2008年5月31日土曜日

おぉ、ドラマチック!

新聞に、谷村新司さんの「昴」についての“物語”が。


チンペイさんが31歳の時に、ウィスキーのCMの為に作ったのが「昴」なんだそうです。
小さい頃から目をつむると、はっきりと見える風景がある。荒涼たる大草原のかなたに山並み。見上げれば満天の星。それを歌にした。

実際に見たことはないんだけど、記憶の中には“はっきりと”ある、瞼の裏側に見える風景を元に作った、と。それが、あの名曲なんだ、と。


で、チンペイさんは、中国での活動が有名ですよね。まぁ、詳しくは省略しますが、その、中国で出来た友人たちから、こう言われているんだそうです。
「中国の老朋友たちの意見では、絶対にロシア国境の黒竜江省あたりだと。いずれ自分で歩いて確かめようと思っているんですけどね」

“その風景”は、きっと「国境近くのあの辺の風景」じゃないか、という。


記憶の中の風景が、大陸のどこかにあるかもしれない、なんて、凄くないっスか?



デジャヴって、まぁ、前世だとか、夢だとか、遺伝子に記憶されているだとか、色々あると思うんですが、チンペイさんが、その風景の前に実際に立ったときには、強烈なデジャヴに襲われるんじゃないかなぁ、と思うんですよ。



う~ん。
凄い。
ドラマチック。



俺はデジャヴって、そんなに感じないんだよなぁ。子供の頃には、なんか、よくそういうのを感じてた気もするけど。
個人的には、やっぱり、「遺伝子の中に記憶がある」みたいなアレが面白いんじゃないかと思うんですが。
いかがでしょうか?

2008年5月29日木曜日

40周年なんですって

カンヌ映画祭の「監督週間」というのが、40周年なんだそうです。

ま、その名の通り、「映画は監督のモノ」というか、いわゆる作家性に重きをおいた部門ですよね。
そもそも、この監督週間というのが設けられるきっかけになったが、68年の、映画祭の“中止”なんだそうです。これは、この年の、フランスで起きた「五月革命」の影響なんだそうで。

現在の監督週間の責任者だという、オリビエ・ペール氏曰く。
映画祭も映画の方法論も68年を境に変わった。怒りや希望、反抗やユートピアを映像で語り始めたんだ。





というワケで。
ジム・ジャームッシュ。
パンクロックのように、想像を超える映画体験が求めらている。


ベルナー・ヘルツォーク。
誰も知らない、誰も話題にしない映画を、自分だけが知っているという映画ファンの喜びを取り戻したい。




だそうです。

2008年5月27日火曜日

撮影完了

昨日の夜、というより、日付を跨いで、今日の0時から朝まで、撮影をしてまして。無事終了しました。


ま、今回も短編なんで、撮影自体は一日で終わる程度のボリュームなんですが。




撮影中は快調だったんですが、終わってからは、結構ヘロヘロ。
疲れて、身体の節々が痛いっス。



今日は早く寝よう・・・。

2008年5月25日日曜日

そういえば

そういえば、今週の「CBSドキュメント」に、デニス・クエイドが出てまして。


彼は、結婚して、子供が欲しかったんですが、奥さんとの間にはなかなか出来ず、代理出産という方法で、双子の赤ちゃんを授かったんだそうです。


で、その赤ちゃんが2人と体調を崩して、病院に入院させたら、そこで医療過誤が起きてしまい、生死をさまようことになってしまった、と。
幸いにして、赤ちゃんは2人とも快復し、無事に成長してるらしいんですが。


デニス・クエイドといえば、スターですからね。


医療過誤を無くすための活動をする財団を立ち上げる、ということですけど、病院モノっていうのは、「ER」に限らず、人間を描き出すドラマの定番でもあるワケで。


この、彼の個人的な体験が、いつか、“社会派”な作品として昇華されるんじゃないか、と。


ま、分かんないスけど。

2008年5月24日土曜日

人間兵器!

