2010年12月18日土曜日

「サラマンダー」を観る

ミッドナイトアートシアターで、「サラマンダー」を観る。


予備知識なし、期待なしで、ほぼ偶然に近い感じで観たんですが、ちょっと想像と違ってたのがいい意味で裏切られて、という作品。

舞台は、近未来、ですね。
いわゆる“ドラゴン”が地上を支配していて、という、まぁ、「マッドマックス」とかに実は近い世界観だったりするんですが、要するに、「剣と魔法の~」というファンタジー系のアレではない、と。

「サラマンダー」は、その“ドラゴン”を指したタイトルなワケですが、俺はてっきり、そっちのファンタジー系の作品かと思ってたら、どうやらそうじゃない、と。
近未来。


で。

その世界観の設定は面白いと思ったんですが、例えば、主人公が“剣”とか振るってくれたらよかったのにな、と。
実際は、ライフルとか、もっぱらそういう武器しか登場してこないんで。


「剣とライフル」なら、これは、「ファイナルファンタジー」じゃないですけど、もっともっと面白くなったのになぁ、と。


この「もっと面白くなったのに」っていうのが、実は作品全体に対する感想だったりして。

まず挙げられるのが、この、“剣”について。
せっかく主人公が馬とか乗ってるんだから、と。
デカい斧は武器として登場してくるんで、ここで“剣”が出てくれば、かなりカッコよくなって、観てる側のテンションももっと上がったんじゃないかなぁ、と。

もう一つが、ドラゴンの造形。
当然CGで作られたドラゴンが動くワケですけど、このドラゴンの“顔”がイマイチ。
どうもねー。

これって、“この手”の作品に結構ありがち、というか、西洋の人が思う“禍々しさ”ってこういう顔なんだな、ということを思わせる、というか。
爬虫類に似せて造形しないんですよねぇ。なぜか。
“人”に似せて作っちゃう。


もっとクールなドラゴンの造形にすれば良かったのになぁ、と。


いわゆる“ラスボス”ってのがいて、要するに、そいつを倒して終わり、なワケですけど、そのラスボスの造型がイマイチ、と。


あと、そのラスボスとの戦闘が、あまり盛り上がらない。
これは完全にシナリオ面での失敗なんだけど、「最初の作戦どおりに倒す」という流れで、ここも実は最初の「剣があれば!」というのにつながるんだけど、要するに、戦闘のシークエンスで盛り上がるワケですよ。
剣を構えれば。

そこがね!


惜しい!


ホントに惜しい。


舞台は、「近未来のロンドン」で、主人公はイギリス人。
で、アメリカ人の軍人、という脇役が出てきて、彼らは戦車とか戦闘ヘリとかを持ってる。
だけど、そういう現代兵器が、ドラゴン(サラマンダー)の口から吐く火焔に全部やられちゃって、というストーリーの流れなんですけど、そこまで“フリ”を溜めておきながら、最後も“火薬”に頼っちゃう、という、ね。


剣でしょ!


斧でもいいけど!



肉弾戦じゃないの!


そんな、斜に構えてカッコつけるような作品じゃないじゃん!



と、思いました。


登場人物たちのキャラ立ちとか、すごい上手で、最初は悪漢って感じのアメリカ人軍人の“謝り方”も凄いイイ感じで、そういうトコは上手なクセに、大事な「いかにテンションを挙げるか」ってトコで、どうも詰めが甘い、というか。
なんか、「新しいトコ狙いすぎ」?


そうじゃねーだろ、と。


ラストは、“刃物”でラスボスの首をぶった切って終わるんだよ。
そういうモンでしょうが、と。



なんか、CGもそうなんですが、セットとかすげーカネかかってるんですよねぇ。
最初の、人間たちが隠れ住んでいる砦のセットとか、もの凄い凝ってて雰囲気あったりして。
戦車もヘリも出てくるし。

あと、荒廃したロンドンの光景、とか、結構クールで。



ところがねー。


その、“肉体”の部分っていうか。
肉感的な部分の演出でイージーミス!
チョイスミス!



う~ん。


惜しい!



と、そういう作品でした。



あとねー。
最後の「フランス語」云々ってトコもな~。

アイスランド語とかロシア語にして欲しかったな。
せめてドイツ語。


フランスなんて、目と鼻の先だもんね。

そういうトコがね。
なんか、「カッコつけ過ぎ」って感じなんだよねー。


というワケで、非常に「惜しい!」作品でした。
でわ。


2010年12月14日火曜日

「クロッシング」を観た

新宿武蔵野館で、“隠れた”オールスターキャスト作品の、「クロッシング」を観た。

実は、この「クロッシング」は邦題で、原題は「ブルックリンズ・ファイネスト」。
この原題の言葉は、まぁ、慣用句というか、このまんまのタイトルのヒップホップのヒット曲があったりして、ざっくり意訳しちゃうと「ブルックリンで一番ヤバいヤツ」みたいな感じ。
で、この邦題は、やっぱ失敗ですよねぇ。
「交錯する」みたいな意味合いで「クロッシング」ってことだと思うんですけど、それならいっそ「クロス」とかにしておけば、「キリスト教」云々の部分も意味付けできなのにな、なんて。
だいたい、「交錯」しないんだよねぇ。
そこが「売り」じゃないのに、という、ね。


というワケで、いきなり原題にケチつけちゃいましたが、なんか、作品全体がなんかそんな感じ。
なんか「イマイチ」感がね、という。

いい作品なんだけど、と。なんか詰めが甘い感じ。


まず、リチャード・ギアがそれっぽく見えない。
仕事にくたびれた、そしてやる気がまったくない定年退職直前の制服警官を演じてるんですが、これがぜんぜんそう見えないんだよな〜。ぜんぜんくたびれてる感じに見えない。
「定年の退官を目前にした警官」というのは、この手のサスペンス/クライム・アクション系の作品には、かなり頻出するキャラクターなんですけど、まぁ、たとえば「セブン」のモーガン・フリーマンがそうなワケで。
(あちらは私服刑事で、こちらはパトロール警官、という違いはありますけど)

とりあえずそこの感じがねー。


オールスターでやるのはいいんだけど、と。
この違和感は、最後までわりと強かったりして。


イーサン・ホークは、信仰心(カトリック)からくる罪の意識と苦悩と自責に次第に追い込まれていく刑事を、かなり熱演してて、これはホントに「どうしようもない苦しみ」がビシビシ伝わってくる感じで。

話がそれますけど、そもそもキリスト教(特に、カトリック)は、「原罪」をまず人に背負わせておいて、という形で「信仰」に縛り付ける、みたいな構造で出来てるワケで(いや、あくまで俺の解釈では、ということです。念のため)、この「呵責の気持ち」の駆動力は、そうとういいです。

まぁ、イーサン・ホークが担うプロット部分は、全部いいです。ディテールも含めて。
特に子供たちとのやりとりは、セリフとか最高。

で。
もう一人の主人公が、名手、ドン・チードル。
この作品では、ちょっと珍しく、タフな役柄を演じてるんですが、その、「ちょっと珍しく」の部分がとても効果的な、素晴らしいキャスティングで、「タフなギャングを装って潜入捜査をしている刑事」の「表の顔」でも「裏の顔」でも、まぁ、完璧な感じ。
あいかわらず素晴らしいですね。
さすが、俺たちのチードル。裏切りません。

ちなみに、ドン・チードルの相方役が、ウェズリー・スナイプス。このキャスティングは、ちょっとわざとらしい感じがしますが(あんまり新鮮味がない、というか、ね)、まぁ、こちらも相変わらずの存在感でした。

それから、リチャード・ギア。
こちらは、くたびれた制服警官で、こちらのプロットは、「惰性」とか「人生と生活」(どちらも、ライフ)に膿み疲れた「惰性」を駆動力にストーリーがドライブしていく。

まぁ、シナリオとかホントに素晴らしいと思うんですよねぇ。
くたびれた制服警官の、犯罪現場(拉致誘拐・人身売買)への伏線の張り方とか、見事だと思うし。

ドン・チードルの、「裏の顔」の苦悩が徐々にギャングとしての「表の顔」に表出してくる感じとか、捜査機関同士の対立とか内部のいざこざとかも、限られた条件でも(というか、会話のせりふだけで)きちんと描けてたりして、ホントに巧いと思うし。

ただ、その、複数のラインで進んでいくそれぞれのストーリーを、そもそも複数のラインで語る必要があるのか、と。
そこが弱い。
もっと絡み合えばいいのになぁ、と。
直接的に登場人物同士が関係し合う、というだけじゃなくって、ストーリー構造の要素同士が反響し合う、という形でもいいと思うんですけど。(でも、そっちの方が難しいのか・・・)

とにかく、そこが、と。


三人の男が、善意と悪意と自己愛と、そして、大きな社会の仕組みに、だんだんと押し潰されていく。
そこのストーリーの運びは最高なんだけど、と。

三つのストーリーラインが互いに響き合っていない、というトコと、リチャード・ギアがなんだか浮いちゃっているトコ。この二つ。
ストーリーは面白いんだけどね。練ってあるし。
ただ、どうせ練るなら、あと、せっかくオールスターキャストで撮るなら、と。
スター同士のぶつかり合いだってみたいワケですから。

と、シナリオ面では、そんな感じ。



映像は、ストーリーの重い空気感に合った、しっかりとしたタッチ。
この、映像の空気感とストーリーの重さが一致している、というのは、この監督のひとつのウリなんだと思います。
個人的には、こういう雰囲気の画は大好きなので、ポイント高いです。

ちょっと、編集の間が独特で、たまに「え?」みたいな瞬間があるんですけど、まぁ、あまり大事なポイントではないっスね。
舞台となるブルックリンの雰囲気を殺さない画はホントに上手で、特に、黒塗りの高級車を撮るショットなんかは最高にクール。
あと、プロジェクト(団地)の空撮のショットも最高でした。



だからねー。
惜しむらくは、と。

だから、よくよく考えると、もうほぼ完璧な作品なワケですよねぇ。
だけど、と。
なんかちょっとだけ詰めが甘くて、そのちょっとしたポイントのせいでなんか印象がぼんやりしちゃう、という。

もったいない!


と。
なんか、個人的にもの凄い期待値が高かった分、消化不良を抱えながら映画館を出た、という作品でした。
でわ。



2010年8月22日日曜日

「型の反復」と「固有性」

雑誌に掲載されていた、大塚英志さんと宮台真司さんという、奇しくも「同学年」の2人の対談記事が強烈に刺激的だったので、ここにアーカイブしておきます。

「型の反復」と、各個人が持つ「固有性」とが、互いに相反するものではなく、必然的に互いに導き合って「作品」という形として浮上してくる、という話です。

大塚
ストーリーをつくるための文法を(だいたい5、6歳くらいの)子供たちに教えたらどうなるのか。
子供相手に「物語の文法」という観念論を教えるわけにもいかないし、物語の構造しかない絵本をつくるのが手っとり早いだろうと考えました。
でも、これはもう少し年齢の上の人向きかなという気もして、この絵本を親子のワークショップだけでなく、高校生、大学生など対象を変えていろいろな所でやってみたんですが、すると、ストーリーづくりのリハビリみたいなものとは違う意味があるって思えてきた。

(宮台さんにみてもらった)授業は、生徒がそれぞれ描いたこの絵本を発表するという授業でした。
そこで見ていただいたように、ちょっと不思議なことが起きます。
同じ物語の構造に落とし込んでいるはずなのに、描いた人の心の内側みたいなものがうっすらと見える。案外、固有のお話、それぞれの物語が出てくる。
しかも一方では、いくつかのパターンが出てくる。物語論的に正しいパターンがいくつも自然に出てくる。
型に入れたのに一つ一つは固有性があって、でも全体として見ると型というか、パターンがある。それが非常に興味深い。それが面白くて、ひたすら作例を取りながらあちこちで授業をやっています。


宮台
「<世界>を体験しているつもりで、実は<世界体験>の型の反復に過ぎない、その型とは・・・」ということの方が重要な気づきです。それに気づくだけで日常生活の送り方が変わります。
かけがえのない人生。自分のかけがえのない実存。それはそれで構わない。
でもそうした感じ方自体が一つの型であり反復です。そのことを知っておくとルーティン化した固着から逃れやすくなります。
反復だから貧しいわけじゃない。実り豊かな体験こそ反復から成り立ちます。
我々の<世界体験>は、豊かであるか否かに関係なく、反復であることは間違いありません。

僕は映画批評の仕事もしますが、やはり型の反復に注目してきました。
視覚体験(映像)の型と意味論(物語)の型。双方の型を奇蹟的にシンクロさせた作品を愛でてきました。作品のオリジナリティは僕にとっても多くの観客にとっても実はどうでもいい。
僕の考えでは、型の反復だからいけないのではなく、型の反復だから良い。
僕は人形劇が好きですが、型の反復の中で毎回違ったものが見えてしまうのはなぜかに注目してきました。それは必ずしも表現者によってコントロールできない。
無数の反復を重ねた挙げ句、突如奇蹟的な力が人形に降りたりします。


大塚
たとえば、美大のいわゆるアート系の学生などに、この絵本をやらせると、奇をてらおうとするわけですよ。
たとえば、絵本の最後の目的地から逆算して頭で考えて変に技法を凝らしたものを作ろうとする。そうすると、アーキタイプがまったく現れないんです。
目的地って実はトラップです。その意味では極めて凡庸なものになるケースが多いですね。
言葉としては変かもしれませんが自分なりのアーキタイプを作る。それらをちゃんとやったら宮崎駿になれるわけじゃないですか。
宮崎駿の物語って、構造として美しくきちんとしているとともに、一個一個のアーキタイプが彼の卓越した力によってキャラクターや表現になっているわけです。


宮台
型の反復の中でなぜ面白いものが生じるのかは興味深いですね。
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」というインチキ西部劇がそうです。
ストーリーはめちゃくちゃですが、構造は明確です。近代的観点では、物語が破綻していて、メッセージも皆目不明。でも面白いのです。
構造は明確ですが、ストーリーの係りと結びを追うと、係りの大半が結ばれない。
脚本教室だったら大減点ですが、誰も気にかけない。
それどころか観終わって「<世界>は確かにそうなっている」と寓話の土産を持ち帰る。
構造の反復があれば、一貫したストーリーや分かりやすいメッセージがなくても、人はそこに<世界>を見出す。カオスの中に<世界>を見る。
ストーリーもメッセージも不明瞭なのにすごく面白く、しかも面白い理由を説明できない。でも本当に面白いってそういうことじゃないかな。


大塚
つまり表面的な伏線とかネタの整合性みたいなことの意味ですよね。それと「物語の構造」の整合性とか破綻って違う水準ですよね。それがなかなか区別されにくい。
あえてストーリーと物語という言葉を分けて使えば、表面的なストーリーのロジックみたいなことの後ろ側にもうひとつ別の物語の論理性がある
そういった構造の水準中で伝わっていく、あるいはかたちづくられていくものがある。
人の思考がそういう構造の中を流れていくことで人間の内的なあり方、人間らしさ、世界体験、世界認識みたいなものがそれこそ構造化していく。
今、そういう部分がすごく脆弱化しているのではないか。
だから逆に物語論的な構造が隠されている、一見物語に見えないものにとても弱い。

世界自体が物語として動いていくときに、それに対抗する訓練ができていなければ批評的であることさえできない。自分の内側が構造化されていないから、外側の見えない構造に流されちゃう。だから論理的なつもりでも表面的な論理の整合性しか捉えられなくなってしまう。構造という論理を管理できない。


宮台
ビルドゥングス・ロマン(成長物語)の重要な側面は、観る側の枠組みが90分間の間に文字通り成長するところにあるます。
成長物語は、近代小説のように時間的フォーカス(物語)として語られてはならず、時間的フォーカスから見ると破綻した形で、構造的フォーカスに即して語られるべきだと感じます。
そうした語り口があって初めて、観る側が日常の時間的フォーカスにこだわる地点から離脱して、「そんなことはどうでもいいんだ」と感じるまでに至る成長を体験できます。
構造的フォーカスに即して語られた成長物語は、それ自体、読者や観客に離陸点と着陸点の落差をもたらす通過儀礼になります。そうした成長物語はオリジナリティどころか元型の反復に満ちています。
構造的フォーカスに即して語られた成長物語は、型の反復とストーリー的整合性とがズレることを通じて、「重要だと思っていたことが本当は重要ではなかったのだ」と気づかせるからです。


