2014年7月31日木曜日

「北陸代理戦争」を観た

CSの日本映画専門チャンネルで、深作欣二監督の「北陸代理戦争」を観た。


なんでも、“東映チャンネル”との合同企画ってことで、仁侠映画特集というのをやってて、今月は「北陸代理戦争」。
先月は「県警対組織暴力」だった、ということで。


深作監督、松方弘樹主演の、お馴染みの“実録”作品、ですね。


ただ、この作品の中で、個人的に一番印象的なのは、野川由美子が演じるキャラクターなんですよ。
その美しさはともかく(ホントにハッとする瞬間が、幾つもあります)、このキャラクターの輝きが、後々の「極道の妻たち」というシリーズに繋がったんだな、と。

「仁義なき」シリーズから、「極道の妻たち」へ、という、まぁ、別にそういう風に“映画史”的に考えてみても、だから何なんだ、という話ではあるんですけど。


弟と妹がいる、姉。
飲み屋の女将で、“男”を乗り換えていくようにして、“店”が大きくなっていく。
出会うヤクザは皆、虜にされてしまう。


日本海の荒波の水飛沫を直接被るような、辺鄙な場所に建っている掘っ立て小屋から、町に出て来て、男ぶりで鳴らす若いヤクザの“女”になり、その“男”の為に、敵に抱かれ、しかし、“男”は垢抜けない妹に取られ(寝取られ)、やがて、その元敵の敵に抱かれ、元敵を捨て、やがて再びしかし、という。


作品中では、主役はあくまで松方弘樹なワケですけど、(繰り返しになるけど)その美しさと相まって、野川由美子演じる“女将”のキャラクターは、魅せますよねぇ。



もちろん、他にも印象的なキャラクターっていうのは居るワケで、松方弘樹の舎弟が、刑務所から出獄してきた“兄貴分”と久しぶりに再会する場面は、特に、グッときましたけど。
なんか、脚を引き摺ってるワケですよ。
抗争で、傷を負ったせいで。

だけど、と。


唯一、信用できる舎弟だ、と。



もう一人、刑務所の中で出会った伊吹吾郎と、主人公の三人。

主人公を待っていた妹を併せても、たった四人。



定型的ではありながらも、やっぱり、グッとくる感じはありますよねぇ。



ただ。


ただやっぱり、どうしても“定型”的なんですよ。


もう一つ、年代の設定が、例えば「仁義なき戦い」よりは、ちょっと新しいワケですね。
作品の中の話で、製作年代自体は、たいして変わらないんですけど。


ただ、高々5年ぐらいの間に、演じる俳優たちも、変わってるんですよねぇ。
良く言えば貫禄が出てるし、悪く言えば、エッジが立ってない。
尖ってた部分が、なんか、ね。

画質のタッチも含めて、その辺のところで、やっぱり“迫力”に欠ける、という印象がどうしてもある。

アクションシーンのカメラワークも、よく言えば“お馴染み”。
逆に言えば、やっぱりちょっと、マンネリ。


という感じを、どうしても持ってしまう。




ドロッとした感じが、薄まっちゃってるんですよねぇ。
要素一つ一つに細かい原因があると思うんですけど。


作り手側が狙っていたハズの、「北陸の人間が持つ~」的な、実録路線の持つ(持っているハズの)ドロドロぐちゃぐちゃな感じが、どうも、“定型”が見え隠れすることで、観る側に、なんかズレて伝わっちゃってる、というか。

あくまで、個人的な感想ですけど。



社会全体に漂っていた混沌、ヤクザという“生業”自体が持っていた混沌、ヤクザの抗争という“構図”が持つ混沌。

ここで言う混沌とは、弱肉強食、群れずにいられない弱者、群れることで虚勢を張る男たち、その虚勢で互いの生存を削りあわないといけない男たち、その男たち全体を押しつぶそうとするモノ、などなど、ということになるワケですけど。


ヤクザ映画は、“実録路線”で、その混沌を描くことに成功していたワケですけど、その“混沌”は、もう少し時代が下ると、例えば「女と男」という、そういう、人間個人個人の関係性の中に押し込まれていって、それがヤクザ映画では、「極道の妻たち」という形になる。

