2008年1月28日月曜日

「複眼の映像」を読む



という本を読みました。
名著、と、言っていいでしょう。普通に読み物としても面白くって、まぁ、それは、稀代のストーリーテラーが書いてるんだから、当たり前っちゃ当たり前なんですが。

で、感想は、ちょっとまた別の機会に気合を入れて書きたいんで、最後の著者からのメッセージの引用だけ。

日本の映画も演劇もその根幹をなす作品の脚本は共に共同脚本である。
我々の感覚や才能はたかが知れている。しかし三人寄れば文殊の知恵で、映画も演劇も、その脚本は知恵と力を合せ、共同脚本とすることの出来るのが最大の特徴でもあるのだ。これまで供述した黒澤組の「ライター先行形」でもいいし、材料次第では「いきなり決定稿」でも・・・いや、そうしたことの踏襲でなく、もっと変わった新しい共同脚本の作り方でもいい。とにかく著作者達の信頼と連帯感で、知恵と力を合せることの出来る、新しい方式の脚本をぜひ試みてほしい。

天才的なライターの出現を待つ、突然変異の期待などはあまりにも馬鹿げており、問題解決はあくまでも現況を対象にせざるを得ないが、現有のライター群(日本だけでなく世界的に)にも、その単独脚本では先行きの見込みはあり得ない。
しかし、もし、新しい共同脚本なら、まだまだ新しいものの出てくる未知数と可能性をかなり秘めており、オリジナリティ溢れるそれらの出てくることで――呱々の声を上げ、監督も生まれ育つが、その時にこそ、黒澤明を越える、第二、第三の新しい黒澤明が初めて出現するのだ。
優れた監督は優れたシナリオが先行した場合にのみ生まれる。


ある意味、とても“恐ろしい”結論ですが、しかし、深くて大きな言葉ですな。

2008年1月16日水曜日

「ミリオン・ダラー・ベイビー」を観る

「海を飛ぶ夢」から“尊厳死”繋がりで、というワケではありませんが(ちょっと、あります)、クリント翁の「ミリオン・ダラー・ベイビー」を、一日延滞して、DVDで観ました。


まぁ、屈指の名作ですよね。

この、シャープな質感と、明暗のコントラストを強くして“黒”を思いっきり強調させる、という画の作り方の、ある意味で究極な感じなのが、まずはこの作品の特徴ですよね。
個人的には、ワリとこういう画が、最近のハリウッドの“流行”なのかなぁ、なんて思ってるんですが、ま、好きなんですよ。この手の色合いの画が。

俺の理解している範囲では、光量を多くして、レンズの絞りをきつくして、という技法なんでしょうけど、まぁ、恐らく、他にも色々な技術があるんでしょう。“銀残し”とか、ね。一応、名前は知ってるんですが。
「ミスティック・リバー」では、ここまでコントラストが強い感じではなかったので、演出上の要請でこうなった、と。
まぁ、大半が室内(ジム、試合会場、部屋の中)でのストーリーなので、作りやすい、ということもあるんでしょうけど。

しかし、恐らくそんなに予算も使ってないであろう、その範囲内でキチンと物語を語れるようになっている、シナリオが素晴らしいですよね。
実は、“使い古し”のトピックでもあるんですよね。まずは、ボクサーの成功物語、というのがそうだし、白人のボスに黒人のパートナー(ジムの用具係?)というのも、実はそう。田舎から出てきた、ダイナーのウェイトレス。アメリカのある種の恥部であるホワイトトラッシュ。トレーラーハウスに暮らす彼女の怠慢な家族。不器用な老いた男。その男と若い(一応、ね)女性との擬似的な父娘関係、イコール、不器用な恋愛の物語。対戦相手の、“悪役”としての黒人選手。狡猾なメキシコ人、・・・。

ただ、そんな“使い古し”の物語を、3人の抜群の存在感と、シャープでエッジの効いた画面も含めたクリント翁の演出が、まったく古くささや既視感を感じさせない、という。

カメラワークとかカット割りなんていうのも、ホントにオードドックス。というより、シンプル。
試合の場面では、必ず、まずは斜め45度から70度くらいからの俯瞰から始まり、リング上の彼女、リングサイド、観客の表情を、順番に追っていくだけ、という。
だけど、まぁ、いいんですよ、これが。そこから生まれる説得力。素晴らしい。


