2011年1月28日金曜日

「トロン:レガシー」を観た

新宿バルト9で、噂の3D「トロン:レガシー」を観た。



いやぁ、3D。凄かったですねぇ。
なんつっても、大画面ですよ。3Dですよ。


実は、前作「トロン」は、見てないんです・・・。


だけど、CMで観せられたシーンに心を鷲掴みにされちゃって、公開を楽しみにしてたんですよねぇ。
あの、リングを(フリスビーみたいに)投げるショット。


ただ、フタを開けてみると、もちろん、そのリングでの戦闘シーンは熱かったんですが、バイクに乗って戦うシーンの方がメインだったみたいで・・・。

それはそれで、良かったんですが(3Dの特性を生かしている、という意味でもね)、リングのバトルももっと観たかったなぁ、なんて。


ま、いいんですけどね。



映像は、仮想現実の世界観というのが、ちょっと殺風景過ぎるっていうか、どうも単調になってしまって、もちろん作り手側の意図としては、それが狙いなんでしょうけど、そこがちょっとアレでした。
もっと派手でも良かったんじゃないかなぁ、なんて。



ま、前作との世界観の繋がりもあるんでしょうから、しょうがないっちゃしょうがないんですけど。



3Dに関しては、もうバッチリ。
リングとかバイク(の、光跡)という“飛び道具”も、バンバン効いてて、良かったです。




で。


ストーリーについてで、ちょっと面白かったトコがあって。


作品のストーリーは、ざっくり言ってしまうと、若い主人公が、「仮想現実世界」に旅立って消えてしまった父親を追って、自分も「仮想現実世界」に入っていく、という話なワケです。

そこで、父親と対面する、という。


ここで、いわゆる“定番”のハリウッド・スタイル(というか、アメリカのスタイル)だと、「父親と息子」の対立が描かれるハズなんです。

「父越え」は、アメリカ映画の、通奏低音の1つとして、色んな作家が、それこそゴリゴリの商業ベースのハリウッド大作でも、インディペンデント作品でも、繰り返し語られているストーリーの形であって。


ところが、この作品では、主人公自身は、父親と、感情的には色々あっても、話の流れの中で“共闘”することになるんですね。


これが、ちょっと面白かったです。



実は、その「仮想現実世界」というのは、父親が“創造主”となって作り上げた世界なワケですけど、そこに、“創造主”の代理人として、自分の“分身”を作るワケですね。

「仮想現実世界」ですから、当然、“創造主”がプログラムを書くワケですけど、「仮想現実世界」では、プログラムが擬人化(一応、そういうことにしておいて下さい)されて、“人格”を持った“身体”として、現れる、と。

で、その“代理人”が、暴走している、という話なワケです。
ストーリーでは。


“代理人”である“分身”が、暴走していて、つまり、“創造主”に反逆している。だから、父親は「仮想現実世界」の中に閉じ込められてしまっているんだ、と。
そういう話なワケですね。

息子は、そんな父親を、助けに来た、と。



で、この“分身”というのは、つまり、“創造主”の“息子”でもあるワケです。
“創造主”に作られたワケですから。



主人公からみたら、そいつは、実は「自分の弟」というか、そういう存在でもあって。



ストーリーの中で、“分身”は、「仮想現実世界」を「完璧な世界にするように」という使命を、プログラミングされているんです。
「そのために働きなさい」という命令を受けて、その世界に生まれた存在。

しかし、“創造主”は、生身の人間なワケで、つまり「完璧ではない」と。

従って、「完璧な世界」を造るためには、「生身の人間」である“創造主”自身を排除しなければいけない、と。

このパラドックスを、背負っているワケです。“分身”は。


つまり、敵役である“分身”が、「父越え」のストーリーを背負っているんですね。

この構図は、ちょっと面白かったです。


父親を奪い合う兄弟の物語。



主人公は、長い間父親が不在のまま育った、ということで、なんていうか、愛情不足じゃないけど、そういう、若干の「実存不安」みたいなのに陥っていて。
「父親を奪還する」というタスクを負うことで、それを克服する、という物語があるワケですけど、まぁ、そういう、親子愛の物語。


そして、パラドックスを背負わされてしまった“分身”の、「父を殺す」物語。





ストーリーの本編自体は、最後はなんか粗さが目立つ感じではあったんですが、でも、3D大作だし、こんな感じで良いんじゃないかな、なんて。



うん。




ま、映画館の大画面で観ないと意味がない、とまでは言いませんが、ぜひ3Dで、ね。



味わって欲しいな、と。






ちなみに、音楽はダフト・パンク。(本人たちも出演してます)

音楽は、最高でした。
ホントに。
世界観にバッチリはまってて。


その、音楽の感じも含めて、楽しんだなぁ、と。
そういう作品でした。















2011年1月4日火曜日

「ディープ・エンド」を観る

新春ってことで、毎年この時期はテレビで大量に映画が放送されてたんですが、今年はあんまりない、という状況の中で、いつもの「映画天国」で、「ディープ・エンド」という作品を観る。


まぁ、作品名も知らず、俳優陣もほぼ知らず(ERのコバッチュ先生が出演してます)、という状態で、あんまり期待しないで観たんですが、なんていうか、独特な味、というか、不思議なタッチとストーリー展開で、結構満足してしまった作品でした。


舞台は、カリフォルニア州の、タホ湖(「レイク・タホ」という単語は、ワリと色んな作品に出てきますね)の湖畔の小さな町、です。
というより、湖畔に建っている主人公一家が住む家が、主な舞台。