“混沌”を、個人同士の関係性の中に押し込むことで、まぁ、社会全体はより“クリーン”になり、しかし、と。
関係性が衝突・破綻したときに、混沌が表出してくる。


やがて、“混沌”や“闇”というのが、もっとミニマムな、一人一人の人間の心の中に封じ込まれていく。
それがどうなるか。
社会はもっとクリーンになるワケですけど。

しかし、ヤクザ映画が、その状況を、描けるかどうか。



描けるハズだとは思うんですが、まぁ、その話はさておき。



代理戦争。



面白いんですけどねぇ。


色んな要素が、なんかちょっとずつズレてる、という印象。
そこに尽きるかなぁ。


ただ、野川由美子のキャラクターが、のちの傑作シリーズを用意したんだなぁ、と。
そういうことを思った作品でした。






2014年7月28日月曜日

「容疑者」を観た

BS日テレでやってた、ロバート・デニーロ主演の「容疑者」を観た。

原題は「City by the sea」ということで、「海沿いの街」ってことですね。
NY近郊の、ロングアイランドの南岸のビーチが、そこです。

最初はコニーアイランドかと思ったんですが、もっと寂れた、つまりもっと“郊外”の場所でした。

ただ、実は、あんまり「海沿いの街」ってとこに意味はなくて、ただ主人公がそこで育った、というだけのことなんですけど、まぁ、製作者サイドには、思い入れのある場所なのでしょう。
印象的なショットが幾つかあって、その辺には“思い入れ”を感じました。



ストーリーラインは、ちょっと凝ってて、主人公は(もちろん)ロバート・デニーロ。
NY市警の刑事で、生まれ育った街(ロングアイランド)からは離れて、市内の署で勤務してて、家族はなくて、独り暮らし。
同じアパートの下の階に暮らす女性と、恋愛中。

で、かつては家庭を持っていたことがあって、元妻と一人息子とは、もう何年も没交渉のまま。
元妻と一人息子は、“地元”の、ロングアイランドに暮らしている、と。

その、息子というのが、もうホントにダメ人間で、無職のヤク中。


主人公は、“養父”がいて、養父は“実父”を逮捕した刑事、ということなんですね。
実の父親は、主人公が幼い頃に、誘拐事件を起こして、その時に、誘拐した乳児を(誤まって)殺してしまう。
その結果、死刑に処された、と。

天涯孤独になってしまった主人公を、刑事が引き取ってくれて、“養父”として育ててくれた、と。
これが、主人公が抱える“前史”としてあるワケですね。


つまり、主人公と息子、主人公と父親、という、そういう「家族の系譜」がテーマになっているストーリー。


これがですねぇ。
邦題が「容疑者」ですからねぇ。

ちょっと違う。

もちろん「海沿いの街」も、直接的には「父子関係」とは言ってないワケですけど、抽象度があるワケで、つまり“ホームタウン”のニュアンスがそこにあるワケで、少なくとも「容疑者」よりは、テーマに近い。

サスペンスとして売りたい、というアレがねぇ。
魂胆が。
デニーロ主演、デニーロが刑事で、というのは、確かにそういうストーリーなワケですけど、でもね、と。


ただ実は、なんていうか、作品全体にも、この“なんか違う”感じがずっとあったりしているワケです。

もともと、ノンフィクションというか、実際にあったことを元に作られている、ということらしく、その“縛り”があるからかもしれないんですけど、せっかく“強い骨格”があるのに、それをどう語るか、という部分に荒さがある、というか、とにかく、しっくりきてないんですよねぇ。

もったいないと思います。


まず、音楽が異様にダサい。

それから、ショット/カットが、なんかあんまり意味を持っていない、というか、これは最初の「その街である意味はあんまりない」というのと関係してると思うんだけど、そういう所が弱いんですよねぇ。

セリフとかダイアローグ以外で、つまり、「そこにあるものを映す」時に、どう映すか、なにを選んで映すか、という、そういうことで伝えられることっていうのがあるワケで、まさにそこら辺が、映画を映画たらしめているハズなワケで、観る側も、無意識にしろ意識的にしろ、そういうのを求めている部分があると思うんですけど、この作品に関しては、そういうのはあんまり感じない、と。
どうも、淡々とカットが流れていくだけ、という感じで。

まぁ、それはそれで、いいんでしょうけど、でも、せっかく、ねぇ。
こういう街で撮ってるんですから。
もうちょっと“意味”を映し出しても良かったんじゃないかなぁ、なんて。


もうひとつ、キャラクターが、なんか、薄っぺらいんですよねぇ。
主人公はもちろん、ちゃんと“存在”しているんですけど、その周囲の人たちが、どうも、違う。
ただ自分勝手身勝手に、自分の都合で、つまり作る側の都合で、自分の心情を叫んでいるだけ、というか。

