2011年12月15日木曜日

「ゴモラ」を観た

シャレオツな渋谷・青山のイメージフォーラムで、「ゴモラ」を観た。

 一部で結構話題になってた、イタリア産の作品で、イタリア版の「仁義なき戦い」だ、とか、そんな言葉もありましたが、いや、良かったです。
個人的には、ちょっと違う感じを予想してて、やや裏切られた、というか、まぁ、作品が良かったんで、別にいいんですけどね。 あんまり予備知識を入れないまま観にいったんですよねぇ。

原作があって、それも本屋さんで見かけたりはしてたんですが。

 なんていうか、もうちょっと“様式美”みたいなのを使って暴力を描くのかなぁ、とも思ってたんですが、全然違って、いわゆるリアリズム描写(リアル“に”描写する)、ということになると思うんですが、単にリアリズム、というだけでなく、目線を徹底的に低く、という、そういう意味でも(リアル“を”描写する)良かった、というか。

 しかし、これは良く思うんですが、この手の作品/この種の作風で作られた作品、というのは、ホントに世界中で作られていて、それこそ世界中で受容されている(需要がある)んだなぁ、と。

 手持ちの揺れるカメラ。対象に接近して、肉薄していくカメラ。黒味を強調した(陰を消さない)ザラザラしたタッチの画質。
登場する俳優たちも、顔は汚いし、汗はそのままだし、だいたい、着てる服も汚いし、という。


 で。


 ストーリーの構成は、三つのエピソードを平行して描く、という形。
三つのエピソードが絡み合う、ということではなく、平行して、並列に並んだまま進んでいきます。
最初、ここに戸惑ったんですけど、ま、別にこれはこれでいいですね。


 この作品が、単なる“バイオレンス描写”だけにしていない理由のひとつが、現代性、という部分。
 ストーリーのそれぞれのエピソードでは、犯罪組織と個人の対立が描かれていくんですね。
個人、というより、個人の“人間性”というか、まぁ、そういう、ただの対立ではなく、「内面を踏み荒らされる」ことに抗う個人、という感じなんですけど。

で。
その背景に、グローバリゼーション、というのがあるんです。

 犯罪組織自体も、より大きな“何か”に、経済的領域を脅かされている。 
なんていうか、別に犯罪組織に限らず、ある種の牧歌的な“組織”にも、この、グローバリゼーションというのは、競争を強いるワケですよ。
組織も、そしてその組織の周縁に暮らす個人も、その“新しい環境”に、新たに適応することを求められる。
 そこで産まれる暴力、というのが、この作品で描かれている暴力であって。

 もう1つが、犯罪組織にさえつま弾きにされてしまう人間の姿、というのが描かれている、と。
犯罪組織さえも「既得権益層」として振舞うワケですね。弱く孤独な個人、つまり、“弱者”の前では。
 ここは、個人的には結構ツボ、というか。

 犯罪組織の中での階級(階層)闘争、とか、組織同士の抗争とか、そういうのとは若干違う視点が、この作品には導入されている、と。
まぁ、これはあくまで個人的な感想ですけど。 
なんていうか、「同じパイを喰い合う」モノ同士の暴力、ではないワケですね。


特に、仕立て屋のエピソードは、そのまま日本に持ってきても全然成立する、というか、ホントに優れたアレだなぁ、と思うんですけど。
中国人の(恐らく、違法移民の)労働者たちから「マエストロ」なんて呼ばれて、という。

この、経済構造の変化が、実社会に物理的に変化を強いていて、それを凄い巧くストーリーに落とし込んでるよな、という部分は、この作品の良さだと思うし、つまり、ただの「暴力映画」じゃないんだ、ということだと思うんです。

産廃業者のエピソードも、南北格差、あるいは都市と田舎の格差、という、イタリア国内の経済格差を背景に語られているワケで、特に、最後の、若者が罵声として浴びせられる「ピザでも作ってろ!」というセリフは、ホントに刺さるモノがありましたね。

