2010年8月1日日曜日

「インセプション」を観た

えー、この間観た「インセプション」の感想です。
監督は、クリストファー・ノーラン。主演はディカプリオ。あと、渡辺謙ですね。



いやぁ。傑作。
このエントリーを、どこから書けばいいのかが浮かばず、何日か、悩んじゃってました。


さて。


まず!



まずはとにかく、脚本が素晴らしいですね。
脚本の、なんていうか、物語のプロットももちろん素晴らしい完成度なんですが、要素(ストーリーを駆動する因子)の組み合わせ方、というか。

まず!
なにに一番“やられた”かというと、とにかく「重力」なんですよねぇ。
「目覚めるには、“落とす”必要がある」という。“キック”の設定。
確か、作中でも「内耳には薬は作用しないんだ」みたいな台詞があったと思うんですけど、何気に適当な設定だと思ったんですよ。最初は。
そりゃ、目覚めるためには、なんらかのギミックは必要なワケで。
で、そういう“設定”を作ったんだろう、と。

ところが!

車を落とす、と。それも“キック”なワケですが、後々に「夢の中の夢(の中の夢)」に入っていくと、それが無重量状態として反映される、とか。
そして、その無重量・無重力状態の中で「どう落とすか?」みたいなサブプロットが展開されるに至っては…。



天才すぎる!


観てて、発狂しそうになりますよね!



コマもそう! 同じですよ。
「夢か現実か区別するため」に、それぞれが持っている、と。
で、それは、ただ区別するためじゃなくって、心の平安を保つためでもあるんだ、と。


コマって!

こんな原始的なモノって、そうそう発想できないと思うんですよねぇ。


コマ!


「夢か現実か?」って、普通に考えたら「痛覚」ですもんねぇ。
でも、それだとストーリーが狙いどおりには収まらない、と。
「夢か現実かの区別がつかなくなる」という、主人公(の、妻)のサブプロットがあって、それが成立しなくなりますから。
で、コマ。


なんだろ。
「合言葉」とか?
そのくらいしか思い浮かばないっスよ。「この世界が現実かそうじゃないかを区別するための方法」のアイデアは。


回転し続けるコマ。


なんていうかねぇ。それって、「終わりがくる」ことの暗喩(でもないか?)なワケですよね。
夢ならば、永遠に続くだろう、という。


しかーし!

現実ならば、それは“倒れる”のだ、と。


この、ギミックとして存在している要素が、実は同時に、ストーリーを前に推進するためのエンジンにもなっている、という。
「ストーリーの経済学」的な言葉で表現すると、「生産効率が高い」ワケですよ。
いろんな要素が、がっちり噛み合いながら、それぞれのエンジンでストーリーが駆動するワケで、なんていうか、それは体感速度の速さでもあって。
例えば、“キック”という要素は、「夢の中では時間の長さが長い」という要素と組み合わさって、二つの世界で、同時に二つのミッションを成立させているワケです。
「雪山の中の病院で、目的を果たして、さらに“キック”をしてホテルに戻ってくる」、その後で「ホテルで“キック”をして車に戻ってくる」。で、「車を橋の上から落とすという“キック”をして飛行機に戻る」と。(もう一つ、ビルから飛び降りるという“キック”も)

ところが、車が追手に追われているために、予定より速く橋から落ちてしまう。
これが、「雪山」と「ホテル」に作用するワケですね。急いで“キック”をしないといけない。
しかも、「ホテル」では、無重量状態の中で。


別に、「落下速度を内耳で体感する」こと以外にもあり得るワケですよね。
それこそ、なにか錠剤を飲むことで眠りから醒める、という設定にしてもいいワケで。
しかし、それだとダメなワケです。
複数の世界で同時に「クリアしなければならないミッションが主人公たちに与えられる」ということにはならない。


例えば、パラレルワールドものでいうと、“ファンタジー世界”では「魔女と戦わなければならない」というミッションがあり、“現実世界”では「ママ(家族)にバレてはいけない」というミッションが与えられる、という風に、異なる形のミッション(あるいは、“障壁”)が主人公に与えられる、というスタイルがあるワケです。
複数のストーリーラインが同時に進行していって、それぞれに異なるミッションが与えられる、とか。

あるいは、“ファンタジー世界”から“現実世界”に現れた魔女を巡って、「魔女と戦う」ことをしつつ「しかし正体はバレてはいけない」という、異なるミッションを同時にクリアしないといけない、とか。


