2010年7月28日水曜日

おめーら、ちっとオモテ出ろや

昨日の新聞に載っていた、月一連載の「文芸時評」というコラムをご紹介します。
書いているのは、斎藤美奈子さん。
まぁ、有名な方ですね。

「文芸時評」というのは、毎月毎月、その月に発表された文芸作品(小説)をまとめて批評する、というコラムです。


小説の題材を作者はどこから調達してくるのだろう。
かつての日本では、作家自身の私生活を題材に書く人が少なくなかった。いわゆる私小説である。その延長線上で、一族の歴史に取材した作品もある。大きく分ければ「体験型」だ。

もう一つは外に題材を求める方法だ。実在の人物、歴史上の事件、過去の文学作品、土地の伝説。題材は幾らでもあるけれど、この場合は取材ないし資料探索が欠かせない。いわば「調査型」である。
小説が素材(何を書くか)より、包丁さばき(どう書くか)にウェートのあるジャンルである以上、体験であれ調査であれ素材を徹底的に加工する「加工のワザ」こそが問われるわけだけれども、それは承知で少々反動的なことを言ってみたい。でもさ、やっぱり素材についても考えたほうがいいよ、と。

今月の文芸誌掲載作品のなかで素材の力が生きていたのは柳田大元「ボッグブリッチ」だ。小説の舞台はエチオピア。語り手の「私」は奴隷貿易について調べるためにある集落を訪ね、「ひしゃげた家」に伯母と住む少女と出会うのである。
作者はアフガニスタンで拘束された経験を綴った「タリバン拘束日記」という著書もあるフリーのジャーナリストである。紛争地帯の放浪経験(?)が作品に昇華した例。そこで勝負されても困る、という意見もあるだろうけれど、こういう小説は机の上だけではけっして生まれないだろう。

もう一作、素材について考えさせられたのは楊逸「ピラミッドの憂鬱」である。
正直、アイデア先行で、小説として奥行きには乏しい。ただ、ひとりっ子政策によって、子どもが「小皇帝」として四二一(祖父母四人と親二人が子ども一人の教育に全力をそそぐ)型ピラミッドの頂点に君臨する現代の中国と、親の力が失われた途端にピラミッドが簡単に逆転する(子どもに一族の負担がかかる)皮肉とがこの小説の構造を支えていて、何かを考えさせはするのである。
楊逸は日本語で小説を書く中国出身の作家として注目されたのだったが、彼女の旺盛な執筆活動を見ていると「書く材料は幾らでもあるんだから」と言われている気がしてならない。
逆に言うと、日本の若い作家にとって材料を探すのがいかに困難か、である。今月の目玉だったはずの綿矢りさ「勝手にふるえてろ」や藤代泉「手のひらに微熱」が作者の美点を示しながら相対的に「弱い」と言わざるを得ないのは、素材の弱さに起因するのではないか。

半径数メートル圏内の見飽きた素材を読ませるには特異な技術が必要で、だったら新鮮な素材を探しに外に飛び出した方が「勝ち」の場合も少なくないのだ。最終形態が小説でも、そのプロセスは研究論文やノンフィクションとそう変わらないかもしれない。繊細な料理人になる前に果敢なハンターたれ、である。



なるほど、と。


「半径数メートル圏内の見飽きた素材」ね。

例えば、ここの部分を逆に「特異な技術」でもって突き抜けたのが、宮藤官九郎ですよねぇ。

さらに、「特異な技術」として、「構造」を導入して、その組み合わせで魅せる、ということをしているのが、(恐らく)宅間孝行なのかなぁ、なんて。


まぁ、そういうアレは別にいいですね。



「果敢なハンターたれ」と。



う~ん。



頑張ります。

2010年7月21日水曜日

(リアル)バイオハザード・シリーズ

えー、このブログでも何度も取り上げてますが、今回のはマジです。

リアル・バイオハザード。


ヤフーのポータルで見つけた、「生活排水に含まれている抗うつ剤がエビに影響を」というニュース。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20100720004&expand