脇役と言えども、主人公と直接関係する、つまり、ストーリーに直接関わってくるキャラクターたちが皆そうだと、これは巧くいかないですよ。

唯一魅力的なキャラクターは、息子のガールフレンドとして登場する女の子。
ファーストフードのドライブインで働いている、という登場なんですけど、彼女には実は、幼い子供がいて、父親は(当然)主人公の息子なんだけど。
彼女も元ヤク中で、でも今はシングルマザーとして頑張っていて、でも、という。

主人公には、なんと孫までいた、ということになるんですけど、彼女は、自分の息子(主人公の孫)を連れて、主人公のアパートに押しかけてきたりして。

その、彼女の葛藤、というか、涙のシークエンスは、とてもいいんですよねぇ。


ストーリーラインとしては、主人公の父親、息子、孫、という、つまり、息子と孫(さらに、自分と孫)の関係という、「父子関係」の重層化が起きていて、思わず呻ってしまう、という感じなんですけど。


でも、そのせっかくの骨格に対して、肉付けが、どうも巧くいってない、という感じで。



ストーリーラインは、ホントに素晴らしいと思うんですよ。


実父との屈折した父子関係。
刑事としても人間としても、優れた人物である養父。

養父に憧れるようにして、自分も刑事になった主人公。
死刑囚の息子が刑事に、という、周囲の白眼視とも、主人公は闘いながら、名刑事として、仕事に打ち込む。
しかし、自分が持った家庭は、上手くいかなくて、崩壊してしまう。

その息子との関係。
自分自身も、息子にとっては「良くない父親」なんだ、と。
そうはならないと思っていたのに、実父とは違う形なんだけど、でも、息子にとってはやっぱり「良くない父親」で、息子は、主人公に対して屈折した感情を抱いている。

そして、息子の子供、つまり孫。
生活能力のまったくない息子は、もう既に、孫に対しては「良くない父親」でしかなくて。

じゃあ、主人公は、どうするか。
息子のガールフレンドは、「疲れた」と言って、主人公に子供を押し付けて、姿を消してしまう。
主人公は、「手に負えない」と、孫を児童養護施設に預けようとする。

しかし、と。


これは、かなり魅力のあるストーリーラインだと思います。


しかし、もったいなくも、なんかズレた感じの作品に仕上がってしまっている、と。



ひとつ思うに、“男たち”だけでストーリーを収めようとしているからかなぁ、というのは、あります。

主人公のガールフレンドがいて、彼女は、孫を手放そうとする主人公を責めるんですけど、それで終わりなんですね。
責めて、アパートから出て行って、それでおしまい。

ラスト、孫と主人公との関係の中に、彼女がいるだけで、だいぶ違った印象になっていたんじゃないかと思うんですけど。



まぁ、それだけじゃないですね。



うん。








この辺で。





面白いんだけどなぁ、と。



そういう作品でした。






2014年7月15日火曜日

「アクト・オブ・キリング」を観た

京都の木屋町にある立誠シネマプロジェクトという、 “超”がつくミニシアターで、ドキュメンタリー“問題作”「アクト・オブ・キリング」を観た。


ツイッターの自分のタイムラインで、東京での公開のタイミングでかなり話題になってて、それで「京都じゃ観れないだろうなぁ」なんて思ってたんですが、予想外に、やってたので、ということで、観に行ってきました。
この「ツイッターで話題になってた」以上の情報を殆ど仕入れないままだったので、実は「アクト・オブ~」の意味をよく分かってなくて、タイムライン上の感想も、なんか普通、というか、今思うと平易で安直な(≒チープな)ものばかりだったなぁ、という感じなんですが、要するに、“ストレートな”ドキュメンタリー作品ではなかった、というか。
もちろん、仮に、この題材に対して、ストレートに作られていたとしても、それはそれで、当然かなり“強い”内容の作品になっていたとは思うんですが(で、観る前は、そういう作品だと思ってたワケです。)、実際は、そうじゃない、と。


この、二段構えの衝撃、というか。

内容の“強さ”と、手法に対する驚き。



インドネシアで過去に起きた「虐殺」について、取材をして、ドキュメンタリー作品を作る、と。
製作者は、ロンドンの「ジョシュア」という人物が、作中に、「カメラの横にいる人物」として度々言及される形で、登場します(本人の姿は映らない)。

