2012年12月18日火曜日

「007 スカイフォール」を観た

奇しくも「009」の翌日に、有楽町の日劇の大スクリーンで、「007 スカイフォール」を観る。


いやぁ、新作ですよ。ダブルオーセブン。
日劇で観ちゃいましたよ。
(前日に引き続き)ウェブで予約して。


スカイフォール。

単語としては、「空が落ちる」とか、そういう意味合いなハズで、「どんな意味なんだ?」ってトコも含めて、まぁ、かなりテンションが上がった状態で劇場の椅子に座りまして。

クソ長い予告編を踏まえましての、本編。

音がデカい!


まぁ、そこがいいんですけど。


オープニングの、テーマ曲は、歌もアレンジも完璧です!



と、いう感じで、まぁ、よだれを垂らしたイヌ状態で、完全にスクリーンに釘付け・・・。


冷静じゃいられないッスよねぇ。
ボンドガールは(敵味方どっちも)セクシーで最高だし・・・。





本作のテーマは、ずばり「過去」。
そして「垂直落下」。

ボンドはビシビシ落ちます。水の中に。


リニューアル第一弾だった前々作では、「若いボンド」っていうのがキーワードで、そこが注目されたりして、当然支持もされたワケですけど、今作は、「老い」に直面します。

それは、「過去の自分」と対峙する、ということでもあるんですけど、とりあえずそれはさておき。



ビーチリゾートでの“隠棲”から、突如ロンドンに戻ってきたボンドが、再び“ライセンス”を得るために、というシークエンスは、ホントにゾクゾクしましたねぇ。
クールです。

上司Mとのやりとり。

お互い、プロ同士なワケです。
私情を挟まない。プロとして、非情に徹する。

しかし、お互いに対する“情”が見え隠れするワケです。

孤児であるボンド。

そのボンドが、敬愛するマダムM。


ボンドは、Mを詰るワケですよね。詰(なじ)りたい。責めたいワケです。
Mは、謝りたい。
でも、2人とも、「プロである」という矜持を持っている。

そこで揺れ動く、と。
感情が。

いいですよねぇ。2人とも、巧い。
シナリオも巧いです。ホントに。


そして、そうです、Mです。
本作の主人公は、実はボンド=ダニエル・クレイグではなく、Mですよね。

Mの“引退”を記念する作品でもある、という。


思うに、彼女のシリーズ降板というのが、製作の準備段階で決まっていた、と。
で、彼女(ジュディ・デンチ)の“花道”としてのストーリーを書いた、と。

そういうことなワケですよねぇ。

彼女は、シリーズのリニューアルにあたって、ほぼ唯一、前シリーズから続いての起用なワケで、つまり、彼女の存在・存在感っていうのは、シリーズの製作者たちにとっても、とても重要なモノだったワケで。




「老い」を理由に、引退を迫られるM。
Mはしかし、断るワケですが、そこに、「委員長」という肩書きの優男が現れるワケです。

こいつがねぇ。

粋ですよねぇ。

美味しいトコ持ってくんですよ。
優男が。

ホントに巧いこと伏線を回収しやがって。
優男が。

これはホントに、シナリオの勝利ですよねぇ。


Mの“最期”を描く、と。

そこに向かって、色んなトピックを散りばめて、クライマックスに、収斂させていく。
こういう作劇法の、一つのお手本ですよねぇ。



Mは、M自身の“過去”に牙を剥かれるワケです。

ボンドの前任者。

敵は、執拗にMを狙う。

そして、まさに「Mを護る」ために闘うボンド。



ここで、ポイントは、“闘い”が「個人的な動機」に因っている、という部分ですね。
敵はM本人に執着し、ボンドもまさに、Mを護る為に闘う。

何気に、好き嫌いがあるかもしれないストーリー展開ではあるんですが、ただ、“プロとしての意識”と“個人的な感傷”との相克、みたいな、こういうストーリーならではの“面白み”みたいなのもちゃんとある、という意味では、これはこれで、良いんじゃないかな、と。


そして、そのボンドも、自分の過去と対峙をします。
“ライセンス”再給付のためのテストも、過去の自分との比較、ということではそうだし、なにより、故郷に帰るワケですよね。

アンティークみたいな車に乗って。(アストン・マーティン!)


いや、アストンマーチン出てきたときは、ホントに仰け反っちゃいましたけどねぇ。
ホントに。
こんなフック、ありか、と。


で、その「自慢の車」に、Mを載せて、自分の生まれ故郷に向かって走っていくワケです。
まるで、恋人を連れて行くかのように!


“過去”に遡るボンド。



ストーリー中には、Qも登場するワケですが、そのシークエンスでも、テクノロジーに関して、懐古趣味的な、「昔はな~」みたいに鼻白む、みたいなやり取りもあって。
そこでも、「現在と過去」の対比/対立の描写があるワケですけど。



その、故郷の地名が、スコットランドの、スカイフォール。



そして。



そして!



Mは死に、ボンドは、ロンドンに帰ってくる。




ビルの屋上に屹立して、街を見下ろしているのか、あるいは、風に揺れるユニオン・ジャックを見上げているのか。
あるいは、物思いに耽るボンドを、ユニオン・ジャックが見下ろしているのか。



そして!



ラストにびっくり!


なにあの「to be contined」のアレ!



ズルいでしょ!



アレをあそこでっていうのは、ズルいでしょ!



だって、オープニングで、ボンドは1回ライフルで撃たれてるじゃん!



なのに!



なのに!!




ガンバレル!






上手い!



ズルい!




いや、ホントに。




やられちゃった、と。




そういう作品ですよねぇ。




まぁ、実は、シナリオの巧さとは別に、アクションシーンがワリと平板だったり、敵役の描写が物足りなかったり(アイツなら、もっと色々あったでしょ! もったいない!)、ちょっと不満な部分はあるはあるんですけど、結局のところ、「今回はMの話なんだな」ということで、半ば無理やり納得させられちゃう、という、ね。

いや、それで全然いいんですけどね。



面白かったんで。



うん。



というワケで、早くも次作に期待、という感じです。
大期待。



楽しみです。



よい作品でした。
でわ。







2012年12月17日月曜日

「009 RE:CYBORG」を観た

バルト9で、3Dアニメ「009 RE:CYBORG」を観た。



「009」のリメイク、3D、監督は神山健治ってことで、これはもう「絶対に劇場で観ないとダメだ」ってことで、バルト9へ。
わざわざネットで予約して行きましたからねぇ。
一番大きなスクリーンではなかったんですが、観てきました。3Dで。

で、と。


面白かったんですけどねぇ。

幾つか微妙にひっかかるトコがあって、まぁ、期待値が物凄い高かったので、そのせいで評価が辛くなった、という部分はあると思うんですが。

まず、これはもう冒頭からなんですけど、アニメ(セルアニメ)の3Dってことなんですが、その、特に都市(東京、NY)の、背景になる部分というか、その、ビルが屹立している様子が、なんか縮尺があってない気がする、というか、これは単なる違和感なんだけど、そこがどうも気になっちゃってしょうがない、というか。
スクリーンが小さいせいなのかなぁ、とも思うんですけど、なんか、ミニチュアって感じを受けちゃって、で、一度そういう感じになっちゃうと、もうずっとそれが引っかかってしまって。

“質感”とか“重量感”の問題なんですかね?

単純に、遠近感を事後的に(人工的に)表現するのには、遠くの方をボカすワケですけど、そういう案配の問題なのかなぁ、とか。

3Dだから、いわゆる平面のアニメなら許容されているハズの感覚的な違和感が、どうもしっくりきてない、という問題なのか・・・。

はっきりしたことは分からないんですけど、特に前半部分に多用されている、“都市の俯瞰”のショットが、とにかく「なんか違う」と。



ストーリーの部分でも、なんかなぁ、という部分はあって。

というか、単純に、「もっと活劇として作れば良かったのに」というのが、まず浮かんだ感想なんですよねぇ。
そっちに振り切って欲しかったな、というか。
そういうのを描ける媒体だし、それが出来る作り手なハズなワケだし、そういうのを期待している人も多かったと思うんですけど。

振り返ると、アクションの斬れ味も、絵と音とカットの切り方とでグイグイ魅せていく、という部分は、あるにはあったんですけど、時間的にも、そして質的にも、なんか物足りない、という感じで。
もっと出来るでしょ!

古典のリメイクってことで、なんかヘンな抑制効かせちゃったんですかねぇ?


逆に例えば、内省的な方向に持っていくとしたら、009がなかなか“覚醒”しない、とか、そういう形もあったと思うんですね。
「延々と高校生活を繰り返す」という制約を課せられている主人公が、その生活の中で「彼の声(=神の声?)」を聴いちゃって、対話を始めちゃって、テロを起こそうという行動を起こし始めちゃって、それを他のメンバーが抑えようとして、という風に動いていくストーリーだって、あると思うし。
(009と正面から戦って抑え込もうとするメンバーと、“覚醒”すれば正気に戻ると信じるメンバーとの対立、というアングルもあるしね。)

キャラ立ちはねぇ。
さすが古典だけあって、キャラクターそれぞれの個性とかバランスなんかは、ホントに最高だと思うし、“チーム感”みたいなのも、やっぱりグッときますよ。
色んな個性のメンバーが、それぞれの個性を発揮しながら戦う、という、ね。
いいです。ホントに。

でもそれは、やっぱり「アクション」の為の“チーム”なんですよ。絶対。
004の、あのニヒルな感じ!
あの笑みを浮べながら、しかし仲間のために戦う、という、あの感じですよ!

