2007年10月31日水曜日

森田芳光監督の熱量を知る

この間、NHKの深夜にやっていた、「椿三十郎」を撮った森田監督の特集番組を観たので。

ま、そんなに濃い感じではなかったのですが、幾つか。

「作品とは、有機物であり、どこか一つだけが突出してはいけないんだ。」
いろんな要素が複雑に絡み合って、お互いに影響を与え合っている、という喩えで“有機物”ということでした。基本的には、俳優陣のことを言ってたんですが、恐らく、映画製作全体のことでもあるんじゃないか、と。

それから、三十郎のキャラクターについて。
“リーダーシップ”というものが、時代が変わったことで変質している。なので、その、“今の時代に求められているリーダーシップ”を演出によって見せていく、と。。
それはそのまま、織田裕二の個性そのままでもあるみたいでしたね。
その、演出の具体的なポイントみたいのが紹介されていて、それはちょっと勉強になりました。

それから、監督の、キャスティングに関して。何度も「技術じゃないんだ」と言ってました。当然、“作品にフィットするのか”が前提なんでしょうけど、人間的な柔軟さとか、そういう部分を見る、とのことです。
「日々を確かに生きているか」とか。要するに、“人間性”ってことなんでしょうね。
それから、例えば女優さんだと、その人のプライベートな所から入る、とも言ってました。
具体的には、中村玉緒さんで、「勝新のお嫁さんですから」と。その、“誰に惚れたのか”という、その人の本質的な部分と、演じる役柄の本質とが重なるような配役をするのだ、ということなんでしょうね。
お酒が好きな役にキャスティングするのは、やっぱりお酒好きな役者さんだろう、ということなんでしょう。それを、もっとその人の本質的な所にまで拡大して見ていく、という。
しかし、そもそも、監督本人に、その人の本質を見る力がないと成立しない話ではありますけどね。


それから、殺陣のシーンで、「疲れる」ことを表現しよう、みたいなことを試していて、それはちょっと新鮮でした。
「写実的な殺陣」というのは、まぁ、「様式的な殺陣」と対のようにして、あるにはあるんですが、そこからさらに一歩踏み込んで、ということです。
「バガボンド」の武蔵の影響もあるのかも。あの漫画は、その、“人間の肉体”についてはリアリズムを徹底してますからね。


ま、こんな感じです。
若い俳優たちに監督が演出をつけている映像があって、一番勉強になったのは、その時の監督の表情だったかも。

2007年10月28日日曜日

「ガス・フード・ロジング」を観た

ちょっと前に観た、アリソン・アンダース監督のデビュー作、「ガス・フード・ロジング」の感想です。
せっかくなんで、「マイ・ファースト・ムーヴィー」という本と一緒にご紹介。この本は、色々な監督に、自身の処女作について語らせる、という、題名通りの内容の本で、アリソン・アンダース監督も、自分のデビュー作について、インタビューされてますんで。


まず、ストーリーが、なんていうか、若干偏見じみた見方ですが、“女性的”なんですよね。
インタビューアーの言葉を借りれば「ゴールに向かって真っ直ぐに進んでいくものではない」という。
このことについて、監督は、
ストーリー上の問題をいろいろ設定してそれを解決していくというのはあまり興味がない。
ヴィム(V・ヴェンダース)もいつもそうで、ストーリーというのは大切なものを吊るしておくための面倒な道具としか思っていないようだった。
ストーリーは物干し竿のようなもので、人はそこに色とりどりの織物を引っかける。私が興味をもっているのは、そのさまざまな織物、つまり物干し竿に引っかかってるものであって、物干し竿そのものではない。

