2008年10月31日金曜日

「ダークナイト」を観る

銀座シネパトスへ出かけていって、「ダークナイト」を観る。


いやぁ、傑作。まぁ、そういう風に言われてましたけどね。
その通り。素晴らしい作品でした。

実は、前作の「ビギンズ」を観てなくって、例えばバット・モービルが登場したときにはホントにびっくり。
超クール!
この“新型”の造形って、前作からなんですってね。

個人的に、東京・八王子出身なもんで、ちょうど中学時代、バットマンビルというのが出来て、そこに飾ってあったバット・モービルの実物大のレプリカを目にしていた人間としては、“新型”の登場には二重の驚きでした。
うん。そういう意味では、前作を観てなかったのが、かえってよかったのかも。驚きが大きい、という意味では。


で、もうひとつ正直に白状すると、「コイン≒トゥーフェイス」ということも忘れてたんですよ。
今回は、マジでストーリーにハマり過ぎて、途中までマジでジョーカーだけだと思ってました。えぇ。


で、その、トゥーフェイスも含めた、タイトル「ダークナイト」の言葉のダブルミーニングが素晴らしいですよね。


さて。ホントに圧倒されちゃって、色々ありすぎちゃって書けないぐらいの感じなんですが、ひとつづつ。
とりあえず、ストーリーのスピード感が凄いですね。
これは、受け手の側が持っている情報量の多さ(バットマンについて知らない人はいませんから)を最大限に利用したストーリーの作り方をしてる、というのが大きいんですね。
まぁ、俺みたいに、うっかりコイントスについての“裏”を知らないヤツもいたりするんですが。

例えば、バットマンというキャラクター自体を説明しないといけないとすると、表の顔はブルース・ウェインで、超カネ持ちで、両親が殺されて、とか、スーパーマンとは違って超能力は無い、とか、そういうことを描かないといけないんですが、今作では、そういうのは一切なし。(当然ですけど)

で、大事なのは、他の部分でも、そういう、いわゆるありふれたのギミックを徹底的に使うことで、「余計な説明」を省いてるんです。
“組織”という言葉、イタリアンマフィア、倉庫で行われているマフィアの会議、マフィアと同じテーブルに座っている黒人のギャング。チャイニーズマフィアと、その表の顔である中国系企業。
警察の腐敗、腐敗の告発、それによって受ける脅迫。
マネーロンダリングという言葉や、投資ファンドという言葉、などなど。
そういう細かい設定の背景を、いちいち説明する事はまったくしない。全て、自明のこととしていく、と。
なおかつ、その量がハンパないワケですね。

コミックという原作からの情報と、それ以外の部分の、いわゆる現実の世界からの情報と。
例えば、冒頭の銀行強盗で、あのマスクが映っただけで、観る側は「あ、ジョーカーだ」と分かるワケです。一発で。
バットマンがショットガンをぶっ放したら、それはニセモノだ、ということも分かるし。
中国人の企業家が出てくるのも、ごくごく自然に感じれるし、登場する弁護士が、その強欲さゆえにバットマンを窮地に追い込む、とか、そういうのも、現実社会の情報を受け手が既に持っていて、それを作り手側がコントロールしてるワケです。
イタリアンマフィアというのは、これはちょっとアレなんですけど、「他のファンタジー」からの流用なんですね。つまり、現実の世界の情報とはちょっと違う。だけど、それも使う、と。

まぁ、東浩紀の言い方を流用すれば、「データベース消費」という言葉になるんですが。
受け手が共通して持っているデータベースを“参照”しながら、物語を語る、という。



ということで、その情報量で、ストーリーをブーストさせる、と。
これは完全なカン違いだったんですが、個人的には、トゥーフェイスの誕生は次回作への布石なのか、とか思っちゃってて。それくらい、お腹いっぱいだった、と。
もちろん、そんなことはなかったんですけどね。

逆の言い方をすれば、同じ時間の中で、時間軸に沿ってストーリーを進ませるだけでなく、そのストーリーに付随する情報をパンパンに膨らませて、受け手に渡す、と。
受け手側は、ストーリーを追いながら、その裏側にあると認識することが出来る情報をも、同時に咀嚼してるワケです。


ストーリーの分量を増やそうと思ったら、必然的にテンポを上げなくてはいけなくって、つまり、受け手にしっかり説明する時間がなくなるワケです。
だけど、それを逆にしなければ、テンポはあがって、必然的に、内容的に沢山のことを語ることが出来る、と。
トゥーフェイス誕生までで、既に一本分の映画を観た、ぐらいの感じになってる、と。





