2008年2月28日木曜日

お笑いからも勉強してみよう

ラサール石井さんが書いた「笑いの現場」という本が面白かったので、ちょっとだけ、中身をご紹介。


観客というものは、贅沢で飽きっぽいものだ。「よくできたお話」にすぐ飛びつくものの、何度も見聞きすればそれに飽きてしまう。そして「いまそこで起こったこと」の面白さのほうに惹かれていくのだ。これを物語とドキュメントという言葉に置きかえれば、物語の力は、時には現実を超越して我々に夢や感動を与えてくれる。しかし、一度知ってしまった物語は、よほどのことがない限り、何度も見聞きする度にそのインパクトは薄れていく。その点ドキュメントは現実であるだけに常に新鮮というわけである。
しかしまた反面、現実であるだけにドキュメントは生のままであり、何のフィルターも通していない。無加工であり、無批判の状態である。それがまた過剰になると、人々は夢のある物語を待ち望むようになるのである。

ま、改めて、という感じで、特段新しいことを言ってるワケではありませんけどね。


もう一つ、こちらは、ラサール石井がビートたけしを評して。


笑いというものはそもそもそれまでの雰囲気や既成の概念を壊すことであるといえる。誰かがそれまでの常識を壊す。そこに笑いが起きる。そしてそれが新しい笑いの常識になる。そしてまた新たな誰かがそれを壊すのである。

もちろん破壊するだけでは笑いは来ない。もし破壊するだけでいいなら前衛芸術はみな笑いの渦と化してしまう。どう壊すか、そして壊したことをどう表現するか、それがセンスなのである。たけしさんはこのセンスにかけて天才だといえる。



他にも諸々、日本のお笑いとお笑い史に興味がある方には、お薦めの内容の本です。なんつっても、平易な言葉で話してくれる貴重なインサイダーですからねぇ。ラサール石井という人は。
とんねるずやダウンタウンについての記述なんかは、とても面白い。

もっと、“お笑いの人たち”(爆笑問題とかさまぁ~ずとかも、ね)の評論に絞った感じの本とか、書いて欲しいなぁ、なんて。

2008年2月24日日曜日

重い言葉ですが

新聞に、作家の田口ランディさんという方のインタビューが載ってまして。

この方の作品は、まぁ、読んだことはないんですが。


「キュア」という作品が、がんをテーマにしたものなんだそうで。

で、この作品を書くきっかけになったという、あるがん患者さんの言葉。


文学は、がんを装置として消費している。


いや、重い言葉だなぁ、と。

文学だけに限りませんもんねぇ。

むしろ、“消費”ということで言えば、映画の方が、よりその度合いは強いワケで。


もちろん、「がん」に限らず、「死」とか、そういうもの全てを装置として消費してしまってるワケですけどね。次々に。



まぁ、描くのをやめろという言うつもりは毛頭ありませんが、少なくとも、“自覚”は必要だよな、と。


2008年2月20日水曜日

「フィラデルフィア」を観る

午後のロードショーで「フィラデルフィア」を観る。


まぁ、いわずと知れた名作ですから、幾つか書き残しておきたいポイントを、という感じで。


まずは、オープニング。街の風景を延々と繋いでいくんですが、これが、主人公たちが一切映っていないのにも関わらず、キレイな導入になってる、というところですねぇ。
いわゆる、「あったかい気持ちにさせる」的な映像なんですよ。オープニングの一連のショットは。どれも。子供が手を振ってたり、挨拶してきたりして。
これから始まる“ヒューマンドラマ”に向かって、受け手の感情を上手に誘導していく、という。


ちなみに、舞台になるフィラデルフィアという都市は、あの「ロッキー」の舞台にもなっています。あの有名な、階段を駆け上がっていくシーンは、市の美術館なんですね。
興味がある方は、この作品とロッキーを見比べてみても面白いかも。
もう一つ、ウンチクとしては、このフィラデルフィアという都市は、かつてクェーカー教徒という人たちが興したんですね。“友愛”を掲げる、キリスト教の一派なんですが。
で、この“友愛”という言葉も、作品中に出てきます。知らないと素通りしちゃうアレですけどね。



