2015年2月12日木曜日

「エージェント・マロリー」を観た

お正月にBSジャパンで放送してたのをHDDに録画してあった、スティーヴン・ソダーバーグ監督の「エージェント・マロリー」を観た。

2012年の公開作品。
主演に、プロの女性格闘家を起用した、ということで、少し話題になってて、個人的にも気になってた作品。

S・ソダーバーグは、この作品の何本か前に、「ガールフレンド・エクスペリエンス」という作品で、同じように“本職”のポルノ女優を主演に起用してますけど、その作品は、なんていうか、ほぼ“手癖”だけで撮られた、という感じの“小品”だったんですが、結構面白くて、さすがだな、と。

不思議なのは、この作品も「ガールフレンド・エクスペリエンス」も、女優さんがちゃんとそこに役として存在している、というトコ。

演技に関して、何か特別のレッスン・プログラムみたいなのがあるのか、それとも、専らソダーバーグの演出によって導かれているのか。

ポルノ女優だろうが格闘家だろうが、映画の“主演女優”として、きちんと成立させてしまう、という。
何か“マジック”みたいなのがあるんでしょうか?

実際、物凄い格闘/アクションシーンが有るかっていうと、実はそんなことはなかったりして、所謂アクション大作という、お金を掛ければ幾らでも“迫力”のあるシーンは撮れたりするワケで、そういうモノと比べると、そうでもなかったりするワケです。

でもやっぱり、リアリティみたいなのは、確かにあるんですよ。
単純に、動きが滑らかだったりして、またそういうのをしっかり撮ってるワケですね。
彼女ありきの撮り方をちゃんとしている。

それと、例えば街中を逃げて走るシークエンスがあるんですけど、走り方が良いワケです。
自然に走れる。
これは、意外と難しくって、不自然じゃない感じで走る、という演技が出来る人って、男女含めても、そんなに居ないハズですから。

ソダーバーグもそこは分かってて、彼女の走るシークエンスは、物凄い長いです。カット自体も長いし、シークエンスもたっぷり取ってる。

もちろん、格闘シーンも。


「ガールフレンド・エクスペリエンス」もそうだったんですが、妙な生々しさ、というか。
アクションシーンに「妙な生々しさ」なんていう言葉がフィットしてるかどうか、というアレはありますが、やっぱりそういうのが確かにあるんですよねぇ。


脚本の作りも面白くて、なんか冒頭いきなりカーチェイスみたいなのが始まって、巻き込まれてしまったその車の持ち主に、「何があったのか」を主人公が語る、という形で進行していくんですが、これがかなりテンポが良くって、引き込まれる感じで。


この辺は、シナリオと、あと編集の巧さだと思いますね。
斬れ味がいい。


話自体は簡単で、一つのトピックを、当事者である主人公の視点と、主人公を陥れる側の二つの視点とで、そのギャップのサスペンスで引っ張る、というだけのことなんですけど、テンポがいいのと、彼女の存在感と、あと、脇に豪華な“演技派”をズラッと並べていて、なんかそれだけで楽しくなってくる、というか。

登場人物が少ないんで、「この中の誰かが黒幕」ということになっても、大体想像がついちゃうんですけど、でも、それでもいいワケですね。
単に、ストーリーに骨組みが必要だから、そういう風にしてある、というだけのことで、作品自体のポイント/ウェイトは別のところにあって、それだけで充分面白い、ということなワケで。

褒め過ぎかな?

