2009年7月16日木曜日

富野由悠季監督が吠える その2

富野監督が、日本外国特派員協会に招かれて講演した講演録からご紹介。

特派員協会では、色んな人が招かれてこういう形で講演をしてますよね。それこそ、宮崎駿監督もそうだし。(たしかここで、マンガ好きの麻生を「恥ずかしい」って言ったんだと思います)


で、さっそく。ちょっと長くなりますが、以下引用でっす。
オスカーをとっているスタジオジブリの宮崎駿監督のように、僕がなれなかったのはなぜか? 彼とは同年齢なのですが、「彼は作家であり、僕は作家ではなかった」。つまり、「能力の差であるということを現在になって認めざるを得ない」ということがとても悔しいことではあります。

富野さんの話には、毎度と言っていいほど宮崎さんの名前が出てくるんですが、まぁ、「意識してる」ということなのでしょう。
以前富野さんは、宮崎さんは鈴木敏夫さんという人間とチームを組んだから、オスカーを獲れるまでになったんだ、ということを言ってましたね。
その、スタジオワークについても。
今アニメーションという媒体に関しては危険な領域に入っていると思います。どういうことかと言うと、個人ワークの作品が輩出し始めていて、スタジオワークをないがしろにする傾向が今の若い世代に見えているということです。
スタジオワーク、本来集団で作るべき映画的な作業というものをないがしろにされている作品が将来的に良い方向に向かうとは思っていません。

不幸なことが1つあります。技術の問題です。デジタルワーク、つまりCGワークに偏りすぎることによって、昔、映画の世界であったスタジオワークというものが喪失し始めている。そのため、豊かな映像作品の文化を構築するようになるとは必ずしも思えないという部分があります。
ハリウッドの大作映画と言われているものがこの数年、年々つまらなくなっているのは便利すぎる映像技術があるからです。

ただ、文化的な行為ということで言えば、どのように過酷な時代であっても、逆にどんなに繁栄している時代であっても、その時代の人々はその時代に対して同調する、もしくは異議申し立てをするような表現をしたくなる衝動を持っています。
そういう意味でも、人間というのは社会的な動物であると思います。

まぁ、映像技術(というか、CG)に関しては、どんな時代にも常に“アンチ”は掲示されることになってるので、もうしばらくしたら、それはハイブリッドかもしれませんし、単なるアンチかもしれませんが、そういうモノがどこからか登場してるんだと思いますけどね。
願わくば、俺がそこに居れたらな、なんてことは思いますけど、まぁ、それは別の話ってことで。


大人を対象とする物語では、内向する物語(に、留まってしまうことが)が許されます。現実という事情の中でのすりあわせしか考えない、社会的な動物になってしまう大人にさわらないで済む物語を作ることができた、という意味ではとても幸せだったと思います。
また、大人向けを意識した時、「一過性的な物語になってしまう」という問題もあると思っています。(そうした物語から離脱できたことで)政治哲学者のハンナ・アーレントが指摘しているように、「独自に判断できる人々はごく限られた人しかいない」と痛感できる感性が育てられました。

う~ん。
子供向けだからこそ、真剣に作るのだ、みたいなことなんでしょうかねぇ。
これは、宮崎駿監督も似たようなことは言ってたかもしれない。「理屈で作っちゃダメなんだよ」とか、そんなことを。息子さんが監督した「ゲド戦記」を評して、そんなことを言っていた気がします。

物語を、敢えて破綻させるようなところまで持っていって(大風呂敷をめちゃめちゃ広げて)、それを無理やり回収していくことで“論理的”や“予定調和”や“ステレオタイプ”から脱出する、とか、そういうことなんでしょうかね。

もちろん、“定型”とも言える“構造”を利用しつつも、「子供向けなんだ」という“枷”をバネにして、構造から跳躍してなるべく遠くに着地する、と。
なんつって、ね。

言葉のアヤっスね。




今の日本では、アニメや漫画はかなりの大人までが鑑賞しているものになっています。
その風潮の中、僕のような年代が1つ嫌悪感を持っているのは、「アニメや漫画を考えることで作品が作れるとは思うな」ということです。つまり、「アニメや漫画が好きなだけで現場に入ってきた人々の作る作品というのは、どうしてもステレオタイプになる」ということです。
必ずしも現在皆さん方が目にしているようなアニメや漫画の作品が豊かだと僕は思いません。



