2009年7月30日木曜日

凄いモノを観た

この間深夜にテレビでやってた、忌野清志郎さんの追悼番組を観まして。


古舘伊知郎が司会の「ヒットスタジオ」で、ラジオ局(2社)を罵倒するという暴挙を決行したタイマーズの「ざまあみろ」と吐く映像も凄かったんですけど、個人的には、もっと凄いモノを観た、というか。


喉頭癌を患ってることが分かって、その闘病を(一度は)終わらせ、武道館で「復活コンサート」をする、ということで、その復活コンサートのオープニングに会場で流された映像、というのが、テレビでも放送されたんです。

多分、ご本人が携帯のカメラで撮ったものだと思うんですけど、ご自身のポートレイトなんですね。
ポートレイトというか、いわゆる普通の“自分撮り”というヤツで、携帯のカメラなんで、映像はすごい荒いんですけど。

抗がん剤の副作用で、毛髪が全部抜けちゃってる清志郎、というのが最初の写真。
で、そこから、多分毎日撮ったんだと思うんだけど、ずーっと写真が続いていくんです。おんなじ構図で。
だんだん髪の毛が伸びてる。


つまり、癌から回復の途上にある、ということなんですよね。

“復活”の道程を、携帯電話のカメラで接写した画像で表現する、という。
自分で手を伸ばして撮るワケで、だいたい構図が同じなんで、それが“演出効果”を生んでる、というのもあって。


それは、なんていうか、「自分の“復活”」を信じるご自身の気迫っつーのかなぁ。
信念というか。

コンサートの聴衆の前に帰ってきた日に、そういう姿も晒してしまう。
これから歌う、という前に、観客に、敢えてその姿を見せつけて、そして歌いだす、という。


執念、というか。キレイな言葉で言うと、想い。


最後、化粧してる顔になるんですよ。コンサート用の。


その後に、なんか、ベッドから起き上がって、みたいな小芝居が加えられちゃってて、それは興ざめって気がしたんだけど、でも、それもらしいっちゃらしいんですけどね。


全部コマ送りで、2分ぐらいの映像だったかなぁ。
頭髪が抜け落ちた姿から、回復して髪が伸びていって、最後はライブ用の化粧した顔になる、という。

ホントは、それだけでいいんだけどね。それだけで、「戻ってきたぞ」「今から歌うんだぞ」っつーのが十分伝わるから。



いや、マジで凄いモンを観たな、と。
そんな気分になりました。




あ。
あと、「愛し合ってるかい?」の元ネタとして紹介されていた、オーティス・レディングがコンサートで「We all love each other, right?」って言ってる映像も凄かった。
こっちはマジで震えを感じました。
すげー言葉だな。


オーティスの言葉は、「俺たちはみんな、お互いに愛を交し合ってる。そうだろ?」ってことですよね。
コンサートの、ユニティ感、一体感、ピースフルな感じ、そういうのを表現した言葉なんでしょう、きっと。



「愛し合ってるかい?」


いい言葉だよね。ホントに。


それから、ナレーションが三浦友和で、なんつーか、それだけで泣きそうになりました。

2009年7月29日水曜日

ウェブにおける動画 ―映像とテキスト―

ちょっと、このブログの趣旨とはズレちゃう内容なんですが、パラパラ読み返していた、少し前の本に、昨日のエントリーの続きみたいなことが書いてあったので、せっかくなので、ここでご紹介。


2005年に発刊されている「アルファブロガー」という本なんですけど。
正直、このタイトルの本を読んでる、ということ自体が、かなりサブいというか、お恥ずかしい感じではありますが、それはさておき。


「切り込み隊長」さんという、まぁ、知ってる人はめちゃめちゃ知ってる、という人のインタビューです。(ちなみに、俺は全然知りませんでした。今でもブログを読んだりしたことはないです。)

