2008年6月27日金曜日

「アナライズ・ミー」を観る

午後のロードショーで、デ・ニーロとビリー・クリスタルの「アナライズ・ミー」を観る。


ま、主演の2人のキャスティングだけで成功の、良作コメディーですよね。面白いっス。

まずは、脚本の面白さ。特に、セリフの良さと、あとは、例えば「ゴッド・ファーザーみたいだな」っていうセリフもあるぐらいなんですが、2人のキャラクターを背景にした“くすぐり”ですかねぇ。
ま、小ネタってことなんですが。
なんせ、一時期の、NYの硬軟をそれぞれ代表する2人ですから。その辺は、シナリオ・ライターも腕の見せ所だろうし、逆に、それがやりたいがゆえにこの作品を作ったんじゃないの、ぐらいのハマリ方。いちいちニヤリとしちゃうポイントが満載です。

セリフの良さは、ま、2人の掛け合いの面白さってことでもあるんだけど、すごい面白いです。すぐキレるデ・ニーロとか、逆らえないビリー・クリスタルとか、いちいち最高。


偉大な父親に対して、劣等感と憧れと愛情と敬意と憎しみと、という複雑な気持ちを抱えながら、でも同じ道を選んで生きてきた“ジュニア”同士の2人。
すぐ「名医」って言ったり、すぐ泣いたりするデ・ニーロ。
フィアンセにやたらキスしたり、マフィアのやることなすことに眼を丸くするビリー・クリスタル。


中盤、ちょっとダレるんですけどね。だけど、まぁ、ストーリーの構成じゃなくって、セリフの楽しさとか2人のやり取りの面白さを楽しむ作品だと思ってみればいいんじゃないんでしょうか。

ちょっとだけヤラしい下ネタが所々に出てくるのも、好感です。

個人的には、チャズ・パルミンテリ が良かったですね。彼は最高です。相変わらず。



というワケで、意外にカネが掛かってるハズの、良作でした。
お薦め。


2008年6月22日日曜日

「ザ・ビーチ」を観た

金曜日のシネマ・エキスプレスで、ダニー・ボイル監督、レオナルド・ディカプリオ主演の「ザ・ビーチ」を観たので。感想でっす。



ま、駄作っスか?
正直、面白くもなんともない、と。ズバリ言うと。

アメリカの、ヤッピー予備軍が、ヒッピーみたいなことをして、グチャグチャ色んな“冒険”をして、で、また結局、物質世界に戻っていく、と。
なんか、爽快な顔をして。“思い出作り”的な。


でも、この主人公が全部悪いんですからねぇ。全部コイツのせいですから。
そういう意味では、何にも感情移入出来ないし、ストーリーを咀嚼しようとしても、「は?」と。

もっと、暗部をえぐるような、ドロドロな所にいったん堕ちていけば、その後の“爽快感”みたいのもあったんだろうけど、なんか、全然だし。

だいたい、最後に対立する同士が、どっちも「グダグダの自称“正義”」ですからねぇ。これ、どうしょうもないっス。
片方は、楽園を築いた女性なんですが、これはまるで、アフリカやアジアやアメリカ大陸を侵略していった白人たちと同じ論理。
片方はプリオ様ですが、これは、自己中心的な、自己の正当化だけが目的の行動で、結局“コミュニティ”を崩壊させてしまうという、いかにもな「バカなヒッピー崩れ」という論理。


その、「楽園の崩壊」というテーマなら、この展開は分からないでもないんですが、それなら、完全に内部崩壊という形にしないといけないんじゃないのかな、と。
作品では、現地人の“銃器”による侵入、という形になってますから。

この、現地人の描き方も勘に障る感じなんですよねぇ。完全な極悪人として描かれちゃってるんで。
そうじゃないと思うんですよ。



だいたい、主人公のプリオ様が、「ナイーヴな若者」に見えない。
それこそユアン・マクレガーならいいのにな、なんて思ってたら、ダニー・ボイルとしては、最初はやっぱりユアン・マクレガーでやるつもりだったみたいっスね。
マーケティングな要請でプリオ様になったらしい。結果、失敗ですけど。