彼女の、手ごたえを実感した時の素朴な笑顔とか、勝利の時の歓喜の表情とか、最高ですよね。
クリント翁の、リングサイドで右往左往しながら試合を見る仕草とか。


まぁ、でも、俺としては、時には画面を覆うぐらいの、“真っ黒な暗闇”の使い方ですよねぇ。

あと、勉強になるよなぁ、と、つくづく思ったのは、やっぱり、“実は低予算”であるところですかねぇ。

まぁ、しかし、いい作品でした。



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2008年1月15日火曜日

「ブラック・ダリア」を観る

実は、劇場公開の時に「これは絶対に外せないぞ」と決意してたものの、なんやかんやで忙しくて、なおかつあっという間に公開が終わってしまい、結局映画館では観そびれてしまった、という、ジェイムズ・エルロイ原作のLAノワール、「ブラック・ダリア」をDVDで観ました。

主演はジョシュ・ハートネット。まずは、彼の存在感の、というか、佇まいって言うんですかね、それが凄いいいな、と。

カット割りとか、まぁ、ストーリーそのものにも、そんなにスピード感はなくって、ワリとゆったりと展開していくんですが、それにジョシュ・ハートネットの雰囲気がピッタリ合ってる感じがしましたね。
物語の最初から最後まで、ずっと、葛藤したり悩んだりしている彼の、目元の演技というか、表情を、ずっと追っていくだけの“間”が常に与えられている、という。
まぁ、ジョシュ・ハートネットだけでなくって、この監督のこの演出があれば、どんな役者さんでも“表情の演技”を味わえるのでしょうけど。

で、ストーリーは、個人的にはやや緩慢な印象がありまして。
冒頭のボクシングの試合のシークエンスも、正直、あんまり“入り込めない”まま、次に展開してしまい、しかも、演出が、ある意味ではそんなに親切でなく、キャラクターの顔と名前が一致しないまま、登場したり死んだりして、その辺は不満っスね。

サスペンスというか、謎解きの部分で引き込む種類の作品でもないので、まぁ、それはいいんですけど。


ただ、この作品が良かったのは、とにかく画面の“色”ですよね。「LAコンフィデンシャル」よりも、もっと黒が強調された画面は、とにかくクール。
去年の「ゾディアック」は、個人的にはかなりポイント高かったんですが、良く似てます。

この時代には、恐らく蛍光灯はまだなかったと思うんですが、それが画面にも反映されていて、全編に渡って電球(白熱灯?)の暖色系の光と暗闇の黒のコントラストが、美しいだけでなくって、それがそのまま、“人間の心の暗闇の部分”を描くという、物語の空気感の演出にもなっている、という。


謎解きの魅力はそんなにない、ということで、最後に、犯人が分かっても、愛を再び確認し合っても、正直、カタルシスみたいのは、イマイチです。
その辺は、ひょっとしたらシナリオが散漫な感じになっているからかもしれませんね。まぁ、原作ありきの作品ですから、しょうがないっちゃしょうがないのかもしれませんが。


ま、その、画面の暗闇が放つ強烈なノワール感を味わう、という、そういう作品ですな。
ということで。



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2008年1月14日月曜日

「ボビー」を観る

傑作との誉れ高い、「ボビー」をDVDで観る。

“ボビー”というのは、ロバート・F・ケネディのことで、兄がJFK、つまりケネディ大統領ですね。ボビーもRFKなんて言ったりしますけどね。

で、この“ボビーの暗殺”がストーリーの軸になるワケですが、O・ストーンの「JFK」とは違って、犯人側の描写は一切ありません。同時に、ボビー本人の描写も、ほとんどありません。
まず、この構成がすばらしいですよね。
グランドホテル・スタイル、というか。
ちなみに、それを意識して「グランドホテル」というセリフが出てきます。

個人的に、こういうスタイルの群像劇というのは、ホントに大好きなんで、そういう意味では、採点はやや甘めですが、恐らく、それを抜きにしても傑作でしょう。


登場人物にとっては、“RFK”とは、つまり“希望”なワケですが、その、“希望”を中心に円を描きながら、最後に“悲劇”に向かって収束していく、という物語。

たとえば、これも名作ですが、「クラッシュ」だと、逆で、差別であったりとか不信感であったりとか、そういうネガティヴな要素が物語をドライヴさせる推進力になって、最後に、小さいんだけど、希望というか、ポジティヴな所に着地する、みたいなアレで。

