2009年12月15日火曜日

「母なる証明」を観た

先週、新宿武蔵野館で観た「母なる証明」の感想でっす。

「父、帰る」の次に「母なる~」って、ちょっと出来過ぎですけど。

とにかく、各方面から絶賛の作品ですよね。「殺人の追憶」のポン・ジュノ。
面白かったです。


ただ、“絶賛”って感じじゃなかったかなぁ。「殺人の追憶」もそうだったんだけど(「グエムル」は観てないんスよ・・・)、なんかこう、あと一歩踏み込んで欲しいなぁ、という感覚が残ったりして。
ま、あくまで個人的な“感覚”なんで、別にたいしたアレじゃないんですけど。



で。
とにかく感想として最初に書かなくてはいけないのは、「父性の徹底的な排除」という点ですよね。この作品に関しては。

ただの排除ではなくって、という部分。
たとえば、これがちょっと前の日本映画だったら、「父親は存在はしているけど存在感がない」とか「いるんだけど役割を果たしていない/放棄している」なんていう表現があったと思うんだけど、この作品ではもはや、存在自体がすでにない。

被疑者である息子、被害者、そして“真犯人”にすら父親はいなくて、息子の悪友にも居ない(という風に描かれる)。
起承転結の“承”に当たるシークエンスで、被害者のお葬式の場面があるんだけど、そこでも女性同士の衝突が描かれるし。(ちなみに、もっとずっと後の、暗闇の中で被害者の祖母と主人公の老母が対峙するシークエンスは、かなりヤバい)

何人か登場する、年齢的に“父親”に相当すると思われる登場人物は、1人は、まともに仕事をしない無責任な弁護士だし、もう1人は、バラック住まいのクズ鉄屋だし、あとはゴルフ仲間の大学教授たち、とかなんで、とにかく、いわゆる“庇護者としての父親”が出てこない。


変わって、母親に「全能であること」が求められていて。
で、その「全能」とは、と。
そこがこの作品のテーマ、かな?
「母なる証明」ってタイトルに沿えば、作品のテーマはそうなってくる気がします。
“父親”が不在である“母親”にとっての「全能」とは?

結論から言うと、善悪(と、定義されているある基準)すら超越した価値観、ということなんですかねぇ。

全能たる母性とは、善も悪も関係なく、ただ息子への愛情(つまり、その愛情の主体である自分自身の感情)だけなんだ、と。
それのみが行動原理であり、逆に言うと、“背理”すら肯定されうる、という。

その、肯定するためのツールとして用いられるのが、「ヤミ治療」なツボと鍼の技術で。

西洋医学的な視点からみれば、それは単なる民間診療であり、ある種の「信仰」なワケだけど、主人公にとっては、愛情を駆動力に進む自分自身を支えてくれる大事な“拠り所”であって(実際に、コメカミのツボは記憶を蘇らせてくれるんだけど)。



で。
これはホントにすげーと思ったんだけど、最後の最後に、鍼を打つんですね。自分に。
ここが凄い。「自分に」という部分。
息子が苦悩してるんじゃなくって、自分が、という。

「息子が真実を知って苦しむ」ことに対して「母がウソをついてなだめる」とか、そういうことじゃないんですね。
これって、結構ポイントだと思うんです。

ただ自分ひとり、母親だけが苦しむ、という。
そして、鍼を打つという“儀式”でもってそれすら乗り越えてしまう、という。

この描写はかなり凄いですよね。なかなか書けないっスよ。



もう一つ、特徴は、「外部の人間」というのが登場しない。異物、というか。
例えば、構造論のよくあるサンプルなんかには、「賢者」みたいなのが登場するワケです。愚者に対する賢者。
大抵の場合、特に、この作品のような、ある(濃密な)コミュニティが舞台になっている場合、コミュニティの外部からの訪問者が、時に「賢者」となって、主人公に力を貸すワケですね。具体的にアドバイスをしたり、実際に共同作業をしたりして。
この作品では、それに相当する人物が、一回捻って“悪友”になるワケで、そのことによって、舞台が完全にあるひとつのコミュニティの中に閉じている。
結果的に、これも「父性の排除」と繋がってる部分なんだけど、「賢者の排除」になってる。つまり“愚者”しか登場しない、という。

これはやっぱり、作劇上、かなり難しいことだと思うんですよ。
シナリオを書くにあたって、これは結構難しいことなんじゃないかなぁ、なんて。
生理的に、というか。(ゴルフクラブに付いてる口紅を血と間違える、なんて、逆に無理です。発想が。絶対書けない)
どうしても、“名探偵”みたいなキャラクターを配置したくなるもんですから。じゃないと、話を前に進めるのが大変なんで。

そこを、この作品は見事に乗り越えてますよね。

実は、この辺が個人的にちょっとだけマイナスなポイントだったりするんですけど(もっとスパッと解決して欲しい)、まぁ、そこら辺は別にいいですね。



とにかく、そういう方法論をとることで、主人公の“意思”を描写するんだ、と。
母親の。
ミステリーという“構造”を使うことで、ストーリーを前にドライブさせていく推進力を得てるワケですが、それを縦軸に、横軸には「母の母たる証明」を描く、と。
盲目的な愛、と書くと、なんだか陳腐で、監督も「そんなもんじゃないからこの作品を撮ったんだ!」ってことになるんでしょうが、敢えて最短のセンテンスで言うと、やっぱり「盲目的な愛情」、と。



そういうことっスかねぇ。


昔、子供の頃に見た大河ドラマの「独眼流政宗」で、渡辺謙の政宗と徹底的に対立する生母(演じるのは岩下志麻)のあまりの怖さが、個人的には軽くトラウマみたいになってますけど。

ま、この作品でも、凄いですよ。
ディテールがまた、ねぇ。
とにかく歩く、という。車とかタクシーとか使えないから、とにかく移動は歩き、という描写。雨でも何でも歩き。
あとは、普通にバラック小屋が凄いよね。
悪友の住んでる家とか、あんなのアリか、とか思うし、後々にもっと凄いバラックとか普通に出てくるし。あの辺の貧しさの描写は、ちょっとインパクトがありました。
「シティ・オブ・ゴッド」みたいな作品だと、例えば、豊かな生活の象徴としてまず大きな高層ビルみたいなのが描写されて、それとの対比でスラム街があって、そこで人々が生活して、みたいな“文法”があったりすると思うんだけど、この作品では、そこら辺がワリと無視されてて。
いきなり「え?」みたいなインパクトはあって。

ま、細かい所ですけど。




というワケで、なんか巧く書けませんが、素晴らしい作品だったとは思います。ホントに。
映画館で観て良かったな、と。



ちなみに、新宿武蔵野館は、おそらくウォンビンのファンだと思われる、アラ還なオバサンが大半でした(結構客は入ってた)。
あのオバサンたちは、恐らく大半は“母親”でもあるでしょうから、そういう方々はこの作品をどう受け取ったのでしょうか。
主題が主題だけに、結構気になる。

“ウォンビンの母親”ってことで、感情移入もハンパないだろうしねぇ。
「抱き締めたい!」って感じなんスかねぇ。


まぁでも、そういう意味で言うと、ウォンビンみたいなマネーメイク・スターが、こういうアクの強い作品にちゃんと出演して集客に貢献してるってことですから、それは、韓国映画の豊穣さを示しているよなぁ、と。
ウォン・カーウァイのぶっ飛んだ作品にスターが大挙して出演していた頃の香港映画の熱量をちょっと思い出しました。

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