熊本で、とんでもないニュースがありましたね。


農薬を飲んで自殺を図った男が、病院に担ぎ込まれて治療されている最中に、胃の内容物を嘔吐し、その嘔吐物から毒ガスが発生して、病院内でガス被害が発生した、という。


いや、これ、すごいですよ。


人間兵器ですから。
体内に“毒ガス”を隠しておけるんですからね。
所持品確認とか、金属探知機とか、そういうアレをくぐり抜け得るワケです。


例えば、サリンにしても、解毒剤というのがあるらしいんですよ。
地下鉄サリン事件では、オウムの実行犯たちは、注射かなんかで、あらかじめ解毒剤を摂取していたらしいです。



麻薬の密輸で、コンドームに詰めたコカインを飲み込んだり、肛門に入れたりして、体内に隠して税関を抜ける、という手法がありますよね。確か、「天使の涙」で描かれていたような記憶が。




胃の中に“毒ガス”を隠して運ぶ、と。
毒ガスっていうのは、立派な兵器ですからね。生物・化学兵器っていうんですけど。




例えば、固形物をあらかじめ飲み込んでおいて、目的の現場で、嘔吐して、それに水とか、液体を振りかけて反応させて毒ガスを発生させる、とか。
SFチックなアレだと、自爆テロ犯を仕立てて、水を飲むと、胃の中で反応して、さらに、その自爆テロ犯の肉体を溶かしながら毒ガスを発生させる、みたいな。本人が溶けちゃうから、証拠とかも残らないし。
体内から溶けながらガスを噴き出すって、画としては、壮絶な感じになっちゃいますけどね。



いやぁ。ヤバイっス。マジで。

2008年5月22日木曜日

このコントラストはツボ

レッズの(念のために説明しておくと、Jリーグの浦和レッズです)梅崎が出てる、TBC(念のための説明しておくと、エステの会社です)のCMが、いいですね。


まぁ、梅崎の面構えがいいっていうのもあるんですが。


あの画の、コントラストが強調された感じが、ツボです。大好き。
ナレーションの、だんだん間が詰まって声が重なっていく感じもナイス。ディレクションのセンスの高さを感じちゃいますね。


なにぶん“エステ”ですから、そこにはクエスチョンですけどね。ま、それはさておき。



2008年5月21日水曜日

天気どうかな・・・

日曜日の深夜から月曜日の早朝まで、撮影する予定なんですけど・・・。


日の出を撮りたいんで、絶対晴れてないとダメなんです。


週間予報をチェックしてるんですが、なんと、日曜日の夜から雨、と。


おいおいおい・・・。


ちなみに、月曜日の週間予報では、日曜日は曇。火曜日の週間予報では、日曜日は曇のち晴れ。
今日の週間予報では、曇のち雨。


どうすっかなぁ・・・。


延期するなら早めに決めないといけないし・・・。

2008年5月20日火曜日

堤幸彦監督の決意を知る

昨日の、NHKのプロフェッショナルの再放送で、堤監督が特集されていたので。
ま、スシ王子はともかく、番組中でも何度も「日本で一番忙しい」なんて言われてましたけど、とにかく撮りまくっている堤監督。


記憶頼りなんで、正確な引用ではありませんけど。

表情の核というのがある。それにジャストフィットする映像を撮れるか。それがないと、だたの客観的な画になってしまう。

“ジャストフィット”という言葉が出てくるところが、恐らく、独特な部分なのかなぁ、と。この、ジャストフィットするために、手練手管を感じる、あのカットワークやアングルがあるのかもしれません。
つまり、そこには必然性があるのだ、と。ただ奇をてらってああなるワケではなく。


“表情の核”かぁ。
それは、演じる人の側にある、ということですからねぇ。結構、仕草の一つ一つというか、細かい演出を付けてる姿が映ってましたけど、そこに浮かんでくる、人物の表情の核。
そこにジャストフィットする映像。

自分のイメージがあって、それを、俳優の演技とカメラワークでもって構築していく、という手法とは、少し違うニュアンスですよね。
まぁ、もちろん、そういう、ハメ込んでいく作業はあるんでしょうけど、その後のことなのかなぁ。

