2009年12月31日木曜日

「美しい人」を観る

“年忘れロードショー”で、「美しい人」を観る。


この作品、詳細を全然知らなかったんですが、いい作品ですね。

というか、個人的に凄い好きな作品。こういうの好きっス。


監督は、ロドリゴ・ガルシアという人。
実はガブリエル・ガルシア=マルケスの息子さんなんだそうです。知りませんでした。
それから、ウィキペディアの当該項目によると、「フォールームス」の撮影監督もしてるってことらしい。

で。
この「美しい人」は、オムニバス作品ということで、そうですね。「フォールームス」もそうでした。
テイストは全然違いますけど。


原題は「Nine Lives」。“九つの命”ってことで、「猫は9個の命を持ってる」っていう諺みたいなのが英語圏にはありますけど、恐らくそこから来てるのでしょう。
最終章には、そういうセリフを出てきますので。


で。
ここがポイントなんですが、それぞれの章は、それぞれがすべてワンカットで撮られているんです。ステディカムでずっと移動しながら。
全然事前情報を知らないまま観始めたので、最初の刑務所内のシークエンスでぶっ飛びまして。
「ヤバい」と。


主人公はどの章でも女性で、しかも、いわゆる“普通に暮らす人たち”という設定。

それぞれの、人生(Lifeの複数形のLives)ですね。9人の女性の。


それぞれのシークエンスは、緩やかに繋がっていて、ある章で脇役だった人が他の章でメインだったり、その逆もあったり、という風になってるんですが、あまりその手の「パズルを解く」的な楽しみを見出すような作品ではありません。
ただ、その“お互いに緩やかに繋がっている”という部分も、「知らない隣人にもそれぞれの人生があるのだ」みたいな、演出面の要請に沿っているんだとは思いますが。


まぁ、とにかく、リアリズムが良いですよねぇ。派手なトピックは一切なし。
ただただ、言葉の連なりと応酬である“会話”と、関係性の過去と現在を示す“間”、あとは役者陣の表情。それだけ、という。

ステディカムや照明の具合、そもそものワンカットという手法という、技術的な側面からリアリズムを立ち上がらせる、という部分は、勉強になります。
クロースアップの、どのくらいまで寄るのか、とか、そういう部分も。

普通にカットを重ねていく、という撮り方でも、同じようなリアリズムを構築することは可能なんでしょうけど、そういう、スタイル面での個性とは別の部分で、緊張感というか、やっぱり“間”ということになると思うんですけど、そういう時間と空間とを映画の中に作り出すことに成功している。

やっぱり、観ちゃいますから。


特に、最初のシークエンスで、「この作品はこういうスタイルなんです」という、ある種の“宣言”がされている気がするんです。
作り手の。
受け手は、そこで「なるほど」と。そういうことなんですね、という“了承”があって、という。
そこで、観る側の頭の中の回路みたいなのが少し変わりますからね。

カメラに背中を向けて歩いていく人物がいる場合、普通はカットが変わって正面の表情を捉えるワケですが、この作品ではそういうことはなく、その背中を観るしかない。
つまり、“背中の演技”を観る。
その“間”。

そういう“間”が決してダレ場ではない、というのは、ホントにシナリオや演技力・存在感の勝利だと思うんですが、まぁ、そういうのを堪能する作品だ、と。
堪能というか、没入する、というか。

良いです。



個人的に一番好きなのは、スーパーマーケットの中でかつての恋人同士が再会する、という章。
お互いに引きずる気持ちを抱えながら、しかし拒絶する、という、筋立てもそうですが、とにかく会話のセリフが良いです。ホントに。
そしてその章とは裏返しのような内容の、葬儀場を舞台にした章も、好きです。

というか、全部いいかな。


そして、最終章。
老いた女性と女の子が墓地にお墓参りにやってくる、という。
「祖母と孫か?」と思いきや、実は「母と娘」で、「ん?」と。
この歳の差は妙だぞ、と思いつつ、演出でもなんか妙だな、と思いつつ、最後にブドウのひと房を墓石に載せる、というたった一つのアクションで「実は・・・」という。


う~ん。

九つの命。九つの人生。


素晴らしい!


2009年12月30日水曜日

「リーピング」を観る

テレビ東京の“年忘れロードショー”で、ヒラリー・スワンク主演の「リーピング」を観る。

“リーピング”のスペルは「reaping」ってことで、RじゃなくLだと「leap」はジャンプするとか跳躍するって意味になりますが(タイムトラベル系でよく使われる言葉ですかね。タイムリーピングなんつって)、ここではRですから、違います。
「reap」は、「刈り取る」という意味だそうで(知りませんでした。受験英語なんて、もう15年前か…)。

ちなみに、つい昨日読んだ「バットマン・イヤーツー」には「ザ・リーパー」という敵キャラが登場しますが、同じスペルで、同じ意味でした。
ずばり“鎌”の暗示、ということです。この作品でも、そういう使い方。


で。
まぁ、ヒラリー・スワンクの存在感と美しさがとにかく際立って素晴らしい、と。そういう作品ですね。
美しさ、知的であること、強さ、その強さに奥行きを与えている脆さ、美しく知的でなおかつ強さを持つことの悲しさ・哀しさ、そんな諸々を、表情のクロースアップだけで一度に表現できてしまう、という。
稀有な存在感だと思います。
好きです。

ストーリーは、その彼女が“研究者”として登場する、と。
最初は、どこかの教会で、かなりミステリアスなオープニングなんですが、その“謎”を鮮やかに解明しつつ、場面は大学での講義にトレースしていく、という、イントロダクションはかなり印象的。巧いです。

で、話が進むにつれて、ストーリーの進行と平行して、彼女の過去とか経歴とかが少しずつ明かされて、という。
元宣教師、という過去ですね。
女性の場合は、神父とか牧師とかっていう言葉は使わないんでしょうか?
プロテスタントかカトリックか、というのも、自分の理解の範囲内ではちょっと定かではなかったんですが…。
シスターってことなんスかねぇ?

とにかく、彼女はかつて、家族を持ち、聖職者として、アフリカへ赴き、そこで悲劇的な体験をして、そこで信仰を捨てる、と。
その過去を吐露するシークエンスで「神を恨んだら、初めて良く寝れた」というセリフが。このセリフはかなりのパンチライン。
ヒラリー・スワンクが言うと、またこれが良いです。

信仰を捨てた彼女の立場というのは、要するに“奇跡”なんかないんだ、ということですね。科学的に解明しちゃうんだ、と。


そこに、南部の田舎の町から、ある事件を調査して欲しいという依頼があって、その依頼者と共にその町に赴く、という筋立て。

面白かったです。
突飛と言えば突飛な設定なんですが、結構上手に語られている、というか、スッと入っていけるので。

その「スッと入っていける」というのは、主人公の立場が独特だから、ですね。「彼女がどう説明するのか」という所に観る側の視点が置かれるので、いわゆる“神秘的な事象”が「どういう仕組みのウソなんだ?」という気持ちでストーリーに入っていく、と。観る側が。


ネタバレをしてしまうと、結果的に、作中ではマジで“奇跡”みたいなことが起きていて、その“神秘的体験”を経て、主人公である彼女は、あっさり「私は間違っていた」って言ってしまうんですが。

作中では、傷が治るとか死者が生き返るといった“奇跡”ではなく、ネガティブな“災い”が起きるので、ちょっとややこしいんですが。


主人公の視点からは、「ホントに“災い”なんか起きるのか?」というポイントと、もう一つ、「事件の謎解き」という、2つのポイントがあるワケですね。
“災い”なんか起きるワケがない、ということならば、誰かが人為的に起こしている事象であり、犯行なワケで。


で、話が進むにつれて、「どうやらモノホンの“災い”じゃねーか?」と。
ここで、彼女の内面に葛藤が生まれる。

「神なんか(つまり、その逆の存在である悪魔も)いない」という立場も、ある種の“信仰”なワケです。
その“信仰”が揺らいでくる。

その過程で、彼女がキリスト教の信仰を捨てた理由が回想され、同時に、苦しめる、と。
「神なんかいない」と信じることで、かつて自分の身に降りかかった不条理な悲劇を乗り越えたのに、事件の全容が明らかになるにつれて、「神はいるのかもしれない」という疑問が生まれてきてしまう。

そういう葛藤を抱えながら、事件の調査を進めていく、という。



で。
ここからがかなりややこしいんですが、その町で起きているのは、「出エジプト記」に書かれている「十の災い」の再現だ、と。
「十の災い」というのは、文字通り、数々の“災い”がその地に起きてしまう、というもの。
ポイントは、神が、という部分なんですね。神がその“災い”をその地に(エジプトに)起こした、という部分。
“災い”っていうと、悪魔が起こすっていうイメージですけど、そうじゃないワケです。神による“奇跡”が“災い”という形になって現れている。


この辺が、キリスト教的な教養の薄い俺としては、ちょっと理解しにくい部分だったんですが、まぁ、分かればなるほどな、ということで。


ここが、実はストーリーの“どんでん返し”的な部分に関わってるんです。



ネタバレですが…。
“災い”という形で起きている“奇跡”というのは、ある1人の少女が原因となっている、と。
で、そもそもの依頼は、「その少女が疑われているから、どうにかして欲しいんだ」ということでもあるワケなんですね。「科学的に解明できれば、その少女への疑いも晴れるだろうから」と。

ところが、それはマジもんの“奇跡”だった、と。

ところが(ここがミソ)、なんとその町は、町の住民全体が悪魔崇拝者だった、という筋書きだったんです。
その悪魔崇拝者たちを懲らしめるための“災い”だった、という(多分)。

少女≒モーセ、というアレだったんですね。
あるいは、出エジプト期をなぞると、少女≒ユダヤ人。
で、主人公のヒラリー・スワンクが、モーセ。

海がバカッと開いて海底を歩いていく、という、「十戒」のアレは「出エジプト記」ですから、ずばり、あのモーセです。


これですねぇ。
ひょっとすると、分かる人はすぐに分かってしまう構造だと思うんです。“災い”は神のもたらしたものであり、ユダヤ人のメタファーとして、その“災い”から救い出される人こそが、云々。


ただし、俺はそこが最後まで良く分からず、結果的に「なるほど!」という、妙なカタルシスを感じてしまった、という。

製作者サイドとしては、「科学v.s.宗教」という構造でもって最後まで引っ張る、ということだったと思うんですが、俺は、背景に気づかないまま、恐らく製作者サイドの意図しない形で結末を観るに至った、と。


依頼者が犯人だった、という、ミステリーとしてはややB級感がある(ただし、個人的にはそういうのは凄い好きなんですが)ストーリーなんですが、その背景に設けられた設定やらなんやらが良く出来ていて、個人的には面白かったな、と。
ヒラリー・スワンクの存在感の素晴らしさもコミで。



というワケで、すっかりネタバレしてしまいましたが、佳作と言って良いのではないでしょうか。


2009年12月28日月曜日

「アバター」を観る(3Dで)

各方面から話題沸騰中の「アバター」を、バルト9の深夜上映の回で観る。



まー、凄かったっス。正直、まともな感想は書けないって感じ。
DVDが出たらもう一度観て、ちゃんとした“作品としての感想”は、その時に書こうかな、と。


とりあえず、ざっくり言うと。。。
「ポカホンタス」+「風の谷のナウシカ」+「宇宙戦艦ヤマト」
という感じですかねぇ。

侵略者としての人類、ということで、「インディペンデンス・デイ」とか「エイリアン」とは真逆の角度から作られている作品ですね。


まぁ、そんなことより、キャメロン渾身の3D、と。

この映像体験!



2009年12月26日土曜日

「演出とは仕草の発見である」

さて。


この間、ふと深夜にテレビのチャンネルを回してたら、(番組名は後から調べたんですが)「夜遊び三姉妹」という番組をやってまして。
三姉妹という設定の女性3人がマンションで暮らしていて、という、シットコム。

ま、ちょっと前にパフュームが出演してたシットコムの番組がありましたけど、だいたいそんな感じで。

三姉妹は、長姉が光浦靖子、次姉が加藤夏希、末妹が小池里奈ってコ(この小池里奈は、見たことがなくって、こちらも後から調べました)。



で。
あるエピソードで、加藤夏希がテレビゲームをやってるすぐ脇で、小池里奈が、バランスボール(トレーニングなんかに使う、ばかデカい、空気が入ったボール)を使って、前後に行ったり来たりしてるんです。
バランスボールに、仰向けの体勢で乗っかって、勢いで前に出て、手で床を押してまた後ろに戻っていく。
びよ~んびよ~んって感じで。
前にいって、また後ろに戻って。
その動きに、姉が「邪魔!」と言ってキレる、という段取りなワケですが。


が…。



その、バランスボールに乗ってる小池里奈がめちゃめちゃカワイイ!

こんなのアリか、と。

ウザいbutカワイイ



これは演出で計算された動きなんだろうか、と。
なかなか思いつかないですよ。
ただ前後に動くだけ、というのは。しかも、カワイイし。
普通に澄ました顔で(無言で)バランスボールに乗ってるだけですから。

絶妙な感じでしょ!
動きは物凄い無意味なんだけど、演出的にはちゃんと意味があって、その無意味なトコに可愛げがあって、という。



「演出とは仕草の発見である」とは、俺の“受講録”に残っている篠崎誠監督の言葉なんですが、この、小池里奈の“仕草”っていうのは、かなりの大発見な気がする。

ウザいbutカワイイ、という存在感を演出するための仕草。


例えば、猫なんかがそうですよね。
気まぐれで、なんかどうでもいい時に、邪魔をしにくる。こっちが望んでないタイミングで来る。
でもかわいいから無下に出来ない、という。


「夜遊び三姉妹」。

俄然目が離せない番組になったな、と。
色々盗ませていただきたいです。


要注目!

2009年12月24日木曜日

「ジャック・メスリーヌ フランスで社会の敵No.1と呼ばれた男」を観る

まぁ、長いタイトルですが、そのうえ2部作だ、という、その「ノワール編」と「ルージュ編」を、2作まとめて、先週観て来たので、その感想でっす。


ちなみに、“社会の敵No.1”っていうのは、“パブリックエナミー#1”ということで、ワリとあちこちで見かける言葉ではありますね。
ジョニー・デップの最新作も、ずばり「パブリックエナミー」ってタイトルだし。

そのJ・デップの作品はもちろんアメリカの“一番悪いヤツ”を描いているんでしょうが、この作品は、フランス。主演は、フランスの当代一といえる、ヴァンサン・カッセル。

ま、「やくざ者の一代記」「成り上がり記」ですね。
“自伝”が原作になってるってことで、実録モノ、「仁義なき戦い」みたいなモンです。


しかし!
2本立てなんか久しぶり!
そもそも、二つとも新作扱いなワケで、併せて3600円!


しかも、映画館(吉祥寺バウスシアター)の中で、観てるの、俺だけでした。
ホームシアター状態。もちろん、2作とも。

つーか、そんな状態で観てる俺は、完全に変わり者扱いですよね。トイレに都合で4回行ったし。


まぁ、そんな個人的な事情はさておき。



作品の感想を。


まず、あとから分かるんだけど、2作を通じての全体の造りっていうのがあって、まず冒頭に、作品の一番ラストのシークエンスが流れるんですね。
で、そのシークエンスが、シークエンスの中でも何も明らかにされないまま終わる。
分かるのは、主人公と、恋人と思しき女性の2人。

このシークエンスは、いわゆるオープニングクレジットみたいな感じで、「007」のあんな感じのオープニングで、と書くと伝わるでしょうか。
ちょっとシャレた感じの、というワケでもないんだけど、とにかく、そういうオープニング。

で、その一連の“オープニング”が終わった後に、主人公の“若き日々”が始まり、「一代記」が語られていく、と。
まず、前編。
で、前半が終わって、次に後編なワケですが、そこでは、前編の“オープニング”のシークエンスの続きが流れるんです。
そこで、物語全体が“バッドエンド”で終わることが明示される。
で、前編のラストからやや飛躍した形で、後編のストーリーが始まるんです。
で、ストーリーが全部終わろうというところで、前編と後編のそれぞれの“オープニング”で語られていたシークエンスが、再び語り直される。
この、「直される」という部分がポイントで、“視点”が変わるんですね。

この、作品全体の終幕となる、「改めて語り直される」シークエンスは、かなり面白いです。緊張感があって。
これは、“視点”が変わっていることが、なんだかいつもと違う効果を作り出していて、要するに、長時間見せられていた主人公が、急に引き離された存在に感じちゃうんですね。
実際に画面には映ってるんですが、“視点”が変わってるモンで、要するに「志村ぁ! 上うえ!」というヤツで、自分には見えてるんだけど画面上の人物には見えていない、という、お決まりの構図が、その“画面上の人物”に寄り添ってきた時間が長いだけに、この「もどかしさ」がイイ感じで緊張感をチャージしてくれる、というヤツで。


ただ、その“終幕”までが、長い・・・。
一代記だから、それはそれでしょうがないんですけどねぇ。「仁義なき戦い」だって、シリーズ全部観ようと思ったら、それは長く感じちゃうでしょうしね。


ちなみに、その“オープニング”は、なんだか無駄に「24」ライクな分割画面を採用してます。
個人的には、この、画面を分割して映すって、あんまり好きじゃないんですけどね。
そういうのも含めて、作品全体に、なんだかワリと「テレビサイズ」の画って感じでしたね。クローズアップが多くて。
もちろん、それだけじゃなくって、空撮もありだし、画面全体を使って思いっきり引いた、凄い映画的なショットもありましたが。
まぁ、カネはやたら掛かってます。キャストも、オールスターだし。

あと、音楽はなんだか鳴りっぱなしって感じでした。使い方が上手だとは思わなかったけど、まぁ、効果的ではあったかな、というか。セオリー通り。



で。
ストーリーはまず、アルジェリア戦争での戦場体験から始まります。
アメリカでは、ベトナム戦争が(今なら湾岸戦争やイラク戦争でしょうけど)、こういう扱われ方でもって語られるワケですが、フランスにとっては、アルジェリア戦争。

そこで体験した諸々を胸にしまい込んで除隊・帰国、と。そして、“家庭”での平穏な暮らしには馴染めずに無法者たちの仲間に、という、この辺は、万国共通のスタイルですね。
軍隊というのはアウトローの供給源としては万国共通なんだなぁ、と。

軍隊というのは、「戦う為に」という理由で、厳しい訓練によって、どうしても、ある種の“人間性”というか、“穏やかな暮らし”への適応性をまず剥ぎ取ることが“軍隊への適応”の始まりなワケで、つまり、「内面的な再編」を強いるワケですよね。指揮下にいる兵士に対して。
どこの国でも。
それが除隊、帰国したからって簡単に「穏やかな暮らし」に適応できるはずもないし、という。
ホモソーシャルな感じもそうだしね。

つまり、軍隊と犯罪組織っていうのは、とても親和性が強いんだ、と。

この作品でも、そういうとこはちゃんと踏まえて、ということで、戦争が終わり(戦線が縮小し)、戦場から母国へ帰されても、「再編された内面」を抱えたまま、「平和への適応」をしないといけないんんだけど、そんなに簡単にはいかなくて、と。
ランボーシリーズの第一作も、文字通りそういう姿を描いた作品だったワケですが。

この作品では、ギャング組織に入って、ということで。

で、その後は、やくざ者のくせに“清純”な女性と恋に落ち、“ファミリー”と家庭との板挟みになり、という、まぁ、ありふれたと言えばその通りの筋立てで話が進んでいく、という。


面白いのが、フランスの警察から逃れるため、逃亡先として“新大陸”であるカナダに渡航するんですね。
そうか、と。
ケベックはフランス語圏なワケで、納得なんですけど、例えばイギリス人だとストレートにアメリカ(USA)になるんだろうし、アイルランド系も、同じくアメリカ合衆国。イタリア人もそう。ドイツも、東欧も、多分同じ。
スペイン人だと、これが南米になったりするのかなぁ。
当のアメリカ人は、これがメキシコになったりするんでしょうけどね。
この辺の、フランス人の“新大陸”の感覚はちょっと面白かったです。


で、カナダでは、ケベック独立を掲げる過激派のメンバーと共闘関係を結ぶ、という展開に。
ここもちょっと面白かった。

「政治」というファクターも、まぁ、この時代のフランスを(というか、フランスに限らず、世界のどこでもイデオロギー闘争が全てを支配していた、という時代だったワケですけど)描こうとしたら外せない要素であって。
また、フランス人ってそういうのが好きだもんねぇ。

で、最初はワリと、「右も左もダメだね」なんて言ってるんですね。ところが、ラストに近くなってくると、主人公がだんだん「革命だ」とか言い始める。

実は、ずっとこの“革命”というか“政治絡み”というファクターは提示はされていて、時節時節を示す言葉として「ドゴールが」とか「ピノチェト」とか「モロ」「赤い旅団」なんていうがずっと使われてて。

そういうも含めての“システム”ってことなのかなぁ、なんて思ってたんですけど(そこに現代性を込めた、とか、そんな感じで)、そういう解釈はちょっと違うみたいですね。
きっぱりと“極右”“ファシスト”のアンチとして描かれる、という風に変わっていきます。
この辺の話は、例えば、スピルバーグの「ミュンヘン」なんかを併せて観ると面白いかもしれませんね。それから、この秋にテレビで見た、ジョージ・クルーニーが監督して作った(ソダーバーグが製作です)「コンフェッション」とかも。


それから、一代記だけに、舞台が色々変わるんですが、敵と仲間が次々と変わっていく、という話の進め方もなにげに独特かも。
恋人も変わっていくんだけど、相棒も変わるし、好敵手(ルパン三世でいうところの銭形)も変わる。

この辺は、自伝を元にしてるってことで、“based on true story”の良さかもしれません。
ここが、完全なフィクションなら、例えば一番最初に愛し合った売春婦や、結婚して子供をもうけた“清純”な奥さんとか、そういう人がラスト近くになって登場して、今の人生や運命との対比を、なんてことになりがちだと思うんですけど、そういう風にならず、その代わり、なんと、娘との再会、というシークエンスがあります。(この娘がまためちゃめちゃ美人なんだ!)

