2009年10月31日土曜日

赤川次郎、井上ひさし、小林多喜二、そしてサルトル

赤川次郎さんが新聞に連載しているコラムで、井上ひさしさんの、「蟹工船」の小林多喜二を描いた舞台「組曲虐殺」を観ての感想を書いてまして。



多喜二役の井上芳雄のファンなのか、若い観客も多かったが、多喜二が生き、そして虐殺された時代の空気をどう受け止めたのか、訊いてみたい気がする。
フランスの哲学者サルトルが、第二次世界大戦時のドイツ占領下ほど、自分が自由だったことはなかったと言っていたことがある。占領下では、自分の書く一つ一つの言葉が生命の安全を脅かしかねなかった。
「命がけで書く」というその覚悟がサルトルを鍛えたのだ。
今は権力を批判しても拷問され殺されることはないが、そうなると、むしろ現実から目を背け、内にこもってしまう書き手が多いようなのはどうしてだろう。



まぁ、サルトルにしか言えない言葉でもあるんですけどね。

それから、現在の“闘争の場”はまさに“内面化”されているからだ、という言い方もあるとは思うんですが。

ただし「命がけで書くというその覚悟が鍛えたのだ」と。
この言葉は大きいですよね。


占領下ほど自由だったことはなかった。


う~ん。


凄い。

2009年10月29日木曜日

「さらば愛しき女よ」を観る

午後のロードショーで、ロバート・ミッチャム主演の「さらば愛しき女よ」を観る。



う~ん。
まぁ、今さら俺が感想書いてもな、というクラシックですが、個人的には、実はチャンドラー作品はまったく手に取ったことがなかったりして、この作品も初めてなんで、そういう意味では新鮮だったかも。

具体的には、主人公のフィリップ・マーロウのモノローグでストーリーが(中盤まで)語られている、というのが結構新鮮だった。
最近だと、あんまりこういうのってないんじゃないですか?

画の質感は、だいたい同じ頃に作られた「刑事コジャック」(これはテレビシリーズだけど)とソックリって感じで、「コジャック」は個人的に大好きなんですけど、それをちょっと思い出したかな(S・スタローンが出てるっていうのもあるけどね)。
ま、この作品と「コジャック」じゃ、描かれている時代は全然違うんで、ホントは似てないハズなんですけど、なんつーか、視線の低さとか、そういうトコがね。


作中、ずっとジョー・ディマジオの活躍が語られるんですけど、その中で、「ディマジオは子供たちの歓声を受けるんだろうが、子供の泣き声は聞こえないだろう」みたいなセリフ(モノローグ)があるんですね。
これは良かった。
その(父親が死んでしまって)“泣いている子供”のために命を張るんだ、という主人公。

でも、ロバート・ミッチャムにはあんまりフィットしてない役のような気もするんだよねぇ。生意気なこと言っちゃうとね。

ま、いいんですけどね。




チャンドラーか…。
フィリップ・マーロー。


読んでみよっかなぁ。


2009年10月21日水曜日

「コンフェッション」を観た

というワケで、今日は今週の映画天国で観た「コンフェッション」の感想です。
ジョージ・クルーニーの監督デビュー作、ということで。


“コンフェッション”って、「告白」って意味らしいですね。知らなかった…。
題名の通り、主人公の男が自分の人生を「告白」していく、というストーリー。


で、告白されるストーリーが一筋縄でいかない(ま、だからこそ映画になるんだけど)、ということで、なんだかよく分からないまま話がどんどん進んでいく感じになってます。

個人的には特に前半の、なんだか“軽薄なコメディタッチのなんか”みたいな雰囲気が全然ダメで、惹き込まれるようになったのはホントに中盤以降ですね。

主人公が、自分の内面の“精神的な均衡”と保つために暗殺(つまり、合法的な殺人)を自ら欲するようになる、というあたりから。

その辺で、前半の、軽薄な、どこか浮ついたタッチで人生を描写する、という部分の意図が分かった、というか。
つまり、主人公の感覚がそうだった、ということですね。
自分が生きる人生や生活に「現実感」が欠如していた、という、そういう人物描写のための手段だった、と。
書割りのように表現される部分も、主人公の自己認識では、なにかの舞台の上で「自分という役柄」を演じさせられているだけ、みたいな感覚だった、と。