OKとNGの判断基準が、ジャストフィットしてるかどうかなのだ、ということなんでしょうかね。


「映画はどんな撮り方でも出来るから」みたいなことも言ってましたね。だからこそ、難しい、と。



それから、撮影現場の隅の方に、テントとかで簡易スタジオみたいのを設営して、そこから、モニター越しに演技を見る、というやり方が紹介されてました。マイクで指示出ししてたし。

生の演技にNGを出せない。感動してしまって。演技だけを見てしまって。怒られようが、徹底的に客観的でありたい。

ということでした。少し離れた所から、モニターを通して演技を見ることで、客観性を手に入れる、と。まぁ、俳優側としたらやっぱり違和感はあるんでしょうけど、そこは勘弁してもらう、と。

それから、演出意図を伝える為に、例えば前日に撮ったカットをPCで編集して、俳優陣に見せる、ということもしてるらしいです。繋がったシーンを見れば、確かに、何がしたいのかっていうのは、良く分かりますからね。
うん。その気になれば、そんなにコストもかかんないワケで、ま、とても合理的なアレだよな、と。



そんなこんなで、同時に「作品を経済的にも成功させたい」みたいなことも言ってて、さすがにその瞬間は凄味を感じましたね。現在52歳だそうで、「賞味期限もあとそんなに残ってない。だからめちゃくちゃ焦ってる」とも。

2008年5月18日日曜日

アレ、ブレ、ボケ

東京都美術館(恵比寿)で個展が開かれているという、森山大道さんについての記事が新聞に載っていたので。



都会、それも「いつもパトカーの音が聞こえるような」猥雑な場所に引かれる。いまも東京・池袋の仕事場から、新宿あたりに出かける。

「高層ビルもゴールデン街も、劇画や、『ブレードランナー』のような人工的な映画の世界に見える。でも、そんなバーチャルというかペンキ絵みたいなものが、僕にとってはリアルなんです」


そうした街を撮るのも、タイヤや花といったモノを撮るのも、基本は白黒。

「エロチックに見えるし、前後の記憶がかかわっている気がする。撮った今とつながる過去も、今の後にくる未来も、両方の時間が見える気がする

例えば数年前に新宿の家電量販店の前で撮った写真は、70年代の風景にも見える。色を捨象した世界が時を超えた街の顔つきや欲望、不安を抽出しているからだろう。つまり、普遍化。それは、ハワイという色彩世界から熱帯の倦んだ空気を抽出した近作でも変わらない。街ゆく人が左右対称になった瞬間を逃がさない嗅覚があってこそ、だが。




時間があったら観に行きたいなぁ。

2008年5月14日水曜日

いつか、こんな言葉が役に立つ日がきますように

新聞に、印象的な言葉が幾つかあったので。
すでに功を立てた、ある程度の立場にある人の為の言葉って感じですけどね。
まぁ、いつか、こんな言葉が役に立つ日がくるといいなぁ、なんて。
一つ目は、ジャズ・トランペッターの日野皓正さん。もう65歳なんだそうです。


ぼくはいつも一人なの。絶対、ぼくから誰かを食事に誘ったりしない。取り巻きを作ったら、おれの人生もうおしまい。手下を作るようになったら、ゴマすってワイワイ言われるだけでしょ。ものをクリエートする条件は、一匹狼でいること。一人でじっと考える時間に、アイデアが天から湧いてくる。博士であれ、だれであれ、一緒だと思うよ。アローン・アローン・アンド・アローンだよ。



もう一つは、市川崑監督の言葉として紹介されている記事。
スポーツ面に、「監督論」として、中日の落合監督についての記事で引用されていました。

「映画監督と野球の監督は似てるんだよ」。くわえたばこで彼は話した。
「現場で人を束ねて動かす仕事だろ。作品や試合がこければ、1人で責任を負わなきゃいけない。共通するひとつのコツがあるんだ」。
そして言葉を続けた。
「人間の感情には喜怒哀楽がある。これを使って監督は人を動かす。だけど、哀だけは必要ない。哀では人は動かないんだよ」