で。
とにかく、シナリオが素晴らしいと思うんですよ。
ファンタジーとリアル、という2つのフェーズがある、と。で、まぁ、以前のバットマンシリーズ(ティム・バートンのとか、ですね)というのは、ファンタジーに振り切ってたワケです。
当然、コミックが原作ですし、舞台も架空の都市だし、別にリアルである必要は全然ないんで、別にそれでいいワケですけど。
スパイダーマンも、同じ。
で、例えばロード・オブ・ザ・リングでは、完全なファンタジーなんだけど、そこにいかにリアリズムを注入するか、ということで色んなことをしてるワケですね。CGやらなんやらで。スターウォーズも同じ。
そうすることで、ファンタジーが、ファンタジーとしてより強化されるワケです。リアリズムを注入することで。
ポイントは、ここで注入されるのが「リアリズム」である、ということですね。
猿の惑星しかり、ブレードランナーしかり。


この「ダークナイト」を傑作にしてるのは、ファンタジーに注入されているのが、正真正銘の「リアル」である、というトコにあるんじゃないか、と。
もちろん、バットマンというキャラクター自体に、最初からそういう要素が含まれていた、ということもあるし。
それから、最初に挙げた、情報量とも関係してて。つまり、コミックからの情報というファンタジーと、現実社会というリアルに由来する情報。その両方をこのボリュームで見せられると、受け手側は、もう大変ですよ。
没入です。作品に。


その、バットマンではなく、ジョーカーやトゥーフェイスに注目すると、彼らは、もうホントに完全な「リアルな世界」の住人である、という風に描かれているワケです。
レクター博士が空を飛ばないように、ジョーカーも空を飛べないし、ケヴィン・スペイシーのジョン・ドゥやカイザー・ソゼが空を飛ばないように、トゥーフェイスも空を飛べない、と。

彼らはみな、人間の、悪意や強欲や自己愛や恐怖、あるいは人間社会の腐敗や不信や絶望から産み出される存在なワケで。
その、“悪”の背景をどう描くか。
ファンタジーにリアリティを肉付けする、とか、リアルに物語(という名前の虚構)を構築する、とか、そういう方法論とはちょっと違って、既にあるファンタジーと、既にある(当然ですけど)リアルの、両方に立脚してしまう、という。
分かり難くなってますね。

当然、バットマンなんて、現実には絶対に存在し得ないキャラクターだし、世界なんだけど、リアルに、その、バットマンが生きているファンタジーを、引き寄せる、という感じ。



いや、作品の本質から、ズレてますね。



とりあえず、役者陣は素晴らしい。ヒース・レジャーはもちろん、ゴードン警部のゲイリー・オールドマンも、素晴らしいですね。もちろん、検事(そして、トゥーフェイス)役の熱演も。
あと、受刑者役の、あの人。

あの、フェリーの中のシーンはホントに最高だと思ってて、あの群像劇だけでも、どんだけカネかかってんだ、と。カネと、労力。
あのシークエンスを、あれだけ説得力のある演技と画で作る、という、製作陣のエネルギーを感じちゃいますよね。


“アリバイ”作りのためのバケーション、なんていうのも、エスプリ効かせてますって感じで、上手だし。
「香港」と「Phone call」のダシャレは、サブかったけど。


あと、建築現場を“ソナー”で透視するショットの、半透明みたいなCGは、カッコよかった。
あのシーンのスピード感っていうのは、半透明で見せるというのが、結構いい方向に影響してるんじゃないかな。

“エンロン”みたいな、盗聴システムの描写もクール。
あれはまぁ、CIAとかの、対テロ捜査で市民を盗聴していることの、ワリと直球なメタファーにもなってるんだけどね。


ブルースとアルフレッドしかでてこない、あの“ファクトリー”の造形もクールだったしねぇ。
そういう意味では、美術はホントに良かった。マシンの造形もそうだし、CGもそうだし、トゥーフェイスの顔面もそうだし。(ベッドのシーツに血が滴ってるのとか、ヤバイでしょ)


あと、音楽が良かった。かなりシンプルな、というか、古典的な使い方だったと思うんだけど、それがすごい効果的で。
音楽については、DVDでもう一度観るとかした時に、ちゃんとチェックしたいですね。
勉強になるハズ。
あ、あと、クラブのシーンで、かかってるのが変なトランスとかハウスじゃない、というトコも好印象です。



う~ん。
自分で書いてるクセに収拾つかなくなってますね。


この辺でやめておきます。

何言ってるか分かんなくなってますけど、まぁ、いいです。
とにかく、素晴らしい作品だった、と。そういうことですな。


「ダークナイト」傑作です。



2008年10月28日火曜日

「悪霊喰」を観るものの

月曜映画で、ヒース・レジャー主演の「悪霊喰」を観る、ものの、途中で寝ちゃいました・・・。


まぁ、つまらなかったから、と言えばそうなんですが。

作品の内容は、キリスト教の「赦し」とか、異端とか、まぁ、なんとなくそういう感じのモノ。ホラーテイストですが、タイトルからは、もっと悪霊がグイグイ来るかと思ってたんですが、そういう感じではなかったですね。

