に出せば、彼のピアノの音にどれだけの感情がこもっていることか。まるで「歌っている」ようだ。音楽の内面が演奏されているから、彼のピアノは人間の声のように聞こえる。
ベートーベンやモーツァルトでさえも、即興的な作曲家だった。シューマンは、毎日のように即興演奏を自分の生徒に聴かせていた。彼らは当時、キース・ジャレットのように(自分の曲を)演奏したはずだ。

作曲は常に「進化」しなければならない、という観念がある。
80年代から90年代、自分が10代から20代の頃、多くの若い作曲家たちは、自問自答する形で「次は何だ」と考えた。
ある意味、(作曲の)技術的な発展という意味では「歴史の終わり」だったのだ。
作曲とは「湧き出るものを取り出す」作業だ。技術的発展がエモーションの高まりを伴わないのならば、それは音楽ではないと思う。


「技術的な発展に、エモーションが伴ってなければ、それは音楽ではないと思う」と。


う~ん。

グッときた感じ。


エモーションね。
この人は、「エモーションの高まり」こそが「内なる声」であり、「個性」だ、ということみたいだけど。


にゃるほどねぇ。
いい言葉だ。

2009年6月5日金曜日

「逃亡地帯」を観る

またしても午後のロードショーで(今週は全部観ちった!)、アーサー・ペン監督の「逃亡地帯」を観る。 いやぁ、傑作。 これはぶっちゃけ、DVDを買いたいです。手元に置いておいて、また観直したい。 群像劇ってことで、主演はネームバリューから言ってマーロン・ブランドってことだと思うんですけど、逃亡犯役のロバート・レッドフォードも輝きを放ってるし、ジェーン・フォンダも出てるし、ということで、いま観ると何気にオールスターって感じ。 この作品は1966年に公開、ということで、アーサー師は翌年に、“ボニーとクライド”の逃避行劇「俺たちに明日はない」を、レッドフォードは3年後に、マーロン・ブランドではなくポール・ニューマンと組んで「明日に向かって撃て」で、国外逃亡を果たす、という。 (ちなみに、ジェーンの弟のピーターの「イージー・ライダー」も、この3年後の作品) 個人的には、「俺たちに~」と対になってる作品なのかなぁ、という感じ。 ボニーとクライドという、逃亡犯を描くのが「俺たちに~」なワケですが、この作品では、その逃亡犯側の内面(というか、動機とか個人史というか、要するに、キャラクターを深く掘り下げて描く、ということ)が殆ど語られてなくって、いわゆる“状況証拠”だけ、という感じで。 「ツイてなかったんだよ。俺の人生は」ってことぐらいしか本人も語りませんし。 この作品は、レッドフォードの脱獄犯が目指すホームタウン(故郷の小さな町)に、まるで遠隔操作のように引きこしてしまう“波風”を描いていて、ま、裏表になってる、ということですね。 で。作品の年代史的なポジションの話はこのくらいにして、作品本体の感想を。 まず、レッドフォードがひたすら逃げる姿と、それとは全然オーバーラップしないで、彼をのちに“迎え入れる”町の様子を描く、前半部分が凄い。 この町の様子っていうのが結構エグくて、退廃的なカントリータウン、という感じで、まぁ、現代性がある、と言うと言い方が変ですが、要するに“人間は全然変わってない”ってことなんですけど、そんな気持ちにもさせるエグ味があります。 まぁ、その、後世に語りかける、というのはアーサー師の意図するところではなくって、これは、逃げ続ける(ちなみに、ここでは直接的な追っ手の姿は描写されません。なので、レッドフォードは“見えない敵”から逃げているように見えます)レッドフォードの姿との対比が行われている、と。 退廃的な、自己満足的な、閉塞的な、そして閉鎖的な、町の様子と、その町の“アッパークラス”の生活用の様子、そしてアッパークラスの生活に嫉妬する“その下の階層”の愚痴も描かれ、そこにさらに、人種差別も描かれていて。 要するに、腐り切ってるワケですね。 で、脱獄犯のニュースによって、その“腐ってる部分”が炙り出されてくる、という。 この感じは、ホントにキケン。 銀行に美人の奥さんがやってきて、それは旦那が銀行に勤めてるからなんだけど、実は旦那の同僚と堂々と不倫してる関係でもあって、なんていうか、そういう“薄汚さ”というか、“腐ってる人間”を描く、と。真正面から。 ジェーン・フォンダには恋人がいて、彼は地元で一番の富豪で名士(銀行の頭取でもあるんだけど)のジュニアで、後継者として育てられているんだけど、彼にも妻がいて。 その妻とは、“契約を結んでいる”上っ面の仮面夫婦で、そういうことに気付いてないのは、親父の富豪だけで、とか。 その中に、保安官として、マーロン・ブランドがいるんですね。 アメリカの司法機関の中で、この保安官制度っていうのは少し面白くって(というより、日本にはない独特のシステムで)、要するに、かなり独立した存在だ、ということなんですね。 “自分の城”を構えている感じ。 あまり「組織の人間」ってことを感じさせない存在にしてて、で、それがこの作品では欠かせない要素になってて。 つまり、極めてインディペンデントな存在として描かれている。 また、マーロン・ブランドがハマってるんですよね。これが。 堂々と黒人を庇う、とか、自分なりの“正義”の論理、倫理観、基準でもって、脱獄犯とも向かい合おうとする、とか、そういう人物。 しかもその結果、いわゆる“町の人間”たちに私刑(リンチ)をくらったりしてしまう、という。 このエグ味! デヴィッド・フィンチャーとかブライアン・シンガーとかにリメイクして欲しいっス。現代に置き換えて。 全然成立しちゃうでしょう。 人間の暗部なんて、全然変わってないのだ、ということで。 そして、衝撃のラスト。 これはホントにびっくり。 あ、あと、セリフがクールだったなぁ。 「店に戻って、ウィスキーをもっと飲んで、他人の女房と寝ろよ」 「今言ったことですよ。あなたは恩恵を押し付けて、感謝されることを強要している」 「俺が真実とか正義とかいうやつを信じてると思うのか」 などなど。 もちろん、訳語の関係もあるんでしょうけどね。 うん。 是非とも、もう一度観たい作品です。 

2009年6月2日火曜日

「スーパーコップ90」を観る

午後のロードショーで(最近こればっかりだな…)、「スーパーコップ90」を観る。

タイトルからして、B級どころかC級以下な雰囲気が満点ですが、こういうのを日常的に消費できるのも、午後のロードショーのいいトコで。
最近、午後のロードショーばっかりですが。