テキストを読みに来た人というのは、たとえその広告がテキストと被った内容であっても動画を観てくれない。だからお金の払いようがなくて触手が伸びない。で、テキスト的に面白いものだけ伸びていく。

映像は、映像単独のビジネスの場合には成立するんですよね。ただ映像を観に来た人は映像だけ摂取して終わる。映像を観にくる人ってのはテキストと一緒に映像を観ることを好まない。
「GyaO」のように、「映像配信でござい、ブロードバンドでござい」みたいなトコに映像を観に行くことはするんですよ。それこそ、数十万、数百万というオーダーで。じゃあそれでUSENのサイトに行くか、というと行かないんですね。観たいと思った特定のジャンルの映像を観たら他のものはもう観ないんですよ。

例えば「あしたのジョー」が目玉だというときに、「あしたのジョー」を観た人が他の映画も一緒に観ていくかというと観ていかないんですよね。あれが不思議で。
だって、テキスト読む人ってそれを読んだ後にリンクを辿って他のところに飛んでいくじゃないですか。でも、映像観る人は目的の映像だけ観て終わり。
これはもうそのカテゴリーのユーザーの特性としかいいようがない。「GyaO」も「casTY」もユーザーは増えているけど、びっくりするぐらい他に飛んで行かないんですよね。

この、インタビュー(の、ある一部分)は、「ブログと映像の親和性」ということについて語ってて。


これはもう5年前ぐらいの話なんで、今とはかなり状況が違ってるんですが、ここでは「ブログの次の展開ってどんなのだろうか?」みたいな話で、「映像か?」と。
で、「ブログと映像(動画)は親和性が低いから、そうならないだろう」ということを言ってまして。「隊長」さんは。


ま、確かにそうなりましたね。
映像は、YouTubeとニコニコ動画という、ブログとはまったく違うシステムで提供されている形で、流通するようになりましたから。


インタビュアーも、ここでブログのことを「テキスト起源な今のインターネットからの連続的な発展の中」から出てきた、と言ってるんですが、ブログっていうのは、まさしくそうなワケで。
各々が、自分の思っていることを、テキストとして吐き出していく、という。
その吐き出したテキストの“流通の仕方”のフォーマットのひとつがブログだった、ということですから。


対して、今のウェブの動画というのは、これは「ファイル共有」ということですからね。
“動画共有”サイト。



で。


ここでは、受容する側、消費する側、読む側・観る側の話なんですけど、その、スタイルが違う、と。
テキストと動画は、重ならない、ということで。


う~ん。

言われてみれば、確かにそうかも。


頭の中のチャンネルが違う、という感覚は、確かにある。



基本的に、“デジタル化”っていうのは、「テキスト」⇒「写真」⇒「音声」⇒「動画」と、データの容量がそれぞれ一ケタずつ違う、ということもあって、こういう順番で、一段階ずつ進化してきたんだけど、あくまでそれは、技術側の理屈であって、受け取る側にとっては、あんまり関係ないんだ、と。

技術的な進化に沿ってコンテンツを変化(進化)させていく、というのは、技術的な面からの発想だと、当たり前みたいに感じるんだけど、実はそれは、地続きじゃなかった、というか。


まぁ、テレビと新聞は全然違うワケで、良く考えたら、当たり前っちゃ当たり前なんだけどね。


“表現方法”として考えると、映像(動画)の近接ジャンルとしては、やっぱり音楽や写真・絵画なんかがあるんだろうけど…。


テキストとの親和性ね…。



「映像は単体のビジネスなら上手くいく」と。


確かにそうだなぁ、と。




ま、映画っつーのはもともとがそういうもんだから、別にそれでいいんだ、ということでもあるんですけどね。
結論としては。


という話でした。

2009年7月28日火曜日

ウェブ時代のコンテンツビジネス

ナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーというミュージシャンの“マーケティング理論”を紹介する、というページが面白かったので、ここでもご紹介。


