2009年5月30日土曜日

「英雄の条件」を観る

午後のロードショーで、「英雄の条件」を観る。
書き忘れてた感想です。


個人的にこの作品は大好きで、ま、何度も観てるんですが、今日は感想として、この作品の「構造」について。

法廷モノっていうのは、その“ジャンル”があるぐらいなんで、映画という表現との相性が良い、ということだと思うんですけど、それは、ストーリーテリングの手法としての「論理性」と、法廷での審理を進めるにあたっての実際の手順の「論理性」というのが、上手く合致しているから、だと思うんですね。

で、この作品では、そこに「軍隊」という要素が加えられて。
俺は、アメリカ軍のことしか知らないんですが(もちろん、こういうジャンルの映画や小説やノンフィクションから仕入れた知識ばかりなので、間接的な知識ではありますが)、「軍隊」というのは、社会の基本的な要素を、そのまま自給自足する組織なワケですね。警察も、軍隊の中に「自分たちの警察」を持ってますし、医師も、「自分たちの医師」を育てるシステムを持ってますし、法廷も、同じなワケです。
軍事法廷の場合、検事(原告)も軍人、弁護人の軍人、被告も軍人、裁判官も軍人。そして、陪審員も軍人。

で。
この作品では、「国家」「軍人としての個人」「1人の人間としての個人」という、幾つかの階層が「構造」としてあるんですね。正確には、「国務省」「軍」「軍人として」「1人の人間として」という階層。

国務省に所属している大統領補佐官が、「国家」の層を表していて、被告(サミュエル・L・ジャクソン)に罪を被せようとする。
同じく「国家」に属しているはずの、被告に命を救われ、本来なら被告に有利な証言をすべきである大使は、「1人の人間」がもつ卑しさにつけこまれ、「国家」に有利な立場に“逃亡”する。
「軍」の層には、ここが一番微妙なんだけど、被告の心情的な味方になる、被告の上官と、もうひとりとても大事な役回りを演じる、検事役の男、というのがいて。そして当然、被告。

で。
主人公は、「1人の人間」としての苦悩も抱えているんですね。父へのコンプレックス、自分のキャリアへのコンプレックス、息子との関係、それらを比喩的に示す、アルコール依存症というトピック。

で、そういうのが全部、入れ子状になってる。
この、入れ子状になってる「構造」の巧さと、その使い方、運び方。

例えば、ラスト前に、補佐官に、「個人的な報復」を告げにいくワケです。つまり、階層を「1人の人間」がブチ抜いている。
この前で、老父と(小生意気な)息子に最終陳述を褒められて、「1人の人間」としての“葛藤”を超えているのと加えて、観る側は、ある種のカタルシスを感じるワケですよね。ここで。
「構造」が、ここで閉じている。
閉じた上で、被告が無罪、という、ストーリー上の大命題の回収があり、ストーリー自体も閉じる。

それから、この作品は当然、主演の二大スターの作品として語られるワケですけど、もう1人とても重要な役どころがあって、それは、ガイ・ピアーズの検事なんですね。
ともかくこの人の表情と立ち姿っていうのが、画面に緊張感を与えているワケです。
で、この人の、法廷での微妙な反応とかを、カットアップで上手に見せていく。
隠蔽されたビデオテープを巡って、補佐官が、自分に責任を負わせようとしているかのような発言に、鋭く反応する、とか。
大御所2人と法廷で対峙するには、それなりの存在感がないといけないワケですけど、その役目をしっかりと果たしていて。
ま、いいですよね。


それから、ベトナム戦争から中東での騒乱、という、シチュエーションの立て方も、まぁ、いかにも「好戦的なアメリカ」というか、「仮想的を作らずにはいられないハリウッド」というのを、作品自体の中で(結果的に)批評的に示唆してもいて。
結末として、ベトナム人のかつての仇敵と、敬礼を交し合う、というシーンがあるんですね。これはホントに微妙なショットで、「構造」的に言えば「軍」ではなく「軍人」同士として、「1人の人間」同士として理解し合えた、ということになるんだけど、かといって、もっと大事な、そもそもの“中東での問題”が全然解決してない、ということにもなってて。
特に赤十字の医師の描き方っていうのが、ね。
あまり良くないですよね。

