2007年12月31日月曜日

「再会の街で」を観る

恵比寿のガーデン・シネマにて、名手ドン・チードル目当てに「再会の街で」を観てきました。

いやぁ、ドン・チードル、いいですよねぇ。
個人的には、いま一番観る価値のある俳優さんだと思ってるんで。

なんせ、ニコラス・ケイジは宝探しですからねぇ。もったいない。

今はとにかく、ドン・チードルですよ。


ただ、この作品に関しては、クレジットも二番目で、主役なんだけど、一番のメインじゃないんですね。そこががっかり。

作品にももの凄い期待していったんですが、その辺も含めて、やや期待ハズレな感じもしまして。

もっとドンを真ん中に持って来いよ、と。
作品のシナリオも、もっとドンのキャラクターを描いて欲しかったです。若干、焦点がぼやけちゃったかなぁ、と。
もう一人の主役が、なんかイマイチだったので。役者さんも、キャラクターも。

ただ、この作品は、俳優陣がめちゃめちゃ豪華。リヴ・タイラーに、ジェイダ・ピンケット=スミスという美人2人に、“ジャックの親父”ことドナルド・サザーランド。
ただ、リヴはやや太り気味で、ちょっと老けちゃったかなぁ、なんて。まぁ、全然キレイなんんで、いいんですけど。

そういう、なんていうか、余計なトコに気が向いちゃうんですよね。グッとこさせるモノがイマイチなくって。
シナリオもなんとなく普通って感じだし、映像もなんとなく普通って感じだし。音楽の使い方も、好みのアレもあるんだろうけど、普通だしね。


しかし、とにかくドンの、あの、世界中の矛盾と不条理と悲しみとやるせなさを一人で背負ったかのような、目元の表情の演技は、素晴らしい。それを観るだけでも、この作品を観る価値はあるでしょう。


うん。そんな感想ですな。





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2007年12月30日日曜日

「ゴシカ」を観た

シネマ・エキスプレスで、天才マチュー・カソヴィッツの「ゴシカ」を観た。


長編デビュー作と、その次の作品で、“社会派”みたいな立ち位置で登場してきたカソヴィッツ監督ですが、今回の作品は、ハリウッド資本の製作による、まぁ、エンターテインメントと言っていいと思うんですが、そういう作品です。
ジャンルとしては、ホラー・サスペンスってトコでしょうか。

主演は、ハル・ベリー。
シチュエーションごとに、美しかったり、醜かったり、髪がぼさぼさだったりして、という変化が印象に残りました。
この人は、演技が巧いとは、そんなには思わないんですが、この役に関しては、なんかイイ感じにハマッてる、というか。
その彼女のキャラクターが、知的で論理的な精神科医から、色々あって、最後には霊視能力者なる、という。まぁ、そういうストーリーです。

まぁ、なんていうか、“凡庸”っていうと言い過ぎかもしれないんだけど、カソヴィッツ節を期待してるとイマイチかも。
サスペンス劇としては、まぁ、普通の佳作だとは思いますが。

でも、アメリカ映画って、なんで“刑務所”がこんなに出てくるんでしょうかねぇ。それだけ、生活に身近な存在ってことなんでしょうか。
よくよく考えると、結構不思議。


カソヴィッツ監督の巧さの一つに、“空間”というのがあるんですね。空間を巧く見せる、というか、空間の広がりを見せるのが上手なんですよ。いつも。
今回も、そのテクニックは当然披露されてて、感冒もそうだし、あとは、プールですかね。水の中。あの辺は、あいかわらず上手だなぁ、と。


そんな感じっスかねぇ。

色使いも、刑務所内はダークな感じで徹底して、その辺も“らしい”感じでしたが。


まぁ、ホラーなテイストも抑え気味で、個人的にはその辺もポイント高いですけど。
あ、でも、「シックス・センス」にネタ的には被ってるのかも。
まぁ、でも、サスペンスの佳作、良作って感じで。