そこは絶対に肯定したい!

だけどね、と。


例えば、戦闘機同士のドッグファイトなんて、悪い冗談ですよ。
そんなのが観たいワケじゃないッス。
「009」なんですから。


サイボーグ部分の、部品をチューンナップしているショットとか、そういうのが見たいワケです。
3Dで!
敵と戦って、サイボーグなのに敵にやられて傷ついて倒れて、仲間に助けられて、そして博士にチューンナップしてもらって、そしてまた仲間と共に闘いに赴く、みたいな!

ま、それはあくまで、個人の勝手なアレですけど。

勝手なアレといえば、もう一つあって、それは、003のお色気。
お色気って、必要か?

例えばボンドガールとか峰不二子の“お色気”っていうのは、必要性が絶対的にあるワケですよ。
ストーリー的に。

でも、003に関しては、別にファムファタールでもないし、必要性がまったくないでしょ。
草薙素子には、“あの身体”であることの必要性があるワケです。“あの身体”で闘うワケだし。

でも、003は、別に自分の肉体を使って闘ったりはしないでしょ?
あんな胸を強調したり脚線美を誇ったりする必要は無いでしょ。
なにか“母性”を投影する、みたいなこともストーリーの流れの中では起こらないし。

製作上、“ニーズ”に応える必要がある、ということならば、別に“そういう役割”を担うキャラクターを立てるべきでしょ。

アニメーションでは、キャラクターの造形も製作者が自由に決定できるワケで、そうである以上、そういうトコはちゃんとしないとダメでしょ。
作品の“主眼”に、例えば「神と相対する人間」みたいな、つまり何かしらのメッセージを語ろう、ということを置くのであれば、尚更、ね。


ちょっと違うんじゃないのかな、と。



うん。



期待してただけにね。



「009」のリメイクなんて、ホントに日本中のクリエーターの垂涎のナントカですよ。
もっと出来ましたよ。
ただ「良かった」っていう、平均点とか、ぼんやりとした印象だけの感想じゃ、ダメなワケです。「009」なんですから。
神山健治なんですから。


ね。


なんか、雰囲気的に、続編がありそうな感じなんで、そちらに期待します。


今日はこの辺で。
でわ。





2012年11月20日火曜日

「虚空の鎮魂歌」を観た


銀座テアトルのネオフレンチノワール特集上映の三作目、「虚空の鎮魂歌」を、(もちろん)銀座テアトルシネマで観る。



主人公はまたしても、ロシュディ・ゼムでした。

で、マルセイユの捜査官であるその主人公が、武器の密輸事件の捜査で、犯人グループを追ってパリへ赴くことになるんだけど、パリには、その主人公の別れた奥さんとその娘がいて、というのが、(かなり)ざっくりとしたメインのストーリーライン。

で、その娘は、父と同じく刑事で、ただし配属は麻薬の捜査チームで、さらにそのチームのリーダーが、汚職警官で、という。

この、設定の妙が、ホントにシナリオの勝利というか、諸々の「面白いストーリーである条件」にとても上手くハマってる、という感じなんですね。
すごい良かったです。面白かった。


ノワールものの王道である、主人公が「引き裂かれる」シチュエーション。
何かと何かに。

この作品の主人公も、「何かと何か」に心を引き裂かれながら、つまり、とにかくモヤモヤと心の中に闇と葛藤と苦悩を抱えながら、捜査を進めていくワケです。


捜査の苦悩。自分と娘、つまり家族との苦悩。
捜査陣と、捜査の対象である犯罪組織との対立。自分と家族の対立。捜査陣の中での対立。
部下の喪失、娘との、失敗が約束されている会話、分かれた妻との関係、上司との関係。
もう、モヤモヤしっぱなし。


さらに、娘が所属する麻薬捜査のチームのシークエンスが絡んでくる。
汚職・腐敗警官である、チームのリーダー。
しかし、なんと娘は、家族持ちであるそのリーダーと、不倫している、という。
確かに、父親不在の家庭で育った女の子は、父親像を演じてくれる年の離れた男に惹かれる(もちろん、逆もあるワケですけど)、という、まぁ、その設定自体は作劇上のセオリー通りのアレなワケなんですけど、これがですねぇ。
上手いワケですよ。

演じる俳優さんが放つ存在感がそうさせているのももちろんあるんですけど、この悪役然としたキャラクターが、ホントに効いてるんですよね。
悪い男なワケです。
しかし、カリスマ性がある。

対して、主人公である父親も、そんなに「良い人間」ではない。
平気で情報屋を見捨てるし、部下も死なせてしまう。そもそも、母と娘だって、捨ててるワケで。

そういう、苦悩やらなんやらを満載しながら、捜査は続いていき、(ワリとあっさり)犯人を捕捉するところまでいく。


さらに、その主人公のラインに加えて、主人公にとっては“悩みの種”の一つになるんだけど、娘は娘で、かなり切実な、いわゆるアイデンティティ・クライシスみたいなのを抱えているワケです。
そこを、主人公のストーリーと平行していく形で、こっちはこっちでちゃんと描いていく。

彼女は彼女で、悩みを抱えているワケですね。父への反発。反発しながらも、同じ仕事を選んでいる自分。ただし、捜査官としては、そんなに有能ではない。そういう評価を受けているという自覚もある。
そんな悩みを、父へはやっぱり反発という形でしか表現できない。


父と娘は、まぁ、やっぱりそれでも、だんだんと近づいていくワケですけど、それが、「捜査上の必要性」が作用して、ということになっているんですね。
ここが上手い。
父娘の絆の再構築と、捜査の進展が、巧いこと重なっているワケです。
重なっている、というより、絡み合っている。

そういう形で、ストーリーが進行していくワケですね。



で、と。


当然クライマックに向けて、犯人を追い込んでいくワケですが、という、ね。



良かったです。
ホントに上手。




あと、ラストの解釈。

これは、まぁ、邦題が「虚空の鎮魂歌」ですから、それで言っちゃってる感じというか、要するにそういうことなんですけど、これは、もう一つ解釈の方法があって。
(いや、あくまで個人的な解釈ですけど)

それは、あの、ラストの、「峠のベンチ」っていうのは、情報屋と密かに会った場所だったワケです。
だけど物語中で、その情報屋は、いなくなってしまうワケですね。

つまり、「坂を登っていった場所」である「峠のベンチ」は、「いなくなってしまった相手」を追悼する、という場面として設定されているワケです。

「坂を登る」というのは、「困難を超える」ことのメタファーなワケですけど、坂を登ったその場所に、「かつてそこで会った人間」は、最後の場面では、待っていない。
もう居ないからです。

だから、ベンチには独りで座るしかない。
「虚空の鎮魂歌」とは、まさのこの状態を表す言葉なワケですけど。



ま、解釈の仕方は人それぞれあるとは思うので、それはさておき。




派手なアクションがあるワケでもないのに、ずっと緊張感を維持しながらストーリーを引っ張っていく、という、ホントにシナリオの強さが感じされる、良い作品だと思いました。


機会があれば、ぜひどうぞ。





2012年10月20日土曜日

「そして友よ、静かに死ね」を観た

銀座テアトルで、「そして友よ、静かに死ね」を観た。


えー、職場が恵比寿から東京駅の駅ビルに変わりまして、その、東京の“東側”に生活圏が変わった、というワケで、映画を観るフィールドも変えるか、と。
せっかくだから、と。

というワケでの、銀座テアトルなワケですけど。


まぁ、老舗のミニシアターで、それこそ「ユージュアル・サスペクツ」とかここで観たりとか、要するにお世話になってた劇場ではあるんですが、その銀座テアトルの今年の秋のセレクトが、ネオ・フレンチ・ノワールだ、ということで。


「そして友よ、静かに死ね」という、まぁ、邦題からして気合入り過ぎですけど、原題はちょっとややこしくて、英語だと「A Gang Story」。「あるギャングの物語」って感じでしょうか。
で、フランス語だと、「Les Lyonnais」。
「リヨン団」ぐらいの意味だと思いますけど、これは、実在のギャンググループの名前なんだそうです。

つまり、主人公とその仲間っていうのは、実在してて、という、そういう話。

「仁義なき戦い」も、そうでしたね。



という前置きはさておき。
フレンチ・ノワール。


良かったです。
力作、かつ、良作。



まず、ストーリーの構成が良かった。
緻密って程じゃないんだけど、時間軸を上手に操って、そこでグッとこさせる、という、まぁ、作家の腕で惹きつける、ということだと思うんですけど、個人的にもまずそこの巧さ、ですね。