このあたりは、個人的にはちょっと首を傾げちゃう感じ。
もっと、主人公を突き放すか、美化するならそっちに振り切るか、というのが、ブレちゃってる気がしてしまいました。
だって、別に反省とかしてないからねぇ。少なくとも、俺の印象では。

だから余計に、ということかもしれませんが、自分の両親との“和解”みたいなシークエンスは、作品の中でもかなり浮いてしまってます。和解に当たっての両者の動機も、イマイチ釈然としない。

まぁ、実話がそうなってる以上そう描く必要があった、ということなのかもしれませんし、俺の解釈が間違ってるのかもしれませんし。そこら辺はちょっと分かりません。


で、なんか異様に美人にモテる主人公は、女と相棒をとっかえひっかえしながら、ついに、という。



ま、長いけど、それだけの“人生”だよね。確かに。
このボリューム感をちゃんと描こうと思ったら、確かにこの長さは必要だし、これだけのカネも必要ですよ。
それは確かに、そう思う。



でも、実は、もっとバイオレンスなギャング映画なのかなぁ、なんて思ってたんですけどねぇ。
あんまりそんな雰囲気はなかったですね。
カナダの刑務所でのアクションシーンとか、凄い良かったけど、これだけ長さのある作品だと、どうしてもピースひとつひとつの印象は薄まっちゃう、というのもあるし。


あ、そうだ。
当時のパリやフランスの様子を描く、という部分は、凄い良かったです。特に車が。
カーアクションとかもかなりカネが掛かってると思うんだけど、当時の雰囲気を出す、ということで、特に車がみんな、当時の車って感じで。(パトカーもフォルム丸っこくてかなりカワイイ)

まぁ、だから、そういう全体の雰囲気を楽しむ作品なんスかねぇ。美人しかでてこないし。


というワケで、DVDで観てたらもっと高評価な作品だったかもしれません。
なんせ3600円払ってますからね。厳しくなりますよ。それは。
そこはしょうがないっス。

2009年12月15日火曜日

「母なる証明」を観た

先週、新宿武蔵野館で観た「母なる証明」の感想でっす。

「父、帰る」の次に「母なる~」って、ちょっと出来過ぎですけど。

とにかく、各方面から絶賛の作品ですよね。「殺人の追憶」のポン・ジュノ。
面白かったです。


ただ、“絶賛”って感じじゃなかったかなぁ。「殺人の追憶」もそうだったんだけど(「グエムル」は観てないんスよ・・・)、なんかこう、あと一歩踏み込んで欲しいなぁ、という感覚が残ったりして。
ま、あくまで個人的な“感覚”なんで、別にたいしたアレじゃないんですけど。



で。
とにかく感想として最初に書かなくてはいけないのは、「父性の徹底的な排除」という点ですよね。この作品に関しては。

ただの排除ではなくって、という部分。
たとえば、これがちょっと前の日本映画だったら、「父親は存在はしているけど存在感がない」とか「いるんだけど役割を果たしていない/放棄している」なんていう表現があったと思うんだけど、この作品ではもはや、存在自体がすでにない。

被疑者である息子、被害者、そして“真犯人”にすら父親はいなくて、息子の悪友にも居ない(という風に描かれる)。
起承転結の“承”に当たるシークエンスで、被害者のお葬式の場面があるんだけど、そこでも女性同士の衝突が描かれるし。(ちなみに、もっとずっと後の、暗闇の中で被害者の祖母と主人公の老母が対峙するシークエンスは、かなりヤバい)

何人か登場する、年齢的に“父親”に相当すると思われる登場人物は、1人は、まともに仕事をしない無責任な弁護士だし、もう1人は、バラック住まいのクズ鉄屋だし、あとはゴルフ仲間の大学教授たち、とかなんで、とにかく、いわゆる“庇護者としての父親”が出てこない。


変わって、母親に「全能であること」が求められていて。
で、その「全能」とは、と。
そこがこの作品のテーマ、かな?
「母なる証明」ってタイトルに沿えば、作品のテーマはそうなってくる気がします。
“父親”が不在である“母親”にとっての「全能」とは?

結論から言うと、善悪(と、定義されているある基準)すら超越した価値観、ということなんですかねぇ。

全能たる母性とは、善も悪も関係なく、ただ息子への愛情(つまり、その愛情の主体である自分自身の感情)だけなんだ、と。
それのみが行動原理であり、逆に言うと、“背理”すら肯定されうる、という。

その、肯定するためのツールとして用いられるのが、「ヤミ治療」なツボと鍼の技術で。

西洋医学的な視点からみれば、それは単なる民間診療であり、ある種の「信仰」なワケだけど、主人公にとっては、愛情を駆動力に進む自分自身を支えてくれる大事な“拠り所”であって(実際に、コメカミのツボは記憶を蘇らせてくれるんだけど)。



で。
これはホントにすげーと思ったんだけど、最後の最後に、鍼を打つんですね。自分に。
ここが凄い。「自分に」という部分。
息子が苦悩してるんじゃなくって、自分が、という。

「息子が真実を知って苦しむ」ことに対して「母がウソをついてなだめる」とか、そういうことじゃないんですね。
これって、結構ポイントだと思うんです。

ただ自分ひとり、母親だけが苦しむ、という。
そして、鍼を打つという“儀式”でもってそれすら乗り越えてしまう、という。

この描写はかなり凄いですよね。なかなか書けないっスよ。



もう一つ、特徴は、「外部の人間」というのが登場しない。異物、というか。
例えば、構造論のよくあるサンプルなんかには、「賢者」みたいなのが登場するワケです。愚者に対する賢者。
大抵の場合、特に、この作品のような、ある(濃密な)コミュニティが舞台になっている場合、コミュニティの外部からの訪問者が、時に「賢者」となって、主人公に力を貸すワケですね。具体的にアドバイスをしたり、実際に共同作業をしたりして。
この作品では、それに相当する人物が、一回捻って“悪友”になるワケで、そのことによって、舞台が完全にあるひとつのコミュニティの中に閉じている。
結果的に、これも「父性の排除」と繋がってる部分なんだけど、「賢者の排除」になってる。つまり“愚者”しか登場しない、という。

これはやっぱり、作劇上、かなり難しいことだと思うんですよ。
シナリオを書くにあたって、これは結構難しいことなんじゃないかなぁ、なんて。
生理的に、というか。(ゴルフクラブに付いてる口紅を血と間違える、なんて、逆に無理です。発想が。絶対書けない)
どうしても、“名探偵”みたいなキャラクターを配置したくなるもんですから。じゃないと、話を前に進めるのが大変なんで。

そこを、この作品は見事に乗り越えてますよね。

実は、この辺が個人的にちょっとだけマイナスなポイントだったりするんですけど(もっとスパッと解決して欲しい)、まぁ、そこら辺は別にいいですね。



とにかく、そういう方法論をとることで、主人公の“意思”を描写するんだ、と。
母親の。
ミステリーという“構造”を使うことで、ストーリーを前にドライブさせていく推進力を得てるワケですが、それを縦軸に、横軸には「母の母たる証明」を描く、と。
盲目的な愛、と書くと、なんだか陳腐で、監督も「そんなもんじゃないからこの作品を撮ったんだ!」ってことになるんでしょうが、敢えて最短のセンテンスで言うと、やっぱり「盲目的な愛情」、と。



そういうことっスかねぇ。


昔、子供の頃に見た大河ドラマの「独眼流政宗」で、渡辺謙の政宗と徹底的に対立する生母(演じるのは岩下志麻)のあまりの怖さが、個人的には軽くトラウマみたいになってますけど。

ま、この作品でも、凄いですよ。
ディテールがまた、ねぇ。
とにかく歩く、という。車とかタクシーとか使えないから、とにかく移動は歩き、という描写。雨でも何でも歩き。
あとは、普通にバラック小屋が凄いよね。
悪友の住んでる家とか、あんなのアリか、とか思うし、後々にもっと凄いバラックとか普通に出てくるし。あの辺の貧しさの描写は、ちょっとインパクトがありました。
「シティ・オブ・ゴッド」みたいな作品だと、例えば、豊かな生活の象徴としてまず大きな高層ビルみたいなのが描写されて、それとの対比でスラム街があって、そこで人々が生活して、みたいな“文法”があったりすると思うんだけど、この作品では、そこら辺がワリと無視されてて。
いきなり「え?」みたいなインパクトはあって。

ま、細かい所ですけど。




というワケで、なんか巧く書けませんが、素晴らしい作品だったとは思います。ホントに。
映画館で観て良かったな、と。



ちなみに、新宿武蔵野館は、おそらくウォンビンのファンだと思われる、アラ還なオバサンが大半でした(結構客は入ってた)。
あのオバサンたちは、恐らく大半は“母親”でもあるでしょうから、そういう方々はこの作品をどう受け取ったのでしょうか。
主題が主題だけに、結構気になる。

“ウォンビンの母親”ってことで、感情移入もハンパないだろうしねぇ。
「抱き締めたい!」って感じなんスかねぇ。


まぁでも、そういう意味で言うと、ウォンビンみたいなマネーメイク・スターが、こういうアクの強い作品にちゃんと出演して集客に貢献してるってことですから、それは、韓国映画の豊穣さを示しているよなぁ、と。
ウォン・カーウァイのぶっ飛んだ作品にスターが大挙して出演していた頃の香港映画の熱量をちょっと思い出しました。

2009年12月10日木曜日

「父、帰る」を観た

月曜日の映画天国で放送していた「父、帰る」の感想でっす。




う~ん。



分からん・・・。



とりあえず、物凄く話題になった作品ですよねぇ。ヴェネチア獲ってる作品だし。



しかし…。



なんだろう、とりあえず、画は凄い綺麗。
どうやって撮ったんだろうっていうぐらい綺麗。

ホントに。
自然光だけで撮ってるのかなぁ。
ただカメラ回したらああいう画になった、ということではないと思うんだけど…。


登場人物はぜんぶあわせても10人ぐらい。
基本的には、親父と兄弟2人の三人だけ、なんですけど。


そういうトコが凄いってことなんだろうか?


兄弟2人の感情っていうのも、もう凄い伝わってきて、そこは凄いなぁ、という感じなんだけどね。


でもねぇ。
「だからどうした?」って思っちゃうんだよなぁ。

確かに、作劇も、ちゃんとしてるっちゃしてるし、ちゃんと最後まで観れるようにはなってるんだけど。


でもねぇ。




なんか、こういう時って「ちゃんと観れてない自分」が不安になったりするけどね。アンテナが狂ってるのかなぁ、とか、錆びてるのかなぁ、とか。


最後の最後まで謎が明かされないという部分が「良い」っていう評価なのか?



そもそも、最初の“目的地”は確か「滝」じゃなかったかと思うんだよねぇ。旅行の目的は。釣りをしにいく、ということで。

だけど、親父が公衆電話で電話した後、「用事が出来た」みたいなことで、兄弟はバスで家に帰らされそうになる。だけど「用事に付き合え」ということになって、また親父の車に乗る。
で、着いた先が、(湖の?)島。

その島の、なんかの鉄塔の上に、親父は兄弟を連れて行くんだけど、でも、その島は本来の目的地ではないハズなので、「この景色を見せたかったんだ」みたいなことではないと思うし。


あと、その島に渡るときに、ボートの櫂を親父は漕がないんですね。
そこが謎。
なぜ漕がないのか、と。“教育的な措置”なのかな、とか。
例えば、親父の“方向指示”みたいな掛け声がないとボートは進まない、とか、そういうワケでもなさそうだし。


う~ん。
こんなことをツラツラ書いてる俺は、なんか「まるでバカ」みたいな感じなんだろうか・・・。
不安だ。



兄弟2人の成長、という物語なんだとしたら、それはそれで、物凄い良く分かるんだよねぇ。
でも、そうなら、ラストのモノクロームの写真の意味が分からない。


“喪失”の物語なんだろうか・・・。
その、人生における「何かを失うこと」の、その失う過程を描く、という物語。
でも、そうなら、「そもそも最初は居なかった」という設定の意味が分からなくなる。


例えば、親父が帰ってきてからの「なんかしっくりこない日常」みたいな描写があれば、もうちょっと変わると思うんだよねぇ。旅行に連れて行く動機みたいなのが。
確かにそういう流れにすると、「親父の素性が全然分かんないし、旅も目的も分かんない」という感じが消えちゃうから、つまり、「そういう話じゃないのだ」ということだと思うんだけど。


う~ん。


そういうことじゃないのか?
「不条理劇である」ということなんだろうか?


それとも「リアリズムが素晴らしい」ということ? 演技が自然だ、とか。



う~ん。


ずっと(12年間)不在だった親父が、家に現れる。
⇒親子3人で小旅行に行こう、という話になる。実際に旅立つ。
⇒島に着く。兄が親父に心を開く。反対に弟は親父に反発する。
⇒親父との約束。約束を破る。親父と兄弟の衝突。
⇒衝突の結果。喪失体験。
⇒喪失体験を乗り越え、島から対岸に戻ってくる。


で?


違うか。

こうやって、どうにかして理解しよう、ということ自体が間違ってるのか?

世界は不条理である、と。
そういうことを言う作品なのか?


しかし、それならば、あまりに残酷すぎるし、個人的にはそういう意味でダメだ。



う~ん。
でも、分かるんだよなぁ。画がとにかく綺麗だし、確かに、演技も凄い自然で、そういう上手さは分かるんです。凄い。


でも、分かりません。


いい作品なんですけどね。


結論としては、そういう感じ。
うん。


2009年11月27日金曜日

平野啓一郎の「物語」論概論

平野啓一郎さんの、「小説論」「物語論」をサラッと語っている講演録が新聞に載ってたので、ご紹介。
大学への出張講義みたいなアレみたいっスね。

たくさんの登場人物にかかわる雑多な事柄を、一個の時計に従って並べていく。小説は、時間が次々と絡み合いながら終わりに向かうものです。そして時間を絡ませる上でもっとも力になるのが「物語」なのです。

「物語」というのはラーメンの麺に似ています。
美味しいラーメンは、麺をすすっていると、自然と口の中にスープの風味が広がってきませんか? 麺とスープのバランスが絶妙で、かつ麺がスープを持ち上げる力が強い。反対にまずいラーメンは、麺とスープが分離しています。スープはまあまあだけれども麺を食べている手応えがないというのも、満足感が得られません。
この考えを小説に当てはめてみましょう。面白い小説ほど、流れに沿って物語をたどっているだけにもかかわらず、世の中の情勢が分かったり、人間の心の深い部分に、無理なく触れられたりするものです。麺というのは、小説が展開する時間、言い換えれば物語の比喩です。そして、タイムリーな要素、深淵な要素はスープなのです。

「物語」ということは、1990年代にはずいぶん批判されましたが、21世紀の今、考え直してみる必要がある。
断片化された経験を、まとまった一つの世界に築き上げてゆくことこそ、現代の小説が多くの読者を獲得するための条件だと思うのです。ブログを読んだだけでは満たされないものを、「物語」を組み込むことによって、小説は提供できる。
そうはいっても、インターネットが普及してから、小説の中で扱うべき情報が増える一方です。しかも読書の時間は減ってきているわけです。そこで読者は、手軽でありながらも、奥行きのある小説を望むようになりました。多様な世界をどう圧縮して「小さく説く」かということが、切実な問題になっています。


ある作品における「物語」とは、ラーメンの麺なのである、と。


作品は「物語」の外側にあり、平野さんが言うところの「世の中の情勢」とか「人間ん心の深い部分」は、「物語」とは別のところに、つまり「スープ」としてあるのだ、と。

「スープ」だけでも「麺」だけでもラーメンではない、という。(まぁ、「油そば」みたいな例外はあるはあるんでしょうけど)


「物語の構造」とは、あくまで“物語”の“構造”であって、よく類型化されたりしてそこへの抵抗感を抱く人が居たりするワケですけど、それはあくまで「麺」の話。
「スープ」はスープでまた違う言葉で語られ批評され、あるいは構築されるものなんだ、ということなんだろうと思います。平野さんは、ここではそこまでは言ってませんが。


それから、もう一つ。
「インターネットが普及してから、小説の中で扱うべき情報が増える一方です。」という問題提起も。


「どう圧縮して」と。「物語」に付随してくる“情報”をどう処理していくか、ですよね。分かる。
「物語を語る」ことには奉仕しないんだけど、どうしても時間を割かなければならない“情報”っていうのが色々あって(まぁ、前提ってヤツですね。そういう、説明しないといけない事柄)、それをどう処理しつつ「物語」を前にドライブしていくか。

チンタラ説明ばっかしてちゃ作品は冗長な、ダイナミズムに欠けたダラダラとした“ただの長文”になってしまうワケで。


ということは、別に「小説」だけの話じゃないんだろうな、と。


そういうことで、このブログに、アーカイヴしておきたいな、と。



2009年11月26日木曜日

谷川俊太郎が語る「詩情」

新聞に、谷川俊太郎さんのインタビューが掲載されてまして。


面白い、というか、すげー内容でした。


最近、社会の中で詩の影がずいぶん薄くなった気がするんです。

詩が希薄になって瀰漫している感じはありますね。詩は、コミックの中だったり、テレビドラマ、コスプレだったり、そういう、詩と呼ぶべきかどうか分からないもののなかに、非常に薄い状態で広がっていて、読者は、そういうものに触れることで詩的な欲求を満足させている

『詩』には、二つの意味がある。詩作品そのものと、ポエジー、詩情を差す場合です。詩情は詩作品の中にあるだけでなく、言語化できるかどうかもあやしく、定義しにくい。でも、詩情はどんな人の中にも生まれたり、消えたりしている。ある時には絵画に姿を変え、音楽となり、舞踏として現れたりします。
僕が生まれて初めて詩情を感じたのは、小学校の4年生か5年生くらいの頃に隣家のニセアカシアの木に朝日がさしているのを見た時です。生活の中で感じる喜怒哀楽とはまったく違う心の状態になった。美しいと思ったのでしょうが、美しいという言葉だけで言えるものではなかった。自分と宇宙との関係のようなものを感じたんでしょうね