作品のテーマとか、背景とかは、別に嫌いじゃないんですけどねぇ。破戒僧とかも。


原題は「The Order」。「ジ・オーダー」ということで、意味はちょっとアレなんですが、「注文」とか、そういう意味なハズで。
「告解の注文」とか、そういう意味でしょうか。

主人公が追いかける敵は、依頼者の「罪」を赦してやる、ということを生業としているんですね。
なので、その「依頼」のことなんスかねぇ。まぁ、なにせ、最後まで見てないんで、アレなんですけど。


それとも、うっすら記憶に残ってる映像をラストシーンだと想像すると、その敵役が、主人公に「依頼」していた、ということを指すのかもしれません。確か、後を継げ、みたいなことを言っていたので。


監督さんは、「LAコンフィデンシャル」や「ミスティック・リバー」といった名作の脚本を書いた人。
両作とも、ミステリーの形式を取りながら、謎を解く・追う人間の方の暗闇を描く、みたいな共通点があったりして。
その意味では、この作品にも、ちゃんとその構造は現れてますね。


映像としては、とにかくひたすら暗いんですが、アングルがちょっと特徴的だったかもしれません。あおり、というか、下から見上げる画が多い、と。

それから、「罪」を、CGで具現化した、実体化させて表現してるんですが、それが、マトリックスのあの蛸みたいなマシーンとクリソツでした。何か共通のイメージがあるんでしょうか。



というワケで、寝てしまってスイマセンでした。


明日は、ヒース・レジャーの「ダークナイト」を観に行くつもりです。楽しみ。


2008年10月24日金曜日

「ペイルライダー」を観る

午後のロードショーで、クリント・イーストウッド監督・主演の(ちなみに、製作も)西部劇「ペイルライダー」を観る。

正直、“ペイルライダー”って言葉の意味が分かりません。西部劇でライダーっていうぐらいだから、さすがにバイクじゃなくって、馬に乗ってる人のことだは思うんですが。ペイルって、なんて意味なんでしょうか。
騎士とか、そんな意味なのかなぁ。

今週の午後のロードショーは、まぁ、今週に限らず、テレビ東京はイーストウッド作品のラインナップが結構凄くて、この辺の作品をワリと執拗に放送してくれるんですが、今週は、西部劇。
で、この作品は、イーストウッド本人が監督もして、主演もしてます。

作中の、「中年の親父」と「少女」のプラトニックな愛、というのは、後々の傑作「ミリオンダラー・ベイビー」にも出てくるモチーフですよね。「初老」と「いい歳した女」に変化してますけど。



さて。二十年前に作られたこの作品ですが、いま観ると、ツッコミどころがもの凄い沢山ある、なにげに問題作かも、みたいな感じです。
まず、舞台は、当然西部劇ですから、アメリカの西部なんですけど、ゴールドラッシュ期の、金鉱堀たちのストーリーなんですね。で、まぁ、無法地帯である、と。暴力が幅を効かせている世界。

で。
舞台となる小さな町とその一体を牛耳っている男、というのが登場するんですね。大規模な装置を使って、谷を丸ごと切り崩して金を採掘している、という。
この男が、近くの渓谷で、細々と個人営業で金を掘っている男たちを追い出そうとしている、という話なワケです。
これは、まぁざっくりと言ってしまうと、大企業と個人の対比としてみることが出来るワケですね。もっと解釈を広げると、大企業・多国籍企業と、インディペンデントな個人。

で、「大企業」側は、カネで“力の行使”をしてくれるという、悪徳保安官を招聘するんです。カネを払えば、何でもやってくれる、という。
保安官は当然、「法の執行官」ですから。

つまり、「法の執行」という形の暴力が、私企業の営利の為に行使される、という形になってるんですね。大企業の意図に沿って、「法の執行官」が、個人に対して暴力を振るう、という。
これはモロに、現代の社会のメタファーとして成立しているだろう、と。大企業と行政機関が一体化して、個人を押し潰す、というのは、改めて言う必要がないくらいなアレですから。
つまり、「マネー」と「法が認めた暴力」ですね。

で、イーストウッド演じる主人公は、“個人”の側に立つヒーローとして登場するワケですが、彼は、ちょっと複雑で、最初はアウトロー的な、ガンマン的な顔で現れて、実は「牧師」でした、という形で正体を明かすんですね。
で、最後は当然、彼が保安官を倒すワケですが。
ここで、「信仰」と「暴力」が一致している、ということが示されている、と。

