2009年11月26日木曜日

谷川俊太郎が語る「詩情」

新聞に、谷川俊太郎さんのインタビューが掲載されてまして。


面白い、というか、すげー内容でした。


最近、社会の中で詩の影がずいぶん薄くなった気がするんです。

詩が希薄になって瀰漫している感じはありますね。詩は、コミックの中だったり、テレビドラマ、コスプレだったり、そういう、詩と呼ぶべきかどうか分からないもののなかに、非常に薄い状態で広がっていて、読者は、そういうものに触れることで詩的な欲求を満足させている

『詩』には、二つの意味がある。詩作品そのものと、ポエジー、詩情を差す場合です。詩情は詩作品の中にあるだけでなく、言語化できるかどうかもあやしく、定義しにくい。でも、詩情はどんな人の中にも生まれたり、消えたりしている。ある時には絵画に姿を変え、音楽となり、舞踏として現れたりします。
僕が生まれて初めて詩情を感じたのは、小学校の4年生か5年生くらいの頃に隣家のニセアカシアの木に朝日がさしているのを見た時です。生活の中で感じる喜怒哀楽とはまったく違う心の状態になった。美しいと思ったのでしょうが、美しいという言葉だけで言えるものではなかった。自分と宇宙との関係のようなものを感じたんでしょうね


『スラムダンク』にも詩情はあるのではないでしょうか。しかも1億冊売れている。現代詩の詩集は300冊売れればいいほうです。長い歴史を持つ俳句や短歌も詩ですし、現代詩よりも圧倒的に強い。現代詩は第2次世界大戦後、叙情より批評、具体より抽象、生活より思想を求めて難解になり、読者を失っていった。加えて現代詩の衰退は、近代日本語が特殊な変化をしたことと関係していると思う。
明治期に欧米輸入の思想や観念を、苦労して漢語という外国語で翻訳した。でも、身についていない抽象語で議論を始めると、すごく混乱しちゃいますよね。現代語も同じ。現代詩は伝統詩歌を否定したところから始まっている。詩は人々を結ぶものであるはずなのに、個性、自己表現を追求して、新しいことをやっているという自己満足が詩人を孤立させていった
『詩は自己表現である』という思い込みは、短歌の伝統が色濃い日本人の叙情詩好きともあいまって一般には非常に根強いし、教育界でも未だになくならない。僕は、美しい日本語を、そこに、一個の物のように存在させることを目指しているんですけど


詩だけじゃありません、高度資本主義が芸術を変質させている。
批評の基準というものが共有されなくなっていますから、みんな人気で計る。詩人も作家も美術家も好きか嫌いか、売れてるか売れてないかで決まる。タレントと変わりなくなっています。僕の紹介は『教科書に詩が載っている』『スヌーピーの出てくる人気マンガを翻訳している』谷川さんです。でも、それはあんまり嬉しくない。
子供から老人にまで受ける百貨店的な詩を書いて、自分はそれでやっているけれど、他の詩人たち、詩の世界全体を見渡した時に、自分がとっている道が唯一だとは思いません。詩は、ミニマルな、微小なエネルギーで、個人に影響を与えていくものですからね。

現代詩は、貨幣に換算される根拠がない。非常に私的な創造物になっています。


人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えると分かりやすい。生まれる時、人は自然の一部。宇宙内存在として生まれてきます。成長するにつれ、言葉を獲得し、教育を受け、社会内存在として生きていかざるをえない。散文は、その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、詩は、宇宙内存在としてのあり方に触れようとする。言語に被われる以前の存在そのものを捉えようとするんです。秩序を守ろうと働く散文と違い、詩は言葉を使っているのに、言葉を超えた混沌にかかわる。


若者には詩的なものが必要になる時期がある、と書いておられますが、今の若者は、生きづらそうですね。
どう生きるかが見えにくい。圧倒的に金銭に頼らなくちゃいけなくなってますからね。お金を稼ぐ能力がある人はいいけれど、俺は貧乏してもいい詩をを書くぞ、みたいなことがみんなの前で言えなくなっている。それを価値として認める合意がないから『詩』よりも『詩的なもの』で満足してしまう。


インターネットはどうでしょう?
ネットの問題は『主観的な言葉が詩』という誤解に陥りやすいということですね。ブログが単なる自分の心情のハケ口になっているとしたら、詩の裾野にはなりえないでしょう。

デジタル情報が膨大に流れていて、言語系が肥大していることの影響が何より大きい気がします。世界の見方が知らず知らずのうちにデジタル言語化しているのではないか。つまり、言葉がデジタル的に割り切れるものになっているような。詩はもっともアナログ的な、アナロジー(類推)とか比喩とかで成り立っているものですからね。詩の情報量はごく限られていて、曖昧です。「古池や 蛙飛び込む 水の音」という芭蕉の句はメッセージは何もないし、意味すら無いに等しいけれど、何かを伝えている。詩では言葉の音、声、手触り、調べ、そういうものが重要です。


詩情は探すものではなくて、突然、襲われるようなものだと思うんです。夕焼けを見て美しいと思う、恋愛してメチャクチャになる、それも、詩かもしれません。僕も詩を書く時は、アホみたいに待っているだけです。意味にならないモヤモヤからぽこっと言葉が出てくる瞬間を。


詩人体質の若者は、現代をどう生きたらいいんでしょう?
まず、『社会内存在』として、経済的に自立する道を考えることを勧めます。今の詩人は、秩序の外に出て生きることが難しい。そうだなあ、時々、若者が世界旅行に行って、帰ってきてから急にそれまでとまったく違う仕事をしたりするじゃないですか、あれは、どこかで詩情に出会ったのかもしれないな。
金銭に換算されないものの存在感は急激に減少しています。だから、これからの詩はむしろ、金銭に絶対換算されないぞ、ってことを強みにしないとダメだ、みたいに開き直ってみたくなる


このインタビューを読んで、「コスプレやらブログやらにも関心を持ってるんだなぁ」なんてことを言ってたらダメですよね。(ちなみに、『詞』の世界、つまり音楽の歌詞については「ある」とは言ってません。注目しないといけないのは、こういう部分)



「金銭に換算されないぞ」ということを言いながらしかし、「新しいことをやっているという自己満足」をも否定している、という、ここが谷川さんらしさなのかもしれません。


「僕は、美しい日本語を、そこに、一個の物のように存在させることを目指している」と。
芭蕉の句を引いて「意味すら無いに等しいけれど、何かを伝えている」と仰ってますけど、つまり「意味」じゃなく「何か」。
何かとは?
それが「詩情」なんだ、と。
「詩」とは、自分が感じた「詩情」を追体験するためのもの、自分の体験した「詩情」を記録しておくためのもの、自分が「詩情」を感じるに至ったその過程を記録しておくためのもの、自分が感じた「詩情」を誰かと分かち合うためのもの、自分が感じた「詩情」を誰かに伝えるためのもの、…。


違うかな?
あんまり俺がゴチャゴチャ書かない方がいいですね。


しっかり噛み締めたいな、と。


そういうインタビューでした。

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