2010年7月28日水曜日

おめーら、ちっとオモテ出ろや

昨日の新聞に載っていた、月一連載の「文芸時評」というコラムをご紹介します。
書いているのは、斎藤美奈子さん。
まぁ、有名な方ですね。

「文芸時評」というのは、毎月毎月、その月に発表された文芸作品(小説)をまとめて批評する、というコラムです。


小説の題材を作者はどこから調達してくるのだろう。
かつての日本では、作家自身の私生活を題材に書く人が少なくなかった。いわゆる私小説である。その延長線上で、一族の歴史に取材した作品もある。大きく分ければ「体験型」だ。

もう一つは外に題材を求める方法だ。実在の人物、歴史上の事件、過去の文学作品、土地の伝説。題材は幾らでもあるけれど、この場合は取材ないし資料探索が欠かせない。いわば「調査型」である。
小説が素材(何を書くか)より、包丁さばき(どう書くか)にウェートのあるジャンルである以上、体験であれ調査であれ素材を徹底的に加工する「加工のワザ」こそが問われるわけだけれども、それは承知で少々反動的なことを言ってみたい。でもさ、やっぱり素材についても考えたほうがいいよ、と。

今月の文芸誌掲載作品のなかで素材の力が生きていたのは柳田大元「ボッグブリッチ」だ。小説の舞台はエチオピア。語り手の「私」は奴隷貿易について調べるためにある集落を訪ね、「ひしゃげた家」に伯母と住む少女と出会うのである。
作者はアフガニスタンで拘束された経験を綴った「タリバン拘束日記」という著書もあるフリーのジャーナリストである。紛争地帯の放浪経験(?)が作品に昇華した例。そこで勝負されても困る、という意見もあるだろうけれど、こういう小説は机の上だけではけっして生まれないだろう。

もう一作、素材について考えさせられたのは楊逸「ピラミッドの憂鬱」である。
正直、アイデア先行で、小説として奥行きには乏しい。ただ、ひとりっ子政策によって、子どもが「小皇帝」として四二一(祖父母四人と親二人が子ども一人の教育に全力をそそぐ)型ピラミッドの頂点に君臨する現代の中国と、親の力が失われた途端にピラミッドが簡単に逆転する(子どもに一族の負担がかかる)皮肉とがこの小説の構造を支えていて、何かを考えさせはするのである。
楊逸は日本語で小説を書く中国出身の作家として注目されたのだったが、彼女の旺盛な執筆活動を見ていると「書く材料は幾らでもあるんだから」と言われている気がしてならない。
逆に言うと、日本の若い作家にとって材料を探すのがいかに困難か、である。今月の目玉だったはずの綿矢りさ「勝手にふるえてろ」や藤代泉「手のひらに微熱」が作者の美点を示しながら相対的に「弱い」と言わざるを得ないのは、素材の弱さに起因するのではないか。

半径数メートル圏内の見飽きた素材を読ませるには特異な技術が必要で、だったら新鮮な素材を探しに外に飛び出した方が「勝ち」の場合も少なくないのだ。最終形態が小説でも、そのプロセスは研究論文やノンフィクションとそう変わらないかもしれない。繊細な料理人になる前に果敢なハンターたれ、である。