その辺の、つまり作品の持っている“深み”の部分というのは、多分原作の力に因るモノなんでしょうけど、でも、それを損なわないでしっかり作品のバックボーンとして成立させている、というのは、ホントに作り手の意思と“腕”を感じますね。

手前の、より表層的な、カメラワークとか暴力描写にもしっかりこだわりながら、そういう“深み”についても、意図的に切り捨てることなく、かといってそこにフォーカスし過ぎることもなく、しっかりと、複数のエピソードで出来ている作品全体の背景にあるものとして読み取らせる、という。


うん。

 構成力もそうだけど、ホントにここは、作り手の手腕なんじゃないかな、と思います。


 あ、あと、これは、イメージフォーラムっていう劇場で観たのも良かったのかもなぁ。
あそこ、雰囲気あるから。 それもコミで、良い作品だったな、と。 そういう結論ですね。


2011年9月21日水曜日

文学の力

新聞に、ノーベル文学賞受賞者の作家のインタビューが掲載されてまして。
印象的だったので、ここでご紹介。
作家というのは、マリオ・バルガルリョサさんという、ペルーの方で、御年75歳。
個人的には不勉強なもので名前もぜんぜん知らず、当然作品も読んだこともないんですが、文学が持つ力について、印象的な言葉を残しています。

東京大学での講演テーマは「文学への情熱ともうひとつの現実の創造」だった。
文学が描き出すもう一つの現実には私たちすべての願望が入っており、現実の世界に足りないものを教えてくれると語った。


「文学を楽しみのためだけのものと見なすのは誤りで、文学は私たちに現実の世界がうまく作られていないことを教えてくれる。
批判的な精神を養い、権力に従うだけではない人を作るから、いろいろな体制のもとで、支配したい人たちは文学に不信感を持つのです。」


「文学は偏見への最大の防御になる。
言葉のおかげで私たちは分かり合うことができ、過去の人たちがどう考え、どんな夢があったのかを知ることができる。
文学は人間に共通のものがあることを示し、時間や空間を超えた連帯感を生み、肌の色や言語、宗教などの壁を超越できる視点をもたらす。」


「私たちの世代は、作家は自分の時代に関わらねばならないとするサルトルの考えを深く心に刻んでいた。」


「良い文学は生きるための助けになる。障害を乗り越える力を与えてくれ、人生の一部になる。」




“文学”には、現実と切り結ぶだけの力があるのだ、と。
逆に言うと、そういう力のないものは、文学ではないのかもしれませんね。


ただの製品、プロダクト、というか。


ま、それはさておき。



「もうひとつの現実」を文学の機能性として提示する、と。

そして、そこから戻ってきて、「現実の世界」と切り結ぶ、と。そのフィードバックを実際に生み出すエネルギーこそが文学の“力”なんだ、と。


恐らく、そういうことなんだと思います。




なるほどなぁ、と。


そう思いました。

2011年8月14日日曜日

三池監督のインタビューより

今日の新聞に、三池崇監督のインタビューが載ってまして。
せっかくなんで、ここにアーカイブしておこうかな、と。


「十三人の刺客」は以前撮った「クローズzero」のようなケンカ表現を、今時希少な時代劇の枠組みでやると、どんなものが出来るかという発想でした。新しいものを求めたら、結果として古いものに行き着いた。
50年前なら「昔、悪い殿様がいました」という一言で、観客自身が物語を創り出していけた。でも、今の観客には、悪いヤツはどう逸脱しているか、どこが壊れているのかを丁寧に作っていかないと伝わらない。
例えば、稲垣吾郎さんが犬喰いするシーン。あれを入れることで、何かが過剰で、何かが欠落した人間の奇怪さと孤独を、あからさまに見せられた。
稲垣さん自身も、普段、いろんな制約がある人だから、演技することで殻を破る快感があったと思う。
今の僕らにとっては、武士たちの距離感や非情さはグッとくる要素もあるんです。「十三人の刺客」で、集められた侍たちが役所広司さんに「将軍の弟を討つ」と打ち明けられる。今の人間なら驚きますよ。「えっ」とか「そんなあ」とか。
ところが、武士はノーリアクション。そのまま受け止めるしかない。「使い捨てにいたす」と言われても、黙って平伏するだけ。



