2010年8月22日日曜日

「型の反復」と「固有性」

雑誌に掲載されていた、大塚英志さんと宮台真司さんという、奇しくも「同学年」の2人の対談記事が強烈に刺激的だったので、ここにアーカイブしておきます。

「型の反復」と、各個人が持つ「固有性」とが、互いに相反するものではなく、必然的に互いに導き合って「作品」という形として浮上してくる、という話です。

大塚
ストーリーをつくるための文法を(だいたい5、6歳くらいの)子供たちに教えたらどうなるのか。
子供相手に「物語の文法」という観念論を教えるわけにもいかないし、物語の構造しかない絵本をつくるのが手っとり早いだろうと考えました。
でも、これはもう少し年齢の上の人向きかなという気もして、この絵本を親子のワークショップだけでなく、高校生、大学生など対象を変えていろいろな所でやってみたんですが、すると、ストーリーづくりのリハビリみたいなものとは違う意味があるって思えてきた。

(宮台さんにみてもらった)授業は、生徒がそれぞれ描いたこの絵本を発表するという授業でした。
そこで見ていただいたように、ちょっと不思議なことが起きます。
同じ物語の構造に落とし込んでいるはずなのに、描いた人の心の内側みたいなものがうっすらと見える。案外、固有のお話、それぞれの物語が出てくる。
しかも一方では、いくつかのパターンが出てくる。物語論的に正しいパターンがいくつも自然に出てくる。
型に入れたのに一つ一つは固有性があって、でも全体として見ると型というか、パターンがある。それが非常に興味深い。それが面白くて、ひたすら作例を取りながらあちこちで授業をやっています。


宮台
「<世界>を体験しているつもりで、実は<世界体験>の型の反復に過ぎない、その型とは・・・」ということの方が重要な気づきです。それに気づくだけで日常生活の送り方が変わります。
かけがえのない人生。自分のかけがえのない実存。それはそれで構わない。
でもそうした感じ方自体が一つの型であり反復です。そのことを知っておくとルーティン化した固着から逃れやすくなります。
反復だから貧しいわけじゃない。実り豊かな体験こそ反復から成り立ちます。
我々の<世界体験>は、豊かであるか否かに関係なく、反復であることは間違いありません。

僕は映画批評の仕事もしますが、やはり型の反復に注目してきました。
視覚体験(映像)の型と意味論(物語)の型。双方の型を奇蹟的にシンクロさせた作品を愛でてきました。作品のオリジナリティは僕にとっても多くの観客にとっても実はどうでもいい。
僕の考えでは、型の反復だからいけないのではなく、型の反復だから良い。
僕は人形劇が好きですが、型の反復の中で毎回違ったものが見えてしまうのはなぜかに注目してきました。それは必ずしも表現者によってコントロールできない。
無数の反復を重ねた挙げ句、突如奇蹟的な力が人形に降りたりします。


大塚
たとえば、美大のいわゆるアート系の学生などに、この絵本をやらせると、奇をてらおうとするわけですよ。
たとえば、絵本の最後の目的地から逆算して頭で考えて変に技法を凝らしたものを作ろうとする。そうすると、アーキタイプがまったく現れないんです。
目的地って実はトラップです。その意味では極めて凡庸なものになるケースが多いですね。
言葉としては変かもしれませんが自分なりのアーキタイプを作る。それらをちゃんとやったら宮崎駿になれるわけじゃないですか。
宮崎駿の物語って、構造として美しくきちんとしているとともに、一個一個のアーキタイプが彼の卓越した力によってキャラクターや表現になっているわけです。


