2008年11月24日月曜日

「明日に向かって撃て!」を観る

ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの、というよりも、アメリカン・ニューシネマ期の屈指の名作「明日に向かって撃て!」を観る。


まぁ、傑作とか言いつつ、実はただ逃げ回ってるだけなんですけどね。2人が。
落ち目の2人が、なんだか惨めに追われまくって、そして死ぬまで、と。

老いを感じながら、顔も知らない追っ手を恐れながら、愛する女を捨てながら、最後には、言葉も通じない国で、無数の弾丸を撃ちこまれて死ぬ、という。
ただの愚かな犯罪者の物語。


じゃあ何がこの作品を傑作にしているのか。




何なんでしょうねぇ。ホントに。




部下を守ることすら出来ず、自分の女を守ることすら出来ず、泳ぐことすら出来ず、スペイン語を話すことすら出来ず、ただ自由に生きて、ただ死ぬだけの物語。




まぁ、P・ニューマンがメチャメチャかっこいい、というだけの理由では、ヒットもして歴史にも残って、という評価は得られませんからね。


じゃあ何か。


「そういう物語」を描いたから、という風にしか、俺としては言えないんですけど。
ま、ホントに素敵な作品ですよ。


音楽とか、あとは普通に、アメリカの西部のあの大地の広さとかも含めて。



あ、あと、改めて思ったのは、人間関係がシンプルなんだな、という部分。
なんせ、敵役の保安官は最後まで顔が出てこないし、ボリビアの警官や軍人たちにいたっては、言葉が分かりませんからね。
余計な説明はしないし、それはイコール、余計なカットを撮らない、ということだし。


で、その追跡中のシークエンスの構図は、いちいち、勉強になりますな。ホントに。



うん。
まぁ、感想っつってもこんなもんス。


2008年11月23日日曜日

「アモーレス・ペロス」を観る

「バベル」で思いっきり考え込んでしまった、イニャリトゥ監督のデビュー作「アモーレス・ペロス」を観る。


いやぁ、しかし、これはホントに、凄い作品だなぁ、と。改めて。
ホントに好きっス。

特に、闘犬場から自分の車へ犬を運んで、また戻って、ナイフで刺して、また車へ走って逃げて、を、ワンカットで見せるあのシークエンス。痺れる。ホントに。



で。

とりあえず、「バベル」はやっぱり、メッセージとしては若干後退してんじゃねぇのか、と。そういう風に思いました。やっぱり。

この作品の3人の主人公、つまり、若者(少年と青年の間ぐらい)、中年、老人の、3人の男が3人とも、最後は独りになってしまう、という結末に、俺は震えたのであって。
そして、「孤独」であることの悲劇性が一番強いはずの、老人が、「また会いに来る」という“メッセージ”を残して、そして、地平線に向かって“自分の脚で”歩き出す、という、そこの部分こそが、この作品の核だと思うんですよ。
「アモーレス・ペロス」とは「犬のような愛」という意味らしいんですけど。


犬のように愛し合い、と。
犬のように殺し合い。

そして最後は、犬としてではなく、ヒトとして泣け、みたいな。
「犬のような愛」が失われて初めて“ヒト”になる、とか、そんな感じ。

この作品のメッセージって、そういうことなんじゃないのかな、と。改めて、ですけど。



「バベル」はなぁ。なんだろうなー。
絶望の深さというか、不条理の質というか、そういうのが、いまいち弱い気がするっちゅーか。
自分でも上手くこの違和感みたいのをぴったりくる言葉で表現出来ないんですけど。


「21グラム」で描いた、真っ暗闇の泥沼から最後に手を伸ばしてギリギリで這い上がってくる、みたいな希望の描き方とも、ちょっと違うし。


う~ん。
いや、「アモーレス・ペロス」の感想じゃなくって「バベル」の感想になってますけど。

うん。普通に、「バベル」だと、「で、その三つが繋がってどうする?」みたいな感覚もあったりするんですよね。正直。「意味あるか?」みたいな。
まぁ、繋がってるからこそ「バベル」っていうタイトルなのかもしれませんが。
でも、別に繋がってなくても言いたい事はきっちり言えるんじゃねーの、とか。
いや、そういう話じゃないっスね。
やめます。



「アモーレス・ペロス」も、「三つの物語」に分かれているという形になってるんですが、実は正確には、「四つ」なんですよね。ガルシア・ベルナルのお兄さんの物語が、実はちょっと独立した形で、ちゃんとあって。
個人的には、結構そのシークエンスが好きです。

自分の奥さんに暴力を振るってしまったり、職場でガンガン浮気しちゃったり、強盗を働いてたり。
彼は彼なりに、自分が背負わされてしまっている不条理と闘ってるワケで。





その、なんていうか、要するにシナリオがいいってことなんスけどね。
これは、イニャリトゥ監督が書いてるんじゃなくって、別の人が書いてるんですけど。(「バベル」もそう)
だからまぁ、イニャリトゥ監督についての話じゃなくって、シナリオを書いた人についての話なんですけどね。延々書いてんのは。



しかし、よくこんなシナリオ書けるよな。ホントに。
それは、テーマもそうだけど、構造的にも。

あの、子犬が床下に迷い込むエピソードなんて、ほとんどギャグの世界に近い。というか、普通に考えたら絶対に思いつけない発想だと思うんですよ。

でも、作品中の全てのトピックが、結末に向かって、どれもしっかりと機能してるワケで。



その、あまりに深すぎるシナリオを、情け容赦なく、エネルギッシュに、正確に(時には無理やり)描ききる、イニャリトゥ監督、と。




いやー、なんだかグチャグチャの文章になってしまいましたね。
お恥ずかしい。
でも、ご勘弁を。


機会があったら是非観て下さい。ホントにいい作品ですので。


2008年11月21日金曜日

「ナイロビの蜂」を観る

フェルナンド・メイレレス監督の「ナイロビの蜂」を観る。


ちなみに、原題は「The Constant Gardener」。「ナイロビの蜂」は、意味が全然分かりませんね。「純愛ストーリー」みたいな意味合いを持たせたい邦題なのかもしれません。でも、イマイチ。
それならそれで、もっといいタイトルがあったんじゃないかなぁ、なんて。

まぁ、イマイチな邦題については、さておき。


舞台はケニア。主人公は、そこに赴任しているイギリスの外交官。
で、ざっくり言ってしまうと、主人公の奥さんが殺されてしまい、なぜ殺されてしまったのかを主人公が追うサスペンスの形を借りて、ケニアというアフリカの国の「貧困」とその地で行われている「搾取」と「不正義」を告発する、と。そういう作品です。