(どういう作品がヒットするかという)問題に対して我々が回答を持っていないからこそ悪戦苦闘しているのであって、回答を持っていれば誰も何もやりませんし、勝手に暮らしていると思いますので、「成功する方法があったら教えてください」としか言えません。

僕が全体主義の言葉を持ち出した理由として、1つはっきりとした想定があります。「愚衆政治、多数決が正しいか」ということについては正しいとは言えない部分があるし、つまらない方向にいくだろうという部分もあります。
本来、ヒットするアートや作品というものは絶対に利益主義から生まれません。
固有の才能を大事にしなければいけないのに、全体主義が才能をつぶしている可能性はなきにしもあらずです。
ただ、スタジオを経営するためには『トイストーリー』を作り続けなければならない、という事情があることもよく分かる。「じゃあそこをどういう風にするか」ということについては、やってみなければ分からないから、やるしかないのです。


ちなみに、富野監督は、次回作の準備中だそうです。

2009年7月15日水曜日

「ソルジャー・ストーリー」を観る

月曜の深夜にやってる映画天国っつーので観た「ソルジャー・ストーリー」の感想です。



う~ん。いい作品でした。
この作品のことは、不覚にも知らなくって、この機会に観れてよかった、なんて思ってるんですけど、監督は「夜の大捜査線」と同じ人で、音楽を担当してるのはハービー・ハンコック。

作品のストーリーも、「夜の~」と良く似た構造を持ってるんですが、作品自体を巡る環境も、良く似てますよね。
「夜の~」は、もちろんシドニー・ポワチエですけど、こちらには、デンゼル・ワシントンがとても重要な役で出てます。
ちなみに、この作品は「夜の~」の15年後。ただし、こちらの方がかなりのローバジェットなハズです。

作品の舞台となる時代は、第二次世界大戦中、1944年。
実は「プライベートライアン」と殆ど同じ時期という時代設定ですね。



で。
ストーリーは、陸軍の黒人部隊で、ある黒人の下士官が殺されて、その事件の調査に、ワシントンから将校が派遣されてくるんだけど、その将校は実は黒人で、という。
で、その黒人将校が、事件の調査をしていく、と。
調査といっても、関係者・目撃者の聞き取りをしていくだけなんで、ほぼ安楽椅子探偵モノに近い感じ。

で、聞き取りを受けている人間が語る内容が、過去の出来事として映像で語られていく、という。
現在の時系列に、回想シーンを挿入して、ストーリーを運ぶ、という、いわゆるミステリーの正統派の手法を使いながら、しかし、徹底的に、黒人差別のさまを描写していく、と。

もうホントに、後味とかすげー悪いぐらい、その描写は徹底してるんですよねぇ。
字幕には表れてないんですけど、「ボーイ(Boy)」という言葉があって。

これは、黒人男性を白人が呼ぶ時の言葉なんですね。「ミスター」じゃなくって、「ボーイ」。
一人前の大人扱い、つまり一人の人間として相手を扱っていない、という、象徴的な言葉なんですけど、これがとにかく徹底的に使われる。
“将校”でも、黒人なら「ボーイ」、つまり“クソガキ”だ、と。


それから、ストーリーが進むにつれて、被害者の黒人下士官がどういう人物だったのか、ということが明らかになってくるんです。
その、分裂症気味な人間だった、というのが。
そして、その“症例”に追い込んだのも、人種差別という“現実”なんだ、ということも描かれていくんですね。

要するに、徹底した差別(被差別)という過酷な現実の中で、黒人として、黒人の軍人としてどう生きていくか、という対立が存在していた、ということが、少しずつ明らかになっていくんですね。
その対立は、その被害者の人格の中にも「葛藤」という形で存在していて、同時に、調査を進める黒人将校の仲にもあるモノでもあって。