さて。
主人公のトム・ハンクスも、彼の“恋人”役のアントニオ・バンデラスも、もちろんデンゼル・ワシントンも、とにかく若い!
で、主人公2人の、キャラクターの描き方は、まぁ、当たり前といっちゃそうなんですが、見事ですよね。
やり手の若いエリートのトム・ハンクスと、生命力に溢れた“町ベン”のデンゼル・ワシントン。

公開当時には、人種的なポジションの逆転がどうのとか言われてたような気もしますが、今観ると、それは、そんなに気になりませんねぇ。
それは、デンゼル・ワシントン自身が、ハリウッドの中でキャリアを切り拓いてきた成果であるとも言えるワケですが。
つまり、黒人の俳優が、白人のスターと肩を並べて登場し、出自に左右されないような役柄を堂々と演じるようになっている、と。
もちろんそれは、彼だけの功績ではなくって、例えばモーガン・フリーマンとかにも言えることですが。


作品に戻って、もう一つ。
この作品は法廷劇でもあるワケですが、そのシーンで、トム・ハンクスに「法律を愛している」みたいなことを語らせるんですね。「法律と一体化して正義を遂行出来るのは素晴らしいことだ」みたいなことを言うんですが、その時に、法廷にいる全ての“法律家”の表情を映すんです。
トム側の弁護士(デンゼル・ワシントン)と、相手方の弁護士たち、さらに、判事も。
皆、同じ表情で頷くんです。その辺から、公判の流れが変わるんですよ。そこが巧い。

ま、ジョナサン・デミ監督の名作に対して「巧い」とか、言ってる場合じゃないんですけどね。

そんな感じの名作でした。


2008年2月19日火曜日

「パルメット」を観る

月曜映画で「パルメット」を観る。

観る前は、完全にウトウトしかけてたんですが、ウディ・ハレルソンと、どこかで観たことのあるセクシー女優のボディを拝んだら目が覚めてしまい、結局、最後まで。

いや、結構良かったです。
いわゆるB級作品ということになるんでしょうけど、良く出来たシナリオと、それにしっかり寄り添っている演出が、なかなか、悪くない、というか。

題名の語感は、なんか可愛らしいんですが、これは、舞台となる街の名前で、内容は、狂言誘拐をめぐるクライムもの。“サスペンス”な感じは弱くって、いわゆる“本格派”ではないので、まぁ、謎解きはそんなに面白くないんですけどね。
“トリック”は、もの凄いシンプルなんですが、とても巧い、というか、個人的には好きな感じ。勉強になります。はっきり言って。


ちょうど、ちょっと前に観た「CSI:マイアミ」で、やっぱり狂言誘拐の事件がテーマの回があって、面白いなぁ、と思って覚えてたんですが、まぁ、同じテーマの、こっちの作品も観れて、良かったなぁ、と。
この狂言誘拐は、いつか俺もパクリます。なかなかいいテーマですから。


B級というか、撮影にはあんまりお金かかってない感じですが、シナリオをしっかり練って、と。
あとは、俳優さんたちの存在感なんですかねぇ。最後まで見せ切るのは。
女優さんたちは、まぁ、みんなグラマーで(好きなんです、えぇ)、やたらセクシーで、いちいちそれに翻弄されちゃうウディ・ハレルソンも“イイ感じ”です。

不必要にアクション・シーンだとかを入れ込んでない所も好感出来ますよねぇ。“色気”は結構思い切って動員されてるんですが、派手なだけで意味の無いシーンはありません。その辺も上手。
いや、普通に豪華キャストでリメイクとかしたら、いい作品になりますよ。絶対。



シナリオが良い、というのは、トリックだけじゃなくって、ワリと最初から、あちこち感じれるところがあったりするんですよね。ディテールなんですが。
なんか、シャレてたり、捻ってたり。巧いんです。とても。

うん。結構参考になりそうな良作でした、と。


2008年2月18日月曜日

市川崑監督のスピリッツを知る

NHKの追悼特集を観る。
どちらかというと、監督本人の足跡を追う、みたいな内容で、方法論的な部分の話はあんまりなかったんですが。

「どんな素材でも映画になるのだ」みたいなニュアンスの事をおっしゃってまして。

市川崑監督の振り幅の広さを言っている言葉ですよね。

「映画にならない素材なんてないんだ。幅広く、奥深く」みたいな。


あとは、奥さまのこと。和田夏十さんですね。
「自分が、日本の映画史に何か貢献しているとすれば、それは、和田夏十さんという才能を発掘したことだ」みたいなことをおっしゃってました。

R.I.P.