「一命」は若い夫婦の話ですが、「本音ぶっちゃけシーン」は入れませんでした。幸せも愛も、今のような概念としてはなかったはずですから。
映画なので、エンターテインメントの要素はゼロにはしないですけど、江戸時代に生きた人たちへのリスペクトは欠かないようにしたい。そいでないと、時代劇を作る意味がない。
江戸時代の人はみんな、何も起こらない日常を過ごしていたと思うんです。そして、ある日病にかかって簡単に死んでしまう。何も起こらないけど、ドラマチック、ひどく不自由で不便だけれど、人生とがっちり組み合っている楽しさがあった。


 「刺客」と「一命」ですね。


実は(恥ずかしながら)まだどちらの作品も観れてないんですよ。。。


面目ない。。。


特に「十三人の刺客」は、絶対に観たい作品だと思ってますんで。。。




えぇ。


観たいです。


観ます。必ず。






2011年1月28日金曜日

「トロン:レガシー」を観た

新宿バルト9で、噂の3D「トロン:レガシー」を観た。



いやぁ、3D。凄かったですねぇ。
なんつっても、大画面ですよ。3Dですよ。


実は、前作「トロン」は、見てないんです・・・。


だけど、CMで観せられたシーンに心を鷲掴みにされちゃって、公開を楽しみにしてたんですよねぇ。
あの、リングを(フリスビーみたいに)投げるショット。


ただ、フタを開けてみると、もちろん、そのリングでの戦闘シーンは熱かったんですが、バイクに乗って戦うシーンの方がメインだったみたいで・・・。

それはそれで、良かったんですが(3Dの特性を生かしている、という意味でもね)、リングのバトルももっと観たかったなぁ、なんて。


ま、いいんですけどね。



映像は、仮想現実の世界観というのが、ちょっと殺風景過ぎるっていうか、どうも単調になってしまって、もちろん作り手側の意図としては、それが狙いなんでしょうけど、そこがちょっとアレでした。
もっと派手でも良かったんじゃないかなぁ、なんて。



ま、前作との世界観の繋がりもあるんでしょうから、しょうがないっちゃしょうがないんですけど。



3Dに関しては、もうバッチリ。
リングとかバイク(の、光跡)という“飛び道具”も、バンバン効いてて、良かったです。




で。


ストーリーについてで、ちょっと面白かったトコがあって。


作品のストーリーは、ざっくり言ってしまうと、若い主人公が、「仮想現実世界」に旅立って消えてしまった父親を追って、自分も「仮想現実世界」に入っていく、という話なワケです。

そこで、父親と対面する、という。


ここで、いわゆる“定番”のハリウッド・スタイル(というか、アメリカのスタイル)だと、「父親と息子」の対立が描かれるハズなんです。

「父越え」は、アメリカ映画の、通奏低音の1つとして、色んな作家が、それこそゴリゴリの商業ベースのハリウッド大作でも、インディペンデント作品でも、繰り返し語られているストーリーの形であって。


ところが、この作品では、主人公自身は、父親と、感情的には色々あっても、話の流れの中で“共闘”することになるんですね。


これが、ちょっと面白かったです。



実は、その「仮想現実世界」というのは、父親が“創造主”となって作り上げた世界なワケですけど、そこに、“創造主”の代理人として、自分の“分身”を作るワケですね。

「仮想現実世界」ですから、当然、“創造主”がプログラムを書くワケですけど、「仮想現実世界」では、プログラムが擬人化(一応、そういうことにしておいて下さい)されて、“人格”を持った“身体”として、現れる、と。

で、その“代理人”が、暴走している、という話なワケです。
ストーリーでは。


“代理人”である“分身”が、暴走していて、つまり、“創造主”に反逆している。だから、父親は「仮想現実世界」の中に閉じ込められてしまっているんだ、と。
そういう話なワケですね。

