2014年2月13日木曜日

「地下水道」を観た

ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」を、京都みなみ会館で観た。



いやぁ、凄いものを観てしまった…。



京都には、小さいけどかなりディープなミニシアター文化が(どうやら)あって、そのミニシアターの一つ、京都みなみ会館という映画館でやってる、特集上映「ポーランド映画祭2014」の上映作品のひとつ、ワイダ監督の「地下水道」を。


ポーランド派。
恥ずかしながら、初めてでした。


舞台は、ドイツ占領下のワルシャワ。大戦末期、いよいよドイツの敗戦が予見されるようになったことから、ポーランド国内のレジスタンスが蜂起して、という。


まず、冒頭の長回しがハンパないです。
爆撃と砲撃で廃墟と化した都市の、街路を、レジスタンスたちが縦隊で歩いていくんですけど、もう延々歩いていく。走ったり、物陰に隠れたりしながら。
それを、ナレーション入りで、延々と撮る。

単純に、「セットどうなってんだ?」って感じなんですけど、要するに、作品全編でそういうことになってて、もうそんなこと言ってられなくなる、という、とんでもないことになってるんですけど。


で、それはともかく、戦うレジスタンスたち。


なにげに、部隊に愛人を同伴してたり、ちょっとアマチュアな感じの中隊が戦うんですが、彼らが、重装備のドイツ軍に圧倒されて、退却することになり、市内に張り巡らされた“地下水道”に潜る、ということに。

この、煉瓦作りの下水道の中を、中隊の生き残り(レジスタンスの女性が2人含まれている)たちが、進んでいくワケですけど、ここから、雰囲気が一気に変わるんですね。
ドイツ軍との戦いが、なんか、自分たちとの闘いに変化・転化する。


この、サスペンス感。
凄いですよ。ホントに。


下水の泥の感じとか、なんか湯気を上げてたり、「ドイツ軍に毒ガスを浴びせられた」と叫んで狂気に陥っていくレジスタンスたち、とか。

下士官みたいなヤツが、部下を気遣う隊長にウソの報告をしながら、とか…。

暗闇、泥水、汚泥、閉塞感、圧迫感、酸欠、疲労、苛立ち、ルートを見失った焦り、絶望感、などなど…。


そして、地上へ出るための、何通りかの出口(マンホール)。
これが強烈。
河へ出る排水溝には、なんと鉄柵。そこで息絶える恋人。
希望と共に這い上がったところにいる、ドイツ兵と、銃殺を待つ同胞たち。
そして、手榴弾のトラップ。


どれもエグい。
このサスペンス感は、物凄いと思います。


特にですねぇ。。。
ドイツ兵たちが待ち伏せしている、なんかの施設の中庭みたいな場所のショット。
ここも長回しで、中庭をパンしていくんですけど、ドイツ兵が背後に立ってて、その先に、虜囚となった同胞のレジスタンスたちがいて(その、絶望し切った表情!)、その先には、銃刑場代わりになっている壁があるんです。
血の痕があって。

いやぁ、痺れた。


そして、ラストシーン。
部下を探しに、地下に戻るか、否か。
隊長が、逡巡するんです。
あんなカット、観たことないです。マジで。



う~ん。


だから、戦争云々やレジスタンス、ドイツ軍による占領、というトピックを題材として取り上げながら、ちょっと別の部分、サスペンスのストーリーテリングという、ある意味では映画としての根幹の部分に、物凄い力強さがあって、むしろにそこに強く惹かれる、という。


もちろん、これは、今の時代に今の自分が観たら、という前提でのアレであって、だからこそ今も色褪せない(観るべき)価値があるんだ、ということが言いたいワケですけど、それが、実際の作り手の側の意図と合致しているかは、また別の話ではありますけど。



いやぁ、貴重な体験をしてしまったなぁ、と。



傑作です。
別に改めて言うことでもないんですけどね…。




2014年2月6日木曜日

「96時間」を観た

CSのムービー・プラス・チャンネルで放送していた、リーアム・ニーソン主演のヒット作「96時間」を観た。


原題は「Taken」ということで、“盗られた”とか、そういう意味でしょうかね。「持ってかれた」ってニュアンスでしょうか。
この邦題だと、実はあんまり切迫感が伝わらない気がしたんですけどねぇ。“96時間”って、結構長い気がしちゃって。
単純に“48時間”の2倍ですもんねぇ。


ま、瑣末な話はさておき。


リーアム・ニーソン主演、です。
個人的には、こういう、所謂“演技派”の俳優さんがアクション作品に出る、というのは、大賛成で、やっぱりいいワケですよねぇ。L・ニーソン。

製作はリュック・ベッソン組、ということで、脚本にもL・ベッソンがタッチしてますけど、脚本は、「上手い」という部分と「チープ…」という部分が、なんか、交互にっていうか、なんかマダラなんですよねぇ。
ムラがある、というか。

話の運び。

巧いなぁ、なんて思うポイントもあれば、「?」ってトコもあるし、あとは「技に溺れたな」みたいなトコもあったりして。
「グッド・ラック」って言わせる、とか、別に要らないと思うんだよなぁ。
相手が“口癖”でその言葉を使ってて、去ろうとしている主人公に皮肉として言い返す、みたいな感じで十分掴めるし。

あと、最初のトコ、心配しすぎですよねぇ。
まるで“予知能力”があるかのように、危機に陥ることを心配している。
ここもですねぇ、なんか娘の愛らしさに押し切られちゃって、渋々認めたんだけど、みたいにしておいて、あとでその判断を悔やむ、みたいにすれば、もっと滋味が出たんじゃないかなぁ、なんて。