で。
正直、この、殺されてしまう奥さんのキャラクターに、個人的にまったく感情移入出来ず、そのまま見終わってしまった、と。
とにかく“イタい”人なんですよ。この奥さんというのが。登場したところから。

しかし、その美貌とキャラクターで、周辺のあらゆる男に愛されまくる、という。


ストーリーをドライヴさせる“動機”として、主人公は自分の妻の不貞というか、裏切りというか、そういうのを疑ってたりするワケですね。
段々それが明らかになって、なんていうか、純愛というか、「愛の物語」的に展開していくんですが、まぁ、なんちゅーかねぇ、と。
主人公のキャラクターというのは、原題で「ガーデナー」と言ってるぐらいですから、要するに、庭いじりが好きな優しい男、ということになってて、まぁ、美しいけどイタい妻に振り回され、裏切られてるんじゃねーかと疑いながら、仕事も追われることになり、なんだかんだで、という感じでストーリーが進んでいくんですが。
その、あんまりサスペンスの部分は、ね。正直、全部期待通り、という感じで。
あの腐敗の感じは、個人的には、既知な部分だし。



いや、ホントにねぇ。
あの奥さんのアレがねぇ。


例えば、“リアル”アンジェリーナ・ジョリーみたいに、夫にひっついて行った赴任先で、現実を直視することで“目覚めて”活動を始める、とか。まぁ、ベタっちゃベタですけどね。
でも、ああいう女性像を描きたかった、ということでしょう。


ついこの間、最新作「ブラインドネス」のプロモーションで来日してて、テレビで喋ってるのを観たんだけど、「自分はフェミニストだ」って言ってたんで。
まぁ、そういうことなんだろうな、と。


しかしねぇ。
主人公も奥さんも、イギリスじゃ、普通に「ちょいセレブ」みたいなクラスですからねぇ。ケン・ローチやマイク・リーに言わせりゃ「なんじゃそりゃ」ってなモンじゃないっスか?

いやまぁ、そういうことでもないか・・・。


うん。それはさておき。



いい作品だとは思うんですけどね。ホントに。
カメラの感じとか、メチャメチャいいし(こういうの大好きです。マジで)、映像は超キレイだしクールだし。
そもそも、テーマと、それを語るために作られた構造も、素晴らしい。


しかしっ!


最後の最後まで、ね。
入り込めない自分がいました。それはもっぱら、主人公の奥さんのキャラクターが、理由です。

メイレレス監督、ゴメンなさい。



あ、あと、最後に「サッカーをしている姿」で真犯人を示唆している、というシナリオは、いいですね。
これ、ホントに分かる人しか分かんないんでしょうし、ひょっとしたら、単なる俺のカン違いかもしれませんけど。
でも多分、そういう意図で、最後のショットは作られてるんだと思います。



いい作品なんだけどなぁ。

2008年11月20日木曜日

たまには「ほぼ日」も読む

えー、たまには「ほぼ日刊イトイ新聞」を読んだりもしまして。


今回はたまたま、梅田望夫さんという方が「召喚」されて、糸井さんと、任天堂の社長さんの岩田聡さんと、三つ巴でくんずほぐれつしてるんですが、せっかくなんでそこから、参考になる部分でも。


岩井 あの、私の経験から言うと、あるプロジェクトが上手くいく時って、理想的なリーダーがすべて先を読んできれいに作業を割り振って分担して、その通りにやったら出来ました、という感じの時ではないですね。

糸井 ああー、そうですか。

岩田 まぁ、とくに、僕らの仕事は、人を驚かせたり感動させたりすることですから、事前に理詰めで計画を立てることが難しいというのもあるんですが。一方で、どういう企画が上手くいくかというと、最初の計画では決まってなかったことを、「これ、僕がやっておきましょうか?」というような感じで誰かが処理してくれる時。そういう人がたくさん現れるプロジェクトは、だいたい上手くいくんです。逆に、そういう現象が起きない時は、完成したとしても、どこかに不協和音があって、ダメなんですよね。

糸井 「ただの完成品」が出来ちゃうだけですからね。

岩田 ええ。で、Wiiを作っている時なんかは、「ここがちょっと問題だから、やっておきましょうか」っていうことが今までのハードの中で一番多かったような気がするんです。きっと、そういうムードが出来てたんでしょうね。

糸井 面白いですねぇ。

岩田 あと、全体の方向性の話で言うと、Wiiの開発チームでは、開発のごく初期の頃から「Wiiはこういう機械にしたいんだ」っていう話をもの凄くたくさんしてたんですよ。だから、「こうありたい」というイメージはけっこう共有されていたと思うんです。そのうえで、現実的な問題が起こりそうな時に、誰かが発見して、自然と解決していくという感じで。

糸井 それも、「思わず解決しちゃう」んだろうね。総体がいい方向に向かっている時は、「問題があると解決しちゃう」といういい反応が連鎖してるんだと思うなぁ。



で、「そういうムード」を作るためには、つまり、「思わず解決しちゃう」という反応を引き出すためにはどうしたら良いか、という部分で。
梅田さんは、(いつものように)オープンソースについての例を引いて語っております。
正確には、オープンソースという手法を使って「Ruby」というソフトを開発しているまつもとゆきひろさんという方の言葉、ですね。
あくまでオープンソース・ソフトウェアの話ですから、あくまでヒントなんでしょうけど。

梅田 僕は、「Ruby」というオープンソースのプログラムを作ったまつもとゆきひろさんという人に「オープンソースの秘密」について伺ったことがあるんですけど、彼がとても興味深いことを言ってたんです。どういうことかというと、彼にはまず、作りたいモノがあるんですね。誰かの為に、というのではなく、「自分はこういうものが作りたい」と思って1人でダーッと作っていく。
そうすると、自然に適切な大きさの問題が生まれていくと言うんですね。例えば、自分の作りたいことが、この机いっぱいくらいの大きさだとすると、「この机いっぱいの大きさのものを作る」と宣言して作り始めるんだけど、人間ひとりの出来ることには限界があるから、まあ、一部分だけしか出来ない、と。そうすると、あいつが言ってたのに出来てない所がここにあるぞ、とか、作ったと言うけど欠陥があるぞ、とか、毎日毎日動きを続けていると、適切な大きさの問題が次から次に生まれるんだそうです。で、それさえ生まれれば、インターネット上にはそれを解決する人が現れる。新聞にクロスワードパズルが載っていたらそれを解く人がいるように、それをみんなが解いていくんだと。

