2007年7月31日火曜日

ロケハン終了

今日は、天気が悪いのをおして、ロケハンへ行ってきました。神奈川県の、葉山へ。
自分の作品に出演してもらった俳優さんが、なかなかアグレッシヴに活動してる人で、その人が短編の映像を集めたイベントを企画しまして、そのイベントに出品する為の作品です。時間が10分以内、という制限があるだけで、テーマや手法に制限はないので、まぁ、アクセル全開な感じでやってみようかなぁ、と。

キャストは、若干安直なんですが、バイト先の後輩の3人に頼んで。ただ、なかなか爽やかな雰囲気の3人なんで、画としては悪くないと思いまっす。ま、俺の撮り方次第なんですが、もちろん。
で、セリフはナシ。撮る画は、3人の姿と、その背景の風景だけで、そこに、音楽を繋げて流して、ストーリーを語る、みたいな感じ。ハマれば、上手くいくんじゃないか、と、企んでるんですが。

タイトルは、「聴こえたのは夏の音」とか、そんな感じかなぁ。夏っぽい画が巧く撮れるといいんですが。ま、その辺は天候次第かな。

それから、御用邸の近くで撮るんで、警備の警官がね。詰め所があって、常に居るからねぇ。あんまり長くやってると、ごちゃごちゃ言われそうだから、パパッと撮らないと。

撮影よりも、編集が肝になるんでしょう。そのつもりで撮るしね。

キャストは決まったし、ストーリーもある程度は固まったし、ロケハンも終えたし、準備が順調に進む、というかなり珍しい事態に、逆に戸惑う感じです。

2007年7月29日日曜日

「盗まれたレコード・クレイツ」

GROOVE誌に、渋谷のレコード番長、いや、盤長、a.k.a. Sunaga t Experience つまり、須永辰緒さんの面白いインタビューが掲載されてました。

レコード・クレイツの“一軍”を丸まる盗まれたことがあって、それが、なんと、“夜ジャズ”のきっかけになった、という、なかなか興味深い“物語”。

これは、ストーリーとしては相当面白いんじゃないっスか?

レコードとDJを物語の中心に据えられるし、ありきたりの音楽モノでもないし、レコードをモチーフにしてるだけあって、ガンガン曲流しても全然違和感ないんだろうし、むしろ必然というか。

で、最後、盗まれてもの凄いショックだったんだろうけど、その事件を前向きに捉えて、新しいモノを生み出すきっかけにする、っていうのも、なんか美しいし。

そういえば、Q-Tipも(最近、名前聴かないねぇ)、家が火事になってレコード・コレクションが全部燃えちゃった、っていうことがあったねぇ。

うん。結構、イケるかもね、このアイデア。


2007年7月22日日曜日

むむっ?

ゴルフの全英オープンをテレビで観戦してたら、なんと、セグウェイに乗ってるカメラマンを発見してしまいました。

プレイヤーの表情を捉えた画面に微妙に映り込んでて、「なんだありゃ?」とか思ってたら、よく見たら、セグウェイ。

で、確かに、なんかもの凄いスピードで移動していくカメラの映像があるんですよ。ドリーで動かしてるくらいのスピードの。
フェアウェーを歩いていくプレイヤーを横から追っかけていって、もの凄いスピードで追い抜いて、で、正面に回り込んで、さらに逆側までずーっと回っていく、という、とんでもない画面が確かにあって、「これだ!」と。
あれは間違いなく、セグウェイ・カメラで撮った画でしょう。

きっとこれは、そのうち映画にも使われるようになる手法ですよ。いや、ひょっとしたら、もう使われてるのかも・・・。
でも、なかなか新鮮なカメラ・ワークでした

2007年7月19日木曜日

「未来世紀ブラジル」を観る

とりあえず、この“ブラジル”って全く意味なくって、要するにあのテーマソングで「ブラジ~ルぅ」って歌ってるからだけですよね。

さてさて、例えば爆弾テロとか、エリートが高層ビルの上層階に住んでて、そうじゃない階層の人たちは低層に住んでて、とか、官僚組織の雰囲気とか、あとは、主人公の妄想にズボズボハマっていっちゃう所(あれって、今のアキバ系のアレでしょ)とか、そういうのは、全然現在の日本でも生きてるトピックなワケで、全然色褪せてない、というより、むしろ今の方が意味のあるディテールかもしれませんな。

