2007年12月31日月曜日

「再会の街で」を観る

恵比寿のガーデン・シネマにて、名手ドン・チードル目当てに「再会の街で」を観てきました。

いやぁ、ドン・チードル、いいですよねぇ。
個人的には、いま一番観る価値のある俳優さんだと思ってるんで。

なんせ、ニコラス・ケイジは宝探しですからねぇ。もったいない。

今はとにかく、ドン・チードルですよ。


ただ、この作品に関しては、クレジットも二番目で、主役なんだけど、一番のメインじゃないんですね。そこががっかり。

作品にももの凄い期待していったんですが、その辺も含めて、やや期待ハズレな感じもしまして。

もっとドンを真ん中に持って来いよ、と。
作品のシナリオも、もっとドンのキャラクターを描いて欲しかったです。若干、焦点がぼやけちゃったかなぁ、と。
もう一人の主役が、なんかイマイチだったので。役者さんも、キャラクターも。

ただ、この作品は、俳優陣がめちゃめちゃ豪華。リヴ・タイラーに、ジェイダ・ピンケット=スミスという美人2人に、“ジャックの親父”ことドナルド・サザーランド。
ただ、リヴはやや太り気味で、ちょっと老けちゃったかなぁ、なんて。まぁ、全然キレイなんんで、いいんですけど。

そういう、なんていうか、余計なトコに気が向いちゃうんですよね。グッとこさせるモノがイマイチなくって。
シナリオもなんとなく普通って感じだし、映像もなんとなく普通って感じだし。音楽の使い方も、好みのアレもあるんだろうけど、普通だしね。


しかし、とにかくドンの、あの、世界中の矛盾と不条理と悲しみとやるせなさを一人で背負ったかのような、目元の表情の演技は、素晴らしい。それを観るだけでも、この作品を観る価値はあるでしょう。


うん。そんな感想ですな。





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2007年12月30日日曜日

「ゴシカ」を観た

シネマ・エキスプレスで、天才マチュー・カソヴィッツの「ゴシカ」を観た。


長編デビュー作と、その次の作品で、“社会派”みたいな立ち位置で登場してきたカソヴィッツ監督ですが、今回の作品は、ハリウッド資本の製作による、まぁ、エンターテインメントと言っていいと思うんですが、そういう作品です。
ジャンルとしては、ホラー・サスペンスってトコでしょうか。

主演は、ハル・ベリー。
シチュエーションごとに、美しかったり、醜かったり、髪がぼさぼさだったりして、という変化が印象に残りました。
この人は、演技が巧いとは、そんなには思わないんですが、この役に関しては、なんかイイ感じにハマッてる、というか。
その彼女のキャラクターが、知的で論理的な精神科医から、色々あって、最後には霊視能力者なる、という。まぁ、そういうストーリーです。

まぁ、なんていうか、“凡庸”っていうと言い過ぎかもしれないんだけど、カソヴィッツ節を期待してるとイマイチかも。
サスペンス劇としては、まぁ、普通の佳作だとは思いますが。

でも、アメリカ映画って、なんで“刑務所”がこんなに出てくるんでしょうかねぇ。それだけ、生活に身近な存在ってことなんでしょうか。
よくよく考えると、結構不思議。


カソヴィッツ監督の巧さの一つに、“空間”というのがあるんですね。空間を巧く見せる、というか、空間の広がりを見せるのが上手なんですよ。いつも。
今回も、そのテクニックは当然披露されてて、感冒もそうだし、あとは、プールですかね。水の中。あの辺は、あいかわらず上手だなぁ、と。


そんな感じっスかねぇ。

色使いも、刑務所内はダークな感じで徹底して、その辺も“らしい”感じでしたが。


まぁ、ホラーなテイストも抑え気味で、個人的にはその辺もポイント高いですけど。
あ、でも、「シックス・センス」にネタ的には被ってるのかも。
まぁ、でも、サスペンスの佳作、良作って感じで。

でした。



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2007年12月18日火曜日

「スイミング・プール」を観た

土曜日の「バリ・シネ」で観た「スイミング・プール」の感想でっす。

まず、しょっぱなに書いておかないといけないのは、ワリと低予算で作られているんだろう、ということですね。
田舎の一軒屋の中で大半の物語が進行するので。あとは、家の外のプールとか、ね。

この作品は、前々から観たいとは思ってたんですが、まぁ、怠け癖みたいなモンで、“機会があれば”的に延び延びにしてた作品の一つでした。
もっと官能的な感じかと思ってたんですけど、それは、“宣伝のトリック”でしたね。そういうアレは、ちょっと薄め。


ロンドンの、薄暗い地下鉄と、ジメジメした空気から、一転して、カラッとした、日光が降り注ぐフランスの田舎へ、という。まぁ、ありがちっちゃありがちな“移動”ですが。
でも、主人公の表情が、それに沿ってちゃんと変化してて、それは勉強になる感じ。
ベタっちゃベタなんですが、それにキチンと説得力があるのは、俳優の演技の力なんでしょうか。
もちろん、その、微妙な表情の演技をちゃんと撮る、という演出の要請があってこそ、ですけど。


さて、日光が燦々と降り注ぐフランスの田舎が舞台なワケですが、例えばぶどう畑の木漏れ日であったり、プールの水面がキラキラしたり、という所に重きがおかれているワケではなく、家の中の陰であったり、街灯なんかない夜の暗闇だったりが多かったりします。
この辺の光の雰囲気なんかは、勉強になる感じ。
特に、チラッと1カットだけあった、夜の田舎の道を主人公と若い娘が並んで歩くシーン。“月明り”ってことだとおもうんですが、とても綺麗でした。歩きながら、顔が暗闇に隠れたり、光に照らされたり。それが、そのまま、主人公の心象の描写になってる、と、こっちに思わせてくれる、という。
あれは、どうやって撮ってんだろうか・・・。自然光であんなにくっくり映るハズはないし。気になるカットでしたね。


あとはとにかく、主人公の喜怒哀楽をしつこいくらいに描いて、それを追っていく、というトコですよね。


今年の夏にみた、ペネロペ・クルスの「ボルベール」を思い出したのが、娘が殺してしまった男を埋める、というシークエンス。
こちらは、擬似的な母娘で、あちらは殺させるのが実の父(夫)である、という違いはありますけど。
スペインとフランス(南仏?)で、ちょっと雰囲気が似てるところもあるし。
ペドロ・アルモドバル監督は、若干パクったのかもね。


そして、この、監督が仕掛けた、どんでん返し的なトリック。
色々解釈があるとは思いますが。

ただ、個人的には、こういう、“投げっぱなし”な結末って、好きなんですよ。
「あとは観る人に委ねます」みたいな。こういう、作り手の意図って、よく分かるし、好きです。「好きなように解釈して欲しい」っていうのと、あとは、これは推測なんですが、「観た人同士で色々議論して欲しい」っていうか。

で、俺の解釈ですが、ラストで(本当の)娘がチラッと出てきますが、あのシーンで初めて主人公は娘の顔を見た、ということだと思います。
つまり、田舎の家では、ずっと独りだった、と。まぁ、小さなオジサンとか、その辺の人物の出入りはあったでしょうけど。
娘が家に現れるというのは丸々主人公が書いていた物語の中の、つまりフィクション(まぁ、正確に言えばフィクション内フィクション)である、という。
あの娘は実際に家に来てたけど、途中からフィクションだ、とか、そういう解釈もあるみたいですが、俺は違うと思いますね。


と、こういう話を、作品を観た人同士であれこれ話したりして欲しい、というのも、監督の意図なんじゃないのかなぁ、と。

ま、そんなこんなで、フランソワ・オゾン、新作も楽しみですな。





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2007年12月10日月曜日

「ラウンダーズ」を観た

金曜日の夜に、ミッドナイト・アートシアターでマット・デイモンの「ラウンダーズ」を観ました。

まぁ、感想としては、結構期待してただけに、ガッカリ、と。
生意気言わせて貰えれば、不満だらけって感じでっす。


まず、音楽がダサい。全然“サスペンス感”、ないもん。あの種の音を使うなら、もっと低音ビンビン響かせるとか、ちゃんとやんないと。ただ“背後になってるだけの音楽”ですからね、アレだと。


それから、なんていうか、ストーリーが進んでいく場所というか、空間というか、まぁ、“設定”なんですが、それが中途半端なんですよねぇ。
一応、NYが舞台なんですが、いわゆる“アンダーグラウンド”でもないし、かといって“ただの下町”でもないし。
そのくせ、主人公の相手はロシアン・マフィアってことだし、親友は“出所”してくる、というストーリーだし。
全然、緊迫感・緊張感がないんだもん。マフィア相手に借金背負っちゃっても。

その、賭けポーカーの場面でも、全然“ヒリヒリ”してこない、というのもダメ。あれじゃ、お正月のババ抜きですよ。

あと、その、「大金を賭けているゲーム」というシチュエーションなのに、アドレナリンがドバドバ出る、みたいな描写が一切なし。これはいただけませんよねぇ。
ギャンブルの中毒性っていうか、まぁ、オレもギャンブルやらないんで、その辺は正直、アレなんですが、でも、それがあってのギャンブルでしょ。淡々とゲームの進行を追っていっても、映画としては、ダメでしょ。


それから、徹夜でゲームするのに、翌朝の顔が同じ、とか、もうダメ。
その辺の、生活感の欠如みたいのは、ある意味で徹底してて、その辺も緊迫感が伝わってこない原因になってる気がします。
もう充血で目がギンギンで、とか、そういうのがないと、切羽詰った感なんて出ないでしょ。
普通に夜中にドライブして、ゲームして、カモから金を巻き上げて帰ってくる、ってだけじゃ、ダメでしょ。


主人公が、“あまり裕福ではない家庭”の出身で、親友も前科者ということで、その、ポーカーで“成り上がっていく”物語なのかとも思ったんですが、そうでもなく。
主人公は、賭けポーカーで、学費を稼ぎながら、大学(法学部)に通ってるんですね。で、老人の教授に取り入ったりして。
その、“上流階級への足がかり”みたいなことかと思ったんです。
しかし、最後には、ドロップアウトしちゃうんですよ。

逆に、借金したりカネをせびったりという、トラブルメーカーの親友との絆を最後まで貫く、かと思ったら、最後にバイバイしちゃって、いなくなっちゃうし。

別れた彼女に謝ってヨリを戻すのかと思ったら、そっちにもバイバイだし。

ドロップアウトするのも、まぁ、いいっちゃいいんですが、そのきっかけが、なんと、老人の教授のアドバイスなんですよ。
全然美しくない!