ここで、腑に落ちる、というか、しっくりきた、という感じで。


で、主人公がテレビ業界で成功するにつれて、その“浮ついた感”“非現実感”は、そのままテレビ業界における生活、という部分に、つまり主人公にとっては「日常という現実」にトレースされてきてしまう。
そして“現実化してしまった非現実感”に、耐えられない。

そこで、精神的なバランスを取るために、まごうことなき現実である“殺人”という現場に自ら赴く。


面白いのは、“殺人”の現場においても、“殺人者”という“自ら生み出したキャラクター”をまとう、という形で振る舞うんですね。主人公は。
帽子をハスに被り、黒いコートを着て、ミステリアスな女を抱く。

まるでひとつの“ゲーム”であるかのように、つまりそこでも“非現実感”に包まれている。


で。
ある局面で、東側に捕らえられるという体験をし、そこでの諸々を経て、“現実”に引き戻される。
というより、初めて現実に直面する、というか。


ドリュー・バリモア演じる彼女との結婚も避けてきた主人公が(それは、はっきりとは語られないんだけど、主人公の現実逃避のひとつだという描写でしょう)、ついに自分の命の危機を感じるに至って、自分がその時にいる“現実”を知る、と。


その後の、精神的に破綻しかけた主人公が、裸でテレビの前に立っている、という姿で描写されるんですが、これは多分、そこでは主人公は“裸の自分”というのを把握しているのだ、ということだと思うんですね。

今まで身にまとっていた“衣”をすべて脱ぎ捨てて、という。スパイでもなく、テレビ局のやり手プロデューサーでもなく、裸の自分。


ここで、最近の潮流としては「裸の自分なんていうのも虚像なんだ」というトコに落とし込んだりするワケですが、この作品では、そこまでは行きません。(というのが俺の解釈)


最後のヤマとして、裏切り者とのサスペンスタッチの対決を描いて、なんつーか、多分これが“落とし前”ということだと思うんだけど、最後は老人となった主人公の言葉で〆る、と。


ま、話の流れを追ってしまうと、こんな感じ。


ディテールとしては、ソダーバーグの「トラフィック」スタイルで、シークエンスごとに色のタッチを変えて、ということをしてますね。
過去のマンハッタンのテレビ局では光を飛ばしてパステルな感じ、中南米(多分メキシコだと思うんだけど)での初めての暗殺のシークエンスでは光量を多くしたザラザラしたタッチ、東ベルリンや東欧での暗殺のシークエンスでは黒味を強調したサスペンスタッチ、という感じで。LAでのテレビ局での生活、ニューヨークでの安ホテルでの隠匿生活、など、場面ごとに、ワリとあからさまにそういうことをやってる。
ま、個人的にはそういうのは凄い好きなんですけど(自分でもこういうのはやってみたい)、こういうのを安易って言う人もいるかもしれませんね。
いいと思うんですけどね。映画表現のひとつの進化だと思うんで。



あ、それから、なんつーか、ハリウッドにおける“派閥”じゃないけど、そういうのが垣間見えるのもこの作品のアレかも。
ジョージ・クルーニー一派、というか。
ソダーバーグとコーエン兄弟の作品には、G・クルーニーを初めとした、ワリと決まったメンツが出てますよね。
ブラピもそうだし、ジュリア・ロバーツもそうだし。
ちなみに、先週の「バーバー」の主演のビリー・ボブ・ソーントンは、アンジェリーナ・ジョリーの元旦那ですけど、もちろんA・ジョリーの今の旦那はブラピだからね。


あと、やっぱりジョージ・クルーニ―のこの後、ですかね。
この後に「シリアナ」という大作の製作・主演や「グッドナイト&グッドラック」の製作・監督・主演という見事な仕事をして、その後は「フィクサー」をソダーバーグと一緒に製作して。

ちなみに、これは知らなかったんですが、「ジャケット」という作品の製作もしてるんですね。この「ジャケット」という作品は、結構面白かった。



というワケで。
なんつーか、観る人を選ぶ作品ではありますよね。
普通に観たら、それこそ単なる“告白”で終わっちゃう、というか、「こういう人が居ました」で終わっちゃう作品だと思うんで。「CIAって凄いな」とか。

