2007年10月5日金曜日

「39」を観る

森田芳光監督の「39」を観る。

ざっくりネタばらしをしてしまいますが。

まず言っておかなければならないのは、この作品は、うっかりしたら“火曜サスペンス”ですよ、と。
弁護士、検事、精神科医、その弟子の女性の精神科医、刑事、“新潟>名古屋>門司”、入れ替わり、などなど。鈴木京香の役を片平なぎさが演じたら、もしくは、岸部一徳を船越さんが演じたら、これは完璧にサスペンス劇場のネタですよ。

しかし、森田監督の、ある意味徹底的な演出が、そうはさせないワケですな。

とにかく、閉塞感に満ちたカットがひたすら続くんですが、この息苦しさは凄まじい。アップ、アップ、アップと続いていくカット割り。
カメラも、グラグラ揺れたり、左右に小刻みに揺れたり、構図がモロに傾いてたり。そんなカメラワークばっかり。
抜けるような青空すら、そういう閉塞感を強調する為にあったりして。

入れ替わりのトリックも、ワリと早い段階で明らかにされて(の、ようなものです。あのモンタージュは)、なんていうか、「エンターテイメントとして見せる気はないのか?」とこちらが訊きたいくらいの感じで。
監督としては、“刑法三十九条”への問題提起こそが物語の主眼なんだ、ということなんでしょうな。

最後の最後まで、堤真一が演じたキャラクターの絶望感を描き続ける、という。

しかし、その犯人に、動機として“三十九条への敵意”を語らせるワケですが、ストーリー的には、その堤さんを挟んで対峙する2人の女性(鈴木京香と山本未來)にこそ、そういう感情があるハズだよなぁ、と。
犯人の動機は、ホントに、妹の復讐という事でいいんじゃないのかなぁ、なんて。生意気ですが。

山本未來の存在感が結構凄くて(と、俺は感じた)。一応、“その彼女が計画のシナリオを書いた”とは提示されてるんですが、“彼女の動機”にこそ、「三十九条」という主題は相応しかったのでは、と。

いや、別にケチをつけるつもりはなくって、全然傑作だと思いますけどね。

前半の、音のモンタージュというか、カットアップというか、あれにはビックリ。絶対パクります。


基本的な法廷劇の構図としては、まぁ、被告側と原告側(弁護士と検事)という、2項対立になるワケで、アメリカだとそこに陪審員という要素が入ってくるワケですね。
で、この作品では、そこでなくって、鑑定人という、完全な第3者が苦悩する、と。「三十九条」という法律を巡って。
つまり、「法律対人間」という対立が描かれるワケです。

それからもう一つの要素としては、主人公(恐らく。堤真一が中心という感じもするが)の鈴木京香の、「父を超える物語」ですね。
杉浦直樹という、“擬似的な父親”を超えていく、まぁ、ある種の成長物語でもある、と。

作中、“父親の不在”というのは徹底的に通奏低音として描かれ続けるのですが、まぁ、「三十九条」と「父親」に関連付けがあったかどうかは、正直、分かりません。

と、そんな感想です。

しかし、鈴木京香の美しさは素晴らしいな、と。ホントに。
綺麗過ぎます。
特に、唇が。

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