2013年10月25日金曜日

「あの日の指輪を待つきみへ」を観た

シャーリー・マクレーン主演の「あの日の指輪を待つきみへ」を、NHKBSのプレミアムシネマで観た。


いやぁ。素晴らしい。
知らない作品でしたが、これは傑作でしょう。面白かったです。


冒頭、お葬式のシーンから始まるんですが、そこで、シャーリー・マクレーン演じる老女の夫が亡くなった、ということが明示されます。
彼女の、夫(と、夫の死)に対する、ヘンな感傷が描写されて、(夫が愛した)娘との関係性も、描かれます。
つまり、なんかうまくいってない。
それと、夫の戦友、というのが登場して、作劇のセオリー通り、老女と夫と戦友たちの過去が、語られ始める。

現在と過去の、2つのストーリーライン。

それからもう一つ、アメリカ・ミシガン州で進行する2つのストーリーとは別に、アイルランド・ベルファストを舞台にしたストーリーも、同時進行で進んでいきます。
キーワードは、IRA、爆弾テロ、母親の蒸発、失業、などなど。
こちらのストーリーは、世間知らずな青年と、消防士を引退した老人、青年の祖母、という登場人物。

ちなみに、“現在”は、1991年ということになってて、今から20年くらい前。作品が作られた時からだと、15年くらい前、という時制になります。
“過去”は、1941年。
太平洋戦争開戦の年で、作中でも真珠湾攻撃が描かれていて、それによってアメリカが参戦を決め、主人公たちも戦場へ赴くことになる、という。


で。

“現在”でシャーリー・マクレーンが演じる老女というのが、かなり偏屈な人物として描かれるんですね。
夫の死を素直に悲しむ様子が、どうも感じられない。
そして、娘とは、衝突を繰り返す。

対して、“過去”では、当然、同じ人物を別の女優さんが演じるワケですけど、その、“若い彼女”は、凄く明るくて(そして美人で)、天真爛漫、というかなんていうか、もう幸せいっぱい、という風に描かれるワケです。
なにより、彼女は、“マドンナ”なんです。みんなの、憧れの的。誰もが彼女を口説きたい、という、そういう存在。

で、当然ラブストーリーがそこでは語られて、軍服姿の仲間同士の中から、金髪のテディと、彼女は結ばれます。
テディの“戦友”は、他に2人いて、ジャックとチャック。

ここなんですよ。

冒頭から、そこで埋葬されているのは彼女の夫なワケですけど、「観る側」は、それは当然テディだ、と思わされるワケです。
ところが、物語が語られていくなかで、どうやら違うことが、「観る側」がだんだん分かってくる。
“過去”のストーリーが語れるなかで、それが分かってくるんですね。「観る側」が。


この「ストーリーの構造」が、本当に素晴らしい。
ただ“そう語る”だけじゃないんですね。
“構造”つまり「構築されたストーリーの骨組み」に寄りかかるだけじゃない。

「彼の家」「父親の家」「彼が建てた家」というセリフが、しきりと語られるんですけど、特にここがホントに巧いです。
その、小さな、木で建てられた家には、2階に寝室があって、そこは「娘の部屋」で、「夫婦の寝室」は、別にある、と。
しかし、「夫の死」を契機に、老女は、その「2階の寝室」に移る、という言うんですね。
“夫”と暮らした「夫婦の寝室」を捨てて、違う部屋に移る、と。

そして、父との“思い出”を母はないがしろにしている、と、“過去”のことを知らない娘は、反発する。

娘と母。

母の愛をあまり感じることができないまま、そして、両親の間の微妙な距離感を目の前にして育ってしまった彼女は、自分の恋愛にも、しっかりと踏み込むことができない。


娘の父親、つまり、老女の夫、つまり埋葬されているのは、チャックだった、と。
チャックは、終生妻を愛し、娘も愛した。


この悲恋のストーリー!


グッときちゃいましたよねぇ。


なんていうか、「心霊」とか「霊魂」とか、あとは「タイムスリップ」だとか、そういうギミックを使わなくても、こういうことが語れるんだ、と。
そういう感動が、個人的にあったんです。

それと、これは映画ならではの表現手法だと思うんですね。
語り口、というか、ストーリーの表現の方法が、というか。

死んだ夫、というのが、「観る側」が思ってたのとは違う、という。
ミスリードする、ということだと思うんですけど、トリック、というか、その方法論が、映画という表現の形態そのものと、なんか、結びついている、というか。



実は、テディは金髪で、チャックとジャックは、黒髪なんです。
娘も。
“マドンナ”の髪は、栗色。

そういうトコも、細かい。


あとは、やっぱり“家”のシークエンスですよねぇ。
ホントに感動的です。


うん。



で、ストーリー自体は、もうちょっと膨らみがあって、当然、ベルファストとミシガン州の田舎町とが繋がりあって、“過去”と“現在”を結ぶ色々なギミックがあって、ということなんですけど。

まさに戦争(内戦)状態にあったベルファスト(郊外)の市街の感じも描かれるんですが、実はこの辺は、アイルランドにおける宗教対立とかの予備知識がないと、難しい感じではありますが、まぁ、いちいち背景を全部説明するワケにもいかないワケで。
アメリカ人にとっては、このくらいで十分なのでしょう。


う~ん。。。



良かったなぁ。



いい作品でした。


勉強にもなったしね。

素晴らしい!


