『スラムダンク』にも詩情はあるのではないでしょうか。しかも1億冊売れている。現代詩の詩集は300冊売れればいいほうです。長い歴史を持つ俳句や短歌も詩ですし、現代詩よりも圧倒的に強い。現代詩は第2次世界大戦後、叙情より批評、具体より抽象、生活より思想を求めて難解になり、読者を失っていった。加えて現代詩の衰退は、近代日本語が特殊な変化をしたことと関係していると思う。
明治期に欧米輸入の思想や観念を、苦労して漢語という外国語で翻訳した。でも、身についていない抽象語で議論を始めると、すごく混乱しちゃいますよね。現代語も同じ。現代詩は伝統詩歌を否定したところから始まっている。詩は人々を結ぶものであるはずなのに、個性、自己表現を追求して、新しいことをやっているという自己満足が詩人を孤立させていった
『詩は自己表現である』という思い込みは、短歌の伝統が色濃い日本人の叙情詩好きともあいまって一般には非常に根強いし、教育界でも未だになくならない。僕は、美しい日本語を、そこに、一個の物のように存在させることを目指しているんですけど


詩だけじゃありません、高度資本主義が芸術を変質させている。
批評の基準というものが共有されなくなっていますから、みんな人気で計る。詩人も作家も美術家も好きか嫌いか、売れてるか売れてないかで決まる。タレントと変わりなくなっています。僕の紹介は『教科書に詩が載っている』『スヌーピーの出てくる人気マンガを翻訳している』谷川さんです。でも、それはあんまり嬉しくない。
子供から老人にまで受ける百貨店的な詩を書いて、自分はそれでやっているけれど、他の詩人たち、詩の世界全体を見渡した時に、自分がとっている道が唯一だとは思いません。詩は、ミニマルな、微小なエネルギーで、個人に影響を与えていくものですからね。

現代詩は、貨幣に換算される根拠がない。非常に私的な創造物になっています。


人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えると分かりやすい。生まれる時、人は自然の一部。宇宙内存在として生まれてきます。成長するにつれ、言葉を獲得し、教育を受け、社会内存在として生きていかざるをえない。散文は、その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、詩は、宇宙内存在としてのあり方に触れようとする。言語に被われる以前の存在そのものを捉えようとするんです。秩序を守ろうと働く散文と違い、詩は言葉を使っているのに、言葉を超えた混沌にかかわる。


若者には詩的なものが必要になる時期がある、と書いておられますが、今の若者は、生きづらそうですね。
どう生きるかが見えにくい。圧倒的に金銭に頼らなくちゃいけなくなってますからね。お金を稼ぐ能力がある人はいいけれど、俺は貧乏してもいい詩をを書くぞ、みたいなことがみんなの前で言えなくなっている。それを価値として認める合意がないから『詩』よりも『詩的なもの』で満足してしまう。


インターネットはどうでしょう?
ネットの問題は『主観的な言葉が詩』という誤解に陥りやすいということですね。ブログが単なる自分の心情のハケ口になっているとしたら、詩の裾野にはなりえないでしょう。

デジタル情報が膨大に流れていて、言語系が肥大していることの影響が何より大きい気がします。世界の見方が知らず知らずのうちにデジタル言語化しているのではないか。つまり、言葉がデジタル的に割り切れるものになっているような。詩はもっともアナログ的な、アナロジー(類推)とか比喩とかで成り立っているものですからね。詩の情報量はごく限られていて、曖昧です。「古池や 蛙飛び込む 水の音」という芭蕉の句はメッセージは何もないし、意味すら無いに等しいけれど、何かを伝えている。詩では言葉の音、声、手触り、調べ、そういうものが重要です。


詩情は探すものではなくて、突然、襲われるようなものだと思うんです。夕焼けを見て美しいと思う、恋愛してメチャクチャになる、それも、詩かもしれません。僕も詩を書く時は、アホみたいに待っているだけです。意味にならないモヤモヤからぽこっと言葉が出てくる瞬間を。


詩人体質の若者は、現代をどう生きたらいいんでしょう?
まず、『社会内存在』として、経済的に自立する道を考えることを勧めます。今の詩人は、秩序の外に出て生きることが難しい。そうだなあ、時々、若者が世界旅行に行って、帰ってきてから急にそれまでとまったく違う仕事をしたりするじゃないですか、あれは、どこかで詩情に出会ったのかもしれないな。
金銭に換算されないものの存在感は急激に減少しています。だから、これからの詩はむしろ、金銭に絶対換算されないぞ、ってことを強みにしないとダメだ、みたいに開き直ってみたくなる


このインタビューを読んで、「コスプレやらブログやらにも関心を持ってるんだなぁ」なんてことを言ってたらダメですよね。(ちなみに、『詞』の世界、つまり音楽の歌詞については「ある」とは言ってません。注目しないといけないのは、こういう部分)



「金銭に換算されないぞ」ということを言いながらしかし、「新しいことをやっているという自己満足」をも否定している、という、ここが谷川さんらしさなのかもしれません。


「僕は、美しい日本語を、そこに、一個の物のように存在させることを目指している」と。
芭蕉の句を引いて「意味すら無いに等しいけれど、何かを伝えている」と仰ってますけど、つまり「意味」じゃなく「何か」。
何かとは?
それが「詩情」なんだ、と。
「詩」とは、自分が感じた「詩情」を追体験するためのもの、自分の体験した「詩情」を記録しておくためのもの、自分が「詩情」を感じるに至ったその過程を記録しておくためのもの、自分が感じた「詩情」を誰かと分かち合うためのもの、自分が感じた「詩情」を誰かに伝えるためのもの、…。


違うかな?
あんまり俺がゴチャゴチャ書かない方がいいですね。


しっかり噛み締めたいな、と。


そういうインタビューでした。

2009年11月23日月曜日

「ラッキー・ユー」を観る

シネマ・エキスプレスで、「ラッキー・ユー」を観る。


この作品、知らなかったんですが、結構ゴージャスなメンツでの製作なんですね。低予算だけど。
監督は「LAコンフィデンシャル」のカーティス・ハンソン。
「LA~」とは全然テイストが違いますが、同じく監督作品の「8マイル」にはちょっと雰囲気が似てるかも。
年齢的にはすっかり大人になっている主人公の、うだつの上がらない日々からの脱却を目指してもがく姿、ということで言うと、ね。

で、助演がドリュー・バリモア。
バリモア、なんかマブいよねぇ。(なんつーか、彼女は“胸”の形が好きです。あと唇も)

主人公の親父役にロバート・デュバル。とりあえず、この親父の存在感がかなりポイント高い。



が。
結論から言うと面白い作品だったんですが、ちょいちょい「あれ?」みたいなのがあって、それは、主人公のキャラクターの感じに因る所が多くて。
主人公の輪郭がイマイチ掴めん…。


この作品はポーカーの世界選手権、というクライマックスに向かっていくんですが、その、ポーカーのプレイヤーたち、つまりプロのギャンブラーたちなワケですね。登場人物は。
ちなみに、主人公の親父は、世界選手権に2度優勝している、という設定で、なおかつポーカーに入れ込み過ぎて家庭を失っている、という。
で、主人公もプロのギャンブラーなワケですが、こいつがなんだかよく分かんない。

強いんだか弱いんだか。


なんだか強いってことになってて、本人もそう振る舞ってるんだけど、とにかく金欠で、あっちこっち金策に駆けずり回ってるんだけど、ことごとく失敗して、しかもただの失敗じゃなくって、普通にカモられたりしてる。
自意識過剰で自信過剰でいけ好かない感じだし。
ちょいちょ負けるクセに。


女好き、というのは、親父との関係とか、親父と母親の崩壊した関係を見て育ったから、という理屈があると思うんだけど、なんか微妙に“美化”されちゃってるんだよねぇ。
“ボンクラ感”がいまいち描写しきれてない。

だいたい、主人公を演じる役者(エリック・バナという人)が、この役にあんまりハマってない。
カッコよ過ぎるっつーか、スマート過ぎるんだよねぇ。

例えば、ニコラス・ケイジとかティム・ロスみたいな人が演じれば(年齢が設定と全然違うんだけど…)、なんかダメっぷりというか、自分のダメっぷりに苦悩する姿、みたいなのに共感できたりするんだろうけど、あんまりそんな感じにならない、という。
「こいつの人生、全然問題なくないか?」みたいな。

さっそうとバイク乗ってるし。


個人的には、そういう部分が致命的にアウトで。



ただし、良いポイントもたくさんある。



まず、セリフがいい。
冒頭、質屋で、主人公が(友達のを無断で拝借してきた)ビデオカメラを換金しようするんだけど、とりあえずこのやり取りで交わされる言葉がかなりクール。
ポーカーのゲームの最中にも、特に親父が、会話でブラフを仕掛けてくる、というスタイルで、この時のセリフの感じも好きです。


それから、小道具の使い方が巧いですね。これはホントに演出の巧さだと思うんだけど。
母親の形見の指輪や、とにかくポーカー自体がコインとカードという“小道具”を使うゲームだからっていうのもあるんだろうけど、コインを弄る手の動きとか。
あとは、決勝ラウンドのライバルたちの、サングラス、とかね。

細かいところの演出もピリッと効いてて、朝のダイナーで、親父と息子(主人公)が2人でカードゲームを(当然、高額のカネを賭けて)始めてしまうシークエンスは、凄い良かった。
カードでしか会話できない、というか。
最初は2人で話してるんだけど全然噛み合わなくって、だけどカードゲームが始まると、という。
結局息子の方は負けちゃうんだけど。

で、この2人の関係の間には、母親というのがいて。主人公の母親。親父の(別れた)妻。
母親は、存在は出てこないんだけど、形見の指輪、というのが出てくるんですね。これが、冒頭の質屋のシークエンスから、ずっと2人の間を行ったりきたりするんです。
これが巧い。
というか、ニクいな。指輪の扱い方が。


あと、演出の面では、決勝ラウンドの直前、ゲームが一旦終わった時に、メンバーが全員恋人や家族の元に近寄るんだけど、主人公だけ抱き合う相手がいない、というシーンがあるんです。
これはいいですね。
すげー意味の分かりやすいショットなんだけど、ポーカーのテーブルとそれを囲む観衆、という場の空間を上手に使った演出で、これは実はなかなか出来ない演出だと思う。
で、主人公を待っているのは、借金取りだけだ、という。
これは、効果的だし、イイですよね。


ポーカーの出場者はみんな上手に個性が描き分けられてて、細かい演出も人物描写も良いのに、なぜか主人公だけが分からない、という、最後までそこが謎です。マジで。

大会の結末も爽やかで良いです。

この辺は、シナリオの勝利って感じなんでしょうか。



とにかく主人公のキャスティングがなぁ…。



まぁ、なにげにもう一回観たい作品ではあります。




あ、補足しておくと、舞台はラスベガス。
「CSI」と同じ、ですね。

でも、全然違うベガスの風景ですね。“ローカル”なポーカーラウンジが主な舞台なので。


というワケで、なんとも歯がゆい作品でした。


2009年11月21日土曜日

・・・

http://news4vip.livedoor.biz/archives/51396616.html


フィクションを書こう、という気が萎えそうです…。

2009年11月5日木曜日

「チェンジリング」を観た

(iPhoneから書こうと思ってたんですが、上手くやれてませんでした…)

クリント・イーストウッド監督、アンジェリーナ・ジョリー主演の「チェンジリング」を観る。

タイトルのスペルは「changeling」ということで、“取り替え子”という意味のそういう言葉があるらしいですね。


チェンジリング。

まぁ、傑作ですよね。間違いなく。

シングルマザーが、誘拐事件と警察による偽装事件の2つの事件に遭う、という。
ストーリーの構造は、入れ子になってて、外枠に誘拐事件(正確には、大量誘拐殺人事件)があって、内枠に警察の腐敗によって騙され陥れられるストーリーがある、という形。

LAPDの腐敗っていうと、犯罪組織との繋がりだとか賄賂とか、というのが多く語られてきたと思うんですが、この作品では、なんつーか、もっとエグい、もっと救いのない、要するに人間的にダメなヤツら、という描写で。
この作品は実話を基にしているということなんで、この、警察組織の堕落っぷりっていうのは、マジなんでしょう。

ポイントは、“マスコミ”ですね。
まったく存在感がない。
これはもちろん意図的だと思うんですけど、正義の遂行者として役割も、埋もれた事実の発掘者としての役割も、あるいは単純に代弁者としての役割すらも与えられず、ただただ“権力”である警察のやることの片棒担ぎでしかなくって。
この、マスメディアをこういうポジションに置く、という構図は、この作品に“現代性”を与えているんじゃないかな、なんて。


“現代性”ってことでいうと、「働く女性」というA・ジョリーの役柄ですよね。父親が責任を放棄して逃げ出した、ということがセリフで語られるんだけど、なんつーか、そこへの怨み節みたいな演技はないワケです。
自立した女性。
電話交換手という職業は、恐らくですけど、当時では一番新しい産業の従事者、というか。要するに“進んでいる”人なワケですね。ローラースケートを履いた主任で、しかも昇進を打診される、という、仕事のできる人間。
しかし、警察や精神病院では、女性ゆえに(という描かれ方を実際にしている)半人前扱い、二級市民扱いをされてしまう、という。
「ミリオンダラー・ベイビー」で「闘う女性」を描いたクリント翁ですが、まぁ、地続きだよな、と。


画の感じも「ミリオンダラー・ベイビー」と良く似てて、黒味を強調した陰影のある画。
この作品の“黒さ”“暗さ”っていうのは、当時の街の実際の夜の暗さでもあるんで、ちょっと意味合いが違ってくる部分もあるんですが、これがとにかく効いています。
ただ、「ミリオンダラー・ベイビー」よりは、ちょっとだけ色調が押さえ気味でしたね。ちょっとだけ淡い感じで、画質もちょっと違う。
その辺は、CGとの親和性みたいなのとも関係してるのかもしれません。



入れ子の構造になってる、ということで、警察との戦いに勝利した(精神病棟から“救出”される)だけではストーリーは終わらず、ここが巧い所だと思ったんですけど、警察との戦い(ナントカ委員会)と、誘拐事件んの犯人との戦い(刑事裁判の公判)を、平行して描く、と。
これが、「まだ終わってない」という形になってて。

この組み立て方はかなりポイント高いです。
うっかりしたら、ここでカタルシスを感じちゃって、ちゃんちゃん、みたいになっちゃいますから。そうはさせない、ということで。(ただし、その分作品のトータルの時間は、長いです。2時間超えてる)


その後も諦めずに戦い続け、もう一つのクライマックスが、死刑執行と、その前夜の犯人との対面。
ここでの、必死に自制を保ちながら、しかし感情を剥き出しにしながら、犯人に真相を明らかにしろと迫るカットは、かなり迫力あります。
あと、凄いと思ったのは、その後の、別の被害者家族が再会を果たすシーンがあるんですね。
そこでのA・ジョリーの演技はかなり凄い。
再会の様子を、会話を部屋の外で聴いてるだけ、という演出も凄いなと思ったんですけど。

なんつーか、そういう、“母性”のすべての要素をすべて描き切ってると思うんですよ。
全部を演じ切ってる。
強さ、弱さ、脆さ、憎しみ、悲しみ、哀しみ、そして、美しさ。

戦い続ける強さ。
同時に、弱さ故に戦い続けてしまう、という哀しさ。



それから、もう1人、“共犯者”の少年役の存在感が素晴らしいよね。
この作品の特に核心部分になってる“誘拐犯”を巡るシークエンスのリアリティは、彼に寄りかかってる部分がかなり大きいんじゃないかな、と。
犯行を回想するシーンの、被害者を車に誘い込むカットと、もうひとつは、犯行を告白した刑事に命令されて死体を埋めた所を掘り返すカット。共犯を強いられてしまった彼の演技っていうのは、実際の被害者である主人公の息子の描写が殆どない(もちろんそれは意図的にで、再会できないままの主人公の喪失感を、ということだと思います)のもあって、犯行の悲劇性を高める効果があって。



ホントに、よく出来たシナリオだし、描き切る監督の手腕、演じきるA・ジョリーの演技力、どれも素晴らし、と。
そういう作品だと思いました。


うん。
傑作。



ただし、俺みたいに「闇の子供たち」と一緒には観ない方がいいです。
気分的に、ホントに沈鬱になり過ぎちゃって、ヤバいんで。

2009年11月4日水曜日

「闇の子供たち」を観る

阪本順冶監督の超問題作、「闇の子供たち」を観る。


いや~。どこから書いていいのやら…。


まず…。

ストーリーの構造としては、幾つかのプロットがあって、それがなんとなく絡み合いながら話しが進んでいく、という形。

ストーリーの大部分はタイで進むんですが、途中舞台が日本に移ってくるシークエンスもあって。
面白いのは、画のパワーが、日本の、日本人の役者陣の演技に頼れる所ではちょっと落ちる、というところ。
タイ人の子供を撮っているカットなんかは、構図もキレキレで、どれも気迫が伝わってくるカットなんですけど。
やっぱりそれは、セリフの巧さとか演技の巧さに寄りかかれないから「画」で勝負するしかない、という演出上のアレなんだろうな、と。


佐藤浩市の出てくるカットも、長回しでワンカットで撮ったりしてるんですが、いまいちピンとこなかったりして。「ここは別に普通に撮っても良かったんでわ?」みたいな。

まぁ、名優ぞろいだとは思うんです。
だけど、例えば「こと」を終えたあとにずっと唾を吐き出すショットとか、マジでやばい。
そこにはセリフもなくって、演出も「唾を吐き出してて」ってぐらいだと思うんです。そういうショットが生み出す破壊力。
基本的に、そういう「画の力」によって支えられている作品だと言い切ってもいいんじゃないなぁ、と。
ゴミ収集車に運ばれている黒いビニール袋を映したショットとか、マジで危険ですよ。ほんとに。
「グエッ…、この中にいるってことかよ…」っていうショットですから。
冒頭、国境の街で、子供たちの腕を大人たちがずっと掴んでるんですね。手を繋いでるんじゃなくって、逃げないように腕を掴まえている。
そういう、ひとつひとつのカットの意味が重すぎます。ホントに。
一生懸命作り笑いを作ろうとして、でも痛くて(肉体的にも、精神的にも)涙が出てくるんだけど、でも必死に口角をあげて作り笑いをしようとする男の子。

その「作り笑い」は、実は結構キーになってて、「裏切り者」も登場する最初のショットで「裏切り」が暗示されちゃっている、という。
そんなんありかよ、と。


タイトルの「闇の子供たち」ですけど、これって、「闇の中に隠された子供」とか「闇の中にいる子供」「闇の中に放り込まれた子供」という意味じゃなく、なんつーか、「闇」が生んだ子供たち、という意味だよね。
子供っていうのは必ず「親」がいるワケだけど、「親」、つまり「人間」が「闇」なんだ、と。
「人間」というより、「大人の世界」が「闇」なんだ、と。
大きな大木(ガジュマルの樹?)や、ラストの川の中で戯れる子供の姿、というのは、「自然に抱かれている」という状態、つまり、「大人たち」の手の届かないところ、「大人たち」に汚される、犯される前の状態、ということですね。「無垢な」とか「自然な」とか、そんな意味。


ラストまで、ずっと、江口洋介や同僚たちの「職業意識」が動機の梃子になっている、というトコにひっかかりを感じてたんですね。
それって、なんつーか、自分たちが生きる日本の社会との「地続き」感が薄まってないか、という気がしてたんで。
そうじゃなくって、「ひとりの人間としての良心」を動機にした方がいいんじゃないか、とか、“大手マスコミ”が“正義”を代弁するっていう形はちょっと現代性がないかな、とか。
それは監督の意図する所じゃないんじゃないのかなぁ、とか。
その「個人的な正義感」を司るために置かれているはずの宮崎あおいの役は、いわゆる、結構曖昧な「人間的な感性」というか、「自分の善なる部分が反応している不快感」みたいなのに立脚しているんですけど、なんつーか、彼女はずっと「未熟で~」という描かれ方、つまりややネガティヴな描かれ方をしていて。
いかにもなタイプキャストでステレオタイプなキャラクターだし。
そこには感情移入をさせない、ということを敢えてしている。

それは、同じく「自分探し」的なプロットを付加されている妻夫木聡が演じるキャラクターもそうなんですけど。
そこもずっと引っかかってたんです。人間が作った「暗闇」を描くのに、なんで「自分探し」のプロットに引きずられないといけないんだ、と。



が、最後の最後、ズバっと、ね。
やられましたよね。

シリアルキラーの記事の中に映る自分の顔。
「つまり同類なんだ」というメタファー。
この、後味が「苦い」方向に振り切るカタルシス。思わず「グエッ!」って声が漏れそうな結末。
こんなんアリか、と。



例えばさ。
これがキリスト教の文化圏なんかで作られてたら、終話の前に「懺悔」して終わる、とか、そういうストーリーの運びになったりしたと思うんです。
悔い改めて、神に赦しを乞い、赦され、一生をかけてその罪を償う、とか、そういう結末になったと思うんです。
しかーし!