糸井 逆に、その問題を、「解決したい」と思わせるように見せるという、魅力的な提案の仕方というのはありますよね。

梅田 そうなんです。だから、まつもとさんが言ってたのは、とにかく動き続けること。彼自身が動き続けていないと、新しい問題が生まれないんだと。だから、自分が止まっちゃうと、みんな他のプロジェクトに行っちゃうんです。



っちゅーことです。まぁ、ちんぷんかんぷんの人は、今日は勘弁して下さい。



で、今日はもう一つ。
「亀とアキレス」で、糸井さんの奥さまと夫婦役を演じた、北野武も「召喚」されてます。
もちろんここでは、演出論と、それと対になってる演技論についての部分を、ご紹介。

糸井 たけしさんの場合、演技する自分の他に、監督やってる自分っていうのがもう1人またいるわけで、たとえそれが自分の監督作品じゃないとしても、芝居やってる自分に対して点数つけますよね、きっと。その場合は、本気でやってる方が監督目線で「いいんじゃない」って言えるのかな。

たけし ウーン、人の作品に出る時は自分の芝居をどこに持っていくのかがちょっと複雑でね。本気でやって、その監督がOK出すかどうかはまた違うと思うわけ。

糸井 なるほど。

たけし だから、基本的には、さっき言ったように監督がOK出すような芝居をするの。あんまりやりたくない仕事を義理でやってる時は、極端に言うとリハーサルから、手抜いていて、本通しぐらいから力入れて、本番で、こう、気持ち入れた振りをするみたいな。

糸井 それでも、周りからは分からないし、監督もOKが出せるわけだ。

たけし ウン。でも、ホントは、本気でやってOKが出るのが一番気持ち良いんだよね、役者にとっては。

糸井 ああー。

たけし だから、黒澤(明)さんに、色んなこと言われまくって、仲代(達也)さんたちが「うーん‥‥」って悩んでたりするのもさ、アレ、本気でやってるわけじゃなくて、黒澤さんがいちばん気に入る演技を調整してるだけだと思うわけ。

糸井 それを見つけていくプロセス。

たけし ウン。だから、分かんないけど、「OK」って言われても、ホッとするだけで、あんまり達成感はないんじゃないかな。だって、人のOKに合わせるのは、気持ち良くないんだもん。

糸井 あー、じゃあ、監督としてのたけしさんは、芝居をやる人に、その気持ち良さを、出来たら味わって欲しいと思ってやってますね。

たけし ウン。ある程度ね。

糸井 「好きにやんなよ」っていうスタンスで。

たけし ウン。で、その人が好きな形でやって、それがオレと合わない人は、最初から使わなければいいだけの話だからね。

糸井 ああ、そうですね。

たけし 幸い、ずっと監督やってきて、「あの人の演技の方がいいな」とか、そういうことは言えるようになったから。だから、そういう風にして、役者以外も決まっていくから、「組」ってのが出来るわけで。

糸井 いわゆる、「北野組」がね。

たけし そうそう。ソレって、カメラマンのクセであったり、照明さんのクセであったり、けっきょくは好き嫌いがあって、好き同士が集まるのが「組」だから。役者もスタッフも、必然と同じ人になってくる。


ということでした。
たまには「ほぼ日」も読むと面白いよね。



2008年11月17日月曜日

「アイランド」を観る

マイケル・ベイ監督、主演はユアン・マクレガーとスカーレット・ヨハンソンの「アイランド」を観る。


主人公が、クライアントのDNAを完コピしたクローンで、その為の「培養施設」から脱出して、というストーリー。
説明するとちょっとややこしいんですが、クローンには、架空の“歴史”と“記憶”が刷り込まれていて、そこに疑問を持ったことから始まる、と。

ストーリー上に、幾つかポイントがあって、ひとつめはその、記憶が捏造だった、という部分ですね。「マトリックス」や「トータルリコール」と同じ感じ。

2つめが、主人公が、クライアントに臓器を提供したり、代理で妊娠・出産したりするために作られた、オーダーメイドのクローンだった、という部分。で、その“コピー”に過ぎないクローンにも、DNAの提供者であるクライアントの記憶が宿ってしまっている、と。そこはあんまり強調されてないんですけど、結構ポイントだと思います。

3つめが、逃亡した主人公の2人を追跡する、黒人のエージェント。彼の登場シーンが超クールで、「うわぁ、カッケー」なんて思ってたら、最後に、彼のポジションが反転して、という。個人的には、この展開が一番良かったですねぇ。「焼き印」がキーになってて。

その、クローンの立場が、ナチスに迫害されたユダヤ人たちのメタファーにもなってたりするんですね。
強制収容所のガス室だとか、解放されたシーンなんかも、そうだし。

クローンの置かれた立場を、民族的に差別されてきた黒人やユダヤ人のメタファーとしても描いてる、と。

そういうポイントを押さえてる、ということで、実はそれなりに深みのある作品だったりして。




というより、この辺をもっと深く描けば、全然違う作品になり得る「テーマ」ですよね。
なんせマイケル・ベイですから、そういう、優れたテーマや設定なんかも丸っきり、惜しげもなく、カーアクションやら空中戦の為に消費しちゃうんですけど。(まぁ、それで全然いいんですけどね)


でも、「ハンバーガーになる前の牛を見たいか?」とか、クローンのクライアント(当然、ユアン・マクレガーが二役で演じる)が全然“善い人”じゃなくって、とか、その辺の細かいところも良かった。

S・ブシェミーが出てくるあたりは、結構、雑な流れだけど。



やっぱり、「クローンの記憶」って、面白いトピックだよな、と。
「記憶」については、それが捏造可能であり、外部から“インストール”することも可能だろう、ということになってきてるし、さらに、個人を取り巻く環境、つまり「世界全て」が丸ごとニセモノで(シミュレーテッドリアリティ)、という設定も、物語の素材としての有効性はますます強くなってるしね。



うん。
いや、実はこの作品で“消費”されてしまっているアイデアって、上手に使えば、もっと全然違う作品が作れるな、と。もちろん、もっとずっと低予算で。シリアスな感じで。
この「アイランド」自体が、そういう「既存のパーツ」で造られてるストーリーだし。
そういう意味でも、面白い作品でした。