しかし、「被害者側に対する取材は許可されない」とのことで、どうするか。

“加害者側”とは、接触できるワケです。

この、“加害者側”に、「虐殺を再現する映画を作ってくれないか」と。
“映画”といっても、まぁ、いわゆる“自主製作”の類のモノで、そんなに大掛かりのモノはできないし、しかし、現地の俳優やセットや撮影クルー、特殊メイクなんかも動員して、さらに、「再現映画を製作している有志たち」という形で、地元テレビの取材を受けたりして、チープでありながら、それなりにガッチリ製作はしているみたいなんですけど。

つまり、「虐殺」を、自作自演で再現してくれないか、と。

そういう形で、その「製作の過程」を、ドキュメンタリーの形で追う。それが「アクト」の意味だったんですね。
俺も、もうちょっとちゃんと考えてれば、タイトルの意味も少しは分かれたんじゃないかとは思うんですが。
「虐殺の演技」。


そういう、メタフィクション/メタリアルな、そういう手法で撮られた、ドキュメンタリー(ノンフィクション)作品。


インドネシアという国で起きた「虐殺」については、それ自体についてはここでは詳しくは書きませんが、ざっくりと(俺の視点で)言うと、当時世界中で起きていた「共産主義陣営対資本主義陣営」の衝突が、インドネシア国内に持ち込まれて、インドネシアでは、共産主義者とそのレッテルを貼られた人々が「虐殺」された、ということで。

ここで、“加害者側”というのが、今も実際に、インドネシアという国を“支配”している人たちで、というのがポイントで、つまり、「虐殺」が正当化されているワケです。

ここが出発点。


「虐殺」を、実際に「手足となって」実行した人物、というのが、この作品の“主人公”で、その人物は、いわゆる“地元のギャング”ですね。
「プレマン」という呼称らしいんですけど。日本で言う「ヤクザ」。

それから、「青年団」という団体。
彼らは、極彩色の迷彩の戦闘服という制服を持っていて、集会なんかでも、かなりの動員力がある組織。現時点でも、選挙で候補者を立てたり支援したりで、かなりの影響力を持っているっぽくって、まぁ、その辺は日本人の俺にも想像がしやすい感じではありますけど。
ボーイスカウトなんかよりはずっと戦闘的だし、政治的。
要するに、民兵組織。

あとは、地元の知事とか議員なんかの政治家や、小さな新聞社のオーナーみたいな、資本家。


ざっくりまとめて、右翼勢力、ですね。

彼らが、彼らが「共産主義者」を呼ぶ相手を、「虐殺」した、と。


特に主人公と、彼の“舎弟”及び“同志”は、「虐殺」について、嬉々として語ります。
要するにここが、平易な感想を呼び起こすポイントなんですけど、彼ら自身の中では、「虐殺」は、なんていうか、“権力者たち”からは正当化されていることに加えて、彼ら自身の内面の中でも、その行為を正当化しようとしてきた過去があっただろう、と。
それは、揺るぎのない強固なものなんでしょうけど。

自分の内面を相対化する、とか、自分自身に懐疑を持つ、とか、そういう“知的に高度な内省”みたいなのとは無縁に見える人たちなんで、まぁ、そういうことになるワケですけど。


「虐殺の再現」という試みは、とにかく、着々と進んでいく、と。


幾つかポイントがあるんですけど、まずひとつは、エキストラたちを使うんですね。
もうホントに、その辺の、いわゆる“隣人たち”に呼びかけて、集まってもらって、みたいな感じで。

彼らが、もう迫真の演技を見せるワケです。
いわゆる“素人”たちが。

シャーマニズム/アニミズム的な、トランス状態、みたいな。

“役”に物凄い入り込む。言い方を変えると、“役”に成り切ることができる。
被害者を演じる側は、泣き叫び、加害者を演じる側は、アジテーションに拳を突き上げる。

これは、「“熱狂”の度合い云々」という、まぁ、言葉は悪いですけど、文明論的なアレがまず出てきそうですけど、個人的に思うのは、「虐殺」の“記憶”が、まだ濃厚に残っているんだろうな、ということ。

社会全体、コミュニティ全体で、まだ「虐殺」の記憶が強く共有されていて、それが、「再現映画の撮影」という“祭り”によって、強く呼び起こされる、という。
呼び覚まされる、というか。

作品中では、それが、“加害者側”のメンタルに、非常に影響を与える、ということになっていくワケですけど。
つまり、当事者たちが“ドン引き”するぐらいなワケですよ。その熱狂、というのが。