彼らの“動機”をちゃんと描かない、というのは、ま、この手の作品の常套手段ではあるんですけどね。
敵方の指導者の姿を描かない、とか、語らせない、というのは。

ま、それも含めての「構造」ですから。

えぇ。
いい作品だと思います。

2009年5月15日金曜日

「麦の穂をゆらす風」を観る

名手ケン・ローチの、カンヌでパルム・ドールを獲った名作「麦の穂をゆらす風」を観る。


まぁ、名作ですよね。
大英帝国の支配下にあったアイルランド、という題材は、アメリカ映画でも何度も語られていて、なんだか知らない間にずいぶん詳しくなったりしてて。
ま、そういう、「歴史を未来に伝えていく」みたいなことも、映画の力なんだなぁ、と。
ちょっとしみじみしちゃったりして。

ただ、ケン・ローチは“モノホン”ですからね。
エネルギーが違いますから。
画やストーリーは、アイルランドの“雄大な自然”とか、そういうのもあって、淡々と、とか、静かに、とか、そういう形容詞で語られたりするんでしょうけど、まぁ、たぎってるエネルギーが違いますよ。
ケン・ローチの魂がパンパンに込められた作品だと思います。ホントに。


ストーリーの骨格は、医師の道を捨てて「義勇軍」(当然、支配者のイギリス側にとってはテロリスト、ですね)に参加する主人公の目線で語られるんですが、その置き所が絶妙、というか。
最初は、「一緒には闘わない」と語らせておいて、駅のホームでの出来事が、彼の気持ちを変えるんですね。
で、わずかワンカットで、義勇軍に加わる、ということになって。

この時の、イギリス軍の兵士に殴打される運転手が、あとに“同志”として再登場するんですね。

この「元運転手」が、効いてるんです。
主人公の兄は、義勇軍の指導的な立場にいて、過去から現在まで、ずっと主人公に対して影響を与えてきた人物として描かれるんですが、やがて兄弟は対立する、というのがストーリーなワケです。

で、その元運転手は、主人公に対して「もう一人の兄」として現れるワケですね。


ストーリーの中で、少し唐突に、栄養失調で、というシークエンスが挿入されるんです。
ここは、物凄いさりげないシーンなんですけど、まさにここが作品のキモでもあって。

つまり、戦いの、というか、主人公が闘いに加わる動機というのは、「貧困」なワケですね。
これは、後から加わってくる動機でもあるんです。
主人公の動機ということとは別に、観る側(観客)に対して、アイルランド側の戦争の動機のひとつに「貧困」というモノがあるんだ、と。
この語り口の巧さには、よくよく考えれば考えるほど、凄みを感じる、というか。

つまりそこが、ストーリーの後半で語られる、「独立戦争」から「同胞同士の内戦」へシフトしていくキーなワケです。
「独立すればいい」のか、「貧困が解消されなければならない」のか。ここに対立がある。
そしてそこにこそ、この作品が語る悲劇性があって。

最初から語らない、と。
ここがねぇ。
かといって、前半部分に高揚感を持たせるとか、そういう演出でもなくって。
雇い主の圧力で、半ば仕方なく密告した幼馴染を“粛清”したり、とか。十分“苦い”ワケです。前半部分で描かれているモノも。

しかし、後半では、もっと苦い!


で、例えば、この前半部分でもひとつの映画になるワケですね。同じように後半部分でも、ひとつのストーリーとしてあり得る。
しかし、その両方は、この作品では同時に描かれなくてはならない。
限られた時間。
その為の、ストーリーを運んでいく手捌きの、スピード感、というか。決してセカセカした演出やカット割りではないんだけど、しかし、話の運び自体は結構なスピード感で。
かといって、語り切れてないシークエンスがあるかっていうと、そういう不十分感は全然なうくって。
要するに、無駄が無い、ということだ思うんですけど。

そういう巧さは、改めて感じました。

例えば、イギリス軍の士官が下士官に命令を下し、下士官が兵卒に「手を下す」よう命令し、そして次のカットでは、その兵卒が主人公たちの側に寝返って、と。
これをほんの数カットでサラッと見せられると、なんていうか、逆に強い説得力を感じたりして。


それから、同じ家が何度も“蹂躙”されるんですね。
ここは、ホントに唸りましたね。冒頭と、中盤、そして三度目は、「同胞たち」によって。
ここの「何度も匿ってやったのに」という老母の吐くセリフは、マジで強烈です。