ダニー・ボイルは、この後に、この作品と全く逆方向に、というか、“楽園”の逆のシチュエーションを作って、そこからの“脱出劇”という、つまり“希望”を描く「28時間後…」という作品を撮るワケで、なぜかこちらは、成功してるんですよねぇ。
「28日後…」だって、別にハリウッド資本で作られてもおかしくない内容だと思うんですけど。



ちなみに、ダニー・ボイルの「トレインスポッティング」では、登場人物の“メガネのバカ”が、「南の島の楽園に行きたいから」という理由で、旅行会社に就職しようと面接を受けるシークエンスがありますね。
ひょっとしたら、この作品は、そこと繋がってるのかなぁ、なんて。
ま、冗談ですけどね。



映像的にも、新味はなし。ビーチとか、夜中の水中のショットとかは綺麗だったけどね。

逆に、サメは模型の動きがぎこちなさ過ぎて、ウケます。早送りだし。
プリオ様の“動物化”は「ドラゴンヘッド」みたいだし、“水中キス”は、もちろんアレだし。

う~ん。
ま、そんなモンですかね。


2008年6月10日火曜日

「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」を観た

賞レース総なめの傑作「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」を、渋谷のオサレなQAXで観た。

一週間以上前に観たんですが、感想を書くのを忘れてたので。
“忘れてた”というと、なんか、どうでもいいぐらいの凡作、みたいなアレですが、全然そんなことないっス。
傑作です。


とりあえず、冒頭15分くらい、延々と、油田(最初は、金鉱)の中での、“沈黙”が続くんですが、まずはここが圧巻ですよね。暗闇と、外の灼熱の太陽。一瞬「昼間だったのか」と。それくらい、暗闇と太陽光のコントラストが凄いです。コントラストというより、コンフリクション。

その後、成功へと駆け上がっていくシークエンスは、光に覆われ、包まれ、明るい色調で構成された画面が続くんですが、一転、家族の“喪失”やなんやかんやのシークエンスになると、再び黒味が強調されるようになる、と。

まぁ、しかし、なんつーか、そういう“表層的”なアレではなく、作品のテーマ自体について語るべきですよね。

この手のコスチューム・プレイの場合、「現代社会の問題点を描く為に、そのメタファーとして“過去”を使う」ということが多いワケで、この作品も、そういう切り口で捉えるべきなのかもしれません。
例えば、石油だけに、イラクとか、キリスト教の信仰云々でブッシュ大統領、とか。
しかし、そういう、余計な事をこちらに考えさせないぐらいの迫力と凄味と斬れ味を、この作品が放っていることも確かで。
“黒澤明”的な普遍性、というか。

ま、抽象論は、いっか。


信仰v.s.マネー。キリストv.s.石油。
主人公ダニエルと、彼に相対する“若者”。この2人の鏡像関係が、ストーリーの大きな要素の一つですよね。

ストーリーは、基本的には、主人公ダニエルの人生を追う、という形になってて、とりあえず、成功するまでのシークエンスがまず一つ。ここでは、息子(として、育てている)との絆や、石油という“恩恵”がもたらす諸々、というのが描かれます。
中盤では、その、鏡像のような存在の“若者”との対立と、同時に、爆発事故という悲劇が起きます。
その後には、息子との決別や再会、その間に挿入される弟の登場、と、ダニエルの、家族というモノに対する“喪失感”や“憧れ”や“恨み”というモノが描かれ、それを通して、ダニエルの“心の中の空白”が明示される、と。
その“心の中の空白”こそが、“若者”が唱える“信仰”なワケですが、逆に、“若者”が持っているのは“心の中の充足”なだけで、逆に信仰に進む過程で、自ら家族を拒絶したりするワケですね。


あまり強調されませんが、ダニエルが、田舎の小さなコミュニティに、石油の採掘と共に持ち込んだ「みんなで潤おう」という考え方は、なんていうか、企業のトップたるダニエルがコミュニティ全体に“父権”を行使する、という形で実行されるワケです。
石油を掘り、その利益(の、一部)を地元に還元し、教会や学校も建設し、幼い女の子を暴力から庇護し、という形で。
それはつまり、コミュニティに元からあった、小さな家族単位の中での“父権”の否定なんですね。家族の中で父親として、つまり小さな暴君として君臨していた、それぞれの家庭の父親は、その“父権”を、ダニエルの存在に吸収され、取り上げられてしまう。

