2009年4月30日木曜日

「作家性」の獲得、あるいは脱却

毎週月曜の新聞の紙面には、短歌・俳句のページというのが掲載されていて、その中に歌人や俳人の方々のコラムが掲載されてるんですね。
で、毎週毎週、かなり刺激的な「表現論」が交わされている、ということに、実はワリと最近気付きまして。


今日は、「文学地図の中の短歌」というタイトルの、田中槐さんという方のコラムをご紹介。

『文藝』2009年夏号が穂村弘特集を組んでいる。
この特集で読み応えがあるのは、なんといっても谷川俊太郎との対談だ。穂村弘は『短歌研究』(という雑誌)の対談記事において、短歌の魅力が一般の読者に伝わらないことへの焦りを語っていたが、穂村弘はここで、人気のない詩や短歌の中で例外的に読まれ続けている谷川俊太郎にその理由を問う。
谷川俊太郎の答えは明解で、結局それは出自を含め個人の資質の問題、と。(穂村弘を含め)読者は絶望する。しかしこの対談には重要な示唆があった。谷川俊太郎は「詩にメッセージはない」と言い切る。キーツの「詩人というのはノンセルフだ」という言葉から、「自分が希薄だからこそ、いろんな声を借りて書くことができる」と語る。
それは、穂村弘の感じている「言葉とその背後の現実が結びついているという読者の認識」に対する嫌悪感にもつながっていて、とかく「私性の文学」と呼ばれてしまう短歌からどうやって「私」を引き剥がすかという問題にもつながっていく。
短歌作品の背後に作者の「顔」が見えることをプラスの評価と捉える傾向はあいかわらず大きい。短歌の中の「私」がイコール作者自身でないことはようやく受け入れられつつはあるが、小説家が嘘つきであるくらい歌人も嘘つきであると、私たちはもっと大きな声で言うべきなのではないか。
穂村弘が願うような、短歌にいつまでも「共感(シンパシー)」だけでなく「驚異(ワンダー)」を感じてもらえるための一歩は、案外そんなところから始まるのかもしれない。

う~ん。



なるほど、と。


その“規模”から、映画とは真逆の場所に存在する(かのように見える)短歌(と、いわゆる“詩”)の世界ですが、そこにはそこの、なんていうか、“私”に関する問題が横たわっているんだな、と。


“リアル”から離れていこう、ということですよね。

「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」というのは、例えば大作(巨作だっけ?)主義を推進したハリウッド・スタジオに対するアンチテーゼとして出現したアメリカン・ニューシネマ、あるいは、肥大化した(プログレッシブ化した)ロックのような音楽に対するアンチテーゼとして誕生したパンクロック、というのとは、完全に逆向きなベクトルなワケですよね。

「ワンダー」の獲得に走り過ぎて、失われてしまった「シンパシー」を取り戻せ、という運動だったワケですから。



例えば、ニューシネマの文脈から、スピルバーグに代表される“大作”監督たちが再び出てきたのは、それは「シンパシー」から「ワンダー」にまた移行していこう、ということだと思うんですけど。


なんていうか、映画の場合、“映画”という「ある規模のビジネス」の中にいかに「作家性」を獲得していくか、観る側は逆に、商品として提供される作品の中にいかに「作家性」を見い出して(発見して)いくか、ということが語られるワケですけど。


「メッセージはない」か。
谷川俊太郎が、ねぇ。
言うんですね。こういうことを。

それでいて、あの輝きを持っているワケですからね。谷川さんの紡ぎだす言葉には。





というワケで、なかなか悩ませてくれる「表現論」でした。

0 件のコメント:

コメントを投稿