別に、ストーリー上、主人公が牧師である必要は、実はあんまりなかったりするんですよ。
ダークヒーロー然とした主人公が、「実は善の人であった」という構造は、例えば「子連れ狼」でもそうなんですけど、「子連れ狼」では、「子供を連れている」という要素が、「実は~」の部分を示しているんですね。
「親子愛に満ちた人物なのだ」ということですから。
例えば、アウトローみたいな、一見強面の男が、子供が転んだら優しく抱え起こしてやる、とか、そんな感じでもいいワケです。
暴力的な人間っぽいけど、実は本が好きで、インテリで、みたいな。画を描くのが上手い、とかね。ギターを弾く、とか。
ストーリー内で、別に宗教的な何かをするワケじゃないんですよ。主人公が。ただ、カラーをして、飯を喰うときに家族でお祈りをするってぐらいで。

つまり、これはモロに、「信仰」と「暴力」が共存している、ということが言いたいんだろう、と。あくまで俺の解釈ですけど。


で。
最後に、保安官と牧師が激突するワケですけど、ここでは、「マネー+法律」に支えられた暴力と、「信仰」に支えられた暴力との対決なワケですね。


で(“で”ばっかりですけど)。
ここで大事なのは、主人公が寄り添う側も、規模は違えど、同じような金鉱掘りたちである、という部分だと思うんです。

ここで、彼らが、例えば林を切り開いて農場を作ろうとしている開拓民だったり、それこそ宗教的な自給自足のコミューンだったり、ということであれば、もうちょっと美しいストーリーの構図になると思うんですが、結局、個人個人で慎ましくやってる、と言っても、金鉱掘りですから、結局は「山師」なワケですよ。
一攫千金ですから。目指すところは。

事実、ストーリー上でも、あまり美しく描かれてはいないんですね。彼らは。
隣人が小さな金塊を見つけたら、嫉妬するし、色めきたつし、で。
「大企業」に相対させて置かれているワリに、あんまり効果的ではない。

彼らも、基本的な動機としているのは、「マネー」なワケです。「欲望」なワケですよ。
巨大な金塊を掘り当てて、有頂天になって酒を浴びるほど飲んで、結果、調子に乗っちゃって、権力者の怒りに触れて撃ち殺されちゃうし、なおかつそこでは、父親に対して「救いに行かない」という息子の描写があるんです。「せっかくこっちは楽しんでるのに」みたいなことを息子が言うんですね。
つまり、彼らも、なんだかんだで「欲望」がその支えになってる。



悪徳保安官の側は、「マネー+法律」に支えられた暴力。
主人公は、「マネー+信仰」に支えられた暴力。

いや、結構地獄絵図ですよね。こう書くと。



一応、主人公は、牧師の象徴であるカラーを外して、その代わりに、暴力の行使手段である、拳銃とガンベルトを身につけるんですね。
つまり、「信仰」と「暴力」を取り替えるんです。
ただ、ここで大事なのは、取替え可能である、ということと、もう一つ、決して捨て去る、という描写じゃないことにあって。
貸し金庫の中に拳銃があるんですけど、今度は、カラーを、その中にしまうんです。
つまり、再びカラーを身にまとう、つまり、牧師に戻る時があるのだ、ということが示唆されている、と。
「信仰」を捨ててガンマンに戻るのだ、ということであれば、カラーを投げ捨てる、ぐらいの描写があっていいハズですから。
つまり、決して「信仰」を捨て去ってるワケじゃなく、便宜的に脱ぎ捨てているだけであって、いずれまた、その貸し金庫に戻ってくれば、牧師の姿に戻ることが出来る、という。




そう考えると、ちょっと飛躍しますけど、つまり、主人公の抱えるニヒリズムというのは、なんていうか、もの凄い根が深いモノなんだ、と。
最後、主人公は、誰にも別れの挨拶をすることなく、報酬を得るワケでもなく、少女の愛に応えることもなく、ただ黙って去っていくんです。


しかも、もっとややこしいことに、主人公と悪徳保安官との間には、かつて闘いがあったということが示唆されていて、つまり、個人的な復讐、みたいなが動機にもなってる、という描き方がされてるんですね。
「マネー+信仰+私恨」が支えているのが、主人公の暴力なのだ、と。


全然美しくないですよ、これは。
だからこその、ニヒリズム、ということなんでしょうけど。
だからこそ、主人公は、全てに対してニヒリズム的な立場を崩さない、と。それは、自分を取り巻く世界全てに対する絶望、ということなんでしょうか。

