2007年8月8日水曜日

「エレファント」を観る

相変わらず、書き込むまでが煩雑でウザいブロガーですが。しかも、アクセスがやたら遅いグーグルのブロガーですが。ま、段々慣れてきました。アマゾンのアフィリエイトもちゃんと出来るようになったし。

というワケで、本題ですが、インディペンデント・フィルムの雄、ガス・ヴァン・サント監督の傑作、「エレファント」です。
今回、DVDで、特典として、チラッと撮影風景の映像が入ってて、まぁ、ホントにチラッとなんだけど、興味津々に観てしまいました。
小さなビデオカメラで、役者とカメラの動きを打ち合わせてたり。
でも、フィルムを使って撮影してるんだろうけど、あの、時々フッとスローモーションになるのって、どうやって処理してるんだろうか。もの凄い自然だったけど。フィルムを一度デジタル化して、それをもう一度フィルムに起こしたりとか、そういうのかね。あの画の質感は、間違いなくフィルムだと思うんだけど。
フィルムの編集機で監督が編集している姿が、その特典映像に入ってたから、それとは別にノンリニア編集も使ってるってこと?
でも、ひょっとしたら、撮影もデジタルでやってるのかもなぁ。それに、なんか加工して、ああいう質感をだしてるのかもしれない。


例えば、公開当時とかって、この作品について、“静謐”だとか“静寂”だとか、そういう言葉が多かったように記憶してるんだけど、それは、全然そんなことなくって。
どういうことかっていうと、彼ら(登場人物たち)の、心の中の声が、とても声高に、聴こえてくる、ということです。まぁ、あたかも聴こえてくるかのように撮っているワケですが。
そういう意味では、全然“静かな”映画では全然なくって、とても雄弁な作品ではないか、と。

自意識として抱えている独白や叫び声。
彼らは挨拶を交わすだけでなくって、視線を交わし、キスを交わし、その間、彼らはずっと、言葉を紡いでいる。というより、言葉になる前、言語化される前。
そう。まだ“言葉として浮かび上がらせる技術をまだ習得していない”のが彼らの真の姿なワケで、例えば、廊下を歩く姿を延々背後から追い続けるシーンで、受け手は、彼らの内側を、自分の内側にあるものとして共有することが出来る、と。
その、共有する為の時間が、あの“間”であり、延々の追い続ける“時間”の意味である、と。

もう一つ。
射殺犯2人にとって、犯行は、もの凄くハードルの低いアレだったワケですね。ベタな表現を使うと、日常の延長上にある、という。
宅配便でライフルを入手できてしまう、という。
タッチフットをしたり、カノジョと遊びに行こうとしたり、女友達と便所で吐いたり、そういう日常の行為と並列化して、ライフルをガレージに積み上げられた薪に試射する、みたいな姿があって。
ま、「要するに、銃規制なんですよ」というメッセージなんでしょうが。監督なりの。

「タクシー・ドライバー」「ナチュラル・ボーン・キラーズ」「エレファント」。
人間が本質として持っている暴力性というのが、俺の解釈です。

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