「CSI」でお馴染み、ウィリアム・L・ピーターセン主演、ということで、若き日のピーターセンが、とてもシャープな存在感で出てきます。
「CSI」では、なんかモサモサした、なんかすっトロい印象の役柄として出てくるワケで、かなり新鮮ですけど。
敵役は、これもまた、若々しいウォレム・デフォー。こちらは、デフォーはいつでもデフォー、という感じで、怪演。
ストーリーは、けっこう込み入ってて、単純に話の面白さを感じる内容でした。
主人公は、シークレット・サービス。
シークレット・サービスっていうのは、(当時は)アメリカ政府の財務省の管轄下の捜査機関で、贋札の捜査っていうのが大事な任務としてあるワケですね。
もう一つの、要人の警護っていう任務の方がよく知られてますけど。
その、主人公は、ただ捜査官だってだけでなく、「若くて血気盛んで、やり手の」という形容詞がつく人物だ、と。
冒頭からの幾つかのシークエンスで、主人公と組んでいたベテラン捜査官が、定年で引退になって、ということが語られます。
未解決の捜査案件が一つあって、要するにそれが、ウォレム・デフォーが率いる組織なんですけど。
もうひとつ、ちょっと分かりにくい形で主人公の“人となり”を描写する要素があるんですけど、それは、「ベースジャンプ」。
ウィキペディアの項目から引くと、こんな感じで書かれています。
ベースジャンプ (BASE jump) は、地上にある建造物や断崖などの高いところからパラシュートを使って降下するスポーツである。飛行機から飛び降りるスカイダイビングと比較して非常に危険であり、エクストリームスポーツの一つに分類され、その中でも最も危険なものとされる。
つまり、主人公は、若くて、どこか“ぶっ飛んだヤツ”ってことですね。
古い言葉に「翔んでる」っていうのがありますけど、「新人類」とか「シラケ」とか、まぁ、今で言ったら「ゆとり」とか、そういう、ある時期の、ある世代の若者を指して、というより、半ば揶揄して使うアレですけど。
奇しくもダブルミーニングになってますけど、つまり、主人公は「翔んでる」ワケです。
翔んでる若者、ウィリアム・ピーターセン。
とりあえず、そういう前提で、ということで、いきなり結末みたいなのを書いてしまうと、要するに“ニヒリズム”みたいなのがテーマだったりするんです。
ニヒリズムというか、多分“生きている実感”の乏しさ、ということだと思うんですけど、ジャンプという、スリルを得ることで初めて“実感”できる、みたいな、そういうキャラクター設定。
生きる/死ぬ、という感覚に対する執着は、ただ日常を生きているだけではそれを実感することができない、というところに因るワケで、これが、「事件の解決」とは別の“疾走感”みたいなのをキャラクターに与えている、というか。
“疾走”というか、まぁ、殆ど“暴走”なんですけど、そういう、無軌道なエネルギー、みたいなのも、“若さ”なワケで。
で。
その、定年を間近に(数日後)控えた相棒が、何者かに殺害されてしまう、という事件が起こる、と。
自分と同世代の新パートナーと組んで、相棒が追っていた未解決事件を、追い始める主人公。
犯人は、贋札を作っている犯罪組織で、ということで、ここは、シークレットサービスならではの任務なワケで、面白いですよね。
で、組織のリーダー(ウォレム・デフォー)と接触することに成功して、囮捜査として、取引を持ちかける。
ところが、その取引に必要な“現金”がない、と。
上司の決裁が下りず、せっかくの逮捕の好機を逃すことになってしまう。
どうするか、ということで、主人公は、自分が使ってる(肉体関係も持っている)女から、別の犯罪組織の取引の情報を入手して、その取引で使われる現金を強奪してしまおう、と。
そういう計画を立てるワケですね。
殺されたパートナーの為に、囮捜査を仕掛けて、その囮捜査の為に、現金の強奪を企てる。
で、強奪自体は成功するんだけど、その後に、なんだか物凄い“追跡”を受ける、と。
とても犯罪組織のやることとは思えない程の、死に物狂いの追跡を受け、主人公たちも必死に逃げる。(カーチェイスのシークエンスは、結構迫力があって、良かったです。好きですね。)
その過程で、一人の男を殺してしまうが、なんとか逃げ切る。
ところが、と。
それはなんと、FBIの用意していたカネだったんですね。
FBIはFBIで、別の捜査のためにそのカネをLAに持ち込んでいて、それをシークレット・サービスの捜査官である主人公たちが強奪してしまい、死者が一人でている、という、とんでもない事態になってしまう。
この、捜査機関同士の対立、というのは、個人的に凄い好きな展開で、まぁ、そういう作品っていうのはいっぱいあるもんなんですが、この作品も、個人的に一番ツボだったのは、この、ストーリーの展開の部分。
犯罪者だと思ってたら、なんと“同業他社”だった、と。
主人公の新パートナーは、罪悪感に苛まれ、弱気を吐くんですが、ニヒリズムによって駆動している主人公は、抑えが効く状態ではなく、止まらない、と。
血塗られた“現金”を抱えて、デフォーに会いに行く主人公たち。
そしてなんと…。
最後のこの展開。
とんでもない結末。
軽く驚いちゃいましたけど。
ズバリ言うと、主人公の死。
そして、罪悪感に苛まれていた男が、ある種の“覚醒”をする、と。
自分なりのニヒリズムをまとい、そして、という結末。
う~ん。
なかなか面白かったです。
ただの刑事ドラマでなく、メロドラマでもヒューマンストーリーでもなく、しかも、「ただの刑事ドラマじゃない」というのが、“重厚に”作ってある、ということじゃなく、ストーリーに“捻り”を加えることで成立させている、という気がするんですね。
ここが結構ポイント。
重厚に、というのは、悪く言えば“肥大化”でしかないワケで、この作品に関しては、そういう方向にはいかないワケです。
主人公の家族なんて少しも描かれない。
新旧のパートナーとの関係と、情報屋の女との支配的な関係性だけ。
その中で、生きる/死ぬことを、あくまでドライに描いていく。
成功してますよねぇ。
なんか、奇妙な感動があるワケで。
うん。
誰にでもお勧めできる作品ではない、というのは間違いないんですが、この奇妙な感動というのもまた、それなりに意味と価値があるんじゃないか、というか。
そういう感じの、不思議な作品でした。
今日はこの辺で。
でわ。