2009年8月30日日曜日

小津安二郎+野田高梧/山田洋次+朝間義隆

書いていた作品が、なんとなく一段落したんで(別に書き終えたワケじゃない・・・)、小津監督の資料を探すべく、高円寺の古本屋をグルッと回ってきました。



見つけたのが、石坂昌三さんという方の「小津安二郎と茅ヶ崎館」というタイトルの本。
まだ一通りサラッと読んだだけで、小津監督と脚本家野田高梧がどんな方法論で書いていたかっていうトコまでは詳しくは書いてなかったんですが、なかに、こんな一節がありまして。



神楽坂の「和可菜」という旅館に籠もって、山田と朝間はワープロ一台を挟んで向かい合う。
山田が設定や状況を話し「こんなことは考えられないかナ」とボールを投げると、朝間がそれをキャッチして「それは不自然だよ。いまの若者はそんなことでは悩まない。後のことなど考えないで飛び出しちゃうよ」とボールを投げ返す。
2人はキャッチボール方式で、暴投があったり、脱線したりしながら、交代でワープロを打ち、ワン・シークエンスごとに仕上げて、話を進め、コンストラクションを練る。
日常見聞きしたエピソードや人物が下敷きになること、「松竹リアリズム」を守っていることは、小津の場合とそっくり同じ。シークエンスを書いた紙が、ワープロのディスプレイに代わっただけで、伝統を引き継いでいるといえる。

山田洋次監督のシナリオの執筆風景、ですね。


ポイントはやっぱり、「ワン・シークエンスごとに」ってトコなんだろうねぇ。
箱書きってことで。




ふむふむ。




もうちょっとまとめて書き残しておけるように、この本はまた再読します。




この本は、古本屋で800円だったんですが、アマゾンだと300円ぐらいみたいですね。
ま、安いっちゃ安いんだけど、やっぱり古本屋だと立ち読みできるっていうのが便利かな。この本もパラパラ立ち読みして買うって決めたからね。

ま、そういう話は別にいいっスね。


2009年8月14日金曜日

松本清張は泥道を歩いた

新聞に、松本清張を特集した連載が載ってまして。
深い話が満載で面白いんですが、そこからごくごく一部をご紹介。


とりあえず、ご本人の“独白”を。

ヒントを思いついて、それを形になりそうなアイデアに育てる。それから小説のプロットに作ってゆくのだが、「思索の愉しさ」はそこまで。あとは苦しい泥道を歩く。


「あ~、清張でもそうなんだ・・・」と。(ホントは呼び捨てしちゃいけない方なんスけどね)
あとは苦しい泥道を歩く。


連載のこの回は、松本清張には“情報源”が居た、という内容で、その情報源(の、1人?)だったという、梓林太郎さんという方がインタビューに応えてまして。

「清張さんに物語のヒントを提供しました」そう言って梓は一冊のファイルを見せてくれた。表紙に「M資料」の文字。松本のM。「清張さんはメモをよくなくしてしまうので、控えを作っていたんです」
出会いは60年。知り合いのテレビ関係者から「松本清張が会いたがっている」と言われた。「妙な話を知っている男」として梓が話題になったらしい。
(初対面後)「変わっていて面白い話はないかね」。その後、しばしば呼び出されるようになった。夜中の2時でも電話で起こされた。××省にはどんな局があるか。変わった名前の知り合いはいないか。「身勝手なんです。もうやめる、と何度も思った」。そんな日はあとで決まって「林しゃん」と優しい声で電話をかけてきた。「ほだされて、また行くわけです」

清張には大勢の取材者を抱えた工房がある、と邪推する人がいた。清張はそれを嫌った。梓とのやりとりも、若い知人との世間話を考えたかったに違いない。世間話は梓が作家デビューする80年まで続いた。

う~ん。普通にこのエピソード自体が面白い・・・。
これだけでひとつの作品になるよね。

しかし、20年間も、凄いね。この梓さんという方は、若い頃(清張に話題を提供していた頃)、企業専門の調査員をしていた、ということで。
そりゃ、いろんな話を知ってるんだろうけど。


で。
この記事の締めくくりがなかなか粋で、良かったんです。


世間話の相手もタクシーの同乗者もいない「泥道」。そこは作家の企業秘密だったのかも知れない。


うまいこと言うね、と。


記事の署名は湯瀬理佐という方。
お見事!

2009年8月5日水曜日

小津さん

最近、とんと作品を観てなくって、このブログも更新が滞ってます。


が。
決して映画のことを考えていないのではありません。

一応、作品を書いてまして、その間は自分の作品に集中しよう、と。
しかし!
その筆がさっぱり進まない、という、もう最悪の悪循環で、ただただ時間を浪費してしまう日々でして・・・。
まぁ、自己嫌悪というヤツですな。


つらいっス。



で。
土曜日の新聞に、小津さんの「東京物語」について、ロケ地(尾道)を訪ねる、みたいな記事が掲載されてまして。

その記事の中に、「小津日記」からの引用という形で、脚本の執筆風景がホンのちょっとだけ紹介されてまして。

たまには更新しないとなぁ、なんて、柄にもなく気にしてたのもあり、せっかくなんで、この“ホンのちょっとだけ”の部分のご紹介でお茶を濁そうかな、と。


「小津日記」53年2月4日に、共同脚本執筆者野田高梧と雑談のうちに「東京物語のあらましのストウリー出来る」とある。「親と子の成長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみた」と後に言う筋立ては出来たが、場面を造形していくのはこれからのことだ。
小津と野田が脚本執筆用定宿の神奈川県茅ヶ崎市は茅ヶ崎館に入ったのが2月14日、脱稿5月28日。「百三日間 酒一升瓶四十三本 食ってねつ のんでねつ ながめせしまに 金雀枝の花のさかり過ぎにけり」
酒を酌み交わしながら何だかんだとと話を練り上げていくのが野田と小津の方法である。恒星が成って原稿用紙に書き始めたのは4月8日。
その日、助監督塚本芳夫が白血病で入院、10日にあえなくなった。39歳。

この後、記事は「東京物語」には弟子筋であった助監督への追悼が込められているのだ、と続いていくんですが、そこは割愛させていただいて・・・。


「103日間、酒は一升瓶が43本。喰っちゃ寝て、飲んで寝て、眺めているうちに金雀枝(えにしだ)の花も盛りが過ぎてしまった」と。


飲み過ぎです。



「雑談から、酒を酌み交わしながら、何だかんだと会話をしながら、話を練り上げていく」と。


共同脚本システムっていったら、黒澤明監督が真っ先に語られたりしますが、小津さんは小津さんなりに、何か方法論があったんでしょうか。
2人で、どういう形で書いていったのか。
延々話しているだけでは、シナリオは完成しないワケで、どこかでシナリオの形、つまり“セリフとト書き”に落とし込んでいかないといけないワケですから。

機会があったら、調べたりしてみたいです。

野田高梧さんか。



ま、作品書き上げてからだな・・・。



苦しいよ~。