それがまず一つ。



2番目が、主人公の“同志”として、つまり“当事者”の一人として現れる人物。
彼は、主人公とは違うレベルの“成功者”という感じで生活を送っている人物なんですけど、登場の段階で、ちょっと苦笑いだったりして。
過去の「虐殺」に対する認識、というのが、主人公とはちょっと違う。
若干“反省”している。葛藤を抱え、それを主人公たちに、小出しに語ったりするワケです。

「虐殺」を否定はしないものの、彼らの子供たちが不憫だ、とか、そんな感じで。

彼の登場は、恐らく撮る側にとっても大きなもので、「ジョシュア」は、彼が運転する車の中で、彼に対する単独のインタビューを試みます。
ところが、ここでは彼は、一切の葛藤を見せない。
「ブッシュだってやってる」と言ったりして、なんていうか、かなり強固な理論武装というか、要するに、撮る側の“期待”には応えてくれない。
ガードが固くなってる。
そういう形では、吐露しないワケです。

彼と主人公と、もう一人、同年代の男と三人で話すシークエンス、というのがあるんですけど、三人目はなんと「自分は知らなかった」と言うんですね。
これを、彼は「そんなハズはない」と斬って捨てます。「公然の秘密だった」と。
「自分は関わってない、ということにしたいんだろうけど…」的なことも、ずばり、言います。

つまり、彼は、自分たちの行為の意味を、はっきりと認識している。
“犯罪性”もそうだし、同時に、“成果”というか“効力”というか、彼らの言うところの“価値”、というか。

負の部分をはっきり認識しているからこそ、より強固に、自分を正当化する必要があるワケだし、実際、そうしている。

「虐殺」の再現において、主人公と同じように、ディティールもかなり細かく思い出してたりするんですが、その“意味”を問われた場合においては、正当性・正統性を、揺らがずに、主張する。


三つ目のポイントとして、主人公の隣人として登場しながら、「実は継父が殺されたんです」と言い出す人物。

彼は、母親の再婚相手が、華人だった、ということなんですね。
当時のインドネシアの「共産主義者」は、(ソ連ではなく)中国共産党の影響下にあって、その関連で、華人は、彼ら右翼勢力の“敵”と看做されていて、華人というだけで、拷問及び虐殺の対象だった、ということなんですけど(つまり、ここに「虐殺」の真の犯罪性の一つがあるワケですけど)、「自分の継父が、殺された」と。
その男は、言い始めるんです。
再現映画の、セット撮影の、リハーサルのときに。

「被害者側の取材が許されなかった」という状況の中で、恐らく彼は、もっとも「被害者側」に近い存在なワケですけど、そういう存在が、突如現れる、という。
突然、そう告白し始めるワケですから。

主人公たちは当然、戸惑うワケですけど。

しかし、その彼は、「あなた方を批難しているワケではない」とも言うんですね。その場で。
現政権による言論統制が効いている中では、当然そう言うしかないワケですけど、同時に彼は、なんとも微妙な表情にもなります。

つまり、ここで観る側は、「現実には、そう言う以外にない社会」というものを見せられるワケですけど。

このドキュメンタリー作品全体が、そういう“空間”の中で撮られている、と。
そういうことなワケですね。



主人公の横に常に伴う形で、カメラがあるワケですけど、そこにカメラがある、ということ自体は、実は、主人公たちの主張・立場を、肯定している形になっているワケです。
少なくとも、それを撮っている時と場所においては。


これは、実は、なんていうか、かなり暴力的、というか、かなり危うい形でもあるワケで。

主人公たちは、カメラの“肯定”を背に、例えば、街中を歩くワケです。
華人の商店主たちから、“ショバ代”的を徴収する、というより、単なる恐喝の現場、というシークエンスがあるんですけど、そこでは、商店主たちの屈辱的な姿が露に撮られています。


この“スタンス”は、実は、かなり危うい。
少なくとも、そのカメラが回っている瞬間には。

「再現してくれ。その過程を撮らせてくれ」というのは、彼らに対する“肯定”の意を含ませてのことなワケで、少なくとも、彼らには、そう信じさせている。

しかし、そういう“スタンス”でなければ、撮れないトピック、というのもあるのも間違いないんですけど。


この“危うさ”に関しては、何気に、かなり巧妙に説明が回避されていて、個人的には実は、「撮る側がもうちょっと顔を覗かせてもいいんじゃないか」という、あくまでその程度ですけど、ちょっと不満です。
まぁ、そういう、製作者サイドの“倫理”の問題と、「虐殺」のそれとを比べたら、もう、それこそ比べ物にならない、という話なワケですけど。


