2014年1月13日月曜日

「たそがれ清兵衛」を観た

BS日テレで、山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」を観た。


もう12年前、ですか。
山田洋次監督が、寅さんシリーズを作り終えて、「学校」シリーズの後に時代劇を撮り始めて、その最初の作品。

宮沢りえが物凄い可愛い、というか、美しいですけど。


脚本は、山田洋次監督と朝間義隆。


東北の小藩を舞台に、ということで、時代考証云々が語られる作品ですけど、個人的には、(十年以上経っている、ということもあるんでしょうけど)その辺はあまり気にならない、というか、なるほどな、というぐらいで。

リアリズム/リアリティっていうのとは別に、やっぱり“山田洋次節”的なモノで満ちている作品なワケですよねぇ。


閉塞感・緊張感に満ちた幕末という時代背景なのだ、ということを宣言しておきながら、その閉塞感や緊張感とはまったく異なる、日常、あるいは日常の幸福、家庭、というモノを主人公は追い求め、しかし、これまた“時代の空気”とはまったく別のベクトルの“権力”と“権威”と“因習”みたいなのが、彼を押し潰そうとする、という。

主人公は、ある種求道的でもあるんですけど。

権力・権威の側が安易に利用し得る「武士として~」の“生き方”から、主人公は「逃走することで闘争している」という、まぁ、まさにそこが、山田洋次のイズムなんだろうな、という。


「日常の幸福感の尊さ」が謳い上げられるワケですけど、実は、それもある種の“手段”なワケですよ。
貧しさひもじさ、情けなさ、絶望感、閉塞感、などなど。
身分差、貧困、病なんかは、全て不条理であって、主人公にとっては、その不条理の圧迫から逃走するための、“逃走先”として、家族があるワケです。
「家族を護り、子の成長を愛でる」ことで、ようやく本人は自分を保つことができる。


この“逃走”を全肯定するところにこの作品の主題があり、ひいては山田洋次の「作家のテーマ」なワケで、求道者的に振舞うか、あるいは、笑い笑われながら生きていく姿を描くのであれば、それは「寅さん」になるワケですけど。



ラスト、彼と剣戟を交わす敵役の藩士は、結果的にはその“逃走先”がなく、「逃げろ」と促されつつも、「自分のプライド」≒自分自身、という言い訳を背に、刀を抜く。

で。
革命だとか体制転換だとか(つまり、大政奉還)、あるいは藩内の権力闘争とかには、主人公は「興味がない」という風に描かれるワケですけど、本当のところは実は、「そこに加わる資格すらない」ということなんじゃないか、と。

いや、作品中では、そう語られることはないんですけどね。
あたかも、「主人公はそう人生を選択した」という描写になってますけど。


ここは、少し難しいところ。





いや、別にいいんですけど。



ちょっと視点を変えて、画の作り方にも、やっぱり山田節が溢れています。
山田洋次の“手クセ”の一つに、エキストラが第三者として割り込んでくる、というのがあります。
単純に、画面の一番手前に、通行人が現れて横切っていく、というアレなんですけど。

多分、そうやって動く者が入ってくる、という“動き”そのものが映画なんだ、という意識があるだと思うんですけど、逆に、「入らない」ことで、緊張感が高まってしまうことを嫌うからなんじゃないかなぁ、というか。

主人公と相手役が二人だけで話していると、映画では、それだけで緊張感がチャージされちゃうワケですよね。
緊張感っていうのは、別にマイナスの感情ってだけじゃなくって、恋愛感情もそうだし、もちろん、敵意もそうなんですけど。


そういう感情がいちいち高くなってしまうのを回避するために、山田洋次は、たびたびこの手法を使います。(一般的な方法論でもあるんで、別に特別な何かってワケじゃないんですけど。)

あと、単純にムラの風景を遠景として撮る、という場合でも、単に風景を撮る、というだけだと、そこに意味が生まれてしまう場合があって、それを回避するために、そこに「日常生活を営んでいる」ことの記号として、通行人を入れてくる。

