2008年4月30日水曜日

「フィクサー」を観る

GW真っ只中、満員の新宿武蔵野館で、「フィクサー」を観る。


結論から言っちゃうと、ま、良作だな、と。
素晴らしい作品でしたね。ホントに、今、ジョージ・クルーニーの動きからは、目が離せない、という感じで。


この作品の“売り文句”に、「『ボーン・アイデンティティ』シリーズの脚本家がこれで監督デビューする」というのありまして。「ジョージ・クルーニーが製作もやっている」というのと並んで。


で、いかにもシナリオ・ライターの人だなぁと思ったのが、セリフの多さですよね。特に前半、というか、導入部分なんだけど、とにかく、セリフの情報量が多い。
あと、これも冒頭部分からなんだけど、画面の画に、それとは別の所のセリフが被って挿入されている、というテクニックが多用されてるんですね。
画面の人物とは違う人間のセリフだったり、あと、長い“スピーチ”の途中に、それを練習してるシーンが入ったり、その為の服を着てるショットが映ったり、という感じで。
これは、字幕の場合、実は脳ミソの中が大変で、両方を追いかけないといけないんで。

ま、自分の書いたセリフに自信がある、ということなんでしょう。


ストーリーは、その、サスペンス劇としては、実はそんなに新しいこと、というか、びっくりするようなどんでん返しみたいのはないんだけど、しかし、最後までしっかり引っ張っていくのは、さすがという感じ。

“フィクサー”っていうのは、要するに「見えない所で仕事をする」みたいな言葉なんだけど、それが、ジョージ・クルーニーとは別に、もう一組居るって所がミソになってまして。

これが、ストーリー上、とても効いてるんですよね。


それから、ストーリー的には、ラインが三つあるんです。一つは、“倒置”である部分を見せておいて、そこに向かっていく、という、「敵との対決」のライン。
もう一つは、主人公のプライベートなストーリーで、まぁ、色んなことが上手くいってなくって(要するに、借金)、それをどうするか、という部分。家族との関係や、ギャンブルとかアルコールの依存症とか、そういうのも含めた「プライベートな問題」のライン。
もう一つは、「敵の内部」を暴露していく、という、この作品が“社会派”とか言われてる部分、ですね。


この、最後の“暴露モノ”というのは、実はちゃんとジャンルとしてあるもので、例えば、タバコ業界を扱った、アル・パチーノの「インサイド」とか。
もちろん、ジョージ・クルーニーの「グッドナイト&グッドラック」もそうですね。


で、ま、その三つのラインが上手くお互いに作用しながら、ストーリーをドライヴさせていく、と。
そのストーリー上、主人公がそんなに“凄腕”じゃないところもミソ。というか、ホントにただ振り回されているだけ、みたいな感じですから。「お前何もやってねーだろ」みたいな。
でも、そのダメっぷりが、ラストの決めオチの伏線なんだ、ということなんでしょう。


画としては、黒とブルーを基調にした、この手の作品らしい感じ。アップとか、そういう、“寄り”の画を多用することで緊迫感を出す、という狙いなんだと思います。
舞台はNYなんですが、「NYが舞台です」と強調するようなショットはなかったかなぁ。摩天楼の夜景のショットが繋ぎに入ってたぐらいで。それだけでなくって、画で説明する、というのがそもそもあんまりなかった気がする。そのヘンも、脚本家らしいなぁと思った理由かも。


ちょっと気になったのが、キャスト陣の迫力不足、という部分。ジョージ・クルーニーだけが存在感出し過ぎで、他は、ちょっとシブ過ぎかなぁ。
もちろん、みんな、イイ感じな演技なんですけどね。特に、敵役の女性の人。ワリと有名な人っぽいんだけど(賞とか獲ったみたい)、個人的にはイマイチ。例えば、ジョディ・フォスターとか、どうかな、と。「インサイド・マン」の時みたいな感じで。
この女性というのが、ジョージ・クルーニーを追いつめていく役なんだけど、やや迫力不足。ジョディ・フォスターなら、この手の作品とか、喜んで出そうな気もするけど。なんて、ね。
それから、もう一組の“フィクサー”役の2人。こっちも、どちらもイイ感じなんだけど、と。もっと存在感があっても良かったかなぁ、なんて。

でも、この2人組が、「書類には詳しくないから、見ても判断出来ない」みたいに言うセリフは良かった。真冬の街角で落ち合って密かに話す、というシークエンスで。リアリティあったな、と。



最後に、気になってることを、一つだけ。
夜明けに、丘の中腹で、三頭の馬と向き合う主人公、という、とても美しいシーンがあるんですが、そこの部分を、自分でシナリオを書いた監督は、シナリオになんて書いたんだろうか、と。
ここは、とても気になりますね。


