2008年9月23日火曜日

「ヴァージン・スーサイズ」を観る

ソフィア・コッポラ監督の「ヴァージン・スーサイズ」を観る。

ソフィア・コッポラ監督の、これが、デビュー作ですよね。確か。
当時、随分話題になったって記憶してます。


で。
記憶といえば、なんですが。
この作品を観た、知り合いの女の子と、この作品の印象が全く違っていた、という経験がありまして。

彼女も、いわゆる「映画監督志望」だった人で、当然、一緒にいると、色んな作品について話したりするようになるワケで。
で、当時のソフィア・コッポラは、なんつーか、「Xgirl」がどうのとか、スパイク・ジョーンズがどうのとか、グランド・ロイヤルの周辺がどうの、とか、そういう諸々のトピックが、色々あって。
日本の「女の子」に、もの凄い影響力があったんですよ。
で、多分、彼女も、それにモロに影響を受けてて。

で、当然、その、彼女の、この作品に対する評価がもの凄い高くて、その、評価が高いこと自体は、別に俺も納得してたんだけど、観て、受け取っている内容が、俺と全然違っていたんですね。
「あぁ、そうか。そういう風に観るのか」と。なんか、結構、カルチャー・ショックじゃないけど、そういうのがあったりしたんですよねぇ。


どういう事かと言うと、俺なんかは、「語り部」になってる男の子の視線に、完全に同化しちゃうんですよ。
つまり、作中で語られている通り、「彼女たちは何処かへ行ってしまった」と。なんだか、分かんないまま。

もちろん、分かるんですよ。理屈では。彼女たちの自殺(複数形で、スーサイズSuicides となっているところは、ポイントです)の、理由は。
でも、それは、そう語られているからであって、それ以上の何かは、あんまり感じなくて。

ところが、あるタイプの女の子っていうのは、それ以上の“共鳴”というか“共感”というか、そういうモノを感じるみたいで。
最初に死んでしまう女の子についても、作中では、ホンの少ししか触れられないんですが、逆に「それで十分!」みたいに感じる人も、いるんですね。

いや、この作品を否定しているワケじゃないですよ。
逆に、凄いな、と。そう思ってるんですけど。


まぁ、例えば、キレ味が抜群の時のマイケル・マンの凄さを、普通の女の子が、絶対に感じとれないのと同じようなモンで。


この作品のマーケットからは、俺は、疎外されているのだ、と。

だけど、敢えて“誤解”と書きたいんだけど、誤解を生んでいる原因は、作品にもあって。
それは、男の子に“語り部”をさせているところ。
これが、「ロスト・イン・トランスレーション」になると、そういう、「男の目線」からは、観れないようになってるワケです。(「マリー・アントワネット」は、未見なんで、分かりません)

何が言いたいかっていうと、「だからしょーがねーだろ」と。カン違いしちゃっても。



まぁ、でも、なんていうか、ああいう「抑圧」みたいのを、女の子っていうのは、日常的に感じていて、そういう部分に、ソフィア・コッポラの感性が、共鳴してるんだろうな、と。
これはホントに、「だろうな」っていうアレなんですけどね。


うん。
だから、俺なんかが、電話越しに、ポップ・ミュージックのレコードで「会話」するシークエンスにグッときたり、「そういえば、俺にも、あんな頃が・・・」なんて、初めての彼女のことを思い出したり、そういう感想っていうのは、多分、あまり意味のないことなんでしょう。
残念ながら。
この作品は、愛されながら、同時にそれが、束縛であり抑圧である、という、世界中の女の子の為の作品なのだ、と。

女の子に恋したり、愛したり、フラれたり、裏切られたり、なんていう、バカな男の子の物語は、別のヤツが作ればいいんだしね。


と、いうことで。良い作品でした。

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