あ、あと、やっぱりスカーレット・ヨハンソンは綺麗だね。
“ファーストキス”という設定は、彼女にピッタシですね。ホントに適役。




2008年11月16日日曜日

「エピソード4 新たなる希望」を観る

パチンコのダースヴェーダーが出るCMを見たら、なんだか観たくなっちゃったので、「スターウォーズ」を観る。


まぁ、面白かったですね。ホントは「指輪物語」を借りようと思ってたんですけど。
「指輪物語」は、また次ですね。


感想は、特になし。
ま、改めてどうこうってアレでもないですもんね。


2008年11月14日金曜日

「バベル」を観る

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「バベル」を観る。


この作品は、実はワリと最近観て、その時感想を書けなかったもんで、せっかくなんでもう一度、ということで。観ました。


書けなかったのには理由があって、要するに「う~ん」と唸ってしまったからなんですね。
「これってどういうことなんだろう」と。首を捻っちゃったりしちゃって。


いや、やっぱり、一つの映画としては、素晴らしいんだと思うんですけどね。賞も幾つも獲ってますし。


しかし、と。
俺にとっては、実は結構問題作かも。

テーマはずばり、ディスコミュニケーション。コミュニケーション不全、と。タイトルは当然「バベルの塔」を指すワケで、「神」によって、バラバラな言語を話すようになってしまった人間たちは、二度とひとつにまとまることはなかった、という。

作品では、「神」が制裁を下すきっかけになった、「神への挑戦」(としての、塔の建設)にあたる部分や、お互いの言葉が分からなくなってしまった瞬間だとか、そういうことは描かれてませんよね。

人は既に、お互いのことを理解することが出来ず、その“不全”を、延々と描く、と。



例えば「アモーレス・ペロス」や「21グラム」は、ホントに傑作だったと思ってて。
特に「アモーレス・ペロス」は、個人的にはホントに衝撃的だったんですよ。

そこで描かれていた(と、俺が受け取った)のは、なんていうか、絶対的な孤独、というか。
「人は孤独なんだ!」という“前提”の圧倒的な肯定感、というか。「絶望」とか、そういうモノを前にして、ただただ1人で震えるしかない人間の姿、というか。
砂漠のようなところに、放り出された人間。そこでは、自分の日本の足で立つしかないのだ、と。自分の足で歩くしか、前には進めないのだ、と。
その、「1人で立つしかないのだ」という慄然とした事実を経て、初めて、目の前の、例えば“愛する人”だとか、“家族”だとかと、心を通わせることが出来るのだ、と。
「徹底的に孤独であること」を引き受けることで始めて得られる、他者との、ある「関係性」。



この作品では、あんまりそういう深遠な苦悩の深みみたいなところには、誰も降りていかないんですよね。
いや、あくまで俺がそう受け取ったってことですけど。そういう気がする、というだけです。そこはあくまで。


前二作での、もうホントにどん底というか、暗闇の淵の一番底から、ホンの一筋の細い光を頼りに(うん。まるで「蜘蛛の糸」みたいに)、もがきながら絶望に屈しないように闘う姿、というのが、そこまではない、というか。

う~ん。でも、そんなこともないのかなぁ。


いや、でも、なんかそこのところは、ちょっと後退してる気がするんですよ。


ただ「ディスコミュニケーション」のシチュエーションを描いてるだけじゃないの、という。極論しちゃうと。



とにかく、テーマは「ディスコミュニケーション」。
アメリカ人とモロッコ人。メキシコ人とアメリカ人。日本語と日本語手話。

日本人の“善意”のプレゼントが、子ども同士の無邪気な意地の張り合いによる偶発的な銃撃を生み、その混乱が、息子の結婚式のために帰国しようとするメキシコ人家政婦の身に降りかかる、と。
その、三つがグルッと回って繋がってる、というのは、よく分かるんですけどね。

ただ、最後の結論が「家族」というトコに落ち着いちゃってないか、というのあるし。
メキシコ人の家政婦は、迎えに来た息子と抱き合うし、日本人の聾の女子高生は、裸で(これは、幼年期に帰る、というメタファーってことでいいんでしょうか?)父親に寄り添い、アメリカ人(ブラピ)は、息子の声を聞いて涙ぐみ、と。

日本人の刑事は、おそらく独身なので、“家族”がいなくって、独り、新宿の思い出横丁(a.k.a.しょんべん横丁)のカウンターで酒を飲む、と。その日に出会った女子高生のことを思いながら。



そういう結論でいいの?
まぁもちろん、俺が主旨を間違って受け取っちゃってる可能性もあるんですけど。


ハッシシで気持ちを落ち着かせ、エクスタシーで精神を高揚させ、みたいな、要するにそういうのを使って言葉の壁を超える、みたいな描写もあるし。
そういうことかい? と。(さすがにソレは違うとは思うけどね)


観光バスに乗ったアメリカ人たちのシークエンスは、マジで良かったけど。
あの胸くそ悪さは、マジで監督のメッセージなんだと思うな。
そういう意味でいうと、日本でのシークエンスは、全部ダメ。それはしょうがないんだけどね。俺がしょんべん横丁のあの辺を良く知ってるっていうのもあるから。それは。



人間は、お互いに理解なんか出来ないんだよ。それは、話している言葉が違えば、当然。
同じ言葉を話す、すぐ近くにいる隣人同士でも、机を並べているクラスメート同士でも、それは無理なワケで。

例えば「トラフィック」や「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」では、お互いに違う言葉を話す(しかし永遠に隣人同士である)アメリカ人とメキシコ人の相克と、それを乗り越えたり克服しようとする「個人個人」の姿が描かれたりしてるワケです。
そこでは、隣人同士ですら、ということになってるワケで。ましてや、アメリカ人とモロッコ人なんて、という。
その、自分の言葉が通じないからっていう「途方に暮れる」感を描いてるワケじゃないでしょ? それが目的じゃないでしょ?