で、本人は、それを“反ハリウッド的”と定義してますね。


さて、“ストーリーの構築”にあまり興味がない監督は、得てして、その映像で多くを語る訳ですが、アリソン・アンダース監督も、やっぱりそうで、
私はロバート・ロドリゲスの“考えずに撮りまくれ”派には与しない。カメラを向けて撮るだけじが映画じゃない。どうやって意味を作りだすかその手法を学ばなきゃいけない。
ヴィムの映画で私にもわかるところは、短くしてしまっては本来の力が失われるショットがあるということ。
雰囲気を醸しだすようなショットがいかに重要か、人物を風景になかにポツンと入れることがいかに重要かがわかっていた。


もう一つ。カメラワークについて。
何らかの意味で情感を表現しようとするのでない限りカメラは動かしたくなかった。
移動は劇的効果をあげるためか、もしくは感情的理由がある場合に限られていた。長たらしい移動や、めまぐるしい移動、すばやいカッティングといったものにはウンザリしていた。だから簡素なやり方にもどってみようと思っていた。

この、大人しいカメラワークというのは、なんていうか、“しっとり”した印象の残すんですよね。画質もあるんでしょうけど、“エッジの効いた”感はなくって。つまり、登場人物の心の動きに、観る側がフォーカスしやすい、と。
もちろん、“そういう映画”なんで、当たり前っちゃ当たり前なんですが。しかし、その計算はズバリ当たってる、と。
ちなみに本人は、カメラについてはほとんど理解してないと語っていて、基本的にはカメラマンに任せきりとのことです。

と、まぁ、こんなところで。

この作品は、エンディングがとにかく好きで。勝手に“ほろ苦系”って言ってるんですけど。
ハッピーエンドじゃないんですよ。でも、観てるうちに、それが当然だろうとこっちも受容出来るし、それは、キャラクターたちそれぞれにとっては、やっぱり一つの到達点にちゃんとなってて。
監督本人は、作品のシナリオを書いていく過程を、「登場人物と一緒に進む自己発見の旅」と言っていますが、まさに、キャラクターたちが自己発見をするのを見届ける、という。そういう映画です。

これねぇ、「スモーク」がそうなんですよ。まぁ、「スモーク」については、また別の機会に。

「ガス・フード・ロジング」
あ、ちなみに、ガスはガソリン、フードは食事、ロジングはロッジってことで、寝る所って意味です。アメリカの街道沿いにあるモーテルとか、そういう所のことですね。
“旅の途中に寄る所”と。これ、ヘンな邦題付けなくて、ホントに良かったですね。

2007年10月21日日曜日

「SIN」を観る

テレビ朝日のシネマ・エキスプレスで「SIN」を観る。
ゲイリー・オールドマンと、もう一人、顔は知ってるものの名前は知らない俳優さんの、オッサン2人が激突する、まさに教科書のようなクライム・アクション。



シナリオ的には、若干弱い、というか、首を捻っちゃう部分もあるんですが、映像的にはクールでスタイリッシュで、良かったですね。

オチなんか、アリ地獄ですからね。底なし沼。ちょっと腰がくだける感じで。
ゲイリー・オールドマンの“悪の華”も八分咲きでした。

でも、画は凄い綺麗だし、カメラワークもアングルも効果的だし、とにかく、画の色が良かった。黒、黒、黒、という感じで。まさに、ザ・クライムアクションな感じの画でしたね。あんな画が撮れればいいなぁ、なんて。


2人のキャラクターも、徹底的にクール。脇役で登場する女性だけが、変にステレオタイプに感情的だったりして、そんなに美形でもなくってがっかりでしたけど。
その辺の、女性の描き方の下手さ加減も、まさに教科書通りでしたね。

同性愛に片足踏み込んじゃってるマチズモ。アクションも、フィジカルなものはなくって、精神的なぶつかり合いが主でしたね。携帯越しの会話で、攻守が一気に逆転したりするシーンは、ちょっとグッときました。

もう一つ、大きなモチーフがキリスト教で。聖書の一説が最初と最後に引用されたり、教会で釘を打たれたり(磔のメタファーです)、そこを燃やしてしまったり。
そこは、まぁ、全く参考にならない部分なんですけどね。

