2008年5月31日土曜日

おぉ、ドラマチック!

新聞に、谷村新司さんの「昴」についての“物語”が。


チンペイさんが31歳の時に、ウィスキーのCMの為に作ったのが「昴」なんだそうです。
小さい頃から目をつむると、はっきりと見える風景がある。荒涼たる大草原のかなたに山並み。見上げれば満天の星。それを歌にした。

実際に見たことはないんだけど、記憶の中には“はっきりと”ある、瞼の裏側に見える風景を元に作った、と。それが、あの名曲なんだ、と。


で、チンペイさんは、中国での活動が有名ですよね。まぁ、詳しくは省略しますが、その、中国で出来た友人たちから、こう言われているんだそうです。
「中国の老朋友たちの意見では、絶対にロシア国境の黒竜江省あたりだと。いずれ自分で歩いて確かめようと思っているんですけどね」

“その風景”は、きっと「国境近くのあの辺の風景」じゃないか、という。


記憶の中の風景が、大陸のどこかにあるかもしれない、なんて、凄くないっスか?



デジャヴって、まぁ、前世だとか、夢だとか、遺伝子に記憶されているだとか、色々あると思うんですが、チンペイさんが、その風景の前に実際に立ったときには、強烈なデジャヴに襲われるんじゃないかなぁ、と思うんですよ。



う~ん。
凄い。
ドラマチック。



俺はデジャヴって、そんなに感じないんだよなぁ。子供の頃には、なんか、よくそういうのを感じてた気もするけど。
個人的には、やっぱり、「遺伝子の中に記憶がある」みたいなアレが面白いんじゃないかと思うんですが。
いかがでしょうか?

2008年5月7日水曜日

「秘密と嘘」を観る

名手マイク・リーのカンヌ受賞作「秘密と嘘」を観る。


正直、この作品のような“弱い人”を描くストーリーって、苦手でして。
イライラしちゃったりするんですよね。ダメッぷりを見せられつづけると。

しかしまぁ、当然なんですが、そここそが、この作品の肝なワケですから。



とにかく、ラスト30分で一気に受け手の感情を持っていく、という作品。
「俺が一番愛してる3人がお互い憎み合うなんてどうかしてる」という弟の叫び。
“秘密”も“嘘”も、全部打ち明けろ、と。


ポイントは、“知的”であることと“勇気がある”ということが一致している、という所。
前半部分でも、この“知的である”と“あんまり知的でない”ことの対比が、ワリとしつこく描かれてまして。
その、「自分で自分を縛りつけている」という状況を描いているんですね。
で、最後にそれを「振りほどけ」と言ってるワケです。



愚かゆえに嘘をつき、嘘が目を曇らせ、また嘘をかさねないといけなくなり、その繰り返しで、自分自身をドンドン縛っていってしまう、と。
結果、失うのは、“愛情”であり“信頼”であり。つまりポジティヴな諸々が、嘘と秘密のせいで、段々遠ざかっていく、と。


ま、今さらここに書くようなことでもないことですけどね。ある種の“真理”ですからね。
誰もが、経験的に分かってることで。
でも、だからこそ、こんなに地味で(低予算で)静かな映画でも、深い共感があるのだ、と。


それをいかに丁寧に描くか。と、そういう作品です。


マイク・リーは、とにかくリアリズムの人だ、なんて言われますが、それがどこにあるかというと、それは、セリフがないショットなんですね。
言葉で書くと、「間」。
喋らないシーンの、役者さんの表情と、仕草。
とにかく、この“間”で、表現に説得力を出していく、という。

セリフの少なさとは対照的に、画の作りは、テレビ的というか。
ワリと寄りの画が多くて、いかにも映画的な、引きの画とか、そこに色んな情緒や後景を入れる、みたいなことは殆どないという感じ。
なんか、潔さすら感じるぐらいですね。
ま、シンプルだからって、真似しても、なかなか出来ないんでしょうけど。そういう、雰囲気のある画です。



というワケで、乾いたタッチで、人間の優しさと愚かさと救いを描く、名作でした。


2008年5月4日日曜日

「花よりもなほ」を観る

ダイヤモンド・シアターで、若き巨匠是枝裕和監督の時代劇、「花よりもなほ」を観る。


ま、“ミスター・リアル”是枝監督の、初の時代劇として話題になった作品ですよね。あとは、ジャニーズの岡田君と組んだってことでも。
が、それゆえに、俺は(勝手に)スルーしてたワケなんですが。


誤解でした。
監督には、謝りたい!