いや、それこそが描きたいテーマなのか? 実は。





あー、でも、そうか。
「アメリカ人の観光客」というのが、「バベルの塔」ってことなのかな。
世界すべてを自分たちの庭みたいに思っている、みたいな。それを「傲慢」だって言ってるのかも。
それなら、あの銃弾は、「神」の制裁なのかもしれないね。
トルコ人の村人たちに怯える、アメリカ人の観光客たちっていうのは、「神」によって言語をバラバラにされた人間たちの姿なのだ、と。


でもそれなら、メキシコ人たちの結婚式の幸福感の描写は、どういう風に解釈すればいいんだろう。
あの結婚式から砂漠の中を彷徨うところに落ちてしまうシークエンスっていうのは、無常というか不条理というか、そういう感じを作中で一番受けるシークエンスだと思うんだけど。


あれは、あの“幸福”な状態が、国境の検問でのやり取りで、つまりディスコミュニケーションで破壊される、ということなワケだけど。
“幸福”すらも、不条理に破壊してしまう、と。そういうこと?
でも、それじゃ、ガルシア・ベルナルが飲酒運転で、という意味合いがなくなってしまうしね。不条理感を強調するなら、あれは宴の次の日(酔いが醒めてから)でもよかったワケだから。



モロッコ人(これは多分、アフガニスタンの代替だと思うんですけどね)の生活と、日本やアメリカ人の生活を対比させてるのは、当然意味があるハズなんだけど、「神」の制裁は、モロッコ人に降りかかってもいるワケです。
長男が射殺され、恐らくあの家族は、崩壊してしまうでしょう。





「虚勢を張るな」とか、そういうメッセージってこと?
日本人の、タワーマンションに暮らす親子には、家族が“回復”されるけど、モロッコ人の家族からは、子どもが失われる。


アメリカ人の家族は、長距離国際電話で繋がりを確認することが出来るけど、モロッコ人の家族は、父親が町へ出かけていったら、そこは“父親不在”になってしまう。
アメリカ人の家族の子どもは砂漠で“奇跡的に”発見されるが、モロッコ人の親子は、山の斜面を走る姿を易々と発見され、射殺されてしまう。
メキシコ人の家政婦は、不法入国の罪を問われて国外退去させられ、国境で、歩道の敷石に呆然と座っているしかないが、アメリカ人の夫婦には、ヘリコプターが迎えに来る。(モロッコ人の通訳はカネを受け取らないし)

そういう不条理に、前二作では、そこにも救済みたいのがある、という風に描いてたと記憶してるんですよ。
その感じが、今回はない。


ない気がするんだよねぇ~。


どうなんだろうねぇ? そういうことじゃないのかねぇ?


う~ん。



まぁ、俺の解釈の仕方が間違ってるってことなら、それはそれで別にいいんですけどね。


う~ん。


とりあえず、アレだにゃ。
「アモーレス・ペロス」をもう一度観よう。そしたら、何か分かるかもしれない。



2008年11月11日火曜日

「善き人のためのソナタ」を観る

東ドイツを舞台にした「善き人のためのソナタ」を観る。

主人公は、東ドイツの悪名高き秘密警察(シュタージュ)の工作員。彼が、標的となった劇作家と女優が暮らす家を盗聴する、という。


それなりに面白かったんですが、なんかパリッとしない感じもあり、なんとも微妙な評価ですね。
ストーリーは、もの凄い単純化すると、超ダイナマイト・ボディの女優を巡って、恋人の劇作家と、“体制”の実力者である大臣と、それから主人公の工作員が、三つ巴で揉める、みたいな構造になってまして。

主人公の工作員は、ケヴィン・スペイシー似の顔と演技と存在感で、なんていうか、いわゆるギークな工作員を演じてまして。
その、ギークが「愛し合う2人」に憧れて、彼らのために自らを犠牲にして頑張る、という。
正直、ピアノ曲「ソナタ」は、あんまり重要なキーじゃありません。この邦題は、ちょっと失敗な感じ。まぁ、この邦題を付けたマーケティング的な理由は、分かるけど。


で、とにかく、主人公が憧れ、自分の人生を犠牲にしてまで守ろうとしたモノは、「2人の間にある愛」だったワケですね。
ここがミソで、「自由」じゃなかった、と。
劇作家は「この国は腐ってる」なんていうセリフを吐くんだけど、主人公は、国家や体制への恨み言は、最後まで語りません。実は最後まで、体制への忠誠心みたいなのは、揺るがなかったりするんですよねぇ。
制裁も、なんか受け入れちゃっているし。

主人公がここで、逃亡を図って捕まって、という展開になれば、壁崩壊のシークエンスなんかも、もっとドラマチックになったと思うし、銃殺ならそれはそれで、それなりの効果があっただろうし。
まぁ、そこは敢えて、ということなんでしょう。より静かなドラマを狙った、という。


個人的には、壁が崩れたあとの、秘密警察が保管していた監視の記録を閲覧するシークエンスが、とても興味深かったですね。
自分が盗聴されていた記録を、改めて読む、という。しかもそれは、主人公が“偽造”した記録だったワケで。
実は、自分の“記憶”を外部から入れ直すことで自分を取り戻す、という、温めているアイデアがあるんですよ。自分が誰だか分かんなくなって、外部に記録されていた“記憶”を、自分の人生として受け入れる、みたいな。
まぁ、それはさておき。


秘密警察にある自分の資料を閲覧できる、という、これは実際に行われていることなんですけど、とりあえずここの部分がとても重要なポイントなんだと思うんです。
実は作品のアイデア自体も、ここから出発してるんじゃないか、と。
ここにもっとフォーカスしても良かったんじゃないかなぁ、なんて。
いや、オスカー獲った作品に、生意気言っちゃいけませんね。



最後に、蛇足ですが。
実は、個人的に「ベルリンの壁」っていうのは、ちょっとだけ思い入れがありまして。
中学の文化祭の時に(確か二年生の時)、クラスの展示で、俺が出した「ベルリンの壁を教室の真ん中に作る」というアイデアが採用されたんですよ。
俺としては、浮かんだアイデアをぽろっと出しただけだったんですが、「それでいいよ」なんて言われながら、それがクラスの展示として採用されてしまって。
言い出しっぺってことで、なんか俺も、色々やらされたことを覚えてます。

で、なんと、「ベルリンの壁に穴を開けよう」ということになったんですよ。当時はまだ、壁は崩壊もなにも、ただ壁として東西分裂の象徴的な存在として、そこにあったんですが。
穴を開けて、東西を行き来できるようにしよう、という。
それから暫くして、マジで壁が崩れたワケです。ニュースであの映像を観た時、家族全員でびっくりしたことを覚えてます。


