2008年5月1日木曜日

「夜の大捜査線」を観る

いわずと知れた超名作、シドニー・ポワチエの「夜の大捜査線」を観る。

ま、超傑作ですからね。感想っつっても、殆ど何も語れませんけど。今さら。


その、前に観た「フィクサー」もその系譜に連なる、いわゆる“社会派”エンターテイメント。

サスペンスの形を借りて、例えば「人の実存」を語ろう、というのが、ポール・オースターの「幽霊たち」などなどのニューヨーク3部作だったりするワケですが、この作品は、サスペンスの形を借りて、人種差別という、もの凄く巨大な、そして忌むべき社会問題を描く、という。

この作品の特徴の一つが、ある意味で伝統的な、例えば「奇妙な果実」的な、捜査する事件の犠牲者が差別の対象となっている、という造りじゃない、という所ですね。
逆に、捜査する側に、差別される側の人間がいる、と。そういう構図で差別の現実を描いていくことで、この作品のメッセージ性が際立ってくる、という。


ストーリーの主眼は、とにかく、主人公の「ミスター・ティッブス」が差別主義者たちから“いかに差別されるか”のディテールに置かれてるのも、この作品を傑作にした理由の一つ。
まぁ、有名なのは、とにかく握手を拒む、というトコですが、当然それだけでなく、例えば主人公の呼び名。
ひたすら「ボーイ」と呼ばれるワケです。
当時、黒人は、そういうやり方で蔑まれていたワケです。“ガキ扱い”だったんですね。というか、家畜扱いだったんですけど。「鞭で叩くぞ」とか「撃ち殺してしまえ」とか。

ちなみに現代、黒人男性で、親しい間柄の男性を呼ぶときに「メン」という言葉を使う人がいますね。「Hey man!」(ヘイ・メーン!)と。ま、黒人たちの使う口語の一つ、ということなんですが。
これは、白人から「ボーイ」(ガキ)と呼ばれることへの反抗から始まった言葉の使い方なんですよ。実は。同胞同士では、お互いに“1人の人間同士である”ことを確かめ合おう、という意味で。

ま、そういうマメ知識はさておき。



主人公はフィラデルフィアの刑事なワケですが、実際にフィラデルフィアを映すショットというのを一切使わない、というのも、当時では斬新だったと思うんです。
主人公が実際に都会に立っている画を使わないで、そういう、“都会の人間なんだ”ということを完璧に表現出来ている、と。
これはホントに、演技と演出の勝利だと思うんですけど。
登場人物の中で、一番身奇麗なのが主人公だったり、ま、一言でいうと洗練されている、ということなんですが、それを表現するのが凄い上手い。着ているスーツだったり、着こなしだったり、後は仕草とか、ちょっとした表情とか。そういうのをいちいち、粗野な町の人たちと対比させたり。
ま、これもディテールということなんですけど。




それにしても、いつの時代も、差別主義者というのは、愚鈍で権威主義者で、哀れな存在だよなぁ、と。
今の日本でも、というか、俺の周囲にも、こういう人間って居ますからねぇ。
それは、裏返すと、こういう物語が、現代の日本でも成立可能なんだよな、ということでもあるんだけど。
ま、それもさておき。


クィンシー・ジョーンズのサントラも含めて、傑作でした。


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