2008年4月11日金曜日

リアル・オイディプス。もしくは、「父と娘の物語」

ぬぁんと、インドかどっかで、とんでもないことが起きてました。
実の父親と“恋愛”をし、妊娠している、ということらしいんです。

実の父親の子を身ごもる、というのは、例えば「ボルベール」なんかでも題材にされてますが、こちらはそうじゃなくって、マジもんの恋愛だそうで。


自分の父親だっていうのを知らなかった、ということらしいんですけどね。
娘が生まれたばかりの時に両親は離婚し、父親の顔を知らないまま育った、ということで、ある時、父親であるとは知らずに知り合った男が、実は自分の父親だった、と。


まぁ、色んなことがあるお国柄ですから、まだ真偽のアレは分かりませんけどね。
ある意味では、「ボルベール」でもそう描かれていたように、虐待の究極の形でありますから。


しかし、ホントの話だったら、ということで。

「父と娘」の関係って、色んな物語があり得ると思うんですが、なんつーか、“父親の存在”っていうのは、とにかく娘には影響を与えるワケですな。
ま、そう言われてる、という話ですけど。

で、詳細は省くとして、例えば“不在”の場合、“逆の影響力”というか、ま、ファザコンになったり。


インドのその話で言うと、父親が不在のまま育った“娘”が、“父親になってくれそうな男”と出会って恋愛して(まぁ、結婚して)子供を授かったら、そしたら実は“実の父親”だった、と。


分かりやすい例を挙げると、最近小朝師匠と離婚した泰葉さん。離婚した後に「父親を求めてしまった」と。旦那に対して。小朝師匠に対して。
父親っつーのは、つまり、三平さんのことなワケで。

また最近話題になってたりした、沢尻エリカも、きっとそうだと思うんです。あの年齢差の恋愛っていうのは、まぁ、安易な推測ですが、そうじゃないか、と。


まぁ、どんな女性でも、父親というのが必ずいるワケで、家庭内の存在感・影響力の有無や不在うんぬんに関わらず、なんかしらの影響は与えている、と。これは間違いないであろう、と。

ま、フロイト的なアレですけどね。でも、体験的なアレでいうと、まぁ、そんなに大きく間違ってはいないんじゃないかなぁ、という感じじゃないでしょうか。誰もが。

つーか、これはなかなか認めにくいことかもしれませんが、程度の差はあるにしろ、「あらゆる男は皆、マザコンである」ってことで、そこから逆に推測すると、そうなる、と。


つまり、我々男子サイドとしては、彼女の中の“父親像”と、闘うか(そして勝つか)、像の投影をそのまま受け止めて“父親役”となるか、であろう、と。
その“父親像”というのは、場合によっては“理想の男性像”なワケで、しかも“像”ですから、これは非常に手ごわい。

小朝師匠は、その“父親役”をある意味で引き受けることで成立していた結婚生活が、ある時、彼女の“自我の芽生え”じゃないですけど、“父親離れ”が起きてしまって、離婚、と。
高城剛は、いまのところ、うまく行ってるってことでしょうか、ね。



えー、何が言いたいかっていうと、自分でもよく分かんなくなってますが、要するに、「恋愛ドラマを描きたいなぁ」と思ってたりしてるワケです。俺が。


ヒントになったりしませんか?


ダメですか?

2008年4月6日日曜日

「裏切りの闇で眠れ」を観る

日曜日の夕方なのにガラガラだった、新宿武蔵野館にて、「裏切りの闇で眠れ」を観る。
フレンチ・ムーヴィーという事で、「モダン・フィルム・ノワール」と言いたいトコですが、まぁ、“セックス&バイオレンス”を目玉に作られたB級クライム・ムーヴィーという感じでしょうかね。おカネは結構かかってる感じでしたが。
日本でも、ヤクザ映画が(まぁ、Vシネとかですけど)脈々と作り続けられてるように、フランスでもこういう作品の需要があるんだろうな、と。


と、ここまでは若干貶める風に書いてきましたが、個人的には、かなりのツボではありました。
えぇ。良かったですよ。

シナリオと、というか、ストーリーがワリと手の込んだモノになってて、悪く言えば“ややこしい”んですが、段々“オチ”に向かって収束してくる構造は、嫌いじゃないっス。

内容は、ファミリーを仕切る男と、その男の“盟友格”の、インディペンデントで動いている“一匹狼”のヤクザの関係を中心に、まぁ、攻防というか、興亡というか。

やたらと女性の裸ばっかりを見せられるのは、マジで辟易しちゃいますけどね。
登場する女性は、ほとんどが全裸か半チチなんで。


主人公は、「ローマの皇帝」トッティ似の、なかなか雰囲気のある俳優さん。ちょっと胴回りが太過ぎる感じもありますが、まぁ、その辺は“貫禄”ってことで。


映像は、特別なことはしてないんですが、手振れとか、アップの画とか、カット割りとかで、上手に緊迫感を出してて、良かったです。特に、屋外の駐車場で取引をするシーンはグッド。その後の銃撃戦も、ベタっちゃベタなんですが、迫力あったし。