大塚
オリジナリティがあることや固有であることと、何かの反復としてあることは二律背反でも矛盾でもなんでもなくて、同時に成立する。
そのことが分かったとき、いろいろと新しい自分が見えてくるのになって僕は思います。
すべては反復なのだという言い方の中にペシミスティックに収斂してしまってもそれは知的な怠惰でしかないし、かといってアンチ「形式」、反「制度」みたいな考え方だけで固有性を求めていくことのあがきに関しては、もう一定の結論みたいなものが出てしまっているわけですよね。
形式を反復することと固有であることの二重性をきちんと生きられるかどうか。

形式の中に「私」を当てはめて、構造の中で物語り、そして別の誰かと同じ「元型」を引き出していながら、しかしできあがったものは違う。そこが一番やっていて面白いし、たぶん大事なところだと思います。
同じことをやっていながら違うみたいな不思議さですよね。
そこに何かオリジナリティがなければいけないとか「私」がなければいけないみたいな呪縛に対して、割とすっきりとした答えは出せるのかな、とやっていって思います。



「物語の構造」をキーワードにした、非常に刺激的な話だと思います。
特に、宮台さんの「成長物語」はこうあるべきだ、という言葉。

単純に“作劇のヒント”にしてはいけない、「甘く危険な言葉」ではありますが、知っておかなければいけない認識でもあるでしょうし。


という感じで。
でわ。


2010年8月18日水曜日

「ガールフレンド・エクスペリエンス」を観る

シネマート新宿の一番小さいスクリーンで、ソダーバーグの「ガールフレンド・エクスペリエンス」を観る。

ソダーバーグによる、「セックス」を扱った小品、ということで、必然的に「嘘とビデオテープ」を連想させる素材ですが、まぁ、悪いワケねーだろ、と。
そういう、受け手側の期待を裏切らず、しかし、収まらず、という。いい感じのテンションの作品です。

というのが、まず、作品全体の印象。

作品通してのストーリーというのは、なんのことはない、「高級娼婦の自分探し」みたいな、まぁ、書いてみると陳腐このうえない言葉になってしまうんですが、そこを、ソダーバーグのカメラと編集と、その他諸々の「映画力」によって、カネを払う価値のある作品に、ある意味強引に仕立てあげる、という。

まぁ、小さなスクリーンだったんですが、劇場で観たのはホントに正解だったと思います(騙された、という人もいたかもしれませんが)。
家でDVDなりブルーレイなりで観る場合も、可能な限り大画面で観た方がいいですね(とにかく、小さな画面で観ることだけは避けた方がいいです。ガクッときちゃいますから、絶対)


で。

ポイントは、この「自分探し」の中身。

主人公は娼婦ですから、当然、作品で描かれる生活も、彼女の顧客、つまり、彼女を「一晩買う」(しかも、超高額で)男たちとのやりとり、なワケです。

そこで、男たちは彼女に、自分には「本当の君」を見せて欲しい、と。
そう求めるワケです。
それが、主人公が「本当の自分」を自問し始めるキーなワケですけど、ところが、その、主人公に「本当の自分」を求める男たちが、彼女の前で「本当の自分」をさらけ出しているのか、と。

つまり、彼ら、社会の成功者(高級娼婦を一晩買うことができるほどの成功者、という意味です)の「本当の自分」とは、と。
そういう話なワケですね。


で。
結論みたいなのを先に言ってしまうと、そういう彼らの「本当の自分」こそが空疎で空虚だった、と。


「精神的な繋がり」を、「一晩限り」でありながら「最高の恋人」でもある主人公に求める男たち。

ところが、求める当の本人たちが、ただただマネーの話、つまり、景気の話とか自分の収入の話しかしないまま、老いていく、という。


探したあげくに、特に大事そうなモノは見つからない、と。
そういうことになってる。

そして、「本当の自分」も、「そういうモノがあるはずだ」という顧客が延々それを話すことで始めて浮き上がってくる、という、つまり、「自分探し」も外部からの働きかけによって生まれてきた「物語」なのだ、という部分。

彼女も、最初はただ「うざい」みたいに思うだけだったんだけど、だんだんそんな気持ちになってくる。
つまり、一応「自分って何だろ」みたいに思い始める。


しかし、彼女の「本当の姿」を見せてほしいと望む男たちが語る「自分」は、単に「景気が変わって収入が減ってどうしょうもない」ことしか語らない。
「肉体的なつながり」の他にあるもの、として暗示される「精神的なつながり」ですら、それは単に一方的にグチを言えるだけの関係にすぎない、という。



つまり、彼女を「自分探し」に誘った男たち自身の言葉に、実はハナから意味がなかった、ということなワケで、つまり、彼女自身の「自分探し」も、当然、(彼女にとっては)意味を持たないまま、モノローグとダイアローグがただただ流れていく。



そして、これは結構意外なラストだったんだけど、ユダヤ人の宝石商の「顧客」に呼ばれて、主人公はオフィスを訪ねるワケですね。
ここでのソダーバーグのカメラは、もう不自然なほどに被写体に近かったりして、変な、ただしとても効果的なショットが続くんですが、ここで彼女は、「顧客との肉体的な繋がり」に、なんだか安心したような表情を見せる。
正確には「表情を見せる」のではまったくなくて、あたかも「そういう風に感じている」と解釈させる、ということなんですけど(従って、このラストの解釈は、人によってかなり異なるんじゃないか、という感じはあります)。

つまり、(あくまで俺自身の解釈に拠ると)彼女はここで、ぐるっと一回りして、顧客との「自分との肉体関係を金銭と交換する」という関係性に「自分の居場所」を見つける、という、まぁ、再確認するワケですけど、そういうことになってる。

元のスタート地点に戻ってくる、ということなんですけど、それは、「自分のアイデンティティー」なんて、実は「他人との関係性」の中にしかないものなんだ、ということの示唆でもあって。


まぁ、そこまでは深読みしすぎかな。。。


俺の解釈や深読み云々は別にして、とにかく、ソダーバーグは、少なくとも、「(はじけた)バブルの被害者」たち自身が「バブル」なんだよ、という、そういう身も蓋もない「アメリカのセレブたちの心象風景」にタッチすることには成功しているワケです。
(もちろん、ソダーバーグ自身がその「セレブたち」の一員であることも大事なポイントで、実際作品中にも、「ハリウッドの住人」が登場人物として登場してます。)



と、まぁ、テーマ云々を語ると、結構長々と続いちゃうアレなんですが、面白いのは、こういう内容を、かなり手クセに頼る、というか、もの凄いサラッと、軽やかなタッチで製作しちゃってる、ということ。
画もそうだし、製作のプロダクション自体もかなりライト・ウェイトな組織で作ってるんじゃないかなぁ、と。

それと、主人公は現役バリバリのポルノスターらしいんですけど、ソダーバーグの軽やかな画の中にしっかり収まってるんですね。
これって、結構スゴい。
過剰に演技させたり、枠に押し込めたり、あるいは、エゴを放置したりむき出しにさせたり、という「罠」に陥ることなく、という。
単純に、ここだけでもソダーバーグの「腕」の良さを堪能できるんじゃないかな、なんて。
さすがソダーバーグ、と。

サラッとやってみせたワケですけど、実はそんなに簡単なことじゃないハズですから。


他の役者陣も、みんな無名のはずなんだけど、ホントに上手。(英語が分からないから、そう見えてるだけかもしれないけど)
特に、こういう空気感がとても大事な作品っていうのは、低予算であっても、というか、こういう作品だからこそ、空気感を壊さないような、高度が演技力が必要だったりするワケで。
高度な演技力、あるいは、高度な演出力。
で、当然この作品は、「演出力」が高かったのでしょう。すばらしいです。
ダイアローグのある程度の部分はアドリブでしゃべっている、ということらしいんですけど。



というか…。


何げに、こうやって延々と分析してみせることすら、ソダーバーグにとってはお笑いなのかもなー。


なんつって、ね。


まぁ、いい作品ですよ。
主人公、超キレイだしね。
それだけでも観る価値アリ、です。



2010年8月1日日曜日

「インセプション」を観た

えー、この間観た「インセプション」の感想です。 監督は、クリストファー・ノーラン。主演はディカプリオ。あと、渡辺謙ですね。 いやぁ。傑作。 このエントリーを、どこから書けばいいのかが浮かばず、何日か、悩んじゃってました。 さて。 まず! まずはとにかく、脚本が素晴らしいですね。 脚本の、なんていうか、物語のプロットももちろん素晴らしい完成度なんですが、要素(ストーリーを駆動する因子)の組み合わせ方、というか。 まず! なにに一番“やられた”かというと、とにかく「重力」なんですよねぇ。 「目覚めるには、“落とす”必要がある」という。“キック”の設定。 確か、作中でも「内耳には薬は作用しないんだ」みたいな台詞があったと思うんですけど、何気に適当な設定だと思ったんですよ。最初は。 そりゃ、目覚めるためには、なんらかのギミックは必要なワケで。 で、そういう“設定”を作ったんだろう、と。 ところが! 車を落とす、と。それも“キック”なワケですが、後々に「夢の中の夢(の中の夢)」に入っていくと、それが無重量状態として反映される、とか。 そして、その無重量・無重力状態の中で「どう落とすか?」みたいなサブプロットが展開されるに至っては…。 天才すぎる! 観てて、発狂しそうになりますよね! コマもそう! 同じですよ。 「夢か現実か区別するため」に、それぞれが持っている、と。 で、それは、ただ区別するためじゃなくって、心の平安を保つためでもあるんだ、と。 コマって! こんな原始的なモノって、そうそう発想できないと思うんですよねぇ。 コマ! 「夢か現実か?」って、普通に考えたら「痛覚」ですもんねぇ。 でも、それだとストーリーが狙いどおりには収まらない、と。 「夢か現実かの区別がつかなくなる」という、主人公(の、妻)のサブプロットがあって、それが成立しなくなりますから。 で、コマ。 なんだろ。 「合言葉」とか? そのくらいしか思い浮かばないっスよ。「この世界が現実かそうじゃないかを区別するための方法」のアイデアは。 回転し続けるコマ。 なんていうかねぇ。それって、「終わりがくる」ことの暗喩(でもないか?)なワケですよね。 夢ならば、永遠に続くだろう、という。 しかーし! 現実ならば、それは“倒れる”のだ、と。 この、ギミックとして存在している要素が、実は同時に、ストーリーを前に推進するためのエンジンにもなっている、という。 「ストーリーの経済学」的な言葉で表現すると、「生産効率が高い」ワケですよ。 いろんな要素が、がっちり噛み合いながら、それぞれのエンジンでストーリーが駆動するワケで、なんていうか、それは体感速度の速さでもあって。 例えば、“キック”という要素は、「夢の中では時間の長さが長い」という要素と組み合わさって、二つの世界で、同時に二つのミッションを成立させているワケです。 「雪山の中の病院で、目的を果たして、さらに“キック”をしてホテルに戻ってくる」、その後で「ホテルで“キック”をして車に戻ってくる」。で、「車を橋の上から落とすという“キック”をして飛行機に戻る」と。(もう一つ、ビルから飛び降りるという“キック”も) ところが、車が追手に追われているために、予定より速く橋から落ちてしまう。 これが、「雪山」と「ホテル」に作用するワケですね。急いで“キック”をしないといけない。 しかも、「ホテル」では、無重量状態の中で。 別に、「落下速度を内耳で体感する」こと以外にもあり得るワケですよね。 それこそ、なにか錠剤を飲むことで眠りから醒める、という設定にしてもいいワケで。 しかし、それだとダメなワケです。 複数の世界で同時に「クリアしなければならないミッションが主人公たちに与えられる」ということにはならない。 例えば、パラレルワールドものでいうと、“ファンタジー世界”では「魔女と戦わなければならない」というミッションがあり、“現実世界”では「ママ(家族)にバレてはいけない」というミッションが与えられる、という風に、異なる形のミッション(あるいは、“障壁”)が主人公に与えられる、というスタイルがあるワケです。 複数のストーリーラインが同時に進行していって、それぞれに異なるミッションが与えられる、とか。 あるいは、“ファンタジー世界”から“現実世界”に現れた魔女を巡って、「魔女と戦う」ことをしつつ「しかし正体はバレてはいけない」という、異なるミッションを同時にクリアしないといけない、とか。 しかし、これだと、あまり“効率”は良くないワケです。それぞれのミッションについて、それぞれ時間を割かないといけない。 しかーし! この作品の構造では、どちらも「“キック”して戻る」ことがミッションなワケです。 もちろん、それぞれの世界でのミッションは、「御曹司とその父親とを対面させる」「元奥さんに連れ去られた御曹司を取り戻す(=主人公の個人的なトラウマを乗り越える)」という、“本筋”のミッションがちゃんとあるワケですが、大事なのは、それだけなら、時間的な制約、というのがなくなってしまうワケで。 つまり、「“キック”して戻る」ということが、ストーリーラインのいろんな所に作用している。 つまり、“効率”が良い、という。 で。 もう一つ「天才だな」と思ったのが、サブプロットが幾つかあるんですけど、その扱い方、ですよね。 まず、主人公の個人的なトラウマ、というのがあって。 この、壮大な設定やストーリーを、個人的・極私的な問題に落とし込む(あるいは、並行して走らせる)、というのは、ハリウッドのある意味定番なスタイルというか、作品の世界を過剰に肥大化させないための定番な方法だったりするワケですが。 まず、この扱いが巧い。 夢の世界に常に現れて、愛している存在なのに、邪魔をしてくる、という。 要するに、“障壁”なワケですけど。 例えば、「マトリックス」に欠けていてこの作品にあるのは、こういう部分だと思うんですね。 逆に言うと、この“落とし込み方”が巧いことで、延々と3部作で、とか、「話はデカかったけど最後の10分で無理やり決着をつけられちゃってなんか消化不良」だとか、「結局夢オチ」だとか、そういうドツボに陥ることを回避しているんじゃないかな、と。 それと、“列車”というモチーフ。「列車は苦手なんだ」という冒頭の台詞から、ずっと“伏線”であったワケです。線路をチラ見せする、とか。 そういうのを回収していく手際が巧い。いちいち変に最後まで引っ張らない、とかね。 それと、なによりも、「実は“植え込み”をしたことがあったんだ」と。 そして、それが“悲劇”を引き起こしていたんだ、という。 「この世界は現実じゃない」! ヤバい! “現実世界”に連れ戻すために植え付けたひと言なのに、たったひと言なのに、しかし、という。 普通なら、このシークエンスだけでひとつの作品になり得るトピックですよ。 それを、ある意味では、使い捨てですから。 「この世界は現実じゃない」という台詞のあまりにデカいインパクトも含めて、このシークエンスこそが、この作品に“深み”を与えているワケです。 「コマは回り続けることなく、倒れる」という部分が、ここに作用しているワケですね。 倒れることで、主人公は現実であることを確かめる。 そしてそれは、「愛する人はもう戻ってこない」ことを再確認する作業でもあるワケです。 う~ん。 この感じ。 素晴らしい。 それともう一つ、渡辺謙演じるサイトーの生死、ですね。 もちろん、この「クライアントであるサイトーが死にかけている」というのは、主人公たちの行動に“制約”と“焦り”を、つまり“緊迫感”をチャージし続ける、という効果があるワケですが、それだけじゃない、と。 このサブプロットのために、なんていうか、わざわざ、倒置法が導入されているワケです。 本筋のプロットじゃないのに、というか、“一番最後”を倒置するワケじゃない、という。 ここがスゴい! ここで言う“一番最後”というのは、ストーリー全体のラスト、この作品で言うと、「主人公が子供たちと再会する」という部分ですが、「老いた渡辺謙を再訪する」というのは、“一番最後”じゃないワケです。その手前。 ところが、この作品の構造でいうと、「これは倒置法ですよ」ということが明示されているワケですから、観ている側は、「あれ?」みたいな感じになるワケですよ。 ちょっと困惑させられる。 まぁ、なんていうか、これにまんまとやられた、と。 俺は。 巧いな、と。 で。(すでに非常に長いエントリーになってますが、まだ書きたいことがあるので…) で。 もう一つ絶対に言及しないといけないポイントがあって、それは、「夢に侵入する」テクノロジーについての説明が一切ない、というトコ。 あの、スーツケースで持ち歩いて、真ん中に大きな丸いボタンがあって、仲間はみんな、コードみたいなのをセットしてそれで繋がって、というアレ。 「誰かの夢」に侵入する、ということで、その夢の持ち主が“設計者”で、設計者として街をまるごと設計できる才能の持ち主じゃなきゃいけない、ということで、超キュートなあの女の人がスカウトされる、ということなワケですけど。 その、その部分以降のところはちゃんと説明されるワケです。睡眠薬の特殊な配合ができる凄腕の“調合師”が必要だ、とか。 が。 あの、そもそものテクノロジーの説明が一切ない。最初から、普通に「人の夢に潜り込める」とことになってる。 これは、あの「ダークナイト」を経てのアレだと思うんです。 作中の「夢の中の夢(の中の夢)」という言葉に倣うなら、「フィクションの中のリアル」と「フィクションの中のフィクション」。 フィクション(映画作品)の中で描かれるフィクション(現存していないテクノロジー)。 これと、「フィクションの中のリアル(現代)」が、まったく違和感なく、一つの世界観の中に収まっている(共存している)。 例えば、「空を飛ぶ車」ということであれば、「これは未来の話ですよ」という注釈が必ずあったワケです。いわゆる“未来都市”の遠景をファーストショットで魅せる、とか、そういう手法も含めて。 この作品でも、あの、街並みがグーッとせり上がって“二つ折り”になる、というのも、「これは夢の中でのことです」という注釈が入ってるワケですね。それで、あの画が成立している。 そういう“説明”“注釈”がない。 普通に、夢の中には入り込めることになってる。 これは、完全に「ダークナイト」での成功を受けての、ある意味では手法の流用なワケですけど。 この、フィクションとリアルの配合の妙! 上手いなぁ、と。 普通は説明したくなりますよ。 だって、“植え込み(インセプション)”の方法については、延々説明させてるんですからね。 当然、説明しようとすれば、これは間違いなく冗長になってしまう。 少なくとも、“体感速度”は鈍るでしょう。時間も必要なワケで、その分、クライマックスの時間を削る必要もでてくる。 そういう諸々の可能性を回避しているワケですね。敢えて説明しないことで。 うん。 あとは、もっと色々書きたいことはあるんですが、それこそ冗長になってしまうんで、ひとつだけ。 マイナス点があるとすれば、やっぱり、渡辺謙の英語の感じかなー。 別に、英語が下手だってことじゃなくって、なんていうか、謙さんの「声の魅力」が、やっぱ、英語だといまいち浮き上がってこない、というか、ね。(日本語は母音が伸びるから、ということだと思います) あの深みのある声、というか、発声っていうのは、英語を発する時の筋肉からじゃでてこないのかね? まぁ、英語を話す(つまり、ハリウッドに出て行く)ことで手に入れたモノの方が大きいワケで、それは、どうしょうもない部分なんだけど。 やっぱねー。 今の渡辺謙のスケール感を収めることができる器っていうのは、今の日本の映画産業には、ちょっとないですよねぇ。 もったいないなー、なんて思いますけど。 それから、この、ノーラン監督の画の魅力について。 この人の良さのひとつに、ガバーッと引いた画を見せるときに、その引き方の具合が絶妙だったりするんですね。 その前のカットとの繋ぎ方の巧さもあると思うんですけど、引いた画がシャープっていうのは、なんていうか、才能がある人がキチンと効果を計算して始めて成立する、というか。 で。 この作品でも当然そういう部分は堪能できるんですが、しかし、冒頭からしばらくは、それが出てこないんです。 あとから考えると、ここも巧いなぁ、と。 ワザと混乱させるように作ってるワケですよ。導入のところは。 カメラも落ち着かないし、アップばっかりだし。 最初は「なんだよ。なんか変なテレビサイズの画ばっかだな」なんて、違和感っていうか、軽く心配してた、というか。 もちろん、そういう違和感みたいなのは最初だけで、まぁ、それも狙いだったんだろうな、と。 そういうトコもねー。 上手いよねー。 あ、あと、一番深い世界の、あのビルの並ぶ感じは、「AKIRA」のラストシーンかな、なんて思っちゃいました。 違うかな? 個人的には、街並みが二つ折りになるショットよりも、あの辺の一連の描写の方がインパクトありましたね。 あの「幾何学的に正確に並んでいる」というのは、「コマが永遠に倒れない」というのと、意味的には完全に繋がっていることでもあるので。 う~ん。 こんな感じっスかね~。 長々と書いてしまいました。 あしからず。 (が、まだ書き足りない感じもあります…) とにかく、劇場の大スクリーンで観ないといけない作品だと思います。 ぜひ! でわ。 