一応、参考までに、ウィキペディアの当該項目も>>>「トレント・レズナー」「ナイン・インチ・ネイルズ


テキストの著者によるT・レズナーの紹介は、こんな感じ。

オンラインを活用した様々な活動を数年前から積極的に行っているアーティストのひとり。ウェブサイトもちょっとしたSNSになっていますし、以前からネット上で新アルバムの無料配信、GarageBandファイル形式で楽曲を公開、400GBのコンサートのHD映像をBitTorrentで公開といった様々な活動をしています。

そんな彼が公式フォーラムに降臨。「my thoughts on what to do as a new/unknown artist」というタイトルで無名アーティストへのアドバイスを幾つか書いています。彼の経験とリスナー/ファンの変化に敏感に反応して活動している彼らしい言葉が幾つかあります。アーティストに向けているとはいえ、他の分野にもいえることが多いです。

「my thoughts on what to do as a new/unknown artist」っていうのは、「自分が考える、新人・無名アーティストとしてやるべきこと」ってことですね。


スターになりたい人へ
U2やColdplayのようなスーパースターになりたければ、大手レコードレーベルとの契約は必須だし従来のマーケィングに頼らなければならない。ただし自分のクリエイティブコントロールや収入経路は制限されるだろう。

曲で儲けることを考えるな
素晴らしい曲を安値で作ることは今は可能。作った曲を少しでもたくさんのリスナーに無料で届ける手段を見つけること。結局のところ口コミがすべてだ。

配信経路を確保
TopSpinのようなサイトはお勧め。配布する音楽は高音質のMP3で、もちろんDRMは必要ない。
配信を通じてメールアドレスを確保し、自分の顧客データベースを作ること。
ロイアリティの高い彼等にはプレミアムパッケージや限定版を販売すると良いだろう。手作りにしたりサインを入れたりしてスペシャルなものにし、自分がファンなら絶対欲しいと思うものを作ること。楽曲もさらに良い音質のものを低価格で販売したり、Tシャツやポスターの販売も良い。
TopSpinだけでなく Fulfillment by Amazon ProgramやTuneCoreも良い配信経路だ。

音楽は無料である
信じるも信じないもそれが事実。どんな音楽もクリックしたら手に入る時代。
ファイルシェアではなく、君から直接音楽を手に入れる方法を提供することが重要。

公式サイトを作る
まずは MySpace でも良い。
Flashは不要。長いローディングやイントロも省く。君の音楽が簡単に聞けるためのシンプルなナビゲーションにする。
ブログでも写真でも何でも良いから頻繁にコンテンツを更新する。
人が集まり出したら掲示板などコミュニティ機能を実装する。
Flickr, YouTube, Vimeo, SoundCloud, Twitterなどを利用して自分の音楽をアピール。

新しいスキルセット
ニューメディアの使い方やオンライン上でのコミュニケーションを身につける。
インディーアーティストに必要なスキル。
分からなければ、誰かに頼んだり、質問をする。

最も必要なもの
自分のしていることを信じること。
練習、練習、練習。
自分の声を見つけて磨きをかける。


もちろん、音楽での話しなので、そのまま“映画”にアレするアレではありませんが、普段考えていることともリンクしてることもあったりして。


あ。
もちろん、理想的には、ですけど、こういったことは“アーティスト本人”が考える必要がない、というのが一番だと思うんですね。
ただ、ここでは「new/unknown」アーティストが対象ですから。
つまり、“環境”を自分自身の手で作らないといけない、ということですから。