この作品は、結構面白かった。
原題は「Rainbow Drive」ってことで、これは通りの名前ですね。「マルホランド・ドライブ」とおんなじ。
舞台はLA。

なんていうか、エルロイみたいだな、と。
エルロイの短編に出てきそうな話です。年代が全然違うんだけど。


ちなみに、調べたら原作はロデリック・ソープという人で、この人はなんと、「ダイ・ハード」の原作を書いてる人らしい。


主人公は刑事(殺人課)で、恋人(旦那持ち)との情事の間に、妙な感じで殺人事件に巻き込まれて、という冒頭からして、もういかにもエルロイっぽいし。


警察組織の、腐敗しているトップ周辺(もちろん、そういう場合、組織全体も半分以上腐ってるワケですが)、裏家業に手を染めている地元の企業化(つまり、半分マフィア)。
で、この両者が繋がってて。

で。組織の末端の1人である主人公は、真相を探ろうと動き始めるんだけど、当然、組織のトップ周辺から圧力がかかる。
主人公の同僚たちは、“上からの圧力”を理由に、「俺だって気持ちは同じだけど、だけど…」という具合。
その中で、事情を知っていた、親友でもあった同僚が殺されてしまい、その復讐という、新しい動機が掲示されて…。

その同僚の奥さんに会いに行く、同僚の家の前のシーンは、結構クールでしたね。
ワンカットの画なんですけど。
家の前の道路の歩道から、玄関に向かって歩いていって、呼び鈴を鳴らして(ノックだったかな?)、寝巻き姿の奥さんが出てくるんだけど、それは、自分の旦那が帰ってきたと思って玄関に出てくるんですね。
だけど、そこに立ってるのは、自分の旦那じゃなくって、その同僚で。
で、何も言わないで、そこに同僚が悲しい顔をして立ってるだけで、奥さんは自分の旦那が死んでしまったことを悟るワケです。
ここは、良かった。

で、その同僚は、過去に“事情”を知ってしまった為に、ある筋から札束を受け取っているんですね。
で、その札束が、ガレージに丸まる手付かずで残してあって。
それは、その同僚の、カネを受け取っていいものかどうか、という「良心の呵責」のことなワケで。
そのカネをどうするか、という、奥さんと主人公の会話も、グッとくる感じで。
この奥さんは、この2シーンだけしか出てこないんですけど。でも、それだけで、しっかりと、主人公に“動機”を与えてるワケです。
この辺は、巧い。


で、その同僚と親しかった、黒人の、もう1人の同僚っていうが出てきて。
この、仲間との心の交わし方の描き方っていうのは、エルロイとは全然違いますね。

まぁ、そんなこんなで、身内の警察組織と地元の犯罪組織を相手に、主人公が孤独に戦う、と。

ラストも良くって、FBIが居た、というオチで、この、司法組織同士の対立がある、というのもエルロイっぽい。
冒頭の事件の、市警本部と分署の殺人課との縄張り争いもそうだし、FBIとかDEAなんかの捜査と、主人公が果たそうとする“私刑”との目的の対立があって。


あ、あと、この時代の作品で、「留守番電話」が凄い出て来るんだよねぇ。
多分、この時代のハイテクってことだと思うんだけど。
盗聴器とか。

今だと携帯とかメールとか、そんな感覚なんでしょう、きっと。


それから、主人公の刑事役の俳優さんは、スリムでシャープで、カッコいいです。
「CSI:マイアミ」のカルーソさんも出てます。若い。



というワケで、こういうB級作品は、大好きですな。

2009年5月30日土曜日

「英雄の条件」を観る

午後のロードショーで、「英雄の条件」を観る。
書き忘れてた感想です。


個人的にこの作品は大好きで、ま、何度も観てるんですが、今日は感想として、この作品の「構造」について。

法廷モノっていうのは、その“ジャンル”があるぐらいなんで、映画という表現との相性が良い、ということだと思うんですけど、それは、ストーリーテリングの手法としての「論理性」と、法廷での審理を進めるにあたっての実際の手順の「論理性」というのが、上手く合致しているから、だと思うんですね。

で、この作品では、そこに「軍隊」という要素が加えられて。
俺は、アメリカ軍のことしか知らないんですが(もちろん、こういうジャンルの映画や小説やノンフィクションから仕入れた知識ばかりなので、間接的な知識ではありますが)、「軍隊」というのは、社会の基本的な要素を、そのまま自給自足する組織なワケですね。警察も、軍隊の中に「自分たちの警察」を持ってますし、医師も、「自分たちの医師」を育てるシステムを持ってますし、法廷も、同じなワケです。
軍事法廷の場合、検事(原告)も軍人、弁護人の軍人、被告も軍人、裁判官も軍人。そして、陪審員も軍人。

で。
この作品では、「国家」「軍人としての個人」「1人の人間としての個人」という、幾つかの階層が「構造」としてあるんですね。正確には、「国務省」「軍」「軍人として」「1人の人間として」という階層。

国務省に所属している大統領補佐官が、「国家」の層を表していて、被告(サミュエル・L・ジャクソン)に罪を被せようとする。
同じく「国家」に属しているはずの、被告に命を救われ、本来なら被告に有利な証言をすべきである大使は、「1人の人間」がもつ卑しさにつけこまれ、「国家」に有利な立場に“逃亡”する。
「軍」の層には、ここが一番微妙なんだけど、被告の心情的な味方になる、被告の上官と、もうひとりとても大事な役回りを演じる、検事役の男、というのがいて。そして当然、被告。

で。
主人公は、「1人の人間」としての苦悩も抱えているんですね。父へのコンプレックス、自分のキャリアへのコンプレックス、息子との関係、それらを比喩的に示す、アルコール依存症というトピック。

で、そういうのが全部、入れ子状になってる。
この、入れ子状になってる「構造」の巧さと、その使い方、運び方。

例えば、ラスト前に、補佐官に、「個人的な報復」を告げにいくワケです。つまり、階層を「1人の人間」がブチ抜いている。
この前で、老父と(小生意気な)息子に最終陳述を褒められて、「1人の人間」としての“葛藤”を超えているのと加えて、観る側は、ある種のカタルシスを感じるワケですよね。ここで。
「構造」が、ここで閉じている。
閉じた上で、被告が無罪、という、ストーリー上の大命題の回収があり、ストーリー自体も閉じる。

それから、この作品は当然、主演の二大スターの作品として語られるワケですけど、もう1人とても重要な役どころがあって、それは、ガイ・ピアーズの検事なんですね。
ともかくこの人の表情と立ち姿っていうのが、画面に緊張感を与えているワケです。
で、この人の、法廷での微妙な反応とかを、カットアップで上手に見せていく。
隠蔽されたビデオテープを巡って、補佐官が、自分に責任を負わせようとしているかのような発言に、鋭く反応する、とか。
大御所2人と法廷で対峙するには、それなりの存在感がないといけないワケですけど、その役目をしっかりと果たしていて。
ま、いいですよね。


それから、ベトナム戦争から中東での騒乱、という、シチュエーションの立て方も、まぁ、いかにも「好戦的なアメリカ」というか、「仮想的を作らずにはいられないハリウッド」というのを、作品自体の中で(結果的に)批評的に示唆してもいて。
結末として、ベトナム人のかつての仇敵と、敬礼を交し合う、というシーンがあるんですね。これはホントに微妙なショットで、「構造」的に言えば「軍」ではなく「軍人」同士として、「1人の人間」同士として理解し合えた、ということになるんだけど、かといって、もっと大事な、そもそもの“中東での問題”が全然解決してない、ということにもなってて。
特に赤十字の医師の描き方っていうのが、ね。
あまり良くないですよね。