「麦の穂をゆらす風」ですか…。
「麦」っていうのは、地に足を付けて生きている、アイルランドの生活者たちのことですよね。
で、「風」っていうのは、大英帝国のことではなく、「戦乱」そのもののこと。

「戦乱」が、地道に生きようとしている彼らを揺らしてしまう、と。
そこに悲劇がある、という。そういうタイトルだと思います。俺は。



うん。
まぁ、観る人によって色々受け取るモノが違ってくる作品でもあるかもしれませんね。
だからこそ名作なのかもしれないし。
人によって解釈が色々あるのは、ある意味では当然っちゃ当然なんで。

そういう意味でも、ぜひぜひ、たくさんの人に観て欲しい作品です。



ちなみに、実は俺は、ケン・ローチの作品はあんまり観た事がないんですが、観た作品の中に、「大地と自由」という、これまた物凄い傑作がありまして。
スペイン内戦を題材にした作品なんですが、これも個人的には大好きで、お薦めの作品です。

この「麦の穂をゆらす風」の、後半部分でもひとつの映画としてあり得る、というのは、この作品のことでもあります。興味がある方は、「大地と自由」もぜひどうぞ。


2009年5月13日水曜日

「カラーズ」を観る

ショーン・ペン主演(ということが一応看板になっている)、デニス・ホッパー監督の「カラーズ 天使の消えた街」を観る。 久しぶりに、「カラーズ」を。 一応説明しておくと、「colors」(原題もこれ)っていうのは、“カラーギャング”のことですね。 「池袋ウェストゲートパーク」でも、そういうのが描かれましたけど、この作品は初めて“カラーギャング”を題材にした作品、なんてことも言われてて。 ま、そういう、一部ではカルティックな受け止め方をされている作品ですね。 主演がショーン・ペンとロバート・デュバルで、例えばDVDのジャケットなんかにもそういうのがウリだってことになってますが、正確には、彼らは“狂言回し”に過ぎなくって、実際は、LAという街の“現実”の悲劇性を描く、という作品です。 ちなみに、邦題の副題である「天使の~」っつーのは、「Los Angels」の“エンジェル”のことですね。「天使の街」っていう名前の都市なのに、そこに「天使」なんかいない、という、一応ちゃんと意味のある副題なんですけど、逆に安っぽくなってるのが残念。 いい作品なんですけど。 ま、感想は今さら、という気がしますが、なんせ久しぶりに観たので、それはそれで結構新鮮に観れちゃいました。 あ、あと、クレジットで気づいたのが、撮影監督がハスケル・ウェクスラー(ウィキペディアの当該項目はこちら) 個人的に一番気に入ってるショットは、高層ビル群を背景に、カメラがパンダウンしてくるとそこにはスラムが広がっていて、そこをギャングたちが歩いている、という、まぁ、かなり“イメージ重視”のショットですね。 この画は、その強さゆえに、かなりの量のエピゴーネンを生み出してます。(ま、意図が極めて分かりやすい、というショットでもあるので) それから、ひとつ大事なポイントとしては、登場人物たちが刑務所(留置所)に収監されているシークエンスが描かれるんですが、その、刑務所こそが一番の情報が流通する場なのだ、ということですね。情報交換の場だし、犯罪者同士が出会って交流する場でもある、という部分。 ノワール系の作品においては結構大事なディテールだよな、と。 暴力の連鎖、という、そしてその“暴力”を生み出しているのは、貧困と差別と、そこから生まれてきてしまう絶望なのだ、という、まぁ、21世紀の現代でもまったく普遍性を(残念ながら)失っていない、重いテーマを扱った傑作です。 

2009年5月10日日曜日

「スモーキン・エース」を観る

一応、ベン・アフレックが主演ってことになってる(個人的には、主演はアリシア・キーズ)、「スモーキン・エース」を観る。


いやぁ。
傑作。

こんな面白い作品だなんて、全然そんな話なかったんですけど。(というか、今でも評判はあまりよくないっぽい)
いいでしょ。大好きです。
個人的には、「ユージュアル・サスペクツ」以来かも。