労働者階級は永遠にそこに留まれ、みたいなことですか?
成り上がってくるな、と。エスタブリッシュ階級になんかなれっこないんだぞ、と。
アウトローとの友情なんか続かないんだぞ、と。

その、全部が全部、中途半端なんですよねぇ。

それから、これはちょっとのけぞっちゃったんですが、“ラスボス”のマルコビッチとポーカーで勝負するシーンで、マルコビッチの背後に、ぼろいテレビがあって、そこでボクシングの試合を中継している、というカットがあるんですよ。
こんな安易なメタファーを使っちゃイカンでしょ。
ポーカーとボクシング、「今この人たちは決闘してますよ~」的な。

ホントに、期待はずれでガッカリでした。


役者陣は、妙に豪華ですけど。
ちなみに、「ER」のコバッチュ先生が、ロシアン・マフィア役で登場してて、そこはちょっと嬉しかったですけどね。


ま、マット・デイモンの人気に乗っかっただけの作品でした、みたいなことですかねぇ。


ここまで散々酷評しておきながら、アフィリエイトっつーのもなんですが、まぁ、参考までに。





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2007年11月28日水曜日

ちょっとイイ話

新聞の夕刊に、ちょっとイイ話が載っていたので、記録がてら、ご紹介。

京都の、代々、220年つづいている鯖寿司のお店の、そこの七代目の佐々木さんという方なんですが。現在55歳。

五年前(佐々木さんが50歳の時ですね)、デパートの催事の仕事で北海道に行き、そこで、統廃合されることが決まっている小さな学校(小学校と中学校が一緒になっているんだそうです)の先生を紹介され、「子供たちに思い出を」ということで、佐々木さんがその学校へ実演に行ったんだそうです。

で、そこの生徒さんは、今まで誰も鯖寿司を食べたことがない、と。


ちなみに、鯖寿司というのは、しめた鯖を使った寿司(多分押し寿司の一種なんだと思います)なんですが、どうして〆た鯖を使ったかというと、京都が内陸だったからなんですね。200年以上昔には、当然冷蔵庫とか冷蔵車なんてありませんから、保存がきくように、揚げた鯖をしめてからでないと、京都に持ってくる間に腐っちゃうから、という理由から生まれた料理なんです。鯖寿司というのは。
逆に、北海道っていうのは、もちろん、なんつっても“新鮮な魚介類”ですから。基本、ピッチピチの魚ですから。毎日。

佐々木さんからしたら、「口に合うだろうか」と。喰ってくれるのか、と。

ところが、子供の反応が良かったんですね。笑顔で「おかわり」と口々に言ってくれたんだそうです。



その反応に、佐々木さんは、「老舗ののれんに守られた店の味でなく、自分の寿司が認められた」と思ったんだそうです。

佐々木さんは、45歳の時に、先代であるお父さんを亡くして主人になり(当然、それまでずっと修行してきてます)、味が落ちたと言われないようにと、必死だったんだそうです。
で、その、北海道の子供たちの反応で、自分の味に自信が持てたんだそうです。

その学校の最後の卒業式で、佐々木さんは、「仰げば尊し」を一緒に歌ったんだそうです。



というお話です。

どうでしょう?
なかなか素敵なストーリーじゃないっスか?

2007年11月27日火曜日

「SIN CITY」を観る

ロバート・ロドリゲス監督の「シン・シティ」を観る。

アメコミが原作ということで、まぁ、その原作者も監督としてクレジットされているワケで、“原作に忠実に”ということなんでしょうか。
その原作に馴染みがない者としては、その辺のアレはちょっと分かりませんが。
しかし、まぁ、いわゆる“一般ウケ”はまったくしない作品でしょうな。

良かったですけどね。

“盟友”タランティーノの「パルプ・フィクション」とシナリオの構造が似てたりして。
あの、エピソードの並べ方というか、時間軸を入れ替える、というのは、なにかお手本みたいのがあるのかねぇ? 流行りってワケでもないと思うんだけど。


内容ですが・・・。

架空の都市の、社会の最底辺にいるクズたちの物語、ですよね。
犯罪者、悪漢、飲んだくれ、卑劣漢、裏切り者。女性は、娼婦と少女しか出てこないし(あ、一番最初に殺される女性は違うか)。

そういう意味では、フィルム・ノワールではなく、ピカレスク・ロマン、というヤツでしょうか?

権力と権威に守られている“本当の悪”を、暴力という手段によって、ピカレスクが討つ、という。
ま、そういう、ある種の伝統的な物語を、最新の技術、超豪華なキャスト、ロドリゲスならではのスピード感と美学で描く、と。そういう意味では、全然成功している作品だとは思いますけど。

ちょっと話が逸れますが、この、“娼婦と少女”というのは、興味深いですよね。
例えば、日本のオタクのメンタリティとは、ここはまったく異なるので。
個人的には、これは、ロドリゲス流のフェミニズムだと思うんですよね。個人的に、こういう形のフェミニズムって、全然アリだと思ってるんで。
“娼婦”という職業に敬意を払えば、こうなる、というか。ある意味での“自立”ですから。
女性に対して、ダッチワイフ的にしか価値を見出せないオタクなんかよりは、全然健全だし、なんていうか、倫理的に正しい、というか。


さて、とにかくこっちが話題になった、その、全面CGで作られた画面ですよね。
フランス産の「ルネッサンス」よりは全然良かったですよねぇ。画面の密度もそうだし、なんていうか、リアリズムを求めていない、という意味でも。コミックの世界を忠実に再現する、という意図が、いい方向に働いてる、というか。
バットマンのゴッサム・シティとよく似てました。アレもアメコミだしね。

ロドリゲスは、それこそ、スパイキッズで、CGを勉強したのかもしれませんね。
キャラクターの肉体の動きを、CGやらVFXやらで“殺さない”という部分は、ホントに上手だなぁ、と。
ロドリゲスって、元々はホントに“肉体派”ですからねぇ。

キャラ的には、ジョシュ・ハートネットのキャラが一番良かったです。カッコよかった。


ま、感想はそんな感じかな。

個人的には、こんな感じの手法で、「ジョジョの奇妙な冒険」を映画化して欲しいです。いま、なんか、あちこちで盛り上がってるし。






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2007年11月19日月曜日

「16ブロック」を観る

ブルース・ウィリス刑事がまたまたNYで頑張る、「16Blocks」を観る。

作品のトータルは評価としては、“中くらい”って感じですかねぇ。中の上、とか。

正直、モス・デフの演じるキャラクターの造形がイマイチ。なんか、もうちょっと色があってもいいんじゃないか、と。

ま、その、キャラクターへの違和感とは別に、“コンシャス・ラッパー”の最高峰の一人でもある彼が、無教養で低脳な犯罪者を演じるってことに、ちょっと皮肉を感じちゃったり。ま、それは、逆説的に彼の存在感と、演技の巧さを示してるんですけどね。

モースの悪徳刑事もねぇ。なんちゅーか、そんなに“悪徳”に見えないっていうのあるし。

ま、その、2人とも、俺がもってる先入観が強過ぎるっていうか、ね。
モースは、「クロッシング・ガード」もそうだし、他の作品にも出まくってるからね。
正直、その辺のキャスティングは、俺にはちょっとアレな感じなんですよね。

ただ、まぁ、それはB・ウィリスにも言えることだしなぁ。三者三様で、それぞれにとって同様に、挑戦的なキャスティングだったのかもしれませんね。



冒頭の、主人公の“アル中”の表現も、ちょっとしつこいかな、と。アル中でダメダメの男なんだ、というんを説明する部分。
ただ、一人目の射殺シーンへの伏線だとしたら、あのダラダラした描写も正解ですね。あの、「ホントはデキる」感は、凄い良かったです。普通にビックリしたし、裏切られたし。


物理的なアクションシーンと、心理的な駆け引き、というか、精神的なぶつかり合いが、交互に描かれる、というシナリオも、結構好きかも。そういう意味では、刑事2人の配役はあってる気もしないでもないですけど。

ICレコーダーのオチもとてもイイ。うん。そういう、シナリオの部分はもの凄く良いんですよねぇ。物語の構成というか。


ちょっと気になったのは、その、“16ブロック”の具体的な距離感ですよね。“たいした距離じゃない”というのを、例えば街を空撮するとかして、“実際の距離感”を体感させる、みたいな演出があってのいいんじゃないかな、と。普通に、目指す裁判所のイメージが与えられないので、若干迫力不足になってるし。
ニューヨークという“街”が舞台なのに、その“街”が、イマイチ描写し切れてない、という。

NYの地理をなんとなく分かる人だと、要するに、チャイナタウンを縦断していく、ということなんですが。あのゴチャゴチャした区画っていうのは、チャイナタウン特有のカオスなので。どこもかしこもあんな街路ばっかりじゃないですからねぇ。


しかし、NYのダウンタウンを舞台にしつつ、「9・11」についての描写はしない、という部分は良かった。ようやく“平時”に戻ってきたのかな。NYの映画も。一時期、ホントにそういう作品ばっかりでしたもんね。
いや、ま、それが悪いことだとはまったく思いませんけどね。むしろ大事なことですが。


それから、チャック・ベリーとバリー・ホワイトについてのセリフは良かった。エンドクレジットでバリー・ホワイトが流れたりしてね。そこはちょっと、ニヤリ、みたいな。


ま、そんなこんなで、“佳作”でしょうな。

2007年11月16日金曜日

「インファナル・アフェア」を観る

せっかくなので、シネ・ラ・バンバで「インファナル・アフェア」を観ちゃいました。

ま、感想としては、良く出来たシナリオだな、と。そこに尽きる感じですよね。

二人の俳優の存在感も、もちろん、良くって。
香港の芸能界って、まぁ、詳しくはもちろん、全然知らないんですが、いわゆる“スター”がまだ居るんですよね。歴然と。その“スターありき”の作品でもある、と。

例えばこれが、日本のテレビ局が製作すると、ケリー・チャンがもっとストーリーに絡んできたり、そういう、本筋とは別のところでごちゃごちゃとサブ・プロットが入ってきそうな感じなんだけど、そうじゃなくって、潔く、“男臭い”だけで押し通しちゃってるのは、すごいイイ。この、中途半端に媚びないスタイルというのも、2人の顔だけで客が呼べるということと関係があるワケで。