時制で言うと、現在進行形の時間軸に、過去の回想が挟み込まれる、と。
そこで、“現在”にも続く「仲間の絆」の発端や過程が描かれるワケですね。

この作品では、主人公が実在で、というトピックがあるので、ここで描かれる“過去”が、まさに「リアルな話」ということになるワケですけど、俺は、別にフランス人でもないんで、そこら辺の“記憶”を共有しているとか、そういう“前提”がないワケで、そこはちょっとアレなんですが、それでも十分魅力的なストーリーなワケです。
「過去の話」も。
とても魅力的な「ギャングたちの話」が、回想される過去として語られていく、と。


乱暴に言ってしまうと、「過去の話」と「現在の話」の、二つの(魅力的な)ストーリーが同時に語られていく、と同時に、両者が絡み合っている、という構成になってて。
(ま、こういうストーリーの形態をとる以上、それは当然なワケですけど。)


ここで、ポイントが一つあって、それは、主人公たちを追い込む側(の、一つ)である、刑事たちの中に、「過去」を知ってて、それを主人公に語り出す、というトコで。

「過去の語り手」が増えるワケです。

ここが良いですよねぇ。
巧い。


この、敵方のキャラクターが語り出す、というポイントが起点になって、ストーリーの角度が変わるワケです。
実際、このキャラクターは、最後のシークエンスで物凄い重要な役割を担っていて、なるほど、と。

呻っちゃうワケですよねぇ。


もちろん、作品を観てる時には、そんな客観的な観方はしてなくって、完全にストーリーに惹きこまれちゃってて、観終わった後に呻っちゃうワケですけど。



この手の映画っていうのは、要するに「誰が裏切り者なのか?」という話なワケです。
同時に「いかに友情を貫くか」「誰が(裏切り者ではなく)本当の友情の持ち主なのか」ということを語るワケです。


そして、この気合入り過ぎの邦題が、実は“ネタバレ”ぐらい語り過ぎちゃってる、というか、タイトルで言い過ぎちゃってる、というか、ホントの最後のクライマックスのトコを言っちゃってる感じになってて、ピンときちゃう人はきちゃうと思うんですけど、とりあえずそれはさておき。

要するに、“逆側”に居た、と。
自分に対する敬意と友情を貫いてくれる人間が、仲間だと思っていた側ではなく、自分を追う側に居た、と。

そういうクライマックスなワケですけど。


ここが良いですよねぇ。


ホントに良かった。



過去と現在とで、カメラワークの質も違った感じになってたり、もちろん画の質感を変えたりしてて、その辺の塩梅も上手だったし。

俳優陣の存在感も良かったし、なにより、画面全体に、おカネがかかってる、というか、とにかく画に説得力がある、というか。

変にリアルを強調したりしてないんですね。
実話だからどうこう、とか、リアル感を狙ってどうこう、とか、そういう感じはあんまりしない。

ただ、エッジが効いてる部分もある、というか、オッと思うような編集の仕方をしてたりして、そういう細かい部分でも、グッときました。


もう一つ。
現在のストーリーを語る部分でも、カットバックが使われていて、ここも良かったです。
冒頭、オープニングに幾つか印象的なカットが出てくるんですが、この使い方も良かった。
巧いですよ。ホントに。
グッと来ます。それだけで。




いや、ヘタしたらアメリカのギャング映画の単なる焼き直しですからねぇ。
「リヨン団」なんて。

だけど、この「実在の人物」の話を、きっちりモダンなノワールに造り上げる、という、作り手の“豪腕”というか、そういうのを強く感じる作品、ですね。


シナリオ、ディレクション、俳優陣の存在感、編集。
映画を構成するあらゆる要素が、すべて、作品に対して力強く作用している、という、そういう力作だと思います。



いや、しかし、フランス産のノワールは、ホントに最近凄いなぁ。

最近ホントに、何本も観てますもんねぇ。



いいです。ホントに。












2012年10月10日水曜日

「漆黒の闇で、パリに踊れ」を観た

銀座テアトルのレイトショーで、「漆黒の闇で、パリに踊れ」を観た。

フレンチノワール、ですね。
原題は「Une Nuit」ってことで、「ある夜」ってぐらいの意味でしょうか。
邦題は、ノワール映画であることをアイキャッチ的に主張するために、かなり力んで付けられてますけど、まぁ、若干スベってる気がしますが、ま、それはさておき。


原題で言われている通り、「一晩で起こる出来事」を追う、というストーリーなんですが、この邦題だと、そこが伝わってこない、という、ね。


ま、いいんですけどね。



ここ何年か、ホントに新潮流って感じで、フランス産のノワール作品が活況ですけど、こういうのはホントに嬉しいです。マジで。

このテイストの作品群を受容するマーケットが、東京にもあるんだ、ということが再確認できるだけでも大事なことだと思うし。
もちろん、東京だけでなく、マーケットという意味では、世界中にこのジャンルのファンが居る、ということなワケで、それも大事ですけど。


ノワール。


文字通り、パリの闇夜を描く作品です。(そう考えると、例えば邦題も「ある夜、闇空の下のパリ」とか、ね。「ある夜、漆黒のパリ」とか、どうです?)


ある刑事の、一晩の様子を描いていくんですけど、個人的には、物語の最後のフックになる部分の展開が、ホントに巧く騙されちゃって、とにかくそこが良かった、と。

“その夜”が終わって、翌朝の明け方から昼にかけて。

鮮やかだし、演じる女優さんの“切り替え”も、見事だなぁ、と。


すっかり騙されちゃいましたよねぇ。




ただ、逆に言うと、(個人的には)良かったのは、実はそこだけ、というか…。

こんな書き方をすると、なんだか怒られそうですけど、他のトコはあんまり引っかからなかった、というか。


良いんですけどねぇ。



でもなんか、例えば手持ちカメラで揺れながら、歩く主人公を映す、みたいなショットも、どうも冗長でピンとこないし、全体的にも、なんかそんな感じなんですよねぇ。

そんなにクールじゃないんですよ。

主役の俳優さんも、存在感は凄いあるんですけど、なんか深みがない、という気がしちゃうし…。


やろうとしてることは、間違ってないと思うし、伝わってはくるんですけど、どうも、ね。


カットの間も、あんまりシャープじゃないし。


ノワールを、ノワールの教科書どおりに撮りました、ということなんでしょうけど、その教科書はちょっと古臭いぞ、みたいな。

教科書どおり作られたノワールって、どうなんだ、みたいな感じもあるし。



だいたい、クールにノワールを撮ろうと思ったら、アイフォンとか絶対使っちゃダメでしょ。

そこら辺の感覚がちょっとズレてる気がするんだよなぁ。



もうちょっと“渋み”を、ね。

ふりかけて欲しかったです。作品全体に。



最後が鮮やかなだけにねぇ。


途中の、なんかダレてる感じが、どうももったいなかった、というか。




良かったんですけどねぇ。



なんかもったいないな、という感じがずーっと続いて、しかし最後で、という。


そういう、ちょっと微妙な作品でした。






2012年10月4日木曜日

「カルロス」を観た

渋谷イメージフォーラムで、3部作5時間半の超大作「カルロス」を観た。



いやぁ、観てしまいましたよ。トータル6時間超の大イベントでしたけど。
でもまぁ、こういう“イベント感”は、好きです。
昔、濱マイクシリーズ3部作を、横浜日劇という、作品の舞台にもなっている映画館でオールナイトで全部観る、というイベントに行ったことがあるんですけど、まぁ、映画って、こういうことですからね。
「映画を観る」という行為そのものが、実は、映画体験の中核にあるべきものですからね。



ま、それはさておき。



映画自体はフランスで作られた作品ですが、“主人公”のカルロスは南米ベネズエラ出身。作品の舞台は、ロンドン、パリから始まって、東西ベルリン、ウィーン、東欧ブダペスト、中東、アフリカなどなど、書くのも面倒くさいほどなんですけど。(ただ、面白いことに、経度で示すと、結構狭い範囲に収まったりして。)
まぁ、カルロスというテロリストの“一代記”ですから、当然そうなるワケで、だからこその“超大作”なワケですけど。

で、まぁ、超大作の名に恥じず、見事に造り上げてます。
この、ある意味で執念みたいな、作品を製作することへの気持ちは、ホントに素晴らしい。

ポイントは、その、製作費をちゃんと人件費に投入している、という部分だと思うんです。
俳優陣。
こちらの勝手なアレですけど、99%既知の俳優さんはいなかったんですが、そういうことではなく、ちゃんと「雰囲気を出せる」人間に「雰囲気を壊さない」演技を、という部分。
ここは、まぁ、字幕で観るというアレはあるにしろ、完璧だったんじゃないかな、と。

単純に、すげーな、と。


美術や衣装やなんやらも含めて、その時代のそれを、きっちり再現しているワケですね。


スーダンだろうがイエメンだろうが、俳優もきちんと配して、セット(ロケセット)もちゃんと用意して、という。
実際にその場所に赴いて撮影したかどうかは不明ですが、そんなことはどうでもいいワケで、要するに、そういうディテールの積み重ねこそが、リアリティを作るんだ、と。