どちらも、“暴力”と、その暴力が“破壊する(した)モノ”を描いている、という共通点も見出せますが。
あ、あと、どちらも傑作ですね。


特に政治的なメッセージを具体的に言ったりはしてないように見えますが、はっきりと、何度も、ベトナム戦争云々という言葉が出てきますね。RFK(本人のニュースフィルムを使ってます)も言うし、登場人物も言いますし。
これはずばり、現在のイラク戦争のメタファーですよね。

この作品の豪華キャストも、恐らく、ハリウッドの“民主党サイド”というか、“リベラル人脈”の中で繋がっている人たちなのでしょう。
チャールトン・へストンなんか絶対出てきませんよ、という。

あ、それから、“FBI”というセリフもちょっと出ますね。
これは、この時代、例えばキング牧師の暗殺にはFBIやCIAなんかが絡んでたワケで、これを連想させる為ですよね。
そういう意味では、極めて政治的な意図を持って作られ、なおかつ、それゆえに作品自体の評価もさらに高くなっている、という作品と言えますな。


個人的には、ローレンス・フィッシュバーンが最高にハマッてるシェフのエピソードが最高でした。
黒人とラティーノとの、賄いを食べながらの会話。
その、彼らに対する“差別”を理由にクビにされるクリスチャン・スレイター。その、上司の支配人は、「ファーゴ」の“ダメ顔”。
支配人は“リベラル”な感じで、差別には怒るが不倫もしちゃう、という。しかも女房はシャロン・ストーン。



恐らく監督は、大衆と、もしくは、その大衆の夢や希望と直結していた政治家、という、政治家としてはRFKが最後だったのであろう、ある種の“残像”を描きたかったのだと思います。
その“大衆”の方を描いているワケですね。この作品は。
その目線のポジションも、個人的には好感が持てるところでしたね。


底辺と頂点が“希望”をキーに直結していた民主主義。そして、まさにその民主主義の手続きである、選挙の真っ最中に、兄と同じように暗殺されてしまったRFK。
それ以降、アメリカのリベラリズムは沈没していくワケで、そこへの郷愁と、現在への批判こそが、この作品のテーマであり、同時に、スターを集めた引力、というか、作品の製作自体のエネルギーにもなったのではないのでしょうか。

というワケで、オバマ候補が「ケネディの再来」なんて言われている2008年の現在にこそ相応しい作品でっす。




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2008年1月8日火曜日

「海を飛ぶ夢」を観た

深夜のテレビで、スペインが舞台の、実話を基にしたという「海を飛ぶ夢」を観た。


この作品は、たしか公開時にも結構話題になってた記憶があるのですが、いやぁ、素晴らしかったです。
おそらく、原題からはやや意訳しているかと思われる邦題は、イマイチですが。


まず、その、あまり凝ったことや奇をてらったことをしてこない演出と映像がいいですね。
とくに、画に関しては、ホントに“写実的”に、風景や、俳優たちの表情や、彼らが立っている部屋や空間を切り取っていくだけ、という、これがホントにいいんですよ。

演出もシンプルに徹していて、例えば、主人公が「空を飛んでいる」ところを夢想すれば、実際にカメラが空を飛ぶ(空撮)、という。ベタなんです。タイミングもそうだし、使い方も。でも、いい、と。

で、この、空撮の画も素晴らしいんです。山をかすめ、谷を駆け抜け、丘を越えるとそこは海岸(砂浜)で、そこを、1人の女性が歩いている、という。

スペイン(おそらく、カタルーニャ)の美しい山河(と、海)があっての映像なんでしょうけど。
まぁ、でも、地球上のどこへ行っても、この種の、山や野や川や渓谷や海を撮った映像っていうのは、美しいんですけどね。
でも、それを使う、という選択と、その意図は、なんといっても監督のモノですからね、あくまで。なので、それは賞賛されるべきでしょう。と、俺は思いまっす。


物語に戻りますが、その、舞台となるのは、とにかく美しい大地と海と空なんですが、しかし、自然と生命を愛する男ならば、というか、愛すれば愛するほど、その美しい自然と美しい女性たちの存在というのは、“生への絶望”を深めてしまう、ということなんでしょうか。それが慰めくれる、ということでは決してなく。
恐らく、そういうことなんでしょう。
「自由が代償の人生なんて人生じゃない」と叫ぶ主人公にとって、“死を選ぶ”ことは、最後の自由なのだ、と。