彼らの“動機”をちゃんと描かない、というのは、ま、この手の作品の常套手段ではあるんですけどね。
敵方の指導者の姿を描かない、とか、語らせない、というのは。

ま、それも含めての「構造」ですから。

えぇ。
いい作品だと思います。

2009年5月15日金曜日

「麦の穂をゆらす風」を観る

名手ケン・ローチの、カンヌでパルム・ドールを獲った名作「麦の穂をゆらす風」を観る。


まぁ、名作ですよね。
大英帝国の支配下にあったアイルランド、という題材は、アメリカ映画でも何度も語られていて、なんだか知らない間にずいぶん詳しくなったりしてて。
ま、そういう、「歴史を未来に伝えていく」みたいなことも、映画の力なんだなぁ、と。
ちょっとしみじみしちゃったりして。

ただ、ケン・ローチは“モノホン”ですからね。
エネルギーが違いますから。
画やストーリーは、アイルランドの“雄大な自然”とか、そういうのもあって、淡々と、とか、静かに、とか、そういう形容詞で語られたりするんでしょうけど、まぁ、たぎってるエネルギーが違いますよ。
ケン・ローチの魂がパンパンに込められた作品だと思います。ホントに。


ストーリーの骨格は、医師の道を捨てて「義勇軍」(当然、支配者のイギリス側にとってはテロリスト、ですね)に参加する主人公の目線で語られるんですが、その置き所が絶妙、というか。
最初は、「一緒には闘わない」と語らせておいて、駅のホームでの出来事が、彼の気持ちを変えるんですね。
で、わずかワンカットで、義勇軍に加わる、ということになって。

この時の、イギリス軍の兵士に殴打される運転手が、あとに“同志”として再登場するんですね。

この「元運転手」が、効いてるんです。
主人公の兄は、義勇軍の指導的な立場にいて、過去から現在まで、ずっと主人公に対して影響を与えてきた人物として描かれるんですが、やがて兄弟は対立する、というのがストーリーなワケです。

で、その元運転手は、主人公に対して「もう一人の兄」として現れるワケですね。


ストーリーの中で、少し唐突に、栄養失調で、というシークエンスが挿入されるんです。
ここは、物凄いさりげないシーンなんですけど、まさにここが作品のキモでもあって。

つまり、戦いの、というか、主人公が闘いに加わる動機というのは、「貧困」なワケですね。
これは、後から加わってくる動機でもあるんです。
主人公の動機ということとは別に、観る側(観客)に対して、アイルランド側の戦争の動機のひとつに「貧困」というモノがあるんだ、と。
この語り口の巧さには、よくよく考えれば考えるほど、凄みを感じる、というか。

つまりそこが、ストーリーの後半で語られる、「独立戦争」から「同胞同士の内戦」へシフトしていくキーなワケです。
「独立すればいい」のか、「貧困が解消されなければならない」のか。ここに対立がある。
そしてそこにこそ、この作品が語る悲劇性があって。

最初から語らない、と。
ここがねぇ。
かといって、前半部分に高揚感を持たせるとか、そういう演出でもなくって。
雇い主の圧力で、半ば仕方なく密告した幼馴染を“粛清”したり、とか。十分“苦い”ワケです。前半部分で描かれているモノも。

しかし、後半では、もっと苦い!


で、例えば、この前半部分でもひとつの映画になるワケですね。同じように後半部分でも、ひとつのストーリーとしてあり得る。
しかし、その両方は、この作品では同時に描かれなくてはならない。
限られた時間。
その為の、ストーリーを運んでいく手捌きの、スピード感、というか。決してセカセカした演出やカット割りではないんだけど、しかし、話の運び自体は結構なスピード感で。
かといって、語り切れてないシークエンスがあるかっていうと、そういう不十分感は全然なうくって。
要するに、無駄が無い、ということだ思うんですけど。

そういう巧さは、改めて感じました。

例えば、イギリス軍の士官が下士官に命令を下し、下士官が兵卒に「手を下す」よう命令し、そして次のカットでは、その兵卒が主人公たちの側に寝返って、と。
これをほんの数カットでサラッと見せられると、なんていうか、逆に強い説得力を感じたりして。


それから、同じ家が何度も“蹂躙”されるんですね。
ここは、ホントに唸りましたね。冒頭と、中盤、そして三度目は、「同胞たち」によって。
ここの「何度も匿ってやったのに」という老母の吐くセリフは、マジで強烈です。



「麦の穂をゆらす風」ですか…。
「麦」っていうのは、地に足を付けて生きている、アイルランドの生活者たちのことですよね。
で、「風」っていうのは、大英帝国のことではなく、「戦乱」そのもののこと。

「戦乱」が、地道に生きようとしている彼らを揺らしてしまう、と。
そこに悲劇がある、という。そういうタイトルだと思います。俺は。



うん。
まぁ、観る人によって色々受け取るモノが違ってくる作品でもあるかもしれませんね。
だからこそ名作なのかもしれないし。
人によって解釈が色々あるのは、ある意味では当然っちゃ当然なんで。

そういう意味でも、ぜひぜひ、たくさんの人に観て欲しい作品です。



ちなみに、実は俺は、ケン・ローチの作品はあんまり観た事がないんですが、観た作品の中に、「大地と自由」という、これまた物凄い傑作がありまして。
スペイン内戦を題材にした作品なんですが、これも個人的には大好きで、お薦めの作品です。