息子は、そんな父親を、助けに来た、と。



で、この“分身”というのは、つまり、“創造主”の“息子”でもあるワケです。
“創造主”に作られたワケですから。



主人公からみたら、そいつは、実は「自分の弟」というか、そういう存在でもあって。



ストーリーの中で、“分身”は、「仮想現実世界」を「完璧な世界にするように」という使命を、プログラミングされているんです。
「そのために働きなさい」という命令を受けて、その世界に生まれた存在。

しかし、“創造主”は、生身の人間なワケで、つまり「完璧ではない」と。

従って、「完璧な世界」を造るためには、「生身の人間」である“創造主”自身を排除しなければいけない、と。

このパラドックスを、背負っているワケです。“分身”は。


つまり、敵役である“分身”が、「父越え」のストーリーを背負っているんですね。

この構図は、ちょっと面白かったです。


父親を奪い合う兄弟の物語。



主人公は、長い間父親が不在のまま育った、ということで、なんていうか、愛情不足じゃないけど、そういう、若干の「実存不安」みたいなのに陥っていて。
「父親を奪還する」というタスクを負うことで、それを克服する、という物語があるワケですけど、まぁ、そういう、親子愛の物語。


そして、パラドックスを背負わされてしまった“分身”の、「父を殺す」物語。





ストーリーの本編自体は、最後はなんか粗さが目立つ感じではあったんですが、でも、3D大作だし、こんな感じで良いんじゃないかな、なんて。



うん。




ま、映画館の大画面で観ないと意味がない、とまでは言いませんが、ぜひ3Dで、ね。



味わって欲しいな、と。






ちなみに、音楽はダフト・パンク。(本人たちも出演してます)

音楽は、最高でした。
ホントに。
世界観にバッチリはまってて。


その、音楽の感じも含めて、楽しんだなぁ、と。
そういう作品でした。















2011年1月4日火曜日

「ディープ・エンド」を観る

新春ってことで、毎年この時期はテレビで大量に映画が放送されてたんですが、今年はあんまりない、という状況の中で、いつもの「映画天国」で、「ディープ・エンド」という作品を観る。


まぁ、作品名も知らず、俳優陣もほぼ知らず(ERのコバッチュ先生が出演してます)、という状態で、あんまり期待しないで観たんですが、なんていうか、独特な味、というか、不思議なタッチとストーリー展開で、結構満足してしまった作品でした。


舞台は、カリフォルニア州の、タホ湖(「レイク・タホ」という単語は、ワリと色んな作品に出てきますね)の湖畔の小さな町、です。
というより、湖畔に建っている主人公一家が住む家が、主な舞台。

主人公は主婦で、旦那は海軍の軍人で、「船長をしている」みたいなセリフがあるので、まぁ、中流家庭なんですが、その中でも上の方、ですね。中の上。
で、旦那は一切登場せず、不在のまま、です。この“不在感”は非常に大事で、「一人で家庭を守る主婦」という、そういう感じ。
子どもが三人と、旦那の親父、というのがいて、5人で、田舎なんだけど、湖畔の大きくて綺麗な家に住んでる。

で、長男が思春期で、大学進学の問題もあってちょっと難しい時期で、というのに加えて、なんとゲイで、しかも“よからぬ男”と付き合っている、という。
この、「長男との関係に問題を抱えている」という“前フリ”の語り方が上手で、まぁ、強引っちゃ強引なんですが、話が始まる前に、その息子はすでに「交通事故を起こしたばかり」ということになっているんですね。
「交通事故」って、結構大きなトピックなワケで、普通なら、この手のシークエンスを中心に語りたくなるワケですが、この作品では、サスペンスに使うこともせず、かなり潔くバッサリ削っています。
「事故があった」ということだけが、母親と息子の間に、大きな刺として残っている、という状態から話が始まる。
個人的には、この語り口は面白いと思いました。


で。
長男の“恋人”という男が現れ、そいつが、何の因果か、死んでしまう。
勝手に。(事故死、ということです)

しかし、と。

母親は、そうは思わないワケですね。「息子が殺った」と。そういう勘違いをして、死体を隠したりとか、色々する。(このシークエンスで、一度沈めた死体に、もう一度自分が泳いで会いにいく、というシーンがあります。ここも面白かった。)