主人公は主婦で、旦那は海軍の軍人で、「船長をしている」みたいなセリフがあるので、まぁ、中流家庭なんですが、その中でも上の方、ですね。中の上。
で、旦那は一切登場せず、不在のまま、です。この“不在感”は非常に大事で、「一人で家庭を守る主婦」という、そういう感じ。
子どもが三人と、旦那の親父、というのがいて、5人で、田舎なんだけど、湖畔の大きくて綺麗な家に住んでる。

で、長男が思春期で、大学進学の問題もあってちょっと難しい時期で、というのに加えて、なんとゲイで、しかも“よからぬ男”と付き合っている、という。
この、「長男との関係に問題を抱えている」という“前フリ”の語り方が上手で、まぁ、強引っちゃ強引なんですが、話が始まる前に、その息子はすでに「交通事故を起こしたばかり」ということになっているんですね。
「交通事故」って、結構大きなトピックなワケで、普通なら、この手のシークエンスを中心に語りたくなるワケですが、この作品では、サスペンスに使うこともせず、かなり潔くバッサリ削っています。
「事故があった」ということだけが、母親と息子の間に、大きな刺として残っている、という状態から話が始まる。
個人的には、この語り口は面白いと思いました。


で。
長男の“恋人”という男が現れ、そいつが、何の因果か、死んでしまう。
勝手に。(事故死、ということです)

しかし、と。

母親は、そうは思わないワケですね。「息子が殺った」と。そういう勘違いをして、死体を隠したりとか、色々する。(このシークエンスで、一度沈めた死体に、もう一度自分が泳いで会いにいく、というシーンがあります。ここも面白かった。)

で、ここでようやく、“悪役”が登場して、「ゲイの息子」のことをネタにして、恐喝しにくる男が現れる、と。
後半は、この“悪役”と主人公との間の関係性や、二人の心情の揺れ動き、みたいなが描写のメインになるので、まぁ、作品自体のテーマもここにあるワケですね。

つまり、“死体”とか“犯人探し”とか“犯罪隠蔽がバレる”とかは、実はあんまり主題ではない、と。

「サスペンスの衣を借りた人間ドラマ」なんですね。
ここがキモ。
要するに、この“塩梅”が非常に良い、と。
そういう作品でした。


強請にくる男が、揺れるワケですね。
諸々事情があって、男がポツンと家の中に置いてきぼりにされてしまうんですが、その時に、主人公の女性が「護ってきた」家庭、というのに触れるワケです。
その価値を知る、というか。

ここの演出は、浅いと言ったら確かに浅いんですが、半面、ストーリーの流れを損なわない形で、役者の演技に頼りかかりながらも、短い時間で「分かる人には分かる」形で、上手に描写されている。

そこまでの、単に「主人公は三人の子どもを抱える母親である」ことの描写に過ぎなかったことが、ここで、少し意味合いが変わるワケですね。
「そういうのを知らないまま育った人間もいるんだ」と。

ここで始めて、そういう“別の角度”が掲示される、と。

と。


で、ここで「父親の不在」の意味も強まるんですが、その「強請にきたチンピラ」が、「不在の父親の代替」みたいな感じになる。
逆に言うと、チンピラが「父性に目覚める」というか。


まぁ、そういう感じに話が展開していくワケです。

この感じは、ストーリーに派手で分かりやすい起伏がある、ということではなくって、まぁ、かなり地味ではあるんですけど、いいな、と。
人間ドラマ、ですから。
ね。



ただ、「諸々事情があって」と書きましたが、そこのシークエンスに関しては、ちょっと不満です。
偶然に依りすぎ、ですね。
もっと「チンピラの正体を知らないまま話している最中に何かが起こって~」とか、そういう風になれば良かったのになぁ、なんて。
あんなに偶然いろんなことが母親の身に降りかかるか、と。

そこは、ね。
ちょっとイマイチ。

必然性を持たせることは、十分可能だったと思いますね。
作品の構造上、他のもっと大事な部分で“偶然”に依る必要があるワケで、そうである以上、他の部分では偶然性は排除していかないと、と。

まぁ、あくまで玉に瑕、という感じですけど。



演出面では、おそらく監督の好みか、あるいは他のメッセージがあるのかは分かりませんが、ひたすら“水”をイメージさせる演出が繰り返されます。
湖畔、という舞台を強調する為なのかはちょっと分からないんですが、湖面、湖底、プール、「水球」、水槽、釣りゲーム、蛇口の水滴(このショットはかなりクール!)、水面に反射して揺れる光、などなど。
もう徹底してますね。

おそらく、そこに対しての、後半の「赤い車」と「赤いコート」ってことだとは思うんですが。
感覚的には分かるんですが、強い意味合いまでは、ちょっと分かりませんでした。

まぁ、シンプルで綺麗な画だった、と。
それは間違いないっス。


というより、あの舞台だよなぁ。
ロケーションの勝利、という感じはあります。間違いなく。


あとは、シナリオの巧さ、と。



そういう作品でした。



あ、あと、ちょっと思ったのが、こういう恐喝とか、あとは詐欺なんかもそうなんでしょうけど、その手の「犯罪の現場」っていうのは、いわゆる「裏社会にいる人間」と「普通に暮らす人間」が交わる場なんだな、と。
別に、こう書くと極めて普通の、当たり前のことなんですが、なんか、改めてそんなことを思ってしまいました。
普段は別々の世界で暮らしている人間同士が交錯する場、としての、犯罪の場。

自分の創作のヒントになりそうだな、なんて。

まぁ、それはさておき。




小品ながらも雰囲気の良い、佳作だと思いました。

そういう感じで。
でわ。