そういう意味では、実は、パリ市内・ロンドン市内の方が大変だったんじゃないかと思うんですが、そういうのを全然感じさせないですもんねぇ。



と、ここまでは、割と表面的なアレ。



さて。



「一代記」という、まぁ、大河ドラマなワケですけど、この“長さ”で製作することによって、なんていうか、いわゆる「安易な類型化」を避けることができてるんだな、と。

そこがまず、大きな感想、というか。

一応、カルロスという一人の人間を、“ちゃんと”描くことには成功していて、それが、見終わったあとの重厚な満足感に繋がっているんだろうな、と。

ただ、「類型化」という罠には陥ってないんだけど、それと表裏一体でもあるんだけど、やっぱり冗長、という面は、確かにあって。

ざっくりと、理想に燃えていたハズのテロリストが、「職業として」テロを請け負う、つまり傭兵化していく、というプロセスを描けば、実はそれでストーリーを完結させることもできるワケですね。
それこそが「安易な類型化」なワケですけど、そういうストーリーをシャープに描く、という手法も、あるっちゃあると思うし、むしろ商業的な要請というのは、そっちの手法にあるとも思えるし。

そこから先は、もう堕落していく一方なワケで、その“墜ちっぷり”というか、そこの苦悩とか、家族ができて云々、みたいな、まぁ、そういう話なワケです。

もちろん、後半生も含めての「一代記」なワケですから、まっとうなアレなんですけどね。

そういうパートの話も、全然面白いんで、オッケーなんですけど。




で。

個人的に凄い良かったのが、もうホントに最初のトコなんですけど、テロ組織の活動家として生きていく、と決めたときに、なんていうか、高揚感と自己陶酔に浸る、みたいなシークエンスがあるんですね。
これが良かった。

テロリストの語る理想なんて、実は、自己陶酔と自己愛と自己憐憫の塊みたいなトコから始まったりしてるんじゃないの、という、もちろんそれは、後世を生きる我々のシニカルな揶揄なワケですけど、そういうのをちゃんと示すワケです。

あるいは、飛行機の機内で、人質に「俺は民主的な男だ」と嘯きながら、直後、“同志たち”との話し合いの中で、「リーダーは俺なんだから俺の言うことに従え」と強圧的に結論を出してしまう、というシークエンス。

それは、「理想と現実の間で苦悩する」理想主義者としてのテロリスト像、ではないワケですね。
むしろ、その手の苦悩は、描かれない。

そうではない、と。
カルロスという人物は、圧倒的に、自分に自信がある。自己肯定感。
だからこそ、テロの“指揮官”として、数々のテロを実行することができたワケですけど、要するに、そういう人物として描かれているワケです。

自己矛盾でもうぐちゃぐちゃな状態に陥っていても、まぁ、そんなに関係ない、というか。


で、カルロスという人物の自己肯定感の強さの源泉の一つとして、“性的”な魅力があるんだ、ということを、ずっと描いていきます。
もう、ありとあらゆる“女”を、抱きまくる。
結婚だって何回もするし、みたいな。
モテまくるワケですね。

そういう、俗世的なアレなワケです。


テロリストとしてのキャリアの初期、ロンドンで、清掃婦として働く“女”に、「働きたくなかったら言ってくれ」みたいなことを言うんですが(テロ組織からのカネを生活費として渡してもいい、という意味だったと思います)、この、「労働を蔑視する」みたいニュアンスのセリフも、ポイント高いですよね。


それはさておき、要するに、カルロスという人間のパーソナリティを、そうやって描く、と。

同時に、とても魅力的な脇役を、カルロスの周りに配しています。

ドイツ人のアンジーという“活動家”。
彼は、痩身で小柄なドイツ人で、いかにもって雰囲気の“左翼”として造形されているキャラクターなんですが、苦悩するワケですね。
自分の抱く理想と、現実に自分が従事しているテロ活動が掲げる大儀とが、乖離する。しかし、戦闘員としては優秀である、という評価を組織内では(というより、カルロスからは)受けていて、しきりに誘われるワケです。

彼が、山小屋で薪を割ったしているシークエンスは、後の(つまり、現代の)“サヨク”たちの「政治⇒エコ」なアレを示唆しているようで、これはこれで面白かったですけど、それもさておき。

その、心象が揺れ動くワケですね。アンジーは。


もう一人、ドイツ人で、カルロスの奥さんというキャラクターが出てきて、割と颯爽と登場するんですけど、自分の間抜けなミスが原因で逮捕されて、諸々あってカルロスの元に帰って来て、という経緯を経て、最終的にカルロスから離れていくんですけど。



つまり、カルロスという、終始一貫したキャラクターの横に、心象が揺れ動く人物たちが配されている。

途中からカルロスに取り入って懐に入ってきて、後に裏切ることになる、アリという登場人物もいます。

そういう人間たちがむしろ、ストーリーをドライブしていく、という感じ。




あと、細かい所でいうと、やっぱりウィーンでのOPEC襲撃と、その後の飛行機での逃亡を計るシークエンスは、緊迫感があって、良かったです。やっぱり。

リビアの随行員を殺しちゃった瞬間、とか、“母国”であるベネズエラの大臣とのやり取りとか。


サダト暗殺を、“他の組織”に先にやられちゃう、という、ストーリー上のフックも良かったですねぇ。
どこまでが事実/史実なのか、俺には分からないトコが結構あったワケですけど、その辺の虚実が入り混じる感じも、逆に面白かったです。



それと、なんといっても、日本赤軍の姿が描かれているのは、ちゃんと書いておかないといけませんね。
ハーグ事件。

ここで強烈だったのが、人質となった大使とテロリストの言葉の応酬。
「ナチスと戦ったレジスタンスだろ?」という言葉に、即座に大使が切り返すんですけど、要するに、そういうディテールで語っていく、ということなワケですよね。
彼らの掲げる大義や、論理や、大義の下での行動の、どうしようもない稚拙性や幼稚性みたいなのを炙り出すのと同時に、そこにこそリアリズムがあったりするワケで。
一緒に決行するつもりだったのに、ちょっとした手違いで傍観することになってしまった時の表情の描写なんかも、とても上手。

長尺の大作なだけに、そういう細かい印象の部分は流されがちだと思うんですけど、まぁ、抜かりないな、と。
良いです。

カルロスの所属していた組織(パレスチナのPFLP)が、当時の世界情勢の中で、どういうネットワークを持っていたのか、という部分でも、興味深いシークエンスでしたけど。

“世界革命”だ、と。そういう時代があったんですね。
そして「俺たちは負けた」と。そういうセリフもありましたけど。


俺と一緒に、平日の昼間っから6時間も映画館に缶詰になって観た人は、半分以上がシニアな方々でしたが、その中には、ひょっとしたら、郷愁だとか、特別な感情移入を持って観てたとか、そういうのがあったのかもしれないな、と。

そんなことも、思いますけどね。




ただまぁ、5時間半ですからねぇ。


DVDという、大容量メディアの普及で、いわゆる映像メディアの消費のスタイルが少し変わって、例えば(日本でいう)海外ドラマシリーズを一晩で全部観る、とか、そういう、長時間の作品でも受容される下地みたいなのが(かつては難しかった)、こういう、長時間の超大作の製作を可能にしているんだろうなぁ、と。

そういうことも考えますが、ま、覚悟のある人だけが、見てください。
長いんで。

面白いんで、観る価値はあるとは思います。



個人的には、長さも含めて、とても良い作品でした。





2012年6月29日金曜日

「ジョン・カサヴェテス・レトロスペクティヴ」を観た

イメージフォーラムで1ヶ月間上映されていた特集プログラム「ジョン・カサヴェテス・レトロスペクティヴ」を(6作品全て)観た。


「インディペンデント映画の父」なんて言われる監督ですが、その作品をスクリーンで観られる機会って、なかなか無いと思うんですけど、今回は、勉強だからってことで、「全部観よう」と。
イメージフォーラムの年間会員みたいなのに入りましたからね。年会費払って。
会員証もらいましたから。(作品が1000円で観れるんです)


で。


その、こんなこと書いたらアホ扱いされるかもしれませんが、なんていうか、カサヴェテス作品に共通してるな、なんて気付いたことの1つが、割と俗っぽいテーマを扱っている、という点。
やっぱり、映画史における功績から、うっかりしたら“聖人”扱いしそうになっちゃう人物だと思うんですけど、そうじゃないワケです。

俗っぽい。
別に高尚なテーマやメッセージが掲げられているワケじゃないんだなぁ、と。

ひょっとすると、むしろ、そういう作品を作りたかった為に、こういう製作手法が採られたのかなぁ、なんてことも頭によぎったりして。


作品自体は、正直、驚きとかエッヂであるとか、そういうのはもう感じないワケですね。
2012年の時点では、彼の作品群に対して、本当の意味でフレッシュに驚くことはできない。
ただそれは、カサヴェテスが切り拓いた手法が一般的になったからこその“飽き”なワケで、つまりそれ自体が、彼の功績なんだ、とも言えるワケですけど。
(だからこそ、「レトロスペクティヴ」なワケですけどね。)



1つ思うのは、彼が確立した方法論は、映画史において、ある種の技術的革新だった、と。
ヌーヴェルバーグとは違うスタイルの、まぁ、ざっくり言ってしまうと「俳優優先主義」というか、そういう、あるスタイルの確立であって。