2010年7月28日水曜日

おめーら、ちっとオモテ出ろや

昨日の新聞に載っていた、月一連載の「文芸時評」というコラムをご紹介します。
書いているのは、斎藤美奈子さん。
まぁ、有名な方ですね。

「文芸時評」というのは、毎月毎月、その月に発表された文芸作品(小説)をまとめて批評する、というコラムです。


小説の題材を作者はどこから調達してくるのだろう。
かつての日本では、作家自身の私生活を題材に書く人が少なくなかった。いわゆる私小説である。その延長線上で、一族の歴史に取材した作品もある。大きく分ければ「体験型」だ。

もう一つは外に題材を求める方法だ。実在の人物、歴史上の事件、過去の文学作品、土地の伝説。題材は幾らでもあるけれど、この場合は取材ないし資料探索が欠かせない。いわば「調査型」である。
小説が素材(何を書くか)より、包丁さばき(どう書くか)にウェートのあるジャンルである以上、体験であれ調査であれ素材を徹底的に加工する「加工のワザ」こそが問われるわけだけれども、それは承知で少々反動的なことを言ってみたい。でもさ、やっぱり素材についても考えたほうがいいよ、と。

今月の文芸誌掲載作品のなかで素材の力が生きていたのは柳田大元「ボッグブリッチ」だ。小説の舞台はエチオピア。語り手の「私」は奴隷貿易について調べるためにある集落を訪ね、「ひしゃげた家」に伯母と住む少女と出会うのである。
作者はアフガニスタンで拘束された経験を綴った「タリバン拘束日記」という著書もあるフリーのジャーナリストである。紛争地帯の放浪経験(?)が作品に昇華した例。そこで勝負されても困る、という意見もあるだろうけれど、こういう小説は机の上だけではけっして生まれないだろう。

もう一作、素材について考えさせられたのは楊逸「ピラミッドの憂鬱」である。
正直、アイデア先行で、小説として奥行きには乏しい。ただ、ひとりっ子政策によって、子どもが「小皇帝」として四二一(祖父母四人と親二人が子ども一人の教育に全力をそそぐ)型ピラミッドの頂点に君臨する現代の中国と、親の力が失われた途端にピラミッドが簡単に逆転する(子どもに一族の負担がかかる)皮肉とがこの小説の構造を支えていて、何かを考えさせはするのである。
楊逸は日本語で小説を書く中国出身の作家として注目されたのだったが、彼女の旺盛な執筆活動を見ていると「書く材料は幾らでもあるんだから」と言われている気がしてならない。
逆に言うと、日本の若い作家にとって材料を探すのがいかに困難か、である。今月の目玉だったはずの綿矢りさ「勝手にふるえてろ」や藤代泉「手のひらに微熱」が作者の美点を示しながら相対的に「弱い」と言わざるを得ないのは、素材の弱さに起因するのではないか。

半径数メートル圏内の見飽きた素材を読ませるには特異な技術が必要で、だったら新鮮な素材を探しに外に飛び出した方が「勝ち」の場合も少なくないのだ。最終形態が小説でも、そのプロセスは研究論文やノンフィクションとそう変わらないかもしれない。繊細な料理人になる前に果敢なハンターたれ、である。



なるほど、と。


「半径数メートル圏内の見飽きた素材」ね。

例えば、ここの部分を逆に「特異な技術」でもって突き抜けたのが、宮藤官九郎ですよねぇ。

さらに、「特異な技術」として、「構造」を導入して、その組み合わせで魅せる、ということをしているのが、(恐らく)宅間孝行なのかなぁ、なんて。


まぁ、そういうアレは別にいいですね。



「果敢なハンターたれ」と。



う~ん。



頑張ります。

2010年7月18日日曜日

「ハゲタカ」のD

NHKのドラマ「ハゲタカ」のディレクターさんのインタビューが新聞に載ってました。 大友啓史さん。 現在は、こちらも大人気の福山雅治主演の大河ドラマ「龍馬伝」の演出をしている、ということで、まぁ、最注目の才能、という感じでしょうか。
映像表現のすべての基本はリアリティー。 フィクションという大きなウソをつくには、画面に映る隅々まで、きちんと真面目に小さなウソを積み重ねないと。
福山さんと(吉田東洋役の)田中泯さんが同じ画面の中で芝居をすることにゾクゾクしていますが、お客さんが「田中泯すごい」と同時に、「福山もすごい」と反応しているのが分かります。普通の役者では出せない「真情」を福山さんが表すんです。 (「真情」とは)ウソのない感情と言ってもいいかもしれません。役者の演技に一番邪魔なのが、例えば「こう撮られたらカッコいい」といった自意識です。自意識から離れた、芝居と芝居の合間にふと見せる生の表情、手や指のしぐさも含めて醸し出すニュアンス、そういったものをどう拾えるかが演出の勝負だと思っています。 役者さんに「こっち向いて、あっち動いて、目線はここに」と決めておくテレビドラマのオーソドックスな「カット割り」の演出では、真情を拾うのは難しい。長いシーンになればなるほど、一連の長い演技の中で、本人も想定しない予想外の感情が生々しく出てきたりする。そこにリアリティーがある。演技を超え、福山雅治と龍馬が完全に重なっていく瞬間、というのでしょうか。
「役者の演技に一番邪魔なのが、自意識です」と。 ずばり、ですよね。 ところが、「自意識でパンパン」な人こそが、俳優=人に自分の姿を見せる、という職業を志す、という矛盾があって。 なかなかね、と。 まぁ、俺の話はいいですね。 「真情」。 それを拾っていくのが演出の勝負だ、と。 なるほどねぇ。 役者の「真情」を引き出すだけじゃダメなんですね。 それを、技術的に「どう拾えるか」と。 うん。 とか言いながら、「ハゲタカ」観たことないんです…。 

2010年7月14日水曜日

「ソウルパワー」を観る

吉祥寺のバウスシアターで、「ソウルパワー」を観る。

いやぁ。 素晴らしかった!

 SOUL POWER!

 実は、もう10年越しぐらいのアレなワケですよ!

 待望の劇場公開だったワケです。
 実は、この作品は、かなり有名な姉妹作があるんですね。 
 この作品は、「ザイール74」という音楽フェスティバルを追ったドキュメンタリーなワケですが、主要な登場人物の中に、モハメド・アリが登場します。 ボクサーの。 
 なぜか。 「ザイール74」は、そもそもが、ドン・キングという(のちの悪名高き、ということになるワケですが)黒人のプロモーターが、アリvsジョージ・フォアマンのボクシングヘビー級タイトルマッチと併せて企画した“祭典”だったんですね。
 「Rumble in the Jungle」とキングが名づけたその一戦は、のちに「キンシャサの奇跡」と呼ばれるんですが(周知のとおり、アリが勝つ)、このタイトルマッチが、「モハメド・アリ かけがえのない日々」というドキュメンタリー映画として遺されているんです。 
 もう10年以上前に、この作品を、渋谷のシネマライズで観たワケですねぇ。 
(あの頃のシネマライズの上映ラインナップは、もうホントにエッジが効いてて、ずいぶん通ったことを覚えてます) 
 当時から、当然“音楽祭”の方を収めた映画がある、ということは知ってたんですが、それがこの「ソウルパワー」だったワケですね。 

 まーねー。
 個人的な思い入れみたいなのは、この辺に留めておいて、作品について背景を軽く説明しておくと、まず、この“大イベント”が行われたのは、イベントのタイトルにも掲げられているように、1974年。 
アメリカでは、公民権運動を経て、黒人たちの政治意識が最高潮に高まっていた時期です。 

 というより、そもそも「なぜアメリカの黒人たちがザイールに大挙してやってきたのか」という部分の説明が必要かもしれませんね。 

 公民権運動(と、呼ばれる人種差別への抗議運動)の盛り上がりの中で、その中の一つの潮流として、黒人たちの“故郷”であるアフリカに帰ろう、という動きがあったんです。 
実際に帰る、ということとは違って、要するに「精神的なつながりを意識しよう」という運動だったワケですが。 アフリカを、マザーランド(mother land)、つまり母国、母なる大陸と呼んだりして、自分たちのルーツを確認しよう、ということが盛んに言われていた、と。 
 そういう背景があるんですね。 
 で。 祭典を催す、と。 
その様子が、断片的になんですが、この作品に遺されている、と。 
 ともかく、熱量がハンパないですよね。 

 冒頭、キングのスピットとアリのチャント(合いの手)。 そこから、赤ん坊の泣き声につながっていくんです。 そして、そこに「母性賛歌」のバラッドが被せられる、という。そういうオープニングなんですけど。 
 言葉、泣き声、そして、鼓動(ハートビート)。自分の鼓動と、その胸に抱かれている母親の鼓動とのポリリズム。 音楽の根源がそこにあり、そして、物理的な「ルーツ」としてのアフリカ大陸。母国。マザーランド。 
 そういうことなワケですよ。 

 マヌー・ディバンゴが、路地で、野次馬に手拍子をさせて、そこで“セッション”を始める、という強烈なインサートがあったりして。 

 彼らが感じている“解放感”と“高揚感”ですね。 
 作品の中で、登場人物の一人が「ここにいると落ち着く」と言うワケです。
アフリカ大陸で、同じ肌の色の人間に囲まれている、というシチュエーションに、居心地のよさを感じる、と。 
 当時、彼らが暮らすアメリカ国内では、マイノリティーとして、白人たちの“悪意”に囲まれて生活していたワケです。 そういう緊張感から解放されている、という。 
 また、彼らミュージシャンたちが、見事な言葉を語るワケですよねぇ。 それぞれが、それぞれの言葉で。
 マルコムXの影響を受け、イスラム教に改宗した、という経緯を持つモハメド・アリは(アリは、改名もしています。カシアス・クレイという名前だったのを、改宗を機に、預言者にちなんだ名前に改名している)、当然、反キリスト教徒という立場で言葉を語ってますし(というか、一番喋るのが、アリ)、他のミュージシャンたちも、繰り返し繰り返し、「黒人たちは連帯しなければならない」といったことや、「アフリカに帰ってこれて嬉しい」というようなことを語ります。 
 彼らの言葉がねぇ。 
素晴らしいですよね。ひとつひとつが。 

 それから、なにより、パフォーマンス。 
 とにかく素晴らしい。 
 ソウルの、スピナーズ(このダンスのフットワーク! 最高!)。
ブルーズのキング、B.B.キング。
ラテンの、ファニア・オールスターズ。 
そしてなにより、ファンクの帝王、ジェイムズ・ブラウン。
 アメリカからだけでなく、アフリカ大陸のミュージシャンも、ズラッと。 
 どれもこれも、強烈なリズム! 
 リズムに熱狂する観衆たち!
 そして、熱くリズムを叩くミュージシャンたち。 
リズムという音波に弾かれるように躍動するダンサーたち。
 最高ですよ。 

 個人的に、ベストパフォーマンスだと思ったのは、実はファニア・オールスターズで、パフォーマンスを観るのが初めて、というのもあったんだけど、その、ラテンビートの“ルーツ”も、ファンクやブルーズやソウルと同じくアフリカ大陸にあるんだ、ということが、かなり強烈に示されているな、と。 
 あと、交差点の歩道のところで演奏しているバンド。 このバンドは、かなりクールだった。 ひょっとしたら名前のある人たちかもしれないんですが、俺はちょっと分かりませんでした。
クールだったけどね。 
 まぁ、そんなこんなですよねぇ。 語り尽くせない。 

