2009年11月27日金曜日

平野啓一郎の「物語」論概論

平野啓一郎さんの、「小説論」「物語論」をサラッと語っている講演録が新聞に載ってたので、ご紹介。
大学への出張講義みたいなアレみたいっスね。

たくさんの登場人物にかかわる雑多な事柄を、一個の時計に従って並べていく。小説は、時間が次々と絡み合いながら終わりに向かうものです。そして時間を絡ませる上でもっとも力になるのが「物語」なのです。

「物語」というのはラーメンの麺に似ています。
美味しいラーメンは、麺をすすっていると、自然と口の中にスープの風味が広がってきませんか? 麺とスープのバランスが絶妙で、かつ麺がスープを持ち上げる力が強い。反対にまずいラーメンは、麺とスープが分離しています。スープはまあまあだけれども麺を食べている手応えがないというのも、満足感が得られません。
この考えを小説に当てはめてみましょう。面白い小説ほど、流れに沿って物語をたどっているだけにもかかわらず、世の中の情勢が分かったり、人間の心の深い部分に、無理なく触れられたりするものです。麺というのは、小説が展開する時間、言い換えれば物語の比喩です。そして、タイムリーな要素、深淵な要素はスープなのです。

「物語」ということは、1990年代にはずいぶん批判されましたが、21世紀の今、考え直してみる必要がある。
断片化された経験を、まとまった一つの世界に築き上げてゆくことこそ、現代の小説が多くの読者を獲得するための条件だと思うのです。ブログを読んだだけでは満たされないものを、「物語」を組み込むことによって、小説は提供できる。
そうはいっても、インターネットが普及してから、小説の中で扱うべき情報が増える一方です。しかも読書の時間は減ってきているわけです。そこで読者は、手軽でありながらも、奥行きのある小説を望むようになりました。多様な世界をどう圧縮して「小さく説く」かということが、切実な問題になっています。


ある作品における「物語」とは、ラーメンの麺なのである、と。


作品は「物語」の外側にあり、平野さんが言うところの「世の中の情勢」とか「人間ん心の深い部分」は、「物語」とは別のところに、つまり「スープ」としてあるのだ、と。

「スープ」だけでも「麺」だけでもラーメンではない、という。(まぁ、「油そば」みたいな例外はあるはあるんでしょうけど)


「物語の構造」とは、あくまで“物語”の“構造”であって、よく類型化されたりしてそこへの抵抗感を抱く人が居たりするワケですけど、それはあくまで「麺」の話。
「スープ」はスープでまた違う言葉で語られ批評され、あるいは構築されるものなんだ、ということなんだろうと思います。平野さんは、ここではそこまでは言ってませんが。


それから、もう一つ。
「インターネットが普及してから、小説の中で扱うべき情報が増える一方です。」という問題提起も。


「どう圧縮して」と。「物語」に付随してくる“情報”をどう処理していくか、ですよね。分かる。
「物語を語る」ことには奉仕しないんだけど、どうしても時間を割かなければならない“情報”っていうのが色々あって(まぁ、前提ってヤツですね。そういう、説明しないといけない事柄)、それをどう処理しつつ「物語」を前にドライブしていくか。

チンタラ説明ばっかしてちゃ作品は冗長な、ダイナミズムに欠けたダラダラとした“ただの長文”になってしまうワケで。


ということは、別に「小説」だけの話じゃないんだろうな、と。


そういうことで、このブログに、アーカイヴしておきたいな、と。



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