いや、実はこの作品、そんなに“大作”じゃなかったりするんですよねぇ。そんなにお金かけてない、というか。
そういう意味でも、ハリウッドがリメイクしたがるようなアレではある、と。ハリウッドの映画人が好きそうな題材だしね。
ま、前提として、シナリオがもの凄くいい、というのがあるワケですが。


和洋折衷じゃなくって、中洋折衷というか、そういうのの混合比というか、混ざり具合も好きです。ま、その辺が香港映画のウリの一つでもあるワケですが。この作品では特に、そういう感じを受けましたね。
変に“東洋”テイストを強調し過ぎず、逆に“欧米風”に振り切っちゃうワケでもなく。ま、香港人にとっては、それが当たり前のスタンスなんでしょうけど。

いや、「ディパーテッド」、観てないんですけどねぇ。せっかくだから観よっかなぁ、なんて。

2007年11月10日土曜日

「普通の人々」を観た

昨日、昼間っから「午後のロードショー」で観た、「普通の人々」の感想でっす。

素晴らしい。
80年に製作ということですから、もう27年前ですか。「24」のジャックの親父が出てたんですが、まだ若かったですからねぇ。顔そっくり。
ちなみに、オレにとっては、キーファー・サザーランドは、「スタンド・バイ・ミー」の“エース”です。
「スタンド・バイ・ミー」大好きなんです。

いや、それはさておき。

内容は、とにかくシンプル。
“家族”について、ですね。
この作品はロバート・レッドフォードの、監督としては第一作目ということで、ま、後々にもずっと、“家族”をテーマに作品を作っていきますよね。ブラピのやつとか。
レッドフォードにとっては、大きなテーマなのでしょう。三宅さん風に言うなら、“作家のテーマ”。

派手な仕掛けもなく、ただただシンプルにキャラクターを追っていく演出は、なんていうか、ホントに今だから凄みを感じる、という。ある意味では力技なんですけどね。


きっと、シナリオがいいんだと思います。ヒューマンドラマにありがちな予定調和的な展開にもならず、かといって奇をてらった展開でもなく(もっとも、製作・公開当時にはどうだったのかは分かりませんけど)、しかしそれでも物語にしっかり引き付けて離さない、という。

主人公の繊細な感情をしっかり描き切る演出も凄いんですけど、俺はどっちかと言えば、脚本の力強さが一番印象に残る感じですかね。


「家族とはこうあるべき」という価値観が、ある悲劇によって揺さぶられ、結果、最終的にその家族の絆というのは崩壊してしまうのですが、その中にも、“尊敬”というモノで回復出来る関係性があるのだ、という。
伝統的な“良き価値観”としての「家族としてのあるべき姿」を、いわゆる“個人主義”が揺さぶっている、というのが作品の背景にある構図だと思うんですね。
で、その、“家族”という、共有していた、ある意味では“幻想”だったものが崩壊した後も、“個人個人のお互いに尊敬し合う気持ち”で、また関係性を構築出来るのだ、というメッセージだと思うんですが。
個人主義的な社会でも、人間同士の確固とした“繋がり”というのは構築出来るのだ、と。
ま、人間性の“成熟”が必要なことは間違いないんですが。その、“成熟”していく過程を描いた作品、と言えるのではないか、と。
ま、深読みですが。
ざっくり言えば、“親離れ子離れ”の物語です。ただ、そこに深い感動を与えてくれる映画である、と。そういうシナリオなんですな。


ちなみに、主人公のガールフレンド役の女の子、めちゃめちゃカワイイです。観たことある顔だけど、誰だろ。



あ、あと、精神分析医のカウンセリングのシーンはちょっと参考になったかも。
“精神科医の治療”云々というアイデアを一つ暖めているので。
ま、参考にするという意味では、近いうちにまた観直したいですな。

2007年10月31日水曜日

森田芳光監督の熱量を知る

この間、NHKの深夜にやっていた、「椿三十郎」を撮った森田監督の特集番組を観たので。

ま、そんなに濃い感じではなかったのですが、幾つか。

「作品とは、有機物であり、どこか一つだけが突出してはいけないんだ。」
いろんな要素が複雑に絡み合って、お互いに影響を与え合っている、という喩えで“有機物”ということでした。基本的には、俳優陣のことを言ってたんですが、恐らく、映画製作全体のことでもあるんじゃないか、と。

それから、三十郎のキャラクターについて。
“リーダーシップ”というものが、時代が変わったことで変質している。なので、その、“今の時代に求められているリーダーシップ”を演出によって見せていく、と。。
それはそのまま、織田裕二の個性そのままでもあるみたいでしたね。
その、演出の具体的なポイントみたいのが紹介されていて、それはちょっと勉強になりました。

それから、監督の、キャスティングに関して。何度も「技術じゃないんだ」と言ってました。当然、“作品にフィットするのか”が前提なんでしょうけど、人間的な柔軟さとか、そういう部分を見る、とのことです。
「日々を確かに生きているか」とか。要するに、“人間性”ってことなんでしょうね。
それから、例えば女優さんだと、その人のプライベートな所から入る、とも言ってました。
具体的には、中村玉緒さんで、「勝新のお嫁さんですから」と。その、“誰に惚れたのか”という、その人の本質的な部分と、演じる役柄の本質とが重なるような配役をするのだ、ということなんでしょうね。
お酒が好きな役にキャスティングするのは、やっぱりお酒好きな役者さんだろう、ということなんでしょう。それを、もっとその人の本質的な所にまで拡大して見ていく、という。
しかし、そもそも、監督本人に、その人の本質を見る力がないと成立しない話ではありますけどね。


それから、殺陣のシーンで、「疲れる」ことを表現しよう、みたいなことを試していて、それはちょっと新鮮でした。
「写実的な殺陣」というのは、まぁ、「様式的な殺陣」と対のようにして、あるにはあるんですが、そこからさらに一歩踏み込んで、ということです。
「バガボンド」の武蔵の影響もあるのかも。あの漫画は、その、“人間の肉体”についてはリアリズムを徹底してますからね。


ま、こんな感じです。
若い俳優たちに監督が演出をつけている映像があって、一番勉強になったのは、その時の監督の表情だったかも。

2007年10月28日日曜日

「ガス・フード・ロジング」を観た

ちょっと前に観た、アリソン・アンダース監督のデビュー作、「ガス・フード・ロジング」の感想です。
せっかくなんで、「マイ・ファースト・ムーヴィー」という本と一緒にご紹介。この本は、色々な監督に、自身の処女作について語らせる、という、題名通りの内容の本で、アリソン・アンダース監督も、自分のデビュー作について、インタビューされてますんで。


まず、ストーリーが、なんていうか、若干偏見じみた見方ですが、“女性的”なんですよね。
インタビューアーの言葉を借りれば「ゴールに向かって真っ直ぐに進んでいくものではない」という。
このことについて、監督は、
ストーリー上の問題をいろいろ設定してそれを解決していくというのはあまり興味がない。
ヴィム(V・ヴェンダース)もいつもそうで、ストーリーというのは大切なものを吊るしておくための面倒な道具としか思っていないようだった。
ストーリーは物干し竿のようなもので、人はそこに色とりどりの織物を引っかける。私が興味をもっているのは、そのさまざまな織物、つまり物干し竿に引っかかってるものであって、物干し竿そのものではない。

で、本人は、それを“反ハリウッド的”と定義してますね。


さて、“ストーリーの構築”にあまり興味がない監督は、得てして、その映像で多くを語る訳ですが、アリソン・アンダース監督も、やっぱりそうで、
私はロバート・ロドリゲスの“考えずに撮りまくれ”派には与しない。カメラを向けて撮るだけじが映画じゃない。どうやって意味を作りだすかその手法を学ばなきゃいけない。
ヴィムの映画で私にもわかるところは、短くしてしまっては本来の力が失われるショットがあるということ。
雰囲気を醸しだすようなショットがいかに重要か、人物を風景になかにポツンと入れることがいかに重要かがわかっていた。


もう一つ。カメラワークについて。
何らかの意味で情感を表現しようとするのでない限りカメラは動かしたくなかった。
移動は劇的効果をあげるためか、もしくは感情的理由がある場合に限られていた。長たらしい移動や、めまぐるしい移動、すばやいカッティングといったものにはウンザリしていた。だから簡素なやり方にもどってみようと思っていた。

この、大人しいカメラワークというのは、なんていうか、“しっとり”した印象の残すんですよね。画質もあるんでしょうけど、“エッジの効いた”感はなくって。つまり、登場人物の心の動きに、観る側がフォーカスしやすい、と。
もちろん、“そういう映画”なんで、当たり前っちゃ当たり前なんですが。しかし、その計算はズバリ当たってる、と。
ちなみに本人は、カメラについてはほとんど理解してないと語っていて、基本的にはカメラマンに任せきりとのことです。

と、まぁ、こんなところで。

この作品は、エンディングがとにかく好きで。勝手に“ほろ苦系”って言ってるんですけど。
ハッピーエンドじゃないんですよ。でも、観てるうちに、それが当然だろうとこっちも受容出来るし、それは、キャラクターたちそれぞれにとっては、やっぱり一つの到達点にちゃんとなってて。
監督本人は、作品のシナリオを書いていく過程を、「登場人物と一緒に進む自己発見の旅」と言っていますが、まさに、キャラクターたちが自己発見をするのを見届ける、という。そういう映画です。

これねぇ、「スモーク」がそうなんですよ。まぁ、「スモーク」については、また別の機会に。

「ガス・フード・ロジング」
あ、ちなみに、ガスはガソリン、フードは食事、ロジングはロッジってことで、寝る所って意味です。アメリカの街道沿いにあるモーテルとか、そういう所のことですね。
“旅の途中に寄る所”と。これ、ヘンな邦題付けなくて、ホントに良かったですね。

2007年10月21日日曜日

「SIN」を観る

テレビ朝日のシネマ・エキスプレスで「SIN」を観る。
ゲイリー・オールドマンと、もう一人、顔は知ってるものの名前は知らない俳優さんの、オッサン2人が激突する、まさに教科書のようなクライム・アクション。