落胆の姿勢をみせないことが、「監督」としての資質のひとつではないか。

ま、深い言葉ですな。


今の俺には、どちらも、“早過ぎる”言葉だとは思いますけどね。
ま、“いつか”の為に。

2008年5月11日日曜日

豊洲でロケ

今日は、知り合いの撮影を手伝いに、豊洲へ行ってきました。
豊洲って言っても、正確にはゆりかもめの車内なので、豊洲と有明の間を何往復も、というアレだったんですけど。


ま、撮影自体はワリとあっさり終わって、俺も、近くに居て荷物の番とか、そんな感じだったんで、特別楽しいってことも、大変ってこともなかったんですが、まぁ、普通に、刺激をもらってきた、と。




クソ忙しかったGWもようやく終わり、明日から、久し振りの連休です。
シナリオ書くぞ~!

2008年5月7日水曜日

「秘密と嘘」を観る

名手マイク・リーのカンヌ受賞作「秘密と嘘」を観る。


正直、この作品のような“弱い人”を描くストーリーって、苦手でして。
イライラしちゃったりするんですよね。ダメッぷりを見せられつづけると。

しかしまぁ、当然なんですが、そここそが、この作品の肝なワケですから。



とにかく、ラスト30分で一気に受け手の感情を持っていく、という作品。
「俺が一番愛してる3人がお互い憎み合うなんてどうかしてる」という弟の叫び。
“秘密”も“嘘”も、全部打ち明けろ、と。


ポイントは、“知的”であることと“勇気がある”ということが一致している、という所。
前半部分でも、この“知的である”と“あんまり知的でない”ことの対比が、ワリとしつこく描かれてまして。
その、「自分で自分を縛りつけている」という状況を描いているんですね。
で、最後にそれを「振りほどけ」と言ってるワケです。



愚かゆえに嘘をつき、嘘が目を曇らせ、また嘘をかさねないといけなくなり、その繰り返しで、自分自身をドンドン縛っていってしまう、と。
結果、失うのは、“愛情”であり“信頼”であり。つまりポジティヴな諸々が、嘘と秘密のせいで、段々遠ざかっていく、と。


ま、今さらここに書くようなことでもないことですけどね。ある種の“真理”ですからね。
誰もが、経験的に分かってることで。
でも、だからこそ、こんなに地味で(低予算で)静かな映画でも、深い共感があるのだ、と。


それをいかに丁寧に描くか。と、そういう作品です。


マイク・リーは、とにかくリアリズムの人だ、なんて言われますが、それがどこにあるかというと、それは、セリフがないショットなんですね。
言葉で書くと、「間」。
喋らないシーンの、役者さんの表情と、仕草。
とにかく、この“間”で、表現に説得力を出していく、という。

セリフの少なさとは対照的に、画の作りは、テレビ的というか。
ワリと寄りの画が多くて、いかにも映画的な、引きの画とか、そこに色んな情緒や後景を入れる、みたいなことは殆どないという感じ。
なんか、潔さすら感じるぐらいですね。
ま、シンプルだからって、真似しても、なかなか出来ないんでしょうけど。そういう、雰囲気のある画です。



というワケで、乾いたタッチで、人間の優しさと愚かさと救いを描く、名作でした。


2008年5月5日月曜日

もうすぐ読了

いま、ガブリエル・ガルシア=マルケスという作家の、「物語の作り方」という本を読んでいます。


マルケスが主宰した“シナリオ教室”での会話を採録する、という形式の本なんですが、タイトル通り、短編のテレビ映画のシナリオを教室のみんなで共同で書こうとしているんですね。



その、読み物としては、そんなに面白いモノじゃないんですが。


なんていうか、ストーリーを炙り出していく過程が、とても面白いんです。
最初の、原型というか、ホントにただのアイデアだったり、断片的なイメージだったりするモノから、ストーリーを作っていくというより、その中に既に内在しているハズの物語を、ホントに炙り出す、という感じで。彫り出す、というか、削り出す、というか。
半ば無理やりの時もあるし、明らかに上手くいってない場合もあるんですけど。それもまた、面白くって。



とか言いつつ、実は俺も、「百年の孤独」すら読んだことがないんですけどね。
いつか挑戦してみたいですな。


2008年5月4日日曜日

「花よりもなほ」を観る

ダイヤモンド・シアターで、若き巨匠是枝裕和監督の時代劇、「花よりもなほ」を観る。


ま、“ミスター・リアル”是枝監督の、初の時代劇として話題になった作品ですよね。あとは、ジャニーズの岡田君と組んだってことでも。
が、それゆえに、俺は(勝手に)スルーしてたワケなんですが。


誤解でした。
監督には、謝りたい!


