2014年12月26日金曜日

「インターステラー」を観た

クリストファー・ノーラン監督の新作「インターステラー」を、クリスマスにイオンモール内のシネコン、Tジョイ京都で観た。


C・ノーランは、まぁ、言うまでもないことですけど、今一番旬なハリウッド・フィルムメーカーなワケですよねぇ。
「ダークナイト」で、シネフィルからマスマーケットまで、幅広く、各方面それぞれのツボをガッチリ掴んだワケで。


「インセプション」は、ディカプリオや渡辺謙やジョセフ・ゴードン=レヴィットといった、マネーメイク・スターをズラッと並べたオールスターキャストでしたが、今作は、もちろん“オールスター”ではあるんですけど、受けた印象としては、ちょっと地味め。

これは、実は、演出のアレなんですよね。
誰もが、「如何に実際にいるかのように」撮られていて、アン・ハサウェイも化粧っ気全然なしって感じで出てきますし。
主役マシュー・マコノヒーの“農夫”っぷりとか、なかなかですよねぇ。

今作においては、C・ノーランは、そういうリアリティをチョイスした、と。
そういうことですね。

作品において、どのレベルにリアリティを設定するのか、というのは、特にSFでは、とても大事な要素になってくるワケで。

「映画」というのは、そもそも“虚構”として撮影されるワケで、その、実際に撮影する段階では、所謂“現実”と同じ「リアリティのレベル」では、作らないワケです。
リアリティ度は下げる。フィクションの度合い、ということでいうと、上げる。
「作られた現実」というのは、そういうもので、そうしておいて初めて、「大画面での鑑賞に耐え得る」モノになる、と。


その、「リアリティのレベル」の調整に、C・ノーランは、自覚的なワケです。
「ダークナイト」では、唯一つ「バットマンがいる」という所“だけ”を、“虚構”としたワケですね。
これまでのアメコミの実写化作品よりも、「フィクションのレベル」を、グッと下げた。

「インセプション」では、一つの作品の中に、“現実”と“まるごと虚構の世界”とを同居させて、そこを自由に行き交う、みたいな作りになってて。


今作では、「リアリティのレベル」は、より引き下げられていて、そこから一気に飛躍する、という構成になっていますね。

農場から、宇宙船の中、という。
この構成を成立させる為には、オープニングのマシュー・マコノヒーの“農夫”としての存在感、というのは、とても大事な要素、ということなのでしょう。



で。


作品の主題からは逸れるかもしれませんが、個人的にちょっと感じた印象を書いておくと、「テクノロジー」と「キリスト教」、みたいなテーマを感じたんですね。

キリスト教、というか、まぁ、大きく括って「宗教」とか、あるいは「宗教的」というか。

キーワードとして、例えば「疫病」なんていう言葉も(訳語ではあるんですが)、ちょっと聖書の記述を連想させる感じがあったりして。

聖書に限らず、なんていうか、「疫病」って、ちょっと「古い言葉」ですよね。仰々しい、というか。
不作の正体は結局正確に明かされず、まぁ、温暖化とか気候の変化とか、そういう“解釈”をさせていますけど。

例えば、「十二人の宇宙飛行士が先行している」エピソードの“12”という数字は、使徒を思わせるし、「そのうちの三人がメッセージを送ってきている」なんていうのも、「東方の三賢者」を思わせるし、水(液体)に覆われた惑星の地表の描写は、もちろん「ノアの方舟」の「大洪水」を思わせるトピックだし。

そもそも、「何者か」からのメッセージを受けて、それを解読し、という、最初の主人公と娘の謎解きシークエンスも、やっぱり宗教的な匂いを感じさせるし。


しかし、ということですね。
「何者か」の正体は、未来の自分、というか、五次元空間からメッセージを送っていた自分、というオチだし、最後には、人類は宇宙ステーションを“自作”することが出来ているし、再び主人公を(“密航者”としてではあるものの)送り出すことが出来るし、つまり、人類は、自分たちのテクノロジーの力によって、(なんとか)天変地異の脅威から生き延びることが出来るのだ、と。

そういう主題を感じてしまったんですよねぇ。

孤独に耐えられなくて、人類全体を騙すマット・デイモンは、人間が本質的に持つ弱さを体現している存在だけれども、同時に、最後まで希望を失わない精神や、自己犠牲を厭わない、という、そういう人間たちも、描かれていて。
特に、主人公の娘は、父親に捨てられたという感覚に苛まれながら、しかしその孤独感には、打ち克っているワケで。