この「麦の穂をゆらす風」の、後半部分でもひとつの映画としてあり得る、というのは、この作品のことでもあります。興味がある方は、「大地と自由」もぜひどうぞ。


2009年5月13日水曜日

「カラーズ」を観る

ショーン・ペン主演(ということが一応看板になっている)、デニス・ホッパー監督の「カラーズ 天使の消えた街」を観る。 久しぶりに、「カラーズ」を。 一応説明しておくと、「colors」(原題もこれ)っていうのは、“カラーギャング”のことですね。 「池袋ウェストゲートパーク」でも、そういうのが描かれましたけど、この作品は初めて“カラーギャング”を題材にした作品、なんてことも言われてて。 ま、そういう、一部ではカルティックな受け止め方をされている作品ですね。 主演がショーン・ペンとロバート・デュバルで、例えばDVDのジャケットなんかにもそういうのがウリだってことになってますが、正確には、彼らは“狂言回し”に過ぎなくって、実際は、LAという街の“現実”の悲劇性を描く、という作品です。 ちなみに、邦題の副題である「天使の~」っつーのは、「Los Angels」の“エンジェル”のことですね。「天使の街」っていう名前の都市なのに、そこに「天使」なんかいない、という、一応ちゃんと意味のある副題なんですけど、逆に安っぽくなってるのが残念。 いい作品なんですけど。 ま、感想は今さら、という気がしますが、なんせ久しぶりに観たので、それはそれで結構新鮮に観れちゃいました。 あ、あと、クレジットで気づいたのが、撮影監督がハスケル・ウェクスラー(ウィキペディアの当該項目はこちら) 個人的に一番気に入ってるショットは、高層ビル群を背景に、カメラがパンダウンしてくるとそこにはスラムが広がっていて、そこをギャングたちが歩いている、という、まぁ、かなり“イメージ重視”のショットですね。 この画は、その強さゆえに、かなりの量のエピゴーネンを生み出してます。(ま、意図が極めて分かりやすい、というショットでもあるので) それから、ひとつ大事なポイントとしては、登場人物たちが刑務所(留置所)に収監されているシークエンスが描かれるんですが、その、刑務所こそが一番の情報が流通する場なのだ、ということですね。情報交換の場だし、犯罪者同士が出会って交流する場でもある、という部分。 ノワール系の作品においては結構大事なディテールだよな、と。 暴力の連鎖、という、そしてその“暴力”を生み出しているのは、貧困と差別と、そこから生まれてきてしまう絶望なのだ、という、まぁ、21世紀の現代でもまったく普遍性を(残念ながら)失っていない、重いテーマを扱った傑作です。 

2009年5月10日日曜日

「スモーキン・エース」を観る

一応、ベン・アフレックが主演ってことになってる(個人的には、主演はアリシア・キーズ)、「スモーキン・エース」を観る。


いやぁ。
傑作。

こんな面白い作品だなんて、全然そんな話なかったんですけど。(というか、今でも評判はあまりよくないっぽい)
いいでしょ。大好きです。
個人的には、「ユージュアル・サスペクツ」以来かも。


まず。
アリシア・キーズが殺人的に美しい!
このことを、まず書いておかないと、という感じです。マジで。
殺人的に美しい。

アリシアが娼婦(を装った殺し屋)を演じる、というだけで、心臓バクバクしますけど。


それから、ディテールを幾つか。
そのアリシアが登場するシークエンスで、彼女は殺し屋なワケですが、そのスタイルがいい。女の2人組なんだけど(相棒は「ハッスル&フロウ」に出てたクシャクシャ顔の女優さん)、アリシアが娼婦に化けて潜入してターゲットに接触して、もう一人が離れた所で巨大なライフル(ロケット弾みたいなヤツ)を構えている、という、このアイデアがクール。
前衛のアリシアと、後衛の相棒。で、そのライフルのスコープを使って、というシークエンスは結構グッと来ました。無線で話してるんだけど、スコープ(照準の十字マーク付き)でアリシあの姿を見ながら、という。
しかも相棒はレズビアンで、アリシアに惚れてて、と。
この関係性は、ライフルで離れた所からバックアップする、という相棒に対して、“動機”の奥行きを作ってるんですね。
うっかりしたら、この関係性だけで作品を一本作れるぐらいのアレですから。
ま、アリシアの美貌(と、胸。あと脚。もちろん目元と唇も。というか、全部)ありきで、ですけど。


もう一つは、ターゲットとなる男の経歴。マジシャンなんだけど、ショービズからマフィアに転身してしまう、という男。
この設定は、はっきり言って面白いですよ。そういう“裏の世界”に多少なりとも憧れを抱いている人って、ショービズの世界に限らず、いるハズだし、しかもラストに明かされる「出生の秘密」とも、実は繋がっている設定だったりするから。
実は作中ではあまり語られないんだけど、これは「父と息子」の物語だったりするワケですよね。ただの“軽い男”じゃないワケです。ターゲットの男は。私生児(違うか? 少なくとも、シングルマザーの子)として育ち、マジシャンとして成功を果たした後に、父親の住む世界(マフィアの世界)に足を踏み入れていく、という、それはそれで、ちゃんと語ろうと思えば語り得るストーリーがそこにあって。(ちなみに、作品中ではホントに全然語られてないんですけどね。もったいない)



で。

最も注目しないといけないのは、その「構造」。
ストーリー上の「構造」ではなく(もちろん、それとも関係してくるんだけど)、ストーリー上に設けられている物理的な「構造」です。

上手く説明出来るか分かりませんが、とりあえず言えることは、「密室」を幾つも作るワケです。
ホテルのスイートルーム、エレベーターの中、警備室、と。
ホテルのエントランスフロアも、広がりがある空間とは描かれなくって、凄く狭い空間として描かれてて。
ワシントンの会議室も“密室“であると言えばそう言えるし、例えば、マフィアが寝ている寝室みたいなの(後に、病室)も、“密室”と言えるし。

で。
特にホテルでは、スイートルームという、水平方向に広がった空間と、エレベーターという、垂直方向に繋がった空間が交わってるワケですね。
銃撃戦は、上下の2つのフロア(と、スイートルーム)で起きて、そこを、エレベーターという空間が接続している。
時間軸が多少無視されていて、そこを演出上の弱点と認識しちゃう人もいるかもしれませんが、個人的には、そんなことはどうでもよくって。
この、物理的な「密室空間」を幾つも設ける、という感覚が、とりあえず、凄い。

そこに、物凄い人数の人間が投入されるんですけど、ある者は死に、ある者は助かり、間一髪で逃亡し、逃亡しかけて殺されたり、と。
この混沌の感じもいいですね。投げっぱなしの感じも、個人的には大好きです。



特に、2つのフロア(ペントハウスと7階)で同時に銃撃戦が始まる瞬間は、ホントにクール。
こんなシークエンスを作れる(撮れる)なんて、監督冥利に尽きるんじゃないんでしょうか。



しかし、コモンはおいしいね。
役柄も凄いクールだし(コモンは声が良くって、それがシリアスな会話のシーンにマッチしてて、雰囲気を作ってる)、ラストにアリシアを連れて、ということだし。
エスコート・ヒーロー。
良いです。


それから、“ホテル”で言うと、舞台となるホテルのすぐ目の前に建っているもう一つのホテル、というのがあるんですね。
最初、この存在が妙で、普通ホテルの窓の外っていうのは、湖がバーンと広がって、その景色の美しさもウリです、みたいなアレになってると思うんだけど、そうじゃなくって、もう一つホテルが建ってるワケです。
で、それを最初っからちゃんと映していて。
スイートルーム(最上階)と、他の階の部屋だと、階の高さが違うから、窓の外の景色も違ってくる、みたいな演出があって、それだけだと思ったんですけど、そうじゃないワケですね。そちらのホテルから、アリシアの相棒が狙っていて、ということになってて。
この設定は、実は結構大事だったりするワケですよね。
うん。



いや、でもやっぱり、「密室」かなぁ。面白いのは。
上手に説明出来ないんだけど。



大勢いる登場人物の“キャラ立ち”については、正直ピンと来ませんでした。
「男塾」みてーだな、とは思ったんですけど、だからどうした、という結末ですから。
あんま関係ないっスね。



