2007年10月19日金曜日

新聞の記事より

昨日(17日)の新聞で、山形ドキュメンタリー映画祭の特集記事がありまして、その記事の中から、気になった言葉を、幾つか。

まずは、作品の選定に関わり、今年の映画祭のテイストを決定したと思われる、コーディネーターの方の言葉。
「作り手が自分の内面を私的に描きつつ、射程を社会や歴史に広げた作品を選んだ。ビデオの進化と普及で90年代に増えた同種の作品と違い、閉じた自己陶酔になっていない」


次は、優秀賞を獲った作品の監督。
「世界の画一化にあらがう辺境を訪ね、自分たちがどこから来たのかを問うた。私的な世界から接近しないと、複雑で深刻な現代をとらえるのは難しい」


それから、審査委員長を務めたという、蓮実重彦さん。
「昨今のテレビ的な作りが映画ならではの空間や時間の概念を脅かしていると指摘して、『フィクションとドキュメンタリーの境界は揺れ動いているが、重要なのは、世界をいかに見せるかではなく、どうとらえるかだ』」


“どうとらえるか”。その主体は、作品を作る人間自身であるワケだから、つまり、“己の内面”である、と。

同じ事象を目にした時に、人間一人一人のとらえ方、受け止め方はそれぞれ違うワケで。
その、“俺のとらえ方”を、描け、と。そういうことなのかねぇ?

「どうとらえるか」。
「俺にしか出来ないとらえ方」があるのだろうか? あるとして、それを求めて、内面に潜っていけばいいのだろうか?
それとも、そもそも「俺にしか出来ない」というようなモノはなく、目指すべき「とらえ方」が既にあるのだろうか?
正直、それすら分からん。

しかし、まぁ、俺に出来ることとは、俺の目で世界を見て、俺の言葉でそれを考え、俺のやり方でそれを語ることだけなのだから。


作品を作らなければならない。
とどのつまり、そういう事です。

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