シナリオ的には、若干弱い、というか、首を捻っちゃう部分もあるんですが、映像的にはクールでスタイリッシュで、良かったですね。

オチなんか、アリ地獄ですからね。底なし沼。ちょっと腰がくだける感じで。
ゲイリー・オールドマンの“悪の華”も八分咲きでした。

でも、画は凄い綺麗だし、カメラワークもアングルも効果的だし、とにかく、画の色が良かった。黒、黒、黒、という感じで。まさに、ザ・クライムアクションな感じの画でしたね。あんな画が撮れればいいなぁ、なんて。


2人のキャラクターも、徹底的にクール。脇役で登場する女性だけが、変にステレオタイプに感情的だったりして、そんなに美形でもなくってがっかりでしたけど。
その辺の、女性の描き方の下手さ加減も、まさに教科書通りでしたね。

同性愛に片足踏み込んじゃってるマチズモ。アクションも、フィジカルなものはなくって、精神的なぶつかり合いが主でしたね。携帯越しの会話で、攻守が一気に逆転したりするシーンは、ちょっとグッときました。

もう一つ、大きなモチーフがキリスト教で。聖書の一説が最初と最後に引用されたり、教会で釘を打たれたり(磔のメタファーです)、そこを燃やしてしまったり。
そこは、まぁ、全く参考にならない部分なんですけどね。

しかし、あの、ワケの分からない風景の美しさは、いったいなんなんだろうか。ホントに、あの景色ありきだよねぇ。砂漠と岩山。アホみたいに青い空。
その、悲しいくらい美しい風景の中を、血まみれの男2人が疾走していく、と。

まぁ、マチズモ、キリスト教、美しい砂漠。これこそがアメリカ映画なんでしょう。ゲイリー・オールドマンはイギリス人だけど。

2007年10月19日金曜日

新聞の記事より

昨日(17日)の新聞で、山形ドキュメンタリー映画祭の特集記事がありまして、その記事の中から、気になった言葉を、幾つか。

まずは、作品の選定に関わり、今年の映画祭のテイストを決定したと思われる、コーディネーターの方の言葉。
「作り手が自分の内面を私的に描きつつ、射程を社会や歴史に広げた作品を選んだ。ビデオの進化と普及で90年代に増えた同種の作品と違い、閉じた自己陶酔になっていない」


次は、優秀賞を獲った作品の監督。
「世界の画一化にあらがう辺境を訪ね、自分たちがどこから来たのかを問うた。私的な世界から接近しないと、複雑で深刻な現代をとらえるのは難しい」


それから、審査委員長を務めたという、蓮実重彦さん。
「昨今のテレビ的な作りが映画ならではの空間や時間の概念を脅かしていると指摘して、『フィクションとドキュメンタリーの境界は揺れ動いているが、重要なのは、世界をいかに見せるかではなく、どうとらえるかだ』」


“どうとらえるか”。その主体は、作品を作る人間自身であるワケだから、つまり、“己の内面”である、と。

同じ事象を目にした時に、人間一人一人のとらえ方、受け止め方はそれぞれ違うワケで。
その、“俺のとらえ方”を、描け、と。そういうことなのかねぇ?

「どうとらえるか」。
「俺にしか出来ないとらえ方」があるのだろうか? あるとして、それを求めて、内面に潜っていけばいいのだろうか?
それとも、そもそも「俺にしか出来ない」というようなモノはなく、目指すべき「とらえ方」が既にあるのだろうか?
正直、それすら分からん。

しかし、まぁ、俺に出来ることとは、俺の目で世界を見て、俺の言葉でそれを考え、俺のやり方でそれを語ることだけなのだから。


作品を作らなければならない。
とどのつまり、そういう事です。

2007年10月16日火曜日

「大統領暗殺」を観る

新宿武蔵野館にて、「大統領暗殺」を観る。

まず、内容云々より、隣に座ったババァがウザかったことを言いたいです。
満席だったんですよ。お客さんが一杯入ってることは、まぁ、いいことなんでしょうけど。
隣に座ったババァが、とにかく落ち着きがなくって、ガムみたいのを何個も何個も咬んでティッシュに包んで、咬んで包んで・・・。で、いちいち、バッグかなんかのファスバーを開け閉めするんですよ。開けておけ、と。それから、なんか買い物をした後なんだろうけど、その紙袋をずっと手に持ってて、たまに落としたりするんですよ、床に。ビニール袋も。ガサガサうるさい! ババァめ。煮干に化粧した(結構濃かった)みたいな顔してましたよ。


さて、内容ですが、結構面白かったものの、“映画としてはイマイチ”という、微妙な感じでしたね。
この映画の“売り”は、まぁ、「フィクションなんだけど、色々な方法でホンモノのように作っている」という所で、そこはホントに凄い。上手だし、手が込んでるし。そういう意味での演出というのは、ホントにしっかりしていたので。
テレビのドキュメント番組っていうのは、一番分かり易い例だと思うんですが、ホントにその通りに作ってて。

ただ、シナリオというか、ストーリーだとか、サスペンスだとか、そういう部分は、イマイチ、という感じで。
一応、それっぽく作ってるんだけどね。
あと、「で、何が言いたいの?」みたいな部分が、ね。“アンチ・ブッシュ”がテーマだとしたら、なんていうか、“今さら”って気もするしね。イラクにおけるアメリカの政策も戦略も、全部ダメだったっていうのは、こっちにしてみたら、もはや前提でしかないワケで。
この作品は、そこまでは踏み込んではこないので、その辺は消化不良。

いや、しかし、いい作品だとは思います。アメリカ国内だと、それなりにセンセーショナルなトピックなんだと思うし、製作と公開の時期も、何年か前なハズだから。その頃と今では、もう状況は全然違うワケだからね。

面白いと思ったのは、“メタ映画”的な方法論で作られてるところですね。実際、作中のセリフでも「映画では○○だけど、本当は~」みたいなことを言わせてるしね。

それは、いわゆる“ドキュメンタリー”の手法と、“映画的”な手法を、上手に混合させて“ホントっぽさ”を作り出している(演出している)という部分に繋がるんですけど。

ドキュメンタリーは、まぁ、方法論上、例えば、綺麗に撮れてない映像も(グラグラ揺れてたり、画質がもの凄い荒かったり)、使うワケです。
逆に受け手は、そういう、綺麗に撮れてない映像を観ると、真実味、つまり“リアルっぽさ”を感じるワケですね。そう刷り込みがなされてるワケです。テレビとかを毎日観てるワケですから。
それを、利用してるんですね。上手に。
それから、例えばインタビューのショットも、そうですね。これも、いわゆる“劇映画”では絶対に存在しなくて、テレビのニュースとかドキュメンタリーでしか観ない映像なワケで。そういう映像を観ると、受け手は“リアルっぽさ”を、勝手に、その自分の観ている映像に付加情報として加えるワケです。


同時に、映画的な方法論での映像もあるんですね。デモと機動隊(アメリカでの呼び方は忘れましたが)の衝突現場とかは、まさにそうだし、暗殺のシーンもそうです。
そういう場面では、映画的な演出、カメラワーク、カット割りが使われていて。
これは、受け手に“臨場感”を与える為にやっていると思うんですけど。
臨場感とは、つまり、“追体験”なワケですけど。
この辺の映像は、いわゆる“見慣れた映像”なんだけど、それは、「映画で観た事がある」というショットなんですね。
テレビ(この場合、ドラマじゃなくって、ニュースやドキュメンタリー)の映像とは違う、キチンと作られている映像。

「映画で観た事がある映像」による“臨場感”と、「テレビで観た事のある映像」による“ホントっぽさ”。
この2つを、メタ的に使い分けて、“ホントっぽさ”、つまり“真実味”を出させることに成功している、と。


まぁ、いわゆる“ドキュメンタリスト”にとっては“禁断の技”を使ってるに等しいんでしょうね。ただ、これはフィクションなワケで、「ドキュメントである」という制約はそもそも存在しない以上、こういう手法(映画的な映像)を使っても全然構わないワケで。


しかし、やろうと思えば、嘘をここまで“ホントっぽく”やれますよ、というお手本になってますよねぇ。
製作者のホントの狙いっていうのは、そこなのかもしれないな、と、今気付きました。

というワケで、映画館で観るにはイマイチ。だけど、家でDVDでは観た方がいいんじゃないの、という一本でした。


2007年10月9日火曜日

「クローズド・ノート」を観る

新宿のバルト9で、「クローズド・ノート」を観る。

えー、最初に結論から言ってしまうと、普通に泣いてしまいました。
個人的には、あんまり映画観て泣いたりはしない人間なんですが・・・。


ただ、沢尻エリカと竹内結子があまりにカワイイ&美しいばっかりに、他の所にケチ付けたくなるのも人情というもので。

まず、セリフがダサい。
言葉が多過ぎる、というか。キャラクターが、なんか、しゃべり過ぎな気がするし、セリフとしてチョイスされている言葉が良くないんだよなぁ。
ストーリーの構成とか、そういうのはもちろん、凄く良いんだけどね。

それから、伊勢谷友介が、なんか、窪塚洋介のコピーみたいになってるんだけど、アレでいいのかね?
まぁ、作品中だと、アレでいいっちゃいいような気もしないでもないが・・・。「ディスタンス」の時は、なんか、もっと良かったような気がするんで・・・。

あと、マンドリンじゃねーだろ、と。コレリ大尉じゃねーんだからよ。沢尻エリカ、全然弾けてねーし。なんか、もっとごまかし効く楽器にすればよかったのになー。

黄川田ナントカの役と設定もイマイチ。アレって、思い切ってジローラモさんとか、ドランクドラゴンの塚地とか、そのくらいやっちゃっても良かったんじゃないかなぁ。

もう一つ、これはちょっと不思議なんだけど、沢尻エリカの、冒頭の10分から15分くらいの演技がもの凄いイモ。
なんだけど、伊勢谷友介に会うぐらいのところから、もの凄い良くなってて。意を決して告白に行くシーンの表情とか、凄い良いんだけど、逆に最初の、あのイモな演技は、どうしてなんだろうか、と。
順撮りしてるのかねぇ?
それにしても、同じシーンに出てるサエコの演技も結構イモで。これも不思議。
ただ、サエコは、電話越しの声が凄く良くって、「あぁ、なるほどね」という感じでした。


と、ここまでは、偉そうに言ってますが、ほとんどアラ探しみたいなもので、要するに、美しい女性たちの織り成す、美しい物語の世界を楽しみましょう、という映画なワケですよ。