まぁ、人間賛歌、というか、ね。


父と娘の愛、というだけでなく。



あと、ちょっと思ったのが、「父と息子」の話じゃないんだな、と。
「父と息子」というのは、アメリカ映画の普遍的なテーマなワケで。
それこそ「バットマン」にも、「父と息子」というテーマは内在しているし。
そこは新鮮でした。


子役の、健気な感じとか、泣き顔とか、良かったです。




ただし。






なんていうか、SFの、タイムスリップを扱う作品なんかだと、「未来の自分が過去の自分を救う」というオチは、結構使い古されているものでもあって。
ブラックホールも。

そういう意味では、「インセプション」の「夢の中に入り込んで潜在意識を植え付けて、帰ってくる」というギミックは、ホントに面白かったんだけど、今作では、そういう“驚き”は、あんまりなかったんですよねぇ。


大風呂敷の包み方、というか。

まぁ、人間賛歌とする為には、必要なギミックではあるので、良いっちゃ良いんですけど。


そこだけ。



例えば、スタートレックなんかでも、タイムスリップものっていうのは、あるワケですよ。
ただ、スタートレックは、それこそ何十年もかけて世界観を丸ごと構築しておいて、ということなワケで。
やっぱり、太陽系と時空を股にかけて、というスケールの話っていうのは、どうしても手間暇が掛かってしまうもんですからねぇ。
太陽系外探査とタイムスリップと、人類滅亡の危機と、家族愛を、ということになると、なかなか大変になっちゃうワケで。

そういう意味では、上手な脚本だとは思いますけど、やっぱり、ね。
長いし(二時間半以上)。







なんか、単純に、マット・デイモンは嘘をついていた、という展開に普通にビックリしちゃったりとか、そういうアレはあるんですけど。
「重力の謎を解明することはできないことが分かっていた」というのも、ストーリーの展開としては、面白かったし。
「マジか?」という感じで。







ちょっと前に公開されてた、ノーラン組で製作された「トランセンデンス」が、なんかイマイチだったのを思い出して、今作と比べてしまいまして。
「やっぱ、(脚本の)ジョナサン・ノーランがいい仕事してんだな」と。
そんなことも、思いましたね。




というワケで、物凄い期待してたので、その分ちょっとした所が気になってしまって、というアレで若干マイナスですが、面白かったのは面白かったな、と。


良い作品でした。
C・ノーラン。次作にも引き続き、超期待。















2014年12月11日木曜日

「Nas / life is illmatic」を観た

立誠シネマで、稀代のリリシストNasのドキュメンタリー「life is illmatic」を観た。



ナズNasの、半生を描く、ということではなく、デビューアルバム「illmatic」と、そこに至るまでの少年時代を追う、という形のドキュメンタリー。

基本的に、この切り取り方が成功している作品、ですね。
人生全体ではなく、あるいは当時のヒップホップ全体でもなく(ギャングスタラップについては、まったく言及がない)、天才ナズの、一作目に絞った内容で。


ひとつ面白かったのが、「影響を受けた」という色んなアーティストのインタビューが出て来るんですが、殆どが、一言だけ、というところ。
なんて贅沢なんだ、というか。

アリシア・キーズなんか、いつものバッチリメイクでインタビューに応えてるんですが、ほぼ「凄かった」ってだけで終わってます。
作品がとにかく締まった感じになっているのは、インタビューにしろ何にしろ、とにかく内容を絞ってるのが巧くいっているからだと思うんですが、それも「切り取り方」の巧さ、ということですね。

アルバムの楽曲の曲ごとのエピソードなんかも、ピート・ロックの話とか、結構ゾクゾクしちゃうんですが、その曲に頼り過ぎないんですね。
一曲丸ごと、とか、そういう風にはならない。
変に感傷的にもならずに、DJプレミアもQティップも、快くインタビューに応えている、という雰囲気で、“今の”ライブでラップするところと、当時のミュージックビデオの映像を交えながら、サクサク進んでいく感じで。
このテンポ感が、いいんだと思います。



ナズ本人の言葉で印象的だったのが、「自分はそんなに悪くない家庭で育った」と言っているところ。
働き者の母親に愛情をしっかり注がれながら育ったんだ、と。そういう風に語っています。
だから、道を誤らずに済んだ、と。
両親の離婚が“幸福な家庭”に陰を差した、と語るんですが、ナズの実弟が「それでちょっとグレた」と。
この辺りの“構成”も、上手いなぁ、と。