でした。



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2007年12月29日土曜日

てこずりましたが・・・

いやぁ、疲れた・・・。

昨日は、テレビで「ゴシカ」を観た後(感想は明日に持ち越し)、頑張って徹夜して、作品を仕上げました。
まぁ、10分の短編なんですけど。

今回はかなり手こずってしまいました。
なんやかんやで一ヶ月かかってしまった・・・。
二、三日で終わる分量なんですけどね。
どうも、今月はいけませんでした。


今回の課題は、音ですねぇ。撮ってる時は、イケるかなぁ、なんて思ってたんですが、苦労してしまいました。

マイクの集音のアレじゃなくって、編集時の“整音”で、もうちょっと色々出来る方法があるんじゃないかと思ってるんですけどね。


まぁ、でも、全部画を繋げた後に、音楽を乗っけた時に、ビシッとハマッてると、ホントに快感。
今回は特にそれがハマッた感じがしたんで、ま、良かったですな。

とりあえず、これでようやく年を越せる感じになったかなぁ、と。
毎回ギリギリですけど。

2007年12月26日水曜日

静・ジョースターに星型のアザはあるか?

最近、忙しいのもあってややネタ切れな感じなんで、せっかくなんで、「ジョジョの奇妙な冒険」の“勝手にスピンアウト・プロジェクト”を。今日は「その2」になりますね。


今までになんとなく思いついたアイデアを、一部ですが。


主人公は静・ジョースターってことは、まぁ、決めてるんですが、スタンドは「アクトン・ベイビー」ですね。第4部では。

なんですが・・・。

「アクトン・ベイビー」は静(と、後に名付けられる女のコの赤ちゃん)のスタンド能力ではなく、その母親のスタンド能力である、というのはどうでしょう。“自動遠隔操作”の。

スタンド使い同士は“お互いに引かれ合う”ワケですから、第4部の中で、静の母親とジョセフたちが杜王町ですれ違っていても、おかしくはありませんからね。

第4部では、静は、“孤児”という扱いで、ジョセフに養子として育てられることになるワケですが、その彼女が、自分の“実の母親”について知りたいと思うのは、まぁ、物語の中の一人のキャラクターの動機としては、十分過ぎるほど説得力があることです。

ということで、静が、自分の“実の母親”の姿を求めて、杜王町に“帰ってくる”というストーリーですね。



もう一つ。
「ジョジョ」で、作者の荒木先生は、“時間”を操るスタンドを何度も登場させ、その能力を描いていきます。
(蛇足ながら、こちらのブログも >>>チダカツontheweBLOG

ちなみに、俺の解釈では、クレイジーダイヤモンドも、ある種の“時間”のスタンドじゃねぇか、と。
“治療する”っていうのは、つまり、“時間を遡る”ってことですからね。元に戻す、無傷だった状態に戻す、という。“戻す”って、つまり“時間”を操る、ってことですから。
まぁ、それはさておき。


“時間”のスタンドを次々と登場させ、その能力を手を変え品を変えて描いていくのに比べて、ちょいちょい出てくるものの、恐らく荒木先生の興味があんまりないからだと思うんですが、あっさりとした味付けに終わっているモノが一つあります。
それは、“空間”。


ヴァニラ・アイスのクリームと、億泰のザ・ハンドですね。

俺の解釈に則れば、ザ・ワールドとクリーム、クレイジーダイヤモンドとザ・ハンドは、どちらも、“時間”と“空間”のコンビっちゅうことになります。


さて、そんなこんなで、俺のアイデアとしては、“空間”を扱ってみたいな、と。


ここからが、ちょっと核心なんですが、“透明化”って、「別の空間に隠れる」っていう風に解釈出来るんじゃないかと思うんですよ。

「ジョジョ」で、荒木先生も、“鏡の中の空間を移動する”とか、“影の中を移動する”とか、そういうスタンドを沢山描いてますが、それに近い解釈が出来ないもんか、と。


静の母親は“別の空間”に存在して(隠れていて?)、静は、母親に会いたいので“その空間”に入っていきたい。

ここで、億泰のザ・ハンドですよ。


ザ・ハンドで削り取られたモノが“その空間”に行っちゃってしまってるんじゃねぇか、と。そう考えた静が、億泰に、「私を削ってくれ」と。
「その後、クレイジーダイヤモンドで治してくれれば元に戻れるんじゃないの?」と。