2013年10月22日火曜日

「その土曜日、7時58分」を観た

えー、久しぶりの更新となってしまいまして・・・。

ワリと最近、住環境が劇的に変わりまして、BS/CSが観られるようになったんです。

今までは、地上波だけでしたから・・・。


で、チャンネルが多すぎて戸惑ったりとか、テレビ番組表が分かんないとか、そもそもチューナー(のリモコン)の使い方がよく分かんなかったとか、そういう時期も乗り越えまして。
(USBで繋げたHDDに予約録画する、なんてことも、出来るようになりました。)


で、と。


シドニー・ルメット監督の「その土曜日、7時58分」を、観ました。


そもそも監督が誰だっていうのもまったく知らない状態で観たんですが、イーサン・ホークが助演で出てます。なんだか情けない次男坊を好演。

イーサン・ホークはでも、アレですね。
いわゆる「ハリウッドのスター」になる道もあったと思うんだけど、こういう渋い役だったり、“汚れた”キャラクターを演じたりっていう、なんていうか、イイ感じのヤツだよな、というか。

“スター”であることには間違いなんですが、その、インディペンデント系やローバジェット作品に出て、自分のネームバリューで製作と集客にも貢献する、みたいな。

ハーヴェイ・カイテルやトミー・リー・ジョーンズに通じる、ね。
イイ感じですよね。



で。


ストーリーは、説明なく、一種の倒叙で始まります。
倒叙と、ループというか、時間を遡って繰り返したり、という。

とにかく全編に渡って“緊張感”でたぎる、という言い方がいいと思うんですけど、張り詰めているというよりも、たぎる。滾る。
テンションが高い、ということではないんですね。
ピンと張ってて、それがどんどん強くなる、というか。


で、倒叙(の一種)とループ(の一種)という“語り口”が、この“緊張感”をチャージしてるワケです。
ある一つの“結節点”(その時間が「7:58」ということです。8時直前、という。)があって、そこに向かって、何度も何度も繰り返される。
その“結節点”というのは、ある悲劇なんですね。
なので、“崩壊点”というか、“融点”というか、とにかく、そこで「壊れる」「崩壊する」。

つまり、「崩壊する」ことが分かっているポイントに向かって、何度も何度もストーリーがドライブされるワケです。
繰り返されるたびに、色々な背景が明かされる、という構造になってて、それが、もうどの角度から語られても最後には「崩壊する」ことが分かってるワケで。

これがですねぇ。
なんかもう、どうしょうもない気持ちになってくるんですよ。切ない感じだったり、憐情だったり、やるせない感じだったり。
まぁ、その感情はとにかく、“緊張感”をチャージしている。


もう一つ。
これは「映画という表現形態に因る話法」だと思うんですけど、例えば「覆面を被っている男」が、最初は誰だか分からない。
だけど、時間軸がループして改めて語られると、その男が誰だかが分かる。
で、そこで、観る側に対するミスリードが仕掛けられてるんですね。
これが巧いです。

いわゆる「最悪の結果」を知ってて、ちょっと「アレ?」みたいなのがあるんです。やや「救いがある結果」を想像してしまう、あるいは、期待してしまう。
しかし、みたいな。

この、もう一つの“語り口”のギミックが隠されていて、これも、“緊張感”をチャージしていく。

もちろん、黒味を強調した、シャープな質感の画もそうだし、余計な説明をしないシナリオもそうだし、セリフや演技のミニマリズムも、というか、とにかく全てが、“緊張感”を支えているんですね。


で、悲劇とその背景・意味を明かしていくことで、父と息子、兄と弟を巡る、これはある種の定番とも言えるんだけど、そういうストーリーを、物凄いシンプルに語っていきます。

2人の息子を得た父。なんかいつまでたっても情けない弟。
弟を愛する父に、心の中で静かに反抗心を燻らせてきた兄。

熾烈な競争社会(であるアメリカ社会)が強いるマチズムを、兄は、虚勢として身に纏っているワケです。
虚勢を張る自分の心を、高級アパートの一室で嗜むヘロインで癒し、つまり、自分の家庭ですらない、という。

いやもうホントに、どんどん奈落の下の方下の方に、話が進んでいく。

悲劇の終着点に向かって。



いやホントに。



どこまでいっても救いのない話なんですけど、でも、映画としては、素晴らしいです。ホントに。
こういう作品っていうのは、「映画にできること」を少しずつ拡張している、という気がするんですよねぇ。

まぁ、そう言葉にしてしまうと、なんか陳腐な感想になってしまうんで、ちょっとアレですけど。



でもまぁ、そういうことです。
うん。