でも、好きですね。

この力みの無さが、というか。



作品の、ストーリーや世界観ではなく、製作(≒予算)のスケールに合わせて、しっかりと作品を作り上げる、しかも、それをコンスタントに続ける、というところが、この監督の本当の天才性だと思うんですね。
ケン・ローチなんかにも、個人的にはそういうのを感じるんですけど。

「敢えて低予算で作る」という姿勢も含めて。
(まぁ、“低予算”って言っても、あくまで比較の問題で、ホントの意味での“低予算”じゃないですけどね。あくまで、他の、大作との比較の問題。)


主演に格闘家を据える、というのも、“その予算”で作るための、一つのテクニックでもあるワケで。
ビッグ・バジェットのメジャー製作の大作では、そういうことはあり得ないワケです。許されないし、ソダーバーグも、別に無理してそういうことはしない。
大作を撮るときは、それに相応しい体制で作るワケです。

で、大事なのは、どちらのスタイルでも「良い作品」を作ることが出来る、と。


当然、製作の規模によって「良い作品」というのは、定義が変わってくるワケですけど、それに相応しいモノを作ることが出来る、というのは、まぁ、天才なんだろうなぁ、というか。

安っぽい結論ですけど。



うん。



でも、アレですな。
主人公を演じたジーナ・カラーノは、凄くいいと思います。

ホントに、彼女ありきの作品。

映画とは、「movie」であって、“動き”なワケですよね。
“身体性”こそが映画の本質(の、一つ)なんだ、と言い切ることも出来るワケで。

彼女の“身体性”こそが、この作品の肝であって、まぁ、堪能できる、と。
美貌も含めて、ね。




お勧めです。





2015年1月27日火曜日

「トゥルース 闇の告発」を観た

CSの映画チャンネル・ムービープラスで、レイチェル・ワイズ主演の「トゥルース 闇の告発」を観た。


ベネディクト・カンバーバッチ特集企画の中の作品だったんですが、カンバーバッチは実は端役ででしか出てきません。
同じく、モニカ・ベルッチも登場しますが、こちらも脇役。


というかですねぇ。
このスター二人が、脇役なワケですけど、なんていうか、例えばいわゆる“二時間サスペンス”だと「萩原流行(もしくは本田博太郎)は必ず犯人だ」みたいな“法則”があるワケですよ。
名前のある俳優が演じているキャラクターなんだから、重要な役どころに違いない、みたいな。
この作品でも、カンバーバッチが「あとで出てきて窮地を救うんだろな」みたいに思っちゃったりするワケですよねぇ。
毒されている、と言えばそうなんですけど。
「これは何かの伏線に違いない」と勝手に思い込んでしまう、という。

ところがまぁ、そういうことにはなりません、と。


そもそもこの作品は、実話を基にした、シリアスな“告発もの”として製作されたもので、二人のスターが端役で登場しているのは、恐らく、製作意図に賛同して“顔を貸した”という、そういうことなんだと思います。
あんまり好きな言葉ではありませんが、「メッセージ性の強い」という、そういう作品。


ユーゴ内戦、民間軍事会社、国連平和維持活動、ヒューマン・トラフィック(人身売買)、というのが、キーワード。


冒頭、確かウクライナだと思うんですけど(違ったかな? 東欧の別の国かも)、少女二人が、キャンプファイヤーみたいなパーティで遊んでるんです。
で、女の子同士で、片方は「働きに行こう」と誘ってて、もう片方が「ママが心配するから」と言って、帰ろうとする。
「ホテルで働く口がある」という話なワケですね。それが、騙されて(しかも、親族に)人身売買で“売られていく”ということなワケですけど、その女の子は、一旦家に帰るんです。深夜に。
で、パーティーから帰ってくるんですけど、「遅い時間までなにやってんのよ」と、母親に怒られるんですね。女の子が。
そこで、ムッとしてしまう女の子。
で、と。
家出してしまうワケですよ。
誘ってきていた友だちの話に、乗ってしまうワケです。


この、イントロダクションの部分の、「いったん家に帰る」というフックが、まず良かったですねぇ。
ただの家出じゃないし、分別なしのただの不良娘じゃない、という“前置き”があって、これが、人身売買・性的虐待・暴力犯罪の被害者となってしまうその女の子に対しての、悲劇性とか感情移入とかに、効いてるんですよ。
巧いです。


で。
主人公は、そのイントロダクションの後から、登場します。

主人公は、アメリカの女性警察官で、昇進試験に落ちたり、離婚して娘と引き離されたりとかで、なんか生活が上手くいってないのを打開しようと、という感じの動機で、ボスニアに赴く。