ストーリーの運びは、色んなラインが交錯する、という、いわば群像劇のスタイルで進んでいくんですが、それぞれが上手にシンクロしてる感じがして、ここも好感。
例えばガイ・リッチーは、個人的にはその“シンクロしてる感”が欠けている、という風に感じてて。
こういう話の運び方は、とても気持ちいい。
前半のかったるい流れは、後半部分の一気にドライヴしていくアクションパートの布石にもなってて。
音楽は物凄いダサいですけどね。


あ、それから、ディテールとしては、ラストの病院のシークエンスにひとつ注目ポイントがあって、その病院に入っていくカットで、隅の方に映ってる警官の演技が凄い良かった。
返り血を浴びたままの(FBI捜査官の)主人公格の男が病院に入っていくんですけど、そこで、フッと動くんですね。制服警官が。
その演技は、ホントに自然で、作品全体でもとても重要なシークエンスの導入になってるこのショットで、凄い“いい仕事”をしてるな、と。



もう一回観ちゃうかも…。



そんな作品でした。

子供は観ちゃダメだけどね。



あと、演出的な「感情のライン」はぐちゃぐちゃです。そういうのを致命的な欠点と感じちゃう人には、お薦め出来ない作品ですね。
世間的な評価の低さっていうのは、その辺りに原因があるのでしょう。きっと。
個人的には、この作品に関しては、そういうのはあんまり関係ないっス。

うん。


傑作。


2009年5月8日金曜日

「ラッキーナンバー7」を観る

昨日観た作品とはうって変わって、スター揃い踏みな「ラッキーナンバー7」を観る。

ま、ジョシュ・ハートネット(主演)がめちゃめちゃカッコいいな、と。そういう作品ですね。

作品としては、あんまり面白くなかった。



なんつーか、体温が低いんですよねぇ。
それは、ハードボイルドとして定義される“クール”とは、ちょっと違う感じで。
もちろん、作り手側は、そういうのを狙ってるとは思うんですけど。

うん。
ハードボイルド、フィルムノワール、そういう“ジャンル”の新機軸、ということなんだとは思うんですけどね。
でも、イマイチ。
もっとテンションが高くないと。

ストーリー中に、主人公の正体と動機が明かされるんですけど、全然驚きとか無いし。
これ、どういう風に語ったら一番効果的なんでしょうかねぇ。

例えば、ヒットマンが、全然関係ない男を殺すんですけど、そこで、その殺しの意味を語るんですね。
この“語り”は、定番というか、お約束なんですけど、これをもう一回やる、とかね。
“息子”を殺すときに、もう一度語らせる、とか。むしろ、そこだけにして、そこで正体を明かす、とか。


ヒロインとの関係も全然面白くないし。
「こういう無機質な感じがクールなんでしょ?」みたいな雰囲気なんですよねぇ。作り手の。
それが全部スベってる気がするんだよなぁ。


唯一気になったのが、編集のタイミングの奇妙な感じ。
この間は、実は大好きです。

あと、壁紙が妙にポップで、それは良かった。
逆にそこが気になってしょうがない、というのもあるけど。
特に廊下を歩くシーンは、編集の間が独特なのと、壁紙が雰囲気を作ってるのもあって、ポイント高いです。(でも、それだけかも)


監督は、ポール・マクギガンという人。
どっかで聞いたことある名前だな、と思ってたら、「ギャングスター・ナンバー1」という作品(イギリス産)の監督でした。
実は、この作品は大好きなんですけど。



う~ん。
なんだろう。
やっぱ“テンション”が低い。
この間ここに書いた、坂本龍一の「映像の力が弱い所に音楽を入れればいい」という言葉を思い出しちゃったんですよね。
もっとグルーヴ感の強いサントラを被せて、そのリズムを使ってぐいぐいドライヴさせたら、もっと雰囲気が変わったんじゃないかと思います。
「ギャングスター・ナンバー1」は、確かもっとテンションが高い作品だった気がするし。

実は、最後の、ストーリーのエンディングとエンドロールに流れる曲っていうのがあって、これが凄い良くって、「えー?」って感じで。
なんてもったいないんだ、と。
「これ使え」というか、「この雰囲気でぐいぐい行けよ」という感じ。






ちなみに、その曲はこちら。なるべく大きな音量で聴いて下さい。





まぁ、これだけのキャストを揃えておきながら、なんとももったいない作品だな、と。曲も含めて。
そういう作品でした。

編集の“間”は、勉強させてもらいましたけどね。


2009年5月7日木曜日

「ブラックサイト」を観る

「ブラックサイト」を観る。 ま、ノースターなサスペンス作品なんですが、インターネットを題材にしてる、ということで、公開は去年なんですが、なんとなくアンテナには引っ掛かってた作品ではあったので。 結論から言うと、テーマは実は、そんなに先鋭的ではなかったですね。 単に、インターネット(ウェブ)を、「社会に対する復讐」のツールとして使う、ということだったので。 個人的には、「単なるツール」ということであれば、“先鋭的”だとは思わないので。 が。 実は、だからダメ、というワケでもなく、面白い作品ではありました。 ディテールが面白かったんですよね。 まず、題材が題材だけに、PCのモニターの中の映像、というのが頻出するワケですが、この「モニターの枠」というのがキモになってるんですね。 「窓枠」をチラ見せしてくるんです。ワリとしつこく。 家の外から、窓越しに家の中の様子が見えるんですが、それは、その「窓枠」が「モニターの枠」を暗示してる、という。 つまり「見られてますよ」ということを、ワリと早い段階から言っちゃってるんです。 で、その通りの展開になったりして。 “その通りの展開”っていうのは、実は何度も繰り返されてて、それはどうかと思うんですけど、ま、監督さんの意図なんでしょうね。 「空撮」が多用されてて、それが実は、犯人の動機と関係があったり、とか。 俺は、もう少し違う意味があるのかなぁ、なんて思ってたんですけど、ちょっと違いましたね。 あと、芝刈り機。 二度目に出てきた瞬間に分かっちゃいましたからねぇ。 一度目は、明らかに不自然な使い方だったんで、「?」って感じだったんですけど、それも伏線でした。 ま、その「すぐに分かっちゃう」っていうのも、ひょっとしたら演出の意図通りなのかもしれませんが。「あー、早く分かれよ」ってキャラクターにヤキモキさせられちゃう、とか。 それから、不思議なのは、第三者というか、作中では“共犯”とされている、その他諸々の人たちの映像がまったく出てこないんですね。(スケーターがモバイル機器で、というショットだけ) これは不思議。モニターの中の、カウンターの数値だけで表現されてて。 「姿は見えないけど、確かに存在している」とか、そういうアレなんでしょうか? ちょっとぐらいあってもいい気がしますが。 ただ、警察(FBI)の会議室の光景はちょっと奇妙で、出席者の全員が、ただモニターを見ているだけ、という画なんです。他に何にもしてない。(会議室で捜査活動は出来ないですから) ただ殺される過程を口を開けて見ているだけ、という、ある意味一番残酷なショットが、何度も繰り返されるこの会議室のショットで。 予算の都合なんか、何かのメタファーなのかなぁ、なんて。ちょっと考えちゃいました。「無力な官僚的な捜査官たち」とか、そんななのかなぁ、とか。 で、サスペンス部分は面白いんですけど、動機が、ねぇ。 「テレビと警察」に対する犯行、ということなら、これは面白くもなんともないっス。 これだと、ウェブは、何なるツールですからね。 古典的な誘拐犯が、“電話”で身代金を要求してくる、というのと同じですから。誘拐行為に車を使って、それを乗り換える、とか、そういうのを同じ扱いですからねぇ。 そういうことじゃないと思うんですよね。 犯行も、捜査官たちも、フィールドが妙にローカルだし(何度も「ポートランド」という地名が強調される)。 ま、その辺の“期待”は裏切られた、ということで。 それはそれで、しょうがないっス。 ということで、サスペンスとしては普通に面白い、佳作という感じでしょうか。 でも、最近ならこのくらいは、それこそCSIとか、テレビドラマでもやっちゃってるからねぇ。 “映画”ですから。 もうちょっと、ね。何かあっても良かったんじゃないかな、とは思います。 