なるほど、と。


「半径数メートル圏内の見飽きた素材」ね。

例えば、ここの部分を逆に「特異な技術」でもって突き抜けたのが、宮藤官九郎ですよねぇ。

さらに、「特異な技術」として、「構造」を導入して、その組み合わせで魅せる、ということをしているのが、(恐らく)宅間孝行なのかなぁ、なんて。


まぁ、そういうアレは別にいいですね。



「果敢なハンターたれ」と。



う~ん。



頑張ります。

2010年7月18日日曜日

「ハゲタカ」のD

NHKのドラマ「ハゲタカ」のディレクターさんのインタビューが新聞に載ってました。 大友啓史さん。 現在は、こちらも大人気の福山雅治主演の大河ドラマ「龍馬伝」の演出をしている、ということで、まぁ、最注目の才能、という感じでしょうか。
映像表現のすべての基本はリアリティー。 フィクションという大きなウソをつくには、画面に映る隅々まで、きちんと真面目に小さなウソを積み重ねないと。
福山さんと(吉田東洋役の)田中泯さんが同じ画面の中で芝居をすることにゾクゾクしていますが、お客さんが「田中泯すごい」と同時に、「福山もすごい」と反応しているのが分かります。普通の役者では出せない「真情」を福山さんが表すんです。 (「真情」とは)ウソのない感情と言ってもいいかもしれません。役者の演技に一番邪魔なのが、例えば「こう撮られたらカッコいい」といった自意識です。自意識から離れた、芝居と芝居の合間にふと見せる生の表情、手や指のしぐさも含めて醸し出すニュアンス、そういったものをどう拾えるかが演出の勝負だと思っています。 役者さんに「こっち向いて、あっち動いて、目線はここに」と決めておくテレビドラマのオーソドックスな「カット割り」の演出では、真情を拾うのは難しい。長いシーンになればなるほど、一連の長い演技の中で、本人も想定しない予想外の感情が生々しく出てきたりする。そこにリアリティーがある。演技を超え、福山雅治と龍馬が完全に重なっていく瞬間、というのでしょうか。
「役者の演技に一番邪魔なのが、自意識です」と。 ずばり、ですよね。 ところが、「自意識でパンパン」な人こそが、俳優=人に自分の姿を見せる、という職業を志す、という矛盾があって。 なかなかね、と。 まぁ、俺の話はいいですね。 「真情」。 それを拾っていくのが演出の勝負だ、と。 なるほどねぇ。 役者の「真情」を引き出すだけじゃダメなんですね。 それを、技術的に「どう拾えるか」と。 うん。 とか言いながら、「ハゲタカ」観たことないんです…。 

2010年7月14日水曜日

「ソウルパワー」を観る

吉祥寺のバウスシアターで、「ソウルパワー」を観る。

いやぁ。 素晴らしかった!

 SOUL POWER!

 実は、もう10年越しぐらいのアレなワケですよ!

 待望の劇場公開だったワケです。
 実は、この作品は、かなり有名な姉妹作があるんですね。 
 この作品は、「ザイール74」という音楽フェスティバルを追ったドキュメンタリーなワケですが、主要な登場人物の中に、モハメド・アリが登場します。 ボクサーの。 
 なぜか。 「ザイール74」は、そもそもが、ドン・キングという(のちの悪名高き、ということになるワケですが)黒人のプロモーターが、アリvsジョージ・フォアマンのボクシングヘビー級タイトルマッチと併せて企画した“祭典”だったんですね。
 「Rumble in the Jungle」とキングが名づけたその一戦は、のちに「キンシャサの奇跡」と呼ばれるんですが(周知のとおり、アリが勝つ)、このタイトルマッチが、「モハメド・アリ かけがえのない日々」というドキュメンタリー映画として遺されているんです。 
 もう10年以上前に、この作品を、渋谷のシネマライズで観たワケですねぇ。 
(あの頃のシネマライズの上映ラインナップは、もうホントにエッジが効いてて、ずいぶん通ったことを覚えてます) 
 当時から、当然“音楽祭”の方を収めた映画がある、ということは知ってたんですが、それがこの「ソウルパワー」だったワケですね。 

 まーねー。
 個人的な思い入れみたいなのは、この辺に留めておいて、作品について背景を軽く説明しておくと、まず、この“大イベント”が行われたのは、イベントのタイトルにも掲げられているように、1974年。 
アメリカでは、公民権運動を経て、黒人たちの政治意識が最高潮に高まっていた時期です。 

 というより、そもそも「なぜアメリカの黒人たちがザイールに大挙してやってきたのか」という部分の説明が必要かもしれませんね。 

 公民権運動(と、呼ばれる人種差別への抗議運動)の盛り上がりの中で、その中の一つの潮流として、黒人たちの“故郷”であるアフリカに帰ろう、という動きがあったんです。 
実際に帰る、ということとは違って、要するに「精神的なつながりを意識しよう」という運動だったワケですが。 アフリカを、マザーランド(mother land)、つまり母国、母なる大陸と呼んだりして、自分たちのルーツを確認しよう、ということが盛んに言われていた、と。 
 そういう背景があるんですね。 
 で。 祭典を催す、と。 
その様子が、断片的になんですが、この作品に遺されている、と。 
 ともかく、熱量がハンパないですよね。 

 冒頭、キングのスピットとアリのチャント(合いの手)。 そこから、赤ん坊の泣き声につながっていくんです。 そして、そこに「母性賛歌」のバラッドが被せられる、という。そういうオープニングなんですけど。 
 言葉、泣き声、そして、鼓動(ハートビート)。自分の鼓動と、その胸に抱かれている母親の鼓動とのポリリズム。 音楽の根源がそこにあり、そして、物理的な「ルーツ」としてのアフリカ大陸。母国。マザーランド。 
 そういうことなワケですよ。 