今回の記事は、実験で、環境を人工的に再現してその中で影響を測る、ということですが。

エビは安全で薄暗い物陰にいることを好むのが常だが、フルオキセチンの影響を受けたエビは、水中の明るい場所に向かって泳いでいく確率が通常の5倍であることが実験でわかった。イギリスにあるポーツマス大学の生物学者で研究の共著者アレックス・フォード氏は、「こうした行動の変化によって、エビは魚や鳥などの捕食者にかなり襲われやすくなる」と説明する。フルオキセチンの作用によってエビの神経は、心的状態や睡眠のパターンを変化させることで知られる脳内化学物質セロトニンの影響を受けやすくなるという。


「明るい場所に向かって泳いでいく確率が通常の5倍」と。

身を隠さなくなる、ということですよね。


まぁ、抗うつ剤ってことですから、その成分がエビに作用するとこうなる、みたいなのは、とても納得のいくアレ、というか。


“排水系”のトピックとしては、今年、高知で大腸菌が排水に流されていた、というニュースがありました。
http://chidakatsu.blogspot.com/2010/04/blog-post.html



大腸菌と、抗うつ剤。



う~ん。


恐ろしい。。。

2010年7月18日日曜日

「ハゲタカ」のD

NHKのドラマ「ハゲタカ」のディレクターさんのインタビューが新聞に載ってました。

大友啓史さん。

現在は、こちらも大人気の福山雅治主演の大河ドラマ「龍馬伝」の演出をしている、ということで、まぁ、最注目の才能、という感じでしょうか。

映像表現のすべての基本はリアリティー。
フィクションという大きなウソをつくには、画面に映る隅々まで、きちんと真面目に小さなウソを積み重ねないと。


福山さんと(吉田東洋役の)田中泯さんが同じ画面の中で芝居をすることにゾクゾクしていますが、お客さんが「田中泯すごい」と同時に、「福山もすごい」と反応しているのが分かります。普通の役者では出せない「真情」を福山さんが表すんです。
(「真情」とは)ウソのない感情と言ってもいいかもしれません。役者の演技に一番邪魔なのが、例えば「こう撮られたらカッコいい」といった自意識です。自意識から離れた、芝居と芝居の合間にふと見せる生の表情、手や指のしぐさも含めて醸し出すニュアンス、そういったものをどう拾えるかが演出の勝負だと思っています。
役者さんに「こっち向いて、あっち動いて、目線はここに」と決めておくテレビドラマのオーソドックスな「カット割り」の演出では、真情を拾うのは難しい。長いシーンになればなるほど、一連の長い演技の中で、本人も想定しない予想外の感情が生々しく出てきたりする。そこにリアリティーがある。演技を超え、福山雅治と龍馬が完全に重なっていく瞬間、というのでしょうか。


「役者の演技に一番邪魔なのが、自意識です」と。

ずばり、ですよね。



ところが、「自意識でパンパン」な人こそが、俳優=人に自分の姿を見せる、という職業を志す、という矛盾があって。
なかなかね、と。


まぁ、俺の話はいいですね。



「真情」。
それを拾っていくのが演出の勝負だ、と。


なるほどねぇ。


役者の「真情」を引き出すだけじゃダメなんですね。

それを、技術的に「どう拾えるか」と。



うん。



とか言いながら、「ハゲタカ」観たことないんです…。


観ないとな…。


2010年7月14日水曜日

「ソウルパワー」を観る

吉祥寺のバウスシアターで、「ソウルパワー」を観る。


いやぁ。
素晴らしかった!


SOUL POWER!



実は、もう10年越しぐらいのアレなワケですよ!
待望の劇場公開だったワケです。


実は、この作品は、かなり有名な姉妹作があるんですね。


この作品は、「ザイール74」という音楽フェスティバルを追ったドキュメンタリーなワケですが、主要な登場人物の中に、モハメド・アリが登場します。
ボクサーの。

なぜか。
「ザイール74」は、そもそもが、ドン・キングという(のちの悪名高き、ということになるワケですが)黒人のプロモーターが、アリvsジョージ・フォアマンのボクシングヘビー級タイトルマッチと併せて企画した“祭典”だったんですね。
「Rumble in the Jungle」とキングが名づけたその一戦は、のちに「キンシャサの奇跡」と呼ばれるんですが(周知のとおり、アリが勝つ)、このタイトルマッチが、「モハメド・アリ かけがえのない日々」というドキュメンタリー映画として遺されているんです。