だけど、「最も必要なこと」は、練習、とも言ってますね。「自分を信じること」と同時に、「練習」とも。

うん。


自分のこのブログにアーカイヴしておく価値は間違いなくあるな、と。
そう思いました。


2009年7月17日金曜日

プリズン

今日は、面白いニュースを。


この間、化学物質や生活汚水などで汚染されている河川の河口に、蛤(はまぐり)とか、そういう貝を置いて、貝の力を利用して汚染物質を取り除く、というニュースがありまして。
貝は、自分が生きている環境が“汚染”されている場合は、その汚染物質を体内に取り込み、環境が綺麗になると、今度はその物質を吐き出す、という性質があるらしいんですね。
その性質を利用して、一定期間、汚染されている河口に置いて、その後に引き上げて、人口海水の中に置くと、汚染物質を吐き出す、と。

おー、「ナウシカ」の腐海みたいだな、と。


で、今日は、それはさておき。
別のニュースを。

刑務所の深刻な定員オーバーに悩むベルギーは、受刑者約500人を隣国オランダの刑務所に移送する方針を決めた。
刑務所長は「収容者は増える一方だ。混雑で受刑者のストレスが高まれば、受刑者同士や刑務官とのトラブルも増す」と嘆く。
そこで浮かんだのが隣国の刑務所を借り上げるアイデア。両政府は受刑者の扱い方などを最終調整しているが、オランダへの「委託料」は年間約39億円と試算されている。

なかなか面白いニュースですよねぇ。


発想としては、受刑者受け入れビジネス、とか。
それこそ、シベリアとか。

オーストラリアは昔、イギリスの流刑地だったワケですけど、そういう“流刑地”が現代にも、というか。


あとは、アルカトラズ(ショーン・コネリーとニコラス・ケイジの「ザ・ロック」)とか、南アフリカの、ネルソン・マンデラたちが捕えられていたロベン島とか、そういうイメージもあるし。


それから、受刑者たちから見ると、要するに、違う国の犯罪者同士が出会う場となるワケです。

その、刑務所こそが、犯罪者たちがもっともコミュニケーションしやすい場で、情報交換があったり、コネクションを作ったり、ということは、まぁ、古くから犯罪映画のジャンルでは描かれてきたことで。

その刑務所の内部が“国際化”すると、という。

なかなか面白い。



というニュースでした。

2009年7月16日木曜日

富野由悠季監督が吠える その2

富野監督が、日本外国特派員協会に招かれて講演した講演録からご紹介。

特派員協会では、色んな人が招かれてこういう形で講演をしてますよね。それこそ、宮崎駿監督もそうだし。(たしかここで、マンガ好きの麻生を「恥ずかしい」って言ったんだと思います)


で、さっそく。ちょっと長くなりますが、以下引用でっす。
オスカーをとっているスタジオジブリの宮崎駿監督のように、僕がなれなかったのはなぜか? 彼とは同年齢なのですが、「彼は作家であり、僕は作家ではなかった」。つまり、「能力の差であるということを現在になって認めざるを得ない」ということがとても悔しいことではあります。

富野さんの話には、毎度と言っていいほど宮崎さんの名前が出てくるんですが、まぁ、「意識してる」ということなのでしょう。
以前富野さんは、宮崎さんは鈴木敏夫さんという人間とチームを組んだから、オスカーを獲れるまでになったんだ、ということを言ってましたね。
その、スタジオワークについても。
今アニメーションという媒体に関しては危険な領域に入っていると思います。どういうことかと言うと、個人ワークの作品が輩出し始めていて、スタジオワークをないがしろにする傾向が今の若い世代に見えているということです。
スタジオワーク、本来集団で作るべき映画的な作業というものをないがしろにされている作品が将来的に良い方向に向かうとは思っていません。

不幸なことが1つあります。技術の問題です。デジタルワーク、つまりCGワークに偏りすぎることによって、昔、映画の世界であったスタジオワークというものが喪失し始めている。そのため、豊かな映像作品の文化を構築するようになるとは必ずしも思えないという部分があります。
ハリウッドの大作映画と言われているものがこの数年、年々つまらなくなっているのは便利すぎる映像技術があるからです。

