2011年12月31日土曜日

フィクションが現実に凌駕されてしまった年

えー、2011年も終わります。

今年は、このブログはホントにまったく更新できず、つまりそれは、映画を殆ど見ていない、ということでもあるワケで、ホントに後悔の残る形になってしまいました。

原因ははっきりと分かっていて、それはやはり、震災のこと、ですね。



春ぐらいには、そんなに引きずらなくて済むんじゃないだろうか、なんて思ってたりもしたんですが、まぁ、ダメでした。
一応“物語作家”の端くれ(でもないんですけど)として、色々なことを頭の中で考えているうちに、どうにもこうにも浮き上がることができずに、ついに、年末に至る、という…。


作品(シナリオ)も、一応書いてみようとはしていて、実際に書き上げた作品もあったんですが、まぁ、なんていうか、あんまり納得のいく感じにはついにならず、という。

これは、ひょっとしたら年齢のせいかなぁ、とも思うんですが、その、体力というか集中力というか、そういうのが、明らかに落ちてまして。
ダメなんですよねぇ。




ま、グダグダここに言い訳を書いていってもホントにどうしょうもないんですけど。



うん。




改めて書くと、フィクションが「現実の無慈悲さ」に凌駕されてしまったと思うんですね。
NYのツインタワーが崩壊してしまった、あのテロ事件のときも、やっぱりそういうことが言われ、実際に自分も“そういう感覚”に襲われたんですけど、今回の震災とそれ以後、というのは、原発のことも含めて、ホントに色々なことを考えさせる、というか、頭に刺さって、それがずっと残っている、というか。



その、自分がなにか力になりたい、とか、作品を通じて東北にメッセージを、ということでは、全然ありません。
そういうことではなく、ホントに単純に、1人の人間として、俺がこのことを“消化”できていない、という、そういう話です。



実際に「映画を見る気になれない」という感覚もありましたしね。



もちろん、どうすればよいのか、ということも重々承知していて、つまり、この壁を乗り越えるためには、フィクションを書き続けていくしかない、と。
(あくまで、俺は、という話です。他に色々方法論を持っている人はいるワケで、それはそれで、尊重されるべき“覚悟”なハズで、それはそれ、です。)


やっていく、書いていくしかない以上、やるしかないワケですけど。



より強い物語、より強度のある世界観を掲示していかないと、「3.11」以降のこの現実の世界には意味が通らない、という、それは、ある種の命題というか、もはや単なる前提、というか。



自分のスタイルとして、というか、こういう形で書いている人間として、自分が納得していないモノを書いてもしょうがないワケで、そこのトコの覚悟を、年末という、「ひとつの区切り」としてある意味では分かりやすい“ポイント”を、“ピリオド”としてステロタイプ的に利用する形で、改めて自分の肝に銘じよう、と。


うん。

今は、そう思っています。




とにかく、来年は、映画をまたたくさん見たいです。ホントに。



これは偶然のタイミングの一致なんだけど、今年と去年は、本(書籍、雑誌、漫画)にやたらお金と時間を使ってたんですよ。
「週刊江戸」という、いわゆる分冊モノのシリーズを買う為に、毎週本屋に通ってて、それで「いい機会だからな」なんつって、とにかく本を買いまくってたので。

2012年は、もうちょっとそっちの出費を抑えて、映画を、それも、なるべく映画館で映画を観るように、と。


このブログも、更新します。


作品も書きます。


書くだけじゃなくって、撮りたいなぁ、なんていう気持ちもありまして。
ホントは、今年(2011年)に作品を撮ろう、なんて思ってたんですが、ぶっちゃけ、お金がねー。
ボランティア行ったりなんだりで、“在庫”がなくなってしまい…。


とにかく撮る、なんてことで、もう「自作自演」でもいいか、ぐらいの気持ちになってます。
一番単純なスタイル、ね。
自分で出て自分で撮る、みたいな。

もうそのくらいのアレでもいいから、一本作品を形にしないとマズいな、ぐらいの気でいまして…。



えぇ。
焦ってます。



ホントにねぇ。




来年は頑張るぞっ!





グダグダですが、今年の締めは、もうこれで終わります。


あとは来年!




良いお年を!

