2012年6月29日金曜日

「ジョン・カサヴェテス・レトロスペクティヴ」を観た

イメージフォーラムで1ヶ月間上映されていた特集プログラム「ジョン・カサヴェテス・レトロスペクティヴ」を(6作品全て)観た。


「インディペンデント映画の父」なんて言われる監督ですが、その作品をスクリーンで観られる機会って、なかなか無いと思うんですけど、今回は、勉強だからってことで、「全部観よう」と。
イメージフォーラムの年間会員みたいなのに入りましたからね。年会費払って。
会員証もらいましたから。(作品が1000円で観れるんです)


で。


その、こんなこと書いたらアホ扱いされるかもしれませんが、なんていうか、カサヴェテス作品に共通してるな、なんて気付いたことの1つが、割と俗っぽいテーマを扱っている、という点。
やっぱり、映画史における功績から、うっかりしたら“聖人”扱いしそうになっちゃう人物だと思うんですけど、そうじゃないワケです。

俗っぽい。
別に高尚なテーマやメッセージが掲げられているワケじゃないんだなぁ、と。

ひょっとすると、むしろ、そういう作品を作りたかった為に、こういう製作手法が採られたのかなぁ、なんてことも頭によぎったりして。


作品自体は、正直、驚きとかエッヂであるとか、そういうのはもう感じないワケですね。
2012年の時点では、彼の作品群に対して、本当の意味でフレッシュに驚くことはできない。
ただそれは、カサヴェテスが切り拓いた手法が一般的になったからこその“飽き”なワケで、つまりそれ自体が、彼の功績なんだ、とも言えるワケですけど。
(だからこそ、「レトロスペクティヴ」なワケですけどね。)



1つ思うのは、彼が確立した方法論は、映画史において、ある種の技術的革新だった、と。
ヌーヴェルバーグとは違うスタイルの、まぁ、ざっくり言ってしまうと「俳優優先主義」というか、そういう、あるスタイルの確立であって。

もうひとつは、製作面での、つまりスタジオのカネでなく、独立した(インディペンデントな)形態で製作する、という、要するに低予算で撮る、ということなワケですけど、このどちらもが、今では完全に一般化しているワケで。


彼自身が優れたアクターだったから生まれた“技術的革新”だったのか、“低予算”が強いたからこそ生まれた“技術的革新”だったのか。
あるいは、その逆だったのか。
そこら辺は、不勉強なモンで、ちょっと分かりません。

ただまぁ、「手法とテーマの一致」ということは、感覚的に分かるなぁ、と。
俳優の演技に肉薄するスタイル。
俳優の演技力に拠ることで語ることができるテーマ。
というより、俳優の演技力を引き出す手法だからこそ、語り得るテーマ、というのが多分あって、それこそが、カサヴェテス作品の力強さなんだろうなぁ、と。

人間の、(誤解を招きそうなアレですが)単に内省的な部分を表現しようとするのではなく、俳優がダイアローグで表現し得る、より表層的な部分の、その「人間の上っ面」に浮かび上がってきてしまうモノによって自分自身が苦しめられてしまう、という、「こわれゆく女」なんて、まさにそういう作品なワケですけど。
モノローグではなく、ダイアローグ。
人間の「上っ面」の部分と、それを描くことで逆説的に、というより乱反射的に浮かび上がる、人間の「内面」の部分。



もちろん、大事な前提として、優れた演技力を備えた出演者たち、というのがあるワケですけどね。
ここが、ヌーヴェルヴァーグや後のニューシネマとの大きな違いかなぁ。
“存在感”や“雰囲気”だけじゃダメで、もちろん、この違いは、「なにを語るか」という、作品のテーマ、あるいは作家のテーマの違いに由来するワケですけど。



まぁ、そんなことを考えながら、1ヶ月、渋谷に通いました。



最後に、新聞にちょっとだけ載っていた、この特集プログラムの紹介記事と、ジーナ・ローランズのインタビューをご紹介。


(カサヴェテスは)労働者階級や女優、作家など様々な層を描く。彼らは心が折れていたり、激しい気性を剥き出しにしたりする。
 「他の人が『おかしい』と思うような人に、ジョンは心を寄せていた」とローランズは振り返る。
登場人物は時にカメラの枠からはみ出しそうになりながら、街角で普段交わすような砕けたセリフを繰り出す。役者を指定の位置に立たせ、教材のような「標準英語」を語らせた当時の映画作りの中では画期的だった。

「ジョンは不自然さを嫌った。演技指導も殆どせず、役者はカメラの前で好きに動けた。そんな監督は当時のアメリカにはいなかった。私たちを追いかけるカメラマンには申し訳なく思ったけど、作品に素晴らしい自由さをもたらした」
 「(息子の)ニックと仕事をすると、ジョンが思い浮かぶの。彼もジョンのように、役者をとても愛しているから」