例えば、リメイクとか、そういうのも面白いんじゃないかと思うし。日本でやるなら、「未来世紀かながわ」みたいなノリだと思うんだけど。もしくは、「未来世紀みやざき」とか。最近のアレだと。

それから、シナリオの、作劇の部分で、“ドタバタ劇”としても超一流の出来なんだなぁ、と、思いました。それは、もちろんモンティ・パイソンのソレなんだろうけど。モンティ・パイソンは全然知らないんだけど、まぁ、直系とされているミスター・ビーンは知ってるからね。
そういう、物語をドライヴさせていく部分がないと成立しないもんだからね。その辺は改めて、意識しちゃいました。

ただ、さすがに、ギャグはサブいねぇ。

2007年7月17日火曜日

「グロリア」を観る

Mr.NYインディーズ、ジョン・カサヴェテスの「グロリア」を観る。恥ずかしながら、初見ですが。

冒頭いきなり、激マブのラテン系美女(プエルトリカンという設定です)が登場し、そしてすぐ死んでしまい、入れ替わるようにグロリアが登場する、というオープニングにちょっとビックリしつつ、しかし、そのラテン美女(超タイプです)を延々と追う描写は、これこそがカサヴェテス節である、みたいな感じ。
こういう演出とカメラワーク、正直、憧れます。

カメラワークで言ったら、地下鉄の車内から、窓の外のホームを映したり、エスカーレーターを上がっていって、そのままビルの外に出て行ったり。
やるか、俺も。お手製ペットボトル・ステディカムで。

例えば、銃を構え合ったりするシーンだったり、交渉シーンだったりの緊迫感は、さすがに、何ていうか、“ほのぼの”感すら感じてしまうくらいの緩さなんだけど、それは当時とは時代背景が違うからであって、逆に、“男勝りのガン・アクション”を見せる女、というフィクションを構築するのではなく、“男と対等に渡り合う為のツール”としての銃、という意味では、もの凄いリアルだし、無意味なアクション演出の垂れ流しにさらされている身には、新鮮だし、有効だし。

同じことは、グロリアのキャラクターにも言えることで。単なる“強い女”じゃなくって、別に“美しい女”でもなくって、色々悩んだり、無計画に開き直ったり、無茶をしたり、しかし勇敢だったり、そういうヒロイン像というのも、素晴らしいなぁ、と。
パム・グリアが演じたキャラクターたちなんかとの関係性とか、そういうのも気になる所ですが。まぁ、それは置いといて。

ちょっと気になったのは、“スパニッシュ”を“スペイン人”なんて訳しちゃったりしている、その辺の稚拙な感じ。まぁ、昔のアレだからしょうがないんだけどね。
でも、大事な部分だからさ。そういうディテールって。

うん。さすが、クラシックと呼ばれる作品だけあって、良かったです。

シャロン・ストーンのも観てみようかね。せっかくだから。勉強も兼ねて。

2007年7月15日日曜日

周回遅れ寸前

あやうく周回遅れになるところでしたが、書こう書こうと思ってて、ようやく今日書きます。

先週の日曜日(8日)の朝日新聞より。まずは23面(ページ、ということです)の、中園ミホさんという脚本家の方のコラム。山田太一さんについて。山田さんの“お言葉”をいくつか引用してまして。
山田さん曰く
「脚本家はオリジナルを書かなきゃ、脚本家じゃありません」