それから、レンタルしてたDVDの「真夜中のカウボーイ」を観る。
あんまり面白くなかったなぁ・・・。
どうしてだろ?

歳とったからかなぁ・・・。


2008年2月15日金曜日

「8人の女たち」を観る

フランソワ・オゾンの「8人の女たち」をDVDで観る。



全然ダメでした。つまらない・・・。
途中、うっかり2回くらい寝てしまった・・・。


結構評判良かったような気がするんですが・・・。
どうしてだろ。


内容は、まぁ、ざっくり言ってしまうと、ワンシチューション・コメディというか、そういう感じ。
なんつーか、こちとら、この手のブツは散々観てきてるワケで。それこそドリフから始まって、ダウンタウンの「ごっつ」もそうだし、もちろん、「やっぱり猫が好き」とか。
こういう作りの映画って、これは俺の勝手なアレなんですが、そういう、ワンシチュエーションものの系譜の中で観ちゃうんですよねぇ。あんまり“良い鑑賞の仕方”だとは思いませんが。



話の内容も、特にピンとくるアレでもないし。
ラストのオチも全然だしなぁ。

「スイミング・プール」が面白かったんで、ちょっと期待しちゃってましたね。
「スイミング・プール」との比較で言えば、セットの雰囲気もイマイチ。中途半端な少女趣味、みたいな。豪華なんだろうけど、全然ダメっス。つまんない。


う~ん。
まぁ、解釈するとしたら、全然違う方向に振り切った、ということなんですかねぇ。完全に造り込んだ虚構のセットの中で、大量の女優たちを動員して作ったこの作品のあとに、フランスの田舎という、陽光が降り注ぐロケーションで、登場人物もミニマムに、関係性も演出もリアリズムに拠って、みたいな。

まぁ、そんな感じっスかねぇ・・・。





DMMでレンタルも出来ます。
>>>8人の女たち
>>>スイミング・プール

2008年2月14日木曜日

「クローサー」を観る

これから書こうと思ってるシナリオの参考のために、たまには恋愛モノも観ようかということで、ジュリア・ロバーツとジュード・ロウとナタリー・ポートマンと、もう一人名前の知らない俳優さんの、4人のラブストーリー「クローサー」を観る。


ロンドンが舞台なんですが、ま、あんまりそこには意味はないっスね。街並みを生かしたショットとかも殆どありませんし。
まぁ、それはさておき。

この作品のシナリオで面白いのは、時間の、長いスパン(1年とか2年)の時間経過が一切表現されない、というところですね。出会った2人が、次のショットでいきなり、何ヶ月も一緒に生活してたり、カットを跨ぐと、結婚してて、しかも離婚の危機に陥っている、とか。

で、ワリとドロドロした泥沼系の“男女関係のもつれ”が題材なのにも関わらず、基本的に“会話劇”として作られているんです。ここも結構なポイントです。

ウィキペディアによると、この作品は、もともとは舞台として作られていたモノだそうで、会話劇であるのも、年月の経過がワリと唐突なのも、頷けるワケですが。


で、この、会話劇の肝である、セリフがとてもいいんですよねぇ。センスが凄い良い。
変に“シャレた”感じを狙った変化球でもないし、かといって、ベタだったり、ただ大袈裟なだけだったり、というワケでもないし。
それから、“行間の沈黙”で語らせるという、ライターにとってはある種の“逃げ”に頼ったりもしてないんですよ。もちろん、名優ぞろいですから、言葉だけじゃなくって、表情や身体はとても雄弁に感情を語ってますが。あくまで、ストーリーをドライヴさせるのは、会話。