しかし、あの、ワケの分からない風景の美しさは、いったいなんなんだろうか。ホントに、あの景色ありきだよねぇ。砂漠と岩山。アホみたいに青い空。
その、悲しいくらい美しい風景の中を、血まみれの男2人が疾走していく、と。

まぁ、マチズモ、キリスト教、美しい砂漠。これこそがアメリカ映画なんでしょう。ゲイリー・オールドマンはイギリス人だけど。

2007年10月19日金曜日

新聞の記事より

昨日(17日)の新聞で、山形ドキュメンタリー映画祭の特集記事がありまして、その記事の中から、気になった言葉を、幾つか。

まずは、作品の選定に関わり、今年の映画祭のテイストを決定したと思われる、コーディネーターの方の言葉。
「作り手が自分の内面を私的に描きつつ、射程を社会や歴史に広げた作品を選んだ。ビデオの進化と普及で90年代に増えた同種の作品と違い、閉じた自己陶酔になっていない」


次は、優秀賞を獲った作品の監督。
「世界の画一化にあらがう辺境を訪ね、自分たちがどこから来たのかを問うた。私的な世界から接近しないと、複雑で深刻な現代をとらえるのは難しい」


それから、審査委員長を務めたという、蓮実重彦さん。
「昨今のテレビ的な作りが映画ならではの空間や時間の概念を脅かしていると指摘して、『フィクションとドキュメンタリーの境界は揺れ動いているが、重要なのは、世界をいかに見せるかではなく、どうとらえるかだ』」


“どうとらえるか”。その主体は、作品を作る人間自身であるワケだから、つまり、“己の内面”である、と。

同じ事象を目にした時に、人間一人一人のとらえ方、受け止め方はそれぞれ違うワケで。
その、“俺のとらえ方”を、描け、と。そういうことなのかねぇ?

「どうとらえるか」。
「俺にしか出来ないとらえ方」があるのだろうか? あるとして、それを求めて、内面に潜っていけばいいのだろうか?
それとも、そもそも「俺にしか出来ない」というようなモノはなく、目指すべき「とらえ方」が既にあるのだろうか?
正直、それすら分からん。

しかし、まぁ、俺に出来ることとは、俺の目で世界を見て、俺の言葉でそれを考え、俺のやり方でそれを語ることだけなのだから。


作品を作らなければならない。
とどのつまり、そういう事です。

2007年10月16日火曜日

「大統領暗殺」を観る

新宿武蔵野館にて、「大統領暗殺」を観る。

まず、内容云々より、隣に座ったババァがウザかったことを言いたいです。
満席だったんですよ。お客さんが一杯入ってることは、まぁ、いいことなんでしょうけど。
隣に座ったババァが、とにかく落ち着きがなくって、ガムみたいのを何個も何個も咬んでティッシュに包んで、咬んで包んで・・・。で、いちいち、バッグかなんかのファスバーを開け閉めするんですよ。開けておけ、と。それから、なんか買い物をした後なんだろうけど、その紙袋をずっと手に持ってて、たまに落としたりするんですよ、床に。ビニール袋も。ガサガサうるさい! ババァめ。煮干に化粧した(結構濃かった)みたいな顔してましたよ。


さて、内容ですが、結構面白かったものの、“映画としてはイマイチ”という、微妙な感じでしたね。
この映画の“売り”は、まぁ、「フィクションなんだけど、色々な方法でホンモノのように作っている」という所で、そこはホントに凄い。上手だし、手が込んでるし。そういう意味での演出というのは、ホントにしっかりしていたので。
テレビのドキュメント番組っていうのは、一番分かり易い例だと思うんですが、ホントにその通りに作ってて。

