2010年6月6日日曜日

姜尚中さんの書評より

新聞の書評欄に載っていた、姜尚中さんの書評。

韓国映画について書かれた「韓国映画史」という本の書評です(姜さんが書かれた本じゃありません。韓国で出版されて、それを翻訳した本について、姜が書評を書いて紹介している)。


それにしても、韓国映画はどのジャンルであっても、なぜこうもメロドラマ的な哀調を帯びているのか。私の中にずっとくすぶり続けてきた疑問だ。だが、それも本書を読んで氷解した。メロドラマ的な感傷は、植民地と内戦、分断と軍政という、過酷なまでの歴史によって強いられた二律背反的な感情の発露だったのだ。
他律的であるしかない主体が世界に対して抱く無力感と混乱、葛藤と煩悶。
ただし、そのような感傷的な悲哀の情は、他方では、現実を直視する力強いリアリズムの精神を形影相伴っている。その精神は、今でも、若手監督の作品を含む実に多くの作品に流れているのである。




「メロドラマ的な哀調」に「現実を直視するリアリズム」が同居している。
というより、むしろ、リアリズムが「メロドラマ」をより強固にしている、というか。


日本での「オタク文化」を研究の対象(あるいは、ベース)にしている大塚英志さんや東浩紀さんの本を読むと、特にマンガ・アニメ(及び、その近接ジャンルであるゲームやライトノベルその他)の“想像力”について書かれていたりするワケです。
そういう日本の“想像力”は、日本の社会の成り立ちや内包している歴史に因っている、ということが書かれていたりするワケですが、姜さんによれば、韓国の“想像力”も、やはり韓国の社会の成り立ちや歴史に因っているんだろう、と。

まぁ、アニメその他の通奏低音である「肥大化した自意識」も、やはり日本という社会の産物であり、というか…。




いや、話が逸れてますね。



韓国映画が持つ「メロドラマ的な哀調」について。

なるほどな、と。


メロドラマ的哀調、か。
確かに、もう今の日本の“想像力”からは、生まれてこないモノなのかもしれませんね。
そして、だからこそ、今の日本には韓国映画を受容するマーケットがある。


特に「泣き」についての「リアリズム」ですよね。

日本だと、「泣き」をプッシュしようとすると、どうしても“ファンタジー”の方向に飛躍してしまう。
それを容認する“想像力”が、作り手にも受け手にもあって、まぁ、それが心地よかったりするワケで、だからこそそういう作品が量産されるワケですが。

逆に、「リアリズム」に振ろうとすると、日本では、そこに「哀調」が同居しない。
“乾いたタッチ”になっちゃう、と。「それこそがリアリズムである」みたいな、ね。


例えば、是枝さんみたいな監督は、妙に湿ったリアリズム、というのを作り出すことが出来るワケですけど。



そっかー。
メロドラマ、ね。


メロドラマって、物語の大きさでいうと、ちょうど中間ぐらいの大きさなんだよね。
“国家”とか“戦争”とか、そういう、スケールの大きい話。
“愛”とか“恋”とか、“死”とか、個人個人の心の中の話という、小さな話。
その、ちょうど中間ぐらいの話。
“家”とか、ね。
“家族”。“組織と個人”とか。

う~ん。


まぁ、俺なりに分析しようとしてもぜんぜん進まない、という所が、なんていうか、ある限界を示しちゃってるのかなぁ。。。


なんつって。



まとまらない話を長々と書いてもしょうがないので、この辺で。
でわ。

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