 その、「映画作品」としては、妙な“粗”みたいなのもあったりするワケですけどね。 
前半部分、プロジェクトが計画どおり進んでいかない、という描写があるワケです。白人の眼鏡をかけた投資家、という人物が、ずっと苛立った顔をしてて。 
 その人物は、結局、最後の方はまったく出てこなくて。 
ライブの音の洪水の前に、どっかに消えてしまっている。 まぁ、映画としては、そういうのは、ね。 ダメなワケですけど。 
 どこかでちゃんと「ちゃんちゃん」という部分を見せないといけない。 
最後に見せないなら、最初から出さない、ということじゃないといけない。 
 そういうのは、ありません。 

 まぁでも、いいでしょ。 キンシャサで踊り狂うJBが拝める、というだけで、すでに十分すぎる価値があるワケですから。 
 うん。 

 ちなみに、これは諸々書きにくいことですが、この作品の舞台になるザイールは、実は政治的にはこの頃から既に腐敗していて、この後もずっと、長く暗い独裁政治が続くことになります(体制の主は変わりましたが、“独裁”という状況は現在でもあまり変わりません)。 
 もちろん、当時あった南アフリカのアパルトヘイトは、のちに制度としては撤廃されました。 ただ、アフリカでも、そして、アメリカでも、黒人たちの“貧困”という問題は、まったくと言っていい程、解決はされていません。 
 この辺りがねぇ。 
 ちょっと、ね。 複雑なんですが、逆に、グッときたりして。 
 まだ続いているんだ、という、ね。 JBが、最後にカメラに向かって言うメッセージがあって、それはまだ終わってないんだ、と。 そういうことなんですよ。 うん。 

 ソウルパワー。
 素晴らしい作品でした。 

2010年6月10日木曜日

橋本忍伝承脚本術

新聞に、シナリオライターたちをめぐる、みたいな感じの連載コラムが載ってまして。 ま、連載自体はあんまり面白くなかったんですが、橋本忍さんの回は、かなり良かったので、ここに、個人的なアーカイブという意味も込めて、抜き書きですが、残しておきたいな、と。
橋本邸で連日向き合った山田洋次に、橋本忍は言った。 「人間の集中力はそんなに続かない。シナリオをイメージする時間は数分間だろう。一休みし、また集中する。原稿用紙をニラんで他のことを考えるのはいい。だけど鉛筆だけは離さない方がいい」 才能は要らない、忍耐力だ、と橋本は言った。山田は眠たくなっても鉛筆を離せなくなった。
これは、書くときの心構えの話ですね。弟子である山田洋次に、こう言った、と。 「だけど鉛筆だけは離さない方がいい」 そして、次は、どう書くかという内容についてのアドバイス。
橋本直伝の脚本のコツに「順番とリズム」がある。一つひとつのシーンをどうつなげていくか。正しい順番がある、と中島丈博は叩き込まれた。 等間隔ではいけない。トン、トンと重ねたら、観客が思う次のシーンより先へ飛ぶ。トン、トン、バーンだ。飛び過ぎるとついてこない。どこまで飛ぶか、数式では計れない─。
順番とリズム。 なるほど。。。 「トン、トンと重ねたら、観客が思う次のシーンより先にへ飛ぶ」 トン、トン、バーン。 これは、シーンごとの話なんだ、と。 順番か。。。 ちょっと意識して書いてみよう、と、こういうアレには極めて安直な人間である俺は、思ったのでした。 

2010年6月8日火曜日

「ワンダーボーイズ」を観る

月曜日の映画天国で、意外にオールスターキャストだった、「ワンダーボーイズ」を観る。

監督はカーティス・ハンソンってことで、これも意外ですが、面白かったです。


とりあえずメインキャストをザッと並べてみると、マイケル・ダグラス、トビー・マグワイア、フランシス・マクドーマンド、ロバート・ダウニー・Jr、ケイティ・ホームズ、と。

マイケル・ダグラスといえば、名作「トラフィック」での共演で、“絶世の美女”を実際に娶った、という“豪傑”なワケですが、この作品では、スランプに陥っている作家を、いい感じのくたびれ具合で好演。
ダウニーJrは、ゲイの編集者で、トビーに惚れちゃう、という。
「ファーゴ」の署長さんだった彼女は、今回は大学の学長さん。というより、マイケル・ダグラスの不倫相手で、しかも、相手を振り回す役どころ。
ケイティ・ホームズは、まぁ、超キュートなんですが、主人公のマイケル・ダグラスを、これまた誘惑しようしたり、振り回したり、という。


というか、こう書いただけで、なんだか楽しそうな雰囲気かもしれません。
タイトルの“ボーイズ”は、主人公以下の「アホな、子供みたいな男たち」ぐらいの意味ですかねぇ。


アメリカの映画の、こういう、いわゆる文芸作品みたいなジャンルの作品で、実は、けっこうこの「作家」という職業が登場するんですよねぇ。
たいていの場合、なんかの事情があって、書けない(スランプ)。
で、“相棒”として、編集者が出てくる。
あと、「作家」は、やたらモテる、という。


この作品も、そういう“定形”みたいなのは、しっかり踏襲してます。


う~ん。


面白さをどういう風に書いたらいいんですかね~。
ちょっと悩みますが。。。


まず、シナリオの、プロットがちゃんと練られてあって、文芸系にありがちな「ボーッとした感じ」じゃないんですね。結構、動く。
構造とか要素だけ抜き出したら、いわゆる普通のコメディみたいな感じなのかもしれません。

ただ、そういう空間に、「文学の世界に生きるキャラクター」たちが入れ込まれていることで、ちょっと違う雰囲気が薫ってくる、という。

舞台が、大学のキャンパスとその周辺の街、ということになっていて、これもいい感じに機能しているのかもしれませんね。
東部(ピッツバーグ)で、雪が積もっている季節。


あと、やっぱり、俳優陣の演技が良い。
演技っていうか、雰囲気ですかね。
ちゃんとみんな、キャラクターになってる。生きている、というか。
これはホントに、演出サイドの腕なんだと思います。


う~ん。


とにかく“雰囲気”がいいんだよな~。
それに尽きるのかもしれないなぁ。

よく練られたシナリオ。キャラクターを生きている俳優陣。
スクリーンに雰囲気を作ることに成功している演出。

そういうことなのかなぁ。。。


他に巧い言葉が見つからないんだけど。。。


まぁ。。。
結末としては、作家は書けるようになり、作家志望のトビーは夢を掴みかけ、ゲイの編集者は仕事の行き詰まりが解消され、愛情は回復し、ケイティは超キュートのまま…。

これも、定形っちゃ定形なワケです。大円団。


そして、これがニクいんですが、最後の最後に、PCが出てくるんですね。そこで「save」と。データのセーブ。
そこまでは、ずっと、タイプライターなんですよ。

ラストで、「新しい生活」が、愛情とともに始まっていて、それを「save」する、という。
これ、捉えようによってはかなりダサいんですけど、でも、いいワケです。
最後の最後に、グッとくる。

映画全編を通して浸っていた「いい雰囲気の空気感」が、ラストに、「いい感じ」で締められる、という。
これはこれで、かなり幸福な映画体験だと思うワケです。
何も、カタルシスだけが映画じゃないハズですから。



うん。



こういう作品を、こういうオールスター級のキャストで撮れる、というのが、まぁ、映画産業の懐の深さ、というんでしょうかね。
豊穣さ。
素晴らしいと思います。ホントに。



2010年6月7日月曜日

「ザ・プロフェッショナル」を観る

TBSのダイアモンドシアターで、ジーン・ハックマンの「ザ・プロフェッショナル」を観る。 原題は「heist」ってことで、意味は「強盗」だそうです。 タイトルの通り、プロの押し込み強盗の話。 まぁ、面白かったんですけどねー。 とりあえず、オープニングが超カッコいいです。 宝石店に強盗に入るんだけど、その手前、カフェから始まるんですね。 これが超クール。 このシーンで登場する女の人がもっともっと活躍すんのかな、なんて思ってたら、思ってた程ではなかったですね。 いや、活躍はしてるんですが、なんていうか、“いい感じ”じゃないんですよねぇ。彼女の良さというか魅力みたいなのが引き出されてる演出ではないっス。 というかですねー。 そもそも、主人公がジーン・ハックマンじゃなくてもいい、というかねぇ。 他のキャラクターもそうなんですが、あんまり“ハマってない”気がするんですよねぇ。 この作品は、シナリオが凄い練ってあって、ディテールもそうだし、プロットも何度も“裏返し”があって、とても巧いんですが、キャラクターたちがどうもイマイチ。 なんつかーねー。 陰影がないっていうか。 もちろん、クライムストーリーなワケで、そんな“人生の陰影”みたいなのは描く必要はない、という“筋論”もあるかとは思うんですが、それなら、別にハックマンじゃなくてもいいんじゃねーの、と。 もうちょっと若い人をキャスティングして、もうちょっとスピード感を、ね。 動きのある画、というか。 もちろん、ジーン・ハックマンみたいな大御所を据えて、「年寄りが引退を賭けて焦っている」みたいなニュアンスは、一応シナリオの中にも盛り込まれてはいるんですが、なんかねー。 微妙に中途半端。 ちょっと弱いんですよね。 別に、他の動機でも十分成立する話だと思うし。 実際の犯行のシークエンスとか、すげー面白んだよなー。 なるべくカネを掛けないようにして、でもちゃんと「航空貨物便の強奪」として撮れてるし、そこら辺は凄い上手なんだけど。 そういう部分は、ディテールもちゃんと作り込んであって。 その、“ディテール”っていうのは、プロットの部分、ですね。シナリオの、紙の上の部分の話。 画の質感は安っぽくって、B級感が滲んじゃってるんだけど。 だから、なんか勿体ないなー、なんて。 若い俳優さんで、もっとカメラを動かして撮れれば、もっともっと「こういう作品を観てほしい層」にちゃんと届いたんじゃないかなぁ、なんて。 どうも、そこら辺がしっくり来てない感じがするんだよなー。 どうもなー、と。 そういう作品でした。 面白かったけどね。 

2010年6月6日日曜日

姜尚中さんの書評より

新聞の書評欄に載っていた、姜尚中さんの書評。 韓国映画について書かれた「韓国映画史」という本の書評です(姜さんが書かれた本じゃありません。韓国で出版されて、それを翻訳した本について、姜が書評を書いて紹介している)。
それにしても、韓国映画はどのジャンルであっても、なぜこうもメロドラマ的な哀調を帯びているのか。私の中にずっとくすぶり続けてきた疑問だ。だが、それも本書を読んで氷解した。メロドラマ的な感傷は、植民地と内戦、分断と軍政という、過酷なまでの歴史によって強いられた二律背反的な感情の発露だったのだ。 他律的であるしかない主体が世界に対して抱く無力感と混乱、葛藤と煩悶。 ただし、そのような感傷的な悲哀の情は、他方では、現実を直視する力強いリアリズムの精神を形影相伴っている。その精神は、今でも、若手監督の作品を含む実に多くの作品に流れているのである。
「メロドラマ的な哀調」に「現実を直視するリアリズム」が同居している。 というより、むしろ、リアリズムが「メロドラマ」をより強固にしている、というか。 日本での「オタク文化」を研究の対象(あるいは、ベース)にしている大塚英志さんや東浩紀さんの本を読むと、特にマンガ・アニメ(及び、その近接ジャンルであるゲームやライトノベルその他)の“想像力”について書かれていたりするワケです。 そういう日本の“想像力”は、日本の社会の成り立ちや内包している歴史に因っている、ということが書かれていたりするワケですが、姜さんによれば、韓国の“想像力”も、やはり韓国の社会の成り立ちや歴史に因っているんだろう、と。 まぁ、アニメその他の通奏低音である「肥大化した自意識」も、やはり日本という社会の産物であり、というか…。 いや、話が逸れてますね。 韓国映画が持つ「メロドラマ的な哀調」について。 なるほどな、と。 メロドラマ的哀調、か。 確かに、もう今の日本の“想像力”からは、生まれてこないモノなのかもしれませんね。 そして、だからこそ、今の日本には韓国映画を受容するマーケットがある。 特に「泣き」についての「リアリズム」ですよね。 日本だと、「泣き」をプッシュしようとすると、どうしても“ファンタジー”の方向に飛躍してしまう。 それを容認する“想像力”が、作り手にも受け手にもあって、まぁ、それが心地よかったりするワケで、だからこそそういう作品が量産されるワケですが。 逆に、「リアリズム」に振ろうとすると、日本では、そこに「哀調」が同居しない。 “乾いたタッチ”になっちゃう、と。「それこそがリアリズムである」みたいな、ね。 例えば、是枝さんみたいな監督は、妙に湿ったリアリズム、というのを作り出すことが出来るワケですけど。 そっかー。 メロドラマ、ね。 メロドラマって、物語の大きさでいうと、ちょうど中間ぐらいの大きさなんだよね。 “国家”とか“戦争”とか、そういう、スケールの大きい話。 “愛”とか“恋”とか、“死”とか、個人個人の心の中の話という、小さな話。 その、ちょうど中間ぐらいの話。 “家”とか、ね。 “家族”。“組織と個人”とか。 う~ん。 まぁ、俺なりに分析しようとしてもぜんぜん進まない、という所が、なんていうか、ある限界を示しちゃってるのかなぁ。。。 なんつって。 まとまらない話を長々と書いてもしょうがないので、この辺で。 でわ。 



2010年6月5日土曜日

「断絶」を観る

邦題よりも“断然”原題「Two-Lane,Blacktop」の方がクールな、「断絶」を観る。

まぁ、ニューシネマ期の名作、ということでいいんですかね。

改めて、ということなんですが、作品については特に改めて感想っつーのもないかなー。


どうなんでしょうか。


もちろん、個人的には凄い好きな作品で、要するに、この「ぼんやりとした絶望」をぼんやりと描く、と。
個人的にも、こういう作品を自分で作る、ということに凄い憧れるワケですが、同時に、「この手の作風に憧れることの罠」みたいなのも、この時代に生きている限り、もうイヤというほど知ってるワケですね。

逆に、だからこそ憧れるワケですけどね。


う~ん。


こういう作品を観ると、“展開”とか“構造”とか、あるいは“テーマ”とか、そういうのに囚われているんだよなぁ、ということを感じるワケですよねぇ。
受け手も作り手も。


なんていうか、「作品を作る」という行為が何を拠り所にして進んでいくか、という問題だと思うワケです。
「映画を製作する」というプロジェクト自体が、どこを目標に進んでいくか。その目標というのは、作品に“根拠”を持たせることで獲得するワケです。

五里霧中の中を、スタッフ・キャスト(と、日々費やされる予算)と一緒に進んでいく、ということは、これはとても困難なワケですよね。
その、プロジェクト全体の設計図となるのが、シナリオなワケですが、プロジェクトを強化するためには、脚本を明確にしていくことが必要なワケです。
一概に「売るため」じゃないんですね。「わかりやすい脚本」というのは。


「明確な脚本」に因ってプロジェクトを進んでいくのと、もう一つある方法論は、監督が無理やり周囲を納得させながら作っていく、ということですね。
アート系作品は、だいたい、この方法論。(監督じゃなくて、プロデューサーとか、主演俳優とか、そういう人の場合もありますけど)

この作品は、いわゆる「アート系」ではありませんが、しかし、そういう方法論の、最高峰、ということですね。
「断絶」という作品は。


あくまで個人的なアレですが、俺は「イージーライダー」よりもこっちが好きです。
女の子の最後の感じがあんまり好きじゃないんですが、エンディングもいいし。

あと、この作品は色のタッチが好きなんです。ただ自然に撮ってるだけなんでしょうけど。
西部から東に進んでいくにつれて、道の回りの風景が平原から森の中に移り変わっていく感じとか。町の雰囲気も変わるしね。



まぁ、いいですよねぇ。
名作だと思います。



う~ん。


こういう作品が好きなくせに、俺が自分の車を持ってない(というより、免許すらもってない)、というのは、なんていうか、映画を志す人間としては、結構な欠陥なんだよなー。。。



2010年6月3日木曜日

「ウォッチメン」を観る

公開当初、各方面で話題になっていた「ウォッチメン」を、DVDを借りてきて観る。


いやぁ~。
なんて書けばいいのか、ぜんぜん分からない作品でしたが、まぁ、観ました。



とりあえず、実は個人的には、公開に合わせて出版されていた原作コミック(の、日本語翻訳版)を買ってたんですね。(アメコミ、結構好きなんです)
ワリと高くて、何げに勇気がいる買い物でしたが。