ただ、シナリオというか、ストーリーだとか、サスペンスだとか、そういう部分は、イマイチ、という感じで。
一応、それっぽく作ってるんだけどね。
あと、「で、何が言いたいの?」みたいな部分が、ね。“アンチ・ブッシュ”がテーマだとしたら、なんていうか、“今さら”って気もするしね。イラクにおけるアメリカの政策も戦略も、全部ダメだったっていうのは、こっちにしてみたら、もはや前提でしかないワケで。
この作品は、そこまでは踏み込んではこないので、その辺は消化不良。

いや、しかし、いい作品だとは思います。アメリカ国内だと、それなりにセンセーショナルなトピックなんだと思うし、製作と公開の時期も、何年か前なハズだから。その頃と今では、もう状況は全然違うワケだからね。

面白いと思ったのは、“メタ映画”的な方法論で作られてるところですね。実際、作中のセリフでも「映画では○○だけど、本当は~」みたいなことを言わせてるしね。

それは、いわゆる“ドキュメンタリー”の手法と、“映画的”な手法を、上手に混合させて“ホントっぽさ”を作り出している(演出している)という部分に繋がるんですけど。

ドキュメンタリーは、まぁ、方法論上、例えば、綺麗に撮れてない映像も(グラグラ揺れてたり、画質がもの凄い荒かったり)、使うワケです。
逆に受け手は、そういう、綺麗に撮れてない映像を観ると、真実味、つまり“リアルっぽさ”を感じるワケですね。そう刷り込みがなされてるワケです。テレビとかを毎日観てるワケですから。
それを、利用してるんですね。上手に。
それから、例えばインタビューのショットも、そうですね。これも、いわゆる“劇映画”では絶対に存在しなくて、テレビのニュースとかドキュメンタリーでしか観ない映像なワケで。そういう映像を観ると、受け手は“リアルっぽさ”を、勝手に、その自分の観ている映像に付加情報として加えるワケです。


同時に、映画的な方法論での映像もあるんですね。デモと機動隊(アメリカでの呼び方は忘れましたが)の衝突現場とかは、まさにそうだし、暗殺のシーンもそうです。
そういう場面では、映画的な演出、カメラワーク、カット割りが使われていて。
これは、受け手に“臨場感”を与える為にやっていると思うんですけど。
臨場感とは、つまり、“追体験”なワケですけど。
この辺の映像は、いわゆる“見慣れた映像”なんだけど、それは、「映画で観た事がある」というショットなんですね。
テレビ(この場合、ドラマじゃなくって、ニュースやドキュメンタリー)の映像とは違う、キチンと作られている映像。

「映画で観た事がある映像」による“臨場感”と、「テレビで観た事のある映像」による“ホントっぽさ”。
この2つを、メタ的に使い分けて、“ホントっぽさ”、つまり“真実味”を出させることに成功している、と。


まぁ、いわゆる“ドキュメンタリスト”にとっては“禁断の技”を使ってるに等しいんでしょうね。ただ、これはフィクションなワケで、「ドキュメントである」という制約はそもそも存在しない以上、こういう手法(映画的な映像)を使っても全然構わないワケで。


しかし、やろうと思えば、嘘をここまで“ホントっぽく”やれますよ、というお手本になってますよねぇ。
製作者のホントの狙いっていうのは、そこなのかもしれないな、と、今気付きました。

というワケで、映画館で観るにはイマイチ。だけど、家でDVDでは観た方がいいんじゃないの、という一本でした。


2007年10月9日火曜日

「クローズド・ノート」を観る

新宿のバルト9で、「クローズド・ノート」を観る。

えー、最初に結論から言ってしまうと、普通に泣いてしまいました。
個人的には、あんまり映画観て泣いたりはしない人間なんですが・・・。


ただ、沢尻エリカと竹内結子があまりにカワイイ&美しいばっかりに、他の所にケチ付けたくなるのも人情というもので。

まず、セリフがダサい。
言葉が多過ぎる、というか。キャラクターが、なんか、しゃべり過ぎな気がするし、セリフとしてチョイスされている言葉が良くないんだよなぁ。
ストーリーの構成とか、そういうのはもちろん、凄く良いんだけどね。