同時に、ダニエルの鏡像である“若者”も、牧師というか神父というか、宗教的なリーダーとして“開眼”する過程で、自分の実の父親に暴言を吐き、殴りかかります。



つまり、最初に書いた、ダニエル対若者、つまり、マネーv.s.キリスト、という実はシンプルな二項対立の他に、もう一つ、家族という要素が、それぞれと対立してある、と。


ストーリー上も、若者の家族との衝突の後に、ダニエルの家族との関係が連続して繋げられたりしてますね。
ラストでも、ダニエルの息子が父親の元を去った後に、若者がやってくる、という順番になってますし。



もう一つ、ダニエルを受け入れたコミュニティの中では、父権はダニエルに吸収する形で失われるワケですが、一人だけ、ダニエルと取引をしなかった一族、というのが描かれます。
ここには、ダニエルにライフルの銃口を突きつける、という形で、不服従を示す、“祖父”というのが居るワケです。この“祖父”は、ちょっと忘れた頃に登場するので結構印象的なんですが、ま、そういう意味合いも兼ねてる、と。
つまり、ダニエルと取引をしなかったので、家族が維持されている、というメタファー。



そして、ラストの、マイ・ボールやマイ・シューズどころじゃない、ボーリングのマイ・レーンでの、若者との再会。
ここで、2人の関係が、なんていうか、「ただの商売上の敵」だったことが明かされるワケですね。
つまり、若者もただのビジネスマンに過ぎなかったのだ、と。
ダニエルがビジネスマンとして扱うモノが石油(と、その採掘)だとしたら、若者は、単に「商品として神を扱っていたビジネスマン」に過ぎなかったのだ、と。


つまり、この物語は実は、マネーv.s.家族(の、絆)をめぐる物語だったのだ、と。

ダニエルは唯一の息子を、自らその関係を否定した上で、失い、“祖父”の一族もまた、取引を望んでいると若者から語られることで崩壊が示され、つまり、マネーだけが勝者として残ってしまっている、と。
若者と、ダニエルが。

ラストは、その2人が共に崩れ落ちる、というショットで終わります。(若者の方は死んでますね)
それはつまり、マネーの、その勝利の虚しさ、でしょう。ラストのショットの意味は。



どうでしょうか? 違うでしょうか?




しかし、役名もダニエルってことで、徹頭徹尾、ダニエル・デイ=ルイスの為の作品って感じですかねぇ。
他の役の配役も、上手にダニエル・デイ=ルイスと対比されるように配役されてますからね。


いやいや。傑作。というより、超問題作。
でした。



2008年6月9日月曜日

「デビル」を観る

午後のロードショーで、「デビル」を観る。

ハリソンさんとピットさんのビッグ共演ということで、ま、なんつーか、ワリと一時期(今もそうか?)、W主演みたいのが流行ったんですよね。善悪にそれぞれ主役級のスターを配して激突させる、という。「ヒート」とか「ジャッカル」とか。
バイ・プレイヤーとしての敵役ではなく、悪役にもそれなりの“正義”というのがあって、その“正義”同士の衝突を描く、と。まぁ、絶対的な正義というのがなくなって、全てが相対化されるというポストモダンならではのスタイルなのかもしれません。
なんつって。


さて。
NYのアイルランド系の制服警官をハリソンさんが演じるのに対して、ピットさんは、アイルランドのIRAの闘士の役。
ちなみに、“闘士”でも、イギリス政府側からみたら、100パー、テロリストなんですけどね。
IRAの闘士が、同じ民族の繋がりを辿って、資金と武器を調達しにNYへやってくる、と。



このブログは「映画について」語るモノなので、アメリカの“映画”についての限定ですが、アメリカ映画には、民族的な潮流というのが幾つかあるんですね。“民族的”という言葉が最適かどうかはやや不明ですが。