もう一つが、クラック禍が蔓延する前の“パーティー”の感じは、「ハッピーだった」みたいに言うんですね。
でも、と。

クラックが、ぶち壊してしまった、という。



中盤、メイン・ソースのラージ・プロフェッサーにフックアップされる、というシークエンスで、「Live at BBQ」という曲のライブ映像が流されるんですが、そのステージ上にいるラージ・プロフェッサーやそのクルーたちが、なんか楽しそうなんですよ。
パーティーを楽しんでる感じ。
自分たちのステージなんだから、当たり前っちゃ当たり前なんですけど、自分たちが連れてきた“ナスティ・ナス”がラップするぜ、みたいな時に、すげーノリノリな感じでステージに並んでて。

新人の天才リリシストが登場することで、なんか、皆が「アガってる」ワケですよねぇ。
この感じ。


勝手な解釈ですけど、クラック禍に壊されてしまったコミュニティの“連帯感”みたいなのを、そのコミュニティから天才が登場したことで、もう一度取り戻す、みたいな。
いや、実態は、そんなに甘いモノじゃない、というのも間違いないんですが、なんていうか、そういう“空気”みたいなのを感じたりして。

いいなぁ、と。



もう一つ印象的だったのが、「ブリッジ・イズ・オーバー」に至る“バトル”について、当時を振り返って語るナズの表情。
いい顔して語るんですよねぇ。ソファの背もたれに腰掛けて。
あのショットは、良いです。
ロクサーヌ・シャンテにステージに上げてもらったのにスベって、怒られた、とか、そういう話も最高。


子供の頃、兄に無理やりラップを聴かされて、面倒だから「ダメだ」と言ってたけど、内心では「凄い」と思ってた弟、とか、その辺も最高。



うん。


やっぱり、ポイントとしては、繰り返しになりますけど、ナズのキャリア自体(例えば、二枚目以降)ではなく、あくまでデビューアルバムとそのアルバムの背景にフォーカスしていることが、凄い締まった良い作品になっている要因だと思うんですね。

この切り取り方だと、実はナズ本人も「対象について語る語り部の一人」に過ぎなくなっていて、という構図になってて。
なんていうか、健全な距離感、というか。

「illmatic」という作品には、社会や時代背景、ナズが育った環境、家族、ヒップホップという総体的なムーブメント、などなどの要素が、ナズ本人の意思・意図とはまた違う必然性を持って流れ込んでいて、そういうのを巧く語っている、と。

良いと思います。



技法としては、写真を映像として取り込んでいるんですけど、その時に、ある程度加工してるんですね。
単純に写真を動かしたりとか、人物を切り取って浮かび上がらせるようにしたりとか、あとは、フォーカスを弄ってミニチュアみたいに見せる手法があるんですけど、そういうのを使ったりとか。
それぞれの技法自体は、例えばフォトショップなんかで簡単に出来るようなアレかもしれないんですけど(詳しくは分かりませんが)、やり過ぎず、かといってシンプルに写真を繋げるだけでもなく、という感じで。

で、作品の最後に、アルバムのジャケット写真のエピソードが語られるんです。
作品の構成として、そういう風に、巧く「写真の話」に持っていくようになってる。

エピソード自体もグッとくる感じですが、なんていうか、構成もポイント高いですよねぇ。

写真そのものも、凄いクールだし。




うん。


いや、褒めてばっかりですけど。



単純にドキュメンタリーとして(技術的・技法的に)優れている、というだけでなく、作り手の“対象”に対する愛と敬意が伝わってきて、なおかつ、その敬意を観る側が“共有”できる、という。

そういう、良い作品でした。
機会があれば、ぜひどうぞ。





















2014年12月8日月曜日

「ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー」を観た

一部で話題になっていた作品、「ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー」を観た。


観てきました。
京都市内の、社会福祉協議会の持ってる施設の中の会議室での、上映会、という形で。
料金は、1000円。

南京事件を扱っている、ということで、配給会社を通じての一般公開はされない、という、まぁ、その辺の話は、ここではそんなに深くは触れませんが、そういう諸々の“事情”があった、という作品です。
たまたま、なんかの拍子に、「京都でも上映される」ということが分かって、いい機会だから、ということで行ってきました。