まぁ、いいんですけど。


でも、プロローグ(旅立つ前)の父娘の感じとか、いいですよねぇ。
あういう心の機微みたいなのは、いいです。L・ニーソンの渋い雰囲気が、憂いがちな父親の感じと合ってて、良かったです。こういうのは、好きです。


あと、もう一つ好感を抱いてしまったポイントがあって、それは、格闘シーン。
L・ニーソンが、元CIAのエージェントとして身に着けた格闘術で、敵と素手で闘う、というトコなんですけど、いわゆる、マーシャルアーツってヤツで。

これ、「今から格闘シーンでーす」みたいな“臭味”がないのが良いな、と。
「はい、魅せ場でーす」みたいに作られてると、とたんにB級・C級感が出てきちゃうワケですよねぇ。
アクションシーンもちゃんと作ってるんだけど、わざとらしくもない、という、この辺はイイ感じだな、と。
良かったです。


あとは、やっぱり「パリの暗黒面」ですよねぇ。
売春婦が街角に立ってる感じとか、良かったです。
建築現場のコンテナ事務所の中に売春窟がある、とか、普通じゃなかなか発想できないと思います。
良かった。


うん。



いい作品ですよね。ヒットするのも納得です。
L・ニーソンって、華があるタイプの俳優さんじゃないけど、キャラクターとしては、それがいい、と。
悩めるパパ、ということですから。



その辺の、製作サイドの狙いが上手にハマってる、良作でした。














2014年2月5日水曜日

「ストーン」を観た

CS(FOXムービー)でやってたのを録画してあった、ロバート・デニーロ主演の「ストーン」を観た。


いや、平日の昼間からなかなかなモノをぶっこんで来るな、という、CS放送の番組編成の奥深さを改めて感じた作品だったんですが、とにかく地味で、かつ、かなり深くえぐってくる、という作品でした。

テーマはずばり「信仰心」。
“宗教”とか、具体的な“キリスト教”とかよりも、もうちょっと深く踏み込んだ領域を描こうとしています。
デニーロ演じる主人公は、刑務所の職員として、仮釈放を望む囚人たちを審査するのが仕事。(看守ではない)
そのデニーロに仮釈放の審査を申請している囚人役に、エドワード・ノートン。
その囚人の妻で、主人公を誘惑する役が、ミラ・ジョボヴィッチ。
もう一人、大事なキャラクターで、主人公の奥さん、という人物が出てきて、だいたいこの四人でストーリーが回っていきます。


とりあえず、仮釈放の申請をするエドワード・ノートンと、それを審査するデニーロ、という構図が多いんですけど、ノートンは、刑務所内での生活の中で、一枚のパンフレットを手にして、そこに書かれている、やや“カルト”チックな教義に影響されて、なんていうか、ある種の“信仰への目覚め”を経て、人間性がちょっと変わってくるんですね。


片や、真面目人間として描かれるデニーロなんですけど、そもそも冒頭で描かれる“悪徳”と、なんと、ミラに誘惑されて“堕ちてしまう”、ということで、“善人”と“悪人”が、立場が入れ替わってしまって、と。
そういう話です。



「ストーン」というのは、E・ノートン演じるキャラクターの苗字なんですけど、なにか他に意味を含ませている言葉なのかは、ちょっと分かりませんでした。
多分、あるとは思うんですけど。
なんなんでしょう?
「石みたいな人間」ってことなんでしょうかね?
固い≒硬い・堅い、とか、無感動、とか。
不感症のことを、なんかこんな言葉(スラング)で言ってたのを、観たか読んだかした記憶がありますけど、ちょっと自信ありません…。


あと、なんつってもミラ・ジョボヴィッチ。

アメリカの、特にインディペンデント系の映画には、何故か、こういう「無邪気で、美人で、物凄い魅力的で、男を惹きつけてやまない」女、というのが良く登場するんですよねぇ。
コケティッシュで、本人は無自覚なんだけど、周囲の男たちを振り回して、そして男はグチャグチャに巻き込まれて、人生の泥沼に堕ちていく、というストーリー。

こういう、なんかとんでもない魅力を持った女に振り回されたい、みたいな潜在的な願望があるんでしょうか。

殆どの場合、オツムがちょっと足んない、という感じで描かれるんですけど、その、コケティッシュ、というトコが、いわゆるファムファタールとはちょっと違うニュアンスなんですけど。


なんか、“そういう女”への憧憬、みたいなのがあるんですかねぇ。
そこら辺の感覚は、ちょっと分からないんですけど、とにかく、ミラが演じるキャラクターっていうのは、そういう感じ。
デニーロが、ミラに誘惑される、と。そういう話。
同時に、自分の“信仰”に疑問を抱いてしまう。

E・ノートンは、かなりエキセントリックに信仰にハマっていくんですが、対照的に、デニーロは、自分の信仰心への不信感を覚えてしまう。

それは、どちらも、それまでの自分の人生そのものに対する疑問なワケですよね。
自分の人生丸ごとを、否定しないといけなくなってくる。


ただですねぇ。
この作品は、情報量が多いタイプの作品ではないワケです。
テンポで引っ張る作品でもない、情報量の密度を上げて惹きつけるタイプでもない、と。
間、というか、隙間がいっぱいある。
で、観る側が、その隙間の時間に、考えさせられる、と。
そういう隙間があることで、受け手が自分で考えさせられる、そのことが作品に奥行きを与えている、と。
そういうことなんだと思います。


とにかく地味だし、テーマも抽象的で突き刺さるアレでもないんですけど、不思議な説得力がある、という、そういう作品でした。