沢尻エリカを中心に、竹内結子、永作博美、板谷由夏が、それぞれ、擬似的な姉妹関係を作りながら、沢尻エリカが人間的に成長していく、というのが、物語の一つの側面になってまして。
まぁ、もちろん、伊勢谷友介との恋愛物語も、あるはあるんですが、どちらかというと、俺は、竹内結子との関係の中に付属してある、という捉え方ですかねぇ。
“擬似的な姉”に導かれながら、少女的な妄想というか、そういう形で、恋愛を経験するワケですな。つまり、王子様なワケです。伊勢谷君は。ちょっと不思議な。
竹内結子にとっては、もの凄いリアルな恋愛の相手なんだけど、沢尻エリカにとっては、王子様的な恋愛。この辺は、シナリオが凄い上手くて(もちろん、演出も)、きちんと表現されてます。

もう一つの物語として、竹内結子が、こちらは職場である小学校の教室を舞台にして、ある種の学園モノのストーリーを語っていく(文字通り、ね)という。

俺が泣いたのは、こっちです。
ま、だから、「瀬戸内少年~」的な作品なワケですよ、きっと。これは。夏目雅子にとってのそれと同じように、竹内結子と沢尻エリカにとっては。

しかし、女優陣が皆、美しいのと同じように、子どもたちも、それから、子どもたちと先生との関係も、ただただ美しい。
現実離れしている、と言えば、それまでですけどね。実際の“教職”というのは、あんなに美しい出来事ばっかりじゃないワケで。
しかし、まぁ、我々腐った大人たちは、この作品のような理想化された子どもたちの姿に滅法弱いことも間違いないワケですからね。


しかし、この映画がヒットしたら、あんな風にチャリンコでニケツするのが流行ったりすんだろうねぇ。
女性の教職の希望者が増えたりね。
ま、それくらい、美しい物語でした、と。

岩井俊二直系の、窓からの光を白く飛ばすアレも、ばっちり健在ですしね。川べりの小路とかも、いかにもな感じだし。


あんまりお金をかけてないっぽいところも、俺としては、グッドでした。
というワケで、ま、採点は満点です。皆さんも是非ご覧下され。


2007年10月6日土曜日

「レイジング・ブル」を観る

暖めているアイデアの参考にしようと、マーティン・スコセッシの「レイジング・ブル」を観る。

まぁ、言わずと知れた傑作だけに、特段改めて、というような感想はなし。

ま、モノクロで、シャープだよな、とか。
個人的には、「タクシードライバー」のデ・ニーロより、この作品の方のデ・ニーロの方が好きですね。

ウィキペディアでチェックしてみると、「ロッキー」の方が先だったんだな、とか、そんな意外な驚きもありで。
俺は、「ロッキー」は傑作だと思ってる人間なんで。

「ミリオン・ダラー・ベイビー」観ないといけませんね。
実は、観てないんですよ。

2007年10月5日金曜日

「39」を観る

森田芳光監督の「39」を観る。

ざっくりネタばらしをしてしまいますが。

まず言っておかなければならないのは、この作品は、うっかりしたら“火曜サスペンス”ですよ、と。
弁護士、検事、精神科医、その弟子の女性の精神科医、刑事、“新潟>名古屋>門司”、入れ替わり、などなど。鈴木京香の役を片平なぎさが演じたら、もしくは、岸部一徳を船越さんが演じたら、これは完璧にサスペンス劇場のネタですよ。

しかし、森田監督の、ある意味徹底的な演出が、そうはさせないワケですな。

とにかく、閉塞感に満ちたカットがひたすら続くんですが、この息苦しさは凄まじい。アップ、アップ、アップと続いていくカット割り。
カメラも、グラグラ揺れたり、左右に小刻みに揺れたり、構図がモロに傾いてたり。そんなカメラワークばっかり。
抜けるような青空すら、そういう閉塞感を強調する為にあったりして。

入れ替わりのトリックも、ワリと早い段階で明らかにされて(の、ようなものです。あのモンタージュは)、なんていうか、「エンターテイメントとして見せる気はないのか?」とこちらが訊きたいくらいの感じで。
監督としては、“刑法三十九条”への問題提起こそが物語の主眼なんだ、ということなんでしょうな。

最後の最後まで、堤真一が演じたキャラクターの絶望感を描き続ける、という。

しかし、その犯人に、動機として“三十九条への敵意”を語らせるワケですが、ストーリー的には、その堤さんを挟んで対峙する2人の女性(鈴木京香と山本未來)にこそ、そういう感情があるハズだよなぁ、と。
犯人の動機は、ホントに、妹の復讐という事でいいんじゃないのかなぁ、なんて。生意気ですが。

山本未來の存在感が結構凄くて(と、俺は感じた)。一応、“その彼女が計画のシナリオを書いた”とは提示されてるんですが、“彼女の動機”にこそ、「三十九条」という主題は相応しかったのでは、と。

いや、別にケチをつけるつもりはなくって、全然傑作だと思いますけどね。

前半の、音のモンタージュというか、カットアップというか、あれにはビックリ。絶対パクります。


基本的な法廷劇の構図としては、まぁ、被告側と原告側(弁護士と検事)という、2項対立になるワケで、アメリカだとそこに陪審員という要素が入ってくるワケですね。
で、この作品では、そこでなくって、鑑定人という、完全な第3者が苦悩する、と。「三十九条」という法律を巡って。
つまり、「法律対人間」という対立が描かれるワケです。

それからもう一つの要素としては、主人公(恐らく。堤真一が中心という感じもするが)の鈴木京香の、「父を超える物語」ですね。
杉浦直樹という、“擬似的な父親”を超えていく、まぁ、ある種の成長物語でもある、と。

作中、“父親の不在”というのは徹底的に通奏低音として描かれ続けるのですが、まぁ、「三十九条」と「父親」に関連付けがあったかどうかは、正直、分かりません。

と、そんな感想です。

しかし、鈴木京香の美しさは素晴らしいな、と。ホントに。
綺麗過ぎます。
特に、唇が。

2007年9月4日火曜日

「マイアミ・バイス」を観た

ちょっと前に観た、「マイアミ・バイス」の感想でっす。

とにかく、ジェイミー・フォックスの目がいいですよね。いわゆる、“眼力(めぢから)”というアレです。もちろんコリン・ファレルもいいけど。

コラテラルもカネかかってんなぁとか思ってましたが、マイアミ・バイスは、その比じゃないっスね。“火薬系”にはそんなに使ってませんが、とにかく空撮がバカみたいに多い。ジェット機、プロペラ機、雲の間、海の上、ジャングル級の木々が生い茂る山間の谷底。海の上の船も、いちいち空撮で。
だいたい、ピカピカのフェラーリやらなんやらのスポーツカーはまだしも、パワーボートが出てくる時点で、“ガキの妄想”ですよ、はっきり言って。

でも、そんな、小学生の男子が夏休み直前のクソ暑い教室の片隅で、例えば社会科の授業の合間に繰り広げる妄想みたいなことをやらかして許されるのが、我らがマイケル先輩、いや、マイコー富岡じゃなくって、マイケル・マンなワケで。

マイアミから、いちいちキューバやらハイチやらパナマやらコロンビアやらに出張る所もポイント高いですな。絶対、“カリブの海賊”気分ですよね、コレ。
もちろん、嫌いじゃないっス。というより、大好きです。この、“七つの海を股にかける”感。

ストーリーもグッド。コン・リーとコリン・ファレルのラブストーリーがハッピーな結末にならなかったり、例えばコン・リーが撃たれて死んじゃう、みたいな、“大袈裟な悲劇”というカタルシスに嵌まらないところもイイですな。
ちょっと気になったのは、キューバで迎えた始めての朝、“迎い酒”を飲んでるシーンで、チラッと、“監視されている”ようなニュアンスのショットが挟まれるところ。あれは“組織側”が監視してんのかなぁ、と、思ったんですが、特に引っ張るような伏線ではなかったですね。
あ、あと、その前夜の、踊りながら愛し合うシーンの、音楽の繋がりがいまいちでしたねぇ。サルサかなんかで踊ってて、その次に、ベッドシーンが繋がるんですが、そこで、なんかベタな曲調の曲が流れてて。そこはラテンで推すべきでしょう。

でも、女性の描き方もなんかちゃんとしてたし、同性愛スレスレの任侠監督、マイケル・マンの、渾身の作だった、と。そんな感じなんじゃないんでしょうか。

個人的には、とにかく動くカメラワークが気になりましたけどね。でも、画としては、コラテラルの方が好みかな。“都市の暗部”というか、“内部”を描いてるということで。今作は、“都市の外”にいる敵から、その“都市”を守る、という意味で、求められいる画も違ってますからねぇ。普通に“美しい画”ですからね。まぁ、もちろん、それはそれで素晴らしいんですが。

あ、でも、冒頭のクラブでのシーンで、2人が始めて同じ画面に入って映るカットは、最高でしたね。構図が。アレは必ずマネします。

とにかく、力作でした、と。ジェイミー・フォックス、超クール!