ただ、文化的な行為ということで言えば、どのように過酷な時代であっても、逆にどんなに繁栄している時代であっても、その時代の人々はその時代に対して同調する、もしくは異議申し立てをするような表現をしたくなる衝動を持っています。
そういう意味でも、人間というのは社会的な動物であると思います。

まぁ、映像技術(というか、CG)に関しては、どんな時代にも常に“アンチ”は掲示されることになってるので、もうしばらくしたら、それはハイブリッドかもしれませんし、単なるアンチかもしれませんが、そういうモノがどこからか登場してるんだと思いますけどね。
願わくば、俺がそこに居れたらな、なんてことは思いますけど、まぁ、それは別の話ってことで。


大人を対象とする物語では、内向する物語(に、留まってしまうことが)が許されます。現実という事情の中でのすりあわせしか考えない、社会的な動物になってしまう大人にさわらないで済む物語を作ることができた、という意味ではとても幸せだったと思います。
また、大人向けを意識した時、「一過性的な物語になってしまう」という問題もあると思っています。(そうした物語から離脱できたことで)政治哲学者のハンナ・アーレントが指摘しているように、「独自に判断できる人々はごく限られた人しかいない」と痛感できる感性が育てられました。

う~ん。
子供向けだからこそ、真剣に作るのだ、みたいなことなんでしょうかねぇ。
これは、宮崎駿監督も似たようなことは言ってたかもしれない。「理屈で作っちゃダメなんだよ」とか、そんなことを。息子さんが監督した「ゲド戦記」を評して、そんなことを言っていた気がします。

物語を、敢えて破綻させるようなところまで持っていって(大風呂敷をめちゃめちゃ広げて)、それを無理やり回収していくことで“論理的”や“予定調和”や“ステレオタイプ”から脱出する、とか、そういうことなんでしょうかね。

もちろん、“定型”とも言える“構造”を利用しつつも、「子供向けなんだ」という“枷”をバネにして、構造から跳躍してなるべく遠くに着地する、と。
なんつって、ね。

言葉のアヤっスね。




今の日本では、アニメや漫画はかなりの大人までが鑑賞しているものになっています。
その風潮の中、僕のような年代が1つ嫌悪感を持っているのは、「アニメや漫画を考えることで作品が作れるとは思うな」ということです。つまり、「アニメや漫画が好きなだけで現場に入ってきた人々の作る作品というのは、どうしてもステレオタイプになる」ということです。
必ずしも現在皆さん方が目にしているようなアニメや漫画の作品が豊かだと僕は思いません。



(どういう作品がヒットするかという)問題に対して我々が回答を持っていないからこそ悪戦苦闘しているのであって、回答を持っていれば誰も何もやりませんし、勝手に暮らしていると思いますので、「成功する方法があったら教えてください」としか言えません。

僕が全体主義の言葉を持ち出した理由として、1つはっきりとした想定があります。「愚衆政治、多数決が正しいか」ということについては正しいとは言えない部分があるし、つまらない方向にいくだろうという部分もあります。
本来、ヒットするアートや作品というものは絶対に利益主義から生まれません。
固有の才能を大事にしなければいけないのに、全体主義が才能をつぶしている可能性はなきにしもあらずです。
ただ、スタジオを経営するためには『トイストーリー』を作り続けなければならない、という事情があることもよく分かる。「じゃあそこをどういう風にするか」ということについては、やってみなければ分からないから、やるしかないのです。


ちなみに、富野監督は、次回作の準備中だそうです。

2009年7月15日水曜日

「ソルジャー・ストーリー」を観る

月曜の深夜にやってる映画天国っつーので観た「ソルジャー・ストーリー」の感想です。



う~ん。いい作品でした。
この作品のことは、不覚にも知らなくって、この機会に観れてよかった、なんて思ってるんですけど、監督は「夜の大捜査線」と同じ人で、音楽を担当してるのはハービー・ハンコック。

