2014年12月4日木曜日

「日本列島」を観た

京都文化博物館フィルムシアターの宇野重吉特集上映で、熊井啓監督の「日本列島」を観た。


65年公開のモノクロフィルムの作品で、いわゆる“黒い霧”系のサスペンス、ですね。
面白かったです。


主演の宇野重吉が演じる人物は、在日米軍のMPの通訳を務めている、というキャラクターで、軍の関係者(当然、アメリカ人)が巻き込まれた“未解決事件”の調査をして欲しい、と、アメリカ人の上司に依頼される、というのが話の起こり。


まず、ここが新鮮だなぁ、と。
右向いても左向いても警察官なワケですよ。最近は。

元英語教師の、占領軍の通訳。

“相棒”役に、二谷英明が居るんですけど、彼は新聞記者。
未解決事件を“特ダネ”として追いかける記者なワケですけど、彼の、警察組織との関係性の描き方も、面白い。

そもそも事件が“未解決”なのは、日本の警察とアメリカ軍との間での“綱引き”みたいなのがあったからで、それも、“現場”と“上層部”で捻れがあって、とか、そういう感じで。


戦争当時の“遺産”が、依然、日本の社会のあちこちに“残滓”としてあった時代なワケですよね。
闇として。黒い霧として。
戦争の“残滓”と、占領下の時代の“残滓”。

そして、当時未だ占領統治下にあった沖縄の存在。



そういう、社会全体に重く覆いかぶさっていた“闇”を、なんていうか、宇野重吉の苦り切った表情と背中が、巧く表現している、というか。



元英語教師、という人物なんですね。
で、調査の過程で、教え子と出会ったり、“被害者”の娘と擬似的な親子関係を結んでみたりしながら、しかし、事件の調査自体は、いつもどこかで“何者か”によって遮られてしまう。

主人公は、ある“過去”を背負っていて、というより、引き摺っていて、なんていうか、“虚無”に陥っている、という背景があって。
ある種のニヒリズムを背負って生活している、と。



その、主人公がニヒリズムに陥っている状態からの、「人間性の快復」が、ひとつあるワケです。

それは、“日本列島”自体の「戦後の(精神的な)復興」のメタファーとして語られ得るんでしょうけど、まぁ、そういう諸々を背負って表現するに相応しい俳優なんだな、と。
宇野重吉という存在は。



そういうストーリーとその背景にある“物語”の他に、個人的にハッとしたのが、なんていうか、シャープな画作り、という部分ですね。


一番良かったのが、小学校の屋上に立ち尽くす女性教師を、さらに上方から見下ろして捉える、というショット。
グラウンドの先の校門から出て行く“訪問者”の後姿を、“被害者”の娘である女性教師が見つめている、というショットなんですけど、これはかなりグッときました。

ストーリーの舞台は、恐らく東京の多摩地区にある横田基地なんですけど、それにちなんで、背景に「多満自慢」の看板が出て来るカットがあるんですけど、個人的には(八王子出身なもんで)、ちょっと嬉しかったです。
多摩から横浜、そこから、江ノ島っぽい島影が出てきたり、新宿と思わせるような画があったりして、何気にどこも個人的に所縁がある場所だったりして。

ま、それは本筋とは関係ないですね。
あしからず。




ひとつ思ったのは、この時代(まで)の女性の立ち振る舞いっていうか、なんか物凄く抑制された身体性、というのを感じたんですね。
性的な事ではまったくなく、歩き方とか佇まいとか、姿勢とか仕草の話なんですけど。
“マナー”とか“躾”みたいなことだと思うんですけど、そういう姿が、なんか、ストーリーに絡み合って浮かび上がってくる、というか。

感情を抑えて、押し殺して、しかし、こみ上げてくる感情の波というのは確かにあって、「人前では憚られるから」みたいな、そういう抑制を自ら効かせつつ、しかし、という。

戦争だとか国家の犯罪だとか、あるいは陰謀だとかに翻弄されながら、しかし、必死に自分の足で立って生き抜いていこう、という、所謂欧米流のフェミニズムとは少し違うニュアンスを抱えた「自立した女性像」なのかなぁ、という感じで。




というワケで、個人的にも色々収穫の多かった映画体験でした。
さすが名作。良かったです。




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