もうひとつは、製作面での、つまりスタジオのカネでなく、独立した(インディペンデントな)形態で製作する、という、要するに低予算で撮る、ということなワケですけど、このどちらもが、今では完全に一般化しているワケで。


彼自身が優れたアクターだったから生まれた“技術的革新”だったのか、“低予算”が強いたからこそ生まれた“技術的革新”だったのか。
あるいは、その逆だったのか。
そこら辺は、不勉強なモンで、ちょっと分かりません。

ただまぁ、「手法とテーマの一致」ということは、感覚的に分かるなぁ、と。
俳優の演技に肉薄するスタイル。
俳優の演技力に拠ることで語ることができるテーマ。
というより、俳優の演技力を引き出す手法だからこそ、語り得るテーマ、というのが多分あって、それこそが、カサヴェテス作品の力強さなんだろうなぁ、と。

人間の、(誤解を招きそうなアレですが)単に内省的な部分を表現しようとするのではなく、俳優がダイアローグで表現し得る、より表層的な部分の、その「人間の上っ面」に浮かび上がってきてしまうモノによって自分自身が苦しめられてしまう、という、「こわれゆく女」なんて、まさにそういう作品なワケですけど。
モノローグではなく、ダイアローグ。
人間の「上っ面」の部分と、それを描くことで逆説的に、というより乱反射的に浮かび上がる、人間の「内面」の部分。



もちろん、大事な前提として、優れた演技力を備えた出演者たち、というのがあるワケですけどね。
ここが、ヌーヴェルヴァーグや後のニューシネマとの大きな違いかなぁ。
“存在感”や“雰囲気”だけじゃダメで、もちろん、この違いは、「なにを語るか」という、作品のテーマ、あるいは作家のテーマの違いに由来するワケですけど。



まぁ、そんなことを考えながら、1ヶ月、渋谷に通いました。



最後に、新聞にちょっとだけ載っていた、この特集プログラムの紹介記事と、ジーナ・ローランズのインタビューをご紹介。


(カサヴェテスは)労働者階級や女優、作家など様々な層を描く。彼らは心が折れていたり、激しい気性を剥き出しにしたりする。
 「他の人が『おかしい』と思うような人に、ジョンは心を寄せていた」とローランズは振り返る。
登場人物は時にカメラの枠からはみ出しそうになりながら、街角で普段交わすような砕けたセリフを繰り出す。役者を指定の位置に立たせ、教材のような「標準英語」を語らせた当時の映画作りの中では画期的だった。

「ジョンは不自然さを嫌った。演技指導も殆どせず、役者はカメラの前で好きに動けた。そんな監督は当時のアメリカにはいなかった。私たちを追いかけるカメラマンには申し訳なく思ったけど、作品に素晴らしい自由さをもたらした」
 「(息子の)ニックと仕事をすると、ジョンが思い浮かぶの。彼もジョンのように、役者をとても愛しているから」





「カメラマンには申し訳なく思ったけど~」って、素敵な言葉です。










2012年6月26日火曜日

「預言者」を観た

新宿から京王線に乗って行った下高井戸シネマで、「預言者」を観た。

面白かったです。
フランスで作られた作品で、知らなかったんですけど、カンヌ獲ってる作品だったんですねぇ。道理で、パワフルなハズです。


内容は、刑務所の中で、フランス語の読み書きもできない若者(移民の子ども、なんだけど、孤児でもあって、教育を受けられないまま育った。)が、一人前の“悪党”としてのし上がっていく、と同時にその過程で、悪党としてだけでなく、人間としての“尊厳”みたいなのも獲得していく、という、いわゆるピカレスク・ロマンというヤツですね。
ノワールと言えばそうですが、個人的には「ピカレスク・ロマン」という言葉を使いたい作品です。

まぁ、好きです。こういう作品は。


ただ、1つだけ分からなかった、というより、腑に落ちなかったのは、「預言者」というタイトル(原題は、英語で言うと「a prophet」ってことで、特に意訳をしたりムリに付けた邦題、というワケでもありません。)と、その言葉が示唆するあるエピソードなんですけど・・・。

なんか、聖書とか神学的に、こういうエピソードがあって、そこから引用している、とか、そういうことなんですかねぇ?

タイトルに掲げているぐらいですから、大事なアレなハズなんですけど、どうもそこが腑に落ちないままなんですよねぇ。


だいたい、作品を観る前は、タイトルと、刑務所の中で云々という設定から、てっきり「1人の服役囚が回心して~」みたいな、宗教的な話なのかなぁ、なんて思ってたぐらいなんですけど、ところがどっこい、期待に反して、これまた自分の好きなタイプの話だったんで、意外な形で裏切られた、ぐらいの感じで。


まぁ、預言者と予言者は違うワケで、ここも難しいトコなんですけど。


これねぇ。
別に、次々と「予言を的中させていく」ワケじゃないんですよ。
そのくせ、「鹿の飛び出し注意」という、物凄いピンポイントで“未来”を当てるんですね。

ここが良く分かんない。



別に、その、なんていうか、「人生の指針を教えてくれる」みたいな形態でもいいと思うんですよねぇ。
実際に、そういう“メンター”って、いると思うし、ストーリーとして語る価値がある存在だと思うし。

そういう話でもいいと思うし、そういうストーリーだったとしても、この作品の映像の力に十分拮抗するだけの物語を構築できたと思うんですよねぇ。
もちろん、タイトルは変える必要はあるけど。


まぁ、そこをグチグチ言ってもしょうがいないんで、とりあえず、さておき。




とにかく、俳優陣の存在感が凄いですね。
重厚。
とにかく。

暑苦しいぐらい。
男ばっかりだし、アップも多用するし、だいたい、その男ばっかりって状況に加えて、みんな顔が汚いワケですよ。刑務所の中なんで、みんなヒゲ面だし、人相も悪いし。
ま、服役囚たちの話なワケで、当然っちゃ当然なんですが、とりあえず、そこから逃げない、という、そこが素晴らしいですよね。

刑務所の外に出て行くシークエンスもあるんですけど、“外の世界”でも、そういう部分ではまったく逃げずに、刑務所の外にも、塀の中の世界が(彼らにとっては)完全に地続きであるんだ、ということを描いたりして。
(しかし、フランスの司法制度には、一時出所というシステムがあるんですねぇ。仮出所とは違う感じなんで、不思議っちゃ不思議な制度です。)

あと、フランスの“政治犯”なんですね。思想犯、というか。
コルシカ島に、フランスからの独立を掲げるテロ組織っていうのがあって、というトピックが背景にあるワケですけど、この独立運動(と、テロ行為)については、この作品で初めて知りました。

刑務所の中での、アラブ系とコルシカの男たちとの対立の構図とか、とても巧く描かれていて、刺激的、というか、画面に緊張感を付与していますよね。

2つのマイノリティが、お互いを削り合う、というか。
火花を散らす、という感じじゃないワケですよね。お互いに、神経をすり減らし合う。そういう日常。その両方に出入りする主人公と、ジプシー(ロマ)という出自から、どちらにも所属しない(することのできない)主人公の相棒。

看守たちとの関係。

コルシカ軍団のボスとの、擬似的な父子関係。父の庇護を受け、その使い走りをしながら、力を蓄えていく。
自分のビジネスも始め、“ファミリー”を構える。
そして最後に、それはまるで予定調和ではあるものの、描写の鋭さによってそう感じさせない、「父殺し」の物語。

いいですよねぇ。

ラストシーンの、あの感じなんか、堪りません。



いい作品です。ホントに。



ただ、惜しむらくは、要するに「預言者って?」と。



少なくとも俺には、良く分からん、と。。。



なんかなー。。。
キリスト教的な素養、というか、文化的なバックボーンというか、そういうのが必要なんかねぇ。。。



しかしながら、それを差し引いても、良く作品でした。
わざわざ下高井戸まで足を伸ばした甲斐がありました。


うん。













2012年4月29日日曜日

詩作のヒント

昨日の新聞に、「詩人になる」という連載の記事が載ってまして。
まぁ、これから詩作を始めたい、という人たちに向けてのコラムなワケですけど、ちょっと面白かったので、ここにアーカイブしておこうかな、と。


詩人の、工藤直子さんという方が、応えております。

「本当の自分は恥ずかしがって奥に隠れている。詩は、油断させないと出てこない」
きれいなノートだと、いいことを書こうとしてしまう。お薦めは、チラシの裏だ。例えば、針仕事をしながら、ふっと頭に浮かんだことを、まずは手直しせずに、そのまま書き留める。
頭の中でいじらず、ちゃんと書き出すことで、褒められるかも、といった雑念も外に出ていく。
そうやって出てきた「言葉のカケラ」は、自分だけが毎日、目にする場所に貼っておく。書き捨てることを忘れないためだ。
タマネギの皮を外側から剥いていく作業を思い浮かべるといい。剥いていくうちに、自分の中に芯のようなものが見えてくる。
「心の深いところに、たまっていた思い。この思いは、地下の湖みたいに、他の人の深いところと繋がっているような気がする。だから心に響くんです」
続けるうちに、これが言いたかったんだという「鍵穴」が見つかる。
捨てたはずの言葉のカケラも、意外につながっていくという。