冒頭、最初の20分くらいは、なんていうか、キャラクターがもの凄い“時代”から浮いてるみたいな違和感がずっとあって、「むむむ…」って思いながら観てたんですけどね。
岡田君は岡田君のままだし、古田新太はいかにも古田新太だし、芸人さんはいかにも芸人さんだし、宮沢りえはいかにも宮沢りえだし。
「時代劇でしょ?」みたいな。



でも、途中で気付いたんですよ。
メタファーなのだ、と。



「赤穂浪士」が、イラク戦争のメタファーなんですよ。
イラク戦争というか、ブッシュ政権の、そのイズムのことですよね。
ネオリベラリズムと言われるアレのことではなく、「十字軍」的な、キリスト教原理主義的な、「我々は正義の遂行者である(しかも、世界で唯一の)」という、派兵の精神的な根拠となったと言われている、アレのことです。

赤穂浪士の討ち入りだけでなくって、「仇討ち・敵討ち」「武士道」などなど、全編に渡って、そのメタファーが散りばめられているワケです。
「9.11」の“報復”として、アフガンとイラクへの出兵が行われたワケで、その諸々の全てが、時代劇という“ある種の虚構”に落とし込まれている、という。
綱吉公による「お犬様」の御輿なんて、完全にブッシュ大統領のことでしょ。

しかも、劇中で、入れ子構造のように、「仇討ち」が虚構として演じられるという、手の込んだ仕掛けもありつつ。



そう。
具体的なイラク戦争というもののメタファーではなく、もっと大きな「物語」全体のメタファーなんですね。「仇討ち」を支える思想が、現代の、ある一つの「物語」の。
そして「そんなものは虚構なんだ」と言ってるワケですよ。戯言なんだ、と。“観客”に対してしか語っていない三文芝居みたいなモンなんだよ、と。


「桜が散るのは、来年も咲くからだ」とか、ね。
そんなモンのために、一つしかない命を失ってどうすんだ、と。桜に喩えるのは間違ってんだよ、と。
こんなにラジカルなセリフは、なかなか無いっス。



いや、そういう意味では、ホントにこれは、相当の力技ですよ。



吹き溜まりみたいな、ボロ長屋と、そこで暮らす人々っていうのは、まるで、ニートとかプレカリアートとかの直喩みたいだし。
そして、階層的には最下層の人たちが、そのまま、ブッシュ的な、戦争という「大きな物語」の当事者だったり、もしくは、直接的に巻き込まれてしまう、という現実も描かれていて。



そしてなにより、中盤から突如登場して、いきなり凄まじい存在感を放つ、夏川結衣のセリフ。
「ここから出るときは、今より不幸せになるときだよ」
いつかボロ長屋から脱出したいと願う少女に投げる言葉なんですけど。


それから、「仇討ちだけが生きる道じゃない」という、叔父上の言葉。


ま、この辺が、恐らく、監督のメッセージなんじゃないか、と。
それに賛同するかどうかは別に、「語り切る」という意味では、いや、凄いですよ。


そして、夏川結衣が「その中で生きろ」と言ったコミュニティが、救われた後、しかし最後に、マネタリズムに回収されてしまうというニヒリズム。



生きる道を、自分の手で掴んだ岡田君の、最後の笑顔。
「それでも救いはあるんだ」という。



ま、そんな感じで、ジャニーズを主役に招聘し、松竹と組みながら、そしてエンターテイメントとしての人情劇を装いながら、極めてポリティカルな、まさに是枝監督らしい傑作でした。