で、ここでようやく、“悪役”が登場して、「ゲイの息子」のことをネタにして、恐喝しにくる男が現れる、と。
後半は、この“悪役”と主人公との間の関係性や、二人の心情の揺れ動き、みたいなが描写のメインになるので、まぁ、作品自体のテーマもここにあるワケですね。

つまり、“死体”とか“犯人探し”とか“犯罪隠蔽がバレる”とかは、実はあんまり主題ではない、と。

「サスペンスの衣を借りた人間ドラマ」なんですね。
ここがキモ。
要するに、この“塩梅”が非常に良い、と。
そういう作品でした。


強請にくる男が、揺れるワケですね。
諸々事情があって、男がポツンと家の中に置いてきぼりにされてしまうんですが、その時に、主人公の女性が「護ってきた」家庭、というのに触れるワケです。
その価値を知る、というか。

ここの演出は、浅いと言ったら確かに浅いんですが、半面、ストーリーの流れを損なわない形で、役者の演技に頼りかかりながらも、短い時間で「分かる人には分かる」形で、上手に描写されている。

そこまでの、単に「主人公は三人の子どもを抱える母親である」ことの描写に過ぎなかったことが、ここで、少し意味合いが変わるワケですね。
「そういうのを知らないまま育った人間もいるんだ」と。

ここで始めて、そういう“別の角度”が掲示される、と。

と。


で、ここで「父親の不在」の意味も強まるんですが、その「強請にきたチンピラ」が、「不在の父親の代替」みたいな感じになる。
逆に言うと、チンピラが「父性に目覚める」というか。


まぁ、そういう感じに話が展開していくワケです。

この感じは、ストーリーに派手で分かりやすい起伏がある、ということではなくって、まぁ、かなり地味ではあるんですけど、いいな、と。
人間ドラマ、ですから。
ね。



ただ、「諸々事情があって」と書きましたが、そこのシークエンスに関しては、ちょっと不満です。
偶然に依りすぎ、ですね。
もっと「チンピラの正体を知らないまま話している最中に何かが起こって~」とか、そういう風になれば良かったのになぁ、なんて。
あんなに偶然いろんなことが母親の身に降りかかるか、と。

そこは、ね。
ちょっとイマイチ。

必然性を持たせることは、十分可能だったと思いますね。
作品の構造上、他のもっと大事な部分で“偶然”に依る必要があるワケで、そうである以上、他の部分では偶然性は排除していかないと、と。

まぁ、あくまで玉に瑕、という感じですけど。



演出面では、おそらく監督の好みか、あるいは他のメッセージがあるのかは分かりませんが、ひたすら“水”をイメージさせる演出が繰り返されます。
湖畔、という舞台を強調する為なのかはちょっと分からないんですが、湖面、湖底、プール、「水球」、水槽、釣りゲーム、蛇口の水滴(このショットはかなりクール!)、水面に反射して揺れる光、などなど。
もう徹底してますね。

おそらく、そこに対しての、後半の「赤い車」と「赤いコート」ってことだとは思うんですが。
感覚的には分かるんですが、強い意味合いまでは、ちょっと分かりませんでした。

まぁ、シンプルで綺麗な画だった、と。
それは間違いないっス。


というより、あの舞台だよなぁ。
ロケーションの勝利、という感じはあります。間違いなく。


あとは、シナリオの巧さ、と。



そういう作品でした。



あ、あと、ちょっと思ったのが、こういう恐喝とか、あとは詐欺なんかもそうなんでしょうけど、その手の「犯罪の現場」っていうのは、いわゆる「裏社会にいる人間」と「普通に暮らす人間」が交わる場なんだな、と。
別に、こう書くと極めて普通の、当たり前のことなんですが、なんか、改めてそんなことを思ってしまいました。
普段は別々の世界で暮らしている人間同士が交錯する場、としての、犯罪の場。

自分の創作のヒントになりそうだな、なんて。

まぁ、それはさておき。




小品ながらも雰囲気の良い、佳作だと思いました。

そういう感じで。
でわ。