2009年5月3日日曜日

「アトランティスのこころ」を観る

TBSのダイヤモンドシアターで、アンソニー・ホプキンス主演の「アトランティスのこころ」を観る。


最初は知らなかったんですが、オープニング・クレジットに「原作 スティーヴン・キング」と出てまして。
で、見始めてすぐに、「なるほど」と。

中年にさしかかっている主人公の男が、友人の死の知らせを受け、自分の過去を振り返る、と。
まさに「スタンド・バイ・ミー」の世界なんですね。
焼き直しと言ったら言葉は悪いですが、しかし、「スタンド・バイ・ミー」で描かれている情景こそが、スティーブン・キングの「作家のテーマ」なワケで。

それを、手を変え品を変えて語っていくのだ、と。

ま、いい作品ですよ。

主演がアンソニー・ホプキンス、主人公の中年時代を演じるのがデヴィッド・モース、監督が「シャイン」のスコット・ヒックス、それで原作がスティーヴン・キングですからね。
そりゃ、いいに決まってます。



テーマはずばり、「“子供”を捨て、大人に変わっていく」という、ここが「スタンド・バイ・ミー」と一緒なトコですね。
いわゆる成長譚なんですが、その舞台が、日常風景の、ホンの少し外側にある、というのが、S・キングらしいんですけど。
しかも、季節は「夏」。ここがミソ。

ラストに、中年になった主人公が自分の故郷を訪れるんですが、この時の季節が冬で、ここは対比をちゃんとしよう、と。
廃墟になった家屋の絵面って、結構インパクトあるし。


「スタンド・バイ・ミー」では、若くして亡くなった兄との永遠に続く対比に苦悩する主人公が登場しますが、この作品でも、やたらグラマーで我儘で、息子には(愛情は注いでいるものの)薄情な母親、という存在が設定され、その母親に対して“自己主張”をぶつける、という、つまり反抗期にさしかかる瞬間、というのが描かれるワケですね。

毎日が楽しくて楽しくて、そんな日が永遠に続くと思ってて、周囲を疑うことも知らずにいた、ある年(主人公が11歳の年で、この年齢は作中では強調されて出てきます)の夏休み。

その夏の間に色々あって、そして町を出て行く、と。
そういう物語ですね。


ポイントは、やっぱりラスト。“ガールフレンド”の娘、というのが登場するんですが、彼女が、見るからにやさぐれてるワケです。そんな彼女に、かつて自分が飲み屋(兼、非合法ノミ屋)の女将にしてもらったように、親の若い頃の写真を差し出す、と。
このシーンは、ホントにグッと来る。
無関心そうに去って行きそうだった娘が、立ち止まって、写真を受け取ろうと手を差し出す、という。


この監督さんは、名作「シャイン」でも、父との葛藤を抱えた主人公を描いてますが、その辺りはこの作品とも共通項があるので、ひょっとしたら、それは監督自身のテーマでもあるのかもしれませんね。


子供から大人へ。
それは、何かを失うことなんだ、ということですね。キングに言わせると。
そして、人生は水が流れるように流れていってしまうものなんだ、と。「いつまでも子供のままで」なんて無理なことだし、抗うことは出来ないし、だからこそ、“追憶”は常に切ない感情とともにあるのだし、それは語る価値のあることなんだ、と。
そういうことっスかねぇ。


ちょっと感傷的すぎるかな…。


ただまぁ、自分も、生まれ育った“箱庭”のような環境から外へ出て行った人間なんで。
そういう年齢になってきてるっていうのもあるし。

どうしても、ね。感傷的にはなっちゃいますよ。どうしても。


えぇ。



そういうワケで、多分“超”がつく程の低予算作品だと思うんですけど、グッとくる良作だと思いました。


2009年4月30日木曜日

「作家性」の獲得、あるいは脱却

毎週月曜の新聞の紙面には、短歌・俳句のページというのが掲載されていて、その中に歌人や俳人の方々のコラムが掲載されてるんですね。
で、毎週毎週、かなり刺激的な「表現論」が交わされている、ということに、実はワリと最近気付きまして。


今日は、「文学地図の中の短歌」というタイトルの、田中槐さんという方のコラムをご紹介。

『文藝』2009年夏号が穂村弘特集を組んでいる。
この特集で読み応えがあるのは、なんといっても谷川俊太郎との対談だ。穂村弘は『短歌研究』(という雑誌)の対談記事において、短歌の魅力が一般の読者に伝わらないことへの焦りを語っていたが、穂村弘はここで、人気のない詩や短歌の中で例外的に読まれ続けている谷川俊太郎にその理由を問う。
谷川俊太郎の答えは明解で、結局それは出自を含め個人の資質の問題、と。(穂村弘を含め)読者は絶望する。しかしこの対談には重要な示唆があった。谷川俊太郎は「詩にメッセージはない」と言い切る。キーツの「詩人というのはノンセルフだ」という言葉から、「自分が希薄だからこそ、いろんな声を借りて書くことができる」と語る。
それは、穂村弘の感じている「言葉とその背後の現実が結びついているという読者の認識」に対する嫌悪感にもつながっていて、とかく「私性の文学」と呼ばれてしまう短歌からどうやって「私」を引き剥がすかという問題にもつながっていく。
短歌作品の背後に作者の「顔」が見えることをプラスの評価と捉える傾向はあいかわらず大きい。短歌の中の「私」がイコール作者自身でないことはようやく受け入れられつつはあるが、小説家が嘘つきであるくらい歌人も嘘つきであると、私たちはもっと大きな声で言うべきなのではないか。
穂村弘が願うような、短歌にいつまでも「共感(シンパシー)」だけでなく「驚異(ワンダー)」を感じてもらえるための一歩は、案外そんなところから始まるのかもしれない。