主人公が自分の内面に抱えていた、なおかつ、本人はそのことを完全に自覚していた、という“闇”。
「ここは天国だから」というセリフの意味が、エンドロールの間にガツンときちゃう、という、この不快感!

「七つの大罪」がテーマだった「セブン」よりもエグい終わり方ですから!
グエッ!


う~ん。

感想を書きながら暗鬱な気持ちになってきました。
実は、この作品と一緒に借りてきたのが、なんと「チェンジリング」。
併せて観ちゃいけない作品でした。


結論としては、阪本監督の傑作、だと思います。
気迫と凄み。


グエェ…



2009年11月1日日曜日

「バンク・ジョブ」を観る

ロンドンが舞台の、実話を基にしたという「バンク・ジョブ」を観る。


う~ん。
面白かった。いい作品でした。


上手く言えないんだけど、こじんまりまとまった、というか、無理をしないでやれることをキッチリやる、という製作ポリシーを感じて、そこも好印象。

ストーリーは、政治的な思惑から、情報機関「MI-5」(ちなみに、ジェームス・ボンドが所属しているのはMI-6)がある銀行を襲撃する計画を立て、それに乗っかってしまった男たちが、色々ありながら最終的に…、というもの。

まず、銀行襲撃を決行するにいたる前段階の説明を、冒頭でかなりテンポ良く進めていって、そこがちょっと分かりにくいんだけど、まぁ、なんせ実話なんで、そこはしょうがないっスね。
もちろん、全部がちゃんと一つに収まるようになってるんで、全然いいんですけど。


面白いのが、“襲撃”を成功させた後に色々展開がある、という部分。
「やった! 逃げろ!」で終わるんじゃなくって、むしろその後の方が面白かったりして。
この部分の話の造りはなにげに面白い。


実行犯たち、MI-5、警察署の腐敗警官と彼らを買収して“子飼い”にしているポルノ王、という三つ巴の抗争が、と。
そこに、主人公の男の、生活感や、人生との格闘に敗れかけているという“動機”、美人な奥さんと“仕事”の話を持ってきた女との微妙な関係、とか、その辺の、ちゃんと丁寧に描かれた「人間ドラマ」が挿し込まれていく、ということで。

主人公の俳優さんが、またいいんだよねぇ。ジェイソン・ステイサム。
役の、奥さんや娘を思う“普通の人間”の哀愁と、襲撃を成功させるカリスマ性とか、意外に頭も切れたりするというキャラクターが、この俳優さんだとちゃんと成立してる、というか。
別に演技がどうこうってことじゃないんだよね。存在感がいい、という。
「スナッチ」での役よりも、もっと奥行きのあるキャラクター、という感じで、ちゃんとそれを演じきってます。


ディテールとしては、モダンな画がまず印象的。デジタル機材を使うとこういう画になるのかなぁ。
最近の、特にイギリス映画では、こういうシャープな画が多いので、もうこれが一般的ってことなんでしょうか。
まぁ、ひょっとしたら、イギリス特有の、光量自体が少ない土地柄というのも関係してるのかもしれませんが。


で、時代感を表現するため(設定は、70年代)の街路や建物やモブシーンは殆ど作らず、基本的にはセットの中でのカットで話を進めていく、と。
狭いアングルのショットを多用してるのもそうだし、とにかく余計なことはしない、ということですね。銀行襲撃の話なのに、あまり銀行らしいショットが出てこなかったりするワケです。襲撃のターゲットは地下の貸し金庫なんですが、要するに、必要なそこ貸し金庫しか撮らない、という。

アクションシーンも最低限に抑えているという印象。もちろんガンアクションもなし。


それでいて、ラストの駅のホームでのシーンなんかも緊迫感をしっかり出すことに成功してるし、巧いなぁ、と。(地下鉄のホームでのショットなんかも、凄い上手)
しかも、ゴチャゴチャするカットは、ホームから、駅の裏手という“安上がり”な場所にちゃんと移動して撮ってるんですね。
その辺も、巧いと思います。


なんか、ちゃんとカタルシスもあるしね。


うん。
いい作品でした。



2009年10月31日土曜日

赤川次郎、井上ひさし、小林多喜二、そしてサルトル

赤川次郎さんが新聞に連載しているコラムで、井上ひさしさんの、「蟹工船」の小林多喜二を描いた舞台「組曲虐殺」を観ての感想を書いてまして。



多喜二役の井上芳雄のファンなのか、若い観客も多かったが、多喜二が生き、そして虐殺された時代の空気をどう受け止めたのか、訊いてみたい気がする。
フランスの哲学者サルトルが、第二次世界大戦時のドイツ占領下ほど、自分が自由だったことはなかったと言っていたことがある。占領下では、自分の書く一つ一つの言葉が生命の安全を脅かしかねなかった。
「命がけで書く」というその覚悟がサルトルを鍛えたのだ。
今は権力を批判しても拷問され殺されることはないが、そうなると、むしろ現実から目を背け、内にこもってしまう書き手が多いようなのはどうしてだろう。



まぁ、サルトルにしか言えない言葉でもあるんですけどね。

それから、現在の“闘争の場”はまさに“内面化”されているからだ、という言い方もあるとは思うんですが。

ただし「命がけで書くというその覚悟が鍛えたのだ」と。
この言葉は大きいですよね。


占領下ほど自由だったことはなかった。


う~ん。


凄い。

2009年10月30日金曜日

「アイガー・サンクション」を観る

午後のロードショーで、クリント・イーストウッド主演の「アイガー・サンクション」を観る。


クリント翁の、監督としては初期の頃の作品、ですね。

オープニングは、ひと目で“スイスの湖畔”と分かる場所で、なんかドラッグの取り引きみたいに見せかけたマイクロフィルムの受け渡し、という、緊張感たっぷりな感じで期待させるんだけど、という。
このシーンは、メランコリーな音楽が逆にサスペンス感を高めていて、合わせ方の妙ってことなんだろうけど、新鮮味を感じました。参考になった。


で。
その後は、プロットとかストーリーはなんだか適当だなぁ、という感じ。
ま、当時の作品って殆どこんな感じなんで、それはそれでいいんですけど(でも、実はちゃんと小説の原作がある作品なんですけどね)。


だいたい、主人公が、ハリー・キャラハンまんまの佇まいで「大学で美術を教えてる」って、もうそれだけで違和感ありまくりで、なおかつ“凄腕のスパイ”で、それでいて“一流の登山家”という、ワケの分からないスーパーマンぶり。
もちろん女にもモテまくりなんだけど、すぐ裏切られちゃうし、というトコも良く分からない。
“組織のボス”の設定も意味不明なんだけど、その“組織”にすげー頼られているワリには、仕掛けられる罠にいちいち全部ハマっていく主人公。
どうなんだ、それ、という。

1番のクライマックスなハズの「アイガー北壁」に登る、という動機がまず全然分かんないし。
別に一緒に登る必要ないし。


と、グダグダ文句言いつつも最後まで見ちゃったのは、たまにハッとするようなショットがあるからでした。
ああいうのは、なんつーか、勉強になるね。

具体的には、顔のアップとかバストショットとかの、真ん中からちょっとズレたトコに人を置いて、空間を取る、という、個人的にそういうのが凄い好きなのもあるんだけど、なるほどな、と。

そういえば「ペイルライダー」にも、そんな画がたくさんありました。
ちなみに、「ペイルライダー」は、この作品の10年後の作品。



“山岳シーン”は、特になにもないっスね。
こちとら、「植村直己物語」観てますから。(八王子に昔あった映画館に親父と2人きりで「植村直己物語」を観に行ったのは、俺の映画に関する原体験の一つでもあります。映画の下敷きを買ってもらって、それをかなり大切に使ってました)
氷壁滑落ぐらいじゃ、ピンときません。


あ、でも、アメリカの西部の渓谷の、垂直にそそり立つ岩山を登る、というシークエンスは良かった。あんな画は反則というか、むしろそこをメインに撮ればよかったのに…。



というワケで、(生意気言わせてもらうと)クリント翁にもこんな頃がありました、という作品でした。


2009年10月29日木曜日

「さらば愛しき女よ」を観る

午後のロードショーで、ロバート・ミッチャム主演の「さらば愛しき女よ」を観る。



う~ん。
まぁ、今さら俺が感想書いてもな、というクラシックですが、個人的には、実はチャンドラー作品はまったく手に取ったことがなかったりして、この作品も初めてなんで、そういう意味では新鮮だったかも。

具体的には、主人公のフィリップ・マーロウのモノローグでストーリーが(中盤まで)語られている、というのが結構新鮮だった。
最近だと、あんまりこういうのってないんじゃないですか?

画の質感は、だいたい同じ頃に作られた「刑事コジャック」(これはテレビシリーズだけど)とソックリって感じで、「コジャック」は個人的に大好きなんですけど、それをちょっと思い出したかな(S・スタローンが出てるっていうのもあるけどね)。
ま、この作品と「コジャック」じゃ、描かれている時代は全然違うんで、ホントは似てないハズなんですけど、なんつーか、視線の低さとか、そういうトコがね。


作中、ずっとジョー・ディマジオの活躍が語られるんですけど、その中で、「ディマジオは子供たちの歓声を受けるんだろうが、子供の泣き声は聞こえないだろう」みたいなセリフ(モノローグ)があるんですね。
これは良かった。
その(父親が死んでしまって)“泣いている子供”のために命を張るんだ、という主人公。

でも、ロバート・ミッチャムにはあんまりフィットしてない役のような気もするんだよねぇ。生意気なこと言っちゃうとね。

ま、いいんですけどね。




チャンドラーか…。
フィリップ・マーロー。


読んでみよっかなぁ。


2009年10月21日水曜日

「コンフェッション」を観た

というワケで、今日は今週の映画天国で観た「コンフェッション」の感想です。
ジョージ・クルーニーの監督デビュー作、ということで。


“コンフェッション”って、「告白」って意味らしいですね。知らなかった…。
題名の通り、主人公の男が自分の人生を「告白」していく、というストーリー。


で、告白されるストーリーが一筋縄でいかない(ま、だからこそ映画になるんだけど)、ということで、なんだかよく分からないまま話がどんどん進んでいく感じになってます。

個人的には特に前半の、なんだか“軽薄なコメディタッチのなんか”みたいな雰囲気が全然ダメで、惹き込まれるようになったのはホントに中盤以降ですね。

主人公が、自分の内面の“精神的な均衡”と保つために暗殺(つまり、合法的な殺人)を自ら欲するようになる、というあたりから。

その辺で、前半の、軽薄な、どこか浮ついたタッチで人生を描写する、という部分の意図が分かった、というか。
つまり、主人公の感覚がそうだった、ということですね。
自分が生きる人生や生活に「現実感」が欠如していた、という、そういう人物描写のための手段だった、と。
書割りのように表現される部分も、主人公の自己認識では、なにかの舞台の上で「自分という役柄」を演じさせられているだけ、みたいな感覚だった、と。

ここで、腑に落ちる、というか、しっくりきた、という感じで。


で、主人公がテレビ業界で成功するにつれて、その“浮ついた感”“非現実感”は、そのままテレビ業界における生活、という部分に、つまり主人公にとっては「日常という現実」にトレースされてきてしまう。
そして“現実化してしまった非現実感”に、耐えられない。

そこで、精神的なバランスを取るために、まごうことなき現実である“殺人”という現場に自ら赴く。


面白いのは、“殺人”の現場においても、“殺人者”という“自ら生み出したキャラクター”をまとう、という形で振る舞うんですね。主人公は。
帽子をハスに被り、黒いコートを着て、ミステリアスな女を抱く。

まるでひとつの“ゲーム”であるかのように、つまりそこでも“非現実感”に包まれている。


で。
ある局面で、東側に捕らえられるという体験をし、そこでの諸々を経て、“現実”に引き戻される。
というより、初めて現実に直面する、というか。


ドリュー・バリモア演じる彼女との結婚も避けてきた主人公が(それは、はっきりとは語られないんだけど、主人公の現実逃避のひとつだという描写でしょう)、ついに自分の命の危機を感じるに至って、自分がその時にいる“現実”を知る、と。


その後の、精神的に破綻しかけた主人公が、裸でテレビの前に立っている、という姿で描写されるんですが、これは多分、そこでは主人公は“裸の自分”というのを把握しているのだ、ということだと思うんですね。

今まで身にまとっていた“衣”をすべて脱ぎ捨てて、という。スパイでもなく、テレビ局のやり手プロデューサーでもなく、裸の自分。


ここで、最近の潮流としては「裸の自分なんていうのも虚像なんだ」というトコに落とし込んだりするワケですが、この作品では、そこまでは行きません。(というのが俺の解釈)


最後のヤマとして、裏切り者とのサスペンスタッチの対決を描いて、なんつーか、多分これが“落とし前”ということだと思うんだけど、最後は老人となった主人公の言葉で〆る、と。


ま、話の流れを追ってしまうと、こんな感じ。


ディテールとしては、ソダーバーグの「トラフィック」スタイルで、シークエンスごとに色のタッチを変えて、ということをしてますね。
過去のマンハッタンのテレビ局では光を飛ばしてパステルな感じ、中南米(多分メキシコだと思うんだけど)での初めての暗殺のシークエンスでは光量を多くしたザラザラしたタッチ、東ベルリンや東欧での暗殺のシークエンスでは黒味を強調したサスペンスタッチ、という感じで。LAでのテレビ局での生活、ニューヨークでの安ホテルでの隠匿生活、など、場面ごとに、ワリとあからさまにそういうことをやってる。
ま、個人的にはそういうのは凄い好きなんですけど(自分でもこういうのはやってみたい)、こういうのを安易って言う人もいるかもしれませんね。
いいと思うんですけどね。映画表現のひとつの進化だと思うんで。



あ、それから、なんつーか、ハリウッドにおける“派閥”じゃないけど、そういうのが垣間見えるのもこの作品のアレかも。
ジョージ・クルーニー一派、というか。
ソダーバーグとコーエン兄弟の作品には、G・クルーニーを初めとした、ワリと決まったメンツが出てますよね。
ブラピもそうだし、ジュリア・ロバーツもそうだし。
ちなみに、先週の「バーバー」の主演のビリー・ボブ・ソーントンは、アンジェリーナ・ジョリーの元旦那ですけど、もちろんA・ジョリーの今の旦那はブラピだからね。


あと、やっぱりジョージ・クルーニ―のこの後、ですかね。
この後に「シリアナ」という大作の製作・主演や「グッドナイト&グッドラック」の製作・監督・主演という見事な仕事をして、その後は「フィクサー」をソダーバーグと一緒に製作して。

ちなみに、これは知らなかったんですが、「ジャケット」という作品の製作もしてるんですね。この「ジャケット」という作品は、結構面白かった。



というワケで。
なんつーか、観る人を選ぶ作品ではありますよね。
普通に観たら、それこそ単なる“告白”で終わっちゃう、というか、「こういう人が居ました」で終わっちゃう作品だと思うんで。「CIAって凄いな」とか。

まぁ、そういう作品だって言えばその通りなんですが、もうちょっと深みや奥行きもありますよ、と。

そんな感じでした。



2009年10月20日火曜日

「バーバー」を観た

先週の「映画天国」(月曜映画の後釜です)で観た、コーエン兄弟の「バーバー」の感想です。


というか、久しぶりにレビューを書くんで、正直、なんだか書き方を忘れてしまった感じでして…。


コーエン兄弟。
「オー・ブラザー!」の後に作られた作品なんですねぇ。


う~ん。

面白いっちゃ面白いんですけど…。



まず、最初の印象は、なんといっても「モノクロ」である、というトコ。
「モノクロとは単に色がないというだけじゃない。もっとスペシャルなものなんだ」みたいなことを言っていたのは、フランスの天才マシュー・カソヴィッツですが、まぁ、コーエン兄弟にとってもチャレンジだってことなんでしょうかねぇ。
コーエン兄弟って、やっぱり、巧みにコントロールされた色彩感が特徴のひとつにあると思うんですよね。ロケーションや服やライトのチョイスってだけでなく、作品ごとに、全編にわたってちゃんと計算された色使い、というのが。
そういうのがこの作品にはないので。もちろん、そういう色彩感のひとつとしてモノクロが選択された、ということだとは思うんですが、なんつーか、別にねぇ、という。

この時代に、コーエン兄弟みたいなポジションの人たちが敢えてモノクロを導入する、というのには、やっぱりそれなりの“現代性”みたいなのがないとなぁ、なんて。
俺としては、あんまりそういうのは感じなかったんで…。
ひょっとしたら、映画館でデカいスクリーンで観たらまた違った印象だったのかもしれないんですけど


キャラクターの演出とか、すげーいいんですよねぇ。
セットとかの美術も凝ってるし。

でも、そういうのを含めた“時代感”が、モノクロであるというトコに寄りかかり過ぎてるんじゃないかなぁ、なんて。
コーエン兄弟ですからねぇ。
カラーでも全然出来る腕を持ってる人たちですから。


まぁ、そういうのは作品の本質とはあまり関係ないですね。




で。
作品のストーリー。


なんつーか、個人的には、この「まわり回って~」とか、「無常観的な傍観者としての主人公」とかって、あんまりピンとこないんです。

ひょっとしたら、こういうのって、いわゆる「東洋的な」って感じなのかなぁ、なんて。
別に新鮮じゃないんだよね。
この作品の主人公がとり憑かれている“諦念”って、ひょっとしたらアメリカ人には新鮮な概念なのかもしれないんだけど、それこそ「塞翁が馬」じゃないけど、別に「無くはない」みたいな印象で。
「別に…」って感じがしちゃうんだよなぁ。


“輪廻”とか“因果応報”とか、日本人にとってはそんなに目新しい概念でもないでしょ?