なんか、盛況でした。
やっぱりそういう“事情”が、逆に宣伝効果を生んでいるんだと思います。
客層は、やっぱりちょっと、特徴ありましたけどね。

まぁ、こういう、市民の手による上映会、というのは、とてもいいことだと思うんで、今回のこの作品に関する“活動”が、今後の一つのメルクマールになればいいなぁ、と。



で。



ざっくりとストーリーを紹介してしまうと、南京に駐在している、ドイツ・シーメンス社の支社長、という人物が主人公で。名前は、ジョン・ラーベ。
ドイツ人です。なので当然、「ナチス」「ハイル・ヒットラー」とか、そういう単語が出てきます。
日本軍の侵攻が近い、という状況で、南京にいる欧米人を中心に、市内に中立地域(安全地域)を設けて、そこで民間人を保護しよう、ということになるんですね。
赤十字のマークが掲げられて、国際委員会、みたいな名称で。

で、主人公たちが奮闘するんですが、という話。



日本での配給・公開に関して、恐らく一番尻込みされたであろうポイント、というのがあって、それを最初に挙げてしまうと、それは、「皇族の司令官」、というところ。
その描き方、ということですね。
そこに関しての個人的なアレは、なんていうか、不勉強なのもあって、ちょっと是非/正否云々は言えないんですけど、まぁ、ここでしょう。
演じているのは、香川照之。



そのこと自体は、さておき。



ひとつ言いたいのは、シナリオ面で、ちょっと“弱い”んですよねぇ。
弱い。
脚本がイマイチなんです。


だから、こういう言い方はちょっとアレですけど、それも配給されなかった一因だったんじゃないのかなぁ、というか。

なんていうか、「想定されるであろうゴタゴタ」を突破してでも公開したい、という作品ではなかった、という感じだったんじゃないのかなぁ、と。


“弱さ”というのは、幾つかあるんですけど、まず具体的に言ってしまうと、国際委員会を立ち上げよう、というシークエンスで、主人公が周囲(の欧米人)を裏切って帰国してしまうかもしれない、というシチュエーションになるんですね。
設立の準備の為の会議に主人公が現れない、という場面。もう日本軍の侵攻が始まっているのに、という。
ここで、主人公が現れないことに憤ったメンバーたちが、主人公が帰国便に本当に乗っているかどうか、というのを、港に確かに行くんです。
で、港でのシーン、というのが、ワリと派手な感じで描写されるんですけど、これ、全然要らないんですよ。

切羽詰ってるのに、わざわざ皆で雁首揃えて港まで行かないでしょ。
作劇的には、まったく無駄なシークエンス。

主人公が妻だけを帰国させる、という決意を描写する為のシーンなんですけど、ここに物凄くおカネ掛かってるんですね。
巨大な客船、襲撃してくるゼロ戦、モブ、港のセット、などなど。
爆破のショットなんかもあって、喩えCGだとしても、おカネは掛かってますから。

派手なんですけど、意味がない。



もうひとつ。
これはストーリーの構造の問題なんですけど、「少数/個人を救おうとして、多数/全体が危機に陥る」というモチーフが、繰り返し使われるんです。

これは、様々なスケールで同じ構図の悲劇が、という、意図的な設定だと思うんですけど、でも、個人的には逆効果に思えてしまいまして。

サスペンスの作劇法としては、なんていうか、一般的過ぎるアレ、というのもあるんですけど。

なんていうか、「少数派も多数派も、『軍の上層部(≒エリート)』という『別の少数派』に踏み潰されてしまう」というのが、戦争なりファシズムなりを語る映画での描かれるべき本質なワケですよ。


史実を脚色している、ということである以上、しょうがない部分もあるかとは思うんですけど、そういう作品だからこそ、シナリオにおける工夫とかギミックとか、“強さ”が求められるワケで。

詳しく“構図”を説明してもいいんですけど、ポイントが逸れたりするのもアレなんで、このくらいで。


もうひとつ。

これは演出面の話でもあるんですけど、“逃げた兵士”を追って、日本兵が病院に入ってきちゃう、というシークエンスがあるんですね。
緊張感があって、しっかり作られたシーンなんですけど、ここで、例えば「手術室に入ってきた日本兵が、そこにいた大勢の中国人たちの視線に、思わず怯む」とか、そういう描写があれば、もっともっと深みが出て来ると思うんです。