だけど、クレイジーダイヤモンドの能力では、ザ・ハンドで削られたモノは戻せない、という設定がありますから、億泰は「それは無理」と、まぁ、当然断りますね。
じゃあどうしよう、という感じで、ストーリーが進んでいく、というのが、今のところの、俺のアイデアですね。


ま、あんまり長々と書いてもしょうがないんで、今日はこのくらいで。
またアイデアが浮んだら(で、まとまったら)、追加して書いていきますんで、もの好きな方は、お楽しみに。
でわ。

2007年12月24日月曜日

♪ごぉ~まるさ~ん

エドウィンの、ブラピが出てるCMがいいですね。
「セブン」のミルズ刑事を思い出させてくれる感じで。


で、この間予告編みたいのをチラッと観たんですが、ブラピの新作がカッコ良さそうです。楽しみ。



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2007年12月22日土曜日

劇作家の月9分析

この間、道端に捨ててあった「アエラ」誌を拾って帰ってきて読んでたんですが、「ステージ」という、短いコラムが載ってまして。
中島かずきさんという、劇団☆新感線の座付作家の方なんだそうです。
月9の「ガリレオ」の分析。

ガリレオというのは、そもそも原作があり、それは短編なんだそうです。

以下引用でっす。



物理的トリックの謎解きというのは、短編小説ならば、エンタテイメントにも成り得ますが、ドラマの場合、それだけでは弱いのですね。当たり前ですが、ドラマは人間が演じるもの。つまり会話で物語を語っていかなければならない。小説の場合極端に言えば、会話が一切なくても成立する。ここのところが決定的に違うのですね。
説明だけの会話は退屈なものです。そこにどれだけ個人の感情が乗せられるか。人と人との感情のぶつかり合いが、ドラマの面白さだと思うのです。

書きたいテーマを、どれだけ個人の肉体に落とし込むか。その作業をやっているのが(娯楽作の)脚本家であり劇作家だろうと思うのです。


で、ガリレオは、“謎とその解明”の基本構造だけもらって、あとはアレンジする、という手法で、最近になってから、それが巧くいってるときは面白い、とのことです。



個人の肉体にどれだけ落とし込むか。
劇作家らしい言葉だと思いますね。

“会話で物語を語っていかなければならない”とのことですが、実は、例えば映画でも、会話がなくても成立する場合があるんですが、逆に、舞台では、それは有り得ません。
しかし、テレビドラマでは、さらに反転しますが、会話がないと成立しない、というのはその通りなワケで。

実は、“テレビドラマと映画”ではなく、“テレビドラマと舞台”の方が、方法論としては親和性が高い、みたいな事の、一つの証明でもありますね。


しかし、テーマを肉体に落とし込めるかどうか。
大事なことですね。これは。

と、思ったので、ここでご紹介しました。

2007年12月21日金曜日

大隈講堂へ

今日は、知り合いの作品が、早稲田大学の学生の映画祭に出品されるということで、疲れてヘロヘロの身体を引きずりながら、大隈講堂へ行ってきました。

まずは、その、大隈講堂という単語にやられちゃいましたけどね。
ややビビりながら、講堂へ入りつつ、せっかくなんで、トイレで(なんか変な造りでした)、催しモノの処理も(大です)。


で、肝心の作品は、なんていうか、申し訳ないんですが“好みじゃなかった”、ということで。
ワリと辛口な感想を残してきてしまいました。

が。

そんな、偉そうに辛口な事を言っておきながら、我が身を振り返ると、改めて“映画を作る”ことの難しさを痛感する、という。
物語を映画としてパッケージする、ということの難しさ、ですね。


その知り合いの人っていうのは、早稲田の学生さんで、3週間合宿してその作品を撮ったんだそうです。尺は、1時間半くらいですかね。
まぁ、ホントに、そのことだけでも完全に脱帽なんですよね。これはマジで。