それから、車が沢山出てくるんですが、その車の使い方(撮り方)が、印象的でした。その辺がアメリカ映画とはちょっと違うところかなぁ。
ヨーロッパ車って、どれも、ホントにデザインがカッコいいからね。画になる感じで。
アメリカ映画の車の使い方の巧さとは、また違う感覚のカッコよさがありましたね。

刑務所から釈放されて出てきたら、真っ赤なフェラーリが待ってる、とか、超クール。
ハイウェイを走るベンツ(ヤクザたちがこれに乗ってる)を横から追い抜いて撮っていくショットとか。

このシークエンスではどんな車がカッコいいか、という基準が、ちょっと違うんでしょう。そういう個性はあるなぁ、と。

あとは、マシンガンで惜しげもなくボコボコにしちゃう、とか、ね。そんなんばっかりですけど。



シナリオで特に良かったポイントは、組織のリーダーと“一匹狼”の関係性ですよね。
リーダーは、主人公(一匹狼)を自分の組織に入れたいワケです。後継者として。腕も頭の切れも根性も認めてるからなんですが。「自分の組織には、そういう人間は居ないんだ」と。
後継者としてだと思うんですが、息子が欲しい、という理由でカミさんと喧嘩するシーンもあるし。
で、主人公は、自分の信条を貫く、と。組織になんか入ってられっか、みたいな。


あとは、まぁ、フランス特有の人種構成とか。イスラム教徒がモスクの中に逃げたりして。その辺は、ちょっと欲張り過ぎかも、という感じでしたが。
登場人物が多いのと、その人物たちにいちいちストーリーがあって、その中には、別にどうでもいいのとかもあったりして。まぁ、でも、そういうのも、雰囲気を作る為には必要だったのかもしれませんね。

唐突に「一年後」なんていうスーパーが入ったりするのも、やや苦笑い、でした。時間の経過なんて、もうちょっとオシャレに表現出来るのに、ね。完成してから、プロデューサーとかに「分かりにくい」とか言われて、しょうがねぇから後から付け足したのかもしれません。


ま、そういう感じで。
好みははっきりと分かれるでしょうが、好きな人にはお薦めの作品でした。
俺は、好き。


2008年4月2日水曜日

「俺たちに明日はない」を観る

ご存知、ボニー&クライドの、「俺たちに明日はない」を観る。

ちなみに、「俺と悪魔のブルーズ」に、クライドは出演中です。というより、四苦八苦してる最中。というより、主人公(RJ)を喰ってます。


本題に戻りまして。
まぁ、改めて言うこともないんだけど、ぐらいの感じの傑作ですけど。



なんつーか、アメリカのみならず、世界中に“花粉”を撒き散らした作品ですよねぇ。
この間観た「ドラッグストア・カウボーイ」も、モチーフというか、間違いなく元ネタはこれですし。

ブラピの「ジェシー・ジェイムズの暗殺」もそうでしょう。
ちなみに、今回観て気付いたんですが、この作中に「ジェシー・ジェイムズ」っていうセリフがあるんですよ。「あ、あれのことだ」みたいな。



ま、感想は、こんなもんです。
なんど観ても、いい作品ですな。

2008年4月1日火曜日

「21グラム」を観る

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「21グラム」を観る。

いやぁ、素晴らしい。
傑作。


まず、なにより、映画とは「何かを語る」ためのモノなのだということを、改めて。

そして、「何を」語るのかは、監督自身が掲げないといけないのだ、と。
何を語り、そしてそれを「どう」語るのか。


イニャリトゥ監督は、この作品で、人生、人の命、運命、神と人間、罪を犯すこと、犯した罪の重さと意味、遺された者の苦しみ、赦し、復讐、を、描いています。

人は、いともたやすく、軽く、命を失い、奪われてしまう。しかしそれでも「人生は続く」のか、続かないのか。
続くとして、そこに意味があるのか。意味がなくとも続くのか。
続くとして、そこに価値はあるのか。価値がなくとも続くのか。
否か。


この作品で監督は、「人生は続くのだ」という結末を用意しているワケですが、そもそも、監督自身がその“問い”を受け止められなければ、この作品は成立しないワケです。

作品の深さと、監督のパーソナリティの深さは比例していて、特にこの作品では、それはイコールなんじゃないか、と。
で、そういう“深さ”を備えている人間にしか撮れない作品、語れない物語、というのがあって。
まぁ、そういう作品を傑作と呼ぶんでしょうけど。




いや、なんつーか、時間軸を切り刻むとか、空の色とか、色々書くべき事はあるんでしょうが、その、普通な冷静な感想が書けないんですよねぇ。圧倒されちゃって。
全然褪せてないしねぇ。

とにかく、そんな感じの作品です。
傑作。