でも、さすがに鋭いショットは幾つもありましたね。
バーバーでのカットはどれもクールだしね。
「奥さんを逮捕した」と刑事たちが主人公に告げに来るシークエンスは、なんかは、セリフも含めて、巧いなぁと思ってしまいました。特に、床屋に刑事が入ってくるカットは、ね。
ちゃんと緊張感を持たせてるし、ホンの少しの間なんだけど、その緊張感を持続させて生かして、という演出になってる。
デパートの奥の部屋で殺人を犯してしまうシークエンスも良かった。
その前、酔っ払った奥さんがベッドに横になってて、呼び出されて家を出て行って、殺してから家に戻ってきて、ベッドに寝てる奥さんの横に、というトコも。
そういう部分のキレ味は、さすがという感じです。


あ、あと、スカーレット・ヨハンソンがピアノ売り場でピアノを弾いてるショット。
あれは良かった。

あのあたりは、殺人という“一線”を越えてしまった主人公が、急に哲学的なことを言い出したり、美しい音楽に惹かれるという、芸術的な感性が覚醒したり、という、とても面白い展開のパーツのひとつになってるんだけど。
なんていうか、一線を越えた後に、急に“人間性”に目覚める、みたいな。

それまで、なんとなく流されて生きてきた主人公の内面が、そこで少し変化し始める、という。
そこは面白いですよねぇ。

でも、その後にその「人間性の獲得」みたいなのが強調されるかっていうと、別にそうでもないんで、作り手の意図はあんまりそこにはなかったのかな、なんて。
俺の勘違いなのかもしれませんけど。



そんな感じかなぁ。


ただ、重要なことは、後の大傑作「ノーカントリー」にも通じる要素が幾つか見られる、というところですね。主人公の諦念は、「ノーカントリー」のハビエルにもやっぱり繋がってると思うんだよねぇ。
まぁでも、その辺は別に「ノーカントリー」を観ればいいってだけの話なんだけど。



というワケで、巧く書けませんでしたが、「バーバー」の感想でした。



2009年10月13日火曜日

東京島、篠崎誠、ユーズフィルム

桐野夏生さんの「東京島」を、篠崎誠監督が撮る、というニュースが。


これは、期待っス。


ユーズフィルムっていうのは、USENの宇野社長が設立した製作会社で、配給はギャガ、ということらしい。
ギャガはUSENのグループ会社だけど、USENといえば、Gyaoがヤフーに移った(売却した)とかで、この辺の事業を再編成してるってことなのかなぁ。
宇野さんはユーズフィルムは個人のお金で設立した、ということなんで、これからも映画制作はやっていくんだ、と。


それで、篠崎さんか。
渋い。
でも、期待。



実際に“南の島”に行って撮影するらしい。

う~ん。
もっと早く情報キャッチしてたら「お手伝いさせて下さい」とか、ね。「炊事係で!」とか。
言えたんだけど。

ま、それはさておき。


作品は期待です。


2009年10月4日日曜日

雑誌/書籍 テレビ/映画

新聞の毎週日曜に掲載される書評のコーナーの隅っこに(一応、“扉”ということになってました)、小さなコラムが載ってまして。


出版業界とウェブについて。

グーグルが先月、オンデマンドブックス(ODB)社との提携を発表しました。グーグルが提供するデータは200万タイトルで、高速簡易製本機を使えば、表示がカラーのペパーバックが数分で印刷・製本できるといいます
ODBを率いるのは28年生まれのJ・エプスタイン。ダブルデイ、ランダムハウスなどに在籍、ペーパーバック革命を仕掛けた伝説的編集者です。2001年の著書にはすでに、「まもなく著者と読者は世界規模の共同広場で再会することが出来るようになるだろう」と予言的に書いています。

時代の変化から目を背けず対応してきたエプスタインは、これからの出版単位は小さなものになるだろうと予測します。書籍出版は「もう一度、多様で、創造的な、自立する単位としての家庭的産業になるであろう」と。

著者と読者は世界規模の共同広場で再会するだろう
もう一度、多様で、創造的な、自立する単位としての家庭的産業になるだろう
と。


まぁ、グーグルと出版業界を巡る話っていうのは、かなりデカくて込み入ってるんですけど、要するに、いよいよグーグルが飲み込みにかかってる、と。
出版業界から見れば、そういう感じだと思うんですけど。


ただしかし、“伝説的編集者”であるエプスタインは、多様性と創造性を“取り戻す”契機になる、みたいな認識を持ってる、ということですね。
「家庭的産業」ということで、まぁ、出版業務を担うそれぞれの出版社はスケールダウンするんだろうけど、と。
まー、なんつーか、出版社とかエージェントとかの“既存権益”について考えれば、それは確かに、新興の大巨人であるグーグルは脅威なんだろうけどね、と。


そういう話ですね。


ま、あんまり詳しくない分野なんで、今日はこの辺で。
でわ。

2009年9月28日月曜日

CMプランナー

えー、あいかわらずこのブログは更新が滞ってますが、いま書いてる作品がもう少しで書き上がるので、それが終わったらまた“活性化”するハズなので・・・。



とりあえず今日は、新聞に載ってた、澤本嘉光さんというCMプランナーの方のインタビューを。

澤本さんは、今はソフトバンク・モバイルの“家族”のシリーズを手掛けているんだそうです。
まぁ、超人気CMですよねぇ。
上戸彩はめちゃめちゃカワイイし、樋口可南子の美人ママも最高ですよねぇ。文字通り「美女と野獣」夫婦で。


いや、それはさておき。
以下、記事からの引用でっす。


課題が与えられ、予算や時間が限られる広告づくり。100の案を出しても通らなかったことも。だが、面白い作品づくりには、その制約が欠かせない。
「フリーでシュートする方がよほど難しい。パズルを解いているみたいなものです」
アイデアのヒントは日常生活の中にある。電車の中では路線図で勝手に双六ゲームをして、止まった駅で適当に話を作ってみたり、乗り合わせた人の物語を考えてみたり。
散歩をして神社に立ち寄ったり、木や草に触れたりすることで、気持ちをリセット。新しいアイデアは家族に話して反応をみる。
「独善的にならず、他人の意見に耳を傾けて、修正していく」


にゃるほどねぇ。


「フリーでシュートする方が難しい」と。
「スラムダンク」ですね。

色々な制約が課せられる世界なんだけど、逆にその制約を“バネ”にして高く跳躍していく、と。
そういうことですな。




というワケで、サラッとですが、今日はこのくらいで。
でわ。

2009年9月15日火曜日

伝統としての破壊と創造

新聞に、猿之助のスーパー歌舞伎を回顧した記事が載ってまして。
歌舞伎の世界は、まぁ、全然詳しくはないんだけど、俺の知識の範囲内でも全然読める、読み物としても面白い内容だったので、せっかくなんで、ここでご紹介。


86年2月、東京・新橋演舞場では、ふだんの歌舞伎公演ではまばらな若者の姿が目立っていた。世はバブル経済の上昇期。歌舞伎俳優の市川猿之助一門によるスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が同月4日、ここで初演されたのだ。
歌舞伎で見慣れた、役者の影を作らない高明度の照明ではなく、闇を生かすような照明。想像上の怪鳥が飛翔するかのような宙乗り。ワーグナー楽劇を日本化し、メタリックに加工したような感触だった。
猿之助は「歌(音楽性)+舞(舞踏などの視覚的な楽しさ)+伎(演技・台詞術)」が三拍子揃った歌舞伎の復権を提唱。台詞は現代語に近く、音楽、衣装、照明、装置も刷新した。後に「スピード、ストーリー、スペクタクル」が旗印に。猿之助は初演時の筋書きに、心理を掘り下げて描く青山青果らの新歌舞伎に対し、「歌舞伎の面白さである歌、舞を忘れ、伎だけに片寄りすぎているように思われる」などと書いた。
むろん、歌舞伎は発生以来、変わり続けてきた。江戸期だけ見ても、変転があった。明治期の九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎の頃から古典化の道が始まり、新歌舞伎は歌舞伎に理知的な陰影を彫り込み、六代目菊五郎の世話物も時代の風を吹き込ませて新鮮だったとされる。69年の三島由紀夫作「椿説弓張月」は反時代的な観点からの変化だった。
古典化・高尚化を極めた六代目歌右衛門ら梨園の統治者が健在時に「歌舞伎を民衆の手に」と夢の実現に冷徹に向かった勇気と才能は歌舞伎史に輝く。
後続の主な試みは「視覚的効果」「未来の観客」に心を砕いている点などで通底するようだ。今、先頭を走るのは、中村勘三郎だろう。勘九郎時代の彼がまず組んだのが、演出家の串田和美だった。94年からの「コクーン歌舞伎」、仮設劇場を営む「平成中村座」。歌舞伎を現代に飛び込ませる姿勢が明確で、同時の歌舞伎の始原的姿を求める演劇活動にもなっている。
尾上菊五郎・菊之助らが演出家の蜷川幸雄と作り出したシェークスピア原作の「NINAGAWA 十二夜」は05年初演。鏡の演出、菊之助らの好演、音楽の妙味などで、そこはかとない王朝美を見せた。松本幸四郎らは、演劇としての歌舞伎を目指す歌舞伎企画集団「梨苑座」を00年に立ち上げた。
坂東玉三郎は泉鏡花原作「天主物語」などを06年、「高野聖」を08年に手がけた。台詞は現代語に近く、三味線音楽も際立たない。歌舞伎様式が溶解していく感覚。
スーパー歌舞伎は「心理主義」という当時の正統に対する、異端者による「視覚主義」の抵抗だった。


そういえば、以前、玉三郎のドキュメンタリーを観てたら(猿之助のお弟子さんにあたる)春猿と一緒に舞の稽古をしてて、「へぇ~」みたいに思った記憶があります。


で。
恐らく、この新歌舞伎っていうのがヌーベルバーグとかニューシネマとか、そういうのに当たるモノだったんでしょう。


ただ、実は猿之助一座も代替わりしてて、なんつーか、異端だったことの継承、つまり伝統化が始まっている、という。

記事中で書かれている勘三郎の次代の勘太郎も、いわゆる正統派のボンボンって感じで、端正だけど、親父が持ってる迫力みたいなのはあんまり備えてないよな、というか。(次男坊は酔って暴れたりして、そういう、エネルギーの大きさって意味では期待できるかもしれないけど)
で、そういう繰り返しの中で、色んなところに揺れたり揺り戻したり、つまり“揺れ”と、それが引き起こしてしまう“摩擦”自体もエネルギーとして進化の中に取り込んでしまう、という、ある意味で“異端”をメカニズムとして内包しているのが歌舞伎なのかな、なんて。
歌舞伎という、伝統芸能でありながら現代でも存在を誇示して(むしろ謳歌している)のは、そういう理由なのかなぁ、と。
まぁ、勝手に無理やり構図化しちゃうと、という話ですけど。



これもちょっと前なんだけど、確か蜷川幸雄が、寺島しのぶと松たか子を並べて評して、「梨園の女子として生まれ育った彼女たちには、女というだけで(家業からの)排除を被ってきた怨念みたいなものを背負っていて、その背負っているものが演技をしているなかに立ち昇ってくる」みたいなことを言ってて。
その言葉を借りるなら、そういう、女性性という新たな“異端”を内包している幸四郎・染五郎の系譜や、菊五郎・菊之助一座が今後その可能性を(恐らく、無意識のうちに)切り拓いていくのかな、なんて。
ま、勝手な想像ですけどね。



歌舞伎はねぇ。高校生のときに、課外授業かなんかで一回だけ観にいったことがあるんですよねぇ。モロに圧倒されちゃった記憶がある。
ちなみに、俺は大阪で人形浄瑠璃も観たことがあります。一回だけ。これはこれで、繊細なだけでない、なかなか重厚な世界でしたけど。



ま、全然知らない世界の話ですけど、こういう、偉大な伝統の歴史の中にも、いろいろウネリみたいなのがあった、と。そういうことですな。

2009年9月12日土曜日

アンパンマンとばいきんまん

つい最近、一部のブログその他で盛り上がってた「アンパンマン論」に、軽く衝撃を受けたので、ご紹介。

神話としてのアンパンマン
アンパンマンはダークナイトだ
アンパンマンが顔を食べさせることの意味

だいたい、この三つのエントリーに集約されてるって感じなんですけど・・・。



やはり衝撃的だったのが、「アンパンマンとバイキンマンは双子の兄弟だった」的な解釈ですよねぇ。
同じモノだったのが、片方は発酵がうまくいって(パンは生地を焼く前に、イースト菌で発酵させるっていう工程がありますよね)ちゃんとパンになったんだけど、もう片方は、なんだか色んな菌が繁殖しちゃって(腐っちゃって)、“バイキン”として捨てられちゃって、という。


あと、アンパンマンは、パンの中に餡が入ってるワケだけど、それは「人間が制御する為に脳を抜かれた(思考力を抜かれた)からだ」という解釈。
アンパンマンは「兵器」なんだ、という。
そもそも、その“頭”が換装可能、という、ある意味でトンでもない機能を持ってるワケで。


ばいきんまんは、そんな、人間に良いように使われている「双子の兄弟」を助けに来てるのかもしれないなぁ・・・。
なんつって。



あとはやっぱり、アンパンマンとばいきんまん、つまり正義と悪っていうのが、相互に依存しているのだ、というトコ。
悪が存在していないと正義というのも成立しないのだ、と。
ばいきんまんを殺してしまえないアンパンマンを、バットマンとジョーカーの関係になぞらえて語られてたりしてるしね。



なんつーか、こういう風に解釈するって、まったく思ったことがなかったんで・・・。
個人的には、ばいきんまんとドキンちゃんの関係って、ルパンと峰不二子みたいだな、とか、尻に敷かれてるくせにドキンちゃんはしょくぱんまんが好きで、なんか可哀想なヤツ、とか(そんなばいきんまんが好きでした)、そのくらいしか考えたことなかったからね・・・。



そうか~。
パン種ね。発酵がうまくいったパンと、腐敗しちゃった“バイキン”。
双子の兄弟、ね。


やっぱ、最終回には、「君たちは双子の兄弟だったんだ!」って誰かが告げるんだろうねぇ。
ガ~ン!みたいな。



まぁ、「兄弟」っつーのは、古くから(「神話としての」って書かれてるように、それこそ神話の時代から)物語の一類型としてずっと在るモノですからね。


う~ん。

こういうトコから色々発想しちゃいますよねぇ。

2009年9月10日木曜日

民営化≒営利至上主義≒腐敗の発生

今日の新聞に、アメリカ発の興味深い記事が載っていたので。


少年事件の審判で、対象の少年らを特定の私立拘置施設に送る決定を出す見返りに、その施設の経営者から約2億4千万円を受け取っていたペンシルバニア州の少年審判所の元判事らが法廷で裁かれることになった。地元法曹界などは「最悪のスキャンダル」として衝撃を受けている。
ニューヨーク・タイムズ紙などによると、施設側から受け取った金銭を隠したとして脱税などの罪に問われているのは、少年審判所のマーク・シバレラ元判事と州地裁のマイケル・コナハン元判事。
シバレラ元判事は、08年までの5年間で担当した約2500人の少年の審判で、旧知の弁護士が設立した私立の少年拘置施設への送致決定を下していた。
予算編成の権限を持っていたコナハン元判事は、予算措置を停止して公立の拘置施設を閉鎖に追い込み、少年たちの身柄を送る先はこの私立の施設しかない状況を作り出したとされる。

この間、郡で拘置される少年の比率は州平均の倍以上にのぼり、問題の施設の収容人数がほぼ一定になるなど、不自然さは際立っていた。審理開始前から施設に送る少年の割り当て人数を決めていたこともあったという。

2人は、施設側から巨額の金銭を受け取り、別荘や高級ヨットを購入。シバレラ元判事は金銭授受を認めているが、少年審判で判断は曲げていないと主張している。

これは相当酷いですよね。あらゆる種類の腐敗がこの事件には詰まっている。


「判事」っていう職業は、基本的には、こういう“買収”が起きないように、身分と収入が保障されてる、ということになってるハズで。
なんつーか、元判事たちの動機っつーのは、もうとてもシンプルな「強欲さ」なワケですよね。
司法機関内での、あるいは法曹界での地位の上昇を目指す、とか、そういう出世欲みたいなのが動機ではないワケで。

ただ金銭欲・所有欲を満たしたいがために、少年たちの“人生”を、自分たちのその欲望の“餌”として喰う、という。


このエントリーのタイトルでは、まぁ、民営化が腐敗を生むんだ、みたいなニュアンスですけど、別に「民営化」と呼ばれる施策すべてを否定するつもりっていうのはなくって。
ただ、こういう、「利益を最大化する」っていう“動機”が生み出してしまう「逸脱行為」に巻き込まれちゃう悲劇っていうのは、なんつーか、動機がチープなだけに、よけい不条理さが浮き彫りになる、というか。


この、「施設の経営者」っつーのは、なかなかのタマだと思うんですよねぇ。
直接的に、彼らの“餌”である、拘置される少年たちのボリュームを増やす、ということで、その窓口になる少年審判所の判事を抱き込む。
判事は、経営者の望むままに、施設の収容能力のちょうど限度いっぱいまで(つまり、経営効率がもっとも高まる収容人数まで)、少年たちを施設に送り込む。


同時に、同業他社であるライバルを潰す、と。
公営による拘置施設を、予算の権限を握っている判事を抱き込むことで、その施設を閉鎖に追い込んで、“市場”の独占を図る、という。

これは、恐らく公務員である、潰されてしまった拘置施設の従業員たちの職も奪ったってことですからねぇ。
そういうことを許した元判事の罪っていうのは、これは大きいですよ。


で。
ここで起きてるのは、いわゆる「重罰化」ですよね。重罰化と偽って、必要以上に重い罪である「拘置施設に拘置する」という罪を科せられてしまっている。
少年犯罪に対する「重罰化」って、そういうのを求める“市民の声”っていうのがあると思うんですよ。そういう“風潮”に乗っかっちゃってる可能性もある、というか。



そういう、色んなものが混ざり合ってるニュースだな、と。





日本では、栃木の、菅家さんという方が「どうやら無実だったらしい」ということで、無期懲役の執行が停止され釈放された、というニュースがありましたけど。

足利事件、ですね。

この事件は、菅家さんは完全に無実だろうってことなんだけど、実は、この事件は「連続事件」で、つまり「連続犯」であろう「真犯人」は、完全に野放しになってる。

警察の建前としては、真犯人はすでに無期刑に処されているんだから「事件は終わってる」ってことになってるワケで、つまり、捜査が止まってる。

ということですから。




なんつーか、不正義っていうか、ね。
絶対にあっちゃいけないことですよね。



2009年9月9日水曜日

青山で観劇

昨日(月曜日)は、青山円形劇場へ出かけていって、ロハ下ルという劇団(ユニットっつーの?)の「わるくち草原の見はり塔」という作品を観てきました。







いやぁ。凄い!
こんなハイクオリティな脚本を書く人が埋もれてるなんて(埋もれてるなんて言い方したら怒られるのかな?)、信じられないっス。
一応「蝿の王」を下敷きにしてるってことになってるけど、「バトルロワイヤル」の方が近いかな、なんて。

個人的には「バトルロワイヤル」の“完成形”みたいな感じでした。進化形。
ガキの話じゃなくって、大人の話だしね。

ざっと、キラーな言葉だけを羅列しちゃうと、こんな感じ。
「キャラ」
「スクールカースト(に模せられた序列)」
「マスコットとしてのマイノリティ」
「ルール」
「社会との契約」
「雇い主との契約」
「悪魔との契約」
「安心の名で提供される支配」
「相互監視による支配システム」
「相対化された神」
「去勢と引き換えの自由」
ルールによって肯定される序列と、ルールによって肯定される暴力。その暴力が生む麻薬的な快楽と、ルールには規定されていない(しかし否定もされていない)個人的な報復。報復が生むカタルシスと快楽。
同じくルールによって規定され生成される友情。友情が生む苦悩。
巧妙に内面化させられ、正当化させられている被支配の理由と立場。


いやぁ~。こんだけの社会批評性を内包しながら、ちゃんとストーリーとして、しかもある種のファンタジーとして成立しちゃってる、という。
どんな脳ミソしてんだ・・・。



マジで映画化とかすればいいのになぁ。
普通に映画祭とかで賞獲っちゃうレベルだと思うんだけど。



俳優さんの演技も良かったです。
しかも、演劇特有の肉体性に寄りかかり過ぎない、というか。
叙情性に偏らない感じ。
肉体性・身体性がその“効力”を一番発揮するのが、この、叙情を語る部分だと思うんだけど、そこに近寄っていかないんですよねぇ。
最後まで気持ち悪いまま、つまりカタルシスを与えてくれない。



う~ん。
個人的にこういうのが好きだってだけのアレなのかなぁ~。

とにかく「すげーもん観ちゃった」って感じだったんだけど、終わった後は、みなさん普通に“歓談”してたからねぇ。
正直、あんまりそんな気にもならない、ぐらいのアレだったんですけど・・・。(知り合いの役者さんとは、一応ちょっとは話をしましたが)