そういう時間があることを純粋に羨ましいと思いつつ、無いモノねだりをしてもしょうがないので、俺なりにやれるやり方で、俺もやらないとなぁ、と。


まぁ、その辺は、いつもながら、改めて、ですが(改めまくってますけど)。

と、10分の短編作品の編集に手こずっている、師走の俺でした。

2007年12月18日火曜日

「スイミング・プール」を観た

土曜日の「バリ・シネ」で観た「スイミング・プール」の感想でっす。

まず、しょっぱなに書いておかないといけないのは、ワリと低予算で作られているんだろう、ということですね。
田舎の一軒屋の中で大半の物語が進行するので。あとは、家の外のプールとか、ね。

この作品は、前々から観たいとは思ってたんですが、まぁ、怠け癖みたいなモンで、“機会があれば”的に延び延びにしてた作品の一つでした。
もっと官能的な感じかと思ってたんですけど、それは、“宣伝のトリック”でしたね。そういうアレは、ちょっと薄め。


ロンドンの、薄暗い地下鉄と、ジメジメした空気から、一転して、カラッとした、日光が降り注ぐフランスの田舎へ、という。まぁ、ありがちっちゃありがちな“移動”ですが。
でも、主人公の表情が、それに沿ってちゃんと変化してて、それは勉強になる感じ。
ベタっちゃベタなんですが、それにキチンと説得力があるのは、俳優の演技の力なんでしょうか。
もちろん、その、微妙な表情の演技をちゃんと撮る、という演出の要請があってこそ、ですけど。


さて、日光が燦々と降り注ぐフランスの田舎が舞台なワケですが、例えばぶどう畑の木漏れ日であったり、プールの水面がキラキラしたり、という所に重きがおかれているワケではなく、家の中の陰であったり、街灯なんかない夜の暗闇だったりが多かったりします。
この辺の光の雰囲気なんかは、勉強になる感じ。
特に、チラッと1カットだけあった、夜の田舎の道を主人公と若い娘が並んで歩くシーン。“月明り”ってことだとおもうんですが、とても綺麗でした。歩きながら、顔が暗闇に隠れたり、光に照らされたり。それが、そのまま、主人公の心象の描写になってる、と、こっちに思わせてくれる、という。
あれは、どうやって撮ってんだろうか・・・。自然光であんなにくっくり映るハズはないし。気になるカットでしたね。


あとはとにかく、主人公の喜怒哀楽をしつこいくらいに描いて、それを追っていく、というトコですよね。


今年の夏にみた、ペネロペ・クルスの「ボルベール」を思い出したのが、娘が殺してしまった男を埋める、というシークエンス。
こちらは、擬似的な母娘で、あちらは殺させるのが実の父(夫)である、という違いはありますけど。
スペインとフランス(南仏?)で、ちょっと雰囲気が似てるところもあるし。
ペドロ・アルモドバル監督は、若干パクったのかもね。


そして、この、監督が仕掛けた、どんでん返し的なトリック。
色々解釈があるとは思いますが。

ただ、個人的には、こういう、“投げっぱなし”な結末って、好きなんですよ。
「あとは観る人に委ねます」みたいな。こういう、作り手の意図って、よく分かるし、好きです。「好きなように解釈して欲しい」っていうのと、あとは、これは推測なんですが、「観た人同士で色々議論して欲しい」っていうか。

で、俺の解釈ですが、ラストで(本当の)娘がチラッと出てきますが、あのシーンで初めて主人公は娘の顔を見た、ということだと思います。
つまり、田舎の家では、ずっと独りだった、と。まぁ、小さなオジサンとか、その辺の人物の出入りはあったでしょうけど。
娘が家に現れるというのは丸々主人公が書いていた物語の中の、つまりフィクション(まぁ、正確に言えばフィクション内フィクション)である、という。
あの娘は実際に家に来てたけど、途中からフィクションだ、とか、そういう解釈もあるみたいですが、俺は違うと思いますね。