特に、ストリッパーを演じるナタリー・ポートマンと、ジュリア・ロバーツにフラれて傷心の医師とがストリップ・クラブの中で交わす会話が良かったです。

会話が、ちゃんと一つ一つの積み重ねになってるんですよ。
唐突にアホみたいに飛躍したりとか、しないんです。
ナタリー・ポートマンが演じている、「エキセントリックな若い女性」というのは、言葉が、相手との会話の最中に脈絡なくポンポン出てくる、みたいなステレオタイプがあって、実はそれは、物語の書き手にとっては“都合が良い”アレだったりするんですが、そういう風にはならないんですよ。
一つ一つ、前後の関係がちゃんと成立してて、それでいて、少しずつ、関係性の深化なり破綻なりに近付いていく、という。
一対の会話の中でそれを成立させるのって、大変なんスよ。ホントに。



映像の質感は、この間観た「抱擁」と同じような感じで、とてもシャープな感じ。現代風、というか。
ま、デジタル機材で撮影したら、いまは、皆、こんな感じの映像になるんでしょう。
もちろん、テレビ画面で観るのとスクリーンに映っているのを観るとは、だいぶ感じが違ってくるんでしょうけど。



それから、俳優たちについて。
ジュード・ロウは、あいかわらず、存在感だけで演技する、みたいな感じで、いいですね。この人は、どこに立っても、どんなスタイルでいても、絶対微妙にフィットしてない感じがするんですよ。「自分の居場所はここじゃない」みたいな。どんな作品でも、そんな感じがするんです。そういう空気感というか。その奇妙な存在感は、凄い良いと思います。
逆に、ジュリア・ロバーツは、見事に、クールだけど実は芯の弱い、押しに弱い写真家、というのを見事に演じてますよね。彼女って、たまに思うんですが、そんなに美人じゃないよな、と。だけど、佇まいというか、“繊細さ”を表現するのが上手いんだよなぁ、と。だから、まぁ、出演する作品を観る度に惚れちゃってますけどね。あの、フェミニンな表情のリアリティは、抜群だと思います。ホントに。
そして、ナタリー・ポートマン。俺が個人的に、彼女の一番好きなところは、後ろ姿の歩く姿なんですね。「レオン」でもそうなんですが。この作品では、ラスト、ニューヨークの入国審査を終えた後の、独りで歩き去っていくショットで、それが見れます。
まぁ、その、ラストでのちょっとしたオチも含めて、実は彼女こそが、この群像劇の中心だったのでした、という。



ふと思ったんですが、この恋愛ドラマは恐らく、“経験者”向けなんだろうな、と。
例えば「失楽園」なんかは、不倫の“未経験者”向けなワケですよ。この作品は、そうじゃありませんよ、と。
“時間の経過”を自分の想像で補わなくちゃいけないのと同様に、キャラクターたちの心象も、実は結構、観る側の想像に委ねられている、みたいなところがあって。試される、というか、ね。そういう意味では“未経験者”には難しい作品だろうし、ま、ある意味では受け手を選ぶ作品ではあるのかなぁ、と。



ま、そういう、“経験者”向けの、良作でした。


2008年2月13日水曜日

「グッドナイト&グッドラック」を観る

ジョージ・クルーニーが、製作・監督・主演で作り上げた「グッドナイト&グッドラック」を、DVDで観る。


ニューヨークのCBSというテレビ局を舞台に、“赤狩り”で全米を支配していたマッカーシー上院議員と闘うジャーナリストたちの物語、という、これは恐らく、アメリカ人でも、ある程度の知識がないと観れない作品なんですが、しかし、ジョージ・クルーニーは、“やる男”なんですね。ガッツがある男なんですよ。
恐らく、ある種の使命感みたいのがあるじゃないかな、と。


というワケで、“自主製作”です。ほとんど。画面の雰囲気もそんな感じが漂ってて、少ない人数で、好きな手法で、本当に語りたい物語を、じっくり腰を据えたテンポで語る、という。
派手な仕掛けも一切なし。ストーリー上のフックも殆どなし。ただただ、事実に基づいた“エピソード”を語っていくだけ。ただしかし、それが伝わる人にとっては、確かなメッセージがあるのだ、と。
まぁ、好きか嫌いかは別にして、そういう、“志”が充満した画と物語の作品です。