ただ。
こんなことを気にするのは、俺だけかもしれませんが、この作品は、形としては、“結果的に”ということになっているワケです。
結果的に、「虐殺」という、その行為の、犯罪性を抉り出している、ということになってる。

そんなことはないワケですね。
“告発”することを目的に、製作されているハズですから。
“結果的に”なワケがない。

まぁ、メタ・ノンフィクション(という言葉があれば)、ということなんだ、と言えば、それまでなんですけど。


もうひとつ、ポイントしてあるのが、主人公が使う、「サド」という言葉。
作中、「映画」(≒フィクション)が、キーワードとして頻出するんですけど、実際の「虐殺」の“参考”にした、とか、そんなことを言いながら、再現しようとしていくワケですけど、その中に、「サド」という単語も出てくる。

これは、主人公としては、「楽しんでやっていたんじゃない」と。
そういう含意だと思うんですね。

「アクション映画で、人が殺されているのを見て楽しむ」という感覚が、「サド」だと。
「人を殺すのを楽しむ」ことが“狂気”だとすれば、自分たちは、違った、と。
そういうことだと思うんですけど。

あくまで彼らの“主張”なワケで、個人的には、敢えて言及する、ということは、逆にそういう感覚があったからだ、と思いますが、これは、実際にどうだったか、というのは、難しい話だとも思います。




話を戻すと、作中の、「再現映画のクライマックス」の、(チープでありながらも)圧倒的な自己肯定感は、もう眩暈がしそうですけど、しかし、それが彼らの“現実”でもある、という。
この感じ。


そして、作品本体の、ラスト。
「虐殺」を再現する中で、「加害者」であった主人公が、「被害者」つまり殺される側を演じることで、自分たちの行為についての“意味”に、“到達”してしまう。

悟ってしまう、という。

心理療法とか、なんとかセラピーとか、ロールプレイ(?)療法、とか、そういうのに“嵌る”状態に突如陥る、というか。


こういう結末になるっていうのは、狙って撮ってたんだろうか?
もしそうだとしたら、これは凄いぞ、と。

そんな感じの感想が咄嗟に浮かんだんですけど、実際はどうなんでしょうか?



まぁ、この“結末”の衝撃度こそが、この作品が持つ本来の衝撃度なワケですけど。



こうなるか、と。



いやホントに、“結末”に対しては、そういう言葉しかないですよねぇ。



主人公の心が突如破壊される、という、そういう意味での“暴力性”も湛えているワケです。
この作品は。



うん。


そういう、衝撃な作品でした。








2014年7月7日月曜日

「瞼の母」を観た

京都文化博物館のフィルムシアターで、土曜の真昼間に平均年齢(恐らく)80歳オーバーな方々と共に、中村錦之助主演の「瞼の母」を観た。



何度も書いてますけど、“文化事業”として、フィルムアーカイヴの公開をしてるんですけど、500円なんスよ。マジで。安い!
なんか、年会費で4000円払うと、無料(タダ!)になるみたいな“サービス”もあるらしいんで、来月あたり、ちょっとマジで入会しようかと思ってます。
8回行けばトントンってことですもんねぇ。


まぁ、それはさておき。



錦之助主演の「瞼の母」。
個人的に、諸々時代劇の勉強中で、“ある筋”から「瞼の母」を勧められてまして、「古い作品だし、観るチャンスは簡単にはないなぁ…」なんて思ってたら、「…あった」と。
上映してました、ということで。


主人公の弟分として、松方弘樹が出演してて、まさかの松方弘樹つながりっていうのもありましたけど。


冒頭からしばらくは、その松方弘樹と錦之助が、二人揃い踏み、というか、まぁ、渡世人の兄弟分の関係性を梃子にして、主人公の抱える“コンプレックス”みたいなのを(たっぷりと)描写していくんですね。

ここで、なんていうか、ヤクザ(渡世人)の、“弱さ”が徹底的に語られるんです。

なんか、主人公が情けない男に見えるぐらいに。



もちろんこれは、「錦之助が演じる」という前提があってのストーリーテリングなワケで、プログラムピクチャーとスターシステムという、この時代の製作システムがあっての語り口ではあるんですけど。

しかし、“稼業”や“看板”を謳い、男らしさ・荒っぽさを主張し、競いぶつけ合う、彼らヤクザこそ、実は“弱さ”“脆さ”“後ろ暗さ”を抱えていて、単に「そう生きるしかなかった」ということでなく、「そう生きることも難しい」みたいな、そういう捻った葛藤が、ある、と。