保安官と牛耳ってた男の死、という結果だけを残して、結局何も肯定しないまま去っていく主人公、というのは、つまり、信仰も、暴力も、私恨も、愛も、なにも得ないまま去っていく、ということであろう、と。

繰り返しになりますけど、あくまで俺の解釈ですけどね。


長々と書いてしまいましたけど。




あ、映像は、もの凄いきれいでした。色味も、いかにも80年代という感じは全くしないて、シャープな映像だったし。
もちろん、風景の良さもあって、山をバックに立つイーストウッド、なんて、むしろ狙い過ぎな感じ。
セルジオ・レオーネみたいな切れ味はないんだけど、むしろ、演技をしっかり見せる、という、イーストウッド節みたいな、ゆったりとしたカット割っていうのがちゃんとあって。
もっと評価されてもいいんじゃないかなぁ、なんて。

低予算だからでしょうかね。


あ、それから、クリス・ペンが出てます。雰囲気いいですよね。この人は。
ペン兄弟とは、ずっと繋がりがあったんですね。



というワケで、個人的にはツッコミどころが沢山ある作品でした。
巨匠に向かって、生意気ばっか言っちゃって、スイマセンでした。


2008年10月20日月曜日

嗚呼、此処ニハ浪漫ガ或ル

新聞に載ってた、「男はつらいよ」の特集記事が面白かったので、ご紹介。
最後の(そして、恐らくは最愛の)マドンナ、リリーを演じた浅丘ルリ子さんのご登場。

浅丘が「寅次郎忘れな草」でさすらいの歌手リリーを初めて演じたのは73年、33歳のときだ。それまでマドンナといえば良家のお嬢さんだったり、貞淑な婦人だったり。
監督の山田洋次から最初に示されたのも、北海道の牧場で働く女性という役だった。浅丘は自分の細い手を見せる。「わたし、こんな手をしているんですよ」
宝石の似合うその手を山田はじっと見た。しばらくして浅丘に台本が届く。「場末のキャバレーを渡り歩く歌手」に変わっていた。
(リリーのセリフ)「ね、私たちみたいな生活ってさ、普通の人とは違うのよね。あってもなくてもどうでもいいみたいな、つまりさ・・・あぶくみたいなもんだね」

浅丘の胸のなかで、渥美は寅さんと分かちがたく生きている。いまも渥美を語るとき、つい「寅さん」といってしまう。
男くさくて粋で不良っぽくて、照れ屋で優しくて可愛くて、そしていつも笑わせてくれた。「私は愛していました。ほかのどのマドンナよりも、愛していました」
リリーがいた(奄美の)青い屋根の民家を、南の島の人々は「リリーの家」と呼ぶ。いま住む人はないが、近所の人が雑草をむしり、掃除する。いつしか、こんな伝説も生まれた。
――テキヤ稼業を引退した寅さんは、この島でいまもリリーと暮らしている。海辺で釣りをする島の子たちに旅の昔話を聞かせている、と。


いい話ですなぁ。



なんつーか、「アリとキリギリス」の話じゃないけど、寅さんはキリギリスなんだよね。
で、歴代のマドンナはみな、アリだったんですよ。キリギリスとアリの恋物語。

そして、葛飾柴又の団子屋さんたちもみんな、アリで。
満男は多分、キリギリスだけど。

寅さんっていうのは、アリに憧れ続けて、アリに恋し続けたキリギリスだったのだ、と。
フラれ続けちゃったワケだけどね。


でも、リリーもキリギリスだったんだよねぇ。


リリーもやっぱり、多分、ずっと、アリに憧れてて、だから寅さんとも何回もすれ違いになっちゃってて。


まぁ、最後に、リリーとの物語で終わって、良かったよね。
今はリリーと暮らしてるんだ、という「物語」を、今も紡ぐことが出来るワケだから。

それは、とても幸福な終わり方なワケで。


「男はつらいよ」、好きですか?
俺は好きっス。




2008年10月19日日曜日

「レイクサイド マーダーケース」を観る

なぜか、土曜の午後というワケの分からない時間に放送されていた、青山真治監督の「レイクサイド マーダーケース」を観る。

とりあえず言っておきたいのは、このタイトルが超クールってトコですよね。原作は「レイクサイド」という小説(著者は東野圭吾)なんですが。
ちなみに、訳したら「湖畔の殺人事件」ってことで、とたんに火曜サスペンスになっちゃうんですが。(確かにキャストもそれっぽいけど)。
でも、「レイクサイド マーダーケース」ですからね。語感がクール。