宮台
型の反復の中でなぜ面白いものが生じるのかは興味深いですね。
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」というインチキ西部劇がそうです。
ストーリーはめちゃくちゃですが、構造は明確です。近代的観点では、物語が破綻していて、メッセージも皆目不明。でも面白いのです。
構造は明確ですが、ストーリーの係りと結びを追うと、係りの大半が結ばれない。
脚本教室だったら大減点ですが、誰も気にかけない。
それどころか観終わって「<世界>は確かにそうなっている」と寓話の土産を持ち帰る。
構造の反復があれば、一貫したストーリーや分かりやすいメッセージがなくても、人はそこに<世界>を見出す。カオスの中に<世界>を見る。
ストーリーもメッセージも不明瞭なのにすごく面白く、しかも面白い理由を説明できない。でも本当に面白いってそういうことじゃないかな。


大塚
つまり表面的な伏線とかネタの整合性みたいなことの意味ですよね。それと「物語の構造」の整合性とか破綻って違う水準ですよね。それがなかなか区別されにくい。
あえてストーリーと物語という言葉を分けて使えば、表面的なストーリーのロジックみたいなことの後ろ側にもうひとつ別の物語の論理性がある
そういった構造の水準中で伝わっていく、あるいはかたちづくられていくものがある。
人の思考がそういう構造の中を流れていくことで人間の内的なあり方、人間らしさ、世界体験、世界認識みたいなものがそれこそ構造化していく。
今、そういう部分がすごく脆弱化しているのではないか。
だから逆に物語論的な構造が隠されている、一見物語に見えないものにとても弱い。

世界自体が物語として動いていくときに、それに対抗する訓練ができていなければ批評的であることさえできない。自分の内側が構造化されていないから、外側の見えない構造に流されちゃう。だから論理的なつもりでも表面的な論理の整合性しか捉えられなくなってしまう。構造という論理を管理できない。


宮台
ビルドゥングス・ロマン(成長物語)の重要な側面は、観る側の枠組みが90分間の間に文字通り成長するところにあるます。
成長物語は、近代小説のように時間的フォーカス(物語)として語られてはならず、時間的フォーカスから見ると破綻した形で、構造的フォーカスに即して語られるべきだと感じます。
そうした語り口があって初めて、観る側が日常の時間的フォーカスにこだわる地点から離脱して、「そんなことはどうでもいいんだ」と感じるまでに至る成長を体験できます。
構造的フォーカスに即して語られた成長物語は、それ自体、読者や観客に離陸点と着陸点の落差をもたらす通過儀礼になります。そうした成長物語はオリジナリティどころか元型の反復に満ちています。
構造的フォーカスに即して語られた成長物語は、型の反復とストーリー的整合性とがズレることを通じて、「重要だと思っていたことが本当は重要ではなかったのだ」と気づかせるからです。


大塚
オリジナリティがあることや固有であることと、何かの反復としてあることは二律背反でも矛盾でもなんでもなくて、同時に成立する。
そのことが分かったとき、いろいろと新しい自分が見えてくるのになって僕は思います。
すべては反復なのだという言い方の中にペシミスティックに収斂してしまってもそれは知的な怠惰でしかないし、かといってアンチ「形式」、反「制度」みたいな考え方だけで固有性を求めていくことのあがきに関しては、もう一定の結論みたいなものが出てしまっているわけですよね。
形式を反復することと固有であることの二重性をきちんと生きられるかどうか。

形式の中に「私」を当てはめて、構造の中で物語り、そして別の誰かと同じ「元型」を引き出していながら、しかしできあがったものは違う。そこが一番やっていて面白いし、たぶん大事なところだと思います。
同じことをやっていながら違うみたいな不思議さですよね。
そこに何かオリジナリティがなければいけないとか「私」がなければいけないみたいな呪縛に対して、割とすっきりとした答えは出せるのかな、とやっていって思います。



「物語の構造」をキーワードにした、非常に刺激的な話だと思います。
特に、宮台さんの「成長物語」はこうあるべきだ、という言葉。

単純に“作劇のヒント”にしてはいけない、「甘く危険な言葉」ではありますが、知っておかなければいけない認識でもあるでしょうし。


という感じで。
でわ。


0 件のコメント:

コメントを投稿