冒頭、最初の20分くらいは、なんていうか、キャラクターがもの凄い“時代”から浮いてるみたいな違和感がずっとあって、「むむむ…」って思いながら観てたんですけどね。
岡田君は岡田君のままだし、古田新太はいかにも古田新太だし、芸人さんはいかにも芸人さんだし、宮沢りえはいかにも宮沢りえだし。
「時代劇でしょ?」みたいな。



でも、途中で気付いたんですよ。
メタファーなのだ、と。



「赤穂浪士」が、イラク戦争のメタファーなんですよ。
イラク戦争というか、ブッシュ政権の、そのイズムのことですよね。
ネオリベラリズムと言われるアレのことではなく、「十字軍」的な、キリスト教原理主義的な、「我々は正義の遂行者である(しかも、世界で唯一の)」という、派兵の精神的な根拠となったと言われている、アレのことです。

赤穂浪士の討ち入りだけでなくって、「仇討ち・敵討ち」「武士道」などなど、全編に渡って、そのメタファーが散りばめられているワケです。
「9.11」の“報復”として、アフガンとイラクへの出兵が行われたワケで、その諸々の全てが、時代劇という“ある種の虚構”に落とし込まれている、という。
綱吉公による「お犬様」の御輿なんて、完全にブッシュ大統領のことでしょ。

しかも、劇中で、入れ子構造のように、「仇討ち」が虚構として演じられるという、手の込んだ仕掛けもありつつ。



そう。
具体的なイラク戦争というもののメタファーではなく、もっと大きな「物語」全体のメタファーなんですね。「仇討ち」を支える思想が、現代の、ある一つの「物語」の。
そして「そんなものは虚構なんだ」と言ってるワケですよ。戯言なんだ、と。“観客”に対してしか語っていない三文芝居みたいなモンなんだよ、と。


「桜が散るのは、来年も咲くからだ」とか、ね。
そんなモンのために、一つしかない命を失ってどうすんだ、と。桜に喩えるのは間違ってんだよ、と。
こんなにラジカルなセリフは、なかなか無いっス。



いや、そういう意味では、ホントにこれは、相当の力技ですよ。



吹き溜まりみたいな、ボロ長屋と、そこで暮らす人々っていうのは、まるで、ニートとかプレカリアートとかの直喩みたいだし。
そして、階層的には最下層の人たちが、そのまま、ブッシュ的な、戦争という「大きな物語」の当事者だったり、もしくは、直接的に巻き込まれてしまう、という現実も描かれていて。



そしてなにより、中盤から突如登場して、いきなり凄まじい存在感を放つ、夏川結衣のセリフ。
「ここから出るときは、今より不幸せになるときだよ」
いつかボロ長屋から脱出したいと願う少女に投げる言葉なんですけど。


それから、「仇討ちだけが生きる道じゃない」という、叔父上の言葉。


ま、この辺が、恐らく、監督のメッセージなんじゃないか、と。
それに賛同するかどうかは別に、「語り切る」という意味では、いや、凄いですよ。


そして、夏川結衣が「その中で生きろ」と言ったコミュニティが、救われた後、しかし最後に、マネタリズムに回収されてしまうというニヒリズム。



生きる道を、自分の手で掴んだ岡田君の、最後の笑顔。
「それでも救いはあるんだ」という。



ま、そんな感じで、ジャニーズを主役に招聘し、松竹と組みながら、そしてエンターテイメントとしての人情劇を装いながら、極めてポリティカルな、まさに是枝監督らしい傑作でした。