この、「渡世人稼業の人間が持つ弱さ」をどう描くか、あるいは、描くか描かないか、つまり、内面の弱さにまで踏み込んで語るか、あるいは無視して強さや様式美に拠りかかってストーリーを語るか、というのは、なんていうか、とても大事な要素なワケですよ。

もう“思想”の問題、というか。作り手の。
それは同時に、観る側(受容する側)の“思想”の問題でもあるワケですけど。


この作品では、それがかなり強調されて描かれている、と。

まぁ、タイトルからして「瞼の母」ですから、“母性”を巡る物語であることははっきりしているワケで、当然っちゃ当然なんですけど。

そして、文盲である義兄弟二人。
“代筆”という、このシークエンスはホントに素晴らしいですよねぇ。
絶対に思いつかない。
筆を持つ手を重ねて書いてもらって、そのさなかに、あまりの近さに、「母の温もり」みたいなのを感じてしまって、泣いてしまう、という。

普通に考えれば、単純に代筆してもらえばいいワケで、「なんかヘンだな」とか思っちゃったんですよ。実は。
でも、と。

考えられたカットだった、と。
なるほど、と思ってしまいました。




で。

後半は、主人公が江戸に赴いて、母親を探す、という流れ。


この、物語が転換するときに、盲目の老女が物乞いで三味線を弾いて、(酔って)ご機嫌な町人が唄を唄うんですけど、これがかなりいい感じのグルーヴで、ちょっと新鮮でした。
ラップのフリースタイルみたいで、結構“いい感じ”で。


ま、それもさておき。



まぁ、後半は、紆余曲折あって、母親と対面を果たすも、ということなワケですけど、ひとつ思ったのは、「渡世人が生き別れの母親を探し出す」という、この“ネタ”一発なワケですよねぇ。
このネタの一発だけで、作品(≒商品)として成立させちゃっている、という、83分という、特に長尺ではないんですけど、それでも、ちゃんと一本の映画として成立してるワケで。


なるほどなぁ、と。

「よく出来てんな」と、なんかバカみたいな感想ですけど、そんなことを考えたりもしちゃったりして。



結末は、なんか色々作品ごとに違ってるっていう話なんですけど、錦之助バージョンでは、“暗さ”を抱えたまま、引きずったまま終わる、ということで、これはこれで、良いんだと思います。



うん。



あともう一つ、カメラのアングルが、凄い低いんですね。
どのカットも、ショットも。


多分、全編セットで撮影されているからだと思うんですけど、ひょっとすると、カメラマンの個性とか何かの狙いだったりするんでしょうか。
不勉強なもんで、そこまでは分かりませんでしたけど。

でも、結構動くんですよねぇ。カメラが。
引いたり寄ったり、揺れたり。

色んなことしてるんだなぁ、と。


障子を挟んで、向こうからはこっちが見えない、見えないハズなんだけどでも、みたいなカットとか、そういうエッジの効いた構図もあったりして、凄ぇな、と。




うん。


さすが古典。
面白かったです。


まぁ、やっぱり、スクリーンで観てるからだと思うんですけど、新作を観てるのと変わらない感覚で、古くささを感じない、新鮮な映画体験でした。




2014年7月3日木曜日

「県警対組織暴力」を観た

CSの日本映画専門チャンネルでやってた、深作欣二監督/笠原和夫脚本の超クラシック「県警対組織暴力」を観た。


ちょっと前に、“Fさんライブラリー”で観てはいたんですが、改めて、ということで。

もう、紛うことなき名作なワケですけど、「仁義なき戦い」で“発見”された実録路線が、ある種の“洗練”を経てこの作品に辿り着いた、という、なんていうか、一つの到達点、というか。
日本映画の歴史には、当然幾つかの“ピーク”があるワケですけど、個人的にはその幾つかあるピークの一つのような気がしますね。
もちろん、途を開いた「仁義なき戦い」も素晴らしいですけど、粘着度と湿度が増していくところと、シリーズ化されることによって、“逆に”ある種の様式を帯びるようになっていく感じもあるワケで、まぁ、完全に好みのアレですけど、個人的には、この作品のドライな感じの方が、好きです。


