2008年5月2日金曜日

社会学者が語る

最近読んだ、いわゆる社会学が内容の新書の中で、理論展開の為の分節点の一つとして、ある映画作品の分析がされてまして。

ホントに、一つのツールとして著者による分析が短く書かれているだけなんですが、面白かったので。


本の著者は、大澤真幸さんという方。分析の対象となった作品は、カンヌのパルムドールを獲った「ある子供」(原題:「L'Enfant」)。恥ずかしながら、未見です。

つまりこの映画は、ストーリーらしいストーリをもたず、可能な限りドキュメンタリーに接近してるように思える。が、同時に映画は、フィクションとして完結しようとする意思をも宿らせている。そのためには、下層の男に対する救済や希望を表現しなくてはならない。それが、ラストのシーンである。男は赦されたのである。が、しかし、観客は釈然としないものを感じてしまう。ソニアは、いつ、どうやってブリュノを赦したのか? またブリュノは、どの段階で、どうやって成長し、「赦される」に値するほどの者へと転回したのか? こうしたことが説得的に描けておらず、救済にはリアリティがない。ドキュメンタリー的であろうとする意思とフィクションとしての医師が調和してないのだ。

「ある子供」は、はっきりと救済の場面を描いているのに、それにはリアリティが欠け、主人公が救済されたようには感じられない。

「ある子供」が描く現在――ヨーロッパをはじめとする「先進国」の現在――に対しては、そこから眺めたときに、来るべき救済が立ち現れて見えてくるような視座が欠けている。どのような角度から眺めても、そこに救済への手がかりや予兆を見ることができない。だから、その現状を描く映画に、どんな救済の場面を付加しても、嘘っぽいものにならざるをえず、ドキュメンタリー・タッチのリアリズムを裏切ってしまうのだ。たとえば、子どもを盗品と同じレベルで扱うほどにすさんだ精神――これにはリアリティを感じる――が、どうして恋人の深い愛を獲得することができるのか、という疑問が残ってしまうのである。


良い映画がこれまでも常にそうだったように、映画の作り手が、自分が生きている現在の現実を描こうと試みても、その現実に対しては、「どのような角度から眺めても、そこに救済への手がかりや予兆」は見えてこないんじゃないか、と。つまり、救いの方法は存在しない。少なくとも、リアリティがない、と。
それが「現在の現実」の現実なんだ、と。


もう10年くらい前なんだけど、初めてと言っていいくらいの感じで書いた長編のシナリオがあって、その作品の結末が、救いも希望もなんにもない、という内容だったんです。
その内容に、書いた本人もちょっと悩んじゃったりしまして。
当時はホントに、テクニックや物語の構造や展開なんてことは全く考えてなくって、文字通り思うがままに書いてたんですけど。
ま、その、あまりに絶望的な結末も含めて、殆どそのままの形で、今も残してありますけど。




で、この本では、著者は、もっともっと大きく論を展開していくワケですが、ま、それについては、また別の機会に。

他にも、多重人格の話とか(これは、そのうちここでも紹介したいと思ってます)、それぞれある年代を“代表する”2つの猟奇的殺人事件の比較分析とか、興味深い内容の本でした。


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