 マヌー・ディバンゴが、路地で、野次馬に手拍子をさせて、そこで“セッション”を始める、という強烈なインサートがあったりして。 

 彼らが感じている“解放感”と“高揚感”ですね。 
 作品の中で、登場人物の一人が「ここにいると落ち着く」と言うワケです。
アフリカ大陸で、同じ肌の色の人間に囲まれている、というシチュエーションに、居心地のよさを感じる、と。 
 当時、彼らが暮らすアメリカ国内では、マイノリティーとして、白人たちの“悪意”に囲まれて生活していたワケです。 そういう緊張感から解放されている、という。 
 また、彼らミュージシャンたちが、見事な言葉を語るワケですよねぇ。 それぞれが、それぞれの言葉で。
 マルコムXの影響を受け、イスラム教に改宗した、という経緯を持つモハメド・アリは(アリは、改名もしています。カシアス・クレイという名前だったのを、改宗を機に、預言者にちなんだ名前に改名している)、当然、反キリスト教徒という立場で言葉を語ってますし(というか、一番喋るのが、アリ)、他のミュージシャンたちも、繰り返し繰り返し、「黒人たちは連帯しなければならない」といったことや、「アフリカに帰ってこれて嬉しい」というようなことを語ります。 
 彼らの言葉がねぇ。 
素晴らしいですよね。ひとつひとつが。 

 それから、なにより、パフォーマンス。 
 とにかく素晴らしい。 
 ソウルの、スピナーズ(このダンスのフットワーク! 最高!)。
ブルーズのキング、B.B.キング。
ラテンの、ファニア・オールスターズ。 
そしてなにより、ファンクの帝王、ジェイムズ・ブラウン。
 アメリカからだけでなく、アフリカ大陸のミュージシャンも、ズラッと。 
 どれもこれも、強烈なリズム! 
 リズムに熱狂する観衆たち!
 そして、熱くリズムを叩くミュージシャンたち。 
リズムという音波に弾かれるように躍動するダンサーたち。
 最高ですよ。 

 個人的に、ベストパフォーマンスだと思ったのは、実はファニア・オールスターズで、パフォーマンスを観るのが初めて、というのもあったんだけど、その、ラテンビートの“ルーツ”も、ファンクやブルーズやソウルと同じくアフリカ大陸にあるんだ、ということが、かなり強烈に示されているな、と。 
 あと、交差点の歩道のところで演奏しているバンド。 このバンドは、かなりクールだった。 ひょっとしたら名前のある人たちかもしれないんですが、俺はちょっと分かりませんでした。
クールだったけどね。 
 まぁ、そんなこんなですよねぇ。 語り尽くせない。 

 その、「映画作品」としては、妙な“粗”みたいなのもあったりするワケですけどね。 
前半部分、プロジェクトが計画どおり進んでいかない、という描写があるワケです。白人の眼鏡をかけた投資家、という人物が、ずっと苛立った顔をしてて。 
 その人物は、結局、最後の方はまったく出てこなくて。 
ライブの音の洪水の前に、どっかに消えてしまっている。 まぁ、映画としては、そういうのは、ね。 ダメなワケですけど。 
 どこかでちゃんと「ちゃんちゃん」という部分を見せないといけない。 
最後に見せないなら、最初から出さない、ということじゃないといけない。 
 そういうのは、ありません。 

 まぁでも、いいでしょ。 キンシャサで踊り狂うJBが拝める、というだけで、すでに十分すぎる価値があるワケですから。 
 うん。 

 ちなみに、これは諸々書きにくいことですが、この作品の舞台になるザイールは、実は政治的にはこの頃から既に腐敗していて、この後もずっと、長く暗い独裁政治が続くことになります(体制の主は変わりましたが、“独裁”という状況は現在でもあまり変わりません)。 
 もちろん、当時あった南アフリカのアパルトヘイトは、のちに制度としては撤廃されました。 ただ、アフリカでも、そして、アメリカでも、黒人たちの“貧困”という問題は、まったくと言っていい程、解決はされていません。 
 この辺りがねぇ。 
 ちょっと、ね。 複雑なんですが、逆に、グッときたりして。 
 まだ続いているんだ、という、ね。 JBが、最後にカメラに向かって言うメッセージがあって、それはまだ終わってないんだ、と。 そういうことなんですよ。 うん。 

 ソウルパワー。
 素晴らしい作品でした。