2008年5月3日土曜日

「緑の光線」を観る

というワケで、エリック・ロメールの「緑の光線」を観る。


孤独で、自意識過剰で、観念的で、理屈っぽくって、マイナス思考で、なにもかもが満たされていないという肥大した自己認識を抱えてあちこち彷徨う、1人の女性の物語、という感じですかね。


ま、いかにもヌーヴェルヴァーグらしい、スノッビーで快楽主義的なキャラクターたちを、優しい眼差しとクールなタッチで描く、という感じで。


思うに、ヌーヴェルヴァーグの思想と手法と、まぁ、精神、ということなんですけど、そこにはホントに最大限のリスペクトを抱きつつ、しかし、もはや絶望のレベルが違うんだということですよね。
ゴダール原理主義者とか、いまだに結構居ますけど。


別に、それはそれでいいんですけど。



今さら言うことでも全然ないことなんだけど、とにかく、ヌーヴェルヴァーグは、もう新しくないワケですよ。

しかし、新しい“前衛”が、イマイチ、力を持って出現してないことも、現実としては確かにあったりして。

いや、前衛ってだけなら幾らでもあるんでしょうけど、ゴダールがそうだったように(危ういバランスではあるんでしょうけど)普遍性と前衛性とが並存しているような“イズム”が、ポスト・ヌーヴェルヴァーグ、ポスト・ニューシネマに、あるのかなぁ、と。
あるとしたら、それがタランティーノのアレじゃぁ、ちょっと困るし、みたいな。



いや、むしろ「無いこと」が、そうなのかもしれない・・・。
なんて、ポストモダンの袋小路でグルグル堂々巡りを始めてしまう前に、自分のシナリオを書きまーす。


2008年5月2日金曜日

社会学者が語る

最近読んだ、いわゆる社会学が内容の新書の中で、理論展開の為の分節点の一つとして、ある映画作品の分析がされてまして。

ホントに、一つのツールとして著者による分析が短く書かれているだけなんですが、面白かったので。


本の著者は、大澤真幸さんという方。分析の対象となった作品は、カンヌのパルムドールを獲った「ある子供」(原題:「L'Enfant」)。恥ずかしながら、未見です。

つまりこの映画は、ストーリーらしいストーリをもたず、可能な限りドキュメンタリーに接近してるように思える。が、同時に映画は、フィクションとして完結しようとする意思をも宿らせている。そのためには、下層の男に対する救済や希望を表現しなくてはならない。それが、ラストのシーンである。男は赦されたのである。が、しかし、観客は釈然としないものを感じてしまう。ソニアは、いつ、どうやってブリュノを赦したのか? またブリュノは、どの段階で、どうやって成長し、「赦される」に値するほどの者へと転回したのか? こうしたことが説得的に描けておらず、救済にはリアリティがない。ドキュメンタリー的であろうとする意思とフィクションとしての医師が調和してないのだ。

「ある子供」は、はっきりと救済の場面を描いているのに、それにはリアリティが欠け、主人公が救済されたようには感じられない。

「ある子供」が描く現在――ヨーロッパをはじめとする「先進国」の現在――に対しては、そこから眺めたときに、来るべき救済が立ち現れて見えてくるような視座が欠けている。どのような角度から眺めても、そこに救済への手がかりや予兆を見ることができない。だから、その現状を描く映画に、どんな救済の場面を付加しても、嘘っぽいものにならざるをえず、ドキュメンタリー・タッチのリアリズムを裏切ってしまうのだ。たとえば、子どもを盗品と同じレベルで扱うほどにすさんだ精神――これにはリアリティを感じる――が、どうして恋人の深い愛を獲得することができるのか、という疑問が残ってしまうのである。


良い映画がこれまでも常にそうだったように、映画の作り手が、自分が生きている現在の現実を描こうと試みても、その現実に対しては、「どのような角度から眺めても、そこに救済への手がかりや予兆」は見えてこないんじゃないか、と。つまり、救いの方法は存在しない。少なくとも、リアリティがない、と。
それが「現在の現実」の現実なんだ、と。