怯えが生む暴力性。

虚勢、とも言いますけど。

中国人たちの無言の圧力に怯えた兵士が、思わず、無差別に発砲してしまう、という、そういうシーンになっていればな、と。

演出的には、ホンのちょっとのアレなんですけどね。
でも、ストーリーに深みを加えていくのは、そういう、ちょっとした部分のアレなワケで。

そういう“浅さ”みたいなのは、ちょっとマイナスポイントではないかなぁ、と。



あと、これは作品本体とは関係ないんですけど、普通に字幕に脱字とかあるんですよねぇ。
日本での公開の経緯云々を考えると、しょうがないっちゃしょうがないんですが、作品に対する熱意なんかを思うと、ちょっと残念。
あと、セリフに対して、字幕が出るのが、微妙に遅い。
この違和感みたいなのは、俺だけのアレかもしれませんが、若干気になりました。

まぁ、そういう細かいアレも、さておき。





その、「中立地帯」というのは、「ユダヤ人のゲットー」の、逆の意味でのメタファーなワケです。
ヨーロッパでは、ナチスドイツがユダヤ人を、街中の「ユダヤ人地区」に押し込んで、最終的には虐殺したワケですけど。
南京では、その逆。
日本軍が侵攻してきて、ドイツ人が市民を、街中の「中立地帯」で救う。

これは、現代のドイツ人にとっては、ある種の救いでもあるワケで。

要するに“そういう作品”なんだろうなぁ、と。



ドイツ人にも正義の為に働いた人間がいて、という。
日本軍の中にも、虐殺を命じた人間とそれを実行した人間がいて、命令に苦悩した人間もいた、という、それと同じ構図がドイツの側にもあって、と。
そういう構図を描くことで、少なくともドイツの中には、救われるような気持ちになる人間もいるんだろうなぁ、と。

もちろん、それで全然良いワケですけど。




作品全体としては、良い作品ですよね。
佳作って感じで。

セットもちゃんと作り込んでて、特に砲撃を受けた後の廃墟は、良かったです。


自主上映、という形も含めて、貴重な、良い映画体験だったなぁ、と。

そういう感じですね。



機会があれば、ぜひ観てみて下さい。














2014年12月4日木曜日

「日本列島」を観た

京都文化博物館フィルムシアターの宇野重吉特集上映で、熊井啓監督の「日本列島」を観た。


65年公開のモノクロフィルムの作品で、いわゆる“黒い霧”系のサスペンス、ですね。
面白かったです。


主演の宇野重吉が演じる人物は、在日米軍のMPの通訳を務めている、というキャラクターで、軍の関係者(当然、アメリカ人)が巻き込まれた“未解決事件”の調査をして欲しい、と、アメリカ人の上司に依頼される、というのが話の起こり。


まず、ここが新鮮だなぁ、と。
右向いても左向いても警察官なワケですよ。最近は。

元英語教師の、占領軍の通訳。

“相棒”役に、二谷英明が居るんですけど、彼は新聞記者。
未解決事件を“特ダネ”として追いかける記者なワケですけど、彼の、警察組織との関係性の描き方も、面白い。

そもそも事件が“未解決”なのは、日本の警察とアメリカ軍との間での“綱引き”みたいなのがあったからで、それも、“現場”と“上層部”で捻れがあって、とか、そういう感じで。


戦争当時の“遺産”が、依然、日本の社会のあちこちに“残滓”としてあった時代なワケですよね。
闇として。黒い霧として。
戦争の“残滓”と、占領下の時代の“残滓”。

そして、当時未だ占領統治下にあった沖縄の存在。



そういう、社会全体に重く覆いかぶさっていた“闇”を、なんていうか、宇野重吉の苦り切った表情と背中が、巧く表現している、というか。



元英語教師、という人物なんですね。
で、調査の過程で、教え子と出会ったり、“被害者”の娘と擬似的な親子関係を結んでみたりしながら、しかし、事件の調査自体は、いつもどこかで“何者か”によって遮られてしまう。

主人公は、ある“過去”を背負っていて、というより、引き摺っていて、なんていうか、“虚無”に陥っている、という背景があって。
ある種のニヒリズムを背負って生活している、と。



その、主人公がニヒリズムに陥っている状態からの、「人間性の快復」が、ひとつあるワケです。

それは、“日本列島”自体の「戦後の(精神的な)復興」のメタファーとして語られ得るんでしょうけど、まぁ、そういう諸々を背負って表現するに相応しい俳優なんだな、と。
宇野重吉という存在は。