まず。
アリシア・キーズが殺人的に美しい!
このことを、まず書いておかないと、という感じです。マジで。
殺人的に美しい。

アリシアが娼婦(を装った殺し屋)を演じる、というだけで、心臓バクバクしますけど。


それから、ディテールを幾つか。
そのアリシアが登場するシークエンスで、彼女は殺し屋なワケですが、そのスタイルがいい。女の2人組なんだけど(相棒は「ハッスル&フロウ」に出てたクシャクシャ顔の女優さん)、アリシアが娼婦に化けて潜入してターゲットに接触して、もう一人が離れた所で巨大なライフル(ロケット弾みたいなヤツ)を構えている、という、このアイデアがクール。
前衛のアリシアと、後衛の相棒。で、そのライフルのスコープを使って、というシークエンスは結構グッと来ました。無線で話してるんだけど、スコープ(照準の十字マーク付き)でアリシあの姿を見ながら、という。
しかも相棒はレズビアンで、アリシアに惚れてて、と。
この関係性は、ライフルで離れた所からバックアップする、という相棒に対して、“動機”の奥行きを作ってるんですね。
うっかりしたら、この関係性だけで作品を一本作れるぐらいのアレですから。
ま、アリシアの美貌(と、胸。あと脚。もちろん目元と唇も。というか、全部)ありきで、ですけど。


もう一つは、ターゲットとなる男の経歴。マジシャンなんだけど、ショービズからマフィアに転身してしまう、という男。
この設定は、はっきり言って面白いですよ。そういう“裏の世界”に多少なりとも憧れを抱いている人って、ショービズの世界に限らず、いるハズだし、しかもラストに明かされる「出生の秘密」とも、実は繋がっている設定だったりするから。
実は作中ではあまり語られないんだけど、これは「父と息子」の物語だったりするワケですよね。ただの“軽い男”じゃないワケです。ターゲットの男は。私生児(違うか? 少なくとも、シングルマザーの子)として育ち、マジシャンとして成功を果たした後に、父親の住む世界(マフィアの世界)に足を踏み入れていく、という、それはそれで、ちゃんと語ろうと思えば語り得るストーリーがそこにあって。(ちなみに、作品中ではホントに全然語られてないんですけどね。もったいない)



で。

最も注目しないといけないのは、その「構造」。
ストーリー上の「構造」ではなく(もちろん、それとも関係してくるんだけど)、ストーリー上に設けられている物理的な「構造」です。

上手く説明出来るか分かりませんが、とりあえず言えることは、「密室」を幾つも作るワケです。
ホテルのスイートルーム、エレベーターの中、警備室、と。
ホテルのエントランスフロアも、広がりがある空間とは描かれなくって、凄く狭い空間として描かれてて。
ワシントンの会議室も“密室“であると言えばそう言えるし、例えば、マフィアが寝ている寝室みたいなの(後に、病室)も、“密室”と言えるし。

で。
特にホテルでは、スイートルームという、水平方向に広がった空間と、エレベーターという、垂直方向に繋がった空間が交わってるワケですね。
銃撃戦は、上下の2つのフロア(と、スイートルーム)で起きて、そこを、エレベーターという空間が接続している。
時間軸が多少無視されていて、そこを演出上の弱点と認識しちゃう人もいるかもしれませんが、個人的には、そんなことはどうでもよくって。
この、物理的な「密室空間」を幾つも設ける、という感覚が、とりあえず、凄い。

そこに、物凄い人数の人間が投入されるんですけど、ある者は死に、ある者は助かり、間一髪で逃亡し、逃亡しかけて殺されたり、と。
この混沌の感じもいいですね。投げっぱなしの感じも、個人的には大好きです。



特に、2つのフロア(ペントハウスと7階)で同時に銃撃戦が始まる瞬間は、ホントにクール。
こんなシークエンスを作れる(撮れる)なんて、監督冥利に尽きるんじゃないんでしょうか。



しかし、コモンはおいしいね。
役柄も凄いクールだし(コモンは声が良くって、それがシリアスな会話のシーンにマッチしてて、雰囲気を作ってる)、ラストにアリシアを連れて、ということだし。
エスコート・ヒーロー。
良いです。