まぁ、そういう作品だって言えばその通りなんですが、もうちょっと深みや奥行きもありますよ、と。

そんな感じでした。



2009年10月20日火曜日

「バーバー」を観た

先週の「映画天国」(月曜映画の後釜です)で観た、コーエン兄弟の「バーバー」の感想です。


というか、久しぶりにレビューを書くんで、正直、なんだか書き方を忘れてしまった感じでして…。


コーエン兄弟。
「オー・ブラザー!」の後に作られた作品なんですねぇ。


う~ん。

面白いっちゃ面白いんですけど…。



まず、最初の印象は、なんといっても「モノクロ」である、というトコ。
「モノクロとは単に色がないというだけじゃない。もっとスペシャルなものなんだ」みたいなことを言っていたのは、フランスの天才マシュー・カソヴィッツですが、まぁ、コーエン兄弟にとってもチャレンジだってことなんでしょうかねぇ。
コーエン兄弟って、やっぱり、巧みにコントロールされた色彩感が特徴のひとつにあると思うんですよね。ロケーションや服やライトのチョイスってだけでなく、作品ごとに、全編にわたってちゃんと計算された色使い、というのが。
そういうのがこの作品にはないので。もちろん、そういう色彩感のひとつとしてモノクロが選択された、ということだとは思うんですが、なんつーか、別にねぇ、という。

この時代に、コーエン兄弟みたいなポジションの人たちが敢えてモノクロを導入する、というのには、やっぱりそれなりの“現代性”みたいなのがないとなぁ、なんて。
俺としては、あんまりそういうのは感じなかったんで…。
ひょっとしたら、映画館でデカいスクリーンで観たらまた違った印象だったのかもしれないんですけど


キャラクターの演出とか、すげーいいんですよねぇ。
セットとかの美術も凝ってるし。

でも、そういうのを含めた“時代感”が、モノクロであるというトコに寄りかかり過ぎてるんじゃないかなぁ、なんて。
コーエン兄弟ですからねぇ。
カラーでも全然出来る腕を持ってる人たちですから。


まぁ、そういうのは作品の本質とはあまり関係ないですね。




で。
作品のストーリー。


なんつーか、個人的には、この「まわり回って~」とか、「無常観的な傍観者としての主人公」とかって、あんまりピンとこないんです。

ひょっとしたら、こういうのって、いわゆる「東洋的な」って感じなのかなぁ、なんて。
別に新鮮じゃないんだよね。
この作品の主人公がとり憑かれている“諦念”って、ひょっとしたらアメリカ人には新鮮な概念なのかもしれないんだけど、それこそ「塞翁が馬」じゃないけど、別に「無くはない」みたいな印象で。
「別に…」って感じがしちゃうんだよなぁ。


“輪廻”とか“因果応報”とか、日本人にとってはそんなに目新しい概念でもないでしょ?



でも、さすがに鋭いショットは幾つもありましたね。
バーバーでのカットはどれもクールだしね。
「奥さんを逮捕した」と刑事たちが主人公に告げに来るシークエンスは、なんかは、セリフも含めて、巧いなぁと思ってしまいました。特に、床屋に刑事が入ってくるカットは、ね。
ちゃんと緊張感を持たせてるし、ホンの少しの間なんだけど、その緊張感を持続させて生かして、という演出になってる。
デパートの奥の部屋で殺人を犯してしまうシークエンスも良かった。
その前、酔っ払った奥さんがベッドに横になってて、呼び出されて家を出て行って、殺してから家に戻ってきて、ベッドに寝てる奥さんの横に、というトコも。
そういう部分のキレ味は、さすがという感じです。


あ、あと、スカーレット・ヨハンソンがピアノ売り場でピアノを弾いてるショット。
あれは良かった。

あのあたりは、殺人という“一線”を越えてしまった主人公が、急に哲学的なことを言い出したり、美しい音楽に惹かれるという、芸術的な感性が覚醒したり、という、とても面白い展開のパーツのひとつになってるんだけど。
なんていうか、一線を越えた後に、急に“人間性”に目覚める、みたいな。

それまで、なんとなく流されて生きてきた主人公の内面が、そこで少し変化し始める、という。
そこは面白いですよねぇ。

でも、その後にその「人間性の獲得」みたいなのが強調されるかっていうと、別にそうでもないんで、作り手の意図はあんまりそこにはなかったのかな、なんて。
俺の勘違いなのかもしれませんけど。



そんな感じかなぁ。


ただ、重要なことは、後の大傑作「ノーカントリー」にも通じる要素が幾つか見られる、というところですね。主人公の諦念は、「ノーカントリー」のハビエルにもやっぱり繋がってると思うんだよねぇ。
まぁでも、その辺は別に「ノーカントリー」を観ればいいってだけの話なんだけど。



というワケで、巧く書けませんでしたが、「バーバー」の感想でした。