もう10年以上前に、この作品を、渋谷のシネマライズで観たワケですねぇ。
(あの頃のシネマライズの上映ラインナップは、もうホントにエッジが効いてて、ずいぶん通ったことを覚えてます)

当時から、当然“音楽祭”の方を収めた映画がある、ということは知ってたんですが、それがこの「ソウルパワー」だったワケですね。



まーねー。



個人的な思い入れみたいなのは、この辺に留めておいて、作品について背景を軽く説明しておくと、まず、この“大イベント”が行われたのは、イベントのタイトルにも掲げられているように、1974年。
アメリカでは、公民権運動を経て、黒人たちの政治意識が最高潮に高まっていた時期です。

というより、そもそも「なぜアメリカの黒人たちがザイールに大挙してやってきたのか」という部分の説明が必要かもしれませんね。

公民権運動(と、呼ばれる人種差別への抗議運動)の盛り上がりの中で、その中の一つの潮流として、黒人たちの“故郷”であるアフリカに帰ろう、という動きがあったんです。
実際に帰る、ということとは違って、要するに「精神的なつながりを意識しよう」という運動だったワケですが。
アフリカを、マザーランド(mother land)、つまり母国、母なる大陸と呼んだりして、自分たちのルーツを確認しよう、ということが盛んに言われていた、と。

そういう背景があるんですね。



で。


祭典を催す、と。
その様子が、断片的になんですが、この作品に遺されている、と。


ともかく、熱量がハンパないですよね。

冒頭、キングのスピットとアリのチャント(合いの手)。
そこから、赤ん坊の泣き声につながっていくんです。
そして、そこに「母性賛歌」のバラッドが被せられる、という。そういうオープニングなんですけど。

言葉、泣き声、そして、鼓動(ハートビート)。自分の鼓動と、その胸に抱かれている母親の鼓動とのポリリズム。
音楽の根源がそこにあり、そして、物理的な「ルーツ」としてのアフリカ大陸。母国。マザーランド。



そういうことなワケですよ。

マヌー・ディバンゴが、路地で、野次馬に手拍子をさせて、そこで“セッション”を始める、という強烈なインサートがあったりして。



彼らが感じている“解放感”と“高揚感”ですね。

作品の中で、登場人物の一人が「ここにいると落ち着く」と言うワケです。アフリカ大陸で、同じ肌の色の人間に囲まれている、というシチュエーションに、居心地のよさを感じる、と。

当時、彼らが暮らすアメリカ国内では、マイノリティーとして、白人たちの“悪意”に囲まれて生活していたワケです。
そういう緊張感から解放されている、という。



また、彼らミュージシャンたちが、見事な言葉を語るワケですよねぇ。
それぞれが、それぞれの言葉で。

マルコムXの影響を受け、イスラム教に改宗した、という経緯を持つモハメド・アリは(アリは、改名もしています。カシアス・クレイという名前だったのを、改宗を機に、預言者にちなんだ名前に改名している)、当然、反キリスト教徒という立場で言葉を語ってますし(というか、一番喋るのが、アリ)、他のミュージシャンたちも、繰り返し繰り返し、「黒人たちは連帯しなければならない」といったことや、「アフリカに帰ってこれて嬉しい」というようなことを語ります。

彼らの言葉がねぇ。
素晴らしいですよね。ひとつひとつが。



それから、なにより、パフォーマンス。

とにかく素晴らしい。

ソウルの、スピナーズ(このダンスのフットワーク! 最高!)。ブルーズのキング、B.B.キング。ラテンの、ファニア・オールスターズ。
そしてなにより、ファンクの帝王、ジェイムズ・ブラウン。

アメリカからだけでなく、アフリカ大陸のミュージシャンも、ズラッと。



どれもこれも、強烈なリズム!


リズムに熱狂する観衆たち!