2008年5月3日土曜日

「緑の光線」を観る

というワケで、エリック・ロメールの「緑の光線」を観る。


孤独で、自意識過剰で、観念的で、理屈っぽくって、マイナス思考で、なにもかもが満たされていないという肥大した自己認識を抱えてあちこち彷徨う、1人の女性の物語、という感じですかね。


ま、いかにもヌーヴェルヴァーグらしい、スノッビーで快楽主義的なキャラクターたちを、優しい眼差しとクールなタッチで描く、という感じで。


思うに、ヌーヴェルヴァーグの思想と手法と、まぁ、精神、ということなんですけど、そこにはホントに最大限のリスペクトを抱きつつ、しかし、もはや絶望のレベルが違うんだということですよね。
ゴダール原理主義者とか、いまだに結構居ますけど。


別に、それはそれでいいんですけど。



今さら言うことでも全然ないことなんだけど、とにかく、ヌーヴェルヴァーグは、もう新しくないワケですよ。

しかし、新しい“前衛”が、イマイチ、力を持って出現してないことも、現実としては確かにあったりして。

いや、前衛ってだけなら幾らでもあるんでしょうけど、ゴダールがそうだったように(危ういバランスではあるんでしょうけど)普遍性と前衛性とが並存しているような“イズム”が、ポスト・ヌーヴェルヴァーグ、ポスト・ニューシネマに、あるのかなぁ、と。
あるとしたら、それがタランティーノのアレじゃぁ、ちょっと困るし、みたいな。



いや、むしろ「無いこと」が、そうなのかもしれない・・・。
なんて、ポストモダンの袋小路でグルグル堂々巡りを始めてしまう前に、自分のシナリオを書きまーす。


2008年5月2日金曜日

社会学者が語る

最近読んだ、いわゆる社会学が内容の新書の中で、理論展開の為の分節点の一つとして、ある映画作品の分析がされてまして。

ホントに、一つのツールとして著者による分析が短く書かれているだけなんですが、面白かったので。


本の著者は、大澤真幸さんという方。分析の対象となった作品は、カンヌのパルムドールを獲った「ある子供」(原題:「L'Enfant」)。恥ずかしながら、未見です。

つまりこの映画は、ストーリーらしいストーリをもたず、可能な限りドキュメンタリーに接近してるように思える。が、同時に映画は、フィクションとして完結しようとする意思をも宿らせている。そのためには、下層の男に対する救済や希望を表現しなくてはならない。それが、ラストのシーンである。男は赦されたのである。が、しかし、観客は釈然としないものを感じてしまう。ソニアは、いつ、どうやってブリュノを赦したのか? またブリュノは、どの段階で、どうやって成長し、「赦される」に値するほどの者へと転回したのか? こうしたことが説得的に描けておらず、救済にはリアリティがない。ドキュメンタリー的であろうとする意思とフィクションとしての医師が調和してないのだ。

「ある子供」は、はっきりと救済の場面を描いているのに、それにはリアリティが欠け、主人公が救済されたようには感じられない。

「ある子供」が描く現在――ヨーロッパをはじめとする「先進国」の現在――に対しては、そこから眺めたときに、来るべき救済が立ち現れて見えてくるような視座が欠けている。どのような角度から眺めても、そこに救済への手がかりや予兆を見ることができない。だから、その現状を描く映画に、どんな救済の場面を付加しても、嘘っぽいものにならざるをえず、ドキュメンタリー・タッチのリアリズムを裏切ってしまうのだ。たとえば、子どもを盗品と同じレベルで扱うほどにすさんだ精神――これにはリアリティを感じる――が、どうして恋人の深い愛を獲得することができるのか、という疑問が残ってしまうのである。


良い映画がこれまでも常にそうだったように、映画の作り手が、自分が生きている現在の現実を描こうと試みても、その現実に対しては、「どのような角度から眺めても、そこに救済への手がかりや予兆」は見えてこないんじゃないか、と。つまり、救いの方法は存在しない。少なくとも、リアリティがない、と。
それが「現在の現実」の現実なんだ、と。