2007年9月2日日曜日

「エンジェル・アイズ」を観る

J.Lo in Da House!」ということで、「タクシードライバー」ではなく、「エンジェル・アイズ」を観る。
ま、「タクシードライバー」は何度も観てますしね。
実はカエル顔の、というより、「20世紀少年」の“ケロヨン”顔のジェニファー・ロペス。昨日見たペネロペ・クルスと比べるとやっぱりちょっとアレですが、ちょっとスペイン語訛りの英語が結構ツボですね。良かったです。役柄にも合ってて。なんか、“等身大”という感じの、こういう役が凄い合ってる感じがします。ブルーカラーというか。

内容ですが、ま、よく出来た佳作だな、と。お金はかけなくてもちゃんと良いものって作れるんですよ、という、お手本のような作品ですよね。
こういう、“ハリウッドの佳作”って、個人的に大好きなんですよねぇ。スタッフもキャストも、大作やスターへの足がかりにするために作るようなアレなんでしょうが、まぁ、別にそんな事を気にせず、素直に観れる良い作品なんで。

不器用さゆえに、家族からのけ者にされている女と、愛していた家族を失ってしまった男の、まぁ、シンプルなラブストーリーなんですが、ディテールをもの凄い細かく積み上げていく、というシナリオは、ホントに上手なだなぁ、と、思いました。
“電話と留守電”とか、車を運転することに怯える、とか。

あとは、2人の、それぞれの脇にいるキャラクターが、良かった。こういうポジションのキャラクターって、変にステレオ・タイプな感じに作られることが多いんだけど、ちゃんと、個性的で、それぞれに背景と物語を持っている、というキャラクターで、またそれが、主人公たちの物語への効果的なエフェクトになってて。

ただ、その辺の、演出もコミのディティールの巧さとは対照的に、セリフはイマイチ。言葉のチョイスはそんなに良くないな、と。まぁ、訳語の問題もあるんでしょうが。

主人公が変にマッチョじゃない所もいいですね。J・Loも、適度にパワフル、適度にフェミニンな感じで。

それから、DV(ドメスティック・バイオレンス)を描くんですが、その描写が凄い上手でした。ま、直接DVを描くワケではないんですが、その、被害者=配偶者(パートナー)の心情、と、もう一つ、遺伝してしまう、という部分。
虐待を受けた子供は、自分の子供にも同じ表現をしてしまう、という。再生産されてしまう“虐待”の悲劇性。ま、あくまでフレイヴァーなんで、真正面から取り上げている、というワケではないんですが。でも、問題の本質をちゃんと伝えてはいるな、と。


というワケで、なんだかんだで、素直に女優業のキャリアを伸ばしてるジェニファー・ロペス。ちょっと見直しました。

2007年9月1日土曜日

「ボルベール〈帰郷〉」を観る

吉祥寺まで出かけていき、「ボルベール」を観る。
というより、ペネロペ・クルスに魅入る、という感じでした。素晴らしい。
ま、ペネロペの美しさについては別の所で詳しく、ということで、監督志望らしく、作品の感想を・・・。

・・・。

ペネロペがマブかったです、という他に・・・。

なんでしょうか・・・。

う~ん、案外短いカットでパンパン繋げていくんだなぁ、とか、ほとんどそんな記憶しかないかも・・・。
オーソドックスに、バストアップを多用して、しっかり俳優の表情を押さえて見せていく、というのも、正直、字幕よりもペネロペの胸の谷間に目線がいってしまって・・・。

ただ、他の作品にも共通して言えると思ったのは、「俳優をどこに立たせるか」という部分がもの凄いなぁ、という所かな。セットなのかロケセットなのかは分からないんだけど、ロケ・ショットなんか、やっぱり凄い綺麗だし、部屋の中の画も、凄い綺麗。“色彩感覚”云々じゃなくって、生活感もあるし、空間もしっかり確保しているし、その部屋に住む人をちゃんと表現してるし。
レストランのシーンとか、ホントに良かった。マジで。それは、“ただ店内を映してる”っていう風にしか見えないんだけど、逆に要らない所は全然映してなくって、実はどういう造りの店なのかって、分かんないんだよね。でも、全然それでよくって。

あとは、衣装かな。ま、これも、ペネロペの美しさあってのことなんだろうけど。モダン過ぎなくって、でもちゃんとフェミニンで、姉妹のキャラクターが着ている服で色分けされている、というのは、まぁ、当然なんだろうけど、なんていうか、あんまりカネを持ってないんだけど、ちょっと派手好きで、ちゃんとオシャレなんですよ、みたいな雰囲気がちゃんと伝わってきて。
うん、記号的なだけじゃなくって、ちゃんと空気を作ってる、というか。
あと、死体を運ぶ時に、親子でジャージに着替えてたりして。
もちろん、ドレスアップした時にガラッと変身してみせるペネロペも最高でしたけど。

それから、この作品は脚本賞を受賞したということですが、結構、セリフで“説明”するんですよね。変に回想シーンとか作らないで。ま、個人的には、全然オッケーなんですが。
前に、自分の作品に出演してもらう女優さんを探してる時に、シナリオに「説明台詞が多い」って言われて、ちょっと気になってて。「それをきっちり表現するのが演技なんじゃねぇのか」とか。
結局、その女優さんには断られちゃったんだけど、まぁ、そういう見方もあるんだなぁ、とか、思ってたんです。
ま、だから自分のスタイルを変えるとか、そんなことは全然なかったし、これからも、その部分についてはないと思うんですが。
ま、成功例は、ここにあるな、と。自分と比べるアレでは全然ないということは、重々承知の上で。


アルモドバル監督の“女性賛歌”三部作、というコピーだったけど、こういう映画、大好きなんですよね。実は。
ジュリア・ロバーツ主演の「マグノリアの花たち」という作品を思い出しました。



DMMでレンタルも出来ます。 
  >>>ボルベール
  >>>マグノリアの花たち

2007年8月31日金曜日

ルイ・ヴィトンの広告

ルイ・ヴィトンの新しいキャンペーンで、まぁ、ゴルバチョフとかが話題になってるアレですが、カトリーヌ・ドヌーヴのヴァージョンが激ヤバです。超クール。





あの、視線の向く方向とか、凄い。首の角度とか。足の組み方、足首の角度、しかも両足とも、完璧。
立ちのぼるオーラ。あんな写真、撮ってる方は鳥肌立っちゃうんじゃないでしょうか?

あと、コピーも最高。「撮影最終日、3テイク目。パリ。」ヤバイでしょ、マジで。

しかも、そもそもルイ・ヴィトンのバッグの上に腰掛けてるんだよ。

もう少しで撮影が終わって、このバッグ持って、家に帰ろう、とか、そういうストーリーなんでしょうか。

いやぁ、新聞めくってて、こんなビックリしたのも久し振り。

ちなみに、同じ日の、“エクラ”という雑誌の創刊の広告には、黒木瞳が。コピーが「憧れはいつも『パリ』からやって来た!」
サブいっ! サブいぞっ! 
黒木瞳さんは、嫌いじゃないですが(というか、むしろ大好き)、ちょっとイモ臭いな、この写真は。残念ながら、ルイ・ヴィトンと同じ日に掲載された事が不幸でしたね。もう、どうしょうもないです、こればっかりは。


いやぁ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ハンパないっス。

2007年8月30日木曜日

三池監督咆える

ちょっと前の朝日新聞に、面白い記事があったんで、ご紹介。
新作のプロモーションで、タランティーノと三池監督が、一緒にインタビューを受けてまして。で、タランティーノは全然イイこと言ってないんですが、三池監督が、なかなか熱く語ってます。

以下引用でっす。

(自作に出演してもらって)タランティーノ出演というのは僕らの夢。映画は人に夢を与えるもの。自分の夢をかなえる力を持たない人は他人に夢を与えられない。いい外国映画を見た。じゃあカメラマンを日本に呼んで一緒に撮ろう――。そういう発想は日本にまず、ない。あるものの中から消去法で決めていくやり方を、自分で崩さなきゃいけないと思った。この映画を見た次の世代の人たちは「本当に欲しいものなら交渉してみよう」と考えるでしょう。
才能ある人間が行動すれば何かが手に入る。本当はそううまくはいかないけど、まれに実現してしまう人がいる。それがクエンティン。「レザボア・ドッグス」の製作費は、親類から金を集めれば誰でも撮れる程度。でも絶対に撮れない。あの作品は映画人みんなに突きつけた。「環境じゃなくてあなたの問題だ」と。
人間はセックスがもとで生まれてくるわけだし、バイオレンスも人間の性(さが)。それを無いことにして弱さとか優しさで観客を泣かせる方が、よっぽど「暴力的」な映画を見ている気分になってくる。


ということです。あの顔を想像しながら読むと若干暑苦しいですが、個人的には、頷くばかりでっす。
う~ん。
「親類から借りる」かぁ~。貸してくれっかなぁ。

う~ん。とりあえず、シナリオ書こっと・・・。

2007年8月28日火曜日

「蝉しぐれ」を観た

珍しく、日曜日の夜、家にいたので、せっかくなんで、テレビでやってた「蝉しぐれ」を。

うっかり、山田洋次監督の作品かと思ってました。一連の、藤沢周平原作モノのアレかと。違いましたね。お弟子さんが監督みたいです。

さて、内容ですが・・・。
ひたすらスクウェアな構図のカットで推していくワケです。まずは、とにかくそこが新鮮で。逆に。

で、主人公は市川染五郎さんが演じるんですが、その少年時代を演じる役者さんがとにかくイモで、酷いな、と。その相手役のカワイイ女の子は、びっくりするくらい上手で、逆に主人公のイモ役者っぷりが浮き上がりまくりで、「これでイイのか?」と何度も首を傾げながら・・・。

なんていうか、ある程度“その世界”に引き込むような仕掛けが欲しいんですよね。時代劇って。
ま、時代劇に限らないことだと思うんですが。
例えば、鬼平犯科帳だと、あの激シブのナレーションですよね。あの声の発声一発で一気にその世界に持っていかれちゃうワケで。この作品には、どうもそういうアレがない気が。
ま、俺がそう感じただけですけどね、あくまで。

で、その、少女が成人すると、木村佳乃さんになるワケですが、あんまり顔が似てないんで、そこでも「ムムッ?」と。

ところが、その何カットか後に、引き裂かれてしまったその想い人(染五郎さんのこと)が、未だ独り身であるという事実を本人の口から告げられた瞬間の佳乃さんの表情が素晴らしかったのです!
「ここかっ!」と。

幼馴染であり、お互いの初恋の相手であり、しかし運命によって、満足に別れの言葉を交わすことも出来ないまま引き裂かれてしまった2人の、そんな2人の久方ぶりの再会であったにもかかわらず、私的な言葉を交わすことや、ましてや抱擁など全く許されぬ間柄になってしまった、みたいな云々の全てが、その瞬間にググッとくる、という。
「なんと切ないんでしょう!」と、この作品がど真ん中のオバサマ方はハンカチを噛むのでしょう。
そんな、キラー・ショットでした。木村佳乃、恐るべし。

あとは、ラストの、主人公2人が語らうシーン。なんか、構図的には変な角度の画が続くんですが、それは、2人を隔てる障子を入れ込む為の画なんですね。
その障子が、その、ついに結ばれることのなかった2人の間にあったモノのメタファーになってるワケです。その、非常に分かり易い“メタファー使い”も、ちょっと良かったですね。ちょっとしつこい気もしたけど、そこを持っていく、染五郎さんと佳乃さんの演技力の素晴らしさ、ということで。
正直、スゲェなぁ、と、思いました。