さらに、これは山田太一ドラマでのセリフで
「洗練、成熟というものは成長の止まったじいさんに任せればいい」

それを受けて、中園さん
「脚本家はきっと、諦めた時に成長が止まる。山田さんの作品は年々、尖っていく」


お次は、その裏面の、24面にて。寺山修司の特集記事。
ありとあらゆるジャンルに手と足と口を突っ込み続けた寺山のその振り幅の大きさの裏にあった通奏低音とは何だったんだろうか、ということで、「『そんなもん、ないよ』と彼は一笑に付すだろうけど、たくさんある候補の中で、一つは、いい意味での『嘘』あるいは『虚』への執着、もう一つは『偶然』へのこだわり」では、と。

寺山曰く
「未来の修正というのは出来ぬが、過去の修正ならば出来る。そして、実際に起こらなかったことも、歴史のうちであると思えば、過去の作り変えによってこそ、人は現在の呪縛から解放されるのである」
これが、“いい意味での『嘘』と『虚』である、と。
さらに寺山の言葉。
「あした、なにが起こるかわかってしまったら、あしたまで生きてる楽しみがない」
「コンピューターはロマネスクを狙撃する工学である」
「必勝を獲得し、偶然を排したとき、人は『幸運』に見捨てられ、美に捨てられる」

寺山はこの、“嘘”や“虚”、そして“偶然へのこだわり”によって、“現実”や“私”を揺さぶっていた、と。

寺山曰く
「どんな鳥だって 想像力より高く飛ぶことはできないだろう」


その、寺山修司へ、なんと山田太一さんが登場してきて「大学に入ってきた時の同級生です」というコメントを。

えぇ!?

山田さん曰く
「僕が、普通に生きている人の人情のディテールを捨てない方向にいったのは、彼への対抗表現だったかもしれません」

そして、山田さんの「早春スケッチブック」というドラマを寺山が観てた、ということで、
「日常的な生活を批判する男が出てきて、普通の市民生活を送っている家族が揺さぶられる話なんです。揺すぶる方のモデルが自分で、揺さぶられるのが僕だと思ったらしい」

これは、すごいですよね。こんな同級生。

ここで終わらず、もう一つ。その次の25面。河瀬直美監督のインタビュー。
「国や文化が違っても、同じ人間としての本質が取れているかどうか」
「人間が心の奥で欲している『リアル』に届いているかどうか。だから、自分が実感を持てないことをやっても、何も突破できないのだと思いますね」
「私自信が持っている実感や表現したいことは、目には見えない。それを映像に焼き付けていくには、スタッフワークがとても重要だと思うのです」
「不器用でも自分の思っていることは言葉にしなくてはならない、さらけ出してコミュニケーションしなくてはだめだと分かるようになりました」
「不思議なことに、ゆるぎない信頼関係は空気となって画面に写る、と私は思います」


長くなりましたが、これは、自分の為の“記録”ですな。完全に。

なかなか不思議な朝日新聞でした。

2007年7月14日土曜日

「ゾディアック」を観た

この間観た、デヴィッド・フィンチャーの「ゾディアック」の感想です。
正直、客観的な評価は分かれる作品かもしれませんが、個人的には大満足。
年代がちょうど“その頃”ということで、冒頭から、サントラで使われている曲も、今個人的に一番はまってるジャズファンク系で、まずそこでニヤリ。
ちょっと長めのオープニングなんですが、ま、演出として、その辺で時代設定をする、ということなんでしょうが。

フィンチャーと言えば「セブン」ですが、本作にも“図書館ネタ”が出てきて、「セブン」を思い出してニヤリ、みたいな。
それから、やっぱり、“暗闇”の使い方ですよね。多分“電燈”というか、町中がまだ暗かった時代ということもあって、ともかく暗い中で進んでいく感じが良かったです。雰囲気があって。
生意気ですが、ああいう“暗闇”の使い方は、自分が目指している所でもあるんで。