「油断させないと出てこない」ということで、具体的には“針仕事”となっていますが、その他には「手仕事や散歩」が推奨されています。

つまり、日常で生活している時間の多く、ということだと思いますね。
ふっと、頭に言葉が浮かぶ。
それを、とりあえずそれはそのまま、書き残しておく、と。



詩を書くためだけのメソッドではないと思います。


“鍵穴”とか、この辺のキーワードの感じは、さすが詩人。



「続けるうちに、これが言いたかったんだという『鍵穴』が見つかる」と。


なるほど、と。


今日は、そういう感じでした。











2012年4月28日土曜日

「裏切りのサーカス」を観た

満員の新宿武蔵野館で、「裏切りのサーカス」を観た。



いや、とりあえず、お客さんがいっぱいで、それが凄かったですね。
武蔵野館は、ジョージ・クルーニーの監督作品「フィクサー」と、ストーンズmeetsスコセッシの「シャイン・ア・ライト」以来の、一番大きいシアターが(ほぼ)満席、という状態でした。


大人が集まる映画館なんですなぁ。。。



で。


内容ですが、とにかく大作なワケですけど、大作でありながら、とても緻密に練り上げられたシナリオの、その、細かいディテールを積み上げていって長大なストーリーを作る、ということに成功している、という。
ひょっとすると、これは逆で、長大なストーリーを構築する上で、細かいディテールを埋め込んでいくことで、骨太で濃密な作品を作り上げることに成功している、というか。

ま、ストーリーとそのディテールの話は、どっちが先って話でもないんで、大事なのは、とにかくディテールが素晴らしい、と。

これは、原作の力なのか、映画化にあたってのシナリオの力なのかは、正確にはちょっと分からないんですが、とにかく、良い、と。
(いくつもの作品の連作を、ひとつの映画としてまとめた、ということらしい)


あとは、映像の力を信じて、思い切って“説明”を端折っているトコですね。
一番痺れたのは、主要キャラクターである、“若手”のエージェントが、実は「同性愛者」であった、というシークエンス。
このシークエンスは、カットごとの飛躍が、もう観客に対して、かなり挑発的というか、「分かるだろ?」「分かんなかったら観なくてもいいよ」ぐらいのアレなんですけど、この案配は、とても良いと思います。

これが、他の凡作であったら、「彼が同性愛者である」ことを説明するショットなりシーンなりを挿入すると思うんですよ。
なんせ、長尺の作品ですから、多少カットを増やしても大丈夫だろ、みたいな意識もあるワケで。

ところが、説明一切なし、ですからね。

役者の泣き顔(悔しさと悲しさと無力感の、入り混じった泣き顔)と、相手役の発するセリフ、そのシーンを映す映像の空気感、そういう諸々で感じ取れ、という。

この辺の、見事な編集の間がもたらすスピード感みたいなのは、ホントに素晴らしいです。



それから、所内(省内?)の、パーティーのシーン。
これは、最初、あんまり意味が分からなかったんですよねぇ。

主人公の奥さんとその浮気相手の出会いが、それを匂わせるように描写されてるワケですけど、でもそれは、所のメンバーが和気あいあいと酒を飲み交わし、踊っているような、浮かれたパーティーの場じゃなくても別に構わないワケで。

結構な頻度で、インサートショットとして、というか、回想シーンとして挿し込まれるんですけど、ホントに最後の最後に、この“パーティー”の意味が分かる、というか。

実は、作品の隠されたテーマみたいなのがあって、それが、このパーティーなんかをずっと伏線にしていて、最後に、ストーリー本線の結末と一緒に、回収される、という。
この、隠されたテーマと、ストーリーの本線とが、一緒に回収される、というのが、なんていうか、ちょっと独特のカタルシスを与えてくれるんですね。

これは、かなりグッときましたねぇ。
ホントにラストのところなんですけど。



要するに、裏切り者がいる、と。

で、「その裏切り者は誰だ?」というのが、ストーリーの本線であるワケです。
本線自体が、複線構造になってて、ひとつが、単純に、裏切り者を探す、という戦い。これは、そのまま、母国(イギリス)と見えない敵(ソ連)との戦い、という大きなスケールとともに語られるワケですけど、その中間に、国内の、組織内の戦いと、その組織の一枚外側にある政治家(及び、官僚)との駆け引き、というのも、挟み込まれている。


で、複線のうちのもう1つが、主人公(ゲイリー・オールドマン)の、個人的な葛藤、みたいなもの。
不本意な形で退職することになって、なんか生活に張り合いがなくなって、なおかつ、奥さんが家を出て行ってて、みたいな。
そういう、自分の内面にある虚無感と格闘する主人公の姿。


とりあえず、作品中で描かれる“戦い”は、こういう三層構造になってて、しかも、三層が、複線になって、お互いに絡み合ってる(影響を与え合っている)。

こういう構造があるからこそ、非常に濃密な「人間ドラマ」を、余計な“サイドディッシュ”なしに描き切れるワケですけど。



で。


もう1つ、隠されたテーマ、というのがあって、それは、もう1人の主人公とも言うべきキャラクターで、静かに語られていて。

死んだと思われていたその登場人物が、実は、組織同士の駆け引きの中で、本国に送り返されていて、田舎の、学校の先生として、新しい生活を始めている。
もちろん、“新しい”といっても、拷問や銃創の影響を引きずっていて、物理的に、身体に障害が残っていたり、もちろん、精神的な傷も抱えている。

で、さらに、孤独である、と。


そこに、“まるで同じように”クラスの中で孤独な存在であった、男子生徒が近寄ってくる。
2人は、気持ちを交わすワケです。

自分は、その「孤独な生徒」の孤独感を和らげる存在である、と。
それは同時に、自分の孤独感が、その生徒で癒されている、ということでもあるんだけど、その男は、それも十分承知していて。

で、過去に、「孤独な自分」に寄り添ってくれようとしていた人物がいた、と。
そういう話なワケです。

その人物の存在を描くのが、例のパーティーだったワケですね。

同時に、ストーリー上でそのことが明かされたあとに、「裏切り者」が実はその男だったことも明かされる、という。

孤独な自分に近寄ってくれた、その“友情”を、「裏切り」というのは、踏みにじる行為なワケで。

しかも、その「裏切り者」のせいで、自分は一度死にかけている、と。
ミッション遂行に失敗して、銃で撃たれて、なおかつ、ソ連の機関に熾烈な拷問を受けたワケです。

それもこれも、“友情”を信じていたその男が裏切ったからだ、と。


結果的に、ストーリーの結末として、復讐を実行し、命でもって償わせる、ということになるワケですけど、つまり、これが「隠されたテーマ」なワケですね。

「裏切り」というのは、単純に「諜報組織」と「国」に対する裏切りなだけでなく、個々人の間にあった感情をも裏切ったヤツ、ということになるワケです。


この、もう1人の主人公の、学校でのシークエンス、ですよねぇ。

切ない。
だから素晴らしい。
ホントに。


復讐を遂げる前に、“先生”は“生徒”を突き放すんです。非常に感情的に。
「仲間の中に入れ」と。

これは「孤独であることに甘えるな」ということですよね。
自分みたいになるな、と。



この感じは、良いですよ。
ホントに。

素晴らしいです。



うん。





ちょっと、長々と書いちゃいましたね。


他にも、語られるべきポイントは幾つもあるんですが。。。

セットその他の美術が素晴らしい、とかね。




ま、この辺で。




とにかく濃密で緻密で、素晴らしいストーリーだと思いました。


2012年4月27日金曜日

「ドライブ」を観た

新宿バルト9にて、「ドライブ」を観た。



いやぁ、素晴らしかったですねぇ。

良かった!



予告編で「ダークナイト」の続編の予告が出て、それでテンションが一気に上がってしまったんですが、それとはまったく関係なく、素晴らしい作品でした。


うん。


いろいろあり過ぎて、どこから書けばいいのか分かんなくなってるんですが、とにかくとりあえず、順番に。


まず!

冒頭の、つまり導入の部分が良い!
今からどんな物語が(作品として)語られるのか、どういう語り口で語られるのか、そして、その物語の主役である主人公が、どういう人間で、何をしていて、作品の中で何をしようとしていくのか、そして主人公が作品の中でどう扱われていて、それを受け手がどう受容すれば良いのか、という諸々を、かなりズバッと、つまり鮮やかに見せている(魅せている)、という。

いや、ホントに。

主人公の“クライアント”である2人組の強盗を「待っている」だけのシチュエーションで、これだけの緊張感をチャージできるなんて、ちょっと驚きです。ホントに。
だって、主人公は全然動いてないんですからねぇ。
それが、2人組の片方が「戻ってこない」、という、ただそれだけなのに、という、ね。


それから、これは主人公の造形がそうなんですが、それだけじゃなくって、作品全体の演出意図としてあるんでしょうけど、なんかダサい!

主人公なんて、サソリの刺繍が入ったスカジャン(みたいなスタジャン)着てんですよ!
ダサい!
(実際は、革製の、ライダースジャケットだと思うんですけど、いや、スカジャンに見えるんですよ・・・。)

蠍って!
しかも、白!


