2007年12月18日火曜日

「スイミング・プール」を観た

土曜日の「バリ・シネ」で観た「スイミング・プール」の感想でっす。

まず、しょっぱなに書いておかないといけないのは、ワリと低予算で作られているんだろう、ということですね。
田舎の一軒屋の中で大半の物語が進行するので。あとは、家の外のプールとか、ね。

この作品は、前々から観たいとは思ってたんですが、まぁ、怠け癖みたいなモンで、“機会があれば”的に延び延びにしてた作品の一つでした。
もっと官能的な感じかと思ってたんですけど、それは、“宣伝のトリック”でしたね。そういうアレは、ちょっと薄め。


ロンドンの、薄暗い地下鉄と、ジメジメした空気から、一転して、カラッとした、日光が降り注ぐフランスの田舎へ、という。まぁ、ありがちっちゃありがちな“移動”ですが。
でも、主人公の表情が、それに沿ってちゃんと変化してて、それは勉強になる感じ。
ベタっちゃベタなんですが、それにキチンと説得力があるのは、俳優の演技の力なんでしょうか。
もちろん、その、微妙な表情の演技をちゃんと撮る、という演出の要請があってこそ、ですけど。


さて、日光が燦々と降り注ぐフランスの田舎が舞台なワケですが、例えばぶどう畑の木漏れ日であったり、プールの水面がキラキラしたり、という所に重きがおかれているワケではなく、家の中の陰であったり、街灯なんかない夜の暗闇だったりが多かったりします。
この辺の光の雰囲気なんかは、勉強になる感じ。
特に、チラッと1カットだけあった、夜の田舎の道を主人公と若い娘が並んで歩くシーン。“月明り”ってことだとおもうんですが、とても綺麗でした。歩きながら、顔が暗闇に隠れたり、光に照らされたり。それが、そのまま、主人公の心象の描写になってる、と、こっちに思わせてくれる、という。
あれは、どうやって撮ってんだろうか・・・。自然光であんなにくっくり映るハズはないし。気になるカットでしたね。


あとはとにかく、主人公の喜怒哀楽をしつこいくらいに描いて、それを追っていく、というトコですよね。


今年の夏にみた、ペネロペ・クルスの「ボルベール」を思い出したのが、娘が殺してしまった男を埋める、というシークエンス。
こちらは、擬似的な母娘で、あちらは殺させるのが実の父(夫)である、という違いはありますけど。
スペインとフランス(南仏?)で、ちょっと雰囲気が似てるところもあるし。
ペドロ・アルモドバル監督は、若干パクったのかもね。


そして、この、監督が仕掛けた、どんでん返し的なトリック。
色々解釈があるとは思いますが。

ただ、個人的には、こういう、“投げっぱなし”な結末って、好きなんですよ。
「あとは観る人に委ねます」みたいな。こういう、作り手の意図って、よく分かるし、好きです。「好きなように解釈して欲しい」っていうのと、あとは、これは推測なんですが、「観た人同士で色々議論して欲しい」っていうか。

で、俺の解釈ですが、ラストで(本当の)娘がチラッと出てきますが、あのシーンで初めて主人公は娘の顔を見た、ということだと思います。
つまり、田舎の家では、ずっと独りだった、と。まぁ、小さなオジサンとか、その辺の人物の出入りはあったでしょうけど。
娘が家に現れるというのは丸々主人公が書いていた物語の中の、つまりフィクション(まぁ、正確に言えばフィクション内フィクション)である、という。
あの娘は実際に家に来てたけど、途中からフィクションだ、とか、そういう解釈もあるみたいですが、俺は違うと思いますね。


と、こういう話を、作品を観た人同士であれこれ話したりして欲しい、というのも、監督の意図なんじゃないのかなぁ、と。

ま、そんなこんなで、フランソワ・オゾン、新作も楽しみですな。





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