そして、熱くリズムを叩くミュージシャンたち。
リズムという音波に弾かれるように躍動するダンサーたち。


最高ですよ。




個人的に、ベストパフォーマンスだと思ったのは、実はファニア・オールスターズで、パフォーマンスを観るのが初めて、というのもあったんだけど、その、ラテンビートの“ルーツ”も、ファンクやブルーズやソウルと同じくアフリカ大陸にあるんだ、ということが、かなり強烈に示されているな、と。

あと、交差点の歩道のところで演奏しているバンド。
このバンドは、かなりクールだった。
ひょっとしたら名前のある人たちかもしれないんですが、俺はちょっと分かりませんでした。クールだったけどね。



まぁ、そんなこんなですよねぇ。


語り尽くせない。



その、「映画作品」としては、妙な“粗”みたいなのもあったりするワケですけどね。
前半部分、プロジェクトが計画どおり進んでいかない、という描写があるワケです。白人の眼鏡をかけた投資家、という人物が、ずっと苛立った顔をしてて。

その人物は、結局、最後の方はまったく出てこなくて。
ライブの音の洪水の前に、どっかに消えてしまっている。

まぁ、映画としては、そういうのは、ね。
ダメなワケですけど。

どこかでちゃんと「ちゃんちゃん」という部分を見せないといけない。
最後に見せないなら、最初から出さない、ということじゃないといけない。


そういうのは、ありません。



まぁでも、いいでしょ。


キンシャサで踊り狂うJBが拝める、というだけで、すでに十分すぎる価値があるワケですから。



うん。




ちなみに、これは諸々書きにくいことですが、この作品の舞台になるザイールは、実は政治的にはこの頃から既に腐敗していて、この後もずっと、長く暗い独裁政治が続くことになります(体制の主は変わりましたが、“独裁主義”という状況は現在でもあまり変わりません)。


もちろん、当時あった南アフリカのアパルトヘイトは、のちに制度としては撤廃されました。


ただ、アフリカでも、そして、アメリカでも、黒人たちの“貧困”という問題は、まったくと言っていい程、解決はされていません。



この辺りがねぇ。


ちょっと、ね。
複雑なんですが、逆に、グッときたりして。


まだ続いているんだ、という、ね。



JBが、最後にカメラに向かって言うメッセージがあって、それはまだ終わってないんだ、と。


そういうことなんですよ。



うん。



ソウルパワー。



素晴らしい作品でした。


2010年7月13日火曜日

「手に入れると得意になるただの消費者に過ぎません」

宮崎駿監督が、スタジオジブリが発行している「熱風」というミニコミ誌で、iPadについて(かなり烈しく)語っている、ということを紹介している、あるブログのエントリー。

http://blogs.itmedia.co.jp/yasusasaki/2010/07/ipad-ab70.html

自社内の冊子、ということで、実はインタビュアーもジブリの中の人間なんですね。この、「自分の会社の人間だ」ということが、一番最後の強烈なひと言につながっていきます。


以下、引用です。

***
宮崎監督は「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」というスタンスであり、インタビュアーが手にするiPadについてこんな指摘をしています。

あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります。その内に電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだらけになった時も、ウンザリして来ました。


資料探しの道具として使いこなせば良いのでは?という質問の流れで、時間をいただけるなら、文献を調べて取り寄せることもiPadで出来ますというインタビュアーの言葉に対して、

あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男達への感心も共感もあなたは無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。

一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。あのね、六〇年代にラジカセ(でっかいものです)にとびついて、何処へ行くにも誇らしげにぶらさげている人達がいました。今は年金受給者になっているでしょうが、その人達とあなたは同じです。新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。

あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。


佐々木俊尚さんTwitterで紹介したこともあり、今回こちらに紹介した部分が刺激的な内容としていろいろな方が今後とりあげていくのかなと思いますが、やはりコンピュータも使うけど、セルとフィルムでアニメを作れと言われりゃ作るけどって言い切る人の強さをかみしめざる得ないと感じたのでした。

***

「あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい」というのは、いわゆる“一般の人たち”あるいは“巷のiPadユーザーたち”すべてに言っている言葉ではなく(ここ重要)、“生産する者”であるべき、ジブリのクリエイターの後輩に向けて言っている言葉なんですね。

「アニメーター」っていうんですかね?
あくまでも、自社のアニメーターに向かって言っている言葉。

そこを勘違いしてそうな“コメント”がネット上で飛び交いそうな感じですが、そこは留意しておくべき前提だと思います。


「世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけ」じゃダメなんだ、と。


このことをツイッター上で紹介している佐々木俊尚さんのツイットはこちら。
http://twitter.com/sasakitoshinao/status/18167227539
http://twitter.com/sasakitoshinao/status/18167273151
http://twitter.com/sasakitoshinao/status/18167608378
http://twitter.com/sasakitoshinao/status/18167724657
http://twitter.com/sasakitoshinao/status/18278182538