若干、これみよがしな感じのCGカットがあって(二ヶ所くらい)、それは鼻についたかな・・・。

色としての“暗闇の黒”はたっぷりですが、ただ、今回は、“心の暗闇”という部分の描写は全くないですね。そういう意味でのサスペンス性はありません。
ともかく犯人側は、“犯人像”があるだけで、“肉迫”とか、“追い詰める”的なことは、まぁ、あることはあるんですが、あんまり力点はおかれてなくって、言っちゃえば、“追いかける側”の、例えば友情関係とか、人間ドラマとか、そういう方を描いている作品ですよね。ま、全然良かったですけど。
捜査陣側の人間は、当然、みんな男なんですが、その辺の描き方も「セブン」と重なる部分ですよね。それは、監督本人の指向なのか、それとも、もしかしたら、マーケティング的な要請なのかもしれないなぁ、と。
なんていうか、実話を基にしてるっていうのもあるんだろうけど、“犯人を追い詰める”という部分では、シナリオ的には若干弱い、というか。スターも出てないし。なんで、その辺の要素を加えて、初めて、成立するシナリオなのかも、と、思いました。
う~ん、でも、「ファイト・クラブ」もそうだけど、やっぱり監督本人が、そういう、男同士の“絆”みたいのが好きな人間なのかも。

と、そんな感想でした。

とにかく、黒、黒、黒。フィルムの質感。そういうので雰囲気を作っていく、と。


2007年7月12日木曜日

「アサシンズ」を観る

「憎しみ」の、モノクロームの画とモノローグ、そして何発かの銃声音で、一躍名前を挙げた(カンヌも獲りましたね)、マシュー・カソヴィッツの、その「憎しみ」の後の作品。
ま、前作の評価が凄かった分、それとの比較になるのは、ある程度はしょうがなくって、ここでもやっぱり、そこから入るんですが。

前作は、それはモノクロだったっていうのも当然あるんだけど、もの凄いシャープな画で、今作は、それとは対照的に、まるで16㎜みたいに(言い過ぎ?)、粒子の粗いザラザラした質感。
ひょっとしたら、シャッタースピードをちょっと遅くしてるのかもしれない、と、思うくらいに、ブレて残像がチラチラ出るくらいだし。
この辺は、自分の技巧を誇示してるって感じ。まぁ、もちろん、効果的なんですけどね。狙いに沿った、当然、これも演出の一環であろう、と。

演出で言うと、補聴器やテーブルクロスを巧く効かせたりして。
この辺は、何ていうか、暴力的だとか、社会派だとか、色々、外野から貼られるレッテルの文言ばっかりに目がいきがちだけど、ちゃんと踏まえるべき文法は踏まえているんだよねぇ。
この辺は、非常に勉強になりますな。

時間軸の操り方も上手。具体的には、回想やフラッシュバック、そして得意の、1カットの中でサラッと時間の経過を表してしまったり。

ストーリーは、なんていうか、特に前半部分は、キャラクターがボンクラなのもあって、ドライヴ感がちょっとなくって、イマイチ。
ま、それも、恐らく、フリということなんでしょうが。

この、タイトルに複数形の“S”が付いてる所がミソで、まぁ、軽くネタばれしちゃうと、“2人”なんですが。
ちなみに、3人目は、“見習い”扱い。

その、2人のアサシンのうちの一人が、アクセル全開時の津川雅彦のような存在感で見せる、老ヒットマン。
求道者かのような口ぶりで、しかし、俗まみれ、ルサンチマンだらけで、迫りくるその老いに恐れおののきながら、それでも必死に自分の生きてきた証を、その技術を誰かに継承させることで残そうと、必死にあがく、という。

もう一人が、まぁ、少年なワケだけど、最後、学校(正確には、校門の外)で銃を撃ちまくる姿は、例えばアメリカの銃乱射事件を思い起こさせたり。
まるで予言のようだけど。
つまり、ある意味では現代社会こそが、極めて優秀な殺人者の養成システムなんだ、と。

そういうラストに向けての、ホントに最後10分くらいで一気に持っていく感じ。

実は、この人は、なんていうか、非常にベタな着想ばっかりだったりもするんだけど、一番最初の、目線の置き方、着眼点の置き所、みたいのがね、もの凄い良いんだろうなぁ、と、思います。
そこから、技巧でそれを支えることで、一つの商業映画として成立させている、と。
ま、俺なりの分析でした。