もう10年くらい前なんだけど、初めてと言っていいくらいの感じで書いた長編のシナリオがあって、その作品の結末が、救いも希望もなんにもない、という内容だったんです。
その内容に、書いた本人もちょっと悩んじゃったりしまして。
当時はホントに、テクニックや物語の構造や展開なんてことは全く考えてなくって、文字通り思うがままに書いてたんですけど。
ま、その、あまりに絶望的な結末も含めて、殆どそのままの形で、今も残してありますけど。




で、この本では、著者は、もっともっと大きく論を展開していくワケですが、ま、それについては、また別の機会に。

他にも、多重人格の話とか(これは、そのうちここでも紹介したいと思ってます)、それぞれある年代を“代表する”2つの猟奇的殺人事件の比較分析とか、興味深い内容の本でした。


2008年5月1日木曜日

「夜の大捜査線」を観る

いわずと知れた超名作、シドニー・ポワチエの「夜の大捜査線」を観る。

ま、超傑作ですからね。感想っつっても、殆ど何も語れませんけど。今さら。


その、前に観た「フィクサー」もその系譜に連なる、いわゆる“社会派”エンターテイメント。

サスペンスの形を借りて、例えば「人の実存」を語ろう、というのが、ポール・オースターの「幽霊たち」などなどのニューヨーク3部作だったりするワケですが、この作品は、サスペンスの形を借りて、人種差別という、もの凄く巨大な、そして忌むべき社会問題を描く、という。

この作品の特徴の一つが、ある意味で伝統的な、例えば「奇妙な果実」的な、捜査する事件の犠牲者が差別の対象となっている、という造りじゃない、という所ですね。
逆に、捜査する側に、差別される側の人間がいる、と。そういう構図で差別の現実を描いていくことで、この作品のメッセージ性が際立ってくる、という。


ストーリーの主眼は、とにかく、主人公の「ミスター・ティッブス」が差別主義者たちから“いかに差別されるか”のディテールに置かれてるのも、この作品を傑作にした理由の一つ。
まぁ、有名なのは、とにかく握手を拒む、というトコですが、当然それだけでなく、例えば主人公の呼び名。
ひたすら「ボーイ」と呼ばれるワケです。
当時、黒人は、そういうやり方で蔑まれていたワケです。“ガキ扱い”だったんですね。というか、家畜扱いだったんですけど。「鞭で叩くぞ」とか「撃ち殺してしまえ」とか。

ちなみに現代、黒人男性で、親しい間柄の男性を呼ぶときに「メン」という言葉を使う人がいますね。「Hey man!」(ヘイ・メーン!)と。ま、黒人たちの使う口語の一つ、ということなんですが。
これは、白人から「ボーイ」(ガキ)と呼ばれることへの反抗から始まった言葉の使い方なんですよ。実は。同胞同士では、お互いに“1人の人間同士である”ことを確かめ合おう、という意味で。

ま、そういうマメ知識はさておき。



主人公はフィラデルフィアの刑事なワケですが、実際にフィラデルフィアを映すショットというのを一切使わない、というのも、当時では斬新だったと思うんです。
主人公が実際に都会に立っている画を使わないで、そういう、“都会の人間なんだ”ということを完璧に表現出来ている、と。
これはホントに、演技と演出の勝利だと思うんですけど。
登場人物の中で、一番身奇麗なのが主人公だったり、ま、一言でいうと洗練されている、ということなんですが、それを表現するのが凄い上手い。着ているスーツだったり、着こなしだったり、後は仕草とか、ちょっとした表情とか。そういうのをいちいち、粗野な町の人たちと対比させたり。
ま、これもディテールということなんですけど。




それにしても、いつの時代も、差別主義者というのは、愚鈍で権威主義者で、哀れな存在だよなぁ、と。
今の日本でも、というか、俺の周囲にも、こういう人間って居ますからねぇ。
それは、裏返すと、こういう物語が、現代の日本でも成立可能なんだよな、ということでもあるんだけど。
ま、それもさておき。


クィンシー・ジョーンズのサントラも含めて、傑作でした。