さて。


まず、冒頭の「この作品はフィクションである」という“但し書き”からして、もう“掴み”に掛かってくるワケですよねぇ。
タイトルと、フォント(っていう言葉でいいのかな? あの字体のことです。)のあの感じ。
「実在の○○とは無関係です」と言っておきながら、その直後に出る「倉島市」という地名のテロップ。
倉敷+広島という、誰もが「実在の地名」を浮べてしまう、この感じ。
2回捻ったら元通り、というか、「『捻れ』『捻れ』って煩いから2回捻ってやったよ」的な、せせら嗤いの顔が浮かんでくるこの感じ。
最高です。



それから、まぁ、やっぱり菅原文太ですよねぇ。

その、ちょっと大人になってる感があるワケですね。
これがいいです。
対する松方弘樹は、あんまりそんな感じがなくて、相変わらずシャープな存在感を放っているのと対照的に、文太さんは、生活感とか寂寥感とか、そういう感じを上手に背中とか肩のラインで表現してる。
サングラスの感じとかは、ワケ分かんないですけど。

クライマックスの、撃ってしまった後の表情とか、最高ですよね。


それから勿論、このクライマックスとドライ極まるラストに持っていくまでの、緻密なシナリオ。

隙がない、というか、揺るぎがない、ということだと思うんですけど、まぁ、巧いなぁ、と。
見事だと思います。

小さ過ぎず大き過ぎないスケール感とか。
出所してきた親分の、服役している中で闘争心を失ってしまっていて、なんか「毎日一時間念仏を唱える」ような爺に成り下がって帰ってくる、なんていうディテールは、なかなか書けませんよ。
田中邦衛の“使い捨て”感や、すかさずそこを攻めてくる金子信雄のあの感じとか、どこも大好きです。

あと、好きなセリフがもう一つあって、クライマックスで“裏切って”拳銃を奪って発砲した直後の松方弘樹が、既に警察の手の中にある室田日出男を呼び寄せるんですよ。
「柄原こっちこい!」って。
あのセリフは最高。
ヤクザの若頭とその右腕の関係性を、変に美化もせず、様式美に頼りもせず、強さや暴力性だけでない弱さや脆さを、つまり、人間性丸々全部を、あのセリフをあのシチュエーションに挟み込むことで、見事に表してますよねぇ。




警察とヤクザの癒着。

というか、別に警察とヤクザだけじゃないワケですよね。腐敗しているのは。
市議会議員もそうだし、コンビナートで描写される“企業”の領域も、そうだし。

そういう意味では、それ自体は秀逸なこのタイトルは、実は“テーマ”の半分も言い得ていなくて、つまり、片方に、市井という泥沼に這いつくばって身体を張ってもがいているヤクザと、刑事がいて、その反対側に、“下層”を踏みつけにしている“上層”と、“下層”を踏みつけにするだけでなく、踏み台にしてさらに自分が儲けようとする人間たちがいて、という、そういう構図なワケで。

菅原文太に「終戦を知っているか?」と言わせることで、戦争(と、敗戦)体験の有無という世代間のコンフリクトを表現しようとしているワケですけど、実はそれもテーマとしては「県警対組織暴力」というタイトルからははみ出てしまっていて、さらにややこしいことに、大きなテーマは、その世代間のコンフリクトだけでもない、という。


つまり、分断統治されている、と。
抗争させられている、ということなワケですね。ヤクザとヤクザ、ヤクザと警察、所轄と県警。
泥沼の中でお互いに牙を剥いて向かっている同士が、実は、泥沼の外側からの圧力で、そういう風に戦わされているだけに過ぎなくて、本当に牙を剥くべき相手は、実はその外にいるんだ、と。

そういう意味で、深作欣二が最後に撮った「バトル・ロワイヤル」というのは、まさにそのタイトルに現れているように、“互いに殺し合う”という、そのテーマを内包した作品なワケで。


分断統治には、“暴力”というのは、これは不可欠なワケです。
互いに憎しみ合うように仕向けられ、理性による歯止めを効かせないようにされた状態で、暴力をぶつけ合う。
そういうシチュエーションを描こうとしたからこそ、深作作品では暴力が絶え間なく描写されたワケで、ワリとそこって語られなかったりしますよねぇ。

なぜ暴力が描かれなければならないのか。


もちろん、深作監督だけでなく、笠原和夫の問題意識がそこにあったからこその、作品群なワケですけど。



まぁ、ここでは、それはさておき。



ラスト。
ドシャ降りの雨の中、長いトンネルの先、誰かも分からない相手に、撥ね飛ばされ、そして、その生死をすら描かない、という。
なんという結末。

ハードにボイルされた、ハードにドライな(しかしシチュエーションは雨天というウェットコンディションという)、この結末。


痺れちゃうなぁ。


好きです。
名作。