う~ん。



というワケで、個人的にはかなり刺激をもらって帰ってきました。


この公演自体が再演みたいなんだけど、ぜひぜひ何度もやって欲しいな、なんて。
そしたら、俺も知り合いとかに薦められるからね。

俺もまた観たいし。



というワケで、今日は観劇記でした。
でわ。

2009年8月30日日曜日

小津安二郎+野田高梧/山田洋次+朝間義隆

書いていた作品が、なんとなく一段落したんで(別に書き終えたワケじゃない・・・)、小津監督の資料を探すべく、高円寺の古本屋をグルッと回ってきました。



見つけたのが、石坂昌三さんという方の「小津安二郎と茅ヶ崎館」というタイトルの本。
まだ一通りサラッと読んだだけで、小津監督と脚本家野田高梧がどんな方法論で書いていたかっていうトコまでは詳しくは書いてなかったんですが、なかに、こんな一節がありまして。



神楽坂の「和可菜」という旅館に籠もって、山田と朝間はワープロ一台を挟んで向かい合う。
山田が設定や状況を話し「こんなことは考えられないかナ」とボールを投げると、朝間がそれをキャッチして「それは不自然だよ。いまの若者はそんなことでは悩まない。後のことなど考えないで飛び出しちゃうよ」とボールを投げ返す。
2人はキャッチボール方式で、暴投があったり、脱線したりしながら、交代でワープロを打ち、ワン・シークエンスごとに仕上げて、話を進め、コンストラクションを練る。
日常見聞きしたエピソードや人物が下敷きになること、「松竹リアリズム」を守っていることは、小津の場合とそっくり同じ。シークエンスを書いた紙が、ワープロのディスプレイに代わっただけで、伝統を引き継いでいるといえる。

山田洋次監督のシナリオの執筆風景、ですね。


ポイントはやっぱり、「ワン・シークエンスごとに」ってトコなんだろうねぇ。
箱書きってことで。




ふむふむ。




もうちょっとまとめて書き残しておけるように、この本はまた再読します。




この本は、古本屋で800円だったんですが、アマゾンだと300円ぐらいみたいですね。
ま、安いっちゃ安いんだけど、やっぱり古本屋だと立ち読みできるっていうのが便利かな。この本もパラパラ立ち読みして買うって決めたからね。

ま、そういう話は別にいいっスね。


2009年8月16日日曜日

思考して、行動する。言葉はきっとその先に落ちている。

俺は朝日新聞を購読してるんですが、今日の夕刊に、佐々木幹郎という詩人の方のインタビューが掲載されてまして。
「追憶の風景」という、多分シリーズものだと思うんですが。


佐々木さんの“風景”は、ペルシャ湾のアルグルマ島というところ。

ちょっと長くなりますが。

地球が滅びるときは、こういう風景なんだろうと思いましたね。
白い砂浜と青い海、それにマングローブの緑。美しい島に見える。でも、すべて嘘、実際は半死半生の島なんです。白砂の下には、原油が固まって4センチのアスファルトと化した層がある。マングローブの周りのカニの穴も油づけで、カニの死骸は無数に見つかりました。

きっかけは小さな新聞記事でした。湾岸戦争でクウェートからアラビア湾(ペルシャ湾)に流れた原油を除去するため、関西の老人たちが、“ひしゃく”を持って行くという。僕は読んで笑い転げました。

記事に出ていた連絡先に電話してみたら、団長は「行きまっせー」という元気のいい声。
でもメンバーは英語を喋れない。それで僕に「通訳として同行してくれ」と。渡航費用は約40万円で自己負担。
僕にも戦争の跡をこの目で見てみたいという思いはありました。湾岸戦争はバーチャルリアリティーに覆われていて、現場を知らないでみなが議論していた。油にまみれたウミウの映像がでっち上げだという話まで出た。そんな状況を突き破る一つの方法かもしれないと思いました。

渡航近くになって、僕の詩集が「高見順賞」を獲ることが分かりました。その授賞式が渡航中に開かれるという。団長に電話したら、悲しい声で「行かないなら、全員の渡航をやめる」と。
僕は双子の弟がいるので高見夫人に「弟を代理に」と相談したら、「影武者ね、面白い。最後まで黙っていましょう」と。さすがにそれはマズイということで、弟は式の途中で身分を明かし、僕の言葉を代読しました。

“ひしゃく”は結局役に立たなかった。威力を発揮したのは“備中鍬”です。「オイルじゅうたん」と化したアスファルト層を剥ぎ取り、袋に詰めた。299袋、4.5トンになりました。マングローブには油を吸収する粉を塗りつけ、コンプレッサーで海水を吹きつけた。

島では海藻類が油を吸収して真っ黒になっていた。数羽の白いサギがカニを探していた。自然は自ら回復しようと涙ぐましい努力をしていました。


海上からは漁船が機関銃を撃ち合う音が聞こえました。隣国同士が国境争いをしていた。サウジ東岸のダーランという町のホテルに泊まりましたが、近くのアメリカ軍基地から轟音を響かせて戦闘機が飛び出し、サウジの役人たちが「戦争だ」と興奮していた。アメリカや企業が動けば、お金が落ちる。彼らは戦争を待望していた。僕は予想していないものを見てしまった。人類は滅びるまで戦争をやめないと思いました。



今日は終戦記念日でした。

2009年8月14日金曜日

松本清張は泥道を歩いた

新聞に、松本清張を特集した連載が載ってまして。
深い話が満載で面白いんですが、そこからごくごく一部をご紹介。


とりあえず、ご本人の“独白”を。

ヒントを思いついて、それを形になりそうなアイデアに育てる。それから小説のプロットに作ってゆくのだが、「思索の愉しさ」はそこまで。あとは苦しい泥道を歩く。


「あ~、清張でもそうなんだ・・・」と。(ホントは呼び捨てしちゃいけない方なんスけどね)
あとは苦しい泥道を歩く。


連載のこの回は、松本清張には“情報源”が居た、という内容で、その情報源(の、1人?)だったという、梓林太郎さんという方がインタビューに応えてまして。

「清張さんに物語のヒントを提供しました」そう言って梓は一冊のファイルを見せてくれた。表紙に「M資料」の文字。松本のM。「清張さんはメモをよくなくしてしまうので、控えを作っていたんです」
出会いは60年。知り合いのテレビ関係者から「松本清張が会いたがっている」と言われた。「妙な話を知っている男」として梓が話題になったらしい。
(初対面後)「変わっていて面白い話はないかね」。その後、しばしば呼び出されるようになった。夜中の2時でも電話で起こされた。××省にはどんな局があるか。変わった名前の知り合いはいないか。「身勝手なんです。もうやめる、と何度も思った」。そんな日はあとで決まって「林しゃん」と優しい声で電話をかけてきた。「ほだされて、また行くわけです」

清張には大勢の取材者を抱えた工房がある、と邪推する人がいた。清張はそれを嫌った。梓とのやりとりも、若い知人との世間話を考えたかったに違いない。世間話は梓が作家デビューする80年まで続いた。

う~ん。普通にこのエピソード自体が面白い・・・。
これだけでひとつの作品になるよね。

しかし、20年間も、凄いね。この梓さんという方は、若い頃(清張に話題を提供していた頃)、企業専門の調査員をしていた、ということで。
そりゃ、いろんな話を知ってるんだろうけど。


で。
この記事の締めくくりがなかなか粋で、良かったんです。


世間話の相手もタクシーの同乗者もいない「泥道」。そこは作家の企業秘密だったのかも知れない。


うまいこと言うね、と。


記事の署名は湯瀬理佐という方。
お見事!

2009年8月13日木曜日

毒をもって毒を制す!

ワリとこのブログには、サイエンスねたが多いかと思うんですが、まぁ、ワリとそういうのが好きだったりするんで。
実は、元理系学生、というか、“物質工学科”なんていうトコで勉強してたこともあるので(劣等生でしたが・・・)。

で、今日もそんな感じのトピックを。


癌細胞に対して、遺伝子組み換えによって“加工”されたウイルスを注入して、ウイルスの攻撃力を利用して癌細胞を攻撃する、という癌の治療法が研究されているんだそうです。
以下、新聞の記事から。

がん細胞を破壊するよう遺伝子を組み換えたウイルスを使って、がんを治療する臨床試験を今月中にも始めると東京大医学部付属病院が発表した。再発した悪性脳腫瘍の患者を対象に、がん細胞だけを狙い撃ちするウイルスを注入し、安全性と効果を検証、新しい治療法の確立をめざす。
臨床試験を計画しているのは、東大病院の藤堂具紀特任教授(脳神経外科)らのチーム。こうしたウイルス療法の臨床試験は国内初。臨床試験の対象とするのは悪性脳腫瘍の一種の膠芽腫(こうがしゅ)。
頭部に小さな穴を開け、開発したウイルスを腫瘍部分に注入する。腫瘍が再発し、治療の手だてがない症例が対象で、2年をめどに21人に行う。脳の炎症やまひなどが起こらないかや、腫瘍の大きさの変化などを調べる。
注入するウイルスは、口の周りなどに水疱をつくるヘルペスウイルスの三つの遺伝子を組み換えた。ウイルスが細胞に感染した際、がん細胞でだけ増殖し、正常な細胞では増えることができないように工夫。がんを攻撃する免疫細胞を強める働きももたせた。
これまで、ウイルスを運搬役にして、がん細胞の増殖を抑える遺伝子を運ぶなどの方法はあったが、今回の治療法はウイルスそのものが増殖して次々にがん細胞を破壊する。
藤堂さんは「ウイルス療法は脳腫瘍だけでなく、前立腺がんや乳がんにも使える可能性がある。慎重に研究を重ね、放射線や抗がん剤などと並ぶ、新しい治療法の一つとして確立したい」と話している。


まさに「毒をもって毒を制す」という治療法。興味深いです。

ここにも何度も書いているとおり、“ウイルス”というのは、映画のネタとしては古くからある、そしてこれからも使われるであろう、王道的なトピックのひとつなワケで。


もちろん、「ワクチン」「血清」という概念は、その手の作品の中でも、ストーリー展開上のキラーな“キー”として使われてきたワケですが。(「これさえ注射すれば治る!」とか、ね)

これは、ウイルスが、ある意味では“牙”を抜かれて、治療の手段として、人間に“使役”される、という、物語的にはちょっと面白い構図。

簡単に思いつくのは、その、加工されたウイルスが、またまた突然変異を起こして、今度は逆に癌細胞の攻撃性とか毒性を取り込んじゃって、より強力なウイルスに変異しちゃう、とか、そんな感じ。


ちょっと話が逸れますが、「sex & violence」という言葉があります。「エログロ」ですけど。
性と暴力。
映画に限らず、エンターテイメント業界では、「低俗なもの」「しかし、ウケる」と言われるアレですね。

この「セックス&バイオレンス」を俺なりに解釈すると、「セックス」=「繁殖」だと思うんですね。
「バイオレンス」は、そのまま「攻撃性」。


癌細胞の特質に良く似てるんじゃないか、と。周囲の細胞を食い尽くして増殖していく癌細胞の増殖力を「繁殖」と模すならば、「繁殖」と「攻撃性」を癌細胞は持っている、と言えるワケで。


ここで飛躍してしまうんですが、「人類≒癌細胞」説。





あれ?

発想としては、ワリと普通ですか?



スイマセンでした・・・。

2009年8月8日土曜日

「ココ・シャネル」を観てはないんですが

「ココ・シャネル」は、まだ公開もされてないワケで、まだ観てないんですが、ちょっと前の新聞(6/25)にこの作品に関連したコラムが載ってまして。

ちょっと面白かったので、いつかこのブログに書こうと思って、それを今日ようやく、ということで。

そのコラムは、「『ココ・シャネル』のブームが~」みたいなことで、ココを主題にした映画が立て続けに製作されている、という内容で。
具体的には、明日から公開の「ココ・シャネル」。それから「シャネル&ストラヴィンスキー」と「ココ・アヴァン・シャネル」という作品があるそうなんです。
コラムを書いているのは、愛知淑徳大学の教授という肩書きの、山田登世子さんという方。

数十年前まで、女性起業家はもちろんのこと、世界のトップをゆくキャリアの女はまだ遠い存在だった。だが今は違う。生涯シングル(独身)で働き続けたココのライフスタイルは、華やかな世界的成功こそなお遠くはあれ、現代のキャリアの女たちと地続きなのだ。その親近感が、私たちとシャネルを繋ぐ。
70歳でのカムバックという「奇跡の偉業」も、現代ならあり得る事として考えられる時代である。シャネルに学べるところまで、女性の社会進出が進んだのだ。しかも、学べるのは華やかな「成功」だけではない。そのきらびやかな成功の影にあった孤独な忍耐と労働の日々。恋と仕事の両立の難しさ―むしろ影の部分こそ、働く女たちの共感を呼び起こすものではないだろうか。

シャネルには、暗い秘密に閉ざされた過去がある。父親に捨てられた少女は、12歳から17歳までの多感な青春期を孤児として修道院で過ごしたのだ。シャネルはその過去を決して人に明かさず、生涯隠し続けた。きらびやかな成功の始めには、誰にも言えない孤独と貧困があったのだ。
昨年、渡仏の折にその修道院を訪れた。フランス中部の山里オバジーヌに建つ修道院にあるのは、ただ静寂の土の色のみ。厳しい禁欲をもって知られるシトー修道会は、聖堂の建築にも「装飾」と「色」を禁じた。その修道院の色のないステンドグラスを見たとき、シャネル・モードの原点に触れた感動が身体を走り抜けた。まさにそれこそ、シャネルの「黒」「白」の原点だった。黒は修道会の制服でもある。シャネルが後にキャリアの「制服」であるスーツを創案するのも、この暗い青春期のネガをポジに変えた「逆転の思考」の賜物以外の何ものでもない。


「隠し続けていた」暗い過去に、逆に、実は“創造”のルーツがあった、という、この逆転の関係性が、ココの内面にあった、と。
これは確かに、ドラマチック。

よく、コンプレックスこそが表現の動機になる、とか言いますけど、そういうことじゃなく、もっと直接的なモチーフ自体が「隠し続けた過去」にあるのだ、と。

デザインという才能で成功を掴み、あるいは時に模倣され、研究されたであろうそのデザインが、実は彼女が隠したがっていた過去をも暴いてしまう可能性を持っていた、という。
アンビバレント!



さいとう・たかをなら、ここでゴルゴ13に依頼させるよね。ココをモデルにした、もう老齢の世界的デザイナーに。
「私の過去をすべて消してちょうだい」みたいに。

例えば、老女がかつて暮らした修道院が、もうボロボロで崩れかけてて、その修道院を預かる神父さんが、建物の建て替えの費用の喜捨(寄附)を求めに老女を訪ねてきて、とか。
神父さんはもちろん、善意の人というか、特に悪意はないんだけど、老女はそこから自分の“過去”が暴かれるのを怖れて。

“神をも怖れぬ”デューク東郷は、“修道院”という過去を消し去るのにはうってつけの人物だもんね!



あぁ・・・。

俺の勝手なストーリーは蛇足ですね。
また余計なことを書いてしまいました・・・。



というワケで、今日はこんな感じで。
実は「ココ・シャネル」という作品について、でした。
でわ。

2009年8月7日金曜日

裁判員制度始まる

裁判員制度が始まった、ということで。

個人的に、この制度にはあんまり賛成じゃなくって、3年後にはなくなってるんじゃないかとも思ってるんですが(もちろん、いざ呼ばれれば、ちゃんと行くつもりではいます)。

しかし当然、“物語”がそこに生まれそうだという関心は、あります。


新聞に、初めて行われた裁判で裁判員を務めた方々の言葉が載ってて、なかなか重い言葉が紹介されてたので、ここでもご紹介。
ま、人を裁いたワケですからね。重責ですよ、これは。


2番 今も緊張しているが、本当にいい経験だった。
7番 率直なところ、ホッとしている。
5番 一般の主婦ができるのか不安だったが、他の方たちと一緒にひとつのことを成し遂げた気持ちだ。
補充 社会的重責を精一杯務め上げたという認識でいる。

1番 最後まで、これで良かったのか、分からなかった。決めなくてはならないが、つらい部分もあった。
7番 刑の長さについて何が正解ということはない。最後は自分の考えに基づいて話したが、不安感が大きかった。
6番 最初は自分が決めなければという気持ちが強かったが、みんなで最終的な結論に持っていくと考えられるようになってから少し楽になった。

1番 メンバーがとても話しやすく、今となってはかなり前から知り合いの感覚だ。評議でも思ったことを素直に話せたと思う。
4番 とても話しやすい雰囲気だった。初めて会った方ばかりだが、前から知り合いのような気持ちで一つのことに向けて真剣にできた。

7番 最初はなぜ自分が、と思ったが、4日間で考えが変わった。個人が集まって社会ができている、と意識するようになった。社会を住みやすくするために何ができるのかを考えれば、制度は発展していく。

2番 プレッシャーを感じ、いつもより寝付きが悪かった。
7番 お酒を飲みながら、明日は判決だと思い、被告、被害者の情景を思い浮かべた。無常観というか、世の中の不条理を思い、こういう社会がどうやったら良くなるのかを考え、興奮し、少し泣いた。被告の家庭環境や育った経歴は非常に不幸な部分がある。やることがうまく行かない不器用な生き方。自分と10歳ぐらいしか変わらないが、そういうことを考えていて、疲れと興奮で涙腺が緩んだのだと思う。
5番 子供がいるので色々やることがあったが、何かいつもより手際が悪く、食事もずれ込み、意識をしていなくとも、考えているところがあったのかと感じた。

ざっとこんな感じです。
「7番」の方が、かなり突っ込んだ発言をしてますよね。記事に因れば、60歳の男性の方、とのことです。



で。
まず、この記事から浮かぶのは、裁判員たちが、“達成感”と同時に“一体感”みたいなのを感じていること。
“物語”への発想としては、「しかし、今後彼らが会うことはない」ということがポイントかな、と。
まぁ、会うこと自体は別に構わないんでしょうけど、守秘義務がありますから。

かなり濃密な時間を、ある種の“閉鎖空間”で過ごすワケで、なおかつ、かなり重い“ミッション”に挑む、というシチュエーションなワケで。

当然、“男女関係”なんかも生まれるだろう、と。少なくとも、そういう感情が芽生える可能性ぐらいはあるワケで。

裁判員という関係性は、かならず解散しなければならない、ということになってるワケで、そこら辺はドラマツルギーを生みますよね。

例えば、この“一体感”の感じと、ネットでのコミュニケーションとを対比させる、なんていうのはあるかな。
守秘義務と、ネットの匿名性が誘発する「つい言いたくなる感じ」との葛藤、とか。


それから、これは7番の方の発言からですが、この、“社会的意識”というか、ある種の“芽生え”があったワケですね。社会に対する責任感みたいなのを感じて、なにか、意識が変わっている。
そういうことは、十分にあり得ると思うんです。
裁判員の経験がきっかけで、何か、例えば社会的な行動を始める、とか。

しかし、その“動機”は、あまり明らかにすることは出来ない。守秘義務を守る必要があって、こういうタイプの方っていうのは、やはり同時に守秘義務に対しても忠実に守ろうとするんじゃないか、と。
つまり、そこには“葛藤”が生まれるんじゃないか。

それから、もっと単純に、そういう“意識の芽生え”のその後の持っていく先がない、という事態もありうるワケですね。非日常⇒日常、という変化が再びあるワケで。裁判員の方々には。
日常に戻る、ということが。
これはこれで、結構大きな負担になったりしますからね。

もう、元の「無知だったが幸せな日常」には戻れない、とか、そういう感じのストーリー。
“通過儀礼”とは違うんでしょうけど、まぁ、例えば戦場から帰ってきた兵士、とか、そういう話は良くあるワケで。


あと、やっぱり考えられるのは、被告と裁判員、という関係ですよね。両者とも、はっきり顔を見てるワケですから。
プロの法律家(裁判官、検察、弁護士)たちにとっては、無数に経験している事例のひとつかもしれませんが、これが一生に一度の大きな事柄であることは、間違いないワケで。

そして、被告も裁判員も、その場を終えたら、それぞれの生活の場、というのがあるワケです。
当然、偶然出会ってしまうということもあるし、故意に会いに行く、ということだって考えられるし。

法律家たちは、収入が高いという物理的な理由もあるんだけど、どこか“世間”とは隔離された雰囲気をまとってると思うんですね。浮世離れしている、というか。
まさにそこが、この制度が導入された理由でもあるんだけど。
でも、裁判員たちは、被告とは、文字通り地続きな場で生活している可能性がある。(法律家たちには、そういう感じはあまりないと思います)
これは、結構大きいと思う。