しかし、これだと、あまり“効率”は良くないワケです。それぞれのミッションについて、それぞれ時間を割かないといけない。
しかーし!
この作品の構造では、どちらも「“キック”して戻る」ことがミッションなワケです。



もちろん、それぞれの世界でのミッションは、「御曹司とその父親とを対面させる」「元奥さんに連れ去られた御曹司を取り戻す(=主人公の個人的なトラウマを乗り越える)」という、“本筋”のミッションがちゃんとあるワケですが、大事なのは、それだけなら、時間的な制約、というのがなくなってしまうワケで。


つまり、「“キック”して戻る」ということが、ストーリーラインのいろんな所に作用している。
つまり、“効率”が良い、という。



で。


もう一つ「天才だな」と思ったのが、サブプロットが幾つかあるんですけど、その扱い方、ですよね。

まず、主人公の個人的なトラウマ、というのがあって。
この、壮大な設定やストーリーを、個人的・極私的な問題に落とし込む(あるいは、並行して走らせる)、というのは、ハリウッドのある意味定番なスタイルというか、作品の世界を過剰に肥大化させないための定番な方法だったりするワケですが。
まず、この扱いが巧い。

夢の世界に常に現れて、愛している存在なのに、邪魔をしてくる、という。

要するに、“障壁”なワケですけど。

例えば、「マトリックス」に欠けていてこの作品にあるのは、こういう部分だと思うんですね。
逆に言うと、この“落とし込み方”が巧いことで、延々と3部作で、とか、「話はデカかったけど最後の10分で無理やり決着をつけられちゃってなんか消化不良」だとか、「結局夢オチ」だとか、そういうドツボに陥ることを回避しているんじゃないかな、と。

それと、“列車”というモチーフ。「列車は苦手なんだ」という冒頭の台詞から、ずっと“伏線”であったワケです。線路をチラ見せする、とか。

そういうのを回収していく手際が巧い。いちいち変に最後まで引っ張らない、とかね。


それと、なによりも、「実は“植え込み”をしたことがあったんだ」と。
そして、それが“悲劇”を引き起こしていたんだ、という。


「この世界は現実じゃない」!

ヤバい!


“現実世界”に連れ戻すために植え付けたひと言なのに、たったひと言なのに、しかし、という。
普通なら、このシークエンスだけでひとつの作品になり得るトピックですよ。
それを、ある意味では、使い捨てですから。


「この世界は現実じゃない」という台詞のあまりにデカいインパクトも含めて、このシークエンスこそが、この作品に“深み”を与えているワケです。


「コマは回り続けることなく、倒れる」という部分が、ここに作用しているワケですね。
倒れることで、主人公は現実であることを確かめる。

そしてそれは、「愛する人はもう戻ってこない」ことを再確認する作業でもあるワケです。


う~ん。
この感じ。
素晴らしい。




それともう一つ、渡辺謙演じるサイトーの生死、ですね。
もちろん、この「クライアントであるサイトーが死にかけている」というのは、主人公たちの行動に“制約”と“焦り”を、つまり“緊迫感”をチャージし続ける、という効果があるワケですが、それだけじゃない、と。

このサブプロットのために、なんていうか、わざわざ、倒置法が導入されているワケです。

本筋のプロットじゃないのに、というか、“一番最後”を倒置するワケじゃない、という。
ここがスゴい!

ここで言う“一番最後”というのは、ストーリー全体のラスト、この作品で言うと、「主人公が子供たちと再会する」という部分ですが、「老いた渡辺謙を再訪する」というのは、“一番最後”じゃないワケです。その手前。

ところが、この作品の構造でいうと、「これは倒置法ですよ」ということが明示されているワケですから、観ている側は、「あれ?」みたいな感じになるワケですよ。

ちょっと困惑させられる。


まぁ、なんていうか、これにまんまとやられた、と。
俺は。

巧いな、と。



で。(すでに非常に長いエントリーになってますが、まだ書きたいことがあるので…)



で。
もう一つ絶対に言及しないといけないポイントがあって、それは、「夢に侵入する」テクノロジーについての説明が一切ない、というトコ。

あの、スーツケースで持ち歩いて、真ん中に大きな丸いボタンがあって、仲間はみんな、コードみたいなのをセットしてそれで繋がって、というアレ。

「誰かの夢」に侵入する、ということで、その夢の持ち主が“設計者”で、設計者として街をまるごと設計できる才能の持ち主じゃなきゃいけない、ということで、超キュートなあの女の人がスカウトされる、ということなワケですけど。