「カメラマンには申し訳なく思ったけど~」って、素敵な言葉です。




2012年6月26日火曜日

「預言者」を観た

新宿から京王線に乗って行った下高井戸シネマで、「預言者」を観た。

面白かったです。
フランスで作られた作品で、知らなかったんですけど、カンヌ獲ってる作品だったんですねぇ。道理で、パワフルなハズです。


内容は、刑務所の中で、フランス語の読み書きもできない若者(移民の子ども、なんだけど、孤児でもあって、教育を受けられないまま育った。)が、一人前の“悪党”としてのし上がっていく、と同時にその過程で、悪党としてだけでなく、人間としての“尊厳”みたいなのも獲得していく、という、いわゆるピカレスク・ロマンというヤツですね。
ノワールと言えばそうですが、個人的には「ピカレスク・ロマン」という言葉を使いたい作品です。

まぁ、好きです。こういう作品は。


ただ、1つだけ分からなかった、というより、腑に落ちなかったのは、「預言者」というタイトル(原題は、英語で言うと「a prophet」ってことで、特に意訳をしたりムリに付けた邦題、というワケでもありません。)と、その言葉が示唆するあるエピソードなんですけど・・・。

なんか、聖書とか神学的に、こういうエピソードがあって、そこから引用している、とか、そういうことなんですかねぇ?

タイトルに掲げているぐらいですから、大事なアレなハズなんですけど、どうもそこが腑に落ちないままなんですよねぇ。


だいたい、作品を観る前は、タイトルと、刑務所の中で云々という設定から、てっきり「1人の服役囚が回心して~」みたいな、宗教的な話なのかなぁ、なんて思ってたぐらいなんですけど、ところがどっこい、期待に反して、これまた自分の好きなタイプの話だったんで、意外な形で裏切られた、ぐらいの感じで。


まぁ、預言者と予言者は違うワケで、ここも難しいトコなんですけど。


これねぇ。
別に、次々と「予言を的中させていく」ワケじゃないんですよ。
そのくせ、「鹿の飛び出し注意」という、物凄いピンポイントで“未来”を当てるんですね。

ここが良く分かんない。



別に、その、なんていうか、「人生の指針を教えてくれる」みたいな形態でもいいと思うんですよねぇ。
実際に、そういう“メンター”って、いると思うし、ストーリーとして語る価値がある存在だと思うし。

そういう話でもいいと思うし、そういうストーリーだったとしても、この作品の映像の力に十分拮抗するだけの物語を構築できたと思うんですよねぇ。
もちろん、タイトルは変える必要はあるけど。


まぁ、そこをグチグチ言ってもしょうがいないんで、とりあえず、さておき。




とにかく、俳優陣の存在感が凄いですね。
重厚。
とにかく。

暑苦しいぐらい。
男ばっかりだし、アップも多用するし、だいたい、その男ばっかりって状況に加えて、みんな顔が汚いワケですよ。刑務所の中なんで、みんなヒゲ面だし、人相も悪いし。
ま、服役囚たちの話なワケで、当然っちゃ当然なんですが、とりあえず、そこから逃げない、という、そこが素晴らしいですよね。

刑務所の外に出て行くシークエンスもあるんですけど、“外の世界”でも、そういう部分ではまったく逃げずに、刑務所の外にも、塀の中の世界が(彼らにとっては)完全に地続きであるんだ、ということを描いたりして。
(しかし、フランスの司法制度には、一時出所というシステムがあるんですねぇ。仮出所とは違う感じなんで、不思議っちゃ不思議な制度です。)

あと、フランスの“政治犯”なんですね。思想犯、というか。
コルシカ島に、フランスからの独立を掲げるテロ組織っていうのがあって、というトピックが背景にあるワケですけど、この独立運動(と、テロ行為)については、この作品で初めて知りました。

刑務所の中での、アラブ系とコルシカの男たちとの対立の構図とか、とても巧く描かれていて、刺激的、というか、画面に緊張感を付与していますよね。

2つのマイノリティが、お互いを削り合う、というか。
火花を散らす、という感じじゃないワケですよね。お互いに、神経をすり減らし合う。そういう日常。その両方に出入りする主人公と、ジプシー(ロマ)という出自から、どちらにも所属しない(することのできない)主人公の相棒。

看守たちとの関係。

コルシカ軍団のボスとの、擬似的な父子関係。父の庇護を受け、その使い走りをしながら、力を蓄えていく。
自分のビジネスも始め、“ファミリー”を構える。
そして最後に、それはまるで予定調和ではあるものの、描写の鋭さによってそう感じさせない、「父殺し」の物語。

いいですよねぇ。

ラストシーンの、あの感じなんか、堪りません。



いい作品です。ホントに。



ただ、惜しむらくは、要するに「預言者って?」と。



少なくとも俺には、良く分からん、と。。。



なんかなー。。。
キリスト教的な素養、というか、文化的なバックボーンというか、そういうのが必要なんかねぇ。。。



しかしながら、それを差し引いても、良く作品でした。
わざわざ下高井戸まで足を伸ばした甲斐がありました。


うん。