それから、“ホテル”で言うと、舞台となるホテルのすぐ目の前に建っているもう一つのホテル、というのがあるんですね。
最初、この存在が妙で、普通ホテルの窓の外っていうのは、湖がバーンと広がって、その景色の美しさもウリです、みたいなアレになってると思うんだけど、そうじゃなくって、もう一つホテルが建ってるワケです。
で、それを最初っからちゃんと映していて。
スイートルーム(最上階)と、他の階の部屋だと、階の高さが違うから、窓の外の景色も違ってくる、みたいな演出があって、それだけだと思ったんですけど、そうじゃないワケですね。そちらのホテルから、アリシアの相棒が狙っていて、ということになってて。
この設定は、実は結構大事だったりするワケですよね。
うん。



いや、でもやっぱり、「密室」かなぁ。面白いのは。
上手に説明出来ないんだけど。



大勢いる登場人物の“キャラ立ち”については、正直ピンと来ませんでした。
「男塾」みてーだな、とは思ったんですけど、だからどうした、という結末ですから。
あんま関係ないっスね。



ストーリーの運びは、色んなラインが交錯する、という、いわば群像劇のスタイルで進んでいくんですが、それぞれが上手にシンクロしてる感じがして、ここも好感。
例えばガイ・リッチーは、個人的にはその“シンクロしてる感”が欠けている、という風に感じてて。
こういう話の運び方は、とても気持ちいい。
前半のかったるい流れは、後半部分の一気にドライヴしていくアクションパートの布石にもなってて。
音楽は物凄いダサいですけどね。


あ、それから、ディテールとしては、ラストの病院のシークエンスにひとつ注目ポイントがあって、その病院に入っていくカットで、隅の方に映ってる警官の演技が凄い良かった。
返り血を浴びたままの(FBI捜査官の)主人公格の男が病院に入っていくんですけど、そこで、フッと動くんですね。制服警官が。
その演技は、ホントに自然で、作品全体でもとても重要なシークエンスの導入になってるこのショットで、凄い“いい仕事”をしてるな、と。



もう一回観ちゃうかも…。



そんな作品でした。

子供は観ちゃダメだけどね。



あと、演出的な「感情のライン」はぐちゃぐちゃです。そういうのを致命的な欠点と感じちゃう人には、お薦め出来ない作品ですね。
世間的な評価の低さっていうのは、その辺りに原因があるのでしょう。きっと。
個人的には、この作品に関しては、そういうのはあんまり関係ないっス。

うん。


傑作。


2009年5月8日金曜日

「ラッキーナンバー7」を観る

昨日観た作品とはうって変わって、スター揃い踏みな「ラッキーナンバー7」を観る。

ま、ジョシュ・ハートネット(主演)がめちゃめちゃカッコいいな、と。そういう作品ですね。

作品としては、あんまり面白くなかった。



なんつーか、体温が低いんですよねぇ。
それは、ハードボイルドとして定義される“クール”とは、ちょっと違う感じで。
もちろん、作り手側は、そういうのを狙ってるとは思うんですけど。

うん。
ハードボイルド、フィルムノワール、そういう“ジャンル”の新機軸、ということなんだとは思うんですけどね。
でも、イマイチ。
もっとテンションが高くないと。

ストーリー中に、主人公の正体と動機が明かされるんですけど、全然驚きとか無いし。
これ、どういう風に語ったら一番効果的なんでしょうかねぇ。

例えば、ヒットマンが、全然関係ない男を殺すんですけど、そこで、その殺しの意味を語るんですね。
この“語り”は、定番というか、お約束なんですけど、これをもう一回やる、とかね。
“息子”を殺すときに、もう一度語らせる、とか。むしろ、そこだけにして、そこで正体を明かす、とか。


ヒロインとの関係も全然面白くないし。
「こういう無機質な感じがクールなんでしょ?」みたいな雰囲気なんですよねぇ。作り手の。
それが全部スベってる気がするんだよなぁ。


唯一気になったのが、編集のタイミングの奇妙な感じ。
この間は、実は大好きです。

あと、壁紙が妙にポップで、それは良かった。
逆にそこが気になってしょうがない、というのもあるけど。
特に廊下を歩くシーンは、編集の間が独特なのと、壁紙が雰囲気を作ってるのもあって、ポイント高いです。(でも、それだけかも)


監督は、ポール・マクギガンという人。
どっかで聞いたことある名前だな、と思ってたら、「ギャングスター・ナンバー1」という作品(イギリス産)の監督でした。
実は、この作品は大好きなんですけど。