で。
その、「原作込みで」ということならば、これはもう素晴らしい作品だと思うワケですよ。
こんな難解な、長大な(普通に、物理的に、話が長い)コミック作品を、よくもまぁ、映画という表現形態で表現しきったな、と。
これはホントに、凄い。

冒頭の、世界観の部分を一挙に説明してしまうシークエンスとか、ホントに最高だと思うんです。あの曲と何分かの映像で、観てる側を一気に持っていく、ということでは。

キャラクターの雰囲気も、もうすべてのキャラクターが完璧に近いし(フクロウ型のマシンもね)。



ただ。
原作抜きで観たらどうなんだ、と。
コレは、相当大変だと思うんだよなぁ。



例えば、“重み”は全然違いますが、これって「キン肉マンの実写版」なワケですよ。
しかも、「王位争奪編」だけの。


アメコミっていう言うぐらいですから、アメリカでは、それこそ“古典”かもしれませんが、俺らにとっては、ね。なかなかそう簡単にはいかないワケで。


まず、「マスクを被ったヒーローたちが活躍する」というバックボーンがあるワケです。アメコミには。
その上で、それをメタフィクション化してるワケですよね。「そういうヒーローたちが現実にいる世界」という虚構がまず提示され、そのうえで、という構造になってる。

俺としては、原作コミックと、その中で読める膨大な量の解説と付記とがあって始めて、何となく理解できる世界観なワケですよ。


ヒーローが現実にいたとして、なおかつ、彼らの活動が非合法化されている、という世界。
しかも、“現実に”、正真正銘の“超人”が一人だけ存在している、ということになっているワケですね。放射線実験の失敗によって誕生してしまった、全身真っ青で全裸の男が。
しかも、ヒーローたちには、二つの世代があって、その関係性というのが設定されているワケです。(原作では、映画よりももうちょっと、この関係性が生む葛藤みたいなのが多く語られて、もっとややこしくなってます。映画では、描かれているのは、ほぼ、母と娘の衝突だけになってますが)


とにかく、そういう世界観とか諸々の表現、というのは、完全に成功してるワケですよねー。
凄い。ホントに。


だけど、と。
現代にそれを為す、という意味とか、それこそ、現代性とか、そういうトコは、疑問。
テーマというか、結末というか、メッセージというか、そういうのもちょっとぼんやりしちゃってる印象なんですよねぇ。
「で、なに?」というか。


こういう結末とか話の筋っていうのは、俺らは、それこそ「鉄腕アトム」の時代から、もうずっと消費し続けてるワケです。
お馴染みなワケですよ。

アメリカの、(原作が発表された)あの時代に、という意味性やそのインパクトということで言うと、「どうっスか?」と。

「やってみた」だけじゃねーの、というか。


う~ん。

だから、面白いっちゃ面白いんですけどね。
でもね、と。
「よくできてる」ってだけじゃ、それこそアラン・ムーアも納得しないんじゃねーのかなー。



と。
結論としては、そういう感じなんですよねー。


他に言葉が見つからない、というか。
原作のことを書いてもしょうがないしねー。




というワケで、この辺で。
でわ。



2010年6月2日水曜日

理論家、三宅裕司。

宇多丸さんのラジオ番組に、なんと、三宅裕司さんが出演してまして。


「お笑い論」をテーマに、かなり濃密なトークを繰り広げていました。
いわゆる“お笑い”というジャンルだけでなく、もっと広い「表現論」としても刺激的な内容だったんじゃないか、と。

前編
後編

三宅裕司っていう人は、この“業界”でも屈指の理論家でもあって、普段はそういう面を(俺が知る限りでは)殆ど見せないんですが、まぁ、肉薄する宇多丸さんに応えて、かなり突っ込んだ話をしてますよねぇ。

ざっとキーワードだけ並べてしまうと…


「素に戻って突っ込む稽古」
「殴ると思ったら殴んないのかよ」というリアクション
アドリブだと感じると、お客さんが喜ぶ。
しかし、それを再現しようとすると、絶対に、スベる。お客さんには伝わってしまう。
誰でもできるワケじゃない。
重く見せるのは、簡単。稽古をすれば良い。芝居がうまくなる。重くなる。
コメディは、重くなってはダメ。「いま起きているように」演じる。
「ストーリーの設定」・・・物語。
緊張感をチャージする装置としての物語(ストーリーの設定)。
役者がもともと持っているモノを発見して、それを「ストーリーの設定」の中に入れ込んであげる。
「見つけてあげる」「設定に入れ込んであげる」「押し込む」。
間=緊張感をチャージするための時間 「息を吸わせる時間」
落とす=吐く 「笑い=一度に息を吐く時間」
緊張感→思ってもいない展開、落差。落ち。
「ちゃんとした作りモン」
大勢で一緒に笑う、という体験。相乗効果で、面白いことがもっと面白くなる。
「そこに持っていくまでの設定」話の流れ。ストーリー。


という感じでしょうかね。ま、ぜひ聴いてみて下さい。前後半合わせて、たっぷり一時間っス。



あと、三宅さんっていうのは、「理論家なんだけど落語家にならなかった演者」という意味でも、稀有な存在、というか。

この人は、音楽もやるし(実際にジャズのビッグバンドを率いている。パートはドラム)、映画も詳しいし、なにより、本人自身のセンスもすごくって(あと、“笑い”の腕力も)、そういう、「理論」だけじゃない部分が、ね。
劇団・一座を率いて“笑い”という頂点に導いていく能力(リーダーシップ? カリスマ性?)も含めて。
耳を傾ける価値がある人物の一人だと思います。



興味深いのが、タカ&トシについて。
志村けんがタカトシを評価してるワケです。自分の番組で横に置いたりして。

三宅裕司も、タカトシを自分の手元に招いていた時期があった、と。

となると、俺らは、タカトシの“佇まい”を通して、志村けんや三宅裕司の“思想”みたいなのを垣間見ることができる、というか。



まぁ、永久保存版としたいっス。

2010年4月26日月曜日

「第9地区」を観る

週末に、新装してから実は始めて行った新宿ピカデリーで(すげー綺麗だった)、「第9地区」を観る。


いやー。
どう書こうか正直悩んでしまいまして。

実は、うっかり、宇多丸さんのシネマハスラーのこの作品のレビューを聴いてしまいまして。
普段は、影響されちゃうんで(されやすいんです。ハイ)、ポッドキャストでも“いい作品”の時は敢えて聴かない、という姿勢でやってきたんですが、うっかり聴いちゃったんですよねー。
作品を観た後、なおかつ、自分の感想をここに書く前に。


まぁとにかく、いい作品だった、と。
それは間違いないっす。

で、「どう良いのか」と。


俺なりの感想というのがですねー。宇多丸さんのレビューに影響されちゃってですねー。
なかなかスッと書き出せません。

ので、良い作品だったワリにはやや低体温な感じになっちゃいますが、そこら辺の前提を踏まえていただいて、ということで。



まずは、練りに練られた構成、というトコですよね。
伏線、というか、「作品世界の背景を説明している」ように受け取っていた部分がとても巧くストーリー上の伏線として機能していたりとか、その伏線が見事に回収されていく、とか、とにかく、ストーリーやプロットの練り方が素晴らしいです。
単なる「荒唐無稽なSF」ではない、なんていう常套文句がありますが、なんていうか、この作品に関しては、この“練り具合”にも、ちゃんと、この手の賞賛の言葉が使われる必要があるのだ、と。
そこがまず一点、ですね。

まず、冒頭の「ドキュメンタリー形式」の部分。
ここで、各々のインタビューの途中で「実は、既に“事件”が起きたあとで、このインタビューはそれを振り返っている」ということが分かるんですね。
そうやって、短いスパンでの"フック”で、まず「おっ?」なんてことになるんです。
まず、掴む。

そういう部分がねー。
いちいち上手ですよ。

宇宙人の姿をちゃんとは見せない、というのもそうだし、見せても、なんか動きがぎこちなかったりして、とにかく「変な感じ」というか「不快な感じ」でずっと見せていって、後半部分では、そういうのが無くなっている。

この、技術的な"フック”が、ちゃんとシナリオとかプロットとかと結びついているんですね。ただ「やれることをやってみました」とか「ここまでしかできませんでした」ということではなく、作品のメッセージやテーマに対して、カメラやギミックが寄り添っている。
個人的に好きな言葉を使えば、フィードバックされているんです。視覚効果が、明確に、プロットを補強する役割を務めている。
これはですねー。
難しいんですよ。
簡単そうで、なかなか出来ない。

ここが「すげー練ってある」というトコですね。
どう作ったら「テーマが伝わるか」というテーゼに対して、この作品を構成するありとあらゆる要素が貢献している、というか。
貢献している、というか、機能している、ということですね。

やっぱり、「映画は総合芸術」なワケで、いろいろな要素で成り立っている映画の、その要素それぞれが、作品本体のテーマに対して、強力に作用している。

これはやっぱり、凄いです。



あとは、なんていうか、受け手に要求されている「リテラシー」というか「事前知識」が幅広い、という所もポイントかもしれません。
観る側が、自分の頭の中にあるいろいろなアンテナを刺激される、というか。
特に、映画のような「成熟した表現」の世界では、この、「いろんなモノを使って受容する」ことの"快感”っていうのがあると思うんですよね。
自分が持っている「知識の引き出し」や「感性のアンテナ」の、いろいろな引き出しが引き出され、いろんなアンテナに受信してしまう、という。



まー、あとはなんですかねー。


作品のテーマとしてまずあるのは、「加害者としての人類」というところですよね。これは、当然「アバター」と同じなワケですが、こちらの作品の方がより踏み込んで、「劣悪な種族としての人類」ということを描いていますよね。

人類と宇宙人との関係性において、最後の最後まで、宇宙人のために動く人類、というのは存在しないワケです。この作品では。
とにかく人間たちは、私欲で動き、徹底的に利己的であり、暴力的であり、無知であり無恥であり、なんていうか、「理性的でない」ワケです。

この作品において、知性や理性を携えて振る舞うのは、エビの親子だけですからね。(もう1人(一匹?)、殺されちゃう黄と黒のエビがいますけど)

さらに、“愛情”についても、人間サイドではほとんど描写されません。唯一、主人公と奥さんとの間の愛情が描かれますが、エビの親子が持つ(と、描写される)"親子愛”は、描写されません。(一応説明しておくと、男女の愛は、より"利己的”な愛なワケですね。対して親子愛というのは、博愛じゃないですが、"無私”のモノではある、という違いがあります)

この「道徳的な差異」については、宇多丸さんも言ってましたが、観る側の我々をもそこに巻き込まれちゃう、ということが起きてるワケです。
前半部分、ホントにダメな宇宙人たちの姿が延々と描写されることで、彼らに銃を向ける人間たちに感情移入してしまう、という構造になってる。

そこから、後半、親子愛や知性・理性を発露しながら、エビの親子が動き始め、主客が、倒錯とまではいかないものの、ズレるワケですね。

で、「人類から追われる人間」と「人類から迫られるエビ」が共闘して、という展開になり、そこにカタルシスを発生させる、という。
そういう構造。


まー、でもねー。



とにかく、「差別する側の論理」の描写がエグいですよ。ホントに。
なんせ舞台は南アフリカ(ヨハネスブルグ。監督の出身地)ですからね。

当然、アパルトヘイトのメタファーとして受け取られるワケです。
同時に、アメリカの黒人差別や、ユダヤ人の迫害史、(逆に)パレスチナ人の現状、などなどのメタファーなワケですが、ここで、とにかく「何も考えていない人間」が差別に加担してるんだ、ということの描写が、ね。

前半の主人公の振る舞いの描写っていうのは、なんていうか、のちのちに教科書として使えるぐらいの感じかもしれませんよねー。


この点でポイントなのは、実は「名前」なんですね。
エビにつけられた名前。

人間風の名前がつけられているワケです。
この、「名前をつける」ということが"差別”であり"迫害”なワケです。エビにはエビの言語があり、そこでは、エビたちの名前があったハズなのに、それを奪って人間風の(しかも、いかにも白人風の)名前をつけて、それで呼ぶ、という。


なんていうかねー。
この「無知であることの暴力性」っていうんですかねー。

エグいっスよ。この辺は。



あと、最初のプロットの巧さについてですが、人間たちが、多国籍企業と黒人のギャングたちという、二つの勢力に分かれていて、その両方に追われる、という展開も上手だと思いました。
ジェットコースターみたいにハイテンポで進んでいくトコも。


作品の中で、主人公がとにかく落ち着かない人間で、まぁうるさいし落ち着きがないしって感じで、ホントに最低の人間なんですが、ま、このハイテンポのシナリオで撮るなら、そういうキャラクターになるのかなぁ、なんて。




それと、あの、エビたちの化学兵器ですが、あれはですねー。
知能の低いエビたちも使い方を知らない、ということなんですよねー。多分。
あるいは、価値を知らない、というか。

違うかな?



まぁ、他にも、この作品の凄さを語る言葉はいろいろあると思いますが、その、語り切れない部分も含めて、良い作品だな、と。
傑作!

2010年4月20日火曜日

「ハート・ロッカー」を観る

新宿武蔵野館で、ついに「ハート・ロッカー」を観る。


まぁ、見応えのある作品でしたねぇ。俺が観たのは、そんなに大きなスクリーンではなかったんですが、結構あのくらいがちょうど良かったのかもしれません。近めの席に座ったのも良かったのかな。
ま、アカデミー賞獲っただけのことはあるな、と。


で。

とりあえず先に書いておきたいポイントとしては、冷静になってよくよく考えてみると、なにげに粗とか“穴”みたいなのがあったりするんですよねぇ。
描き足りない部分があるような気もするし。

ただ、そんなことを感じさせない説得力とテンションが画にみなぎっている、という。

そういう、画の力とか演技の力でググッと持っていく、と。そういう作品ですよねぇ。とにかく。


とにかくまず挙げられるのが、カメラの“揺れ感“だと思うんですが、なんていうか、これってただ揺れてるだけなんですよねぇ。
例えば、カメラ自体がガンガン振り回されてる、とか、もう何が起きてるかさっぱり分からない、ということではない。

フィックスなんだけど、揺れている。揺れ感がある。

この塩梅みたいなのがとてもいいんだろうな、と。
画として、ちゃんと抑えるべきところは抑えている。踏まえるべきところは踏まえている、という。

すごい、良いと思いました。
クローズアップの多用も〝揺れ”と相まって効果的だと思うんですが、同時に、引いてる画もしっかりしている。
この塩梅もとても上手。

まぁ、実はメソッド通りといえばその通りの画なんですよ。実は。
でも、強い。
だから良い、と。

だから、「本物っぽい」とか「ホントっぽい」っていう形容詞が多いかと思うんですが、正確には「力強い」ですよね。
思い切って寄る。俳優の演技をしっかり撮る。シチュエーションをしっかり説明する。
そういう方法論で、緊迫感、緊張感を生み出していく、というか。

カットも、短く繋いでいくシークエンスがあれば、長いカットを繋いでくシークエンスもある。

なんていうか、そういう部分も含めて、非常に計算された作品である、ということですね。
傑作となるべくして撮られた作品、ということでしょうか。



それから、もう一つポイントとしてあるのは、徹底的に「敵の姿」を映さない、というテクニック。

これがですねぇ。
「周囲をテロリストに囲まれている」という兵士たちの心理状況に観る側を〝同化“させていて(させてしまっていて)、これも緊迫感を高めている。非常に効果的に。

これは、ここも実はメソッド通りといえばそうなんですが、例えばハリウッドでも、「正義の相対化」とともに、作品の中でもどうしても「敵の論理」に言及せざるをえない、ということが起きているワケですよね。
それを、多分監督としては「敢えて」ということだと思うんですが、要するに、描写しない。

まぁ、この部分を批判する向きもあるかとは思いますが、別に「戦争賛歌」とか「アメリカの正義」を謳うのが作品のテーマではないワケで、これはこれで、別に構わないんだと思います。この作品においては。