この、過去にあった一つのエピソードを現代に“召喚”して一篇の映画に仕立て直す、というジョージ・クルーニーの意図には、当然単なる懐古趣味ではなく、必然性というのがあって、それは、ブッシュ大統領の、イラク戦争(及び中東政策全体)に対する反対意見を圧殺するような、アメリカ全体の雰囲気に対するアンチテーゼ、ということですよね。
同じような、ブッシュ共和党に対するアンチテーゼとして作られた、こちらはエンターテイメント大作ですが、「シリアナ」という作品にもジョージ・クルーニーは主演してますが。


さて、もう少し作品について踏み込んで。

この作品はモノクロで撮られています。こういう、モノクロという手法をリバイバル的に採用する作品って言うのは、当然幾つもあるワケですが、個人的には、「憎しみ」がありますよね。
で。この作品は、同じモノクロでも、ちょっと工夫があって、それは、コントラストを凄い強くしている、という部分。例えば「ミリオン・ダラーズ・ベイビー」もそうでしたが、ああいう風な黒味の強調を、モノクロでしている、と。
結果、全然古臭くない、もの凄いモダンな画になってます。

最初にこの作品は“自主製作”なんだ、と書きましたが、実際、かなり低予算な作品だと思うんですよ。屋外のシーンなんて一切ないし、殆どが「テレビ局の社内」というセットの中で進んでいくんで。
ただ、画面にその“貧乏臭さ”が全く出てないのは、この、画面の色味がモダンだから、というのもあると思います。

編集とカット割りも凄い上手で、クロースアップと引きの画のバランスが抜群。押したり引いたり。
まぁ、そういう部分で頑張んないと成立しないから、という制約みたいのもあったとは思うんですが、まぁ、成功している、と。

あとは、実在の人物を扱っているワケですが、例えば無理に現代の俳優に似せさせて演じさせない、みたいな潔さもいいですね。さすがにエド・マローは役者さんが演じてるんですが、例えば“仇敵”のマッカーシー上院議員は、ニュースフィルム上ででしか登場しませんから。


それから、やや蛇足ですが、最後のクレジットに“プロデューサー”という肩書きの人がもの凄い沢山出てくるのが分かります。これも、この作品が“志ありき”で作られた、ということを表してるのかなぁ、なんて。


あと、作品で、殆どの登場人物がタバコ吸いっぱなしです。これは、例えば劇場で喫煙者が観てたら、結構シンドイんじゃないんですしょうか。たいがい、今の映画館って禁煙ですもんね。
皮肉なことに、後々、同じCBSを舞台に、ジャーナリストたちはタバコ産業と闘うことになるんですけどね。


ま、「社会派ドラマ」ということで、好きな人にはお薦め、という感じの作品です。個人的にはとても素晴らしい作品だとは思いますが。
あと、低予算で撮る時に参考にもなるよな、と。少なくとも俺は、そう思いました。


2008年2月11日月曜日

「U-571」を観た

土曜日の深夜にテレビ朝日でやってた、「U-571」の感想でっす。

この日は、この前にNHKで「ER」を観てて、そちらは、マイケル・ガラントの、イラクでの野戦病院のストーリーだったので、アメリカ陸軍と海軍を立て続けに観たことになりますね。


ま、それはさておき。「U‐571」に戻りまして。
主演はマシュー・マコノヒーなんですが、冒頭は、いきなりドイツ人たちが右往左往するシーンで、完全に、名作「Uボート」を意識した作り。
まぁ、タイトルも似てるし、時代も乗ってる潜水艦も同じですから、どうしても比較しちゃいますよねぇ。

で、結論から言うと、まぁ嫌いじゃないっス、という感じ。「Uボート」と比べるとちょっとアレですが、みたいな。


シナリオの、潜水艦内という密閉された空間の中での、色々なトラブル(故障とか、捕虜とか)が次々に、という部分は凄く上手に作られてて、そういう、ストーリーの構造的な部分はホントに素晴らしいですね。
演出でも、潜水艦というのは、外の様子が見えないという特殊な空間なんですが、まぁ、そこも、セオリー通りと言えばそうなんですが、俳優たちの表情(というか、目線だけかも)でしっかり描写する、という。