もう一つ気になったのは、ワリと観る側を選ぶな、ということ。それは、いわゆるリテラシーの有無ってことだけじゃなくって、「世代」じゃないかなぁ、と。

これは、かなり極私的な、ちょっと正直なアレの吐露なんですが、この、青山さんたちの世代の作る映画って、嫌いだったんです。10年くらい前の話なんですけど。
(あ、今は違いますよ)
世代論でっていうのは、俺が勝手にそう一括りにしてるだけなんですけど。
「なんで、こんな小さな物語ばっかりなんだよ」と。映画館に行って、そこにある新作のチラシを全部持って帰って、作品の紹介を読んで、いつもそう思ってて。
まぁ、今なら、その意図や価値や意味や、そうならざるを得ない理由だったりとか、諸々が理解出来るんですが。当時は、そうだったんです。
「友だちが出来ないとか、先が見えないとか、そんな話ばっかりじゃねぇかよ」と、まぁ、そんな風に思ってたんですね。
なおかつ、「そこから先に進んでない」気がしてたんです。ステップアップしていってない気が。別に、監督本人が望めば、同じ場所に留まり続けてもいいワケだし、もちろん、実際は前進・深化してて、それに俺が気付いてないだけ、ということだったんでしょうが、(あくまで)当時は「そこを退いてくれないと、次の人間が出て来れないんじゃないのか?」という感じで。
そんなことをついついポロッと言ってしまったばっかりに、橋口亮輔監督のファンの人とちょっとした口論みたいになったこともあったりして。

いや、全部若気の至りですよ。正直な告白をしてるってだけで、今はそんなことは思ってません。

で、この作品は、4年前に公開された作品なんですが、監督(と、原作者)は恐らく、同世代に向けてこの作品を放ったんじゃないんだろうか、と。「家族」というテーマで。

正直、「親なのに子どもを理解出来ない」なんてセリフ、あんまりピンと来ないんですよね。俺としては。
もちろん、俺に子供が出来たら、また変わってくるんでしょうが。

まぁ、“理解”云々はともかくとして。
その、「“親”とはこうあるべきだ」という規範がまずあって、という物語ですからね。規範に対する葛藤とか苦悩とか。
もうちょっと世代が下ってくると、だいたいその規範自体がもうなくなってたりするワケで。

例えば「積み木ナントカ」でもそうだけど、「家族が壊れていく過程」を描く作品、というのが、ある時代においては、それこそ大量に作られたワケです。「家族ゲーム」もそうでしょうけど。
で、その後には、「壊れた家庭を修復しようとする親」とか、「父親」とか、「守ろうとする母親」とか、そういうのに主題がスライドしてくる。子供が家族を繋ぎ留めようと奮闘したり、とか。
で、この作品では、「せめて外枠だけでは」とか、「崩れている家庭を受け入れようとする父親」とか、そんな姿が描かれる、と。作中、誰も“修復”しようと動いたりはしませんからねぇ。つまり、ここで描かれている家族の姿というのは、既に壊れていて、その状態に誰も何もどうしようない、という。途方に暮れちゃっている感じ。子供すらも。
唯一(正確には、トヨエツも、ですけど)継父だけが、まだどうにかなるんじゃないか、と、無精ひげ面で叫んだりする。
で、それを、「いかにも青臭い」的に描く、と。

個人的には、“その先”に今はフォーカスしたい、みたいな感じなので。


うん。この作品でも、最後にトヨエツが示唆してたりするんですけどねぇ。あの、親たちに浴びせる罵声こそが、実は、次のアウフヘーベンの素となるアンチテーゼ(もしくは、テーゼそのもの)なんだと思うんですが。



と、なんだか生意気口調でつらつら書いてしまいましたが、個人的なアレは、とりあえずここまで。



作品は、まぁ、素晴らしいですよね。昼間にこんなブツを観ちゃったおかげで、今日のバイトは全く身が入りませんでした。

最初の20分くらい、登場人物たちの白々しさを表現する為に、徹底的に「間」を外してるんですね。“最初の”というのは、死体が現れる前まで、ということで、それ以降は、「間」のズレはなくなって、まぁ、ピタッピタッとキッチリ撮っていく、と。登場人物たちも、本音全開になりますからね。
柄本明さんなんか、ホントに気持ち悪いし。(ちなみに、俺はスズナリ劇場の前で、ご本人を見かけたことがあります。なんか、下着みたいなランニングを着て歩いてた記憶が・・・)
それから、黒田福美さんも、そうとう気持ち悪い。顔がキレイなだけに、余計にそんな感じです。

トリック自体は、まぁ、オリエント急行ネタというか、そんなにビックリはしないんですが、やっぱり、その動機ですよね。「血の繋がり」というのが最後に伏線になってくるとは、思ってなかったので。