まぁ、それだけですけど。



東ドイツ。
でもホントに、つい2、30年前の話ですからねぇ。



ファシスト、社会主義、今だとなんだろう、イスラム国家とかかな?
そういう、「自由」を抑圧するモノと、人間は戦ってきたんだなぁ、と。一応、そんな感想もありますけどね。



2008年11月10日月曜日

「バットマン・ビギンズ」を観る

というワケで、「ダークナイト」の前作にあたる「ビギンズ」を観る。


う~ん。
まぁ、「ダークナイト」に向けての壮大なプロローグ、という感じなんでしょうかねぇ。

一応、この作品でバットマンの誕生秘話みたいのを語って、新しくシリーズを始める、ということなんでしょうけどね。
その誕生のストーリーがねぇ。

渡辺謙、なにもしてねぇし。

ポタラ宮ですか? みたいなトコだし。その辺は、マジでダサくて、いまいち。


ゴッサムシティの描写も、CGを多用して、モノレールとか、かなり架空の都市として作りこんでて。
「ダークナイト」では、このやり方での都市の描写はまったくなくて、それが成功してるので、後から観た俺としては、その辺もいまいち。
まぁ、モノレールという設定上、しょうがないのかもしれませんね。


そのモノレールが、20年間の間で荒廃してるっていう描写は、クールでしたけど。それは、社長代理の経営方針のせいだ、みたいな感じにもなってて。


とりあえず、誕生までが長いかなぁ。
「ビギンズ」っていうくらいだから、そこを描くのがこの作品なワケで、それはしょうがないっちゃしょうがないんだろうけど。
バットマンのリアリズムを再定義しよう、という。
面白いトコもあるんだけどねぇ。バットケイヴの設定とか(南北戦争時代から利用してた、とか)、好きですけど。後にバットシグナルになるサーチライトの磔も。


でもねぇ。
チベットで修行するっていって、忍者かよ、と。こちとら、忍者の国の日本人だぜ、なんて。アメリカ人は好きかもしれないけどねぇ。
「悪の組織」で育てられて脱走する、という「仮面ライダー」スタイルも、個人的にはダサいし。



あ、スケアクロウという、元は精神科医だったキャラクターを演じた俳優さんは、良かった。


で、やっぱりリーアム・ニーソンは、いいよね。
彼が出ると、ギュッと引き締まる感じがします。


彼の存在感もあるんだろうけど、リーアム・ニーソンが再登場したあとは、ストーリーがグッと良くなる。
それは、ゴッサム・シティ=ニューヨークってことで、その都市を狙うテロリストとして現れるからなんですね。
それはつまり、「9.11」のメタファーというか、アメリカが世界各地で犯している不正義という罪に対する反撃、ということを語らせて。
バットマンとの戦いが「正義v.s.正義」なのだ、ということを、ちゃんと描くワケです。

これが「ダークナイト」になると、敵は、内側というか、シティの(外部からのテロリストではなく)犯罪者という設定になって、同時に、人間の心の闇みたいのとの闘いになるワケですね。
マフィアの“組織”もそうだし、ジョーカーもそうだし、トゥーフェイスもそう。


「ビギンズ」では、敵は外にいる、と。それを迎え撃つバットマン。
この語り口は、凄い良いと思いました。あんまり徹底されてないのもあって、伝わらない人もいると思うんだけど。
でも、ウェインタワーはモロにロックフェラーセンターなデザインだしね。
モノレールは、「ER」にも出てくる、シカゴの高架を走る電車みたいだけど。
(多分、ゴッサム・シティの描写は、ニューヨークとシカゴを両方合わせた感じで設定されてますよね)



しかし、この「ビギンズ」から「ダークナイト」への飛躍っていうのは、かなり凄い。
「ダークナイト」はホントに傑作だと思うんだけど、「ビギンズ」は、正直、そうでもないから。シリアスな語り口で語るアクション作品、という感じかな。

でも、この飛躍っぷりを考えると、「ダークナイト」は、到達点じゃなくって、絶対に通過点にすることが出来るような気もする。
もっと凄いのが作れちゃうんじゃないの?
なんか、「次回作には躊躇している」みたいなコメントが出てましたけど。そんなことないでしょう。もっと凄い作品が出てきますよ。きっと。


まだロビンも登場してないし、キャットウーマンだってそうだしねぇ。
あとは普通に、スケアクロウをもっと観たい。


そう考えると、「ダークナイト」の次作、超期待っスね。うん。


2008年11月8日土曜日

師匠と一門

NHKの、深夜の再放送で、桂米朝師匠を追ったドキュメンタリーをやってて、途中から観たんですが、惹きこまれちゃいました。とても面白かったです。



個人的には、落語をナマで観た事はないんですが、まぁ、興味はある、というか。
その、人間関係というか、彼らが生きている空間というか。

ウィキペディアの一連の項目が、とても面白いんで、興味がある方は、どうぞ。(>>>こちら


ご本人の人生そのものもとてもドラマチックなんですが、それに加えて、一門が凄い。

ドキュメンタリーの中で、米朝師匠が「弟子を超えたライバル」と言っていた枝雀。
枝雀さんは、「笑い」を極めようとしたあげく、鬱病を患い、自殺してしまいます。

そして米朝さんが「同志」と言っていた吉朝。
吉朝さんは、ガンで亡くなります。師匠米朝さんとの落語会の12日後に。


それからもちろん、ざこばさん。南光さん。

実子の、小米朝。息子さんは、師匠(かつ実の父親)の師匠だった米團冶を襲名しました。

まぁ、俺が知ってるのは、そのくらいまでですけど。(孫弟子、曾孫弟子も、もちろん、沢山います)



で、一門を率いて、上方の落語そのものを「復興」した、というストーリー。
弟子を大勢育て上げ、「これで安心」みたいなことを言って。「ここから落語が滅びるなら、それは、落語という芸の運命だ」みたいな。
芸の「復興」っていうのは、これは生半可なことじゃ出来ませんからね。
まず、無形ですから。それから、一つの“産業”として成立させる、ということでも。



弟子を従えて、その弟子とのやり取りを聴かせる「よもやま噺」という会がドキュメンタリーでも紹介されてたんですが、その受け答えが、また面白い。
弟子が悶絶するような、粋で洒落てて、とにかく笑っちゃう感じ。




落語の一門といえば、立川談志率いる立川流とか、まぁ分かりやすい例でいうと(落語じゃないんだけど)ビートたけしの下のたけし軍団とか、破天荒というか、そういう、いかにも「厳しさ」みたいなイメージを持っちゃってたんだけど、米朝さんは、そんな雰囲気でもなく。