作品のストーリーも、「夜の~」と良く似た構造を持ってるんですが、作品自体を巡る環境も、良く似てますよね。
「夜の~」は、もちろんシドニー・ポワチエですけど、こちらには、デンゼル・ワシントンがとても重要な役で出てます。
ちなみに、この作品は「夜の~」の15年後。ただし、こちらの方がかなりのローバジェットなハズです。

作品の舞台となる時代は、第二次世界大戦中、1944年。
実は「プライベートライアン」と殆ど同じ時期という時代設定ですね。



で。
ストーリーは、陸軍の黒人部隊で、ある黒人の下士官が殺されて、その事件の調査に、ワシントンから将校が派遣されてくるんだけど、その将校は実は黒人で、という。
で、その黒人将校が、事件の調査をしていく、と。
調査といっても、関係者・目撃者の聞き取りをしていくだけなんで、ほぼ安楽椅子探偵モノに近い感じ。

で、聞き取りを受けている人間が語る内容が、過去の出来事として映像で語られていく、という。
現在の時系列に、回想シーンを挿入して、ストーリーを運ぶ、という、いわゆるミステリーの正統派の手法を使いながら、しかし、徹底的に、黒人差別のさまを描写していく、と。

もうホントに、後味とかすげー悪いぐらい、その描写は徹底してるんですよねぇ。
字幕には表れてないんですけど、「ボーイ(Boy)」という言葉があって。

これは、黒人男性を白人が呼ぶ時の言葉なんですね。「ミスター」じゃなくって、「ボーイ」。
一人前の大人扱い、つまり一人の人間として相手を扱っていない、という、象徴的な言葉なんですけど、これがとにかく徹底的に使われる。
“将校”でも、黒人なら「ボーイ」、つまり“クソガキ”だ、と。


それから、ストーリーが進むにつれて、被害者の黒人下士官がどういう人物だったのか、ということが明らかになってくるんです。
その、分裂症気味な人間だった、というのが。
そして、その“症例”に追い込んだのも、人種差別という“現実”なんだ、ということも描かれていくんですね。

要するに、徹底した差別(被差別)という過酷な現実の中で、黒人として、黒人の軍人としてどう生きていくか、という対立が存在していた、ということが、少しずつ明らかになっていくんですね。
その対立は、その被害者の人格の中にも「葛藤」という形で存在していて、同時に、調査を進める黒人将校の仲にもあるモノでもあって。

まぁ、それこそが作品のテーマなんだろうけど。
その辺の話の運びは、あんまり上手だとは思わないんだけど、ちゃんと作ってあります。

これは、ただ私小説風にテーマを語っていくのとは違って、ミステリーの形を借りて、というのが生きてる部分ですね。
ミステリーでは、「葛藤」が“動機”になり、同時に共感の道具にもなってる、というのは、王道な方法論ですから。



それから、これはディテールのアレなんですが、基地の司令官の私邸を訪れたときに、その家のマダムが庭仕事をしていて、フッとマダムが退くと、その奥に“ハウスニガー”が仕事している、という、なかなかパンチの効いた画がありました。


それから、これが実は一番重要なのかもしれないんだけど、その、白人たちの、黒人を差別している側の、相手(黒人たち)を侮蔑し蔑みながら、同時に怖れている、という表情がちゃんと表現できている、という部分。
その怖れは、差別している自分たちへの負い目から生まれてくるものでもあるんだけど。
そして、その怖れこそが“憎悪”を生み、という負のスパイラルがあって。
ま、それはそれで、別のアレですけどね。