う~ん。
なんだろう。
やっぱ“テンション”が低い。
この間ここに書いた、坂本龍一の「映像の力が弱い所に音楽を入れればいい」という言葉を思い出しちゃったんですよね。
もっとグルーヴ感の強いサントラを被せて、そのリズムを使ってぐいぐいドライヴさせたら、もっと雰囲気が変わったんじゃないかと思います。
「ギャングスター・ナンバー1」は、確かもっとテンションが高い作品だった気がするし。

実は、最後の、ストーリーのエンディングとエンドロールに流れる曲っていうのがあって、これが凄い良くって、「えー?」って感じで。
なんてもったいないんだ、と。
「これ使え」というか、「この雰囲気でぐいぐい行けよ」という感じ。






ちなみに、その曲はこちら。なるべく大きな音量で聴いて下さい。





まぁ、これだけのキャストを揃えておきながら、なんとももったいない作品だな、と。曲も含めて。
そういう作品でした。

編集の“間”は、勉強させてもらいましたけどね。


2009年5月7日木曜日

「ブラックサイト」を観る

「ブラックサイト」を観る。 ま、ノースターなサスペンス作品なんですが、インターネットを題材にしてる、ということで、公開は去年なんですが、なんとなくアンテナには引っ掛かってた作品ではあったので。 結論から言うと、テーマは実は、そんなに先鋭的ではなかったですね。 単に、インターネット(ウェブ)を、「社会に対する復讐」のツールとして使う、ということだったので。 個人的には、「単なるツール」ということであれば、“先鋭的”だとは思わないので。 が。 実は、だからダメ、というワケでもなく、面白い作品ではありました。 ディテールが面白かったんですよね。 まず、題材が題材だけに、PCのモニターの中の映像、というのが頻出するワケですが、この「モニターの枠」というのがキモになってるんですね。 「窓枠」をチラ見せしてくるんです。ワリとしつこく。 家の外から、窓越しに家の中の様子が見えるんですが、それは、その「窓枠」が「モニターの枠」を暗示してる、という。 つまり「見られてますよ」ということを、ワリと早い段階から言っちゃってるんです。 で、その通りの展開になったりして。 “その通りの展開”っていうのは、実は何度も繰り返されてて、それはどうかと思うんですけど、ま、監督さんの意図なんでしょうね。 「空撮」が多用されてて、それが実は、犯人の動機と関係があったり、とか。 俺は、もう少し違う意味があるのかなぁ、なんて思ってたんですけど、ちょっと違いましたね。 あと、芝刈り機。 二度目に出てきた瞬間に分かっちゃいましたからねぇ。 一度目は、明らかに不自然な使い方だったんで、「?」って感じだったんですけど、それも伏線でした。 ま、その「すぐに分かっちゃう」っていうのも、ひょっとしたら演出の意図通りなのかもしれませんが。「あー、早く分かれよ」ってキャラクターにヤキモキさせられちゃう、とか。 それから、不思議なのは、第三者というか、作中では“共犯”とされている、その他諸々の人たちの映像がまったく出てこないんですね。(スケーターがモバイル機器で、というショットだけ) これは不思議。モニターの中の、カウンターの数値だけで表現されてて。 「姿は見えないけど、確かに存在している」とか、そういうアレなんでしょうか? ちょっとぐらいあってもいい気がしますが。 ただ、警察(FBI)の会議室の光景はちょっと奇妙で、出席者の全員が、ただモニターを見ているだけ、という画なんです。他に何にもしてない。(会議室で捜査活動は出来ないですから) ただ殺される過程を口を開けて見ているだけ、という、ある意味一番残酷なショットが、何度も繰り返されるこの会議室のショットで。 予算の都合なんか、何かのメタファーなのかなぁ、なんて。ちょっと考えちゃいました。「無力な官僚的な捜査官たち」とか、そんななのかなぁ、とか。 で、サスペンス部分は面白いんですけど、動機が、ねぇ。 「テレビと警察」に対する犯行、ということなら、これは面白くもなんともないっス。 これだと、ウェブは、何なるツールですからね。 古典的な誘拐犯が、“電話”で身代金を要求してくる、というのと同じですから。誘拐行為に車を使って、それを乗り換える、とか、そういうのを同じ扱いですからねぇ。 そういうことじゃないと思うんですよね。 犯行も、捜査官たちも、フィールドが妙にローカルだし(何度も「ポートランド」という地名が強調される)。 ま、その辺の“期待”は裏切られた、ということで。 それはそれで、しょうがないっス。 ということで、サスペンスとしては普通に面白い、佳作という感じでしょうか。 でも、最近ならこのくらいは、それこそCSIとか、テレビドラマでもやっちゃってるからねぇ。 “映画”ですから。 もうちょっと、ね。何かあっても良かったんじゃないかな、とは思います。 