で。


得意気に、何かにコミットしている気になって振る舞っていても、「実はただ消費しているだけだった」というシチュエーションっていうのは、結構あるワケですよね。
映画を取り巻く“文化的な”環境にも。

もちろん、「それでいいんだ」という、それはそれで、ある覚悟を持った“態度”というのも、“消費社会”を泳いでいくための一つの“態度”としては、完全にまっとうなモノとして成立し得るワケですが。


しかし、と。


この、iPadについてはともかく、“消費者”と“生産する者”という言葉が、ね。
刺さりますよね。
二種類の人間の、世界に対する“態度”。

「世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むこと」こそが、“生産する者”の“態度”なんだ、と。
「一刻も早くiナントカを手に入れて」得意気になってるだけじゃダメなんだ、と。


それは、ただの“消費者”の態度でしかない。


勘違いすんなよ、と。


「生産する者になりなさい」ということは、つまり、「カネを稼げる人間になりなさい」ということですよね。
カネ=価値、ということ言えば、なんの価値も生んでないんだ、と。
「上前だけをはねる道具」というののは、そういうことですからね。


何か新しい価値を生むための“態度”っていうのは、そういうことじゃねーんだ、と。

そんな、新しいツールを手に入れただけで「全能感」に浸ってんじゃねーぞ、と。(これは多分、インタビュアーの人が、宮崎監督の前で得意気になってiPadを“ご披露”したんだと思うんですよ。その感じの嘘くささを言ってるんじゃないかなと思います)



うん。



戒め、ですよね。




というか…。
「戒め」なんて、自分を「生産する者」の置こうとしている感じになってて、まぁ、勘違いっていうか、身の程しらずというか、そういう感じになっちゃってますが…。


ま、“端くれ”として、ね。

このブログにエントリーとして残しておきたい言葉だな、と。


そういう言葉でした。

2010年7月11日日曜日

「エグザイル/絆」を観る

ジョニー・トー監督の「エグザイル/絆」を観る。


実は、ジョニー・トー作品というのは、個人的に“敢えて避けていた”感じのアレでして…。

まぁ、ハードボイルド/ノワール・ジャンルを語るには、今や外せない人物なワケですが…。



どうしてか、香港ノワールはあんまりなー、なんて、まぁ、食わず嫌いではないんですけど、ちょっと濃すぎる、というか、ね。


いい作品ばっかりなんですけどね。


特にこの作品に関して、いいところは、なんていうか、「コーヒーセット」じゃありませんよ、という部分。
「エスプレッソ」です、と。

どうしても、“コーヒー”を商品として売り出そう、という場合に、“セット”にしちゃいがちなワケですよ。一番悪い時の日本映画とか、あとは、マーケティング・リサーチをしまくったあとのハリウッド・アクションなんかもそうなんでしょうけど。

いろいろ、付け足したくなる。
ストーリーの“説明”も含めて。


トーは、そうはしない、と。
一点集中。
濃度をより濃くする、という方法論でエンターテイメント性を獲得する、という。

あと、予算の部分ですね。

ある程度、諦めているワケです。
無理しない。

予算的に、あるいは技術的に、できる範囲のことをトコトン突き詰めていく。
「アイキャッチのために、迫力ある爆発シーンを~」なんてことはしない。
セットを作って、その、狭い空間の中で銃撃戦をやる、と。トコトンそこにこだわる。
思い切ってそこに注力することで、テンションの高い画と“空間”を構築できるワケです。

そして、それが、“作家”の個性にもなる。



まぁ、そういうことなんじゃないかと思うんですけどねー。




しかし、よく不思議に思うのが、香港人のパーソナリティと、この、いかにもタランティーノが喜びそうなマチズムって、どういう具合の相性なんだろうか、ということ。
好きですよね。こういうの。

イギリスの、つまりヨーロッパの感覚ではないですよねぇ。

中華圏に好まれる発想なんですかねぇ。
武侠小説なんていうジャンルもあるらしいって話は、ウォン・カーウァイの「楽園の瑕」が公開されたときにいろいろ紹介されたトピックの中で読んだことがありましたけど。