という感じでしょうか。

ま、色んな物語があり得る、と。
賛否はともかく、社会的には物凄い大きな転換ではあるワケで、ここにリアクションを取らない、というのは、“物語作家”を目指す人間としてはNGだろ、ということで。
実際に自分で作品を書くかどうかは別にして、ね。
少なくとも、反応はしておかないとね。

2009年8月5日水曜日

小津さん

最近、とんと作品を観てなくって、このブログも更新が滞ってます。


が。
決して映画のことを考えていないのではありません。

一応、作品を書いてまして、その間は自分の作品に集中しよう、と。
しかし!
その筆がさっぱり進まない、という、もう最悪の悪循環で、ただただ時間を浪費してしまう日々でして・・・。
まぁ、自己嫌悪というヤツですな。


つらいっス。



で。
土曜日の新聞に、小津さんの「東京物語」について、ロケ地(尾道)を訪ねる、みたいな記事が掲載されてまして。

その記事の中に、「小津日記」からの引用という形で、脚本の執筆風景がホンのちょっとだけ紹介されてまして。

たまには更新しないとなぁ、なんて、柄にもなく気にしてたのもあり、せっかくなんで、この“ホンのちょっとだけ”の部分のご紹介でお茶を濁そうかな、と。


「小津日記」53年2月4日に、共同脚本執筆者野田高梧と雑談のうちに「東京物語のあらましのストウリー出来る」とある。「親と子の成長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみた」と後に言う筋立ては出来たが、場面を造形していくのはこれからのことだ。
小津と野田が脚本執筆用定宿の神奈川県茅ヶ崎市は茅ヶ崎館に入ったのが2月14日、脱稿5月28日。「百三日間 酒一升瓶四十三本 食ってねつ のんでねつ ながめせしまに 金雀枝の花のさかり過ぎにけり」
酒を酌み交わしながら何だかんだとと話を練り上げていくのが野田と小津の方法である。恒星が成って原稿用紙に書き始めたのは4月8日。
その日、助監督塚本芳夫が白血病で入院、10日にあえなくなった。39歳。

この後、記事は「東京物語」には弟子筋であった助監督への追悼が込められているのだ、と続いていくんですが、そこは割愛させていただいて・・・。


「103日間、酒は一升瓶が43本。喰っちゃ寝て、飲んで寝て、眺めているうちに金雀枝(えにしだ)の花も盛りが過ぎてしまった」と。


飲み過ぎです。



「雑談から、酒を酌み交わしながら、何だかんだと会話をしながら、話を練り上げていく」と。


共同脚本システムっていったら、黒澤明監督が真っ先に語られたりしますが、小津さんは小津さんなりに、何か方法論があったんでしょうか。
2人で、どういう形で書いていったのか。
延々話しているだけでは、シナリオは完成しないワケで、どこかでシナリオの形、つまり“セリフとト書き”に落とし込んでいかないといけないワケですから。

機会があったら、調べたりしてみたいです。

野田高梧さんか。



ま、作品書き上げてからだな・・・。



苦しいよ~。

2009年7月30日木曜日

凄いモノを観た

この間深夜にテレビでやってた、忌野清志郎さんの追悼番組を観まして。


古舘伊知郎が司会の「ヒットスタジオ」で、ラジオ局(2社)を罵倒するという暴挙を決行したタイマーズの「ざまあみろ」と吐く映像も凄かったんですけど、個人的には、もっと凄いモノを観た、というか。


喉頭癌を患ってることが分かって、その闘病を(一度は)終わらせ、武道館で「復活コンサート」をする、ということで、その復活コンサートのオープニングに会場で流された映像、というのが、テレビでも放送されたんです。

多分、ご本人が携帯のカメラで撮ったものだと思うんですけど、ご自身のポートレイトなんですね。
ポートレイトというか、いわゆる普通の“自分撮り”というヤツで、携帯のカメラなんで、映像はすごい荒いんですけど。

抗がん剤の副作用で、毛髪が全部抜けちゃってる清志郎、というのが最初の写真。
で、そこから、多分毎日撮ったんだと思うんだけど、ずーっと写真が続いていくんです。おんなじ構図で。
だんだん髪の毛が伸びてる。


つまり、癌から回復の途上にある、ということなんですよね。

“復活”の道程を、携帯電話のカメラで接写した画像で表現する、という。
自分で手を伸ばして撮るワケで、だいたい構図が同じなんで、それが“演出効果”を生んでる、というのもあって。


それは、なんていうか、「自分の“復活”」を信じるご自身の気迫っつーのかなぁ。
信念というか。

コンサートの聴衆の前に帰ってきた日に、そういう姿も晒してしまう。
これから歌う、という前に、観客に、敢えてその姿を見せつけて、そして歌いだす、という。


執念、というか。キレイな言葉で言うと、想い。


最後、化粧してる顔になるんですよ。コンサート用の。


その後に、なんか、ベッドから起き上がって、みたいな小芝居が加えられちゃってて、それは興ざめって気がしたんだけど、でも、それもらしいっちゃらしいんですけどね。


全部コマ送りで、2分ぐらいの映像だったかなぁ。
頭髪が抜け落ちた姿から、回復して髪が伸びていって、最後はライブ用の化粧した顔になる、という。

ホントは、それだけでいいんだけどね。それだけで、「戻ってきたぞ」「今から歌うんだぞ」っつーのが十分伝わるから。



いや、マジで凄いモンを観たな、と。
そんな気分になりました。




あ。
あと、「愛し合ってるかい?」の元ネタとして紹介されていた、オーティス・レディングがコンサートで「We all love each other, right?」って言ってる映像も凄かった。
こっちはマジで震えを感じました。
すげー言葉だな。


オーティスの言葉は、「俺たちはみんな、お互いに愛を交し合ってる。そうだろ?」ってことですよね。
コンサートの、ユニティ感、一体感、ピースフルな感じ、そういうのを表現した言葉なんでしょう、きっと。



「愛し合ってるかい?」


いい言葉だよね。ホントに。


それから、ナレーションが三浦友和で、なんつーか、それだけで泣きそうになりました。

2009年7月29日水曜日

ウェブにおける動画 ―映像とテキスト―

ちょっと、このブログの趣旨とはズレちゃう内容なんですが、パラパラ読み返していた、少し前の本に、昨日のエントリーの続きみたいなことが書いてあったので、せっかくなので、ここでご紹介。


2005年に発刊されている「アルファブロガー」という本なんですけど。
正直、このタイトルの本を読んでる、ということ自体が、かなりサブいというか、お恥ずかしい感じではありますが、それはさておき。


「切り込み隊長」さんという、まぁ、知ってる人はめちゃめちゃ知ってる、という人のインタビューです。(ちなみに、俺は全然知りませんでした。今でもブログを読んだりしたことはないです。)

テキストを読みに来た人というのは、たとえその広告がテキストと被った内容であっても動画を観てくれない。だからお金の払いようがなくて触手が伸びない。で、テキスト的に面白いものだけ伸びていく。

映像は、映像単独のビジネスの場合には成立するんですよね。ただ映像を観に来た人は映像だけ摂取して終わる。映像を観にくる人ってのはテキストと一緒に映像を観ることを好まない。
「GyaO」のように、「映像配信でござい、ブロードバンドでござい」みたいなトコに映像を観に行くことはするんですよ。それこそ、数十万、数百万というオーダーで。じゃあそれでUSENのサイトに行くか、というと行かないんですね。観たいと思った特定のジャンルの映像を観たら他のものはもう観ないんですよ。

例えば「あしたのジョー」が目玉だというときに、「あしたのジョー」を観た人が他の映画も一緒に観ていくかというと観ていかないんですよね。あれが不思議で。
だって、テキスト読む人ってそれを読んだ後にリンクを辿って他のところに飛んでいくじゃないですか。でも、映像観る人は目的の映像だけ観て終わり。
これはもうそのカテゴリーのユーザーの特性としかいいようがない。「GyaO」も「casTY」もユーザーは増えているけど、びっくりするぐらい他に飛んで行かないんですよね。

この、インタビュー(の、ある一部分)は、「ブログと映像の親和性」ということについて語ってて。


これはもう5年前ぐらいの話なんで、今とはかなり状況が違ってるんですが、ここでは「ブログの次の展開ってどんなのだろうか?」みたいな話で、「映像か?」と。
で、「ブログと映像(動画)は親和性が低いから、そうならないだろう」ということを言ってまして。「隊長」さんは。


ま、確かにそうなりましたね。
映像は、YouTubeとニコニコ動画という、ブログとはまったく違うシステムで提供されている形で、流通するようになりましたから。


インタビュアーも、ここでブログのことを「テキスト起源な今のインターネットからの連続的な発展の中」から出てきた、と言ってるんですが、ブログっていうのは、まさしくそうなワケで。
各々が、自分の思っていることを、テキストとして吐き出していく、という。
その吐き出したテキストの“流通の仕方”のフォーマットのひとつがブログだった、ということですから。


対して、今のウェブの動画というのは、これは「ファイル共有」ということですからね。
“動画共有”サイト。



で。


ここでは、受容する側、消費する側、読む側・観る側の話なんですけど、その、スタイルが違う、と。
テキストと動画は、重ならない、ということで。


う~ん。

言われてみれば、確かにそうかも。


頭の中のチャンネルが違う、という感覚は、確かにある。



基本的に、“デジタル化”っていうのは、「テキスト」⇒「写真」⇒「音声」⇒「動画」と、データの容量がそれぞれ一ケタずつ違う、ということもあって、こういう順番で、一段階ずつ進化してきたんだけど、あくまでそれは、技術側の理屈であって、受け取る側にとっては、あんまり関係ないんだ、と。

技術的な進化に沿ってコンテンツを変化(進化)させていく、というのは、技術的な面からの発想だと、当たり前みたいに感じるんだけど、実はそれは、地続きじゃなかった、というか。


まぁ、テレビと新聞は全然違うワケで、良く考えたら、当たり前っちゃ当たり前なんだけどね。


“表現方法”として考えると、映像(動画)の近接ジャンルとしては、やっぱり音楽や写真・絵画なんかがあるんだろうけど…。


テキストとの親和性ね…。



「映像は単体のビジネスなら上手くいく」と。


確かにそうだなぁ、と。




ま、映画っつーのはもともとがそういうもんだから、別にそれでいいんだ、ということでもあるんですけどね。
結論としては。


という話でした。

2009年7月28日火曜日

ウェブ時代のコンテンツビジネス

ナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーというミュージシャンの“マーケティング理論”を紹介する、というページが面白かったので、ここでもご紹介。


一応、参考までに、ウィキペディアの当該項目も>>>「トレント・レズナー」「ナイン・インチ・ネイルズ


テキストの著者によるT・レズナーの紹介は、こんな感じ。

オンラインを活用した様々な活動を数年前から積極的に行っているアーティストのひとり。ウェブサイトもちょっとしたSNSになっていますし、以前からネット上で新アルバムの無料配信、GarageBandファイル形式で楽曲を公開、400GBのコンサートのHD映像をBitTorrentで公開といった様々な活動をしています。

そんな彼が公式フォーラムに降臨。「my thoughts on what to do as a new/unknown artist」というタイトルで無名アーティストへのアドバイスを幾つか書いています。彼の経験とリスナー/ファンの変化に敏感に反応して活動している彼らしい言葉が幾つかあります。アーティストに向けているとはいえ、他の分野にもいえることが多いです。

「my thoughts on what to do as a new/unknown artist」っていうのは、「自分が考える、新人・無名アーティストとしてやるべきこと」ってことですね。


スターになりたい人へ
U2やColdplayのようなスーパースターになりたければ、大手レコードレーベルとの契約は必須だし従来のマーケィングに頼らなければならない。ただし自分のクリエイティブコントロールや収入経路は制限されるだろう。

曲で儲けることを考えるな
素晴らしい曲を安値で作ることは今は可能。作った曲を少しでもたくさんのリスナーに無料で届ける手段を見つけること。結局のところ口コミがすべてだ。

配信経路を確保
TopSpinのようなサイトはお勧め。配布する音楽は高音質のMP3で、もちろんDRMは必要ない。
配信を通じてメールアドレスを確保し、自分の顧客データベースを作ること。
ロイアリティの高い彼等にはプレミアムパッケージや限定版を販売すると良いだろう。手作りにしたりサインを入れたりしてスペシャルなものにし、自分がファンなら絶対欲しいと思うものを作ること。楽曲もさらに良い音質のものを低価格で販売したり、Tシャツやポスターの販売も良い。
TopSpinだけでなく Fulfillment by Amazon ProgramやTuneCoreも良い配信経路だ。

音楽は無料である
信じるも信じないもそれが事実。どんな音楽もクリックしたら手に入る時代。
ファイルシェアではなく、君から直接音楽を手に入れる方法を提供することが重要。

公式サイトを作る
まずは MySpace でも良い。
Flashは不要。長いローディングやイントロも省く。君の音楽が簡単に聞けるためのシンプルなナビゲーションにする。
ブログでも写真でも何でも良いから頻繁にコンテンツを更新する。
人が集まり出したら掲示板などコミュニティ機能を実装する。
Flickr, YouTube, Vimeo, SoundCloud, Twitterなどを利用して自分の音楽をアピール。

新しいスキルセット
ニューメディアの使い方やオンライン上でのコミュニケーションを身につける。
インディーアーティストに必要なスキル。
分からなければ、誰かに頼んだり、質問をする。

最も必要なもの
自分のしていることを信じること。
練習、練習、練習。
自分の声を見つけて磨きをかける。


もちろん、音楽での話しなので、そのまま“映画”にアレするアレではありませんが、普段考えていることともリンクしてることもあったりして。


あ。
もちろん、理想的には、ですけど、こういったことは“アーティスト本人”が考える必要がない、というのが一番だと思うんですね。
ただ、ここでは「new/unknown」アーティストが対象ですから。
つまり、“環境”を自分自身の手で作らないといけない、ということですから。


だけど、「最も必要なこと」は、練習、とも言ってますね。「自分を信じること」と同時に、「練習」とも。

うん。


自分のこのブログにアーカイヴしておく価値は間違いなくあるな、と。
そう思いました。


2009年7月17日金曜日

プリズン

今日は、面白いニュースを。


この間、化学物質や生活汚水などで汚染されている河川の河口に、蛤(はまぐり)とか、そういう貝を置いて、貝の力を利用して汚染物質を取り除く、というニュースがありまして。
貝は、自分が生きている環境が“汚染”されている場合は、その汚染物質を体内に取り込み、環境が綺麗になると、今度はその物質を吐き出す、という性質があるらしいんですね。
その性質を利用して、一定期間、汚染されている河口に置いて、その後に引き上げて、人口海水の中に置くと、汚染物質を吐き出す、と。

おー、「ナウシカ」の腐海みたいだな、と。


で、今日は、それはさておき。
別のニュースを。

刑務所の深刻な定員オーバーに悩むベルギーは、受刑者約500人を隣国オランダの刑務所に移送する方針を決めた。
刑務所長は「収容者は増える一方だ。混雑で受刑者のストレスが高まれば、受刑者同士や刑務官とのトラブルも増す」と嘆く。
そこで浮かんだのが隣国の刑務所を借り上げるアイデア。両政府は受刑者の扱い方などを最終調整しているが、オランダへの「委託料」は年間約39億円と試算されている。

なかなか面白いニュースですよねぇ。


発想としては、受刑者受け入れビジネス、とか。
それこそ、シベリアとか。

オーストラリアは昔、イギリスの流刑地だったワケですけど、そういう“流刑地”が現代にも、というか。


あとは、アルカトラズ(ショーン・コネリーとニコラス・ケイジの「ザ・ロック」)とか、南アフリカの、ネルソン・マンデラたちが捕えられていたロベン島とか、そういうイメージもあるし。


それから、受刑者たちから見ると、要するに、違う国の犯罪者同士が出会う場となるワケです。

その、刑務所こそが、犯罪者たちがもっともコミュニケーションしやすい場で、情報交換があったり、コネクションを作ったり、ということは、まぁ、古くから犯罪映画のジャンルでは描かれてきたことで。

その刑務所の内部が“国際化”すると、という。

なかなか面白い。



というニュースでした。

2009年7月16日木曜日

富野由悠季監督が吠える その2

富野監督が、日本外国特派員協会に招かれて講演した講演録からご紹介。

特派員協会では、色んな人が招かれてこういう形で講演をしてますよね。それこそ、宮崎駿監督もそうだし。(たしかここで、マンガ好きの麻生を「恥ずかしい」って言ったんだと思います)


で、さっそく。ちょっと長くなりますが、以下引用でっす。
オスカーをとっているスタジオジブリの宮崎駿監督のように、僕がなれなかったのはなぜか? 彼とは同年齢なのですが、「彼は作家であり、僕は作家ではなかった」。つまり、「能力の差であるということを現在になって認めざるを得ない」ということがとても悔しいことではあります。

富野さんの話には、毎度と言っていいほど宮崎さんの名前が出てくるんですが、まぁ、「意識してる」ということなのでしょう。
以前富野さんは、宮崎さんは鈴木敏夫さんという人間とチームを組んだから、オスカーを獲れるまでになったんだ、ということを言ってましたね。
その、スタジオワークについても。
今アニメーションという媒体に関しては危険な領域に入っていると思います。どういうことかと言うと、個人ワークの作品が輩出し始めていて、スタジオワークをないがしろにする傾向が今の若い世代に見えているということです。
スタジオワーク、本来集団で作るべき映画的な作業というものをないがしろにされている作品が将来的に良い方向に向かうとは思っていません。

不幸なことが1つあります。技術の問題です。デジタルワーク、つまりCGワークに偏りすぎることによって、昔、映画の世界であったスタジオワークというものが喪失し始めている。そのため、豊かな映像作品の文化を構築するようになるとは必ずしも思えないという部分があります。
ハリウッドの大作映画と言われているものがこの数年、年々つまらなくなっているのは便利すぎる映像技術があるからです。

ただ、文化的な行為ということで言えば、どのように過酷な時代であっても、逆にどんなに繁栄している時代であっても、その時代の人々はその時代に対して同調する、もしくは異議申し立てをするような表現をしたくなる衝動を持っています。
そういう意味でも、人間というのは社会的な動物であると思います。

まぁ、映像技術(というか、CG)に関しては、どんな時代にも常に“アンチ”は掲示されることになってるので、もうしばらくしたら、それはハイブリッドかもしれませんし、単なるアンチかもしれませんが、そういうモノがどこからか登場してるんだと思いますけどね。
願わくば、俺がそこに居れたらな、なんてことは思いますけど、まぁ、それは別の話ってことで。


大人を対象とする物語では、内向する物語(に、留まってしまうことが)が許されます。現実という事情の中でのすりあわせしか考えない、社会的な動物になってしまう大人にさわらないで済む物語を作ることができた、という意味ではとても幸せだったと思います。
また、大人向けを意識した時、「一過性的な物語になってしまう」という問題もあると思っています。(そうした物語から離脱できたことで)政治哲学者のハンナ・アーレントが指摘しているように、「独自に判断できる人々はごく限られた人しかいない」と痛感できる感性が育てられました。

う~ん。
子供向けだからこそ、真剣に作るのだ、みたいなことなんでしょうかねぇ。
これは、宮崎駿監督も似たようなことは言ってたかもしれない。「理屈で作っちゃダメなんだよ」とか、そんなことを。息子さんが監督した「ゲド戦記」を評して、そんなことを言っていた気がします。

物語を、敢えて破綻させるようなところまで持っていって(大風呂敷をめちゃめちゃ広げて)、それを無理やり回収していくことで“論理的”や“予定調和”や“ステレオタイプ”から脱出する、とか、そういうことなんでしょうかね。