もう10年くらい前なんだけど、初めてと言っていいくらいの感じで書いた長編のシナリオがあって、その作品の結末が、救いも希望もなんにもない、という内容だったんです。
その内容に、書いた本人もちょっと悩んじゃったりしまして。
当時はホントに、テクニックや物語の構造や展開なんてことは全く考えてなくって、文字通り思うがままに書いてたんですけど。
ま、その、あまりに絶望的な結末も含めて、殆どそのままの形で、今も残してありますけど。




で、この本では、著者は、もっともっと大きく論を展開していくワケですが、ま、それについては、また別の機会に。

他にも、多重人格の話とか(これは、そのうちここでも紹介したいと思ってます)、それぞれある年代を“代表する”2つの猟奇的殺人事件の比較分析とか、興味深い内容の本でした。


2008年5月1日木曜日

「夜の大捜査線」を観る

いわずと知れた超名作、シドニー・ポワチエの「夜の大捜査線」を観る。

ま、超傑作ですからね。感想っつっても、殆ど何も語れませんけど。今さら。


その、前に観た「フィクサー」もその系譜に連なる、いわゆる“社会派”エンターテイメント。

サスペンスの形を借りて、例えば「人の実存」を語ろう、というのが、ポール・オースターの「幽霊たち」などなどのニューヨーク3部作だったりするワケですが、この作品は、サスペンスの形を借りて、人種差別という、もの凄く巨大な、そして忌むべき社会問題を描く、という。

この作品の特徴の一つが、ある意味で伝統的な、例えば「奇妙な果実」的な、捜査する事件の犠牲者が差別の対象となっている、という造りじゃない、という所ですね。
逆に、捜査する側に、差別される側の人間がいる、と。そういう構図で差別の現実を描いていくことで、この作品のメッセージ性が際立ってくる、という。


ストーリーの主眼は、とにかく、主人公の「ミスター・ティッブス」が差別主義者たちから“いかに差別されるか”のディテールに置かれてるのも、この作品を傑作にした理由の一つ。
まぁ、有名なのは、とにかく握手を拒む、というトコですが、当然それだけでなく、例えば主人公の呼び名。
ひたすら「ボーイ」と呼ばれるワケです。
当時、黒人は、そういうやり方で蔑まれていたワケです。“ガキ扱い”だったんですね。というか、家畜扱いだったんですけど。「鞭で叩くぞ」とか「撃ち殺してしまえ」とか。

ちなみに現代、黒人男性で、親しい間柄の男性を呼ぶときに「メン」という言葉を使う人がいますね。「Hey man!」(ヘイ・メーン!)と。ま、黒人たちの使う口語の一つ、ということなんですが。
これは、白人から「ボーイ」(ガキ)と呼ばれることへの反抗から始まった言葉の使い方なんですよ。実は。同胞同士では、お互いに“1人の人間同士である”ことを確かめ合おう、という意味で。

ま、そういうマメ知識はさておき。



主人公はフィラデルフィアの刑事なワケですが、実際にフィラデルフィアを映すショットというのを一切使わない、というのも、当時では斬新だったと思うんです。
主人公が実際に都会に立っている画を使わないで、そういう、“都会の人間なんだ”ということを完璧に表現出来ている、と。
これはホントに、演技と演出の勝利だと思うんですけど。
登場人物の中で、一番身奇麗なのが主人公だったり、ま、一言でいうと洗練されている、ということなんですが、それを表現するのが凄い上手い。着ているスーツだったり、着こなしだったり、後は仕草とか、ちょっとした表情とか。そういうのをいちいち、粗野な町の人たちと対比させたり。
ま、これもディテールということなんですけど。




それにしても、いつの時代も、差別主義者というのは、愚鈍で権威主義者で、哀れな存在だよなぁ、と。
今の日本でも、というか、俺の周囲にも、こういう人間って居ますからねぇ。
それは、裏返すと、こういう物語が、現代の日本でも成立可能なんだよな、ということでもあるんだけど。
ま、それもさておき。


クィンシー・ジョーンズのサントラも含めて、傑作でした。