口に爪楊枝くわえて、手には革製のグローブ!
(いや、グローブは、ドライバーっていう職業柄のアレなんで、しょうがないっちゃしょうがないんですけど)
腕に付けてるのはアナログ式の時計だし、しかも、すげーダサい。

それから、BGM(サントラ)が、なんかホントに80年代みたいなヘンなサウンドで・・・。
あと、スタッフロールなんかのスーパーのフォントも古臭いし、よりによって色が、ピンクみたいな紫色で・・・。

ヒロインとのデートなんて、小川ですよ。
小川。小さな川。
なんか、運転しながらキラキラしちゃってるし。


いや、そういうのが、ここまで振り切っちゃえば逆にカッコいい、という、そういう塩梅になってるワケなんですよ。
なんかダサくて痺れさせる、みたいな。


もちろん、それは、単に俺が「ダサい」って言ってるだけで、完全に演出意図があってのことなワケで、まぁ、哀愁感を出す、というか、時代に取り残されてる(古臭い感覚で生きざるを得ない)男たちの姿を、とか、そういうことなワケですけどね。

「ダサい」って言ったらそうなんですけど、でも、作り手としては、それでいいワケです。
わざとそうやってるワケですから。

それは、作品自体が、ストーリーとかキャラクターたちの描写とは全然関係ないところで(まぁ、関係なくはないんですけど)、なんていうか、「映画への愛情」あるいは「ある時代の映画へのノスタルジー」の表明になっているからだと思うんですね。
ひょっとしたら、これは、俺が勝手にそう受け取っているだけかもしれないんですけど。

もうちょっと正確に言おうとすれば、映画への夢、というか、“かつての”映画が見せてくれた夢、というモノに対するノスタルジー、というか。

それは、単に“時代が”ということでなく、子供の頃、青年の頃、つまりまだ若かった頃には「夢を見ていた」けど、今は、その夢とではなく、現実と格闘していて、しかし、「夢を見ていた頃」に対するノスタルジーはあって、みたいな。

なんか割と、そういう重層的なメッセージと演出意図が込められているんじゃないかなぁ、なんて。

作品全体に散りばめられている「古臭さ」≒「意図されたダサさ」と、主人公たちの心象風景、というのは、そういう具合にリンクしてるんじゃないのかなぁ、というか。


違うかな。。。?



ただ、とにかく言えるのは、登場するキャラクターたちは皆、社会の底辺を這いつくばって生きている、ということですね。
それは間違いないワケですけど、つまり彼らは、とにかく現実の生活に苦しんでいる。
辟易してるし、倦んでるし、疲れてる。
現実の生活に。
現実との格闘に。

その現実から抜け出そうというアクションも描写されるワケです。
レーシングの世界に打って出よう、というシークエンスですけど。

登場人物の一人は、「昔は映画を作ってたんだよ」という科白を吐きます。「アクションとか、ポルノとか」みたいなことを言うんですが、つまり、今はやってない、と。
今は、ヤクザ稼業とカタギの稼業の、半々みたいなトコにいて。


だけどなんか、まるで足を引っ張って引き摺り下ろそうとするみたいに、誰かに足を引っ張られて、必死でもがかないと、その場所にもいられなくなってしまう、という、そういうシチュエーションがお互いに起こる、という。


そこはホントに、脚本の勝利なワケですけどねぇ。

それぞれのキャラクターのシークエンスを、最小の言葉(時間)で、的確に語っていく、ということなワケで。



いや、ちょっと話が(結論の方に)飛んじゃってますね。。。



演出の部分でも、大きなポイントがひとつあって、それは、ミニマリズム。
とにかく削ぎ落とす。

それは、多分に予算の制約みたいなのも関係してると思うんだけど、逆に、しつこく(敢えて徹底的に)描写してる部分もあることから考えると、やっぱりかなり意図的にやってるんだな、というトコなんですけど。

例えば、強盗犯たちの、踏み込んだ中の様子を描かない、という。
これはですねぇ。

かなり痺れますよ。

「こんなんアリか?」ぐらい、一切描かない。

これが、ここで最初に書いた、緊張感をチャージする術の1つでもあるワケですけど、逆に言うと、実は「これこそ映画だ!」みたいなトコでもあって。

その直後、カーチェイスはしつこく描写するんだけど、その相手は誰だか分からない。
だいたい、そのカーチェイスに突入する寸前の編集の間なんて、ホントに「え?」っていうぐらい刻んじゃってて、まぁ、それも含めてのスリリング感なワケですけどね。
(このシークエンスは前後も含めて、アクション映画としてのこの作品のクライマックスの1つで、銃声の“間”とか、ホントに完璧だと思います。俺なんか、見ててホントに飛び上がっちゃっいましたからね・・・。)

この、編集の巧さも含めたミニマリズムは、ホントに素晴らしい。

この監督は“分かってる”人ですよ。
分かってます。

観る側のこちらとしては、いち いちその“意図”にハメられちゃってしまったワケです。
えぇ。


逆に、例えば“着弾”のショットなんかは、いちいち見せるワケですね。ストリッパーが出てくるシーンでは、いちいち彼女たちの“お胸”を表情とセットで見せる。
その「いちいち」がねぇ。

いいですよ。

見てて、惹きこまれる。




もう1つ、ストーリー上の、脚本の上でのポイントがあって、それは、描かれている世界の大きさ。
小さいワケです。

登場人物なんか、凄い少ない。
だけど、その中に、ヒロイン(と、その息子)も居れば、主人公の“庇護者”もいれば、黒幕もいる。
凄く小さな範囲で物語が完結している。

それは、彼ら(登場人物たち)の生きている世界の小ささを表しているワケだし、彼らの人間自体の小さなも現しているワケで。(もちろん、予算の関係上もあるハズだけど)

つまり、だけど同時に、彼らは「もっと大きい何か」に押し潰されているワケです。
そういう日常を生きている。
押し潰そうとする力に抗うように、犯罪を犯すワケです。

しかも、今の生活から逃れようとするために犯罪を犯す、ということですらない。登場人物の一人は、「今の生活」すら、犯罪を犯さないと維持できない、ぐらい追い込まれている。

1人、黒幕であるキャラクターは、一見「押し潰す側」に居るように見えるんだけど、実は彼も、「東海岸のマフィア」という、「自分を押し潰そうする力」に(文字通り、必死に)抗っている。

で、常にその、「彼らが住む小さな世界」の外側(あるいは、頭上)を覆っている「押し潰そうとしている何か」は、殆ど一切表現されないワケですね。

ミニマリズムというのは、ここでも作用している、という。



そういうトコがねぇ。
ホントに、痺れさせてくれるって感じで。



それと、最後に、これは蛇足かもしれないんだけど、1つだけ。



実は、これも“ノスタルジー”とちょっと関係あるかもしれないんですけど、主人公たちというのは、すべて白人なんですね。
金髪碧眼。

ちょっと部分的な結論だけ言ってしまうと、そういう意味では若干ポリティカルな作品でもある、というか。

ま、ホワイトトラッシュを描く、ということに過ぎないかもしれないんですけどね。


黒幕のユダヤ系、主人公とヒロインに“災厄”を運んでくる、ヒロインの夫は、スパニッシュ系。

彼らに、主人公とヒロインは、巻き込まれるようにダウンスパイラルにハマっていく、というのが、物語の大きな構造になっているワケで。

ま、このポイントは、そういう「読み方」もある、ということで。





あ、あと、最後に流れる曲。

なんか、ワケ分かんない人間賛歌な内容の曲で、そこの「微妙に謎」な感じもねぇ。

良かったです。
ホントに。




長くなっちゃったから、この辺で終わった方がいいですかねぇ。




他にも、「追われる側」だった主人公が「追う側」になった時の視点の転換、とか、もうちょっとあるんですけど、割愛、ということで。



とにかく、いい作品でした。


何度も観たいな。。。
うん。






2012年4月17日火曜日

関係性の逆転、あるいは、関係の相互性

久しぶりに、お昼にテレビ東京でやってる「CSI」を観まして。
もうシーズン9なんですね。



で。

今回のエピソードのストーリー本編とはちょっと違う部分で、とても面白いシークエンスがあったので、せっかくなのでこのブログにアーカイブしておこうかな、と。



作品自体を久しぶりに観たので、ちょっとそこはアレなんですが、一応ざっと“前段”を説明しておくと、捜査チームの仲間の1人が殉職した、ということになってまして。
ウォリック・ブラウンという、まぁ、人気キャラなワケですけど。

で、彼の殉職を受けて、署に、カウンセラーがやってくるんです。「ER」で主要キャラ(もちろん、ドクター)を演じていた女優さんが出てくる、という、ま、タイプキャストと言っちゃえばそうなんですが、ファンには嬉しい配役で。

で、カウンセラーが「なにか話したいことがある人は、私のところに話をしに来て下さい」と言うワケです。オフィスのブースの1つに自分の席を作って、そこで、“悲しみ”とか“喪失感”を吐露しにくるのを待つ、と。