う~ん。



なるほど、と。


その“規模”から、映画とは真逆の場所に存在する(かのように見える)短歌(と、いわゆる“詩”)の世界ですが、そこにはそこの、なんていうか、“私”に関する問題が横たわっているんだな、と。


“リアル”から離れていこう、ということですよね。

「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」というのは、例えば大作(巨作だっけ?)主義を推進したハリウッド・スタジオに対するアンチテーゼとして出現したアメリカン・ニューシネマ、あるいは、肥大化した(プログレッシブ化した)ロックのような音楽に対するアンチテーゼとして誕生したパンクロック、というのとは、完全に逆向きなベクトルなワケですよね。

「ワンダー」の獲得に走り過ぎて、失われてしまった「シンパシー」を取り戻せ、という運動だったワケですから。



例えば、ニューシネマの文脈から、スピルバーグに代表される“大作”監督たちが再び出てきたのは、それは「シンパシー」から「ワンダー」にまた移行していこう、ということだと思うんですけど。


なんていうか、映画の場合、“映画”という「ある規模のビジネス」の中にいかに「作家性」を獲得していくか、観る側は逆に、商品として提供される作品の中にいかに「作家性」を見い出して(発見して)いくか、ということが語られるワケですけど。


「メッセージはない」か。
谷川俊太郎が、ねぇ。
言うんですね。こういうことを。

それでいて、あの輝きを持っているワケですからね。谷川さんの紡ぎだす言葉には。





というワケで、なかなか悩ませてくれる「表現論」でした。

2009年4月28日火曜日

「秘密のかけら」を観る

月曜映画の後番組な映画天国(ヒドいネーミングだけどね)で、アトム・エゴヤン監督の「秘密のかけら」を観る。 お色気シーンが結構盛り込まれてて、R指定なのは間違いないんですが、ま、いい作品でした。 ケビン・ベーコンともう一人の役者(上手い人でした)が、コンビを組んでいた往年のスターたちを演じていて、彼らの“過去”を、野心を抱いた若い(そして、すげー美人な)女性ジャーナリストが追いかけていく、というミステリー。 舞台は70年代で、そこからさらに15年前に遡る、という語り口になってて、まずその辺を違和感なく見せるのが上手だな、と。 そこがグラついちゃうと、もうグダグダになっちゃうワケで。 ただ、いかにも“現代美人”な顔つきのヒロインを、あまり昔っぽくしないで映してて。 加減なのかな、とも思ったんだけど、まぁ、ヒロインはカワイかったですね。そんなに濃いキャラクターではないんだけどね。 でも、“過去の事件”を、ジャーナリストを狂言回しにして語っていく、というのは、ある意味では常套手段なワケで、その役目を果たさせる為には、いいキャスティングだな、と。 で。 面白かったのは、掘り起こしていく“過去”について、語り手が2人いる、というトコ。ヒロインと、ケビン・ベーコンが、それぞれ語っていく、という。 「回線」が2つある、ということで、これは面白かったです。 で、2つの回線でストーリーが進んでいきながら、ラス前で、なんと映画のセットの書き割りの前で(!)真相が語られる、という。 これは、はっきり言って「火曜サスペンス」みたいなベタベタなメタファーでもあるんですが、70年代です、という空気感がそうさせているのか、あまり違和感がなかったりして。 それから、そのラス前だけじゃなくって、全編に渡って、映像にちゃんとヒントがある、という点。 最近のサスペンスは、要するに全部隠しちゃって、「実は影で~」という謎解きが多いと思うんだけど、この作品では、ワリと丁寧に、ひとつひとつちゃんと映像にしていきながら話が進んでいくんですね。 話の運びでも、妙に偶然が多かったりするんだけど、それも同じで、敢えて違和感を感じさせている、というか。 そういう違和感を、ひとつひとつ丁寧に回収しながら、過去を掘り起こしていく、と。 そういう“話法”なためか、なんか最後のところの「すげービックリ!」という感じのカタルシスはないんですが、ま、腑に落ちるというか、妙にスッキリしたエンディングで、これも好感。 特に「真実は伏せておきたい」という部分ですね。娘さんのことで、これ以上傷つけたくない、と。 このラストの爽やかさは、素敵です。 あ、でも、振り返ると、オープニングの緊張感が満ちたショットの、その緊張感の理由が明かされた時は、ちょっと「お!」と思ったかも。 だいたい、こういうキャスティングの時のケビン・ベーコンは必ず犯人って決まってるので、そこはちょっとズルいかもねぇ。 ま、でも、丁寧な造りの、良作ですな。 ヒロインのノーブラな存在感も、凄い良いし。 子供にはダメですけどね。 

2009年4月27日月曜日

教授が掴んだ映画音楽論

新聞に、「教授」こと坂本龍一さんのインタビューが載ってまして。
大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」の音楽を担当した時のエピソード。

(YMO散開の)その少し前に大島渚監督から、映画「戦場のメリークリスマス」に役者として出てみないかと声をかけられました。こんな演技素人の僕が役者をと驚きながらも、次の瞬間には「音楽もやらせてください」と言っていたのです。映画音楽なんて一度も手がけたことがないのに、なぜか出来そうな自信があった。若さゆえだったのでしょう。
でもどうやって作ったらいいのかまったく分からず、撮影で親しくなったプロデューサーのジェレミー・トーマスに参考になる映画を聞くと、「市民ケーン」と言われました。そこで早速、映像と音楽の関係を徹底して分析したのです。僕が出した答えはシンプルで、映像の力が弱い所に音楽を入れればいいということ
曲を作ってからどの音楽をどの場面に入れるかのリストを作り、大島監督と突き合わせをしたらなんと99%一致していて、これですっかり自身がつきました。


最近、全然別の記事で、幻冬社の見城徹さんが「若い頃の坂本龍一は凄いワガママだったけど、尾崎豊はもっと凄かった」みたいなことを語ってて、印象に残ってて。「めちゃくちゃ振り回された。でもそれに付き合うのが編集者の仕事」みたいな内容で。
で、このインタビューでは、その坂本龍一に無茶を言って振り回すベルナルド・ベルトリッチ(「ラストエンペラー」の監督さん)とのエピソードが語られるんですが、ま、さの話はここでは置いといて。



「映像の力の弱い所に音楽を入れればいい」と。

これはなかなか興味深い分析だなぁ、と。


ひょっとしたら、映像を作る側が意識していない「映像の弱さ」というのを感知してるのかもしれませんね。音楽を作る側の人間である、教授が。

逆に言うと、監督が「ここは音楽を使って観る側に働きかける」というのがあるのかもしれませんね。それを「映像の力の弱さ」と解釈してるのか。


スピルバーグは「作品を、音を消して観て、それでも面白かったらいい映画だ」みたいなことを語ってましたが。
それは「映像の力」の強さ/弱さと、なにか関係してるのかもしれません。