もちろん、“定型”とも言える“構造”を利用しつつも、「子供向けなんだ」という“枷”をバネにして、構造から跳躍してなるべく遠くに着地する、と。
なんつって、ね。

言葉のアヤっスね。




今の日本では、アニメや漫画はかなりの大人までが鑑賞しているものになっています。
その風潮の中、僕のような年代が1つ嫌悪感を持っているのは、「アニメや漫画を考えることで作品が作れるとは思うな」ということです。つまり、「アニメや漫画が好きなだけで現場に入ってきた人々の作る作品というのは、どうしてもステレオタイプになる」ということです。
必ずしも現在皆さん方が目にしているようなアニメや漫画の作品が豊かだと僕は思いません。



(どういう作品がヒットするかという)問題に対して我々が回答を持っていないからこそ悪戦苦闘しているのであって、回答を持っていれば誰も何もやりませんし、勝手に暮らしていると思いますので、「成功する方法があったら教えてください」としか言えません。

僕が全体主義の言葉を持ち出した理由として、1つはっきりとした想定があります。「愚衆政治、多数決が正しいか」ということについては正しいとは言えない部分があるし、つまらない方向にいくだろうという部分もあります。
本来、ヒットするアートや作品というものは絶対に利益主義から生まれません。
固有の才能を大事にしなければいけないのに、全体主義が才能をつぶしている可能性はなきにしもあらずです。
ただ、スタジオを経営するためには『トイストーリー』を作り続けなければならない、という事情があることもよく分かる。「じゃあそこをどういう風にするか」ということについては、やってみなければ分からないから、やるしかないのです。


ちなみに、富野監督は、次回作の準備中だそうです。

2009年7月15日水曜日

「ソルジャー・ストーリー」を観る

月曜の深夜にやってる映画天国っつーので観た「ソルジャー・ストーリー」の感想です。



う~ん。いい作品でした。
この作品のことは、不覚にも知らなくって、この機会に観れてよかった、なんて思ってるんですけど、監督は「夜の大捜査線」と同じ人で、音楽を担当してるのはハービー・ハンコック。

作品のストーリーも、「夜の~」と良く似た構造を持ってるんですが、作品自体を巡る環境も、良く似てますよね。
「夜の~」は、もちろんシドニー・ポワチエですけど、こちらには、デンゼル・ワシントンがとても重要な役で出てます。
ちなみに、この作品は「夜の~」の15年後。ただし、こちらの方がかなりのローバジェットなハズです。

作品の舞台となる時代は、第二次世界大戦中、1944年。
実は「プライベートライアン」と殆ど同じ時期という時代設定ですね。



で。
ストーリーは、陸軍の黒人部隊で、ある黒人の下士官が殺されて、その事件の調査に、ワシントンから将校が派遣されてくるんだけど、その将校は実は黒人で、という。
で、その黒人将校が、事件の調査をしていく、と。
調査といっても、関係者・目撃者の聞き取りをしていくだけなんで、ほぼ安楽椅子探偵モノに近い感じ。

で、聞き取りを受けている人間が語る内容が、過去の出来事として映像で語られていく、という。
現在の時系列に、回想シーンを挿入して、ストーリーを運ぶ、という、いわゆるミステリーの正統派の手法を使いながら、しかし、徹底的に、黒人差別のさまを描写していく、と。

もうホントに、後味とかすげー悪いぐらい、その描写は徹底してるんですよねぇ。
字幕には表れてないんですけど、「ボーイ(Boy)」という言葉があって。

これは、黒人男性を白人が呼ぶ時の言葉なんですね。「ミスター」じゃなくって、「ボーイ」。
一人前の大人扱い、つまり一人の人間として相手を扱っていない、という、象徴的な言葉なんですけど、これがとにかく徹底的に使われる。
“将校”でも、黒人なら「ボーイ」、つまり“クソガキ”だ、と。


それから、ストーリーが進むにつれて、被害者の黒人下士官がどういう人物だったのか、ということが明らかになってくるんです。
その、分裂症気味な人間だった、というのが。
そして、その“症例”に追い込んだのも、人種差別という“現実”なんだ、ということも描かれていくんですね。

要するに、徹底した差別(被差別)という過酷な現実の中で、黒人として、黒人の軍人としてどう生きていくか、という対立が存在していた、ということが、少しずつ明らかになっていくんですね。
その対立は、その被害者の人格の中にも「葛藤」という形で存在していて、同時に、調査を進める黒人将校の仲にもあるモノでもあって。

まぁ、それこそが作品のテーマなんだろうけど。
その辺の話の運びは、あんまり上手だとは思わないんだけど、ちゃんと作ってあります。

これは、ただ私小説風にテーマを語っていくのとは違って、ミステリーの形を借りて、というのが生きてる部分ですね。
ミステリーでは、「葛藤」が“動機”になり、同時に共感の道具にもなってる、というのは、王道な方法論ですから。



それから、これはディテールのアレなんですが、基地の司令官の私邸を訪れたときに、その家のマダムが庭仕事をしていて、フッとマダムが退くと、その奥に“ハウスニガー”が仕事している、という、なかなかパンチの効いた画がありました。


それから、これが実は一番重要なのかもしれないんだけど、その、白人たちの、黒人を差別している側の、相手(黒人たち)を侮蔑し蔑みながら、同時に怖れている、という表情がちゃんと表現できている、という部分。
その怖れは、差別している自分たちへの負い目から生まれてくるものでもあるんだけど。
そして、その怖れこそが“憎悪”を生み、という負のスパイラルがあって。
ま、それはそれで、別のアレですけどね。

でもホントに、人種差別の描写は徹底してる、と。そういう意味ではホントに凄い作品です。
低予算だけど、という意味でも凄いと思うし。



というワケで、未見だった自分を恥じながらも、いい作品を観れて良かったなぁ、と。


そういう作品でした。

2009年7月12日日曜日

昨日の「ER」

えー、久しぶりの更新になってしまいました。


昨日(土曜日)に観た「ER」が、久しぶりにキレキレな感じで、思わずテンションが上がってしまった…。

テーマは「男と女」とか、そんな感じだと思うんですけど。

色んな「男女」が登場して、という。
イカれてるカップル(コカインとマリファナのカクテルで、家に篭ってヤリまくってる)、仕事場で対立する男と女、女同士、協力し合う女同士、プレイボーイのドクターの今の彼女と元カノ、今の彼女の妊娠が発覚、それから、敬意で繋がる男同士、みたいな感じ。


「男と女」というか、“関係性”みたいな感じなのかなぁ。個人と個人の間にあり得る色んな関係性、みたいな感じ。

う~ん。
かなりグッと来た…。



映像的にはもっと斬れ味が鋭くって、特に、奥行きを利用した画と演出を多用してて。
こういうのを、画面設計とか、画面構成とか言うんでしょうかね。

手前にメインの人物がいて、奥にまた別の人物がいて、ピンボケ(と、ピン送り)を利用した画だったり。
思わず唸ったのは、その、奥にピンボケした人がいる、という手法をさんざん繰り返した後、最後に、なんと人物の“手前”に絵葉書の写真が入り込んでくる、という“逆”を持ってくる演出。
「うわ」みたいな。「手前に来た!」という。


それから、これは冒頭に近い時間だったんだけど、「ER」らしい、登場人物もセリフもごちゃごちゃしたシークエンスがずーっと続いて、人が出たり入ったりしてるんだけど、キーとなるセリフが発せられて、カットが変わると、突然「男だけ」の画になるんですね。
この画も、奥行きが利用されてて、手前に(そのカットでは)メインの人物がいて、背後に(そのカットでは)“その他大勢”の男たちがいて、という感じに。
それまでは、男も女もたくさんいて、わいわい言い合いながら進行してて(カットの数も多い)、それが突然、男だけのショットになる、という。

これは良かった。



う~ん。



ちなみに、来週の「ER」は、カーター先生がダルフールで、というエピソードらしい。
話がデカい。

ガラントはイラクに居るワケだし。

イラク、アフリカ紛争、シカゴの底辺に生きる男女。
まぁ、色んなモノを内包しているドラマなのだ、と。

ま、作品として、それが良いか悪いかっつーのは、さておき。


その、製作者サイドの志という範疇のアレですよね。
まぁ、そこは買いたいな、と。



いや。
幸せな1時間でした。

2009年7月3日金曜日

同い年の撮影監督さん

昨日(水曜日)の新聞に載っていた記事から。


撮影監督の石坂拓郎さん(34)はアメリカの大学を卒業ご、ハリウッドで活躍している。撮影助手などを経て約9年、同じミスをすれば首になる厳しい現場を見てきた。
撮影依頼は日本からも来る。手塚治虫原作「MW-ムウ-」だ。


「監督が思い描く物語を映像にすることが撮影監督の仕事。撮影で登場人物をどう見せるか、見失わないようにしました」
見どころは、刑事が(悪役の)主人公を追うシーンでのスピード感と迫力。
カメラは3台。車と併走するバスなどにも設置し、市場の雑踏や第三者の視点を加えることで臨場感を高めた。車も3台同じものを用意。役者用、スタントマン用、そしてカメラを取り付けた車に分けて撮影した。
登場人物の状況に合わせて映像の色調を変えるなど、シーンごとにアイデアを出した。主人公が地下道で発作を起こす場面は、CGを使わず、地下道を照らすライトが上から下へと流れるように見せることで「気が遠くなる感じが巧く出せました」。


(撮影監督を目指す人へ)「写真を始めるのがいいと思います。『寂しそうな空だな』と感じたら、フレームの中に感情を入れて撮る。その表情の連続が物語を作り、一つ一つが動くと映画になります



ですって。
「MW」
面白そうだよね。




でも、34歳で、大作の撮影監督。
凄いなぁ、と。


おいらも頑張ろうっと。

2009年6月26日金曜日

買い物

ふと思いつき、というより、急に思い出し、アマゾンを探索して発見したブツが、昨日届きました。


「逃亡地帯」と「ガルシアの首」と「破壊!」の、VHS(!)。



レンタル落ち、なんて呼ばれ方をしているブツで、その、「レンタルビデオ屋さんにあったもの」という意味みたいですね。
ま、中古品、ということです。



いま書いてる作品を書き終えてから観よっと。



というか、そっちが真剣にピンチなんだけど…。


ウンウン唸りながら、いつものように迷走中です。



最後まで辿り着くか(書き終えるか)、今回はマジに不安…。



逃亡したい



スイマセン、ホントに。
ダジャレが浮かんじゃうぐらい、疲れてます。脳が。


やべーよー。

2009年6月24日水曜日

「ガタカ」を観る

またしても午後のロードショーで、「ガタカ」を観る。


正直、途中でかなり眠たくなったり(というか、実際寝てた)してたんですけど、細かい設定とか、そういうのは大好き。

遺伝子操作によって、「生まれながらのエリート」というのがいて、そうじゃない「遺伝子的に不備がある」という人がいて、そこに“差別”とか“格差”がある社会、ということで。

デザイナーズ・ベイビー。


“自然妊娠”だと、いきなりその場で将来の疾病率とかがチェックされて、生まれたその場でいきなり“烙印”を押されてしまう、という。

ただ、やっぱりこれを、「ブレードランナー」とか「トータルリコール」みたいな世界観でやるべきなんだよねぇ。
まぁ、ベタなんだけど。

この「ガタカ」のようにやっても、あんまり、ね。

画にも説得力ないし。


こういう設定っていうのは、ホントにかなりパワフルなメッセージを込めて語る、ということがやれるハズなんですよねぇ。
そもそもSFっていうのは、そういう、「現代社会批判」という意味や目的がありきのジャンルでもあるワケだし。

予算の制約、というのがあるんだとは思うんだけど、でも、もうちょっと違うやり方があったんじゃないかな、と。


主人公と弟の関係、とか、擬似家族、みたいな関係性になる“元エリート”とか、それぞれいい感じに配置はされてるんだけど、あんまり深みもなかったりして。


主人公の動機、前へと突き動かす動機も、物凄い個人的なモノだし。

これじゃ、単なるスポ根と変わらねーじゃん、みたいな。


でも、ラストの右利き/左利きのヒネリとかはすげー好きなんで、全部ダメ、とは言えないトコが、また難しいんだけど。


ユマ・サーマンとか、ただ綺麗なだけで、全然居る意味ないしね。


間違いなく言えるのは、シナリオの勉強にはなる気がします
というワケで、「惜しいっ!」という作品でした。


2009年6月21日日曜日

Promise in Love

PVの紹介ばっかりになってますが…。


「Promise in Love feat. Jose James」という曲。


DJ Mitsu the Beatsという人の曲です。


モノクロの、登場人物は男女のダンサー3人だけ、という。

この映像は、かなりグッときました。

ダンサーが、踊ってる間、ずっと微笑んでるっていうのも、なんかいいですよね。「愛」について歌ってる曲ですから、そういう雰囲気で。
あれは、PVの演出サイドがそういう風にディレクションしてるんでしょうか? それとも、振付師みたいなのがいて、PVのDは、それを撮ってるだけなんでしょうか?
気になるところ。


ただ、やっぱり、“飽き”がありますよねぇ。
おんなじなんで。

だけど、敢えてそこを、この映像だけでやる、という。
それはそれで、かなりの力技ではあるな、と。
勇気がある、というか。

もちろん、「曲が良い」ということありきの映像なんですけど。

うん。


いい曲だ。

2009年6月19日金曜日

sad to say

CMでやってるので、聴いた人も多いと思うんですが、JASMINEという人のPVを。





クールですよね。

これは、曲も結構いいな、と思ったんですけど、まぁ、なにより映像のインパクトがある。
無人の都市、ということで。


でも、この、都市の風景だけの画は、写真を写してるだけだと思うな。(そういう写真集があって、それはワリと有名です)

でも、この、無人の都市を歩く女の子、っていうアイデアは、良いですよね。



昔、似たようなアイデアを思いついたことがあって。
お盆の時期って、官庁街とかはもうホントにゴーストタウンみたいになるんですよ。
で、霞ヶ関の一番デカい道路のど真ん中を全裸で全力疾走したら相当面白いんじゃないかな、みたいな。



失恋を歌った歌だと思うんだけど、その“寂しさ”を、「無人の都市を彷徨う姿」で描く、と。
良いと思います。

それから、彼女が歌うのを真正面から撮ってるのも、良いと思うんですよね。
泣いてるんじゃなくって、独りで彷徨ってる。

失恋して、街に出る、というのは、結構大事なポイントなんだと思うな。
ま、それはちょっと、置いといて。


彼女が、無人の道路を歩きながら、カメラの真正面で歌う、というのは、いい画だな、と。
というか、好きなんですよね。こういうのが。
自分でも、こういう感じで色々撮ったりするんですけど、これはホントに、ディレクションが難しくって。
「演じる人」は、もちろん、色々自分でやりたいワケで。

いや、そういう話も、さておき。



彼女が、独りで歩く画は、イマイチです。
歩く姿が、全然リアルじゃないよねぇ。
ブーツのヒールの高さに慣れてないのもあると思うんだけど。
ぎこちないっスね。

歩くんじゃなくって、ただ立ってるだけでいいんだよねぇ。こういうのって。


交差点の所に立ってるだけのショットがあるけど、そのショットはいいからね。


うん。

ジャスミンさん。


発音からだと、韓国の人なのかなぁ、とか思ったんだけど、どうなんでしょうか。
英語は上手だけど。
詳細は分かりません。

いい曲だけどね。

2009年6月18日木曜日

CSI「誰も知らない存在」を観る

CSIシーズン6の、「誰も知らない存在」というエピソードを観る。


重厚な内容で、面白かった。

CSIの“無印”は、舞台がラスベガスってことも関係してると思うんだけど、人間が本来抱えている闇、というか、物凄いスケールの小さな“悪意”とか“弱み”とか“醜さ”とか、そういう部分がフレームアップされたエピソードが多い気がするんですね。

「NY」は、ニューヨークという世界一の大都市に飲み込まれちゃったりだとか、踏み潰されちゃったとか、あとは、上流階級と貧困層、とか、都市ならではの犯罪とか動機だとかが描かれてて、もちろんそっちも大好きなんですけど、ラスベガスのシリーズとは、ちょっとテイストが違ってて。

「マイアミ」は、これはまた全然違う雰囲気で、“楽園”のダークサイド、というか、麻薬シンジケートという巨大な敵である犯罪組織との戦いが描かれたりして、それはそれで、という感じで。


で。
今回のエピソード、原題は「Werewolves」という、これは、狼男のことですね。
さらに、複数形になってることもポイント。


事件は、ある匿名の通報電話があり、小さな家で、体毛が異常に濃い男性の死体が発見される、と。
それはなんと、銀製の弾丸で撃たれていた、という。

オープニングは、ホラーみたいなタッチで始まるんですね。電話ボックスで話している通報者の姿を映すんですけど、ちょっと怖い感じで。

で、被害者は、遺伝性の多毛症という病気だった、ということが説明されて、彼の周辺の人物の捜査が行われて、同時に、通報があった電話ボックスが発見されて、鑑識捜査もそこであって。
で、そこからも、体毛が発見されて。

被害者には、双子の妹がいる、ということが分かるんですね(これが、複数形の意味)。

被害者宅をもう一度捜索すると、なんと、リビングの一番奥の壁の向こうに、隠し部屋を発見するんです。女性捜査官(鑑識官?)が。
隠し部屋の中には、全身毛で覆われている、妹が居て。
彼女は、兄が殺された瞬間もそこにいて、殺されたあとも、ずっとその中に潜んでいたんです。

彼女は、その外見(狼男のように体毛で覆われている)から、ずっと部屋に閉じこもって生きてきてる、という設定で。
で、彼女は殺された被害者とは、双子の兄妹なワケですけど、当然、両親に付いても語られて。

父親は、双子が生まれてからすぐに、彼らを捨てて家を出て行ってしまい、母親はある時、交通事故にあった、という嘘をついて、家を出て行く。
残された兄妹は、2人だけで生きてきたんだけど、妹は、その存在を周囲にも知られてなかったんですね。多毛症の症状が比較的軽い兄は、ワリと日常生活を普通に営んできたんだけど、ずっと妹を家の中に匿ってて。

で、結局犯人は、被害者の婚約者の兄、という人物で、彼は、被害者の“親友”でもあって。
彼が自分の妹を被害者に紹介した、ということになってて。

しかし、その彼が、自分で“銀の弾丸”を自作して、それで“親友”の胸を撃った、と。


ポイントは、女性の捜査官が2人登場してくるんですけど、彼女たちは2人とも、見事な金髪なんですね。
これは、敢えて、キャストの中の、金髪の2人をシナリオ上でピックアップして並べてるんです。(黒髪の女性捜査官もいるんですけど、彼女は今回はあまり活躍しません)
妹との対比で。

そして、被害者の婚約者、というのも、同じような、きれいなブロンズで。


そういう諸々の仕掛けが、妹の悲劇性を高めている、という。

で、捜査によって、母親は居場所が明かされ、事情が説明される。
そしてラストで、一度は捨てた妹のもとに、母親がやってくるんですね。



う~ん、と。

長々とストーリーを説明してしまいましたが。



なんつーか…。


導入は、オカルチックな雰囲気なんですよ。
で、中盤は、いつもの“科学捜査班”で、いわゆる“科学捜査”が行われる。狼男のような外見も、「それは遺伝性の病気である」という説明がなされて、それで、最初のオカルト・ホラーテイストが否定されて。

で、終盤で、“動機”や背景が説明されて、人間の悪意や弱さや身勝手さや、そういうモノが殺人を生んだのだ、みたいな謎解きがあって。
ここでは、科学的・合理的な“理屈”が、人間の“情念”みたいなのを暴く、みたいになってるんですね。
同時に、これはシリーズに通低するテーマなんだけど、 “理屈”はしかし、“情念”みたいなのを止めることは出来ない、という。暴いたり、対抗したりは出来るんだけど、人を動かすこと自体は、“理屈”(論理)では出来ない。

基本的に、この「出来ない」という部分のほろ苦さが、作品の奥行きになってるんですけど、ここでは、最後に母親が帰ってくるんです。
つまり、ここで人間性の回復が描かれている。

そこは、捜査官たちには関係ない部分で、母親の自発的に、自らの罪を悔い、過ちを回復しようとしている、ということが語られていて。


これは、なかなかないですよねぇ。
非常に優れたシナリオじゃないかな、と。

そう思ったんです。



いかがでしょうか?