ところが、チームのメンバーは、誰も彼女の待つブースに行かない。
誰もカウンセラーの所に行かないワケです。



彼女は、辛抱強く、待つ。




で。



チームのリーダーが、ちょっと顔を出すんですね。
で、「ハンクのことで相談があるんだ」と切り出す。

カウンセラーは、「来た!」ということで、“仕事”を始める構えを作るんですが、なにぶんチームのリーダーなので、仕事が忙しい。話を始めるタイミングで、部下が捜査の進展を知らせてに来て、そこでは話が出来ずじまいになる、と。



カウンセラーとしては、誰もカウンセリングに来ないもんですから、ヒマなワケで、その「ハンク」について、署内にいる人間に、リーダーのカウンセリングの下調べも兼ねて、話を聴き回るんですね。
「ハンクって、誰?」と。リーダーにとって、その「ハンク」はどんな存在だったのか、みたいな。




ところが、話を聴いて回るうちに、「ハンク」ってのは、ペットの「飼い犬」のことだと分かるワケです。

これで、カウンセラーは、ちょっと怒っちゃうんです。「バカにしてるの?」と。
自分の仕事のことをバカにされてる気になってしまうワケですね。


もともと、刑事たちっていうのは、“弱気”を他人に見せたがらない、という職種だ、というのもあるでしょうし、とにかく、そのカウンセラーの元に誰も話をしにこない、という状況なワケで、それに加えて、最初の相談が、実は「ペットの犬」だった、みたいなことになって、さすがのカウンセラーも、頭にきてしまった、と。



で、チームのリーダーのブースに、怒鳴り込むんです。「バカにしてるんですか?」みたいなことで。




で。




・カウンセラーが怒鳴り込んでくる。「聴いたわ。『ハンク』って、犬のことだったのね?」
⇒リーダー、謝る。
⇒さらに、「訊きたいことがあったんだ」と言うリーダー。
⇒「飼い主の心情の変化が、ペットに影響を与えることはあるのだろうか?」「最近、ハンクの元気がなくってね」
⇒カウンセラーの表情が変わる。「あるわ」



その、「バカにされた」と思っていた「飼い犬の話」が、実は、カウンセラーにとっては“職分”の話だった、という展開になるワケです。
実は、それこそが、リーダーの「“喪失感”の吐露」であって、カウンセラーにとっては、それこそが「仕事の話」であった、と。


それまで、若干空回り気味だったカウンセラーは、ここで、気を取り直すワケですが、面白いのが、ここで、ホンのちょっとだけ嬉しそうな表情を見せるんですね。
そういう演技(演出)、あるいは、これは単に、俺だけがそう解釈してるだけかもしれませんが、少なくとも、そう解釈できるだけの“間”を、そこに取っている。




これは、とても面白い構図で、「患者/カウンセラー」の関係が、微妙に逆転してるんです。
カウンセラーの前に“弱者”としてやってくるハズの患者が、ここでは、カウンセラーが「仕事を求める」“弱者”となって、自分の患者の前にやってくる、というのと、もう1つ、「悲しい記憶」が、このカウンセラーにとっては「喜ばしいこと」になってるんですね。

誰かが「悲しい記憶」を吐露し始める、という行為を、カウンセラーは、待っている。

そして、誰も来ないから、苛立ち始める。
まぁ、ストレスを溜め込む、ということなワケですね。


カウンセラーが、ストレスを抱え、それを爆発させもする。



しかしそこで、患者であるリーダーが、「喪失感の吐露」を始めるワケです。
というより、実は、始めていた。

カウンセラーは、そこに気付かないままでいた、というか。




カウンセラー/患者という関係性においては、患者がカウンセラーに拠る、というのが一般的な構図であり、“描写”もそうなるワケですが、ここでは、逆転している。
「患者が存在しなければ、カウンセラーも存在できない」と。

カウンセラーの存在が、患者の存在に依存しているワケです。




まぁ、エピソードのストーリー自体にはそんなに影響がないシークエンスなんですが(多分)、さらっと挟み込んでくるのは流石って感じだし、ま、個人的に凄いそこにひっかかった、というだけでもあるんですけど。




うん。



面白かったです。

2012年2月21日火曜日

「ドラゴン・タトゥーの女」を観た

デビッド・フィンチャー監督の「ドラゴン・タトゥーの女」を観た。


この作品は、原作の小説と、“本国”で既に映画化されていて、そのハリウッド・リメイク版、ということになるんですけど、原作も映画も、良いという噂は耳にしてたんですけど、というアレでして。

つまり、まったく知らない状態で観た、と。



いやぁ。


とにかく、「フィンチャー・イズ・バック!!」。
「セブン」で度肝を抜いてくれたあのD・フィンチャーが帰ってきた、と。
個人的には、もうホントにその一言に尽きる、という作品でした。

もちろん、内容的にも大満足ですけどね。
原作も、機会があった読んでみようかと密かに思っております。
えぇ。



で。
とにかく原作を知らないので、ストーリーラインなんかも「きっと原作通りなんだろうな」という感じになっちゃうんですけど…。

ストーリーは、最初は、二人の主人公の話が、あんまり交差しない形で語られていくんですね。

ダニエル・クレイグ演じる中年のジャーナリストは、なんか仕事で“失敗”して、追い込まれるように、首都から北へ「列車で4時間」かかる町に赴く。

この、北の町の、大富豪が暮らす島に連れて行かれる感じは、なんていうか、もう横溝正史の世界。「獄門島」とか「八つ墓村」って感じ。

その大富豪は、一本の橋だけで対岸と繋がっている島で、一族と憎み合いながら暮らしていて、過去の、少女の失踪事件の真相を探るよう依頼する。
というか、取引の形で話を持ちかける。


もう一つのラインは、タイトルの“竜の刺青”を背負った女で、もう一人の主人公である彼女の“生活”が語られる。
というか、彼女の“闘争”ですよね。
「苛烈な人生」を生きる彼女に降りかかってくる“性的暴力”に対する、彼女の報復。

保護監察官によるレイプに抗って、彼女は報復するワケです。

この私刑(リンチ)の、不快な爽快感!
これぞフィンチャー!


首尾よく制裁を下した後、彼女はクラブでナンパした女の子と一夜を過ごし、その翌朝、D・クレイグの(不意の)訪問を受ける、と。
ここで二人のストーリーラインが交わるワケですけど、ここでフィンチャーは、ひとつ仕掛けをしています。

それは、彼女の暮らすアパートの中にD・クレイグが半ば強引に入って行った後の、ライティング。
D・クレイグだけが、暖色系の照明に照らされるんですね。
アパートの主である彼女は、薄暗い所に佇んだまま。

これが、諸々ストーリーが進行していって、すべてが終わった後、つまり、彼女が“失恋(!)”してしまったあとのシークエンスに繋がっているんですけど、そこでの彼女は、暖色系のライトに照らされているんですよ。
街角、というシチュエーションなんで、街灯に、ということになるんですけど。

失恋しても、暖色、なんです。

彼女はラストショットで、バイクに乗って走り去るんですけど、暗闇を走るんじゃないんですね。街灯に照らされた通りを、走り抜けていく。

つまりですねぇ。

“失恋”というのは、再び“薄暗い”人生/生活に戻ることではないんだ、ということなんですよ。



続編がどうなるのかは知らないんですけどッ!
(繰り返しになりますが、とにかく原作を知らないもんで…)



まぁ、この辺の陰影の使い方っていうのは、D・フィンチャーお得意、というか、さすがですよね。
この作品でも、その腕は見事に発揮されてます。

加えて、“真犯人”の地下室の硬質な質感、とか、同じ陰影にも質の変化を加えてくる、という、まぁ、その辺はホントに巧いですよねぇ。
ガス室を連想させるギミックも、そうですけど。



そして、「セブン」に続き、この作品でも聖書(レビ記)が殺人の教唆本になってて、という、このエグ味。
スウェーデンならではの、親ナチ反ユダヤの歴史を、容赦なく曝け出す形でストーリーとして消費してしまう、この感じ。
大富豪一族の抱く、寒々とした内面世界。
精神病の病歴を持つ、というだけで、権威と暴力によって易々と踏みにじられてしまう主人公の尊厳。

こういうのを、ひとつひとつ鋭く鋭く描写していく、と。




あと、D・クレイグの元妻と娘の、カルトに所属している、という“伏線”、ですよね。
これ、全然回収されてないんですけど、まさかこのまま、というハズがないので。

なんせ、レビ記に教唆されて連続殺人を犯す父と息子、という話なワケで、“カルト”というキーワードがこのまま放置されてしまうワケがない。

一応、娘の一言が、謎を解くキーになる、ということにはなってますけど。

これは続編で、ということでいいんですよね?



うん。



あとはなんと言っても、ダニエル・クレイグ。


ちょっと隙のある、しかし熱い正義感を、好演してます。
「007」と同じく、こちらの作品でもモテモテで、二回とも女性の方からベッドに(しかも、同じベッドに)誘われてますけど。

ちなみに、「007」はコロンビアが製作なので、ノートPCは全部(親会社の)ソニーVAIOでしたが、今作は全部MacBookです。
その辺も抜かりなしって感じ。



失恋してしまった“その後”も含めて、超期待。



いやぁ、良い作品でした。大満足。