逆にアラみたいのもあって、それは、潜水艦同士と、対駆逐艦の、戦闘のシークエンス。なんか、大雑把、というか。
つーか、そもそも“エニグマ”という暗号装置の奪取作戦という、もの凄い重要な任務に、白兵戦の素人みたいな人たち(マシュー・マコノヒーたち)を使うか、とか、ワリとその辺は適当だったりするんですよねぇ。
ボンジョビが、ワリとあっさり死んでしまって、後々なんかの伏線になんのか、とか。なるワケないんですが、まぁ、犬死ですよ。
まぁ、その辺の大味っぷりも、いかにもハリウッド映画という感じですけど。


もう一つ、物語の要素として、副艦長のマシュー・マコノヒーの、“指揮官”となっていく成長の物語、というのがありまして。ある種の、ビルドゥングス・ロマン。
個人的には、この部分が一番良かったかなぁ、と。屍を乗り越えて進むのだ、みたいな、艦長の言葉が最初に出て、まぁ、その通りに、予想通りにストーリーは進んでいくんですけどね。


名優、ハーヴェイ・カイテルが、いわゆる“鬼軍曹”役で出てまして、存在感はあいかわらず素晴らしいです。主役との関係性も含めて、ポイントは高いですな。


それから、最後のクロージング・ショットはなかなかオシャレ。偵察機の翼に「US NAVY」という、それだけ。生き残ったマシュー・マコノヒーたちの表情じゃないスねぇ。
ひょっとしたら、テレビ用にカットされたアレかもしれませんが。でも、正解です。


まぁ、そんなこんなで、いかにもハリウッド的な、潜水艦モノの戦争映画でした。
個人的には、とにかく「Uボート」がお薦めですけどね





DMMでレンタルも出来ます。
>>>U-571
>>>Uボート

2008年2月10日日曜日

「アザーズ」を観る

ミッドナイト・シネマで、ニコール・キッドマンのスタイリッシュ・ホラー、「アザーズ(The others)」を観る。


いや、なんっつっても、ニコール・キッドマンの美しさがハンパないっスよ。もう“人間離れ”してますもんねぇ。立ち上る雰囲気が。その、暗闇の中に立つだけで。
禍々しいくらいです。マジで。冒頭の20分くらいは、ホントに見とれっぱなし。

登場人物は、ほぼ最小限と言ってもいいくらいの少なさで、舞台も、一軒のお屋敷の中だけ。その中で、観る側を飽きさせないで、グッと引き込みつづけるのは、もちろんシナリオと演出の良さもあるんでしょうけど、その、二コール・キッドマンの“美貌”がなければ成立してないっス。絶対。

モニカ・ベルッチやペネロペ・クルスが、いわゆる肉感的な、マリリン・モンロー直系の“美しさ”とするなら、二コール・キッドマンの持つそれは、例えばグレース・ケリーとかイングリッド・バーグマンとか、そういう系譜に連なるのかなぁ、とか。
そういう意味では、グウィネス・パルトロウなんかは、オードリー・ヘップバーンかな、とか。


いや、美貌の系譜について書いてる場合じゃないっスね。映画の感想のブログでした。


シナリオとしては、とにかくラストのオチに全てが集約されていくワケで、そこに向かって幾つも伏線を張るんですが、なんていうか、作品全体としては、とにかくカット割りで緊張感を高めていく、みたいな手法ですよね。
造形されたキャラクターも、俳優たちの演技も、屋敷の雰囲気も、全てが“不気味”で怪しくて、まぁ、見事なんですが、その、カット割りがいちいち“怪しい”んですよねぇ。こっちの「これはひょっとしたら、後々~」みたいな、「謎解き心理」をくすぐってくるんですよ。

それから、ワリと間がたっぷり取ってあって、それは、まぁ、ニコール・キッドマンの美しさを堪能する時間でもあるんだけど、同時に、受け手が「オチを推理する」時間でもあるんですよ。色々想像力を働かす時間。受け手に推理させる時間、というか。
途中で結末はなんとなく分かるんですけど、でも、途中で色々ミスリードさせる仕掛けもあるし。


ホラーとか、マジで苦手なんで、ホントにドキドキしながら観てましたけど、ま、良い作品でした。





DMMでレンタルも出来ます。
>>>アザーズ
>>>シックス・センス

2008年2月9日土曜日

「黄昏」を観る

「午後のロードショー」で、ヘンリー・フォンダ主演の「黄昏」を観る。


ヘンリー・フォンダが、80歳の誕生日を迎えるおじいちゃん役で、その“女房”役に、キャサリーン・ヘップバーン。2人の一人娘役にはジェーン・フォンダ。まぁ、基本的には、この配役だけでだまされちゃうようなところはありますよね。