アメリカで生活する“彼ら”の物語を映画として語るときに、背景に、アメリカの社会と同時に、彼らの“本国”の姿も映し出していくことで、なんていうか、重層的というか、物語に厚みを出す、という。


一番分かりやすい例は、イタリア系ですね。ま、超有名なところでは「ゴッドファーザー」や、スコセッシの「グッドフェローズ」や、アル・パチーノの一連のマフィア物。
「ロッキー」もそう。“種馬”ですからね。


同じように、アメリカ社会には、アイルランド系という移民社会があるワケで。
この「デビル」もそうですし、「ヴェロニカ・ゲリン」という社会派ドラマに、あのJ・ブラッカイマーが製作で入ってたり。
ちなみに、警官という職業にアイルランド系は多いらしく、その手の作品で、パブでビールを、みたいな描写がされているのは、たいがいが、キャラクターがアイルランド系であるという表現になっているワケですね。


それから、特に映画界で力を持っているのが、ユダヤ系。J・ブラッカイマーも確か、ユダヤ系でしたけど。
代表は当然、スピルバーグで、例えば「A.I.」のアンドロイドが迫害されるシークエンスは、そのまま、ユダヤ人の迫害のメタファーになってるワケです。「シンドラーのリスト」や「ミュンヘン」という超名作は、監督自身がユダヤ人全体の歴史を背負ったからこそ生まれた作品なのでしょうし。


当然、アフリカ系アメリカ人たちも、自分たちの為の映画を作りますし。「シャフト」や「スーパーフライ」から、「マルコムX」、「フライデイ」、もちろん「バッドボーイズ」などなど。
残念ながら、黒人たちの作品には、“本国”との関係は希薄ですが。(それは、彼らが“母国”を奪われた、という歴史に因るんですけどね)


中国系というのも当然あって、ま、例えば、ブルース・リーから、ジェット・リーやチョウ・ユンファ。監督で言ったらジョン・ウーやツイ・ハーク。台湾も含めれば、アン・リー。
彼らは、映像的にわかりやすいエキゾチズムというのがあって、それが武器でもあるワケで。カンフーも含めて。


これからは、アメリカ国内でヒスパニックの人口(と、発言力)が増えるのに合わせて、中南米と繋がった作品が作られるんでしょう。
これまでは、どうしても、麻薬の供給地帯だとか、不法移民や犯罪者の母国、みたいな風に描かれることが多かったですけどね。
「アモーレス・ペロス」がそのきっかけになったのかなぁ、なんて。あと、「トラフィック」なんかは、その“繋がり”そのものが作品のテーマにもなってましたね。



と、長々と書きましたが、そういう、映画が作られる背景についても考えながら、「デビル」のような作品を観たら、面白いですよ、ということなんですよ。
アイルランドの内戦についてはもちろんなんですが、アメリカ国内のアイルランド移民たちと本国との繋がりとか。「ジャガイモ飢饉」とか、ね。


というワケで、作品自体については殆ど書いてませんが、実は、そんな程度の、普通のアレです。
冒頭の、フォードさんの顔をなかなか写さないとか、そのくらいで。

とかいいつつ、結構好きな作品なんですけどね。

えぇ。
もう何度も観てる作品の一つです。


2008年6月6日金曜日

「ノー・カントリー」を観た

有楽町シネカノンのレイトショーで、コーエン兄弟の「ノー・カントリー」を観た。


いやぁ、傑作。期待通りの力作でした。
「期待してた」とか言いながら、ズルズル観に行かないまま、上映終了寸前でしたが。


コーエン兄弟の監督作品をずっと観てるワケじゃないんで、そんなに語れるアレではないんですが、しかし、語らずにはいられない、という作品でもありますよね。マジで。


悪役のハビエルの“無表情っぷり”と“殺しっぷり”が話題になってましたが、ストーリーの構造そのものは、彼1人に焦点が当てられているモノではなく、主人公がいて、そのカウンターがいて(マッシュルームカットのハビエル)、その周りに諸々の人が配置されて、という、ま、「ファーゴ」と同じですね。