と、こういう話を、作品を観た人同士であれこれ話したりして欲しい、というのも、監督の意図なんじゃないのかなぁ、と。

ま、そんなこんなで、フランソワ・オゾン、新作も楽しみですな。





DMMでレンタルも出来ます。 >>>スイミング・プール
                  >>>ボルベール

2007年12月17日月曜日

演劇ですけど

朝日新聞に、演劇界の今年を振り返る、という記事が載ってまして。

野田秀樹さんが書いた言葉が紹介されてました。
以下、二重の引用になりますけど。

「等身大」の物語が大嫌いだ。
「紅葉の葉脈の小さな迷路に迷い込んだり」「朝の光をむしゃむしゃ食べる」ようなことが、作家の書くべきこと
であり、職場や学校、家庭でのあれこれを描く「等身大」の演劇は“敵”だ、と。



野田さん、過激です。
個人的には、野田さんの言うことには大賛成なんですよね。
ただ、その、外部的な条件で、どうしても我々は“等身大の物語”しか語れない、という。
それでも、「紅葉の葉脈」を歩くような映像を作れるのかどうか。カネなんかなくたって、アイデアと、今使える技術で。
難しいんですよ。やりたいアイデアは沢山あるんだけど。


記事では、その野田秀樹が今年作った「THE BEE」という作品を紹介しています。

脱獄囚に妻子を人質にされた会社員が、犯人の家に乗り込み、その妻子を虐待する。エスカレートする暴力の応酬は、報復の連鎖という世界の病理を映し、人間を容赦なくえぐった。暴力性は狂気ではなく正気の中に潜在し、恐怖は人間の尊厳を無残に崩壊させる。

という、舞台なんだそうです。
俺は、まぁ、観てないので、これ以上の感想などはないのですが。

ただ、この舞台、「演者4人、上映時間は70分余」なんだそうです。


きっと、 冒頭の「嫌いだ」という言葉は、野田さんの挑発なんだろうな。
応えたいっスね。是非。
少なくとも、その意思は抱いておくべきなんだろう、と。

2007年12月15日土曜日

笑顔もカワイイ

多部未華子の、新しいCM、良いですね。
ユニクロのクリスマスの。

不機嫌な彼女も、笑顔の彼女も、カワイイです。


最近のユニクロのCMは、以前とは明らかにスタンスが変わって、必ず“ストーリー”がある、という。
すごく良いです。


「だって、素敵やん?」
紳助さんでした。

2007年12月10日月曜日

「ラウンダーズ」を観た

金曜日の夜に、ミッドナイト・アートシアターでマット・デイモンの「ラウンダーズ」を観ました。

まぁ、感想としては、結構期待してただけに、ガッカリ、と。
生意気言わせて貰えれば、不満だらけって感じでっす。


まず、音楽がダサい。全然“サスペンス感”、ないもん。あの種の音を使うなら、もっと低音ビンビン響かせるとか、ちゃんとやんないと。ただ“背後になってるだけの音楽”ですからね、アレだと。


それから、なんていうか、ストーリーが進んでいく場所というか、空間というか、まぁ、“設定”なんですが、それが中途半端なんですよねぇ。
一応、NYが舞台なんですが、いわゆる“アンダーグラウンド”でもないし、かといって“ただの下町”でもないし。
そのくせ、主人公の相手はロシアン・マフィアってことだし、親友は“出所”してくる、というストーリーだし。
全然、緊迫感・緊張感がないんだもん。マフィア相手に借金背負っちゃっても。

その、賭けポーカーの場面でも、全然“ヒリヒリ”してこない、というのもダメ。あれじゃ、お正月のババ抜きですよ。

あと、その、「大金を賭けているゲーム」というシチュエーションなのに、アドレナリンがドバドバ出る、みたいな描写が一切なし。これはいただけませんよねぇ。
ギャンブルの中毒性っていうか、まぁ、オレもギャンブルやらないんで、その辺は正直、アレなんですが、でも、それがあってのギャンブルでしょ。淡々とゲームの進行を追っていっても、映画としては、ダメでしょ。