でもホントに、人種差別の描写は徹底してる、と。そういう意味ではホントに凄い作品です。
低予算だけど、という意味でも凄いと思うし。



というワケで、未見だった自分を恥じながらも、いい作品を観れて良かったなぁ、と。


そういう作品でした。

2009年7月12日日曜日

昨日の「ER」

えー、久しぶりの更新になってしまいました。


昨日(土曜日)に観た「ER」が、久しぶりにキレキレな感じで、思わずテンションが上がってしまった…。

テーマは「男と女」とか、そんな感じだと思うんですけど。

色んな「男女」が登場して、という。
イカれてるカップル(コカインとマリファナのカクテルで、家に篭ってヤリまくってる)、仕事場で対立する男と女、女同士、協力し合う女同士、プレイボーイのドクターの今の彼女と元カノ、今の彼女の妊娠が発覚、それから、敬意で繋がる男同士、みたいな感じ。


「男と女」というか、“関係性”みたいな感じなのかなぁ。個人と個人の間にあり得る色んな関係性、みたいな感じ。

う~ん。
かなりグッと来た…。



映像的にはもっと斬れ味が鋭くって、特に、奥行きを利用した画と演出を多用してて。
こういうのを、画面設計とか、画面構成とか言うんでしょうかね。

手前にメインの人物がいて、奥にまた別の人物がいて、ピンボケ(と、ピン送り)を利用した画だったり。
思わず唸ったのは、その、奥にピンボケした人がいる、という手法をさんざん繰り返した後、最後に、なんと人物の“手前”に絵葉書の写真が入り込んでくる、という“逆”を持ってくる演出。
「うわ」みたいな。「手前に来た!」という。


それから、これは冒頭に近い時間だったんだけど、「ER」らしい、登場人物もセリフもごちゃごちゃしたシークエンスがずーっと続いて、人が出たり入ったりしてるんだけど、キーとなるセリフが発せられて、カットが変わると、突然「男だけ」の画になるんですね。
この画も、奥行きが利用されてて、手前に(そのカットでは)メインの人物がいて、背後に(そのカットでは)“その他大勢”の男たちがいて、という感じに。
それまでは、男も女もたくさんいて、わいわい言い合いながら進行してて(カットの数も多い)、それが突然、男だけのショットになる、という。

これは良かった。



う~ん。



ちなみに、来週の「ER」は、カーター先生がダルフールで、というエピソードらしい。
話がデカい。

ガラントはイラクに居るワケだし。

イラク、アフリカ紛争、シカゴの底辺に生きる男女。
まぁ、色んなモノを内包しているドラマなのだ、と。

ま、作品として、それが良いか悪いかっつーのは、さておき。


その、製作者サイドの志という範疇のアレですよね。
まぁ、そこは買いたいな、と。



いや。
幸せな1時間でした。

2009年7月3日金曜日

同い年の撮影監督さん

昨日(水曜日)の新聞に載っていた記事から。


撮影監督の石坂拓郎さん(34)はアメリカの大学を卒業ご、ハリウッドで活躍している。撮影助手などを経て約9年、同じミスをすれば首になる厳しい現場を見てきた。
撮影依頼は日本からも来る。手塚治虫原作「MW-ムウ-」だ。


「監督が思い描く物語を映像にすることが撮影監督の仕事。撮影で登場人物をどう見せるか、見失わないようにしました」
見どころは、刑事が(悪役の)主人公を追うシーンでのスピード感と迫力。
カメラは3台。車と併走するバスなどにも設置し、市場の雑踏や第三者の視点を加えることで臨場感を高めた。車も3台同じものを用意。役者用、スタントマン用、そしてカメラを取り付けた車に分けて撮影した。
登場人物の状況に合わせて映像の色調を変えるなど、シーンごとにアイデアを出した。主人公が地下道で発作を起こす場面は、CGを使わず、地下道を照らすライトが上から下へと流れるように見せることで「気が遠くなる感じが巧く出せました」。


(撮影監督を目指す人へ)「写真を始めるのがいいと思います。『寂しそうな空だな』と感じたら、フレームの中に感情を入れて撮る。その表情の連続が物語を作り、一つ一つが動くと映画になります



ですって。
「MW」
面白そうだよね。




でも、34歳で、大作の撮影監督。
凄いなぁ、と。


おいらも頑張ろうっと。