ただ、結果的に、画面の中の人口密度が上がっちゃうんですよねぇ。
寒村、鄙びた邑、みたいな感じが、薄まっちゃうんですよねぇ。
人が普通に歩く、ということは、「なんだ、元気に歩いてんじゃねーかよ」的なことになりがちなワケで、しかし、通行人を演じるエキストラが、そこまで“演技”をするワケでもないワケで。


ま、それも枝葉の話、ですね。


なんだかんだで良妻賢母のバリエーションを描く、という女性観も含めて、山田洋次イズム全開の、という形容詞が付く時代劇、と。




真田広之のちょっとずんぐりした体型に「小太刀」っていうのは、良かったですね。
最初は、草臥れた下級武士・小役人にはちょっとな、なんて感じたりもしたんですけど、良かったです。



というより、リアリティすらも「演出の為の手段」なんだ、と。
演出、というのは、作品の主題を伝える為のモノですから、要するに、リアリズムすらも、そのためのツールなんだ、という部分。
役者だって、という、ね。
言い過ぎかもしれませんけど。




あと、宮沢りえはホントに綺麗だな、と。
リアリティは全然感じないんですけど、でも、いいんですよね、これで。



というワケで、「時代劇の勉強中」という個人的なエクスキューズを抜きにしても、面白い作品でした。








2014年1月7日火曜日

「ゼロ・グラヴィティ」を観た

JR二条駅の駅のすぐ目の前にある、TOHOシネマズ二条で、3D作品「ゼロ・グラヴィティ」を観た。


事前に情報をあんまり仕入れず、単に「かなり良いらしいぞ」ということだけで行ったんですが、いや良かった。
かなり良かったですね。


観た直後の(手前味噌ながら)自分のツイート。
思わず、呟かずにいられませんでした。



やっぱりこの、ヒューマニズムっていうか、いわゆる“人間本位”な所ですよね。

なにかとんでもない事態、天変地異とか神の怒りの鉄槌とか、凶悪犯とか、そういうことじゃない、と。
そもそもの起こりからして、思い違い、というか、こうなることを予想していなかった、というヒューマン・エラーなワケで、そこから、宇宙に取り残されたたった二人の苦闘が始まるワケですけど、その二人しか出てこない、という、この荒業。
(ちなみに、あと数人出てくるうちの一人は、死体。もう一人は、無線の交信相手で、エド・ハリス。)


一人は、「スピード」でバスの車内で“加速度”に絡め取られた、サンドラ・ブロック。
もう一人が、軽薄に喋り続ける、ジョージ・クルーニー。
G・クルーニーはしかも、殆ど素の顔が登場しません。ガラス越しの顔が少し。薄笑いを浮べた表情で。


そして、サンドラ・ブロックも、決してスーパーウーマンじゃないワケですね。
リプリーやサラ・コナー的なイズムではなく、娘を失った過去を抱える、科学者、という役どころ。

そんな、あんまり“フィジカル”なキャラクターでない彼女が、生き延びるために、一生懸命頑張る、と。
いいですよねぇ。サンドラ・ブロック。素晴らしいです。



ともかく、喋り続けるワケです。クルーニーは。
ウザい。

しかし“状況”が変わると、「喋り続けること」が命を繋ぐシグナル、というか、ある種のライフラインになるワケですよねぇ。
地球との交信もそうだし、その二人のお互い、ということでもそうだし。
興奮してはいけない状況で(酸素がなくなるので)、落ち着け、と言うこともそうだし、喋り続けることで生きてることを確認することもそうだし、なにより、自分の“おしゃべり”で、相手の気持ちを静める、という。
無駄口を交わすことで、人間は“平常心”になれる、ということですよね。気がまぎれる。
集中し過ぎても良くない、というシチュエーション。思い詰めるな、と。

そういう、コミュニケーションの“効用”を、彼は知っているワケです。

その結果、「ミッション・コマンダー」である彼は、常に状況に対して、こうすれば“生き残れる”という解決策を、彼女に告げ続けることができる。


この辺の、シナリオにおけるキャラクターの“効かせ方”っていうのは、ホントに素晴らしい。

そして、四苦八苦(さらに十六苦ぐらい)して、彼女は、地上に帰って来る。


ここっ!