それから、音の部分に関して。
アカデミー賞でも音響部門の戴冠をしましたけど、まぁ、納得って感じですかねぇ。上空を飛ぶヘリコプターの音、とか。
ちなみに、兵士たちはヘリの音なんかが聞こえてもまったく反応してませんが、あれは、それが兵士たちにとっては日常の感じだからですね。別にヘリの音ぐらいじゃ見上げたりはしない、という。(例えば、これが「普通の田舎町」が舞台だったら、こうはいかないワケです。田舎の街に軍隊が駐留してくる、というストーリーでも、ヘリが頭上を飛んでいたら、その機影がなくちゃいけないし、地上の兵士たちもをそれを見上げなきゃいけない。でも、イラクの市街地では、そういうことがない、と。そういうことです)

変に“息遣い”を強調する、なんていう使い方ではない部分もポイント高いですよねぇ。
あとは、音自体が圧倒的に「ホンモノっぽい」感じがする。実際のところは分かりませんが、まぁ、そんな気がする、というだけで十分に成功してるワケで。


あと、上手だなぁ、と思ったのが、例えば「基地」なんかは全景が映されないワケですね。
これは、おそらく予算の関係だと思うんです。
結果的に、基地の内部でのシークエンスなんかは、画の力がやや弱かったりして、影響は見えるんですが、まぁ、そんなことは些細なことなワケですよねぇ。
とにかく「市街地」にカネをかけるんだ、と。

エキストラの使い方の巧さも含めて、おカネの使い方も上手だな、なんて。作品の鑑賞の仕方としては、ちょっと蛇足というか、邪道ですけどね。



あとはなんですかねー。

シナリオは、もちろん良いです。
突然(アメリカ国内での)スーパーマーケットのカットになって、そして、戻ってくる、という、結末部分に至る“抜き”の巧さも、まぁ、編集段階での判断なのかもしれませんが、グッときますよねぇ。
全部説明しませんよ、と。観る側に「想像力を働かせる余地」を残して、逆の言い方をすると、「観る側の想像力を発動させる」という感じ。


なんていうかねぇ。
こういうシナリオって、テーマも含めて、なかなか書けないですよ。
戦争とか戦場で、ということになると、どうしても「大きな話」を語る方向に引っ張られちゃいますからねぇ。気持ちが。
反戦、だとか、正義だとか、真実だとか。

でも、「戦場は麻薬である」という、ある意味では身も蓋もないテーマで、これだけ語り切ってしまう、というのは(しかも、わざわざそのためにスターとクルーを引き連れてヨルダンへロケに出かける、というのは)、出来ないっス。
作り手側によっぽどの熱量と技量がないと。


まぁ、だから、この作品の力(と、得ている評価)っていうのは、実はテーマじゃなくって、ホントに画とか音とか、そういう、なんていうか、ホントに映像の力で獲得してる、と。
そういうことなんですかねぇ。

確かに、映画史に残しておかなければならない作品ではあるよなぁ、と。
そういうショット/カット/シーン/シークエンスの連続ですからね。

個人的に一番良かったシークエンスは、なんといっても砂漠のスナイプの応酬。
アレはホントにヤバいでしょ。
"傭兵たち”の存在、姿の見えない敵、牧羊と線路に隠れている敵。そして、発射から着弾までの時間の感覚。
ヤバいっス。




映画製作・撮影における「フィジカルの復権」と。
CGの隆盛に対して、そういうことがずっと言われてきたワケですけど、そういう、「フィジカルな映画」の、現在のところのひとつの到達点でもあるのかな、なんて、ね。

奇しくも、元旦那が「アバター」を作ったワケですが、「アバター」では、戦闘においても、"分身”v.s."機械”、つまり、「アバターに自分の精神を宿らせている人間」対「機械に乗っている人間」の戦いだったワケですよねぇ。

それに対して、「ハート・ロッカー」では、「見えない敵」対「自分と仲間」という構図。

もちろん、これは優劣の話ではなく、あくまで「そういう構図である」という話なんですが。



う~ん。


まぁ、しかし、すげー作品だったな、と。
映画館(のスクリーンと音響)で観れて正解だったな、と。
そういう作品ですよね。間違いなく。



でも、アレだよね。
日本の自衛隊だって、イラクに派兵してるんだよねー。

日本でもこういう作品が作られなきゃダメだよねー。
なんていうか、こういう「マイルストーンになる作品」を果敢に作っていくことで、映画というジャンル自体が信頼を得る、ということになっていくワケで。

こういう作品の製作・流通に挑戦していくことで得られる"信頼”っていうがあると思うんですよ。
それが、ジャンル全体、映画産業全体への信頼感ってことだし、つまり、(産業全体の)商業的な安定感につながっていく、ということなんじゃないのかなー。


なんて、ね。



ま、いい作品でした。それは間違いないっス。



あ。
それから、顔見せ程度なんだけど、ガイ・ピアーズが好演してます。相変わらずいい存在感でした。



2010年4月18日日曜日

「800万の死にざま」を観る

シネマエキスプレスで、「800万の死にざま」を観る。

聞いたことのないタイトルでしたが、まぁ、いいタイトルではありますよね。
舞台はLA。
ロスの太陽光を浴びて、画は終始明るいタッチでしたが、内容は、なかなかいい感じのハードボイルドでした。
こういうのは、好きですね。

主人公は、元刑事の中年のオッサン。麻薬捜査担当の刑事だったんだけど、という設定で、この主人公が、アルコールが原因で職と家庭を失い、という〝転落“のサマが結構時間を割いて描写されます。
この辺はなにげに独特かもしれませんね。ストーリー本体に関係ないっちゃ関係ないし。


で、さらに、〝事件”に巻き込まれていく過程も、独特というか、適当ではないんだけど、やや「?」な感じ。
まぁ、別にこれはこれでいいんですけど。

で。
主人公が、なんだかワケが分からないまま、結構重大な事件(というか、殺人事件)に巻き込まれていく、という。


ポイントは、主人公に相対する〝犯罪者サイド”にキーパーソンが2人いる、というところ。
一人は黒人のピンプ(ポン引き)で、もう一人が、スパニッシュのドラッグディーラー。

で、このスパニッシュの犯罪者を、アンディ・ガルシアが演じてます。
この敵役の存在感がハンパないです。(というか、後半は、ほとんどこいつがストーリーを喰ってる)

主人公と2人の犯罪者という、その3人の中央に、殺されてしまった女の親友でもある売春婦がいる、という設定なんですが、こういう構図も、個人的には結構ツボ。
売春婦役の女優さんは、個人的にはタイプじゃないんですが、まぁ、この時代の作品にはよく登場してくるタイプの女性ですね。(ちなみに、演じているのは、ロザンナ・アークエット)


で。
なんだかよく分かんないまま(A・ガルシアの描写がずっと続く)、ストーリーが進んでいき、ピンプと組んだ主人公(ピンプの部下がヤバいっス!)が、アンディ・ガルシアに取引を持ちかける、という流れ。


そして、倉庫で主人公(&ピンプ)とアンディ・ガルシアが対決するんですが、このシークエンスはホントにヤバい。
テンションが漲ってます。たぎってます。
なんにもない、だだっ広いだけの倉庫の中、というシチュエーションで、役者陣の演技のテンションとカメラワーク/カットワークだけで押し切る、という演出なんですが、緊張感も狂気も、すごいです。マジで。

この前、ストーリーの中盤で、主人公のA・ガルシアが、駐車場で、かき氷を喰いながら話すというシーンもあるんですが、そういえばこのシーンもヤバかった。
A・ガルシアの部下がずっと目の前をウロウロしている、という演出。

この「ウロウロ」っていうのがホントに肝で、とにかく誰も落ち着いてない、という。そういう作品なんですよねぇ。

で、実は、その倉庫でのバトルがクライマックスじゃない、という、そこもよく分かんないんですが、そういう流れで、ミニ・ケーブルカーを舞台にした、やや無駄なシーンでクライマックス。
ただ、話の流れ上〝やや無駄”というだけで、カット自体の力強さは、このクライマックスシーンでも、かなりのモンです。
この画の強さは、多分に適役であるアンディ・ガルシアの存在感に依っている所が大きいと思うんですが、まぁ、そういう作品なんで、ということで。


ぶっちゃけ、このシナリオは、いいですよ。
粗が目立つだけに、"核”になってる部分の強さが光る、という感じで。



なんだろうなー。


誰もが、救われない現実、みたいな所に生きてるワケですよねぇ。
主人公も、ヒロインである売春婦も、殺されてしまう売春婦も、ピンプも、ドラッグディーラーも。ウロウロしてる部下たちも。

そういう、なんていうか、社会の底辺、人生の泥沼の中で、殺しあってしまう登場人物たち。
彼らの、哀しさ、ということですよね。
ブルースとしてのハードボイルド。


うん。



あ。
それから、オープニングの空撮のショットは、やたら格好いいです。
LAの市内をただ上空から撮ってるだけなんですけど、なんか斜めのアングルで、浮遊感というか、ふわふわしてるんです。
そういう導入から話に入っていく、という部分が成功してるかはちょっと微妙なんですが、このショット自体は、すごいクール。


ということで、B級ってことになるんでしょうが、お薦めの作品だと思います。




↑のアマゾンのリンクですが、DVDは売ってないみたいです。VHS! 惜しい!

2010年4月16日金曜日

「戦火の勇気」を観る

ミッドナイトアートシアターで、「戦火の勇気」を観る。


デンゼル・ワシントンとメグ・ライアンの共演、ということで、確か結構話題になってた記憶がある作品ですが、実は未見でした。
というワケで、湾岸戦争を題材にした、この作品。


というか、オールスターキャストですよねぇ。
とかいいつつ、実は、D・ワシントンとメグ・ライアンが同じ画の中に収まることがないので、"共演”ということではちょっと物足りない、というか、メグ・ライアンはあんま出てこないので、そこはやや不満。
基本的には、D・ワシントンの話。


で。

作品として、なんていうか、かなり引っかかったポイントが、ひとつありまして。

それは、常に回想で語られる、戦場となったイラクの岩山(そこに、メグ・ライアンたちが乗ったヘリが墜落する)が、さっぱりイラクに見えない、という点。

これは、実は奇妙な〝齟齬”で、つまり、俺自身も直接イラクの〝砂漠”だとか〝岩山“だとかを見知ってない癖に、つまり、俺自身もニュースの映像とかテレビとか映画で得た知識しかないんだけど、どうも、そういう"印象”と一致してない、という。

そこが、ね。

アメリカのどこかで撮ってる、という感じが見えちゃってるんですよねぇ。


これは、実は演出的に筋が通ってたりして、それは、つねに「回想シーン」なんだ、ということなんですね。
特に一番最初の回想では、メグ・ライアンの振る舞いにものすごい違和感がある。

この、俺自身が感じてしまった違和感というのは、作品を鑑賞している側が、その演技と演出に感じている、ということなんだけど、これはのちのち、「実はこの回想が虚構だった」というところに繋がっている、という。


…ということなんだけど、なんていうか、「別に繋がってないかも…」みたいに悩んじゃう感じもあったりして。

そこら辺の、意図的なのかそうでない(つまり、リアリズムの獲得という作業に失敗している)のかは、ちょっとはっきりとは分かりません。

なんか、全体的に、ちょっとわざとらしいんですよねー。
タッチが。

デンゼル・ワシントンの髪型とか。

理由ははっきりとは分からないんだけど、その、「作り物」としてちゃんと成立してない、というか。

なんかねー。

映像が安っぽい、というか。
テレビっぽいのかもしれないな。

あくまで個人的な印象なんで、はっきりとは言えない"感触”なんですが。


で。
映像のタッチは、そんな感じ。


良かったのは、ストーリーの作り、ですね。
それぞれの回想が食い違う、という〝売り”の部分には、個人的にはあんまりグッとはこなかったんですが、デンゼル・ワシントンが演じる主人公の"構造”は、なかなか面白かった。

軍人としての自分と、個人としての自分。家庭人としての自分。
そこら辺のコンクリフトが、「真実か否か」という、ストーリーを駆動する〝真相の究明”と上手に絡み合ってて、それは良かったです。

本人が抱える事件(これが、作品のオープニングに掲示される)と、客観的に関与する(真相究明を担う)事件が、なんていうか、ちょっとお互いに近すぎる、というのは、イマイチかも。

例えば、ベトナム戦争(作中でもたびたびセリフとしてこの言葉が発せられます)と現在進行形の"武力行使”とをリンクさせたのが、(確か)トミー・リー・ジョーンズの「英雄の条件」なワケですけど、そういう、シナリオの構造上の巧さ、というか、ね。

そういうのがあってもいい気がしましたが。

まぁ、これはズバリ「湾岸戦争」がテーマなワケで、これはこれでいいのかもしれません。



それから、共演陣はホントに素晴らしい。
メグ・ライアンは全然活躍しませんが、マット・デイモンはやっぱり良いです。激ヤセっぷりもすごいんですが、存在感が素晴らしい。

それから、個人的に大好きな、ルー・ダイアモンド・フィリップス。
筋肉ムキムキのボディもすごかったですが、彼と主人公の、ロッカールームで火花を散らすシーンは、最高ですね。
2人とも、グッと感情を抑えて堪えながらググッと相手に対して前に出て行く、という、まぁ、そういう演技が巧いんですよ。
その2人の激突、という。
良いです。

まぁ、この2人のシークエンスに一番価値があるかもな。実は。この作品は。


うん。


そんな感じっすかねー。


D・ワシントンはねー。

やっぱ、もうちょっと違うキャラクターなんだよねー。ハマるのは。

この役柄は、それこそシドニー・ポワチエのライン。
デンゼル・ワシントンは、ちょっと違うんだよね、と。

まぁ、そんな感想もありますけどね。




2010年4月10日土曜日

「ザ・インタープリター」を観る

ショーン・ペンとニコール・キッドマンの2大スター共演な、「ザ・インタープリター」を観る。

ちなみに、この作品のタイトルですが、勝手に「ザ・インタープリンター」と記憶してて、「インターなプリンター? なんだそれ?」と思ってたんですが、ま、勘違いですね。

通訳さん。

まず、2人のキャラクターがハマっててとてもいいですよねぇ。
他の、脇役陣は知らない人ばかりでしたが、なんていうか、リアリティ重視というか、説得力のあるキャスティングという感じで、演出面での力の込め具合が伝わってくる、という感じ。
ともかく、キャスティングの勝利って感じだと思います。

それから、「国際問題」を、上手にNYの〝市内マップ”の中に落とし込む、という、シナリオの巧さも感じました。
「アフリカの内戦」を巡るストーリーが、国連本部を抱えるニューヨークの市内で展開される、という、うっかりしたら完全に上滑っちゃうような構図なんですが、主人公2人の生活感の描写も含めて、すごい上手くできたシナリオだな、と。

同時に、主人公2人の個人的なストーリーにもちゃんと落とし込まれていて、それはそれで上手に成立してるし。

ま、あいかわらず、キッドマンはキレイ過ぎて、普通の通訳にはあんまり見えない、なんていうのもありますが。
それと、一つだけ気になったのが、そのキッドマンが演じる主人公の女性の過去が、写真で明かされるんですね。
ここが、ちょっと手抜きなイメージ。
過去を知る人物(それこそ、実の兄、とか)が現れて、とか、そんな風に展開していっても良かったかなぁ。


その、ホントに惜しいと思うんだけど、結構話を端折っちゃってるトコがあるんですよねぇ。
これ、多分興行上の都合で切った箇所がいくつかあるんだと思うんですけど(基本的に、時間の長い作品は興行面ではマイナス要素とされる)、ちょっとそこら辺が気になったりして。

話の構造上、S・ペンの家族とのエピソードとか、当然あったハズなんで。
あと10分か15分ぐらいあれば、それなりの厚みが出て良かったんじゃないかなぁ、なんて。

まぁ、俺が生意気に解説してもしょうがないんですが。



でも、「アフリカ内戦」が、市民にとっては生活の場である、ニューヨーク市内の路線バスに"輸入”されてしまう、というアイデアは、なにげに結構凄いんじゃないかなぁ、と思います。なかなか思いつかないし、その、国連本部を抱える「世界の首都」的な存在であるニューヨークならでは、というのもあるし。


それから、S・ペンは、こういう役柄って合うだよな、と。
悶々と延々と苦悩しつづける役どころもいいけど、なんか、もっとフィジカルっていうか、ね。
この作品みたいに、画に動きのある作品の中にこの人が立っている、という構図は、結構好きです。
ハマるし、やっぱり、作品に厚みとか奥行きが出てくる気がする。

