2008年2月9日土曜日

「黄昏」を観る

「午後のロードショー」で、ヘンリー・フォンダ主演の「黄昏」を観る。


ヘンリー・フォンダが、80歳の誕生日を迎えるおじいちゃん役で、その“女房”役に、キャサリーン・ヘップバーン。2人の一人娘役にはジェーン・フォンダ。まぁ、基本的には、この配役だけでだまされちゃうようなところはありますよね。

ちなみに、原題は「The Golden Pond」ということで、はっきり言って、この邦題は失敗だと思います。だって、“黄昏”っつったら、ちょっと直接的過ぎるでしょう。“老い”ってことを言っちゃってますから。
作品の冒頭に、夕日を浴びて黄金色に輝きながら揺らめく湖の水面が映るんですが、その、“夕日”で間接的に「人生の日没のちょっと手前」ということを語ってるワケで、その“語る余白”を、いきなりこの邦題は消しちゃってるんですよ。イカンです。
それから、ジェーン・フォンダの吹き替えの声もダメ。妙に甲高くて、ちょっと“幼さ”が出ちゃってるから。彼女の役は、もうちょっと成熟した女性というキャラクターですから。じゃないと、「社会では一人の大人として胸を張って生きているのに、父親からは未だに“ダメな子供”扱いをされて・・・」みたいな彼女の苦悩が引き出されてこないんじゃないの、と。
ま、ジェーン・フォンダの本当の声がどういう感じなのかは、分かりませんが(本物もあんな声だったりして・・・)。


さて、内容ですが、ま、恐らく、作った側も、観る側も、実際のフォンダ親子の物語を作品のストーリーの背景に感じながら観るワケですが、ざっくり言ってしまうと、そういう作品です、ということですかねぇ。
父と娘の物語です。
不器用な、というか、ちょっと変人タイプの、己を曲げない主義の、老いた父親。やや天然な、優しい母親。恐らく父譲りなのであろう、やっぱり不器用で、そして“一人娘”らしいワガママさを抱えた娘。
父と娘が、お互いに十分な愛情を持っていながら、それ故に生まれる不満を、アメリカ流の個人主義でぶつけあう、という。
面白いのは、普通に母親も“参戦”してくるところですよねぇ。なおかつ、ぶつけ合っても、すぐに“元の関係”に戻る、という。これが、例えば日本の物語だとしたら、言葉をぶつけ合った母と娘が、“仲直り”をする為に、一つ何かシークエンスが必要だったりするワケで。どっちが先に声をかけるか、とか、「お茶飲む?」みたいな言葉がきっかけになりました、とか、お互いに同時に謝罪の言葉を発する、とか、まぁ、諸々。
特に母親と娘の間には、そういうのはあんまりないんですよ。もの凄いサバサバさばさば。
逆に、当然、父親との距離は、なかなか縮まらないんですけど。まぁ、それがテーマですからね。簡単に“仲良し”になっちゃったら、話終わっちゃいますから。


というワケで、父と娘の、関係性の再構築というハッピーエンドの前に、1人の少年が登場するんですが、まぁ、“男同士”は簡単なんだよな、と。しょうもない感想なんですが。
これは、ひょっとしたら、ジェーンの、父と兄(ピーター)との関係への嫉妬なのかなぁ、とか、勝手に想像したりして。あくまで勝手に、ですけど。(ちなみに、そうは言いつつも、ピーターと父との関係も断絶したりしてたらしいんですが)


父と娘って、やっぱ、難しいんだろうなぁ、とか、ね。男と女ですからね。いくら親子っつっても。男同士って、簡単なんスよ。一、二回ケンカしたらもうOKみたいな感じなんで。と、これも勝手な想像。


しかし、登場人物も少ないし、舞台もずっと一緒だし、結末も“お約束”だし、起伏もそんな無いし、誰かが死んだりすることもないし、でも、じんわりとした感動がやっぱりあって。こういう、“いい話”って、いいですよね。凄い好きです。
大仰な感動なんて必要ないんだ、と。俺は言いたいんです。



あ、そういえば、三国連太郎と佐藤浩市がCMで共演してましたねぇ。
あの2人で、フォンダ家のこの作品みたいのを作って欲しいな、なんて。


いや、「黄昏」、さすが名作でした。




DMMでレンタルも出来ます。>>>こちら

0 件のコメント:

コメントを投稿