2015年1月27日火曜日

「トゥルース 闇の告発」を観た

CSの映画チャンネル・ムービープラスで、レイチェル・ワイズ主演の「トゥルース 闇の告発」を観た。


ベネディクト・カンバーバッチ特集企画の中の作品だったんですが、カンバーバッチは実は端役ででしか出てきません。
同じく、モニカ・ベルッチも登場しますが、こちらも脇役。


というかですねぇ。
このスター二人が、脇役なワケですけど、なんていうか、例えばいわゆる“二時間サスペンス”だと「萩原流行(もしくは本田博太郎)は必ず犯人だ」みたいな“法則”があるワケですよ。
名前のある俳優が演じているキャラクターなんだから、重要な役どころに違いない、みたいな。
この作品でも、カンバーバッチが「あとで出てきて窮地を救うんだろな」みたいに思っちゃったりするワケですよねぇ。
毒されている、と言えばそうなんですけど。
「これは何かの伏線に違いない」と勝手に思い込んでしまう、という。

ところがまぁ、そういうことにはなりません、と。


そもそもこの作品は、実話を基にした、シリアスな“告発もの”として製作されたもので、二人のスターが端役で登場しているのは、恐らく、製作意図に賛同して“顔を貸した”という、そういうことなんだと思います。
あんまり好きな言葉ではありませんが、「メッセージ性の強い」という、そういう作品。


ユーゴ内戦、民間軍事会社、国連平和維持活動、ヒューマン・トラフィック(人身売買)、というのが、キーワード。


冒頭、確かウクライナだと思うんですけど(違ったかな? 東欧の別の国かも)、少女二人が、キャンプファイヤーみたいなパーティで遊んでるんです。
で、女の子同士で、片方は「働きに行こう」と誘ってて、もう片方が「ママが心配するから」と言って、帰ろうとする。
「ホテルで働く口がある」という話なワケですね。それが、騙されて(しかも、親族に)人身売買で“売られていく”ということなワケですけど、その女の子は、一旦家に帰るんです。深夜に。
で、パーティーから帰ってくるんですけど、「遅い時間までなにやってんのよ」と、母親に怒られるんですね。女の子が。
そこで、ムッとしてしまう女の子。
で、と。
家出してしまうワケですよ。
誘ってきていた友だちの話に、乗ってしまうワケです。


この、イントロダクションの部分の、「いったん家に帰る」というフックが、まず良かったですねぇ。
ただの家出じゃないし、分別なしのただの不良娘じゃない、という“前置き”があって、これが、人身売買・性的虐待・暴力犯罪の被害者となってしまうその女の子に対しての、悲劇性とか感情移入とかに、効いてるんですよ。
巧いです。


で。
主人公は、そのイントロダクションの後から、登場します。

主人公は、アメリカの女性警察官で、昇進試験に落ちたり、離婚して娘と引き離されたりとかで、なんか生活が上手くいってないのを打開しようと、という感じの動機で、ボスニアに赴く。

アメリカの白人女性、というのは、なんていうか、世界的な視点で見ると、物凄い特殊なんですよ。
レディーファーストと男女平等、という二つの“教条”に、「建前上は護られている」という存在で、もちろん、実際の感覚としては男女差別というのは間違いなくあるんでしょうけど、でも、特に公務員として働いている場合は、少なくとも建前上は、護られている。

これは、特に“後進国”と言われている場所では、まったく違うワケです。
西ヨーロッパ以外全て、と言って良いくらいに。
男女差別と、人種差別。
白人であり女性であり、職業を持っている、という、アメリカ国内では通用する“バリア”が、ボスニアでは、まったく通用しない。

剥き出しの女性蔑視、人種の違いによる差別意識が、ストレートな悪意や迫害として表出してくる。



で。

ストーリーは、ある種のサスペンスとして、「犯人を突き止める」という形でドライブしていくんですが、ここで大事な問題があって、それは、原題が「the whistleblower」となっているトコ。
ホイッスルブロウアーというのは、直訳すると「笛を吹く人」なんですけど、「内部告発者」という意味なワケですよね。
つまり、タイトルで「これは内部告発を扱う作品ですよ」と宣言してしまっている。
つまり、「主人公は内部告発をする」ことが明らかなワケで、彼女が所属している組織が、その「告発される組織」なワケです。
つまり、ストーリー上では、話の起こりの段階で、既に「サスペンスが消化されている」ことになっちゃってる。

もちろん、作り手だって、そんなことは充分承知の上でやっているんでしょうけど、ちょっと「あれ?」な感じはあるんですよ。やっぱり。

まぁ、そういう、サスペンスの作品ではなく、社会派ドラマとして観てくれ、ということなんでしょうけどね。

人身売買・性的搾取及び暴力。それらの、組織犯罪。



ストーリー本体に話を戻すと、やっぱりポイントなのは、民間軍事会社、ということですよね。
国連から“業務”を請け負って、現地で活動している。

主人公は、警察官として、現地の警察組織を支援する、という立場で、実際にボスニアで動くことになる、というストーリーなんですけど。
つまり、現地の警察、という組織が出てきます。

それからもちろん、国連。
現地の移民局、という組織も出てきます。(モニカ・ベルッチは、ここの役人、という設定。)
それとは別の、内務省の人間も出てきます。
それから、アメリカ国務省も。


官僚主義という、誰も何も救わない“悪癖”。


これが完全なフィクションのストーリーなら、それこそカンバーバッチが颯爽と出て来て、少女も主人公も、組織犯罪の悪夢と官僚主義の谷の底から、救い出すんでしょうけど、この作品では、そうはなりません。


現実がそうである以上、それはしょうがない。



苦い感覚を引き摺ったまま、作品は終わりますけど。
それも、作り手の狙いのままでしょう。




苦いですけどね。



特に、この作品の“苦さ”の中心にあるのは、被害者である少女二人が放つ、徹底した不信感だと思うんですね。
助けようとする主人公に対して、最後までまったく心を開かない少女。
そして、結局“その通り”になってしまう、痛々しい現実。
裏切られ、利用され、蝕まれ、奪われ、痛めつけられ、虐げられ、逃げようとして叶わず、誰一人として、助けてくれず、助けられたと思ったら裏切られ、という。

彼女たちに対する、無力な主人公たち。


繰り返しになりますが、映画のイントロダクションが、主人公ではなく、彼女たちの描写から始まる、というのが、しっかり効いているワケで。



うん。
冷静に捉えようとすれば、これはホントにシナリオの強さだと思いますが、シナリオの良さを褒めることが、この作品の“本意”でないことも、明らかなワケで。


“現実”の告発こそが、この作品の製作意図なワケですからね。



うん。





気になる弱点はあったりしますが、社会派の作品としても、シナリオの良さを感じる作品としても、良かったと思います。