実は、巧く出てきてはいるけど、この手のストーリーっていうのは、それこそスティーブン・セガールとかジャン・クロード・バンダムなんかの作品と似てるっちゃ似てるんだよねぇ。
でも、真ん中にショーン・ペンみたいな人が立ってると、ぜんぜん違ってくる。



そんな感じですかねー。
思ったよりも全然良い作品でした。

普通に、国連の中の様子ってこんな感じなんだなー、というのもあったしね。
観光客として、入り口のロビーのトコだけは入ったことがあるんですけど、でも、なかなか中の様子は伺えない世界ですからねー。

というワケで、その辺も含めて、良作でした。

2010年4月8日木曜日

「プレッジ」を観る

そういえば、この間TBSの深夜の映画で「プレッジ」を観たんだった、ということで、その感想でっす。 いやぁ、久々の作品レビューだ…。 書き方忘れちゃったなぁぁぁぁぁ。 えーっと…。 まず、監督はショーン・ペン、ですね。 まぁ、「監督としてのペン」という人物は、とにかく“人間のダークサイド”に踏み込んでいく、と。 これは、作品の中で登場させるキャラクターたちのダークサイドに踏み込んでいく、という意味と、同時に、受け手に対しても、かなり踏み込んでくるワケですよねぇ。 この人は、とにかく「善と悪にすっぱり二分されない」ということを語る人。 で、ポイントは、「世界は~」という語り口ではないところ。ソダーバーグの名作「トラフィック」なんかと違うのは、とにかく極私化していくワケですよねぇ。 「人間は、善と悪には二分化できないんだ」と。 「世界は~」じゃなくって、「人間は~」という話。 で、実は、この彼が掲げる“テーゼ”というのは、アメリカ(そして、ハリウッド)という地政学的な“特異点”じゃないと発動されない、という、なんていうか、すごく微妙な立ち位置にある、というか。 アンビバレント、というか、ね。 中学校や高校の校舎の中(つまり、モラトリアム)でしか発動しない“苦悩”や“正義感”や“悪の概念”があるのと同じように、ある種の「ナイーブさ」というのがあって。 なんつーか、うまく言えないんですが、「アメリカ社会」という只中にあって初めて輝くナイーブさ、というか。 まぁ、ヨーロッパなんかにいけば、ペンが抱える「作家としてのテーマ」は、そんなに珍しくもないし、強度もそんなにって感じで。 「マドンナの元旦那」であり、ハリウッドのゴリゴリのインサイダーであり反逆児でもある、という個性は、彼が“反逆”している「アメリカ社会」とセットになって初めて強度を持つ、と。 そんな感じですかねー。 「クロッシング・ガード」を観た時は、「ヤベーな、これ」なんて思ったモンでしたが。(いや、普通に名作ですけどね) で。 今作、「プレッジ」。 「クロッシング・ガード」のジャック・ニコルソンと再び、という。 ちなみに、ロビン・ライト・ペンも出演してて、すげーいい味出してます。こういう役を、ここまで演じれる女優さんって、実は少ない。 実は、ロビン・ライト・ペンが演じるキャラクターって、出てくる時間って結構短いんです。 その短い中で、これだけの説得力というか存在感というか、グッと作品にエネルギーを加える好演じゃないかな、と。 もちろん、他の脇役陣もかなりいいですけどね。 特にいいのは、アーロン・エッカート。前半と最終盤の大事なトコをしっかり締めてて、いいです。 ストーリーは、とにかく導入部分で、“プロ意識”に欠ける警察官たちの描写が延々続く、と。 で、それに対して、あと数時間で退職が決まってる老刑事(ニコルソン)が、苦虫を噛み潰した例のあの顔で、「おいおいおい」と言いながら、被害者の家族に事件を告げに行く、という展開。 ここで、「神に誓え」という、“ひとりの人間”としての精神に訴えかけるような言葉を投げかける、と。 実は、この導入部分も、作品全体でもそうなんだけど、“手法”としては結構ベタな、というか、作劇法としては分かり易い感じで造られてるんです。 この、“ベタベタな演出”とか“ベタな比喩”とか“修辞”とか“トリック(ギミック)”を、てらいなくなく使う、というのが、ある意味では、監督としてのペンの個性(というか、強さ)だったりするのかな、と。 てらいなく、というか、恐れずに、というか。 ナイーブっちゃナイーブなんだけど、それでいいんだ、ということだと思うんですが。 明らかに冤罪っぽい容疑者、とか、高圧的な捜査官、とか。 ロビン・ライト・ペンが登場する所までは、ホントに、まぁ、これを“巧い”と言えば“巧い”ということなんだろうけど、なんつーか、「捻り方が分かり易い」というか。(意味分かります?) そして、何よりポイントは、後味が悪すぎる結末。 「救いなんかねーんだ」と。 まぁ、批評的に観れば「こういうのホントに好きだよね」ということなるんでしょうが、しかし、このラストの数シークエンスこそが、(この作品においては)恐らくもっとも“力”を注いだ部分であり、そして、それは成功してますよね。 そういう、しびれるようなカットではあります。 もうちょっとだけ救われる結末でもいいような気もしますが…。 せめて、アーロン・エッカートが(黒いステーションワゴン、というのをキーにして)焼死体の正体に気づく、ぐらいの、ね。 そのくらいの“救い”はあっていいもいいじゃないかな、なんて。 まぁ、俺が言ってもしょうがないんですけど。 う~ん。 なんか、アレだなぁ~。 もうちょっと突っ込んだ“解釈”をした方がいいのかなぁ~。 例えば、被害者の少女の母親にさせられた“約束(プレッジ)”が、実は“呪い”で、それにとり憑かれちゃって、とか。 なんか適当に返事をしてしまった罰なんだ、とか。 そういう、「他人事扱い」に対する罰なんだ、とか、「薄っぺらい正義感」への罰なんだ、とか。 そういう、なんていうか、人間の“罪深さ”を描いた作品なんだ、とか。 違うかな…。 まぁ、そういう、とにかく「悩ませてくれる」作品ではありますね。 少なくとも、シンプルに結末を与えてくれる作品ではない。 でも、そこに価値がある、というか、ね。 多分、出演者のギャラを除けば、かなりのローバジェットな作品だろうしねー。 それから、ジャック・ニコルソンが、“精神病棟”を訪ねる、というシーンがあります。なかなか味わい深くて、いいカットでした。 

2010年1月16日土曜日

「白いカラス」を観た

月曜日の深夜に日テレで放送していた「白いカラス」の感想でっす。 主演はアンソニー・ホプキンズと二コール・キッドマン。監督は、大好きな「クレイマー、クレイマー」のロバート・ベントン。 2003年の作品なんですが、作品の時代設定は1998年とずばり指定されています。 理由は、作中で、クリントン大統領(当時)のルインスキー・スキャンダルについて語られているから。 作品自体は、ちょっと不思議な重層構造になっていて、まず基本的なプロットのラインが、主演の2人の出会いから始まるラブストーリー。 アンソニー・ホプキンズが演じるのは、文学かなんかの大学教授で、“ユダヤ人としては初”の学部長を務めていたんだけど、黒人学生への差別発言をでっち上げられて、その“糾弾”への怒りで自ら仕事を辞める、というところが話の始まり。 で、二コール・キッドマンと出会う、と。 彼女の役は、幼い頃は裕福な暮らしをしていたんだけど、両親が離婚し、母親の再婚相手(継父)に“悪戯”(性的虐待)を受けたことから、家出をして、という“流転”の過去を持つ女。 自分の結婚相手からも暴力(DV)を受けていて、その男(エド・ハリス)から逃げている、と。ブルーカラーな仕事を三つ掛け持ちしている絶世の美女、という、まぁ、いわゆる「薄幸の美女」ですね。 この2人のストーリーが、基本のライン。 二つ目が、主人公と、森の中の小屋で“隠匿生活”をしている、ゲイリー・シニーズ(「CSI:NY」の主役の人です)演じるある作家との友情関係。 それから、ここが良く分かんないんだけど、その、クリントン大統領のスキャンダルに絡めた“言葉の正しさ”とか、そういうメッセージが微妙に語られるんですね。 主人公が“差別的発言”を糾弾される、というところに絡められてるんだけど、なんつーか、時代の空気感、ということなのか、やたら大統領のスキャンダルについての言及がある。 あんまりストーリーとは関係ないポイントで。 「ポリティカル・コレクト」とか、そういうセリフもあった気がするし(ちょっとうろ覚えです・・・)、まぁ、恐らく監督のメッセージだと思うんですが、そういうのが挟み込まれている。 で、最後の“レイヤー”が、主人公の過去。 主人公の生い立ち、というシークエンスがあり、「プリズンブレイク」の主役のあの役者が演じるんですが、このシークエンスも、ラブストーリーとは直接は関係ありません。 一応、このシークエンスを、シニーズの作家が掘り起こす、ということになってるんだけど、まぁ、ほぼ独立した形。 このシークエンスとラブストーリーが、なんつーか、どちらもいい感じなんですよねぇ。 よく出来た短編、というか。 この作品は特に、この過去のシークエンスの“ネタバレ”は避けたいので、これ以上は書かないでおこうと思うんですが、良いです。 この、主人公が抱えた“過去”と、「薄幸の美女」が抱えた“過去”。 2人が出会い、愛し合う“現在”。 う~ん。 「白いカラス」という邦題は、実はこの言い回しこそが「ポリティカル・コレクトネス」的にどうか、というのもあるんですが、なかなか上手いです。(ちなみに、原題は全然違って、「The Human Stain」というもの) ほろ苦い結末も、個人的にはポイント高いですしね。 うん。 豪華キャストなんで、低予算ではないんでしょうけど、撮影自体はシンプルに、安価に行なわれているんだろう、という部分も含めて、なかなかの佳作ではないかなぁ、と。 ぜひお薦めです。 どうぞ。 

2010年1月12日火曜日

コールドケース「列車」を観た

CSIと同じく、テレビ東京で放送している「コールドケース」の、「列車」という回が良かったので。


基本的に、この「コールドケース」はハズレがなくって、毎回面白いんですが、今回の「列車」は、まぁ、良かったです。
“列車”というのは、“列車の絵”という意味で、列車(アムトラック?)の切符に描かれた列車の絵、ということですね。
列車の絵を3歳の少年が覚えていて、それがきっかけで真犯人の逮捕(つまり、事件の解明)に繋がる、という。


ちなみに、この“コールドケース”というのは、「犯人逮捕に至らずに迷宮入りしてしまっている事件」という意味です。“コールド”っていうのは、冷やしておく、とか、そういう意味ですね。
そういう事件の“再捜査”をする、というのが「コールドケース」という番組の特徴。

で、常に“過去”が描かれるワケですね。
ここが個人的に面白くって、過去と現在の2つのストーリーのラインがあるんです。常に。

で。
今回のストーリーは、過去の未解決殺人事件の被害者が、さらに時間を遡った過去では、ある事件の加害者だった、という。
逆転してるんですね。
この構造が良かった。

ある事件というのは、幼児誘拐事件で、その、誘拐された幼児、というのが、現在ではティーンネイジャーになってて(列車の絵を覚えているのは、このティーンネイジャー)、で、かなりの不良少年になってしまってるんですね。


この、不良少年と捜査陣との心の交流、みたいなのがもう一つ裏ストーリーとしてあって。

未解決だった事件の捜査のプロットが、過去の誘拐事件(当然、これも未解決)と、現在の、ティーンネイジャーが抱える愛情不全に因る(と、思われる)トラブルのプロットも兼ねている、という構造になってて。

三つが同時に進行していく。


これは、こういう構造にする、という所のアイデアさえ固まれば、あとは自然と出来上がってくるストーリーだとは思うんですが、その、最初の部分はねぇ。
凄いアイデアだと思うんです。

凄いな、と。




あと、「コールドケース」は、主人公の女性刑事が好きなんですよねぇ。

フェミニンなんだけど仕事もやりますよ、という。
スーツ着て、男の同僚たちに混じって(従えて)バリバリ仕事するよ、と。
でも、そんなに肩肘張ってるって感じでもなく。

そのスーツに、髪を無造作っぽく後ろでギュッとまとめてる髪型とか、かなりポイント高いですよ。マジで。

なかなかこういう存在感っていうのは作れないですよねぇ。


うん。


毎週、かなり遅い時間の放送なんですけどね。

好きです。

2010年1月11日月曜日

「アンダーカバー」を観る

こちらも「去年観たかったんだけどグズグズしてたら見逃した」一本、ホアキン・フェニックス主演の「アンダーカバー」を観る。 “去年”というより、おととしですかねぇ。去年のお正月の前の年末にやってた作品ですから。 原題は「We own the night」。意味は、ざっくり意訳しちゃうと「俺たちの夜」とか、そんな意味でしょうかね。「私たちは夜を手にした」って意味ですけど。 「アンダーカバー」という邦題はダメです。作品のテーマは“We”という単語に含まれているので、そこを外しちゃったらアウト。 ま、それはさておき。 いい作品でした。 いきなり気になったのが、音楽の使い方。舞台が80年代のニューヨーク(ブルックリン)ということで、80sバリバリのディスコサウンド満載。 まず、主人公がクラブの支配人なので、雰囲気にもマッチしてて、良かったです。こういう使い方もあるんだなぁ、と。 「アメリカンギャングスター」は、この作品よりもちょうどひと世代前という感じで、ソウル/ファンクで推す、というのがばっちりだったんですが、時代に合わせて曲だって変わる、と。 いい雰囲気を作ってます。時代感を、ね。 で。 作品は、警官一家に生まれた次男坊が、という設定。 親父や“良い子”だった兄とは対照的に、バーテンからクラブの支配人、という、“夜の商売”コースを歩んで、プエルトリコ系の激マブの彼女と付き合って、という役を、ホアキン・フェニックス。 いや、このキャスティングがヤバいです。 ホアキンは、クレジットによるとプロデューサーも兼任してるってことになってて、まぁ、これは受け手の勝手な憶測ですが、「ホアキンの兄」と言えば、なんつってもリバー・フェニックスでしょ、と。 兄と弟の物語、ですから。 作中でも、兄と同じ道を歩むようになる、という姿が描かれるんで。 やっぱねー。 いろいろ想像はしちゃいますよねー。思い入れがあるんだろうなぁ、とか。 まぁ、そういうことを抜きにしても、素晴らしい作品です。 ストーリーに戻ると、兄と弟と、父親。 父親のロバート・デュバルがかなりの存在感で、基本的にはこの3人の物語、ということですね。 親父は、兄も所属する署の署長という、かなり偉い役職にある人で、この親父が、職務と父親としての立場で悩むシークエンスは、かなり良いです。 警官の兄と、そうじゃない弟に対して、ちょっと接し方が違ったりして。 この、かなりセンシティヴなシークエンスを盛り込めるかどうか、書けるかどうか、撮れるかどうか、というのが、この手のジャンルの作品が“薄っぺら”になるかどうかの境目だと思うし、まぁ、この作品にはそういう“奥行き”がある、というか。 あと、エバ・メンデス(超美人! 大好きです)演じる、ホアキンの恋人が、彼らの家族の間の絆からちょっと弾き出される、みたいになるんですね。 そこら辺の描写も良い。 彼女からみたら「遠くへ行ってしまう」という、そういう感覚。「殺されちゃうじゃない」とか「ママに会いたい」とか、そういうことをセリフとして言い続けるワケですが、心理としては「私の彼が遠くへ行ってしまう」と。 ちゃんと、そういう感情を抱えているのだ、という解釈が出来るようなカットが挟み込まれていて、彼女の哀しそうな表情も含めて、印象的でした。 「あなたの家族に嫌われても平気よ」という、結構素敵なセリフが最初の方にあるんですけど、この“家族”こそが、そもそも作品のテーマなので。 あとは、なんといってもカーチェイスのシーン。 高架下の道路、という、「フレンチコネクション」への挑戦状でもある、恐らくかなり意欲的なシーンだと思うんですが、これは相当いいです。 映画史におけるカーチェイスの名場面、というのを、更新したんじゃないか、と。 雨の日。 主人公の主観。 敵がはっきり認識されない。 静寂。 などなど。 このカーチェイスシーンを観るためだけにお金を払っても良いです。 時間的にはホントに短い時間なんですが、インパクトは大きい。 あ。 あと、これは作品全般に言えることなんですが、編集の“間”が巧いと思いました。 ややクラシカルなタイミング、という言い方が出来ると思うんですが、独特の繋ぎ方というか、フェイドアウトの間も独特で、面白かった。 これは、意図的なものなのか、あるいは逆に、「編集してみたらなんだかスムーズに繋げられなくって、しょうがないからぎこちなさを逆手にとった」ということもあり得ると思うんですけど。 結果的には、まぁ、好き嫌いはあるとは思いますが、個人的には良いな、と。 ちなみに、地理的なアレと、ロシア系のコミュニティを舞台にしている、ということで、「リトル・オデッサ」と似てるなぁ、と思ってたら、同じ監督さんでした。ジェイムズ・グレイ。 この「リトル・オデッサ」も、兄と弟の物語。 というワケで、「アンダーカバー」は、ディテールも含めて、何度でも観たい作品でした。 お薦め! 