それから、伊勢谷友介が、なんか、窪塚洋介のコピーみたいになってるんだけど、アレでいいのかね?
まぁ、作品中だと、アレでいいっちゃいいような気もしないでもないが・・・。「ディスタンス」の時は、なんか、もっと良かったような気がするんで・・・。

あと、マンドリンじゃねーだろ、と。コレリ大尉じゃねーんだからよ。沢尻エリカ、全然弾けてねーし。なんか、もっとごまかし効く楽器にすればよかったのになー。

黄川田ナントカの役と設定もイマイチ。アレって、思い切ってジローラモさんとか、ドランクドラゴンの塚地とか、そのくらいやっちゃっても良かったんじゃないかなぁ。

もう一つ、これはちょっと不思議なんだけど、沢尻エリカの、冒頭の10分から15分くらいの演技がもの凄いイモ。
なんだけど、伊勢谷友介に会うぐらいのところから、もの凄い良くなってて。意を決して告白に行くシーンの表情とか、凄い良いんだけど、逆に最初の、あのイモな演技は、どうしてなんだろうか、と。
順撮りしてるのかねぇ?
それにしても、同じシーンに出てるサエコの演技も結構イモで。これも不思議。
ただ、サエコは、電話越しの声が凄く良くって、「あぁ、なるほどね」という感じでした。


と、ここまでは、偉そうに言ってますが、ほとんどアラ探しみたいなもので、要するに、美しい女性たちの織り成す、美しい物語の世界を楽しみましょう、という映画なワケですよ。


沢尻エリカを中心に、竹内結子、永作博美、板谷由夏が、それぞれ、擬似的な姉妹関係を作りながら、沢尻エリカが人間的に成長していく、というのが、物語の一つの側面になってまして。
まぁ、もちろん、伊勢谷友介との恋愛物語も、あるはあるんですが、どちらかというと、俺は、竹内結子との関係の中に付属してある、という捉え方ですかねぇ。
“擬似的な姉”に導かれながら、少女的な妄想というか、そういう形で、恋愛を経験するワケですな。つまり、王子様なワケです。伊勢谷君は。ちょっと不思議な。
竹内結子にとっては、もの凄いリアルな恋愛の相手なんだけど、沢尻エリカにとっては、王子様的な恋愛。この辺は、シナリオが凄い上手くて(もちろん、演出も)、きちんと表現されてます。

もう一つの物語として、竹内結子が、こちらは職場である小学校の教室を舞台にして、ある種の学園モノのストーリーを語っていく(文字通り、ね)という。

俺が泣いたのは、こっちです。
ま、だから、「瀬戸内少年~」的な作品なワケですよ、きっと。これは。夏目雅子にとってのそれと同じように、竹内結子と沢尻エリカにとっては。

しかし、女優陣が皆、美しいのと同じように、子どもたちも、それから、子どもたちと先生との関係も、ただただ美しい。
現実離れしている、と言えば、それまでですけどね。実際の“教職”というのは、あんなに美しい出来事ばっかりじゃないワケで。
しかし、まぁ、我々腐った大人たちは、この作品のような理想化された子どもたちの姿に滅法弱いことも間違いないワケですからね。


しかし、この映画がヒットしたら、あんな風にチャリンコでニケツするのが流行ったりすんだろうねぇ。
女性の教職の希望者が増えたりね。
ま、それくらい、美しい物語でした、と。