そして最後の、実は5人が喪服を着ている、みたいになってて。それが、継父の「青臭さ」みたいのを逆説的に浮かび上がらせている、という。
「死んだ人を弔う気持ちはあるのだ。でも」という形になってるワケです。黒い服の5人が林の中に並ぶ姿が。

その辺の、情報の盛り込み方、というか、情念の描き方、というか、まぁ、ビンビンですな。

音楽もクール。調べたら、松尾潔さんが音楽を担当してました。さすがKC。分かってますね。



あ、それから、世代の話に戻っちゃいますけど、実は「世代間闘争」にもなってるんですね。柄本さんが「若いだけじゃないですか」ってセリフを言ってますが、その、死んじゃう彼女の若さが、憎かったりするんだろう、と。
それは、子供たちに対しても、そうだろうし。
自分たちの価値観に対する、若い世代からの挑戦があって、それに対して必死に抵抗している物語でもあるんじゃないか、と。

あとはまぁ、鶴見辰吾と杉田かおるの夫婦役というキャストですよね。これは完全に、同世代へのメッセージでしょう。もちろん、薬師丸ひろ子もそうだけど。



つーワケで、この辺で。昼間にテレビで観たっていうことで、画面がちょっと明るくなってたのが残念ですかね。あんまり“暗闇”って感じになってなかったので。夜中とか、それこそ映画館で観れば、もっと黒味が効いてて良かったんだと思います。
あ、あと、別荘の“汚し”が足りないかな、なんて。いかにも新設したセットです、みたいな外観になってたので。
いや、無理やりケチ付けてもしょうがないっスね。
いい作品でした。



2008年10月12日日曜日

「ソードフィッシュ」を観る

シネマ・エキスプレスで、「ソードフィッシュ」を観る。


結論から言ってしまうと、あんまり面白くはなかったんですが、ちょっと参考になったかなぁ、という感じの、まぁ、佳作ってヤツですかね。
ざっくりカテゴライズしてしまうと、B級アクション映画ということになるんでしょうが、クラッキング(ハッキング)をストーリーの要素の中に取り入れている、という。そこら辺が“新味”ってことなんでしょう。
主人公はハッカーで、彼を中心に、犯罪組織とFBIがいて、犯罪組織も実行部隊と黒幕で対立があって、という風に、色んな人たちが入り乱れる、という造り。
その“人間関係”的には、最後にどんでん返しがあるんですが、そこはそんなにグッとはこないです。というより、つまらない。


ジョン・トラボルタが、カリスマびんびんの組織のリーダーを演じてるんですが、ストーリーの途中で、彼の“本性”というか“動機”というか、“目的”が明かされるんですね。本人の口から。
で、それが、サブい。かなり。
明かされた瞬間、もの凄い空虚な感じになるトコは、逆に面白いぐらいですけど。
最初の30分ぐらいの、「1人目のハッカー」が殺されたり、上院議員がよく分からなかったり、という部分は、結構よかったりするんですけどね。
ドン・チードルだし。


で、ハッカーが主人公ということで、アンチ・システムなハッカー・カルチャーと、(最初はそういう風に見える)ヤクザなアウトローたちの雰囲気(空気感とか、そういうアレ)とが、ワリと上手にミックスされてて、そこは良かったですね。
多分、「暴力」を担当する人たちと、「クラッキング」の人たちを、ちゃんと分けてるのが、上手くいってる理由だと思うんですが。
クラッキングの描写自体は全然カッコ良くないんですが、出身大学の古いコンピューターにプログラムを置く、とか、ちょっと面白かったし。



あとはまぁ、無駄なアクション・シーンが満載で(カネはもの凄い掛かってます)、なおかつハル・ベリーを中心にお色気もたっぷりで、そういう意味でもB級感はばっちり。
あとは、FBI幹部のダメ官僚っぷりや、全く意味なく、広告代理店の会議室が破壊されたり、そういう部分にはライターの意図を感じてしまったり。
まぁ、その辺は、ハッカー・カルチャーに寄り添ってる、ということなんでしょう。