でも、やっぱり、その、画がちょっとイマイチだったかなぁ。時代劇だから、やっぱりロケとかに制約がもの凄いあるっていうのは、良く分かるんだけど。
例えば城下町とか、そういうショットが欲しいんですよね。それは、記号的な意味合いで、なんだけど。
ロケ場所とか予算とかで制約が色々ありまして、みたいなのが画面から伝わっちゃう感じで。
画は、なんか、寂しい感じがしました。それは、狙った“侘しさ”というのとは、また違った意味で。

いや、でも、良かったですよ。
山田洋次監督の一連の作品も、観てみます。そんな気にさせてくれる作品でした。

2007年8月23日木曜日

「天国の口、終りの楽園。」を観た

というワケで、月曜日の深夜にやっている定番の深夜映画番組、“月曜映画”で観た、「天国の口、終りの楽園。」でっす。

冒頭から、導入の20分くらいは、“太陽族”のガキがはしゃいでるだけで、全然面白くなくって、というか、なんかサブくて、「ヤベェな・・・」なんて思ってたんだけど、中盤、登場人物たちの関係性が、お互いの肉体関係云々で波打って、バランスが崩れ始める所から、俄然面白くなってくる感じでした。

内容は、まぁ、典型的なロードムーヴィーと言ってもいいんだろうけど。“ある種の通過儀礼としての小旅行”。そして、“ビルドゥングスロマンとしてのロードムーヴィー”。
ま、この作品も、その辺の、いわゆる“本線”は外してません。

個人的にちょっと引っ掛かったのは、なんか、途中、ところどころ、弛緩するところがあるんですよね。
それも狙いなのかもしれないんですが、個人的にはイマイチ。
ビーチの飲み屋で飲むシーンや、3人で絡み合ってしまうシーンなんて、特にそう。

なんだけど、ラストの直前、カノジョがパレオをスッと取って、波間に飛び込んでいくカットの、カノジョの開放感に満ちた笑顔に、その辺が一気に収束していく感じがあって。ま、イイなぁ、と。

ストーリーの終わり方も、青春ロードムーヴィーとしては、まぁ、教科書通りではあるんだけど、最高のエンディングですね。

画としては、なんていうか、個人的には大好きな系統というか、手持ちのカメラでゆったり撮る、という。
なので、逆にハマリ過ぎちゃって、“新鮮味”はそんなに感じなくて。“構成の妙”とか、そういう技巧的なアレとかは、まぁ、オレとしては、そんなに、と。
なんていうか、“快楽原則に則って”というか、ロケをするその場その場で、その場所に相応しいショットを1カットずつ撮ってって、みたいな感じなのかもしれません。
オレ的には、満点ですけど。

あとは、なんていうか、不思議なナレーション。
だいたい、誰が語っているか分かんないし。
で、その、ナレーションが、もの凄い独特の間で入ってくるんですよ。なんか、ヘンなタイミングで。それは、ちょっと参考になったかもしれない。

あとは、まぁ、よく喋る、と。スペイン語のリズムなんだろうけど、それがまた、心地よいというか。
ああいう、耳で聴いてて気持ちのいいダイアローグって、もの凄い大事だと思うんで。
リズムもそうだし、もちろん、言葉のチョイスもだし、俳優さんの力も関係するんだろうけど。


でも、まぁ、日本にいると、“海にいく”って、そんなに動機にならないもんねぇ。島国だし。少なくとも現代劇では、車でちょっといけば、必ず海なんて見れるワケだから。


ちなみに、十年位前に自分が書いた短編のシナリオに、「八月の風、九月の涙」というのがあったんですが、若干似てますね、タイトルが。
そういえば、それも、車を使った、ある種のロードムーヴィーでした・・・。
ちょっと思い出してしまいました。

2007年8月19日日曜日

「アニマトリックス」を観る

「ルネッサンス」「ジニアス・パーティー」に続いて、実は未見だった、「アニマトリックス」を。

面白かったですねぇ。どのエピソードも。本編の物語世界を全方位的に語る、という“外伝”としての意味もちゃんと通ってるし、それぞれのクリエイターもやりたい事をちゃんとやりきってるっていう感じじゃないでしょうか。
世界観を補強するってことでは、ちゃんと出来てますよね。

多分、「ジニアス・パーティー」のオムニバス形式という纏め方は、この作品にヒントを得て「俺らもやってみっか」的にやってみたんだと思うんですが。
やっぱり、“外伝”ってことで、いちいちキッチリとしたオチをつけなくていい、みたいな部分では、こっちの方が、作り方は楽なのかもしれないな、と。受け手がある程度は咀嚼してくれるワケで。
画とかスタイルとかがバラバラでも、全部スッと見れるのは、そういう部分なのかな。シナリオがちょっとくらい弱くても、ね。

でも、作品全体で見せる、というか。雰囲気だけで見せるって、全然アリだと思うんで。俺は。

内容は、例えば、人類対機械(アンドロイド?)の対立・戦争なんて、それだけで超大作のテーマになりうる物語ですからね。ま、浦沢直樹の「プルート」なんて、モロにそうだけどね。スピルバーグの「A.I.」もそうだしね。
ま、そういうのの焼き直しではあるんだけど、でも、ちゃんと語り切ってて、俺は好印象でした。

「探偵物語」も、スチームパンクな感じの背景も含めて、非常に良かったです。
マトリックスの一部として、ああいう世界がパラレルに存在してるってことですよね。その辺の諸々も含めて、個人的には、大好きなアレですね。

人類対機械(アンドロイド)の、第何次かは分かりませんが、世界大戦があるとして・・・。機械が勝った世界が「マトリックス」なワケですが、例えば人間が勝つと、「ナウシカ」ですね、きっと。

というワケで、次は、スタジオジブリの短編作品を集めたのを観たいな、と。
ウチの近所のビデオ屋さんには置いてなかったんで、探さないといけないんだけど。

2007年8月8日水曜日

「エレファント」を観る

相変わらず、書き込むまでが煩雑でウザいブロガーですが。しかも、アクセスがやたら遅いグーグルのブロガーですが。ま、段々慣れてきました。アマゾンのアフィリエイトもちゃんと出来るようになったし。

というワケで、本題ですが、インディペンデント・フィルムの雄、ガス・ヴァン・サント監督の傑作、「エレファント」です。
今回、DVDで、特典として、チラッと撮影風景の映像が入ってて、まぁ、ホントにチラッとなんだけど、興味津々に観てしまいました。
小さなビデオカメラで、役者とカメラの動きを打ち合わせてたり。
でも、フィルムを使って撮影してるんだろうけど、あの、時々フッとスローモーションになるのって、どうやって処理してるんだろうか。もの凄い自然だったけど。フィルムを一度デジタル化して、それをもう一度フィルムに起こしたりとか、そういうのかね。あの画の質感は、間違いなくフィルムだと思うんだけど。
フィルムの編集機で監督が編集している姿が、その特典映像に入ってたから、それとは別にノンリニア編集も使ってるってこと?
でも、ひょっとしたら、撮影もデジタルでやってるのかもなぁ。それに、なんか加工して、ああいう質感をだしてるのかもしれない。


例えば、公開当時とかって、この作品について、“静謐”だとか“静寂”だとか、そういう言葉が多かったように記憶してるんだけど、それは、全然そんなことなくって。
どういうことかっていうと、彼ら(登場人物たち)の、心の中の声が、とても声高に、聴こえてくる、ということです。まぁ、あたかも聴こえてくるかのように撮っているワケですが。
そういう意味では、全然“静かな”映画では全然なくって、とても雄弁な作品ではないか、と。

自意識として抱えている独白や叫び声。
彼らは挨拶を交わすだけでなくって、視線を交わし、キスを交わし、その間、彼らはずっと、言葉を紡いでいる。というより、言葉になる前、言語化される前。
そう。まだ“言葉として浮かび上がらせる技術をまだ習得していない”のが彼らの真の姿なワケで、例えば、廊下を歩く姿を延々背後から追い続けるシーンで、受け手は、彼らの内側を、自分の内側にあるものとして共有することが出来る、と。
その、共有する為の時間が、あの“間”であり、延々の追い続ける“時間”の意味である、と。

もう一つ。
射殺犯2人にとって、犯行は、もの凄くハードルの低いアレだったワケですね。ベタな表現を使うと、日常の延長上にある、という。
宅配便でライフルを入手できてしまう、という。
タッチフットをしたり、カノジョと遊びに行こうとしたり、女友達と便所で吐いたり、そういう日常の行為と並列化して、ライフルをガレージに積み上げられた薪に試射する、みたいな姿があって。
ま、「要するに、銃規制なんですよ」というメッセージなんでしょうが。監督なりの。

「タクシー・ドライバー」「ナチュラル・ボーン・キラーズ」「エレファント」。
人間が本質として持っている暴力性というのが、俺の解釈です。

2007年8月2日木曜日

「ルネッサンス」を観た

一部で話題になってるっぽい、フランス産のアニメーション「ルネッサンス」を、渋谷のシネセゾンにて、観ました。

これは、確かテレビのCMか、ゾディアックの時の予告編か、どっちかで、チラッと映像を目にしてて、「お、これは!」と思ってたんですよね。それで、たまたまタイミングが合ったので。

まぁ、どんなテクノロジーもそうなんだろうけど、CGでもなんでも、技術が発達すると、その技術を使ってなにかやりたくなるのが人情ってもんで、それが「シン・シティ」なんだろうし、この「ルネッサンス」なんだろうな、と。IBMがサポートしてるっていうクレジットも入ってたしね。まぁ、IBMとしたら、至極まっとうなお金の使い方なんじゃないでしょうか。

さて、作品の雰囲気ですが、なんていうか、フィルムノワールそのまんま、と言っていいと思います。フィルムノワールの空気感を、近未来を舞台に再現してみました、という。
ただ、ストーリー的な目新しさは、全くナシ、という感じ。なんで、このストーリーを、この技術で語る必然性があんまりないような。
技術というか、要するに、わざわざコンピューターで作ったモノクロの画で、ということなんですが。CGメインなのか、丸まるアニメーションなのか、正直良く分かってないんですが、ま、どっちでも、イマイチ、と。
ちょいちょい、グッとくる瞬間はあるんだけどねぇ。だけど、ホントにちょっとしかなかったかな。
ハードボイルドに語りたいなら、もっと他にあるんじゃねぇの、と。生意気ですが。