独特の“悲哀”の部分。
かといって、湿っぽすぎない、という。

あと、やっぱり「都市の物語」ってことは特徴かな。香港(と、マカオ)って、市街地ですもんね。「砂漠に逃げる」みたいなことにはなりませんからね。(例えば、中国本土に逃げる、ということも、やろうと思えばできるワケですが、そこはやらない、と。拡散させない。そこの割り切りのよさ)


そういうトコなのかなー。


世界中でウケてるワケですから、世界中に、このノワール感を受容する感覚があるってことでもあるワケですけど。



いまさらエキゾチズムって話でもないだろうしねー。



まぁ、もちろん、演出の切れ味とか、黒みを強調した色使いとか、ジョニー・トーの“作家としての武器”というのは、これはもうビンビンなワケですけど、でも、そこだけじゃないと思うんだよなー。
この人の個性って。

“けれん味”って言葉がよく使われるタイプの人だと思いますけど。

振り切る感じ。


だけど、それだけじゃないですよねぇ。


ジョニー・トー。
この感じ。


うまく言えないなぁ…。



それにしても、グダグダな感想だな…。



2010年7月9日金曜日

iPhoneを持ってロケハンに行こう!

えー、今日は、軽くロケハンに行ってきました(たまには、そういうこともするんです。ハイ)。


一応、次に自分で撮影したい作品のアイデアというのがありまして、テーマ的には「トンネル」って感じで。
まだ、そこから先の“内容”に関してはぜんぜん出来上がってないんで、実際に撮るのはまだまだ先になるとは思いますが。

「地下都市・新宿」「新宿ダンジョン」なんて言われる、新宿が生活圏なので、まぁ、アイデアを膨らませよう、という意味も兼ねて。
小一時間ですが、目星を付けていた場所を一回り。



*どこまでも続いていきそうな地下通路。(だけど、ホントはこの先で終わってる)
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*階段
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*その階段の下。壁のブロックの色が、ちょっと怪しげな感じ。
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*階段。シャッターが降りてる。
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*階段。怪しい感じ。「地下のトンネル」に降りていく…。
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*同じ階段を下から見たところ
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*地下通路
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*その通路を進んでいく。通路が曲がっている。
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*同じ通路。床のタイルの色で分かる。
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*ダンジョンっぽい感じ。
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*バカでかい通路と、その先にある階段。
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まぁ、“ダンジョン”じゃなくって“トンネル”が撮りたいので、ちょっとアレですけどね。

こういう、トンネルの中を、主人公が延々歩いていく、という。
「BLAME!」とか「サブウェイ」とか、まぁ、そんな感じ。



ただ、新宿の地下通路は、どこも監視カメラが凄くて、ロケはあんまり自由にはさせてくれないですよねぇ。
通行人も多いし。

そういう環境にキャストを連れていくのも、やっぱ、気を使うしねぇ。



というワケで、いろいろ他にも「いい感じのトンネル」を探したいなと思ってます。
幾つかアテがあるので、ロケハンに行ってこなければ、と。(川崎の東扇島トンネル!)

2010年7月6日火曜日

探査機「はやぶさ」帰還

小惑星探査機「はやぶさ」が、七年間の“航行”を終えて、地球圏に“帰還”した、というニュースが。

とにかく故障つづきで、ボロボロになりながら、しかし帰ってきた、と。
その、「困難を乗り越えてミッションを達成する」ということで、“物語性”が非常に強いニュース、というか、まぁ、注目を集めたワケですが。


元「宇宙少年」だった俺としても、確かにグッとくるトピックではあったワケです。


で。
「はやぶさ」は、地球の地表に戻ってくることはなかったワケですね。カプセルを投下して、本体は大気圏突入で燃え尽きて消えてしまう、という(もちろん、こういうディテールに相当する部分も“物語”を補強してるワケですけど)。
で、最後に、映像を遺しているワケです。
2つの。


ひとつは、「はやぶさ」が、最後に地球を撮影したモノクロの写真。
デジタルデータで送られているハズなんですが、モノクロなのが、逆にアナログ感を強めているのか、妙に美しい写真で。
下半分ぐらいが、乱れているんですね。それは、いよいよ燃え尽きかけている瞬間に撮られた映像だから、ということになってて。


もうひとつが、これはオーストラリアの地上で撮影された動画なんですが、空中で、光り輝きながら分裂して消えていく、という映像なんです。
これが素晴らしくキレイだったんですねぇ。