岩井俊二直系の、窓からの光を白く飛ばすアレも、ばっちり健在ですしね。川べりの小路とかも、いかにもな感じだし。


あんまりお金をかけてないっぽいところも、俺としては、グッドでした。
というワケで、ま、採点は満点です。皆さんも是非ご覧下され。


2007年10月6日土曜日

「レイジング・ブル」を観る

暖めているアイデアの参考にしようと、マーティン・スコセッシの「レイジング・ブル」を観る。

まぁ、言わずと知れた傑作だけに、特段改めて、というような感想はなし。

ま、モノクロで、シャープだよな、とか。
個人的には、「タクシードライバー」のデ・ニーロより、この作品の方のデ・ニーロの方が好きですね。

ウィキペディアでチェックしてみると、「ロッキー」の方が先だったんだな、とか、そんな意外な驚きもありで。
俺は、「ロッキー」は傑作だと思ってる人間なんで。

「ミリオン・ダラー・ベイビー」観ないといけませんね。
実は、観てないんですよ。

2007年10月5日金曜日

「39」を観る

森田芳光監督の「39」を観る。

ざっくりネタばらしをしてしまいますが。

まず言っておかなければならないのは、この作品は、うっかりしたら“火曜サスペンス”ですよ、と。
弁護士、検事、精神科医、その弟子の女性の精神科医、刑事、“新潟>名古屋>門司”、入れ替わり、などなど。鈴木京香の役を片平なぎさが演じたら、もしくは、岸部一徳を船越さんが演じたら、これは完璧にサスペンス劇場のネタですよ。

しかし、森田監督の、ある意味徹底的な演出が、そうはさせないワケですな。

とにかく、閉塞感に満ちたカットがひたすら続くんですが、この息苦しさは凄まじい。アップ、アップ、アップと続いていくカット割り。
カメラも、グラグラ揺れたり、左右に小刻みに揺れたり、構図がモロに傾いてたり。そんなカメラワークばっかり。
抜けるような青空すら、そういう閉塞感を強調する為にあったりして。

入れ替わりのトリックも、ワリと早い段階で明らかにされて(の、ようなものです。あのモンタージュは)、なんていうか、「エンターテイメントとして見せる気はないのか?」とこちらが訊きたいくらいの感じで。
監督としては、“刑法三十九条”への問題提起こそが物語の主眼なんだ、ということなんでしょうな。

最後の最後まで、堤真一が演じたキャラクターの絶望感を描き続ける、という。

しかし、その犯人に、動機として“三十九条への敵意”を語らせるワケですが、ストーリー的には、その堤さんを挟んで対峙する2人の女性(鈴木京香と山本未來)にこそ、そういう感情があるハズだよなぁ、と。
犯人の動機は、ホントに、妹の復讐という事でいいんじゃないのかなぁ、なんて。生意気ですが。

山本未來の存在感が結構凄くて(と、俺は感じた)。一応、“その彼女が計画のシナリオを書いた”とは提示されてるんですが、“彼女の動機”にこそ、「三十九条」という主題は相応しかったのでは、と。

いや、別にケチをつけるつもりはなくって、全然傑作だと思いますけどね。

前半の、音のモンタージュというか、カットアップというか、あれにはビックリ。絶対パクります。


基本的な法廷劇の構図としては、まぁ、被告側と原告側(弁護士と検事)という、2項対立になるワケで、アメリカだとそこに陪審員という要素が入ってくるワケですね。
で、この作品では、そこでなくって、鑑定人という、完全な第3者が苦悩する、と。「三十九条」という法律を巡って。
つまり、「法律対人間」という対立が描かれるワケです。

それからもう一つの要素としては、主人公(恐らく。堤真一が中心という感じもするが)の鈴木京香の、「父を超える物語」ですね。
杉浦直樹という、“擬似的な父親”を超えていく、まぁ、ある種の成長物語でもある、と。

作中、“父親の不在”というのは徹底的に通奏低音として描かれ続けるのですが、まぁ、「三十九条」と「父親」に関連付けがあったかどうかは、正直、分かりません。

と、そんな感想です。

しかし、鈴木京香の美しさは素晴らしいな、と。ホントに。
綺麗過ぎます。
特に、唇が。