その、“死に行く存在”として、もう1人登場する、“別の病人”との対比。
主人公の意思に寄り添い、支援活動をしながらも、同時に生(と、性を)謳歌する若いカップルとの対比。

彼の生活を最後まで支えた、兄とその家族の生活感、生活実感、そこに根ざす素朴な生命への倫理、弟の命に対する素朴な責任感、そして、その意味では独善的でもある、彼の“尊厳死への意思”と兄たちとの衝突。
その衝突の柔かさ、優しさ。
彼の意思を尊重もしたい彼ら家族の、優しさと葛藤も、シンプルに、しかし逃げずに描かれていますしね。


そして、これはややステロタイプですが、「生への義務」を説く“神父”が登場します。彼との“対決”が、いい。これもシンプルに、ですが、神父を喝破し追い返してしまう主人公。そして、義姉の、神父への反論。
そう。“神父”に家族など居ないのに家族の愛を語るな、と。それは、義姉を映す構図の中に、ごくごく自然に入り込んでいる、兄の表情が訴えてもいるんですね。


尊厳死への賛否は、まぁ、これは俺の中でも、実は判断しかねていることではあるのですが、しかし、それを抜きにしても、ヒューマンドラマ、人間賛歌、自由への賛歌、“意思”への敬意、葛藤することの意味、その葛藤の存在そのものも価値、そういう諸々を描くことには完全に成功している、素晴らしい作品だと思います。

はい。そういうことで、これはホントにお薦め。是非どうぞ。


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2008年1月6日日曜日

「コレリ大尉のマンドリン」を観た

この間、深夜にテレビでやってた、「コレリ大尉のマンドリン」を観たので。

まず、これ、基本的に、コレリ大尉が主人公でもないし、マンドリンもたいして活躍しないんですよ。
去年観た「クローズド・ノート」の方が、マンドリン大活躍って感じでしたから。
だって、マンドリンっていうか、“歌声”の方がアレですからね。
主人公は、コレリ大尉のニコラス・ケイジではなく、“島の娘”ペネロペ・クルス。
そもそも、コレリ大尉っていうのは、映画が始まってからだいぶたって登場しますからねぇ。


ちなみに、個人的には、ニコラス・ケイジは大好きで、ワリと最近まで、ハリウッドではナンバー1の俳優さんだと思ってました。
いまはドン・チードルですけど。N・ケイジの前はデンゼル・ワシントン。

で、作品に戻りますが、なんつーか、このコレリ大尉のキャラクターの設定がそんなに好きじゃないっス。
軽薄な軍人、という、いかにもステロタイプなイタリア人を演じるワケです。ニコラス・ケイジが。まぁ、ニヤケ面も似合うっちゃ似合うんですけど、なんかねぇ。
実際の戦闘を経験したことの無い“大尉”ですが、後半の戦闘シーンでは、一生懸命指揮を取ったり取らなかったり、まぁ、イタリア軍は結局負けるワケですけど、それなりに力強く戦ったりするんですよ。ということは、それなりに“軍人らしい”トコもあるヤツ、ということになるっていうか、ね。
そこら辺が、イマイチ掴みきれないんですよねぇ。俺としては。
“実は立派な軍人”が、そもそも、こんなグダグダな駐屯生活を送るかね、とか、ね。まぁ、そこら辺がイタリア人ならではの感覚なんですよ、みたいなことなんでしょうかねぇ。


で、結局、この作品のテーマはいったいなんなんだろうと、最後までいまいち腑に落ちなかったりもしまして。
“戦争の悲劇”とか“無意味さ”とか、そういう事のハズだよなぁ、と、たまに疑問符が浮んできたりするんもんで。

作品は、前半と後半で、ちょっと雰囲気が違うんですよね。前半は、戦時下でありながらもトコトン牧歌的な島の生活を描き、後半で、それが徹底的に壊される、という風に展開するんですが、正直、俺としては、前半が長過ぎ。
侵攻してきた、コレリ大尉率いる駐屯兵たちと、ペネロペたちの地元の人たちとの、“心の交流”みたいのが描かれるんです。
で、その雰囲気が、ダークに一変するんですね。後半は。
非占領下の、パルチザンも登場してきて(ここに、ペネロペの婚約者も入っている)、先に降伏してしまったイタリアと、冷酷な(これもとてもステロタイプですよね)ドイツ軍の、なんだか三つ巴の戦闘に突入してしまう、という。
まぁ、戦争(というか、戦闘)を描写するワケなんで、ダークでもいいんだけど、それにしてもバランスがなぁ、と。