なんか、すごいな、と。
小惑星探査機ってことですから、これはもう、「科学の粋」なワケですよね。科学技術力の結集が、探査機本体であり、この往復の旅程であり、故障やらなんやらを乗り越えてさせてきたワケです。

そういうのが「科学が生んだドラマ」として成立する、というのは、これはこれで、あると思うんですが、それに加えて、最後の最後に、完全にプリミティヴな“美しさ”を遺して(しかも、2つも)消えていく、という。


なんか、妙に深い感動がある、というか。





それと、もうひとつ。
「はやぶさ」が投下したカプセルは、当然地上に落下したワケですが、なんと、その落ちた場所というのが、なんと、“聖地”だったんですよ。
オーストラリア先住民の。(ちなみに、あのエアーズロックも、“聖地”のひとつです)



宇宙を航行し、地球に帰還してきて、最後に落ちたところが聖地。


このアンバランス!



ドラマチック!



「科学の粋」が、“美”と“信仰”に接続している、という。



すげーな、と。



そういう、感動が、ね。
あったんです。

2010年7月5日月曜日

「スタートレック」を観る

リメイク版の、一番新しい「スタートレック」を観る。


う~ん。
「スタートレック」ってこういう感じでしたっけ?


いや、面白かったんですけどねぇ。



なんかなー、と。


とりあえず、「スタートレック」みたいな“艦隊もの”に関しては、個人的には「タイムスリップ」的な要素が入ってくるのは嫌いなんスよねぇ。
どっちかにして欲しい、というか。

宇宙空間という“三次元”の話だけにしてくんねーかな、と。タイムトラベルという要素が入ってくると、これが四次元とか、そういう話なワケですけど、それはそれでやって欲しい、というか。

あんま好きじゃないんですよねぇ。

「スタートレック」は、ディテールはあんまり覚えてないんですが、宇宙探査機ボイジャーが還ってくる、というエピソードがホントに好きで(アイデアとして凄くないっスか?)、そういう「時空の超え方」なら、もう大絶賛なワケですけど。


なんつーか、多分、「スタートレック」の“語り直し”ってことで、今までのすべてのエピソードを「パラレルワールド」とか、そういう形でひとつのアレに収めたい、みたいな狙いがあったと思うんですね。
それで、「書き換えられた未来(あるいは、過去)」ってことになってるんじゃないかと思うんですが。


ただ、肝心の、その「未来から来ている」という部分が、どうもはっきりと説明されない、という。
なんか良く分かんないんですよね。途中まで。

ブラックホールがタイムトンネルにもなってた、ということなら、これはこれで新機軸になり得たとは思うんですが、特にそういうワケでもなく。


そこら辺がねー。
どうも、ね。


「宇宙は最後のフロンティア」なワケです。
その、「荒野としての宇宙空間」なワケですよ。フロンティアとしての星間空間。異星人や天体現象や、単純に新しいタイプの惑星とかとの“未知との遭遇”も、そういう“前提”があるからこそ、「どうすりゃいいんだ?」みたいなドラマ(外交交渉か戦闘か、とか、ね)が成立してて、そこが魅力だったりするワケで。


そこら辺が、どうも大味、というか。
敵も、いきなり敵として登場するワケで。


しかも、困ったことに、この“敵”がめちゃめちゃカッコいい、という。
特に、この未来からやってきたという、敵のテクノロジーがすげーカッコいいんですよねぇ。宇宙船(採掘船だった、という設定)のデザインがとにかくカッコいい。


で。

この“敵”がいて、それが主人公の父親を殺していて、みたいな“因縁”がつながっていく、というストーリーは、結構緻密に作られていて、巧いなぁ、とは思ったんですが、スポックとカークとがそこで繋がっている、という伏線はいまいち回収されてない気が…。

個人的なカン違いでしょうか…。


カークとスポックが、ともに不全感を抱えながら育ち、という、とにかく“乗船する”までの話が妙に長いのも、個人的にはどうもな、と。
片方は、父親の不在に因る自己破滅的な衝動を抱えている、という描写。片方が、混血という出自によるアイデンティティーの確立不全を抱えている、ということで。
この両者が、「なんかどこかで繋がっている」みたいな展開になるかと思ったんですよねぇ。“痛み”を分かち合う、みたいな。