それから、徹夜でゲームするのに、翌朝の顔が同じ、とか、もうダメ。
その辺の、生活感の欠如みたいのは、ある意味で徹底してて、その辺も緊迫感が伝わってこない原因になってる気がします。
もう充血で目がギンギンで、とか、そういうのがないと、切羽詰った感なんて出ないでしょ。
普通に夜中にドライブして、ゲームして、カモから金を巻き上げて帰ってくる、ってだけじゃ、ダメでしょ。


主人公が、“あまり裕福ではない家庭”の出身で、親友も前科者ということで、その、ポーカーで“成り上がっていく”物語なのかとも思ったんですが、そうでもなく。
主人公は、賭けポーカーで、学費を稼ぎながら、大学(法学部)に通ってるんですね。で、老人の教授に取り入ったりして。
その、“上流階級への足がかり”みたいなことかと思ったんです。
しかし、最後には、ドロップアウトしちゃうんですよ。

逆に、借金したりカネをせびったりという、トラブルメーカーの親友との絆を最後まで貫く、かと思ったら、最後にバイバイしちゃって、いなくなっちゃうし。

別れた彼女に謝ってヨリを戻すのかと思ったら、そっちにもバイバイだし。

ドロップアウトするのも、まぁ、いいっちゃいいんですが、そのきっかけが、なんと、老人の教授のアドバイスなんですよ。
全然美しくない!

労働者階級は永遠にそこに留まれ、みたいなことですか?
成り上がってくるな、と。エスタブリッシュ階級になんかなれっこないんだぞ、と。
アウトローとの友情なんか続かないんだぞ、と。

その、全部が全部、中途半端なんですよねぇ。

それから、これはちょっとのけぞっちゃったんですが、“ラスボス”のマルコビッチとポーカーで勝負するシーンで、マルコビッチの背後に、ぼろいテレビがあって、そこでボクシングの試合を中継している、というカットがあるんですよ。
こんな安易なメタファーを使っちゃイカンでしょ。
ポーカーとボクシング、「今この人たちは決闘してますよ~」的な。

ホントに、期待はずれでガッカリでした。


役者陣は、妙に豪華ですけど。
ちなみに、「ER」のコバッチュ先生が、ロシアン・マフィア役で登場してて、そこはちょっと嬉しかったですけどね。


ま、マット・デイモンの人気に乗っかっただけの作品でした、みたいなことですかねぇ。


ここまで散々酷評しておきながら、アフィリエイトっつーのもなんですが、まぁ、参考までに。





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2007年12月8日土曜日

二次創作とやらを

ユリイカ誌の「ジョジョの奇妙な冒険」を、マジで熟読してまして。もちろん、作品の再読も。
まぁ、熱いな、と。

乙一さんの“小説版”も買ったしね。
まだ読んでないけど(来週、連休があるので、そこで一気に読むつもりでっす)。


で。
ちょっと前に、東浩紀さんの「ゲーム的リアリズムの誕生」を読んでヤラれたのも若干関係してるんですが、俺なりに、ちょっとやってみようかな、と。
二次創作とやらを。

当然、俺はマンガなんかは書けませんし、映画つったって、自分で撮れるワケはないので、難しい所ですけど。
シナリオという形ですね。
ま、書いた後にどうなるかは全然アレですが、まぁ、取りあえずやってみようじゃないか、と。時間はかかるでしょうけど。

まぁ、その、俺のなかに、“萌え”だとか“ロリコン”だとか、当然“やおい”なんつーのも無いので、いわゆる“そっち系”には、一切ならないと思いますけどね。
まぁ、それはそれで。そういうのもアリでしょう。無理してそんなことしても、楽しくないし、ね。



主人公は当然、静・ジョースター。舞台も当然、杜王町。
時代は、4部の12年後。
仗助は、祖父にならって警官になり、今は刑事。
億泰は、パティシエ、というのはどうでしょう。トニオさんの下で修行中、で。
康一君は、東京で、ライターかなんかの仕事をしている、とか、そんな感じかな。大学院生でもいいかも。
主人公の静・ジョースターは、十二歳なので、中一ぐらいでしょうか。

ま、でも、この辺は、乙一さんのを読んでから、またちょっと変わるかもね。


若干、恥ずかしいですけどね。こんな、自分の考えた、キャラクターの“その後”を発表するのって。
きっと、巷のオタクたちも、こうやって妄想を愛しみながら、二次創作の作品を作っているのでしょう。

いつ完成するかは一切分かりませんが、ま、おいおい、ということで。

2007年12月7日金曜日

寒いからもうヤダ!

