2008年11月14日金曜日

「バベル」を観る

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「バベル」を観る。


この作品は、実はワリと最近観て、その時感想を書けなかったもんで、せっかくなんでもう一度、ということで。観ました。


書けなかったのには理由があって、要するに「う~ん」と唸ってしまったからなんですね。
「これってどういうことなんだろう」と。首を捻っちゃったりしちゃって。


いや、やっぱり、一つの映画としては、素晴らしいんだと思うんですけどね。賞も幾つも獲ってますし。


しかし、と。
俺にとっては、実は結構問題作かも。

テーマはずばり、ディスコミュニケーション。コミュニケーション不全、と。タイトルは当然「バベルの塔」を指すワケで、「神」によって、バラバラな言語を話すようになってしまった人間たちは、二度とひとつにまとまることはなかった、という。

作品では、「神」が制裁を下すきっかけになった、「神への挑戦」(としての、塔の建設)にあたる部分や、お互いの言葉が分からなくなってしまった瞬間だとか、そういうことは描かれてませんよね。

人は既に、お互いのことを理解することが出来ず、その“不全”を、延々と描く、と。



例えば「アモーレス・ペロス」や「21グラム」は、ホントに傑作だったと思ってて。
特に「アモーレス・ペロス」は、個人的にはホントに衝撃的だったんですよ。

そこで描かれていた(と、俺が受け取った)のは、なんていうか、絶対的な孤独、というか。
「人は孤独なんだ!」という“前提”の圧倒的な肯定感、というか。「絶望」とか、そういうモノを前にして、ただただ1人で震えるしかない人間の姿、というか。
砂漠のようなところに、放り出された人間。そこでは、自分の日本の足で立つしかないのだ、と。自分の足で歩くしか、前には進めないのだ、と。
その、「1人で立つしかないのだ」という慄然とした事実を経て、初めて、目の前の、例えば“愛する人”だとか、“家族”だとかと、心を通わせることが出来るのだ、と。
「徹底的に孤独であること」を引き受けることで始めて得られる、他者との、ある「関係性」。



この作品では、あんまりそういう深遠な苦悩の深みみたいなところには、誰も降りていかないんですよね。
いや、あくまで俺がそう受け取ったってことですけど。そういう気がする、というだけです。そこはあくまで。


前二作での、もうホントにどん底というか、暗闇の淵の一番底から、ホンの一筋の細い光を頼りに(うん。まるで「蜘蛛の糸」みたいに)、もがきながら絶望に屈しないように闘う姿、というのが、そこまではない、というか。

う~ん。でも、そんなこともないのかなぁ。


いや、でも、なんかそこのところは、ちょっと後退してる気がするんですよ。


ただ「ディスコミュニケーション」のシチュエーションを描いてるだけじゃないの、という。極論しちゃうと。



とにかく、テーマは「ディスコミュニケーション」。
アメリカ人とモロッコ人。メキシコ人とアメリカ人。日本語と日本語手話。

日本人の“善意”のプレゼントが、子ども同士の無邪気な意地の張り合いによる偶発的な銃撃を生み、その混乱が、息子の結婚式のために帰国しようとするメキシコ人家政婦の身に降りかかる、と。
その、三つがグルッと回って繋がってる、というのは、よく分かるんですけどね。

ただ、最後の結論が「家族」というトコに落ち着いちゃってないか、というのあるし。
メキシコ人の家政婦は、迎えに来た息子と抱き合うし、日本人の聾の女子高生は、裸で(これは、幼年期に帰る、というメタファーってことでいいんでしょうか?)父親に寄り添い、アメリカ人(ブラピ)は、息子の声を聞いて涙ぐみ、と。

日本人の刑事は、おそらく独身なので、“家族”がいなくって、独り、新宿の思い出横丁(a.k.a.しょんべん横丁)のカウンターで酒を飲む、と。その日に出会った女子高生のことを思いながら。



そういう結論でいいの?
まぁもちろん、俺が主旨を間違って受け取っちゃってる可能性もあるんですけど。


ハッシシで気持ちを落ち着かせ、エクスタシーで精神を高揚させ、みたいな、要するにそういうのを使って言葉の壁を超える、みたいな描写もあるし。
そういうことかい? と。(さすがにソレは違うとは思うけどね)