押井守の“光学迷彩”と“アヴァロン”っていう単語。アキラの“小さな老人”、などなど、元ネタが俺でも分かっちゃうって、ちょっとアレだと思うしね。

それから、ディスコで流れてる音楽が、全然近未来なサウンドじゃないんだよねぇ。まぁ、実際、その時代にどんな音楽で踊ってるかどうかは誰も分かんないんだろうけど、もうちょっと“それっぽい”音楽でも良かったんじゃないんでしょうか。
あ、あと、カーチェイス・シーンの音楽は、まんま007だし。ワザとなんだろうけど、それもイマイチ。

あとちょっと思ったのは、テンポが遅い感じがするんだよね。これは、ちょっと個人的な考えなんだけど、やっぱり、画面に映っている情報量が少ないからじゃないか、と。
実写と比べるとでもそうだし、いわゆる普通のアニメーションと比べても、そうなんじゃないかな。ちょっと、確かめようがないアレなんだけど。
だから、脳ミソの情報処理能力が余っちゃってて、ストーリーのテンポに全然追いついてる、というか。実写なら全然成立してるテンポでも、ちょっとスローに感じてしまう。
多分、実写なら、普通のテンポなんじゃないかな。シナリオの分量的には。ただ、それをそのまんま、このスタイルの映像で作ったら、スローテンポな感じになっちゃった、と。
ま、俺の勝手な推察ですが。

なんていうか、もうちょっとエッジの効いた作品だろうと、相当期待度が高かった分、肩透かし度も高くなっちゃいましたね。
いわゆる、普通の佳作です。偉そうに言わせてもらえば。
音楽変えるだけで相当変わると思うなぁ。もっと振り切っちゃっても良かったんじゃないの、と。
まぁ、こんな感じでした。


2007年7月15日日曜日

周回遅れ寸前

あやうく周回遅れになるところでしたが、書こう書こうと思ってて、ようやく今日書きます。

先週の日曜日(8日)の朝日新聞より。まずは23面(ページ、ということです)の、中園ミホさんという脚本家の方のコラム。山田太一さんについて。山田さんの“お言葉”をいくつか引用してまして。
山田さん曰く
「脚本家はオリジナルを書かなきゃ、脚本家じゃありません」

さらに、これは山田太一ドラマでのセリフで
「洗練、成熟というものは成長の止まったじいさんに任せればいい」

それを受けて、中園さん
「脚本家はきっと、諦めた時に成長が止まる。山田さんの作品は年々、尖っていく」


お次は、その裏面の、24面にて。寺山修司の特集記事。
ありとあらゆるジャンルに手と足と口を突っ込み続けた寺山のその振り幅の大きさの裏にあった通奏低音とは何だったんだろうか、ということで、「『そんなもん、ないよ』と彼は一笑に付すだろうけど、たくさんある候補の中で、一つは、いい意味での『嘘』あるいは『虚』への執着、もう一つは『偶然』へのこだわり」では、と。

寺山曰く
「未来の修正というのは出来ぬが、過去の修正ならば出来る。そして、実際に起こらなかったことも、歴史のうちであると思えば、過去の作り変えによってこそ、人は現在の呪縛から解放されるのである」
これが、“いい意味での『嘘』と『虚』である、と。
さらに寺山の言葉。
「あした、なにが起こるかわかってしまったら、あしたまで生きてる楽しみがない」
「コンピューターはロマネスクを狙撃する工学である」
「必勝を獲得し、偶然を排したとき、人は『幸運』に見捨てられ、美に捨てられる」

寺山はこの、“嘘”や“虚”、そして“偶然へのこだわり”によって、“現実”や“私”を揺さぶっていた、と。

寺山曰く
「どんな鳥だって 想像力より高く飛ぶことはできないだろう」


その、寺山修司へ、なんと山田太一さんが登場してきて「大学に入ってきた時の同級生です」というコメントを。

えぇ!?

山田さん曰く
「僕が、普通に生きている人の人情のディテールを捨てない方向にいったのは、彼への対抗表現だったかもしれません」

そして、山田さんの「早春スケッチブック」というドラマを寺山が観てた、ということで、
「日常的な生活を批判する男が出てきて、普通の市民生活を送っている家族が揺さぶられる話なんです。揺すぶる方のモデルが自分で、揺さぶられるのが僕だと思ったらしい」

これは、すごいですよね。こんな同級生。

ここで終わらず、もう一つ。その次の25面。河瀬直美監督のインタビュー。
「国や文化が違っても、同じ人間としての本質が取れているかどうか」
「人間が心の奥で欲している『リアル』に届いているかどうか。だから、自分が実感を持てないことをやっても、何も突破できないのだと思いますね」
「私自信が持っている実感や表現したいことは、目には見えない。それを映像に焼き付けていくには、スタッフワークがとても重要だと思うのです」
「不器用でも自分の思っていることは言葉にしなくてはならない、さらけ出してコミュニケーションしなくてはだめだと分かるようになりました」
「不思議なことに、ゆるぎない信頼関係は空気となって画面に写る、と私は思います」


長くなりましたが、これは、自分の為の“記録”ですな。完全に。

なかなか不思議な朝日新聞でした。

2007年7月14日土曜日

「ゾディアック」を観た

この間観た、デヴィッド・フィンチャーの「ゾディアック」の感想です。 正直、客観的な評価は分かれる作品かもしれませんが、個人的には大満足。 年代がちょうど“その頃”ということで、冒頭から、サントラで使われている曲も、今個人的に一番はまってるジャズファンク系で、まずそこでニヤリ。 ちょっと長めのオープニングなんですが、ま、演出として、その辺で時代設定をする、ということなんでしょうが。 フィンチャーと言えば「セブン」ですが、本作にも“図書館ネタ”が出てきて、「セブン」を思い出してニヤリ、みたいな。 それから、やっぱり、“暗闇”の使い方ですよね。多分“電燈”というか、町中がまだ暗かった時代ということもあって、ともかく暗い中で進んでいく感じが良かったです。雰囲気があって。 生意気ですが、ああいう“暗闇”の使い方は、自分が目指している所でもあるんで。 若干、これみよがしな感じのCGカットがあって(二ヶ所くらい)、それは鼻についたかな・・・。 色としての“暗闇の黒”はたっぷりですが、ただ、今回は、“心の暗闇”という部分の描写は全くないですね。そういう意味でのサスペンス性はありません。 ともかく犯人側は、“犯人像”があるだけで、“肉迫”とか、“追い詰める”的なことは、まぁ、あることはあるんですが、あんまり力点はおかれてなくって、言っちゃえば、“追いかける側”の、例えば友情関係とか、人間ドラマとか、そういう方を描いている作品ですよね。ま、全然良かったですけど。 捜査陣側の人間は、当然、みんな男なんですが、その辺の描き方も「セブン」と重なる部分ですよね。それは、監督本人の指向なのか、それとも、もしかしたら、マーケティング的な要請なのかもしれないなぁ、と。 なんていうか、実話を基にしてるっていうのもあるんだろうけど、“犯人を追い詰める”という部分では、シナリオ的には若干弱い、というか。スターも出てないし。なんで、その辺の要素を加えて、初めて、成立するシナリオなのかも、と、思いました。 う~ん、でも、「ファイト・クラブ」もそうだけど、やっぱり監督本人が、そういう、男同士の“絆”みたいのが好きな人間なのかも。 と、そんな感想でした。 とにかく、黒、黒、黒。フィルムの質感。そういうので雰囲気を作っていく、と。 

2007年7月12日木曜日

「アサシンズ」を観る

「憎しみ」の、モノクロームの画とモノローグ、そして何発かの銃声音で、一躍名前を挙げた(カンヌも獲りましたね)、マシュー・カソヴィッツの、その「憎しみ」の後の作品。
ま、前作の評価が凄かった分、それとの比較になるのは、ある程度はしょうがなくって、ここでもやっぱり、そこから入るんですが。

前作は、それはモノクロだったっていうのも当然あるんだけど、もの凄いシャープな画で、今作は、それとは対照的に、まるで16㎜みたいに(言い過ぎ?)、粒子の粗いザラザラした質感。
ひょっとしたら、シャッタースピードをちょっと遅くしてるのかもしれない、と、思うくらいに、ブレて残像がチラチラ出るくらいだし。
この辺は、自分の技巧を誇示してるって感じ。まぁ、もちろん、効果的なんですけどね。狙いに沿った、当然、これも演出の一環であろう、と。

演出で言うと、補聴器やテーブルクロスを巧く効かせたりして。
この辺は、何ていうか、暴力的だとか、社会派だとか、色々、外野から貼られるレッテルの文言ばっかりに目がいきがちだけど、ちゃんと踏まえるべき文法は踏まえているんだよねぇ。
この辺は、非常に勉強になりますな。

時間軸の操り方も上手。具体的には、回想やフラッシュバック、そして得意の、1カットの中でサラッと時間の経過を表してしまったり。

ストーリーは、なんていうか、特に前半部分は、キャラクターがボンクラなのもあって、ドライヴ感がちょっとなくって、イマイチ。
ま、それも、恐らく、フリということなんでしょうが。

この、タイトルに複数形の“S”が付いてる所がミソで、まぁ、軽くネタばれしちゃうと、“2人”なんですが。
ちなみに、3人目は、“見習い”扱い。

その、2人のアサシンのうちの一人が、アクセル全開時の津川雅彦のような存在感で見せる、老ヒットマン。
求道者かのような口ぶりで、しかし、俗まみれ、ルサンチマンだらけで、迫りくるその老いに恐れおののきながら、それでも必死に自分の生きてきた証を、その技術を誰かに継承させることで残そうと、必死にあがく、という。

もう一人が、まぁ、少年なワケだけど、最後、学校(正確には、校門の外)で銃を撃ちまくる姿は、例えばアメリカの銃乱射事件を思い起こさせたり。
まるで予言のようだけど。
つまり、ある意味では現代社会こそが、極めて優秀な殺人者の養成システムなんだ、と。

そういうラストに向けての、ホントに最後10分くらいで一気に持っていく感じ。

実は、この人は、なんていうか、非常にベタな着想ばっかりだったりもするんだけど、一番最初の、目線の置き方、着眼点の置き所、みたいのがね、もの凄い良いんだろうなぁ、と、思います。
そこから、技巧でそれを支えることで、一つの商業映画として成立させている、と。
ま、俺なりの分析でした。