うん。



大きな師匠と、それを支える一門の弟子たち。
ドラマチックだと思いました。

2008年11月7日金曜日

「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を観る

ウォン・カーウァイ監督、ノラ・ジョーンズ主演の「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を観る。


いやぁ、ウォン・カーウァイ・イズ・バック!!!という感じでしたねぇ。あの王家衛が帰ってきた! という感じ。

王家衛監督初の英語作品というで、まぁ、誤解を恐れずに言えば、「恋する惑星」のあの感触が戻ってきた、という感じ。個人的には。
かなり低予算で作られてるっぽいし。


しかし、いい映画だ。

話としては、なんてことのないストーリーなんだけどね。

こんなシナリオを書いてみたいよね。ホントに。


切れ味のいい短編小説を読んだ後、みたいな感じ。余韻をずっと楽しむ、みたいな。
ストーリー自体が、主人公のノラが2つのエピソードに巻き込まれ型で語られる、みたいな形になってて、ノラ自身のストーリーと併せて、全部で三つのパートに分かれてて。
まぁ、全部いいですよ。ストーリーは。


あとは、ショットがいちいち、クール。
一番好きだったのは、最初のシークエンスで、ノラが“遅刻”した夜の、ジュード・ロウがノラを待ってるトコ。あれは一応監視カメラの映像ってことになってるんだけど。カウンターの中に座って、そわそわしながら入り口を見てる、というヤツ。


まぁ、「恋する惑星」に戻った、ということで、ノラがフェイ・ウォンなワケだけど、警官のトニー・レオンとフェイ・ウォンが出会ったのも「お店」だったし。
それから、次のシークエンスでは、ノラと「警官」のエピソードが出てくるしね。

個人的には、ノラの唇ががっちりフィーチャーされてて、嬉しかったです。
王家衛っていうのは、かなりフェティッシュに女性を撮る人で、作品云々とは別に、その辺がツボだったりするので。今回のノラの唇のショットも、最高ですね。


しかし、ホントにスタイリッシュに撮る人だよなぁ。
ちょっと、呆れてしまう程、というぐらい。


ノラもいい。
ふんわりした存在感で。
繊細なんだけどエキセントリックじゃなくって、カワイイんだけど美しすぎるって感じじゃなくって、清楚って感じもなくって(鼻血も似合う)、地に足を付けた普通の女の子なんだけど、かといって普通過ぎる感じでもなくって。
自意識を上手く剥ぎ取った王家衛の演出もあるんでしょうけど。でも、ノラというミュージシャンが最初から持ってた資質なのかもしれないな。
自分をさらけ出すことに慣れているのかもしれないし、逆に、そうやってさらけ出すことの意味とか価値とか効果を知ってる、とか。
まぁ、装飾を削ぎ落としたスタイルのミュージシャンですからね。
いや、素晴らしいです。あと、普通に声が素敵なんですよねぇ。良かったです。



うん。ナレーションも、王家衛のスタイルですから。


う~ん。感想っていっても、こんなモンかなぁ。
あんまりグダグダ語らせない、というのも、王家衛の作品の性格の一つなのかもしれませんね。

ホントに、いい作品でした。


次作は、どんな方向になるんでしょうかね。


2008年11月6日木曜日

「バイオハザード」を観る

ミラ・ジョボビッチ主演の「バイオハザード」を観る。
この間読んだ、大塚英志さんの「ストーリーメーカー」で紹介されていたので、勉強がてら、観てみました。


ちなみに、大塚英志さんの本では、こんな感じ。

言うまでもなく原作はコンピューターゲームであり、映画としての水準は映画史に残るか否かといったものではありません。しかし、ゲームが原作であるが故に、かなりシステマティックにストーリー開発が行われたのではないかと推察されます。
分析してみる限り、キャンベル/ホグラーの(物語論)かなり身も蓋もない援用のように思え、メッセージをすっぽりと欠いた「物語」だけがそこにある印象を持ちます。
もっともぼくは、中途半端に何かポリティカルなメッセージを「物語」に背負わせるよりは、構造しかない空洞の物語の方に好意をもちます。
映画『バイオハザード』はその意味で「物語の構造」にのみ忠実な作品なのです。


というワケで、まぁ、「物語の構造」論的に言えば、という作品でした。
「行って帰る」「賢者・贈与者」「使者・依頼者」「敵対者」「偽の主人公」「主人公のシャドウ」などなど。

勉強になるな、ということで。




で。作品自体の感想も、一応。
まぁ、ミラ・ジョボビッチが、とにかくキレイですよね。ホントに。
それに尽きる、という感じで。美しいっス。
脚キレイだし。

演技はイモみたいに感じちゃうけど。でも、そんなこと、この作品に関しては関係ないワケで。
ミラが闘いまくってれば、それでいいんですからね。


あと、音楽が良かった。効果音も含めて、すごい効果的で。
原作のゲームは、俺は全く触れたことがないんで、分からないんだけど、ひょっとしたら、関係してるのかもしれませんね。

音楽は、トレンド的に言えば、全然最先端じゃなくって、良くないんだけど、演出としては、もの凄い効果的なサウンドでしたね。
これはグッド。良かったです。


ということで、まぁ、続編があるんですが、別にって感じスかね。「ストーリーメーカー」と併せてどうぞ、という感じです。


2008年11月5日水曜日

富野由悠季監督が吠える

「コンテンツ」を扱うイベントでの、富野さんの講演録がネットで紹介されてまして。
ミクシィやはてなでも取り上げられていたので、チェック済みの方もいると思いますが。
ここでも、抜き書きの形でご紹介。



 デジタルやインターネットが決定的に有利なのは、マンツーマンの作業が可能だけれど、そのスタッフが目の前にいる必要がないという部分
。それ以上の機能は基本的に認めたくないと思っているぐらいです。便利だから全部利用するのはいかがかと思うが。技術は全否定しているわけではないということも了解していただきたい。


 チームワークやスタジオワークは決定的に重要です
。こういう所に集まって仕事しようとしている人たちはほとんど我が強いんです。隣の人の言うことは絶対聞きたくないという人がほとんど。だからダメなんです。お前程度の技能や能力でメジャーになれると思うな、なんです。