ところが、とにかくスポックはずっと悩みまくるんですが、主人公であるカークは、そういうことはない。
ただただ「更生した不良」として(みんな「更生した不良」が大好きなんだ、という“理論”があるんです。実際、好きでしょ?)、なんか知らない間に艦長として収まり、事態を収拾し打開していく。

繋がってればなぁ、なんて、ね。
せっかくリメイクするんだからさー、と。
2人が、最初は対立してるように描かれてても、結局は仲良く協力し合うんだ、ということは、もう前提として分かってるワケですから。
そこを、「どう仲直りするのか」みたいな話じゃないの、と。



それと、敵のテクノロジーはすげーカッコいいんですが、肝心の、宇宙艦隊側のテクノロジーがねー。
結構いい感じに作り込まれていて、いわゆる“リアル路線”ってヤツで、パイプやら配管やらの構造物や、単純に機器・計器の類も全部ちゃんと「そこにある」という描写がされていて、まぁ、手は込んでいるワケです。

ただ、もともと「スタートレック」って、“そうじゃない”トコに魅力があったりもしたワケです。
もともとはテレビシリーズで、それこそ技術的・予算的な制約・限界から、とにかく「なんにもない」艦内、というのが特徴だったんですね。
全部が隠れてる。ツルッとしてる。超キレイな艦内。
それは、テクノロジーがそうさせているんだ、ということになっていたワケです。
「転送室」なんて、ホントにだたの部屋だったりしてたワケですから。医務室だって、ただベッドが並んでいて、みたいな感じで。

そういう「スタートレック的価値観」みたいなのがあったワケですよ。
この価値観に対するアンチテーゼとして華々しく登場したのが「スターウォーズ」で、そこでの、マシンの“汚し”感がたまんない、ということだったワケですけど。
そこが、どうもね。

あと、なんか人が多すぎる。
テレビシリーズみたいに、もっと少人数で航行して欲しい。
いくら大規模な予算があるからって、そんなトコまでリアルにされると、ちょっと冷めるっていうか、ね。


そういうトコがねー。
カネの掛けかたが違う、というか。


あ。
キャスティングは、最高でした。
みんな、存在感あるし、イメージを壊さないでおきながら新しくもある、という、完璧に成功しているキャスティングと演技と演出だったと思います。


うん。



そういう、良い所があるからこそ、ね。
余計に。


まぁ、そういう、余計な期待感を抱かせてしまう、というのも、名作のリメイクの宿命だったりするワケで、そういう意味では、罪作りなリメイクですよね。



とか言いつつ、このリメイク版で新シリーズが製作されたりしたら、これはこれで、たまんない気持ちになるんでしょう。きっと。


そういう感じでした。


惜しいね。ホントに。そういう作品だと思います。


2010年7月4日日曜日

脱稿

ふひ~


ワールドカップが佳境にさしかかり、連日の試合から、試合日の間隔が空いてきた隙を突いて、書きかけだった作品を脱稿しました。

まぁ、“書きかけ”っつっても、もともと書き上げていた作品をリライトしたっていうだけのことなんですけど。

コンクールに応募するための作品です。
函館のイルミナシオン映画祭のシナリオコンクール。
http://hakodate-illumina.com/scenario2010/index.html


もともと書いてあった作品っていうのが、最初は長編のつもりで書いてたんだけど、書いてから、なんか中途半端な長さになってしまったので、思い切って短くしてみた、というアレだったんですが、今回のコンクールは75~100枚ってことなんで、またちょっと膨らませてみた、という感じです。

ホントは、こういう風に、同じ作品を短くしたり長くしたりっていうのは、良くないんでしょうけどね。


で。



当然原稿をプリントアウトしないといけないんですが…。


実は、最近、Windows XPからLinuxにOSが変わりまして。。。

変わってから、初めての印刷工程なんスよ!


どうすりゃいいのか、と。



行数桁数指定の原稿用紙フォーマットで、しかも、縦書き。


困ってます。


というより、この「印刷でてこずる」ことを見越して、〆切よりも何日か早めに書き終えた、という。


そういう状況です。



おそらく、明日一日、あーでもないこーでもないって感じで苦しむんだろうな、と。



今日はもういいっス。




レンタル屋にいってDVD借りてこよっと…。



なに観よっかなー。