2010年8月18日水曜日

「ガールフレンド・エクスペリエンス」を観る

シネマート新宿の一番小さいスクリーンで、ソダーバーグの「ガールフレンド・エクスペリエンス」を観る。

ソダーバーグによる、「セックス」を扱った小品、ということで、必然的に「嘘とビデオテープ」を連想させる素材ですが、まぁ、悪いワケねーだろ、と。
そういう、受け手側の期待を裏切らず、しかし、収まらず、という。いい感じのテンションの作品です。

というのが、まず、作品全体の印象。

作品通してのストーリーというのは、なんのことはない、「高級娼婦の自分探し」みたいな、まぁ、書いてみると陳腐このうえない言葉になってしまうんですが、そこを、ソダーバーグのカメラと編集と、その他諸々の「映画力」によって、カネを払う価値のある作品に、ある意味強引に仕立てあげる、という。

まぁ、小さなスクリーンだったんですが、劇場で観たのはホントに正解だったと思います(騙された、という人もいたかもしれませんが)。
家でDVDなりブルーレイなりで観る場合も、可能な限り大画面で観た方がいいですね(とにかく、小さな画面で観ることだけは避けた方がいいです。ガクッときちゃいますから、絶対)


で。

ポイントは、この「自分探し」の中身。

主人公は娼婦ですから、当然、作品で描かれる生活も、彼女の顧客、つまり、彼女を「一晩買う」(しかも、超高額で)男たちとのやりとり、なワケです。

そこで、男たちは彼女に、自分には「本当の君」を見せて欲しい、と。
そう求めるワケです。
それが、主人公が「本当の自分」を自問し始めるキーなワケですけど、ところが、その、主人公に「本当の自分」を求める男たちが、彼女の前で「本当の自分」をさらけ出しているのか、と。

つまり、彼ら、社会の成功者(高級娼婦を一晩買うことができるほどの成功者、という意味です)の「本当の自分」とは、と。
そういう話なワケですね。


で。
結論みたいなのを先に言ってしまうと、そういう彼らの「本当の自分」こそが空疎で空虚だった、と。


「精神的な繋がり」を、「一晩限り」でありながら「最高の恋人」でもある主人公に求める男たち。

ところが、求める当の本人たちが、ただただマネーの話、つまり、景気の話とか自分の収入の話しかしないまま、老いていく、という。


探したあげくに、特に大事そうなモノは見つからない、と。
そういうことになってる。

そして、「本当の自分」も、「そういうモノがあるはずだ」という顧客が延々それを話すことで始めて浮き上がってくる、という、つまり、「自分探し」も外部からの働きかけによって生まれてきた「物語」なのだ、という部分。

彼女も、最初はただ「うざい」みたいに思うだけだったんだけど、だんだんそんな気持ちになってくる。
つまり、一応「自分って何だろ」みたいに思い始める。


しかし、彼女の「本当の姿」を見せてほしいと望む男たちが語る「自分」は、単に「景気が変わって収入が減ってどうしょうもない」ことしか語らない。
「肉体的なつながり」の他にあるもの、として暗示される「精神的なつながり」ですら、それは単に一方的にグチを言えるだけの関係にすぎない、という。



つまり、彼女を「自分探し」に誘った男たち自身の言葉に、実はハナから意味がなかった、ということなワケで、つまり、彼女自身の「自分探し」も、当然、(彼女にとっては)意味を持たないまま、モノローグとダイアローグがただただ流れていく。



そして、これは結構意外なラストだったんだけど、ユダヤ人の宝石商の「顧客」に呼ばれて、主人公はオフィスを訪ねるワケですね。
ここでのソダーバーグのカメラは、もう不自然なほどに被写体に近かったりして、変な、ただしとても効果的なショットが続くんですが、ここで彼女は、「顧客との肉体的な繋がり」に、なんだか安心したような表情を見せる。
正確には「表情を見せる」のではまったくなくて、あたかも「そういう風に感じている」と解釈させる、ということなんですけど(従って、このラストの解釈は、人によってかなり異なるんじゃないか、という感じはあります)。

つまり、(あくまで俺自身の解釈に拠ると)彼女はここで、ぐるっと一回りして、顧客との「自分との肉体関係を金銭と交換する」という関係性に「自分の居場所」を見つける、という、まぁ、再確認するワケですけど、そういうことになってる。

元のスタート地点に戻ってくる、ということなんですけど、それは、「自分のアイデンティティー」なんて、実は「他人との関係性」の中にしかないものなんだ、ということの示唆でもあって。


まぁ、そこまでは深読みしすぎかな。。。


俺の解釈や深読み云々は別にして、とにかく、ソダーバーグは、少なくとも、「(はじけた)バブルの被害者」たち自身が「バブル」なんだよ、という、そういう身も蓋もない「アメリカのセレブたちの心象風景」にタッチすることには成功しているワケです。
(もちろん、ソダーバーグ自身がその「セレブたち」の一員であることも大事なポイントで、実際作品中にも、「ハリウッドの住人」が登場人物として登場してます。)



と、まぁ、テーマ云々を語ると、結構長々と続いちゃうアレなんですが、面白いのは、こういう内容を、かなり手クセに頼る、というか、もの凄いサラッと、軽やかなタッチで製作しちゃってる、ということ。
画もそうだし、製作のプロダクション自体もかなりライト・ウェイトな組織で作ってるんじゃないかなぁ、と。

それと、主人公は現役バリバリのポルノスターらしいんですけど、ソダーバーグの軽やかな画の中にしっかり収まってるんですね。
これって、結構スゴい。
過剰に演技させたり、枠に押し込めたり、あるいは、エゴを放置したりむき出しにさせたり、という「罠」に陥ることなく、という。
単純に、ここだけでもソダーバーグの「腕」の良さを堪能できるんじゃないかな、なんて。
さすがソダーバーグ、と。

サラッとやってみせたワケですけど、実はそんなに簡単なことじゃないハズですから。


他の役者陣も、みんな無名のはずなんだけど、ホントに上手。(英語が分からないから、そう見えてるだけかもしれないけど)
特に、こういう空気感がとても大事な作品っていうのは、低予算であっても、というか、こういう作品だからこそ、空気感を壊さないような、高度が演技力が必要だったりするワケで。
高度な演技力、あるいは、高度な演出力。
で、当然この作品は、「演出力」が高かったのでしょう。すばらしいです。
ダイアローグのある程度の部分はアドリブでしゃべっている、ということらしいんですけど。



というか…。


何げに、こうやって延々と分析してみせることすら、ソダーバーグにとってはお笑いなのかもなー。


なんつって、ね。


まぁ、いい作品ですよ。
主人公、超キレイだしね。
それだけでも観る価値アリ、です。



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