 宮崎駿は1人だったらオスカーなんか絶対取れませんよ。個人的に知っているから言えるんですが。彼は鈴木敏夫と組んだからオスカーが取れた。組んだ瞬間僕は「絶対半年後に別れる。こんな違うのにうまくいくわけがない」と思いました。知ってる人はみんなそう思ったんです。

 それがこういう結果になったということは、あの2人が半分は自分を殺して半分は相手の話を聞いたんです。みなさん方も、お前ら1人ずつじゃろくなもの作れないんだから最低2人、できれば3人か4人。スタジオワークをやる気分になってごらん。そしたらあなたの能力は倍、3倍になるはずだから。オスカー取りに行けるよ、という見本をスタジオジブリがやってくれているんです。

 当事者はそういう言い方しないから脇で僕がこう言うしかない。宮崎さんが公衆の面前で「鈴木がいてくれて助かったんだよね」と本人は絶対言いません。どう考えてもあの人、1人では何もできなかったんです。「ルパン三世」レベルでおしまいだったかもしれない。本人に言ってもいいです、知り合いだから。

 そういう時期から知っているから、そこでの人の関係性も分かってますから。我の強い人間のタチの悪さも知っています。みなさんもそうですよ。隣の人に手を焼いているとか、「あいつがいなけりゃもっと自由にできる」と思ってる人はいっぱいいるだろうが、若気の至りでそう思ってるだけだから。

一番目指さなくちゃいけないのは、34~35までに、40になってもいいと思うけど、パートナーを見つけるべきだということです。もっと重要なのは、その人とキャッチボールができるフィールドを手に入れていくこと

 ビジネスを大きくしたいなら、そこで必要なのはチームワーク。悔しいけど相手の技量を認めるということです。僕は例えば安彦君の技量は全部認めます。あの人の人格は全部認めません。大河原さんの技量は認めません。大河原タッチは大嫌いです。でもそれは絵のタッチのこと、デザインはまた別です。「惚れたら全部正義」と思うのがいけない。何を取り入れて何を捨てるか、ということをしなくてはならないんです。

 僕の場合はサンライズという制作者集団があって、その上にフリーの人間が乗っかって1つの作品を作るという構造があったから良かったと思います。1人の人間の365日の生活費を保障するのはとても大変なことです。ですからそういう関係でない、スタジオワークを完成させていくということはとても大事なことです。



特に最後の部分がポイントですね。フリーの人間が、サンライズという組織の上に乗っかって作品を作ったから、良かった、という。
スタジオという技能集団がいて、富野由悠季という頭脳が、その技能集団を手足として使って、自分の頭の中にあるアイデアを具現化していく、と。
その時に、スタジオが求める「商業性」と、頭脳であるクリエイターの「作家性」を、同時に成立させる、という感じでしょうか。

映画でも、スタジオ・システムとか、プログラム・ピクチャーというのがあって、そういう環境から名作が生まれる時っていうのは、「頭脳」と「技能集団」が同じように機能してる時だと思うんですよね。

その、スタジオワークという意味で、チームワークが大事なのだ、と。
コミュニケーション能力が高くない人が多いですからね。とにかく。それは、世代的な特徴としてもそうなんだろうし、この分野にいる人の特徴ということでも、そうだし。


それから、富野さんのインターネット評も、面白い。「ツール」としてのみ、評価する、という。
うん。
究極的には、ウェブっていうのは、そういうものだからね。
だから、本質突いてますよ。富野さんは。


2008年11月2日日曜日

「物語の構造」論

アスキー新書から出てる、大塚英志さんの「ストーリーメーカー」という本をご紹介。




世の中に存在している「物語」には、ある「構造」というのがあり、その「構造」を分析し、理解しよう、と。まず。


「物語の構造」というのは、実はかなり以前から興味はあって。(まぁ、当然っちゃ当然なんですけど)


で、この本では、その「構造」の説明と、同時に、「構造」を利用して、実際に「アイデアの欠片」から、ストーリーを構築してみよう、ということが説かれています。
「構造」というのは、ある「定型」のことを指すんですが、その「定型」を、構成する要素ごとに分解して「機能」を説明し、さらに、その「定型」に沿って、新しい“オリジナル”のストーリーを作ってみよう、と。(正確には、「ストーリー」ではなく、「プロット」というモノを作ることになるんですが)


「構造に従って書く」ことに対して、自分の固有性を制限され作り手として個性が奪われると感じる方もいるかもしれませんが、このような「肉付け」や「選択」の中にこそ、より明確な作家性が具体的に発現するとぼくは考えます。

「物語の構造」から物語を創作する、という行為は、自分の固有性の発露として「表現」を試みたい人々には、生理的に受け入れがたいものだと思います。
ぼくは個人的には作り手の自意識がただ投げ出されただけの「自己表現」に、殆ど意味を見出せません。その種のアートや文学にありがちな「自意識」は、「物語の構造」によってバイアスをかけられ、鋳型にはめ込まれ、ようやく人様にお見せ出来るものになるというのが、本書の立場であるのは言うまでもありません。



ぼくが申し上げたいことは良くも悪くも「構造」は容器に過ぎない、ということです。
そこに補填される個別の物語によって、時に「構造」は歪み、変形し異質のものに変わりさえします。そもそも村上春樹がそうであったように、「構造」で結ばれるところのパーツは借用品のジャンクであっても何の問題もなく、「構造」も約束事としてあらかじめそこにあるものです。
けれどもそれが個別の作り手によって個別に物語られる時、そこに固有の物語はそのつど成立します。



と、そういうことですね。

本格的に(つまり、アカデミックに)物語論や「物語の構造」論、創作論を学んでいない俺としては、機会があれば、こういう“理論”に触れてみたいと思っていたんです。前々から。
まぁ、本屋のその手の書棚に行けば、そういう内容の本は、それこそ沢山あるんですが、パラパラめくって、その度に、持った手から棚に戻して、と。度胸やら根性やら決心やら、あとは普通にお金がなかったりして(時間も)。

それともちろん、俺自身が、「自分の固有性の発露」をしたいとただ考えていた、ということも、あります。
「構造を持つモノ」として「物語」を学ぶ事、つまり「構造から創作する」方法を学ぶ事は、自分自身の「固有性」が損なわれる結果に繋がるんじゃないか、と。
やっぱり俺も、そう思っていたんですよ。


もちろん、今でもその考えは、俺の根本にあって、別にそれを捨て去る、ということでもないんですけどね。


でも、まぁ、いい機会だし、ということで。


いや、とても面白い本でした。ホントに勉強になります。