そういうストーリーとその背景にある“物語”の他に、個人的にハッとしたのが、なんていうか、シャープな画作り、という部分ですね。


一番良かったのが、小学校の屋上に立ち尽くす女性教師を、さらに上方から見下ろして捉える、というショット。
グラウンドの先の校門から出て行く“訪問者”の後姿を、“被害者”の娘である女性教師が見つめている、というショットなんですけど、これはかなりグッときました。

ストーリーの舞台は、恐らく東京の多摩地区にある横田基地なんですけど、それにちなんで、背景に「多満自慢」の看板が出て来るカットがあるんですけど、個人的には(八王子出身なもんで)、ちょっと嬉しかったです。
多摩から横浜、そこから、江ノ島っぽい島影が出てきたり、新宿と思わせるような画があったりして、何気にどこも個人的に所縁がある場所だったりして。

ま、それは本筋とは関係ないですね。
あしからず。




ひとつ思ったのは、この時代(まで)の女性の立ち振る舞いっていうか、なんか物凄く抑制された身体性、というのを感じたんですね。
性的な事ではまったくなく、歩き方とか佇まいとか、姿勢とか仕草の話なんですけど。
“マナー”とか“躾”みたいなことだと思うんですけど、そういう姿が、なんか、ストーリーに絡み合って浮かび上がってくる、というか。

感情を抑えて、押し殺して、しかし、こみ上げてくる感情の波というのは確かにあって、「人前では憚られるから」みたいな、そういう抑制を自ら効かせつつ、しかし、という。

戦争だとか国家の犯罪だとか、あるいは陰謀だとかに翻弄されながら、しかし、必死に自分の足で立って生き抜いていこう、という、所謂欧米流のフェミニズムとは少し違うニュアンスを抱えた「自立した女性像」なのかなぁ、という感じで。




というワケで、個人的にも色々収穫の多かった映画体験でした。
さすが名作。良かったです。















2014年12月2日火曜日

「自由と壁とヒップホップ」を観た

立誠シネマ・プロジェクトでやってた、パレスチナのラッパーたちのドキュメンタリー「自由を壁とヒップホップ」を観た。



この作品は、確か去年か一昨年に日本で公開されてて、観たいとは思ってたんだけど、なんだかんだで見逃してしまっていたヤツで。
なぜか、今年のこのタイミングで、京都の(超)ミニシアターで上映する、ということで、観て参りました。


良かったです。

惜しむらくは、なんていうか、「パレスチナにラッパーがいる」というところにとどまっていること。
そこが惜しい。

もう少し、パレスチナが強いられている状況なり、彼ら(ラッパーたち)の音楽性なり内面なりを、深く掘り下げて欲しかったなぁ、と。

惜しむらくは、ですけどね。


「パレスチナにもヒップホップを体現しているラッパーたちがいる」というメッセージを、世界中にいる「ヒップホップ・ネイション」に集う人々にそれを伝え、連帯を呼びかける“役割”を果たしている、という意味では、ホントに感動的だし、とても意味のある作品で、それはそれで、良いんですけど。


ドキュメンタリーの“価値”というのは、「そこに行き、それを撮る」ことにあるとすれば、もう、十分素晴らしい作品では、あります。



ただね、と。



作品には、何組かのグループのソロのラッパーが登場しますが、彼らは互いに「異なる環境」にいるんですね。
それは、単純に場所や育ちが違う、ということではなくって、パレスチナの現状を文字通り体現している、とも言えるんですけど。

自治区の二つの区域、ガザ地区、西岸地区(west bankというらしいです。)。
そして、イスラエル国家の中で“二級市民”として暮らすパレスチナ人。

この三つ。


この、彼らの互いに差異、みたいなのが、実は作品の隠れたテーマ、みたいになってるんですけど、イスラエルによって「行動の自由」を剥奪されている彼らは、距離的にはすぐ近くに住んでいるんですけど、直接交わることはできない。


これは、別に彼らが自ら選んだ、ということはまったくなく、彼らの親世代・その上の世代が、難民として国外避難を強いられたり、あるいはその後、難民としてキャンプで生活を営むことを選択したり、あるいは、“国内”に居続けることを選択したり、という、そういうことに因る“差異”なワケですけど。