まぁ、それこそが作品のテーマなんだろうけど。
その辺の話の運びは、あんまり上手だとは思わないんだけど、ちゃんと作ってあります。

これは、ただ私小説風にテーマを語っていくのとは違って、ミステリーの形を借りて、というのが生きてる部分ですね。
ミステリーでは、「葛藤」が“動機”になり、同時に共感の道具にもなってる、というのは、王道な方法論ですから。



それから、これはディテールのアレなんですが、基地の司令官の私邸を訪れたときに、その家のマダムが庭仕事をしていて、フッとマダムが退くと、その奥に“ハウスニガー”が仕事している、という、なかなかパンチの効いた画がありました。


それから、これが実は一番重要なのかもしれないんだけど、その、白人たちの、黒人を差別している側の、相手(黒人たち)を侮蔑し蔑みながら、同時に怖れている、という表情がちゃんと表現できている、という部分。
その怖れは、差別している自分たちへの負い目から生まれてくるものでもあるんだけど。
そして、その怖れこそが“憎悪”を生み、という負のスパイラルがあって。
ま、それはそれで、別のアレですけどね。

でもホントに、人種差別の描写は徹底してる、と。そういう意味ではホントに凄い作品です。
低予算だけど、という意味でも凄いと思うし。



というワケで、未見だった自分を恥じながらも、いい作品を観れて良かったなぁ、と。


そういう作品でした。

2009年7月12日日曜日

昨日の「ER」

えー、久しぶりの更新になってしまいました。


昨日(土曜日)に観た「ER」が、久しぶりにキレキレな感じで、思わずテンションが上がってしまった…。

テーマは「男と女」とか、そんな感じだと思うんですけど。

色んな「男女」が登場して、という。
イカれてるカップル(コカインとマリファナのカクテルで、家に篭ってヤリまくってる)、仕事場で対立する男と女、女同士、協力し合う女同士、プレイボーイのドクターの今の彼女と元カノ、今の彼女の妊娠が発覚、それから、敬意で繋がる男同士、みたいな感じ。


「男と女」というか、“関係性”みたいな感じなのかなぁ。個人と個人の間にあり得る色んな関係性、みたいな感じ。

う~ん。
かなりグッと来た…。



映像的にはもっと斬れ味が鋭くって、特に、奥行きを利用した画と演出を多用してて。
こういうのを、画面設計とか、画面構成とか言うんでしょうかね。

手前にメインの人物がいて、奥にまた別の人物がいて、ピンボケ(と、ピン送り)を利用した画だったり。
思わず唸ったのは、その、奥にピンボケした人がいる、という手法をさんざん繰り返した後、最後に、なんと人物の“手前”に絵葉書の写真が入り込んでくる、という“逆”を持ってくる演出。
「うわ」みたいな。「手前に来た!」という。


それから、これは冒頭に近い時間だったんだけど、「ER」らしい、登場人物もセリフもごちゃごちゃしたシークエンスがずーっと続いて、人が出たり入ったりしてるんだけど、キーとなるセリフが発せられて、カットが変わると、突然「男だけ」の画になるんですね。
この画も、奥行きが利用されてて、手前に(そのカットでは)メインの人物がいて、背後に(そのカットでは)“その他大勢”の男たちがいて、という感じに。
それまでは、男も女もたくさんいて、わいわい言い合いながら進行してて(カットの数も多い)、それが突然、男だけのショットになる、という。

これは良かった。



う~ん。



ちなみに、来週の「ER」は、カーター先生がダルフールで、というエピソードらしい。
話がデカい。

ガラントはイラクに居るワケだし。

イラク、アフリカ紛争、シカゴの底辺に生きる男女。
まぁ、色んなモノを内包しているドラマなのだ、と。

ま、作品として、それが良いか悪いかっつーのは、さておき。


その、製作者サイドの志という範疇のアレですよね。
まぁ、そこは買いたいな、と。



いや。
幸せな1時間でした。