その、その部分以降のところはちゃんと説明されるワケです。睡眠薬の特殊な配合ができる凄腕の“調合師”が必要だ、とか。


が。
あの、そもそものテクノロジーの説明が一切ない。最初から、普通に「人の夢に潜り込める」とことになってる。

これは、あの「ダークナイト」を経てのアレだと思うんです。
作中の「夢の中の夢(の中の夢)」という言葉に倣うなら、「フィクションの中のリアル」と「フィクションの中のフィクション」。

フィクション(映画作品)の中で描かれるフィクション(現存していないテクノロジー)。

これと、「フィクションの中のリアル(現代)」が、まったく違和感なく、一つの世界観の中に収まっている(共存している)。


例えば、「空を飛ぶ車」ということであれば、「これは未来の話ですよ」という注釈が必ずあったワケです。いわゆる“未来都市”の遠景をファーストショットで魅せる、とか、そういう手法も含めて。
この作品でも、あの、街並みがグーッとせり上がって“二つ折り”になる、というのも、「これは夢の中でのことです」という注釈が入ってるワケですね。それで、あの画が成立している。

そういう“説明”“注釈”がない。

普通に、夢の中には入り込めることになってる。


これは、完全に「ダークナイト」での成功を受けての、ある意味では手法の流用なワケですけど。

この、フィクションとリアルの配合の妙!


上手いなぁ、と。


普通は説明したくなりますよ。


だって、“植え込み(インセプション)”の方法については、延々説明させてるんですからね。


当然、説明しようとすれば、これは間違いなく冗長になってしまう。
少なくとも、“体感速度”は鈍るでしょう。時間も必要なワケで、その分、クライマックスの時間を削る必要もでてくる。
そういう諸々の可能性を回避しているワケですね。敢えて説明しないことで。


うん。



あとは、もっと色々書きたいことはあるんですが、それこそ冗長になってしまうんで、ひとつだけ。


マイナス点があるとすれば、やっぱり、渡辺謙の英語の感じかなー。


別に、英語が下手だってことじゃなくって、なんていうか、謙さんの「声の魅力」が、やっぱ、英語だといまいち浮き上がってこない、というか、ね。(日本語は母音が伸びるから、ということだと思います)
あの深みのある声、というか、発声っていうのは、英語を発する時の筋肉からじゃでてこないのかね?

まぁ、英語を話す(つまり、ハリウッドに出て行く)ことで手に入れたモノの方が大きいワケで、それは、どうしょうもない部分なんだけど。


やっぱねー。
今の渡辺謙のスケール感を収めることができる器っていうのは、今の日本の映画産業には、ちょっとないですよねぇ。

もったいないなー、なんて思いますけど。



それから、この、ノーラン監督の画の魅力について。
この人の良さのひとつに、ガバーッと引いた画を見せるときに、その引き方の具合が絶妙だったりするんですね。
その前のカットとの繋ぎ方の巧さもあると思うんですけど、引いた画がシャープっていうのは、なんていうか、才能がある人がキチンと効果を計算して始めて成立する、というか。

で。
この作品でも当然そういう部分は堪能できるんですが、しかし、冒頭からしばらくは、それが出てこないんです。
あとから考えると、ここも巧いなぁ、と。
ワザと混乱させるように作ってるワケですよ。導入のところは。
カメラも落ち着かないし、アップばっかりだし。
最初は「なんだよ。なんか変なテレビサイズの画ばっかだな」なんて、違和感っていうか、軽く心配してた、というか。
もちろん、そういう違和感みたいなのは最初だけで、まぁ、それも狙いだったんだろうな、と。


そういうトコもねー。
上手いよねー。




あ、あと、一番深い世界の、あのビルの並ぶ感じは、「AKIRA」のラストシーンかな、なんて思っちゃいました。
違うかな?

個人的には、街並みが二つ折りになるショットよりも、あの辺の一連の描写の方がインパクトありましたね。
あの「幾何学的に正確に並んでいる」というのは、「コマが永遠に倒れない」というのと、意味的には完全に繋がっていることでもあるので。



う~ん。

こんな感じっスかね~。

長々と書いてしまいました。
あしからず。
(が、まだ書き足りない感じもあります…)



とにかく、劇場の大スクリーンで観ないといけない作品だと思います。

ぜひ!
でわ。




0 件のコメント:

コメントを投稿