いったん海に沈んじゃう、という、ここですよ!

宇宙服を、彼女が脱ぐワケです。
これが良い!
裸の人間、つまり裸のヒューマン、生命体としての人間。



その、ひとつの“生命”が、海の、波打ち際に、現れるワケです。
ここは、なんていうか、生命の進化のメタファーでもあるワケですね。
遥か昔、海の中にいた生命が、地上に進出してくる。その瞬間の、メタファー。

そして、立ち上がる。立ち上がろうとする。
そのときに、“重力”が、彼女をグッと引っ張る。地面に向かって。

帰ってきた、と。


この「帰ってきた」という描写を、彼女を“裸”にして語る必要があるワケです。
絶対に。
どうするか?
いったん海に放り投げる、という、そういう解決策が、このシナリオには盛り込まれていて、それがさらに、感動的なラストカットに必然的に繋がっている。

これが、着陸用ポッドから宇宙服姿のまま出てくる、というだけじゃ、ダメなワケですよねぇ。
感動が全然足りない。
“生命体としてのヒューマン”を出せないワケですね、それでは。
かといって、裸のままポッドに乗り込んで、というワケにもいかない。それだと、今度はリアリティーを逸脱してしまう。

ここの、最後の5分くらいのアレは、ちょっとホントに感動的でしたよねぇ。



作劇上の、「ありきたりさ」の罠を、巧妙に回避してるワケですね。
「二人しか出ない」とか「誰にも出迎えられない」とか、そういう諸々の結果、“ありきたりの作品”に陥ってしまう、という罠から、逃れている。


帰還するために、何か特殊な物凄いテクノロジーを出す、とか、そういうことではないワケです。
地表の側から新しいロケットを打ち上げる、とか、そういうことですらない。
主人公が、自分の力で還ってくる。


挫けそうになる時もある、と。
しかし、そこで再び彼女の気持ちを立て直させるのは、娘との記憶、英語を話すことすらできない相手との交信、そして、さっきまでいた軽薄なコマンダー。
つまり、人間との“繋がり”なワケですよね。
コミュニケーション。
コミュニケーションによって、人間が人間に作用して、つまり、他人の心が言葉を介して自分の心に作用し、意思が生まれる。
意思が、“ひらめき”を、つまり“アイデア”を生み、そして、という。


いやぁ、「人間って素晴らしい」と。



うん。




それと、ストーリー本体とは関係ないトピックですが、幾つか。

このストーリーは、「ロシア人の無配慮な暴走によって振り回されるアメリカ人。そのアメリカ人が、中国の協力で助かる」というプロットとして切り取ることも出来るんですが、これは、昨今の国際状況を踏まえた、とてもポリティカルな、まぁ、とてもハリウッドらしい運びになっています。

ただ同時に「『神舟』はソユーズと同じプロトコルだ」なんていうセリフもあって、独自技術ではない、という点を突いてて、鋭い。



もう一つ。
ホントに最後の最後、エンドクレジットが流れるところでバックで流れる“音”は、クルーニー演じるキャラクターの“運命”を明示していて、ある種、彼の勇気を称える、みたいになっています。(多分)

彼の献身さがなければ、主人公の生還はなかったワケで、作り手は、観る側の「彼に対する感情」を一度裏切りますが(「生きてたんだ!」→「違いました」)、その後は、ちょっとほったらかし、みたいな印象がなくもない、と。

主人公が(まるですべての“生命体”を代表するような形で)生還するんで、それはそれでいいんですけどね。


宇宙空間を漂い続けないといけない彼に対する、まぁ、ケジメというか、「描かない」という選択も、それはそれで演出の狙いなワケで、正解なんですけど、エンドクレジットのあの感じは、そういうことなんじゃないのかなぁ、と。
これは、俺の勝手な“深読み”ですけどね。



ま、些少な諸々はさておき。




原題「グラヴィティ」。
ラストの、彼女が体感した“重力”こそが、この作品のテーマなワケですけど。


素晴らしかったです。