2010年1月8日金曜日

「フェイクシティ」を観る

エルロイつながりってことで、キアヌ・リーブス主演の「フェイクシティ ある男のルール」を観る。 去年の「観たかったんだけどグズグズしてるうちに公開期間が終わってしまっていた」作品のひとつ、です。 エルロイは、原案というか、脚本に参加してるってことで、クレジットにも3人いるライターの筆頭に名前が出ています。 原題は「Street Kings」。 複数形なのがポイントだと思うんですが、いまいちしっくりしませんね。邦題はもっと分かんない。 で、結論を先に書いてしまうと、「う~ん」と。 イマイチ。 公開時にもそんなに評価されてないっぽかったんで、まぁ、それが正当な評価なのかもしれません。 ストーリーは、エルロイ信者にはお馴染みの、警察組織内部の抗争(権力闘争、出世争い)と、その組織の腐敗っぷりを背景にして、キアヌが演じる刑事がある事件を追っていく、と。 ちょっと中途半端なんですよねぇ。 最終的に“黒幕”と対決するワケで、一応ストーリーもそこに向かっていくんですが、登場人物が中途半端に少ないため、だいたい見当がついてしまう、というのと、“黒幕”の操作によって主人公が間違った方向に進んでいく、その間違った方向、というのがあんまりクリアじゃないんです。 エルロイの作品では、というより、サスペンスでは、誰が真犯人か、というのは分からないのが当然なんですが、「その代わりに誰が疑われているのか」みたいなのが、ちょっと中途半端なんですね。 その辺の、ミスリードのさせ方、というのが、微妙にズレてる気がします。 まったく何も分からないまま、どんどん被害者だけが増えていく(事件が進行していく、事態が深刻化していく)ということでもないんですね。 で、このさじ加減が、中途半端。 “エルロイ信者”には描写が物足りなくって、この手のエルロイ・ワールドに馴染みのない人には、なんかちょっと分かりにくいかも、という感じで。 話の筋は面白いんですけどねぇ。キャスティングとかも上手だし。 でもねー、という。 もうちょっと前フリの段階で“敵キャラ”をちゃんと描いた方が、最後の黒幕登場のところでもっとインパクト出せた思うんだけどなー、という。 せっかくコモン(Common)とかゲーム(The Game)とか、絶妙な配役が出来てるんだから、そこをもっと推せば良かったのに、と。(コモンもゲームも、有名なラッパーです。演技も上手でした) まーでも、作品全体として全部ダメ、というワケでもなく、そこもなんだか中途半端な感じで。。。 でも、アレだね。 キアヌも老けたねぇ。 「スピード」では、LAPD(この作品と同じ)のSWAT隊員を演じてたワケですが。 もう15年も前だもんねぇ。 というワケで、個人的な期待度が高かっただけに「う~ん」という、そういう作品でした。 でわ。 

2010年1月6日水曜日

ジェイムズ・エルロイの交錯する三つのプロット

さて、“プロット”という言葉から、昨日の続きのようですが、今日はちょっと違う内容です。


ジェイムズ・エルロイの「ビッグ・ノーウェア」の文庫本の解説が、興味深いテキストだったので、ご紹介。
書いているのは、法月綸太郎さんという方。
以下引用でっす。

***
エルロイは最近のインタビューの中で、「私は執筆前に綿密で長いアウトラインを書き出して、執筆中にそれをダイアグラムとして利用するんだ」と述べている。
複雑巧緻を極めたエルロイのプロット作法の秘訣は、この「ダイアグラム」という表現に集約されていると言っても過言ではない。
ちなみに、ここでいう「ダイアグラム」的なプロットは、複数の事件が同時多発的に進行するモジュラー形警察小説のスタイルと似ているが、エルロイの場合は複数の経路が最終的に一本に合流するという点で、明らかにそれとは一線を画しているようだ。
やはり3人の警官の三人称・複数視点を採用し、さらにマスコミ報道という視点を加えて、いっそう物語のスケールと複雑さを増した「LAコンフィデンシャル」を経由して、「ホワイト・ジャズ」では再び一人称の語りに戻るが、プロットの「ダイアグラム」性は文体にまで深く浸透して、そこで描かれる「おれ」の人物像は、複数の情報=欲望を束ねた多重回線ケーブルのような存在となっている。

こうした「複数の経路」に基づくプロット構成は、エルロイ自身が抱えていたトラウマの克服と恐らく無関係ではないだろう。
そもそも精神分析による無意識の発見は、「意識」という情報処理装置のバックグラウンドで稼動するより演算速度が速い(あるいは遅い)別の情報処理装置の存在の発見として解釈できる。私たちは一つの情報を、常に同時に複数の経路を通じて処理する。したがって演算結果も複数出てくる、それら諸結果が互いに矛盾し衝突することにより、ヒステリー症状や夢内容や失錯行為が生じる。
東浩紀「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」

したがって、エルロイの小説がしばしば「悪夢のような」様相を呈するのも、当然のことなのだ。

***
エルロイをエルロイたらしめているプロット構成上の“個性”が、作家自身のトラウマの克服の体験と無関係でない、というのは、実は興味深い指摘。

テーマやキャラクターにだけでなく、プロット構成にすら「個人的な体験や記憶」が投影される、と。
逆説的に言うと、「作家は投影して良い」ということでもあるワケですが。

抑制する必要はないのだ、というか。



綸太郎さんは、こんな風にも書いています。

***
アミダくじのように平行する3本の線が衝突し、すれ違い、紆余曲折を経て一本に交わっていくプロセス、複数の経路をたどる人物と情報の流れそのものが、意外性に富んだ迷路のようなストーリーを形成していくわけである。
原理は非常に単純素朴なのだが、これがエルロイの手にかかると、絶大な効果が生まれる。3人の手持ち情報のすれ違いが、もどかしさとサスペンスをもたらし、それぞれの情報がある契機から一点に向かって収斂していく際の連鎖反応的・爆発的なカタルシスは凄まじい。

***


凄まじい、と。


まぁ、凄まじいんですけど。特に「ビッグ・ノーウェア」は。



というワケで、年明けから「LA四部作再読」という荒行を自らに課してしまった愚か者の俺でした。


でわ。



2010年1月5日火曜日

平野啓一郎×東浩紀

雑誌に掲載されていた、平野啓一郎さんと東浩紀さんの対談。
「物語論」と「文学を巡る状況論」って感じですかね。その二つは繋がっていて、という。

結論としては、やや乱暴にまとめると「物語への回帰を恐れるな」という感じだと思います。


お2人は基本的に、ずっと“小説”についての話をしてるんですが、まぁ、俺が「自分のフィールド」と思っている(思い込んでいる?)のは“映画”なワケで、映画というジャンルに引き寄せての解釈を、ということで。

平野 大体、社会適応能力がない人が作家になるわけじゃないですか。だから、その人が好きなことを書いて、社会がウェルカムと言って受け入れてくれるはずがないんですよ。
で、これは僕が文学の現場で感じる実感ですが、出版社に入って文芸をやりたい人って、もちろん、文学好きの人が多いし、作家に対してある種のリスペクトがあるんだと思います。だから、作家がわけのわかんないものを書いた時に、編集者自身がそれを、良くも悪くも理解しようとする。その結果、作家と編集者の間で盛り上がっても、営業部では「いや、これはちょっと・・・」と言われ、で、書店でも「うーん」となって、結局、読者に持っていった時にもさっぱり評判にならないという。
今、演劇ではサイモン・マクバーニーにせよ野田秀樹さんにせよ、俳優たちとワークショップをやりながら作品を作っていくという方法がうまくいってますけど、作家もここぞという作品に取り組む時には、例えば2、3人の編集者と組んで、複数の視点から作品を検討して、社会化を図るというような手立てが講じられてもいいと思いますね。

これは、作家と小説(作品)と読者という、ひとつのビジネスモデルについての話ですね。
「わけのわかんないもの」を作ってもダメですよ、と。売れませんよ、と。
編集者と作家の「2人だけのセカイ」で作品を作るんじゃなく、あと何人かの“視点”を導入して“複眼化”する、と。
作品を書く前の段階で。



 文体ほど誰も読んでないものはない。だからといって、文体の良さを捨てる必要はまったくない。ただ、文体の良さに時間を掛けることができる、その余裕をどうやって調達するかというだけの話です。だから面白い物語を作ればいい。単純にそう思います。ただ、その時に、文体の良さこそが、それだけが我々の売りなんだというロジックがありますね。純文学は文体だ、エンタメは物語だ、みたいな二分法。蓮實重彦氏が広めたものですが、今ではそれは自滅のロジックです。

これは不意打ち的に蓮實氏批判なワケで、まぁ、ちょっと複雑な気分ではあるんですが、“今では”ということでもあるので。
映画における“文体”とは、画面の質ということですよね。流れる時間に沿って(フロー)構築されていくものが“物語”だったり“物語の構造”であり、それとは対照的な関係にある、(ある意味では受け手によって切り取られる)あるシーン/カットの質感(色やらデザインやらなんやら)が、文体。
ということでいいのかな?

あ、もちろん、演技/演出のスタイルもそうですね。
無言劇だったら、その“無言”って部分が文体。モノクロ作品なら、その“モノクロ”って部分が文体。



平野 小説の登場人物の話でいうと、彼についての関連性が分かりづらい情報が次々と与えられる時、読書体験が豊富な人は、それらにアクセントを付けながら、自分なりに、一つの人物像へと統合していけるかもしれないけど、なかなか難しいと思いますね。物語全体に関してもそうで、複雑多岐に亘る情報が書き込まれると、それらをリニアにつむいで、一本のプロットを描き出す能力が誰にでもあるわけではない。
そういう時に、登場人物の内面を奥に向かって複雑に掘り下げていくパースペクティヴと、プロットを前進させるパースペクティヴとは、互いに干渉し合ってしまう。片方が強まると片方が弱くなってしまうんだとしたら、個々の登場人物のキャラクターを類型化するというのは、小説の深さをある意味、外挿しつつページを前に進める工夫ということになるんだと思います。さもなくば、前進するプロットのラインを物凄く濃くしないといけない。

「内面を奥に向かって掘り下げていくパースペクティヴ」というのは、一般的には“文芸作品”とか“アート系”なんて呼ばれるものに多い、と。だいたいそういうことでいいと思います。ジャームッシュの「デッドマン」とか(もうかなり忘れちゃったけど)、分かりやすいアレだと、ウォン・カーウァイの「ブエノスアイレス」とか「楽園の瑕」とか。この間見た「父、帰る」とか、ですね。
で、「プロットを前進させるパースペクティヴ」っていうのが、ストーリーをドライヴさせること。

主人公の男が、恋人の女の子に思いっきりビンタされる、という描写があるとします。
その、ビンタされた瞬間、という描写の次に、なにが(作家によって)語られるか。
主人公の心理、例えば「えー? なんでビンタなんかされるの? ていうか痛い! 冬にビンタは痛いよ! 思ったより力あるし。ていうかなんで怒ってんの? この間の浮気がバレたのか? なんでバレたんだ? 携帯のメールみたのか?」とか、まぁ、雑な喩えで申し訳ないんですが、こういうのが「内面を奥に向かって掘り下げていくパースペクティヴ」。
ビンタの後に、例えば、主人公から走り去っていく女の子を描写するのが、「プロットを前進させるパースペクティヴ」。カットバックして、主人公の浮気現場を目撃したという回想が挿入されたり、走り去ってからまた走って戻ってきてとび蹴りをくらわして、そしてまた走り去っていく、そしてそれを主人公が追いかけていく、というような描写が続く、とか。

で、当然、この2つの“パースペクティヴ”というのは、常に共存してるワケですが、同時には存在しないワケです。映画なら同じ瞬間に存在する可能性もあると思いますが、小説では、基本的にはない。
一行目の次は絶対に二行目しかなく、二行目と三行目を読者は同時に読むことはできないからです。
従って、そのつど、どちらの“パースペクティヴ”を採用するか、というのが、作家の“感覚”やら“技量”やら、つまり“才能”だったりするワケですね。

で、「内面を掘り下げていくパースペクティヴ」をある程度放棄して、テキストをとにかく「プロットを前進させる」ことに費やす、という。平野さんの「個々の登場人物のキャラクターを類型化する~」という部分は、そういうことを言ってるワケですね。

ちなみに、この、類型化されたキャラクターというデータベースを参照しつつストーリーを前にドライヴさせる、ということは、東さんの「ゲーム的リアリズムの誕生」に詳しいです(俺もこれを読んで色々納得させられ、勉強させられました)。



平野 小説を読ませる一番強い力って、やっぱり「知りたい」っていう欲求だと思うんです。ただ、行き先が提示されてないバスに乗る人はいなくて、やっぱり行き先が見えているからこそ乗るわけですね。そういう意味では、話がどこに行くかが適度に示されつつ、でも絶妙にそれが確定しないような感じで先延ばしされていく時に、人はページをめくるんだと思います。


平野 文学も含むアートって、複雑に考えていった時にアウトプットも複雑になりがちだと思うんです。
 同意見です。複雑なこと考えてもアウトプットは単純、というのでいいと思う。だからこそ、小説家はまずプロットで勝負するべきだと思うんですよ。
平野 同感です。要約できない文学の方がいいって言う人がいますけど、間違っていると思う。
 それはたいへんな倒錯だと思う。本当に知的なのは要約されて生き延びる小説の方ですよ。文体は要約できないけどプロットは要約できる。その伝播能力は凄い。それで改めて思うけど、ドストエフスキーはやっぱりプロットが強力なんですよね。
平野 強いし、切り方がまた巧いんですよね。日本の小説は、海外で読まれようと思った時、文体は大半が失われますけど、プロットというのは文化的な差異をかなり逞しく超えていきますね。神話が広まったのはそういうことでしょう。ちょっと前までは、物語批判の文脈で、プロットが強いと説話論的な還元に屈するみたいな感じで全否定されていたけど。
 説話論的還元で全然OKですよね。説話論的に還元されるからこそ人は読む。
平野 音楽のメロディというか歌に対応するのが、小説のプロットだと思うんですよ。どんなに馬鹿にしても、メロディの強い曲の方が聴く人は多いというのは現実ですよ。
 音楽でMP3が出た時に、というか既にLPがCDになった段階で、音楽マニアは「これじゃ音楽の良さは分からない」とか言っていた。けれどもいまや着うたですよ。しかしたとえどれほど音質が悪くても、メロディが良ければ人は聴いてしまう。そこれそが音楽の力です。文体にこだわってるのって、その点で再生の音質とか環境にこだわってるというのと凄く似ている。

“プロット”とは、言葉のまま、話の筋。ほぼ“ストーリー”という言葉とイコールだと思います。(ただし、「物語」という言葉には色々と大きな意味合いが付加されて使われることが多いので、ここでは、より狭義の言葉である“プロット”という言葉が使われているんだと思います)


ちょっと前にこのブログでも紹介した平野さんの講演録では、「ストーリーとはラーメンの麺である」と言っていましたが、ここでは「メロディーである」と。
音質が悪くてもメロディーが素晴らしければ、人はその音楽に耳を傾けてしまう、と。


う~ん。

なるほど。



しかし、「素晴らしいプロット」を紡ぐことができるかどうか。
それはまた別の問題なワケで。。。


そして、そこに苦心している俺、と。



う~ん。


苦しい。