アメリカの白人女性、というのは、なんていうか、世界的な視点で見ると、物凄い特殊なんですよ。
レディーファーストと男女平等、という二つの“教条”に、「建前上は護られている」という存在で、もちろん、実際の感覚としては男女差別というのは間違いなくあるんでしょうけど、でも、特に公務員として働いている場合は、少なくとも建前上は、護られている。

これは、特に“後進国”と言われている場所では、まったく違うワケです。
西ヨーロッパ以外全て、と言って良いくらいに。
男女差別と、人種差別。
白人であり女性であり、職業を持っている、という、アメリカ国内では通用する“バリア”が、ボスニアでは、まったく通用しない。

剥き出しの女性蔑視、人種の違いによる差別意識が、ストレートな悪意や迫害として表出してくる。



で。

ストーリーは、ある種のサスペンスとして、「犯人を突き止める」という形でドライブしていくんですが、ここで大事な問題があって、それは、原題が「the whistleblower」となっているトコ。
ホイッスルブロウアーというのは、直訳すると「笛を吹く人」なんですけど、「内部告発者」という意味なワケですよね。
つまり、タイトルで「これは内部告発を扱う作品ですよ」と宣言してしまっている。
つまり、「主人公は内部告発をする」ことが明らかなワケで、彼女が所属している組織が、その「告発される組織」なワケです。
つまり、ストーリー上では、話の起こりの段階で、既に「サスペンスが消化されている」ことになっちゃってる。

もちろん、作り手だって、そんなことは充分承知の上でやっているんでしょうけど、ちょっと「あれ?」な感じはあるんですよ。やっぱり。

まぁ、そういう、サスペンスの作品ではなく、社会派ドラマとして観てくれ、ということなんでしょうけどね。

人身売買・性的搾取及び暴力。それらの、組織犯罪。



ストーリー本体に話を戻すと、やっぱりポイントなのは、民間軍事会社、ということですよね。
国連から“業務”を請け負って、現地で活動している。

主人公は、警察官として、現地の警察組織を支援する、という立場で、実際にボスニアで動くことになる、というストーリーなんですけど。
つまり、現地の警察、という組織が出てきます。

それからもちろん、国連。
現地の移民局、という組織も出てきます。(モニカ・ベルッチは、ここの役人、という設定。)
それとは別の、内務省の人間も出てきます。
それから、アメリカ国務省も。


官僚主義という、誰も何も救わない“悪癖”。


これが完全なフィクションのストーリーなら、それこそカンバーバッチが颯爽と出て来て、少女も主人公も、組織犯罪の悪夢と官僚主義の谷の底から、救い出すんでしょうけど、この作品では、そうはなりません。


現実がそうである以上、それはしょうがない。



苦い感覚を引き摺ったまま、作品は終わりますけど。
それも、作り手の狙いのままでしょう。




苦いですけどね。



特に、この作品の“苦さ”の中心にあるのは、被害者である少女二人が放つ、徹底した不信感だと思うんですね。
助けようとする主人公に対して、最後までまったく心を開かない少女。
そして、結局“その通り”になってしまう、痛々しい現実。
裏切られ、利用され、蝕まれ、奪われ、痛めつけられ、虐げられ、逃げようとして叶わず、誰一人として、助けてくれず、助けられたと思ったら裏切られ、という。

彼女たちに対する、無力な主人公たち。


繰り返しになりますが、映画のイントロダクションが、主人公ではなく、彼女たちの描写から始まる、というのが、しっかり効いているワケで。



うん。
冷静に捉えようとすれば、これはホントにシナリオの強さだと思いますが、シナリオの良さを褒めることが、この作品の“本意”でないことも、明らかなワケで。


“現実”の告発こそが、この作品の製作意図なワケですからね。



うん。





気になる弱点はあったりしますが、社会派の作品としても、シナリオの良さを感じる作品としても、良かったと思います。