色んなことをやり過ぎてよく分かんなくなっちゃった、みたいな感じに受け取っちゃいましたけど。

占領軍の一員(コレリ大尉)と、パルチザンに参加している婚約者の間で、ペネロペはもっと苦しむんじゃないんだろうか。
これ、ワリとすぐにコレリ大尉の方に気持ちが行っちゃってるような描写もあるんですが、それはそれで不自然だと思うし、それだとホントに「何が言いたいの?」ってことになっちゃいますからねぇ。

いわゆるラブストーリーには必ず“障害物”“越えるべき壁”があるワケですが、それが“戦争”だとすると、「戦争って、そんなモンじゃねぇだろ」と。もっともっとデカい暗黒じゃないのかよ、みたいな、ね。

その辺の“やや軽い”感じが、違和感の元なのかもしれません。



ただ、ペネロペは、冒頭、前半、中盤、後半、ラストと、見事です。
可憐な“田舎の娘っこ”から、最後の“美しい女医師”までの成長。もの凄く美しく変化していくんですが、これはホントに素晴らしい。



あ、あと、ちょっと思ったのが、宮崎駿監督の「紅の豚」と舞台背景が一緒ですよね。
「豚」は、戦争が始まる直前のアドリア海が舞台で、こちらは戦争終盤ですけど。
でも、雰囲気の良く似たお店(喫茶店 兼 食料品店)も出てくるし。


それから、「真夜中の戦場」という、イーサン・ホーク主演の作品をチラッと思い出しました。これは日本では劇場未公開で、実は俺も映画は観てなくって、原作本を読んだだけなんですけど。ストーリーが素敵なんですよ。ま、気持ちとしては、こっちがお薦めですな。



ま、そんな感じでした。






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2008年1月3日木曜日

「イン ザ カット」を観た

元旦の深夜にやってた、メグ・ライアンの「イン ザ カット」の感想でっす。


「恋人たちの予感」では、あの超有名なダイナーのシーンで“演技”を演じたメグですが、この作品では、“本気”のシーンがあったりして、まぁ、“本気を演じる”という、いわゆる“大人な感じ”の演技です。

監督は、「ピアノ・レッスン」のジェーン・カンピオン。
まぁ、だいたいこの位で、作品の雰囲気はだいたい分かってしまう、と言っていいと思います。ディテールはともかく。
一人の女性が官能に目覚めてそこに嵌まっていく、という。近作でも、その“官能”に目覚めさせてくれるのは、フィジカリィで危険な男、です。

オープニングのクレジットに、二コール・キッドマンの名前が出てきますが、彼女は製作、つまりプロデューサーってことで。
それを知ってると、確かに、メグの役がニコール・キッドマンにダブったりして。まぁ、しかし、メグでオッケーですけどね。結果的には。

ニコール・キッドマンと言えば「アイズ・ワイド・シャット」ですが、「恋人たちの予感」もこの作品も、どれも舞台はニューヨークですな。
この三つは、なんていうか、お互いに関係し合ってる、というか。
そういう風に観てみるのも楽しいかもしれません。


さて。メグの役は、“詩人”です。正確には、詩か何か、文学を教えている、という設定。
その、メグの役の、都市のノイズから“言葉”を拾い上げる、というのは良かったですね。
作品は、一応サスペンスになってるんですが、そのサスペンス部分に、メグの“詩”が関係してくるのかなぁ、と思ってたら、そうではありませんでした。
謎を解く鍵は、ややベタに、手首の刺青。
まぁ、サスペンス部分、ミステリー・パートがメインではないワケで、基本的には、メグが演じる女性の、日常と、その閉塞感と、その中に“美”を探す行為に耽るメグの美しさと、その日常を破ってくる男と、その男とのやり取りと、男がもたらした“日常の破綻”に嵌まっていくメグの美しさ、を、観る、と。



あと、画は抜群にキレイですよね。おそらく、こういう画が、今のところの“ニューヨークの最新形”なんだと思います。
光と影。真っ暗な陰の中での演技。暖かい色彩に包まれた部屋の中や“犯罪現場”。対象的に、冷たい空気感として描写される地下鉄の車内。


ケビン・ベーコンも、なんだか良く分かんない役で登場してくるし。

ま、そんなこんなで、誰にでも勧めれる作品ではないんでしょうが、個人的にはそれなりに楽しめた作品でした。





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