そうか~。



そういう風に考えたことはなかったな…。


ということは、まず映像は映像だけで構築していって、その後に音楽を付け加える、と。「力」を付け足すように…。


あ、でもそれって、普通のことなのか…。



ある講義では「ディレクターが自分で音楽を選ぶと、自己満足的なことに陥ってしまうから、よくない」なんていう鋭い言葉も聴いたことがあります。(受講ノートを確認しておかないとね。ちょっとウロ覚えだから)


別の講義では「撮影前に、自分で(実際に使用できるかどうかは別にして)サウンドトラックを作っておく」なんていう言葉も聴いたことがあるし。



映画音楽。


難しいにゃぁ~。


2009年4月21日火曜日

「ハッスル&フロウ」を観る

ノースターかと思いきや、実はかなり豪華キャストな、「ハッスル&フロウ」を観る。

エンドクレジットでプロデューサーにジョン・シングルトンの名前を見つけて、ちょっとビックリ。
もちろん、納得ではあるんだけどね。
ちょっと、久しぶりだな、なんて。


で。
作品ですが。
思ったより“名作”だな、と。

「8mile」の成功に続いて製作された、ということだと思うんだけど、いわゆるヒップホップ・ムーヴィーというジャンルの中でも、徹底的にハードなシチュエーションを描く、という。
ま、フッド・ムーヴィーというヤツですね。


印象的だったのが、やっぱり、娼婦たちの語る独白ですよねぇ。
職業の貴賎はない、という建前はともかく、やはり“最底辺”の人間ではある彼女たちの、「これじゃない何か」を求める叫び、というのは、凄い良かった。

それから、主人公の惨めな生活を描写していくシークエンスで、ピンプ(ポン引き、というヤツです)の主人公に対して「自分でやりな」と。
結果的に、「自分の才能で稼ぐ」という方向に人生の舵を切るワケですね。
この辺の話の運びは、凄い上手いです。


こういう、低予算で作られた、“アンダーグラウンド”な世界を扱う作品でも、こういう“話の運び”という部分では、ハリウッド・メソッドというか、きっちりツボを抑えたストーリーテリングをしていく、という、ま、アメリカならではとも言えるんですが、上手だな、と。


それからやっぱり、黒人だけの物語にしていないトコも、奥行きを与えていますよね。ホワイト・トラッシュという、ま、娼婦と、ミュージシャンの白人と。

黒人も、ワリと中流な暮らしをしている女房持ちのミュージシャンが出てきたり。




あとは、舞台の設定。
NYやLAといった大都市じゃなく(ちなみに、「8mile」の舞台はデトロイト)、南部の中都市メンフィスの、しかもすげー田舎の町が舞台で。
つまり主人公は「カントリー・ピンプ」。文字通り、アメリカ社会の掃き溜めを描く、という。
換気扇だったり、クーラーすらない車だったり。貧乏人相手の売春稼業だったり(モーテル代すら払えない)。
そういう町での、惨めな暮らし。
そして、ストーリーの最後でホンの少しだけ提示される希望。
そして、この希望の描き方も上手い。本人は塀の中で臭い飯を喰ってるにも関わらず、そこの看守たちから、デモテープを“託される”という。
この、立場の逆転劇、というは、要するに「気持ちの持ち方なんだ」ということを最後に掲げているワケですよね。


う~ん。

でも、この作品の良さって、そういうトコじゃないんだよなぁ~。


あまり派手なことをしてないんですよ。
それが良い。
クラブでステージに上がって観客を盛り上げる、とか、そういうのがない。
低予算っていうのもあるんだろうけど、でも、そういう演出に頼らない、という背骨みたいなのも感じるし。
銃撃戦とか、ないしね。性的な描写で売る、というのでもないし。


あとは、ミュージシャンとしての「生みの苦しみ」みたいなシークエンスも、凄い良かったです。
くちゃくちゃの顔をした奥さんを連れてきて、歌わせたりして。
その、共同作業自体が、彼らをポジティヴにしていくのだ、という。
そこに夢があるから、というだけじゃないですよね。共同で作業する、という行為自体が物凄い創造的行為で、創造的な行為は、人間を人間的たらしめる、というか。
それは、売春稼業に身をやつしている彼らにとっては、人間性の回復(あるいは、獲得)ということでもあって。


うん。
とにかく、いい作品でした。



そして、低予算っぷりは、勉強にもなったし。
そういう作品でした。
個人的には、名作ですね。



2009年4月20日月曜日

「クロッカーズ」を観る

スパイク・リー監督、マーティン・スコセッシ製作の「クロッカーズ」を観る。

久しぶりにスパイク・リー作品を、ということで、「クロッカーズ」を。


15年近く前の作品なんですけど、久しぶりに観て、前とは違う印象があったりして、ワリと新鮮でしたね。
それは、主人公の兄のモノローグ。

彼は、家族を養い、作品の舞台である“プロジェクト”から脱出するために、仕事を掛け持ちまでして、コツコツ真面目に働いているんだけど、「もう疲れた」と言うんですね。
「誰かが報いを受けるべきだ」と。


なんつーか、今の日本の時世にハマってて、説得力を感じてしまって。


こういうことだよな、と。


あとは、凄い低予算で作ろうとしてて、その工夫みたいなのが分かったりして。勉強になった気がします。


ま、名作というか、今さら改めてどうこうっていうブツでもないので、この辺で。


2009年4月19日日曜日

「Mr.& Mrs. スミス」を観る

ブラピとアンジェリーナ・ジョリーの「Mr.&Mrs. スミス」を観る。


いやいや、面白い作品でした。

同じくブラピが出てる「オーシャンズ11」を観たときに、「あぁ、これはルパンⅢ世だね」という解釈を勝手にしてしまったんですが、この作品も同じ。

不二子ちゃんがA・ジョリーで、ブラピがルパン。

で、下手すると馬鹿馬鹿しすぎてしょーもないことを、本気になってカネをかけまくって、こういう風に形にしてしまう、と。
そしたら面白いぞ、と。

ま、面白いは面白いんですけど、よくまぁこんな企画を通したな、なんて。


一応、“性差”ってことをこれでもかと強調する、という“奥行き”も作られてるんですけどね。
キッチンとガレージ、とか。
字幕にはなってなかったんだけど、軽いジョーク(ダジャレ)を挟んでたり。

あと、「白兵戦」で殴り合ってるシークエンスで、妙な音楽が併せられてて、それによってそれが“行為”の“擬似”であることが暗喩されてたり。


あ、それから、最初のショット。
ブラピは明らかに「ファイトクラブ」だし、A・ジョリーは「トゥームレイダー」チックなシチュエーションだし。
う~ん。
そういう“くすぐり”をひとつひとつ素直に喜んでいく、という作品なのかなぁ。

面白いですけどね。

ラス前のカーチェイスシーンも、クールだし。



で、まぁ、こうなるとオチなんでどうでもいいですよね。
だって、2人は結婚(ん? してないんだっけ?)して子供作ってんだからね。
そういう、虚実ないまぜなアレが一番の魅力になってる、という、これはこれでトンでもない作品だと俺は思います。