2011年12月15日木曜日

「ゴモラ」を観た

シャレオツな渋谷・青山のイメージフォーラムで、「ゴモラ」を観た。

 一部で結構話題になってた、イタリア産の作品で、イタリア版の「仁義なき戦い」だ、とか、そんな言葉もありましたが、いや、良かったです。
個人的には、ちょっと違う感じを予想してて、やや裏切られた、というか、まぁ、作品が良かったんで、別にいいんですけどね。 あんまり予備知識を入れないまま観にいったんですよねぇ。

原作があって、それも本屋さんで見かけたりはしてたんですが。

 なんていうか、もうちょっと“様式美”みたいなのを使って暴力を描くのかなぁ、とも思ってたんですが、全然違って、いわゆるリアリズム描写(リアル“に”描写する)、ということになると思うんですが、単にリアリズム、というだけでなく、目線を徹底的に低く、という、そういう意味でも(リアル“を”描写する)良かった、というか。

 しかし、これは良く思うんですが、この手の作品/この種の作風で作られた作品、というのは、ホントに世界中で作られていて、それこそ世界中で受容されている(需要がある)んだなぁ、と。

 手持ちの揺れるカメラ。対象に接近して、肉薄していくカメラ。黒味を強調した(陰を消さない)ザラザラしたタッチの画質。
登場する俳優たちも、顔は汚いし、汗はそのままだし、だいたい、着てる服も汚いし、という。


 で。


 ストーリーの構成は、三つのエピソードを平行して描く、という形。
三つのエピソードが絡み合う、ということではなく、平行して、並列に並んだまま進んでいきます。
最初、ここに戸惑ったんですけど、ま、別にこれはこれでいいですね。


 この作品が、単なる“バイオレンス描写”だけにしていない理由のひとつが、現代性、という部分。
 ストーリーのそれぞれのエピソードでは、犯罪組織と個人の対立が描かれていくんですね。
個人、というより、個人の“人間性”というか、まぁ、そういう、ただの対立ではなく、「内面を踏み荒らされる」ことに抗う個人、という感じなんですけど。

で。
その背景に、グローバリゼーション、というのがあるんです。

 犯罪組織自体も、より大きな“何か”に、経済的領域を脅かされている。 
なんていうか、別に犯罪組織に限らず、ある種の牧歌的な“組織”にも、この、グローバリゼーションというのは、競争を強いるワケですよ。
組織も、そしてその組織の周縁に暮らす個人も、その“新しい環境”に、新たに適応することを求められる。
 そこで産まれる暴力、というのが、この作品で描かれている暴力であって。

 もう1つが、犯罪組織にさえつま弾きにされてしまう人間の姿、というのが描かれている、と。
犯罪組織さえも「既得権益層」として振舞うワケですね。弱く孤独な個人、つまり、“弱者”の前では。
 ここは、個人的には結構ツボ、というか。

 犯罪組織の中での階級(階層)闘争、とか、組織同士の抗争とか、そういうのとは若干違う視点が、この作品には導入されている、と。
まぁ、これはあくまで個人的な感想ですけど。 
なんていうか、「同じパイを喰い合う」モノ同士の暴力、ではないワケですね。


特に、仕立て屋のエピソードは、そのまま日本に持ってきても全然成立する、というか、ホントに優れたアレだなぁ、と思うんですけど。
中国人の(恐らく、違法移民の)労働者たちから「マエストロ」なんて呼ばれて、という。

この、経済構造の変化が、実社会に物理的に変化を強いていて、それを凄い巧くストーリーに落とし込んでるよな、という部分は、この作品の良さだと思うし、つまり、ただの「暴力映画」じゃないんだ、ということだと思うんです。

産廃業者のエピソードも、南北格差、あるいは都市と田舎の格差、という、イタリア国内の経済格差を背景に語られているワケで、特に、最後の、若者が罵声として浴びせられる「ピザでも作ってろ!」というセリフは、ホントに刺さるモノがありましたね。

その辺の、つまり作品の持っている“深み”の部分というのは、多分原作の力に因るモノなんでしょうけど、でも、それを損なわないでしっかり作品のバックボーンとして成立させている、というのは、ホントに作り手の意思と“腕”を感じますね。

手前の、より表層的な、カメラワークとか暴力描写にもしっかりこだわりながら、そういう“深み”についても、意図的に切り捨てることなく、かといってそこにフォーカスし過ぎることもなく、しっかりと、複数のエピソードで出来ている作品全体の背景にあるものとして読み取らせる、という。


うん。

 構成力もそうだけど、ホントにここは、作り手の手腕なんじゃないかな、と思います。


 あ、あと、これは、イメージフォーラムっていう劇場で観たのも良かったのかもなぁ。
あそこ、雰囲気あるから。 それもコミで、良い作品だったな、と。 そういう結論ですね。