ちなみに、原題は「The Golden Pond」ということで、はっきり言って、この邦題は失敗だと思います。だって、“黄昏”っつったら、ちょっと直接的過ぎるでしょう。“老い”ってことを言っちゃってますから。
作品の冒頭に、夕日を浴びて黄金色に輝きながら揺らめく湖の水面が映るんですが、その、“夕日”で間接的に「人生の日没のちょっと手前」ということを語ってるワケで、その“語る余白”を、いきなりこの邦題は消しちゃってるんですよ。イカンです。
それから、ジェーン・フォンダの吹き替えの声もダメ。妙に甲高くて、ちょっと“幼さ”が出ちゃってるから。彼女の役は、もうちょっと成熟した女性というキャラクターですから。じゃないと、「社会では一人の大人として胸を張って生きているのに、父親からは未だに“ダメな子供”扱いをされて・・・」みたいな彼女の苦悩が引き出されてこないんじゃないの、と。
ま、ジェーン・フォンダの本当の声がどういう感じなのかは、分かりませんが(本物もあんな声だったりして・・・)。


さて、内容ですが、ま、恐らく、作った側も、観る側も、実際のフォンダ親子の物語を作品のストーリーの背景に感じながら観るワケですが、ざっくり言ってしまうと、そういう作品です、ということですかねぇ。
父と娘の物語です。
不器用な、というか、ちょっと変人タイプの、己を曲げない主義の、老いた父親。やや天然な、優しい母親。恐らく父譲りなのであろう、やっぱり不器用で、そして“一人娘”らしいワガママさを抱えた娘。
父と娘が、お互いに十分な愛情を持っていながら、それ故に生まれる不満を、アメリカ流の個人主義でぶつけあう、という。
面白いのは、普通に母親も“参戦”してくるところですよねぇ。なおかつ、ぶつけ合っても、すぐに“元の関係”に戻る、という。これが、例えば日本の物語だとしたら、言葉をぶつけ合った母と娘が、“仲直り”をする為に、一つ何かシークエンスが必要だったりするワケで。どっちが先に声をかけるか、とか、「お茶飲む?」みたいな言葉がきっかけになりました、とか、お互いに同時に謝罪の言葉を発する、とか、まぁ、諸々。
特に母親と娘の間には、そういうのはあんまりないんですよ。もの凄いサバサバさばさば。
逆に、当然、父親との距離は、なかなか縮まらないんですけど。まぁ、それがテーマですからね。簡単に“仲良し”になっちゃったら、話終わっちゃいますから。


というワケで、父と娘の、関係性の再構築というハッピーエンドの前に、1人の少年が登場するんですが、まぁ、“男同士”は簡単なんだよな、と。しょうもない感想なんですが。
これは、ひょっとしたら、ジェーンの、父と兄(ピーター)との関係への嫉妬なのかなぁ、とか、勝手に想像したりして。あくまで勝手に、ですけど。(ちなみに、そうは言いつつも、ピーターと父との関係も断絶したりしてたらしいんですが)


父と娘って、やっぱ、難しいんだろうなぁ、とか、ね。男と女ですからね。いくら親子っつっても。男同士って、簡単なんスよ。一、二回ケンカしたらもうOKみたいな感じなんで。と、これも勝手な想像。


しかし、登場人物も少ないし、舞台もずっと一緒だし、結末も“お約束”だし、起伏もそんな無いし、誰かが死んだりすることもないし、でも、じんわりとした感動がやっぱりあって。こういう、“いい話”って、いいですよね。凄い好きです。
大仰な感動なんて必要ないんだ、と。俺は言いたいんです。



あ、そういえば、三国連太郎と佐藤浩市がCMで共演してましたねぇ。
あの2人で、フォンダ家のこの作品みたいのを作って欲しいな、なんて。


いや、「黄昏」、さすが名作でした。




DMMでレンタルも出来ます。>>>こちら

2008年2月6日水曜日

「ザ・ハリケーン」を観た

土曜日の「バリ・シネ」で観た、「ザ・ハリケーン」の感想でっす。

まぁ、名作とされている作品ですが、実は個人的には、内容にやや不満があったりするんですよね。
それはどこかというと、ストーリーの前半が、デンゼル・ワシントンが演じる主役の“ハリケーン”の抵抗の物語であるにも関わらず、後半が、単なる“白人たちの物語”になってしまっていること。