観光バスに乗ったアメリカ人たちのシークエンスは、マジで良かったけど。
あの胸くそ悪さは、マジで監督のメッセージなんだと思うな。
そういう意味でいうと、日本でのシークエンスは、全部ダメ。それはしょうがないんだけどね。俺がしょんべん横丁のあの辺を良く知ってるっていうのもあるから。それは。



人間は、お互いに理解なんか出来ないんだよ。それは、話している言葉が違えば、当然。
同じ言葉を話す、すぐ近くにいる隣人同士でも、机を並べているクラスメート同士でも、それは無理なワケで。

例えば「トラフィック」や「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」では、お互いに違う言葉を話す(しかし永遠に隣人同士である)アメリカ人とメキシコ人の相克と、それを乗り越えたり克服しようとする「個人個人」の姿が描かれたりしてるワケです。
そこでは、隣人同士ですら、ということになってるワケで。ましてや、アメリカ人とモロッコ人なんて、という。
その、自分の言葉が通じないからっていう「途方に暮れる」感を描いてるワケじゃないでしょ? それが目的じゃないでしょ?



いや、それこそが描きたいテーマなのか? 実は。





あー、でも、そうか。
「アメリカ人の観光客」というのが、「バベルの塔」ってことなのかな。
世界すべてを自分たちの庭みたいに思っている、みたいな。それを「傲慢」だって言ってるのかも。
それなら、あの銃弾は、「神」の制裁なのかもしれないね。
トルコ人の村人たちに怯える、アメリカ人の観光客たちっていうのは、「神」によって言語をバラバラにされた人間たちの姿なのだ、と。


でもそれなら、メキシコ人たちの結婚式の幸福感の描写は、どういう風に解釈すればいいんだろう。
あの結婚式から砂漠の中を彷徨うところに落ちてしまうシークエンスっていうのは、無常というか不条理というか、そういう感じを作中で一番受けるシークエンスだと思うんだけど。


あれは、あの“幸福”な状態が、国境の検問でのやり取りで、つまりディスコミュニケーションで破壊される、ということなワケだけど。
“幸福”すらも、不条理に破壊してしまう、と。そういうこと?
でも、それじゃ、ガルシア・ベルナルが飲酒運転で、という意味合いがなくなってしまうしね。不条理感を強調するなら、あれは宴の次の日(酔いが醒めてから)でもよかったワケだから。



モロッコ人(これは多分、アフガニスタンの代替だと思うんですけどね)の生活と、日本やアメリカ人の生活を対比させてるのは、当然意味があるハズなんだけど、「神」の制裁は、モロッコ人に降りかかってもいるワケです。
長男が射殺され、恐らくあの家族は、崩壊してしまうでしょう。





「虚勢を張るな」とか、そういうメッセージってこと?
日本人の、タワーマンションに暮らす親子には、家族が“回復”されるけど、モロッコ人の家族からは、子どもが失われる。


アメリカ人の家族は、長距離国際電話で繋がりを確認することが出来るけど、モロッコ人の家族は、父親が町へ出かけていったら、そこは“父親不在”になってしまう。
アメリカ人の家族の子どもは砂漠で“奇跡的に”発見されるが、モロッコ人の親子は、山の斜面を走る姿を易々と発見され、射殺されてしまう。
メキシコ人の家政婦は、不法入国の罪を問われて国外退去させられ、国境で、歩道の敷石に呆然と座っているしかないが、アメリカ人の夫婦には、ヘリコプターが迎えに来る。(モロッコ人の通訳はカネを受け取らないし)

そういう不条理に、前二作では、そこにも救済みたいのがある、という風に描いてたと記憶してるんですよ。
その感じが、今回はない。


ない気がするんだよねぇ~。


どうなんだろうねぇ? そういうことじゃないのかねぇ?


う~ん。



まぁ、俺の解釈の仕方が間違ってるってことなら、それはそれで別にいいんですけどね。


う~ん。


とりあえず、アレだにゃ。
「アモーレス・ペロス」をもう一度観よう。そしたら、何か分かるかもしれない。



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