あ、それから、画面の色味で、ずっと黄色が強調されてて、それは印象的でした。冒頭のシークエンスの夕陽の色とか、結構クール。





という感じでした・・・。


2008年10月9日木曜日

香川照之が黒沢清を語る

先週、新聞に掲載されてたんですが、香川照之さんが「出会う」というタイトルでコラムを寄稿してまして。
ちょっと長いんですが、ご紹介します。

1997年の9月は、私にとって不思議な転換点となった。「蛇の道」という小さな映画で、私は黒沢清という男が監督する映画への出演を受けた。

男は同年、「CURE」というホラー作品のヒットで一躍時の人になる。しかし当時の私は、俳優がある演技をする時の「意味」などを監督にいちいち尋ねて「俺は考えてるぞ」的姿勢を過度に示す、若者の誰もが迷い込む落とし穴に深く陥っていて、脂が乗り、映画の手法を知り尽くしていた黒沢清のとってはひどく厄介な存在に映ったに違いない。
黒沢清はそんな私に実に具体的な指示を出した。いや、出さざるを得なかったと言った方が妥当だろう。
「ええと、ここで三秒経ったらあのドアまで歩いて、そこでしばらくじっとして下さい。で、おもむろにですね、こちらに歩いてきてくださいますか。あ、こっちに来る意味は、全然ありません
この、「意味は全然ない」という言葉を、その時私は何度聞いたことか。俳優の動きは「意味」を伴って初めて存在すると信じていたささやかな私の孤塁を、男はものの見事に破壊した。私は言葉を失った。

しかし、である。一つの意味を理屈で懇々と説明されるよりも、「意味はない」と先手を打って言われた方が、俳優という生き物は、非常事態発生とばかりに自分自身の中に自らの行動原理のようなものを急いで探し出し、理屈では想像し得ない直観的動きに瞬時にシフトする場合があることに次第に私は気づき出した。目から鱗、だった。私は、今度こそ本当に言葉を失った。
この作品以来、私は、事前に計算した「意味」を、あるいは計算そのものを演技の中に求めることを辞める決心をした。少なくともそう努めようとした。それが、私が黒沢清から貰った宝だ。


香川照之さんという人は、ご存知の通り、猿之助さんのご子息なワケですけど、その、本人は東大を出ている、という、非常にインテリジェントリィな人間でもあるんです。
まぁ、この、過度に“理屈っぽい”文章を読めば、その人柄がなんとなく分かると思うんですが。



その香川さんが、32歳の時の“出会い”ですね
で、その香川さんの俳優としてのキャリアを見てみると、やはり、この黒沢監督に言われた「意味は全然ない」という一言が、大きな影響力を持っていたんだな、ということが何となく感じられたりして。



だって、昔は「静かなるドン」とかやってた人ですからね。


まぁ、黒沢清偉大なり、と。そういうことで。


2008年10月7日火曜日

「イントゥ・ザ・ワイルド」を観る

新宿のテアトル・タイムズスクウェアで、ショーン・ペンの監督作「イントゥ・ザ・ワイルド」を観る。


月曜の午前中の回だったんですが、お客さんは思ったりよりいましたねぇ。ちょっと不思議な感じもしましたけど、まぁ、悪いことではないっスね。


正直、これといった感想はなかったりして。
もちろん、とてもいい作品なんですけど。

この作品には原作があって、実際に、もう15年以上前になるんですけど、アラスカで若者の遺体が発見されて、その若者について取材して書かれたノンフィクションというのが書かれて、それをショーン・ペンが映画化した、と。
もちろんS・ペンのことですから、自分で製作も兼ねて(つまり、映画化権を買ったりとかも自分でやって)、自分の手で映像化して、と。


とにかく、この、実際にアラスカで死んだ(当時は)名も無い若者の存在が、まず或るワケで。
原作となったノンフィクションも、この作品も、やはり彼の存在(意思と行動、そして死)に対して受けた衝撃みたいなのが、そもそもの始まりなワケで。


欺瞞に満ちた両親の人生に対する疑問。それはつまり、自分のアイデンティティへの疑問になり、両親への憎しみや怒りや、まぁ、そういう諸々となる、と。
それが、アラスカ行への動機になるんですね。

で、その道中を丹念に追っていく、という造りになっているのが、この作品。
ってぐらいの感じなんですよねぇ。

旅の途中の出会いと別れを描いていく、と。


いや、ホントに素晴らしい作品だと思うんです。
映像美も素晴らしいし。(そういう意味では、あの映画館で観たのは、ホントに大正解かも)



ただ、これはホントに正直に吐露すると、自分とあまりにも重なってる部分があって、なんていうか、「痛い」気がしちゃって。
真っ直ぐ観れない。

もちろん、別に「ウチの両親」が、作品と同じような“欺瞞”を抱えていたワケでは、全然ないんですけど。
つまり、動機は全く違うんだけど、やっぱり似たようなアイデンティティ・クライシスを経験してしまっていたので。

結局、俺は“戻ってきた”ワケですが。



まぁ、でも、きっと、ショーン・ペンにも、そういう経験があったのでしょう。
監督に限らず、原作を書いたノンフィクション作家も、映画を評価したような人たちも、誰もがみんな、そういう経験や、願望や、まぁ、それに近いモノを持っていた、と。

そういうことですな。



うん。



そういう、俺にとっては、極めて個人的な部分に触れる(別に揺さぶるって程ではないにしろ)ような作品でした。