白人の権力者の腐敗と、白人の善意の行使者たち、白人の弁護士たち、白人の裁判官、などなど。つまり、それは“白人の悪”と“白人の正義”の物語なんじゃねぇのか、と。その“ツマ”になっちゃってる感じがするんですよ。ハリケーンの存在が。


デンゼル・ワシントンと“牢獄”といえば、当然、スパイク・リーの超大作「マルコムX」を連想させるワケで、この作品でも、観る側は当然、デンゼル・ワシントンの背後に、マルコムXに代表される黒人たちの抵抗の物語を感じながらストーリーを追うんだと思うんです。
で、若きハリケーンが、牢獄の中でフィジカルに武装していき、さらに“知的”な武装も自ら手に入れ、という流れはホントに納得なんですが、その後、彼は“融和”に向かうワケです。善意の手を差し伸ばしてきた“白人たち”に。
もちろん、“融和”は、それはそれで、全然いいと思うんです。それは、黒人解放運動が最終的に目指すべきとも言える“理想郷”であり、マルコムXも、暗殺される直前には、その方向に舵を切っていたワケですからね。

ただ、ストーリーのフォーカスが、そこからちょっとズレるんですよ。そこが不満。
ハリケーンが、援助者たちに対する気持ちで、自分の中の2つの声に耳を傾ける、みたいなシークエンスがあるんですが、個人的には、その辺の葛藤をもっと描いて欲しいし、その、“憎しみ”からのアウフヘーベンこそがメッセージ足りえるんじゃねぇのか、と。
なんか、結構あっさり受け入れるんですよ。
牢獄の“隣人”として、ブラック・ムスリムっぽい老人がチラッと出てたりするんですが、例えばその人とのやりとりとか、ね。

このストーリーだと、「白人の秩序の中に入ってくる黒人だけが救われる」みたいな感じになっちゃってると思うんですよねぇ。
まぁ、実話に基づいた作品だからしょうがない、という部分もあるとは思うんですが、しかし、ハリケーンを最終的に救い、解放したのは、あくまで、ハリケーン自身の信念と意思と、その強さだ、みたいに描く方法もあったんじゃねぇのか、と。
魂の修養と浄化を経た後に獲得した、その精神的な高みこそが描かれるべきでは、と、思うんです。

作中でも、ハリケーンを密かに応援していた看守とか警官(白人の、ね)の姿が描かれていますが、これこそが、実は観客の視点なワケですよね。
直接的に何か手を差し伸べることはしなかったけど、最終的に救われたハリケーンを見て、満足気に頷く、という。
なんか、それで終わってる感じがするんですよ。残念ながら。

もちろん、それでいいと言えばその通りで、その点で言えば、ホントに素晴らしい作品なんですが、しかし、題材が題材なことに加えて、なんせ、デンゼル・ワシントンですから。



しかし、デンゼル・ワシントンは、ホントに、素晴らしいっス。凶暴であったり、知的であったり、プレイボーイであったり、まるで宗教者のように崇高な視線であったり。
ただ、逆に、周囲がそれにしっかり対峙出来てない、みたいなアラも感じてしまいました。特に、白人の若者たちの援助者グループ。彼らの空気感が、なんか、ちょっと安っぽくって、それがやや“偽善者”みたいな雰囲気を作っちゃってるんですよ。それは恐らく、演出側の意図とは違うと思うんですけど。
裁判官とか悪徳警官側には、やっぱりもの凄い説得力があるんだけど、肝心の、その、D・ワシントンの周囲にいるキャラクターに説得力が欠けちゃっている、というのは、俺がストーリーに不満を感じちゃった一因にもなってると思うんですけどね。


ま、そんなこんなで、観る前の個人的なハードルがかなり高い故に、やや不満、という作品です。普通に良作なんでしょうけどね。





DMMでレンタルも出来ます。
>>>ザ・ハリケーン
>>>マルコムX