2009年5月3日日曜日

「アトランティスのこころ」を観る

TBSのダイヤモンドシアターで、アンソニー・ホプキンス主演の「アトランティスのこころ」を観る。


最初は知らなかったんですが、オープニング・クレジットに「原作 スティーヴン・キング」と出てまして。
で、見始めてすぐに、「なるほど」と。

中年にさしかかっている主人公の男が、友人の死の知らせを受け、自分の過去を振り返る、と。
まさに「スタンド・バイ・ミー」の世界なんですね。
焼き直しと言ったら言葉は悪いですが、しかし、「スタンド・バイ・ミー」で描かれている情景こそが、スティーブン・キングの「作家のテーマ」なワケで。

それを、手を変え品を変えて語っていくのだ、と。

ま、いい作品ですよ。

主演がアンソニー・ホプキンス、主人公の中年時代を演じるのがデヴィッド・モース、監督が「シャイン」のスコット・ヒックス、それで原作がスティーヴン・キングですからね。
そりゃ、いいに決まってます。



テーマはずばり、「“子供”を捨て、大人に変わっていく」という、ここが「スタンド・バイ・ミー」と一緒なトコですね。
いわゆる成長譚なんですが、その舞台が、日常風景の、ホンの少し外側にある、というのが、S・キングらしいんですけど。
しかも、季節は「夏」。ここがミソ。

ラストに、中年になった主人公が自分の故郷を訪れるんですが、この時の季節が冬で、ここは対比をちゃんとしよう、と。
廃墟になった家屋の絵面って、結構インパクトあるし。


「スタンド・バイ・ミー」では、若くして亡くなった兄との永遠に続く対比に苦悩する主人公が登場しますが、この作品でも、やたらグラマーで我儘で、息子には(愛情は注いでいるものの)薄情な母親、という存在が設定され、その母親に対して“自己主張”をぶつける、という、つまり反抗期にさしかかる瞬間、というのが描かれるワケですね。

毎日が楽しくて楽しくて、そんな日が永遠に続くと思ってて、周囲を疑うことも知らずにいた、ある年(主人公が11歳の年で、この年齢は作中では強調されて出てきます)の夏休み。

その夏の間に色々あって、そして町を出て行く、と。
そういう物語ですね。


ポイントは、やっぱりラスト。“ガールフレンド”の娘、というのが登場するんですが、彼女が、見るからにやさぐれてるワケです。そんな彼女に、かつて自分が飲み屋(兼、非合法ノミ屋)の女将にしてもらったように、親の若い頃の写真を差し出す、と。
このシーンは、ホントにグッと来る。
無関心そうに去って行きそうだった娘が、立ち止まって、写真を受け取ろうと手を差し出す、という。


この監督さんは、名作「シャイン」でも、父との葛藤を抱えた主人公を描いてますが、その辺りはこの作品とも共通項があるので、ひょっとしたら、それは監督自身のテーマでもあるのかもしれませんね。


子供から大人へ。
それは、何かを失うことなんだ、ということですね。キングに言わせると。
そして、人生は水が流れるように流れていってしまうものなんだ、と。「いつまでも子供のままで」なんて無理なことだし、抗うことは出来ないし、だからこそ、“追憶”は常に切ない感情とともにあるのだし、それは語る価値のあることなんだ、と。
そういうことっスかねぇ。


ちょっと感傷的すぎるかな…。


ただまぁ、自分も、生まれ育った“箱庭”のような環境から外へ出て行った人間なんで。
そういう年齢になってきてるっていうのもあるし。

どうしても、ね。感傷的にはなっちゃいますよ。どうしても。


えぇ。



そういうワケで、多分“超”がつく程の低予算作品だと思うんですけど、グッとくる良作だと思いました。