この間の続きで、真夜中に軽く追撮。

クソ寒いです。



春になって暖かくなるまで、しばらく、撮影はお休み。


寒いのは嫌いです。

なんていうか、脳も活動が低下する感じがする。俺の脳は。
着火しないもんなぁ。脳細胞に。
夜もすぐ眠くなるし。


まぁ、誰かが撮影する場合のお手伝いなら、やりますけど。自分では、しばらくお休み。よっぽどのことがない限りは。


去年の冬は良かった・・・。
あったかかったもんなぁ・・・。

2007年12月5日水曜日

マーブルトロンだってさ

2月くらいに、自分の作品の上映会をやろうかなと思ってまして。

ちょっとネットで調べたりして、高円寺に、上映会用に場所を貸しているところがあるということで、今日、見学に行ってきました。
マーブルトロンというカフェ(カプチーノが普通に美味しかった)の、二階。まぁ、ただの倉庫って感じでしたけどね。
一応、設備は整ってたので。
地下鉄の駅からもすぐだし(個人的には、ここが一番大事だったりするんです)、まぁ、ここに決めよっかな、と。

ちょっと高いんですけどねぇ。お値段が。

椅子も少なめ。30席くらいだそうです。


ま、でも、早めに決めとかないとマズイんで。ハコに関しては。
ちょっと悩んだけど、予約しちゃおっかな~。

2007年12月3日月曜日

撮影しました

昨日は、自分の短編作品の撮影でした。

ご協力いただいたみなみな様、ありがとうございました。

クソ寒い中、ホントに、お付き合いいただきまして、感謝しておりまする。

段取りが悪いやらなんやらで、諸々反省点はありましたが(全部俺の責任です)、まぁ、やることはやったかな、と。寝つきの悪いことはなく、グッスリ寝れました。

一生懸命編集します。出来上がりは、ネットで観れるようになりますので、その時までお楽しみに、ということで。




昨日お願いした方々については、また、近いうちに、別の作品になるかと思いますが、必ずやご助力を仰ぐことになると思います。その時には、懲りずに、またヨロシクお願いします。


さて、編集頑張らねば。

2007年12月1日土曜日

分かるような分からんような・・・

トップランナーの再放送で、脚本家の渡辺あやさんの回のを観る。


そこで起きていることをあたかも“覗き見”しているかのように書く。


自分の創造したキャラクターたちが、あたかもそこに実在して、勝手に話したり動き出したりしているのを、自分は覗き見して、それを記録だけみたいな感じで脚本を書く、ということなんですけど。


う~ん。分かるような、分からんような。頷けるような、傾げるような。


ただ、ストーリーよりも、まずはキャラクターだって言ってましたね。
キャラクターが固まらないとストーリーも書けない、とのことで、「最初にプロット」というのがダメなんだそうです。まずはキャラクターを決めてから書き出す、と。
キャラクターが決まってると、あとは勝手に動き出してストーリーになっていく、みたいな言い方をしてました。
着地点はなんとなく分かってるんだけど、ストーリーは、実際に書いてみないとどうなるか分からない、と言ってまして。


と、言いつつも、自分の書いた作品について、割りとロジカルな分析もしてましたね。
その辺の、バランスというか、創作の段取りみたいのは、不思議。
まず、キャラクターを決めて、その後に勢いで書いて、あとで色々アレンジしていく、という段取りなんでしょうか。


もう一つ、自分の過去に書いたオリジナルの作品を「あきらめきれない」と。
「いつか、それを自分で監督して作りたい」と言ってました。


ま、そんな感じでしたね。
とにかくキャラクターなんだ、と。