俺の解釈では、トミー・リー・ジョーンズは主人公ではないんですが、彼が“語り部”として、ついに真実が分からないまま、最後も独白で占める、ということになってます。
結局、「保安官の身に降りかかった不条理」を彼自身が語る、というストーリーの解釈もアリなのかもしれませんね。

俺としては、やたら“前向き”な、“戦闘意欲満々”なヒゲ面に気持ちがいっちゃってたんで、専らそっちの角度で観てましたが。
つまり、田舎の(というより、荒野の)トレーラーパークで暮らす、ホワイトトラッシュ(もしくはレッドネック)の、カネに対する執念と、命を懸けた闘争を描く、と。


あまりにあっけない“主人公”の死と、それを受容しなくてはならない周囲の人間、という結末。結局、トミー・リー・ジョーンズは、なんにもしてないんですよねぇ。直接会ってもいないし。
ある意味、運命論的な。
この、闘う2人と、奥さんや保安官たちとの距離感(徹底した分離)というのは、もう一つの距離感を象徴してるワケで。
「ファーゴ」でもそうでしたが、それは、作り手と受け手の距離感。“突き放し感”というか。
全部説明し切らないワケですよね。ハビエルの素性とか、キャラクターの説明とか、背後の組織とかも。ゴルゴ13なら、もうちょっと“説明”が入りますから。
取引についてもそうだし、結末自体についても。
“腑に”落とさない、と。敢えて。




それから、とにかく上手いと思うのは、カットの繋ぎ方。
だいたい、こんな時代に、発信機だけであんな緊張感をチャージ出来るなんて、相当なテクですよ。ピコピコ鳴ってるだけですから。

あの独特の、とにかくまっすぐ正面から抜くショット。
人物の顔を抜いたあと、切り替えしてその人物が見ている光景を主観で映して、もう一度スクェアなバストショット、と、まぁ、書けば簡単なんですが。
この“主観ショット”が、とにかくキモって感じですかね。

それから、車で走ってる時の、車の前の道路を映すショット。
ま、車乗る度にこのショットが毎回入るんですが、それが超クール。
例えば、前に観た「アメリカン・ギャングスター」では、後部座席から、ドライバーと助手席と、フロントガラスを全部と、その向こうに景色を切り取って、という形で「走る車」の画を撮ってるんですが(ま、普通のやり方)、こちらは、ひたすら「バンパーから見たアスファルト」みたいな画。

あとは、鍵穴。毎回、それが吹っ飛ぶって分かってても、間の取り方だけで、カッコよくなる、と。
ヤバいっス。あれは。


1カット1カットの繋ぎとか、撮り方とか、もちろんキャラクターの存在感とか、そういうディテール(と、されている諸々)で、ストーリーをドライヴさせていく、と。
「ファーゴ」では、その辺はそんなに鋭くは感じなかったんだけど(まぁ、物語自体が緩いテイストのモノだったっていうのもあるけど)、今作は、その駆動力をビシビシ感じてしまいました。
あの、安ホテルのシークエンスは、ホントにカッコいいですよね。
その後の、国境を越えるシークエンスもイイ。


もう一つ大事なポイントがあって、それは、音。
音楽使ってないんですよ。メキシコ人の楽団が小銭せびりに歌ってるぐらいで。

この、音の使い方。どういう音を入れるか、どの音を強調するか、どのタイミングで入れるか、などなど。チャンスがあったら、もう一度観てみます。かなり勉強になるハズ。



最後に、ハビエル。
正直、そんなにインパクトは強くなかったかな。でも、やっぱりディテールがいちいち良かったのは確かで。
最初の、ドライバーを撃ち抜くショットはカッコ良かったし、あとは、撃つ前に必ずボンベを開けてるトコ。“充填”してんのね。“弾丸”を。

ちなみに、前にも書いたかもしれないけど、こういう「情けもクソもない極悪非道の敵役」っていうのは、一度、演じてみたりしたいっスね。
自分の作品でこういうキャラクターを描くかっていうと、それはまた別って感じだけど。




というワケで、とにかく傑作と呼べる作品でした。
(ちなみに、この作品の2日前に観た“あの作品”もかなり良かったです)


個人的には、実は、“音の使い方”が一番印象的だったかなぁ。