2008年11月23日日曜日

「アモーレス・ペロス」を観る

「バベル」で思いっきり考え込んでしまった、イニャリトゥ監督のデビュー作「アモーレス・ペロス」を観る。


いやぁ、しかし、これはホントに、凄い作品だなぁ、と。改めて。
ホントに好きっス。

特に、闘犬場から自分の車へ犬を運んで、また戻って、ナイフで刺して、また車へ走って逃げて、を、ワンカットで見せるあのシークエンス。痺れる。ホントに。



で。

とりあえず、「バベル」はやっぱり、メッセージとしては若干後退してんじゃねぇのか、と。そういう風に思いました。やっぱり。

この作品の3人の主人公、つまり、若者(少年と青年の間ぐらい)、中年、老人の、3人の男が3人とも、最後は独りになってしまう、という結末に、俺は震えたのであって。
そして、「孤独」であることの悲劇性が一番強いはずの、老人が、「また会いに来る」という“メッセージ”を残して、そして、地平線に向かって“自分の脚で”歩き出す、という、そこの部分こそが、この作品の核だと思うんですよ。
「アモーレス・ペロス」とは「犬のような愛」という意味らしいんですけど。


犬のように愛し合い、と。
犬のように殺し合い。

そして最後は、犬としてではなく、ヒトとして泣け、みたいな。
「犬のような愛」が失われて初めて“ヒト”になる、とか、そんな感じ。

この作品のメッセージって、そういうことなんじゃないのかな、と。改めて、ですけど。



「バベル」はなぁ。なんだろうなー。
絶望の深さというか、不条理の質というか、そういうのが、いまいち弱い気がするっちゅーか。
自分でも上手くこの違和感みたいのをぴったりくる言葉で表現出来ないんですけど。


「21グラム」で描いた、真っ暗闇の泥沼から最後に手を伸ばしてギリギリで這い上がってくる、みたいな希望の描き方とも、ちょっと違うし。


う~ん。
いや、「アモーレス・ペロス」の感想じゃなくって「バベル」の感想になってますけど。

うん。普通に、「バベル」だと、「で、その三つが繋がってどうする?」みたいな感覚もあったりするんですよね。正直。「意味あるか?」みたいな。
まぁ、繋がってるからこそ「バベル」っていうタイトルなのかもしれませんが。
でも、別に繋がってなくても言いたい事はきっちり言えるんじゃねーの、とか。
いや、そういう話じゃないっスね。
やめます。



「アモーレス・ペロス」も、「三つの物語」に分かれているという形になってるんですが、実は正確には、「四つ」なんですよね。ガルシア・ベルナルのお兄さんの物語が、実はちょっと独立した形で、ちゃんとあって。
個人的には、結構そのシークエンスが好きです。

自分の奥さんに暴力を振るってしまったり、職場でガンガン浮気しちゃったり、強盗を働いてたり。
彼は彼なりに、自分が背負わされてしまっている不条理と闘ってるワケで。





その、なんていうか、要するにシナリオがいいってことなんスけどね。
これは、イニャリトゥ監督が書いてるんじゃなくって、別の人が書いてるんですけど。(「バベル」もそう)
だからまぁ、イニャリトゥ監督についての話じゃなくって、シナリオを書いた人についての話なんですけどね。延々書いてんのは。



しかし、よくこんなシナリオ書けるよな。ホントに。
それは、テーマもそうだけど、構造的にも。

あの、子犬が床下に迷い込むエピソードなんて、ほとんどギャグの世界に近い。というか、普通に考えたら絶対に思いつけない発想だと思うんですよ。

でも、作品中の全てのトピックが、結末に向かって、どれもしっかりと機能してるワケで。



その、あまりに深すぎるシナリオを、情け容赦なく、エネルギッシュに、正確に(時には無理やり)描ききる、イニャリトゥ監督、と。




いやー、なんだかグチャグチャの文章になってしまいましたね。
お恥ずかしい。
でも、ご勘弁を。


機会があったら是非観て下さい。ホントにいい作品ですので。


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