“専門用語”で言えば、まさしく「分断統治」の具体例でもあるんですが、それはさておき。


彼らが直面している“抑圧”というのは、かなり違うワケです。
自治区では、もうホントに、撮影中に銃声がバンバン響いてたり、ロケット弾で破壊されたビル(マンション)があったり、壁一面弾痕があったり、とか、そんな状況で。


“二級市民”として暮らす人々はまた違って、例えば、街を歩いているだけで警察やユダヤ人たちにジロジロ見られ、(ヘブライ語ではなく)アラビア語を話していると尋問される、とか、そういう感じ。


そういう状況下で、より“ハード”で“シリアス”な同胞に対しての引け目、みたいなのも、あるワケです。
彼らも人間ですから。

それらを乗り越えて、互いに連帯し合う、というのが、一つの(隠れた)テーマ。



もう一つは、女性の存在。

女性性、という、また別の“抑圧”があるワケですね。
特に、ムスリム社会には。


面白いことに、へジャブを着ている女性も確かにいるんですが、殆どの女性、特に、作品の中で“マイクを握る”女性たちは皆、セクシーなんですよ。

つまり、イスラム社会でありながら、かなり世俗的な感じで。

しかしそれでも、女性というだけで抑圧を受けている、という。

実は、この「女性蔑視」というのは、ヒップホップ自体が内包しつつ、常に(世界中で)批難と議論と克服の試みがなされている、という、ちょっと違うファクターの問題でもあるんですけど、この作品中では、あくまで、イスラム社会におけるそれ、という形で語られています。

彼女たちの、活き活きとラップし、歌う姿。
まぁ、素晴らしいですよね。



最後にもうひとつ。
これも“隠された”テーマだと思うんですけど、パレスチナ社会においては、(恐らく、ですけど)ヒップホップという“イズム”の信奉者というのは、かなり少数なんじゃないのか、という点。

単純に、ヒップホップのファン、ということですけど。

そんなに市民権を得ている音楽ではないんじゃないかなぁ、と。

これは、あくまで俺の勝手な推測ですけどね。



ただ、そういう意味では、二重三重の“マイノリティ”なワケですね。


パレスチナ人として、イスラエル国家から、直接的・暴力的・恒常的・非人道的・非人間的な抑圧を受けつつ、パレスチナ社会の中のマイノリティとして、「ダンスビートに政治的メッセージを乗せる」≒ヒップホップ・アーティストとして生きる、という。
(女性の場合、そこに女性性という“枷”がそこに加わる。)



もちろん、だからこそ、彼らと世界中のヒップホップが連帯する必要と意味があるワケですけど。




ただね、と。


繰り返しになりますけど、そういう、色んな要素に対しての掘り下げ方が、やっぱり深みが足りない気がするんですよねぇ。

インタビューも、彼らと彼らの家族に対してだけだし。




あと、もう一つ気になったのが、彼らの通信手段。
携帯で互いにコンタクトを取るんです。
あと、PC使ってチャットしたり。

その“ツール”をもうちょっと掘り下げていくって方法だってあったんじゃないの、とか。

だって、その携帯って、イスラエルの企業が提供している回線なハズですから。


“テクノロジー”って、ヒップホップっていうジャンルには、とても大事なファクターだし、この時代においては、とても重要なトピックでしょ。
インターネットって。


ちなみに、この作品が撮られたのは、エジプト市民革命よりもだいぶ前なんで、実際、まだ「フェイスブック」とか「ツイッター」とかのワードは、出てきません。
「抵抗のツール」としてのインターネット、というのは、もうちょっと最近になってからのトピック、ですね。
それはさておき。



あと、タイトルもあんまり好きじゃないです。
「自由」って言葉は、響きがいいし、もちろん彼らにとっても大事なことなんだろうけど、彼らは「平和な生活が欲しい」って言ってるんですよ。
もちろん、それは「自由」ってことでもあるんですけど、でも、彼らはもっと切実だし、このタイトルだと、彼らの“切迫感”みたいなのが伝わってこない気がする。
「パレスチニアン・ラッパー」とか、そんなタイトルでよかったんじゃないのかなぁ、というか。
(Palestinian Rapperzというグループが実際に登場してます。)





なんかケチつけてばっかりですが、いい作品なのは間違いないですよ。
だけど、ということです。




あと、“壁”のインパクトは、やっぱり凄かった。
抑圧とか、そういうレベルじゃないよね。やっぱり。